僕の名前はロン

老犬が語る漢字と中国故事の話

#私の作品をみて #漢検1級受験の好資料 #四字熟語 #蒙求

1.僕と飼い主

僕はヨクーシャテリアの雄、名前はロン、13歳です。生まれて直ぐ、今の家族に貰わてきたので、両親の顔を知りません。血統書をみたら、両親はもうこの世にはいないと思います。飼い主は、初め小学校4年生の女の子、里子姉ちゃんでしたが、僕に「ロン」と名付けて直ぐに、おじいちゃんの正也と交代しました。以来、ずっと世話をしてくれるのは、正也おじいちゃんで、とても幸せに暮しています。

今日は、正也おじいちゃんのことを少しばかり綴ってみようと思います。

おじいちゃんは、定年退職する迄は随分働いたそうで、腰が曲がっています。だから、毎日朝昼夕3回の僕の散歩がとても辛いようです。乳母車を押して散歩に出るのですが、僕にとっては、食べることと散歩しか楽しみがないので、ついつい我儘勝手を言って甘えています。おじいちゃんも、それが分かっているので、いくら疲れた日でも、雨の日でも、黙って付き合ってくれています。幸せだと思う理由のひとつです。

まだ他にも幸せだと思う理由があります。おじいちゃんは果たせなかった若い時の夢を、定年退職した今、それを追いかけています。国語の先生になりたかったそうですが、それは到底実現できませんので、せめて知識だけでも深めたいということで、高校生や大学生の時に読んだ古典などをはじめ、いろんな図書を読み漁っています。そして、その読んだ図書のことを、分かり易く僕に教えてくれるのです。そんなわけで、僕はただの、ちっちゃな犬にすぎませんが、ぞれでも、いろいろなことを知っているのが誇りです。これが僕の幸せだと思う理由のもう一つです。

最近、おじいちゃんに教わったことをいくつか紹介します。

 

2.鳩に三枝の礼あり、烏に反哺の孝あり

中国儒教の教えによると、鳩は礼譲の心があり親鳥の止まっている枝から三本下の枝に止まるし、また、烏は反哺の孝を尽くすと、言われているそうです。反哺とは、育ててくれた親などが老いて弱った時、育てられた子などがそれを養うこと、いわば、親の恩に報いること、親孝行のことです。「哺」は口の中で噛み砕いた食べ物、また、鳥がその子に口移しに餌を与えること。烏は親子の情の細かい鳥で反哺すると言われているのだそうです。嘘かもしれませんけどね。「烏有反哺之孝カラスニハンポノコウアリ(梁武帝)」という語がそれで、烏でさえも雛のとき養われた恩返しに口の中に含んだ食物を口移しに親鳥に食べさせる孝行心があるのだから、人はなおさら孝行心を持たねばならないと諭しています。僕も親孝行したいけど、もう無理です。だって、両親は既に亡くなってこの世におりませんので。これを「風樹之歎フウジュノタン(韓詩外伝)」って言うのだそうです。風樹フウジュ・風樹悲フウジュノカナシミ・風木之悲フウボクノカナシミ・風木歎フウボクノタン、とも言うそうですが、親が死んでしまって孝行出来ない嘆きのことです。「樹欲静而風不止、子欲養而親不待也=樹静カナラント欲スレドモ風止マズ、子養ハント欲スレドモ親待タズ」(韓詩外伝)からきているそうです。

 

3.定省温凊テイセイオンセイ・昏定晨省コンテイシンセイ・扇枕温衾センチンオンキン・扇枕温被センチンオンピ・三牲之養サンセイノヨウ

これも、最近、おじいちゃんから教わった四字熟語です。どれも親孝行の意味です。朝、親許にご機嫌伺いに参上し、夜には親の寝床を拵える、とか、あるいは、夏は親の枕許にあって扇で風を送って涼しくし、冬は寝具を温める、とか、親に美味しい御馳走をする、などです。

 

4.求忠臣必於孝子之門チュウシンヲモトムルニハカナラズコウシノモンニオイテス(後漢書)

君主に忠義を尽くす人を求めるなら必ず親孝行な人の家から求めるのがよい、という意味でそうです。このように親孝行は儒教の教えで昔から大切にされているのですね。

 

5.身体髪膚、受之父母、不敢毀傷孝之始也=身体髪膚、コレヲ父母ニ受ク、アヘテ毀傷セザルハ孝ノ始メナリ(孝経)

敢アえて毀傷キショウせざるは孝の始めなり、と読みます。毀傷は、傷め傷つける、傷めて役に立たなくすることで、身体を大切にすることは親孝行の始め、という意味です。

 

6.「親」という漢字のこと

昨日は、親孝行のことを綴りましたが、今日はその続きで「親」という漢字について、おじいちゃんに教えてもらったことを書いてみたいと思います。

おじいちゃんは辞書を引くのが好きで、しょっちゅう辞書で調べものをしています。最近はインターネットで検索することが多くなりました。講談社刊「漢字源」によると、「親」という漢字について、音読みは「シン」だけですが、訓読みは、「おや、したしむ、したしい、ちかい、みずから、みずからする」などと記載してあるそうです。「親」という漢字は小学校2年生で習う漢字ですから、僕だけでなく誰でも「おや、したしむ、したしい」くらいは知っていると思います。でも、「ちかい、みずから、みずからする」となるとご存知ない方も多いのではないでしょうか。

いろんな催しの時に、市長さんとか知事さんに代わって来られた方が、祝辞を代読されることがよくありますね。そんな時、よく耳にするのが「本来ならば市長(知事)が参りまして、親しくご挨拶すべきところでございますが、あいにく公務のため私が替わって参りました。」というご挨拶。ここでいう「親しく」という意味は、「みずから、みずからする」という意味なのですってね。本来ならば自分が来て挨拶すべきなのだけど、私が代理で、ということなのですね。知らなかったです。

この「みずから、みずからする」に意味の例としては、日本史にでてくる「親政」があり、天子・君主が自分で直接政治を行うこと。また、その政治、というのだそうです。日本では親政で有名な天皇は平安時代の第60代醍醐天皇(897年即位)です。摂関を置かずに34年間も自ら政務を執って数々の業績を収め「延喜の治」と敬われ、また、それに習った第62代村上天皇(946年即位)も「天暦の治」と謳われるそうです。さらに、時代はずっと下りますが、「建武の新政」で有名な第96代後醍醐天皇(1318年即位)は、この醍醐天皇を慕い親政を目指して鎌倉幕府を倒し建武新政を実施したものの、呉越同舟の足利尊氏の離反に遭って吉野へ逃れ南朝政権(吉野朝廷)を樹立した天皇です。だからこそ諡号(おくりな)は後醍醐天皇なのでしょうね。

同じ「みずから、みずからする」に意味の例としては、

「親見シンケン」自分で実際に見る、じかに面接する、という意味。

「親征シンセイ」天子が自分で軍隊を率いて征伐する、という意味。

「親書シンショ」手紙を自分で書くこと。また、その手紙、天子・宰相が自分で書いた手紙、という意味。

「親展シンテン」会ってしたしく話をすること。宛先の人が直接自分で手紙を開いて読むべきこと。また、それを示すために、宛名の脇に書き添える語、などです。因みに、「展」は開く、の意味。

「親裁シンサイ」天子が自分で物事を裁決すること。

「親耕シンコウ」春のはじめに天子が自分で田を耕すこと。自分で耕すこと。

「親告シンコク」本人がみずから告げること。被害者その他一定の者が告訴すること。

「親告罪シンコクザイ」本人がみずから告げなければ成立しない罪、つまり、被害者の告訴がなければ罰せられない罪、のことで、信書開封罪・秘密漏示罪(刑法133条・134条、135条)など。

因みに、旧・強姦罪などは平成29年に改正されて、親告罪でなくなったそうです。おじいちゃんがそう言っていました。

 

7.『蒙求(もうぎゅう)』のこと

今日は、ずっと前のことですが、おじいちゃんに教わった『蒙求』のことを書いてみようと思います。

この蒙求は、伝統的な中国の児童向け教科書で、書名は『易経』の一句「童蒙我に求む」からきているそうです。一句四文字のうちに一つの話を収め、類似の話を二つ合わせて一対にしてあって、凄く覚えやすいようにできています。宋の時代には代表的な教科書でしたが、明の時代になると廃れたようです。日本では平安時代、非常によく学ばれた教科書で、「勧学院の雀は蒙求を囀る」とまで言われたとのことです。みんなそろって大声で朗読していたのでしょうね。「門前の小僧 習わぬ経を読む」と同じ、雀も小僧も一緒ですね。

ここで、ちょっと寄道をして、この「勧学院」について、正也おじいちゃんに尋ねました。そしたら、こんな風に教えてくれましたので、紹介します。勧学院はね、平安時代821年(弘仁12年)藤原冬嗣によって創建され藤原氏の子弟だけが入学を許された、言わば学校です。後に「大学別曹」としても公認されたそうです。大学別曹って何と、また尋ねると、有力氏族の学生のためにつくられた寄宿舎で、本来は大学寮内に寄宿しなければならなかったのですが、大学別曹として公認されると、寮内に寄宿する学生以外の者もそれと同等の資格で授業・試験に出ることが出来るし、任官試験を経ずに地方官に任命される特権を朝廷から認められたという答えが返ってきました。勧学院の財政は一族の荘園からの寄付によって賄われたので、他の大学別曹に比べて非常に豊かだったそうで、藤原氏一門の繁栄に大いに貢献したのですね。でも、貴族社会が衰退した鎌倉時代には消滅したそうです。

さて、話を元に戻して、蒙求についてお話します。内容は、「蛍雪の功」や「孔明臥龍」など、多くの故事が四字一句の韻文で、596句2384字に纏められています。

それでは、いくつかの例を紹介します。

 

8.王戎簡要(おうじゅうかんよう)

これは、『蒙求』の劈頭の分です。

王戎は三国時代の政治家で幼児より神童と言われ、「眼光鋭く太陽を見ても目くらみ」しなかったので、その眼の輝くさまは「暗やみの稲妻みたい」と評した人もあったとか。竹林の七賢人の筆頭格・阮籍は友人の子である王戎と語るのを楽しんだとされ、王戎も後に竹林の七賢人に数えられました。体格は小振りだけれど振る舞いは堂々として、父が亡くなった時部下たちが持参した香典を全く受け取らなかったし、言質は「簡にしてしかも要領を得ている」と天子や周囲の人々からも人望を得ていたので、この句があるそうです。

 

9.裴楷精通(はいかいせいつう)

 これは、先の王戎簡要と対をなす句です。裴楷は明悟で識見豊か、王戎と比肩されました。多くの図書を読んで易の義にも精通していました。武が践祚して帝位についた時、それが長続きするかどうか占いました。果たして、結果は「一」と出て、君臣共に顔色をなくしましたが、ここで裴楷は、「天は一を得て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、王侯は一を得て以て貞たり(長続きする、の意)」と聞いています。『老子』の一節らしいです。帝は大変喜び、後に大いに出世したそうです。

 

10.阮籍青眼(げんせきせいがん)

王戎簡要の分で、阮籍のことが出ましたので、ここで阮籍の故事を紹介します。『蒙求』の他の項にも出ていますけれど、ここで紹介します。阮籍は竹林七賢の一人で、白眼と黒眼を使い分けたと言われています。魏の末期、俗世間と距離を置くため、竹林で酒を飲みながら清談、つまり、俗っぽい話でなく高尚なことを語り合ったと言われ、俗物が来ると白眼で応対し、お気に入りの人が来ると青眼で応対したそうです。ここで青眼とは黒眼の意味です。一方、白眼は、冷たい目で見ることや、冷たく扱うことを、白眼視と言いますが、その白眼です。

この阮籍のことは、卜部兼好(兼好法師)の『徒然草』第170段にも出てきます。

「さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば、疾(と)く帰るべし。久しく居たる、いとむつかし。人と向ひたれば、詞(ことば)多く、身もくたびれ、心も閑(しず)かならず、万の事障(さは)りて時を移す、互ひのため益なし。厭(いと)はしげに言はんもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなか、その由をも言ひてん。同じ心に向はまほしく思はん人の、つれづれにて、「今暫し。今日は心閑かに」など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍が青き眼、誰にもあるべきことなり。そのこととなきに、人の来りて、のどかに物語して帰りぬる、いとよし。また、文(ふみ)も、「久しく聞えさせねば」などばかり言ひおこせたる、いとうれし。」とあります。

余談になりますが、正也おじいちゃんの母校出身者の集りに阪大歯学部同窓会兵庫県支部があります。この会の草創期の名称は「清談の会」でした。この竹林七賢の清談と同じく、つまらないことを話し合うのでなく、高尚なことを語り合う会にしようという意図があったのでしょうね。

 

11.馬良白眉(ばりょうはくび)

白眼の話が出ましたので、今度は、この「白」のついた故事を紹介します。これも、先の阮籍青眼と同様、『蒙求』の終わりの方に出ています。

馬良は劉備に仕えた有能な側近です。字(あざな)を季常(きじょう)といいました。後程、触れますが、「季」がついているので、四男と思われます。馬氏は五人兄弟で、みんな名前に「常」がついていたので、、「馬氏の五常」と呼ばれました。いずれも秀才で、わけても、この馬良は特に優秀でした。馬良の眉に白い毛が混じっていたので、白眉という諢名・渾名(こんめい あだ名)で呼ばれていたので、「馬氏五常 馬良白眉」と言われ、優れたものの中でも特に優秀なものを指していう「白眉」の語源になりました。

四字熟語に「孟仲叔季」という語があります。孟は長子、仲は次子、叔は三子、季は四子、です。

因みに、「泣いて馬謖を斬る」で有名な馬謖は、この馬良の弟です。

 

12.泣いて馬謖(ばしょく)を斬(き)る

ここで、少し寄り道します。

学生時代に習った『魏志倭人伝』を想い出して下さい。昔から中国には「正史(せいし)」と「稗史(はいし)」という語があります。稗史は「野史(やし)」とも「野乗(やじょう)」とも言います。

さて、このうち正史は、国家や政府が編纂した歴史書。一方、稗史は民間の細かいお話を歴史風に記録した書物や小説、小説風の歴史書を言います。当然のことながら正史には権威があります。逆に稗史には権威はありませんし、また評価も低かったのですが、その代わり、読んで楽しく、民衆受けするものが多くあります。

西暦3世紀頃の中国は魏、蜀、呉の三国に分かれ、鼎立しておりましたが、その頃のことを正確に記した歴史書が正史の『三国志』です。当然のことながら、『魏志』、『蜀志』と『呉志』があります。『志』は『史』と同じ。「邪馬台国」や「卑弥呼」など当時の日本のことが記載されているのがこの『魏志』のなかの『倭人伝』の部分です。こう申しましたら、「そうだ、そうだ」と『魏志倭人伝』のご記憶が蘇る方も多かろうと存じます。当時のことを研究するのに、残念ながら、わが国には一切資料が残っておりませんので、このように他国の書物に頼らざるを得ないのですけれど、これら正史は学者が研究対象としてお読みになる場合が多く、私ども一般の者には縁遠く、あまり面白くありません。

ところで、日本でよく読まれる『三国志』という書籍があります。古くは吉川英治とか、宮城谷昌光ですが、最近では新たに多くの著書が出版されています。3世紀頃のことを14世紀になって、羅貫中という人が書いた稗史の『三国志演義』という書籍がありますが、日本の著書も、それに基づくものが大半と思われます。同じく魏・蜀・呉の鼎立時代を書いたものですけれど、ここでは蜀の立場に立っています。つまり、蜀の劉備を善玉に、魏の曹操を悪玉に扱っています。

でも、事実は必ずしも、こうではないとされています。曹操は知略に富むだけでなく、戦いの最中にも槊を横たえて詩文を練ったほどの文人です。「横槊賦詩」という四字熟語がありますが、これは曹操のことをいう語です。学や教養がなければ、詩文など作れたものではありません。それほど教養があり、また文才があったということです。

さて一方、蜀の劉備は、『三国志演義』で徳に満ち満ちた人物に描かれています。でも、実際は、どうしょうもない暴れん坊であったと言われているようです。

このように、稗史は読んで面白いものの、必ずしも事実を伝えているとは限らないことをご理解いただきたいのです。

ここで、「泣いて馬謖を斬る」に戻りましょう。

諸葛孔明が愛弟子・馬謖を規律違反として厳罰の死罪に処したのち、馬謖のために大声で泣いたという話は正史の『三国志』に拠っています。一方、『三国志演義』では、以前から主君の劉備から馬謖を「重用するな。」と言われていたのに、彼を重用した自分には人を見る目がなかったとして、悔いて泣いたのだと書かれています。まるで違うでしょう。

 

13.七歩の才(しちほのさい) 煮豆然萁(しゃとうねんき)

先の分で、魏の曹操のことが出ましたので、寄り道ついでに、曹操のお話をさせて頂きます。曹操の文才については、先程触れましたので、その第三子・曹植(そうしょく・そうち)のことをお話させてほしいのです。

『七歩の才』とか、『七歩の詩』の名で有名です。長兄・曹丕、後の文帝のことですが、曹丕もまた文才に優れていたとされていますが、それでも、弟・曹植には敵わなかったのでしょう。弟の文才を妬んで「七歩を歩く間に詩を作れ。題材は豆。作れなかったら死罪だ。」と命じます。そこで、弟・曹植が咄嗟に作ったのが『煮豆然萁』の五言古詩です。漢詩には、韻を踏む「五言絶句」とか「七言律詩」というスタイルがありますが、これらは全て、唐の時代に確立したものです。この曹植の時代は、それより何世紀も前のことで韻を踏んでおりません。見掛けはよく似ていますが、従って、「五言古詩」と呼ばれます。

 

『煮豆然萁』

煮豆持作羹 豆を煮て持って羹(あつもの)と作(な)す

漉豉以為汁 豉(し)を漉(こ)して以って汁と為(な)す

萁在釜底然 萁(き)は釜の下に在って然(も)え

豆在釜中泣 豆は釜の中に在って泣く

本自同根生 本(もと)これ同根より生ぜしに

相煎何太急 相(あい)煎(に)ること何ぞ太(はなは)だ急なる

 

(世説新語)

「然」は「燃」と同じ

「豉」は「味噌」

「萁」は「豆柄」

「萁を燃やして豆を煮る。豆も萁も元は同じ兄弟。私たちも同じ兄弟。たったの七歩歩く間に詩を作れなんて、あまりに急なこと。お兄ちゃん、これは余りにひどいじゃないですか。」という詩です。中国唐代の書物『世説新語』という書物に載っているのですが、曹植はすごい文才だと思われませんか。これには、さすがの兄・曹丕も恥じ入ったそうです。でも、文才豊艶にして当代随一とされた曹植は、父・曹操の死後、帝位を継いだ兄・曹丕に最後には小国に追われて不遇、失意のうちに亡くなりました。因みに、この「煮豆然萁」は「兄弟鬩牆(けいていげきしょう)」、「内訌」とか「内紛」、「蕭牆之憂(しょうしょうのうれえ)」などと同義で用いられます。

 

14.孔明臥龍(こうめいがりょう)

では、ここで、『蒙求』に戻ります。先述の諸葛孔明のことです。草盧に隠れ住んでいた蜀の諸葛孔明は劉備に「三顧(さんこ)の礼」をもって迎えられました。「三顧草盧」「三顧茅廬」とも言われます。諸葛孔明は、潜んでいる龍のように優れた人物と世間でもっぱらの評判でした。後に主君・劉備と「君臣水魚の交わり」をしたと伝わっています。「猛虎伏草(もうこふくそう)」、「伏龍鳳雛(ふくりょうほうすう)」、「臥龍鳳雛(ふくりょうほうすう)」も同じ意味の四字熟語です。

 

15.呂望非熊(りょぼうひゆう)

これは、孔明臥龍の対句です。隠れた人材の登用という点で共通性があります。

紀元前11世紀の話です。古代中国の周の文王に、渭陽(渭水という川のほとり)へ狩に行けば、龍でもなく熊でもなく覇王の輔(たすけ)となる人材が得られるだろう、と編という人が占って告げました。その人材こそ、後に軍師として文王の子・武王を補佐した呂尚です。武王は殷を滅ぼして周王朝を打ち立てました。呂尚は、当時、茅のうえに座って釣りをしていました。文王が太公(父または祖父の敬称)の待ち望んだ賢人であると言ったことから「太公望」といわれています。日本ではしばしば釣り人の代名詞として使われていますので、ご存知の方も多いと思います。呂尚は百歳を超える長生きだったそうです。

古来、中国だけでなく日本でも熟読された兵法書『六韜』、『三略』のうち、少なくとも『六韜』は呂尚の著した書とされています。

 

16.孫康映雪(そんこうえいせつ)

正也おじいちゃんは、貧しいといわないまでも決して裕福な家庭ではなかったので、大学の学生時代はせっせとアルバイトをしたと、常々言っています。学資に随分苦労したようです。そんな苦学のことが書かれているのが、この孫康映雪と、次の車胤聚蛍です。双方を併せて、「蛍雪(けいせつ)の功」という語でも知られています。送別の歌「蛍の光」はここからきているのです。

孫康は家が貧しくて明かりの灯油が買えなかったので、冬、窓の周囲に雪を集め、その光で書物を読みました。苦学力行の結果、魚史大夫、いわば、副丞相になったそうです。

 

17.車胤聚蛍(しゃいんしゅうけい)

車胤も同じように、家が貧しく油が買えなかったので、夏、蛍を集めて袋に入れ、その明かりで読書したという、孫康のことと一緒にして、「蛍窓雪案(けいそうせつあん)」、「照雪(しょうせつ・ゆきにてらす)」ともいうそうです。

 

18.匡衡鑿壁(きょうこうさくへき)

これも苦学の句です。匡衡もやはり貧しくて書物を読みたくても、夜、灯がなくて、壁に穴を開けて隣家の光を盗んで読書したということです。同じ村に書籍を多く所蔵している人があって、賃金の代わりに蔵書を読ませてもらう雇用契約をしたとも伝わっているそうで、後に立派な学者になったそうです。「鑿壁偸光(さくへきちゅうこう・さくへきとうこう)」、「穿壁盗光(さくへきとうこう)」、「穿壁引光(さくへきいんこう)」とも言います。「鑿」は「穿」と同じで「うがつ」、「偸」は「盗」と同じで「ぬすむ」です。

 

19.孫敬閉戸(そんけいへいこ)

昔、楚の国に孫敬という人がありました。首に結んだ縄を梁に懸け眠くなって首が垂れれば、自動的に首が絞められるので、目を覚ます仕掛けになっていたのです。いつも戸を閉じて読書したので、閉戸先生と呼ばれたいうことです。

これと似た話が他にもあります。蘇秦(そしん)は眠気をこらえるために、眠くなると股(もも)に錐を刺して読書に励んだそうです。「懸頭刺股(けんとうしこ)」と言います。

また、宋の司馬光(しばこう)は、眠り込むと枕が転がってすぐ目が覚めるように、丸い木を枕にして勉学に励んだということです。「円木警枕(えんぼくけいちん)」と言います。

昔の人は、こんなに苦労して一生懸命勉学に励んだのですね。

 

20.蘇武持節(そぶじせつ)

苦労の話が続きましたので、次は、また違った苦労、苦難の話を紹介します。正也おじいちゃんに聞かせてもらった話です。

前漢の蘇武は、武帝からの勅使のしるし・節を持って匈奴へ赴きましたが、片足を切断されて穴倉に幽閉され飲食も絶たれました。降った雪と節の飾りの旃毛(せんもう 毛織物の毛)を食べて数日間も死ななかったので、匈奴は神とみて恐れたのでしょう。北海(バイカル湖のほとり)に移して雄羊を飼わせ、子を産んで乳を出したら帰還させようと言いました。19年の歳月が流れ、母国の漢では武帝は死去し昭帝が立っていました。ある日、多くの雁が、蘇武を見ても恐れて逃げなかったので、そのうちの一羽に一筆認めて結びつけました。昭帝が、武帝が開いた庭園・上林苑を遊覧していた際、折しも一列の雁たちが飛来。その中の一羽が降りてきて自分に結びつけられた手紙を食いちぎって落としました。手紙には、「一旦は洞窟に幽閉されていましたが、今は広い田畝に捨てられています。たとえ胡の地に死すとも魂は変わることなく主君のお傍に仕えます。」と書かれていました。爾来、文のことを雁書(がんしょ)とも言うようになり、雁札(がんさつ)とも名づけられています。昭帝が大軍を差し向けて胡軍を破り蘇武を救出。片足がない蘇武は輿に乗って帰郷しました。領地として大国を受領してうえ、さらに「典俗国」の位も得ました。

ところで、武帝は、この蘇武を匈奴へ派遣した1年後に李陵(李少卿)を差し向けて匈奴と戦わせました。その際、捕らわれの身となった悲劇の勇将・李陵のことを紹介しましょう。中島敦の最高傑作とされる『李陵』に執念の歴史家で『史記』の著者・司馬遷、不屈の使節・蘇武のことも書かれています。正也おじいちゃんが是非読んでほしい、と言っています。

武帝が誤報や誤解から李陵を不忠者として父母兄弟妻子を残らず殺戮したり両親の屍を掘り起こして鞭打たせたりしたことを聞き知りました。匈奴への降服を頑なに拒み続けていた李陵でしたが、ついには匈奴の単于(ぜんう 北アジア遊牧国家の初期の君主号)の娘を娶り、子まで儲けていました。李陵は胡国に留まり漢に戻りませんでした。不屈の友人・蘇武と自分を比べて恥じたのかも知れません。

『蒙求』には、この蘇武と李陵のことを「李陵初詩(りりょうしょし)」として、二人が別れの際に贈り合った詩を紹介しています。五言古詩の最初とされています。「13.七歩の才 煮豆然萁」の項で紹介しました、あの五言古詩です。

さて、この蘇武の雁書と似たようなことが日本でもありました。鹿ヶ谷の変で平清盛を倒さんとして捕らえられ鬼界が島へ流された平康頼は、千本の卒塔婆(そとば)を作り流しました。それには、阿字の梵字、年号・月日、俗名・本名、そして、2首の歌を書きつけ、「南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、王城の鎮守諸大明神、別しては熊野権現、安芸の厳島大明神、せめて、一本なりとも、都へこの思いを伝えてください。」と書かれていました。幸いにも、そのうちの一本が厳島に流れ着いたのです。蘇武の故事同様、めったにないことです。平家物語に詳しく出ています。おじいちゃんが作った『平家物語の梗概』にも書いてありますので、よろしかったら読んでくださいとのことです。

 

21.鄭衆不拝(ていしゅうふはい)

この分は、『蒙求』で先の蘇武持節の対になっている句です。蘇武同様、節を持って匈奴へ派遣された使者として共通の境遇からです。

鄭衆は、後漢の明帝の節を持って講和に派遣されたのですが、漢朝の威光を傷付けまいとして腰を曲げなかったので、匈度の単于(ぜんう 北アジア遊牧国家の初期の君主号)が怒って幽閉、水や食物を与えず、屈服させようとしました。しかし、鄭衆がそれでも屈しなかったので帰朝させました。漢朝が再度、派遣しようとした時、大漢の節を持ちながら氈裘(せんきゅう 後で触れます。)に額づくことは忍ばれないと頑なに拒否しましたが、聞き入れられませんでした。一旦は出発したものの、何度も同意を上申したため召還され獄舎に繋がれました。後日、帝が匈奴から来た者に見えて当時の状況を聞いたところ、鄭衆は意気壮勇にして頑固さは昔の蘇武も及ばないとのこと。これによって処遇を見直され、最後は大司農(現代でいえば、農林大臣)にまで出世したそうです。

なお、ここで氈裘について触れましょう。氈毛は、旃毛とも書き、毛織物の衣服の毛、のことです。氈裘は、旃裘とも書き、それを使用した毛織物の衣服、日本でいう毛皮の服、獣の毛皮で作った服のことです。ここでは、それを身に着ける寒冷地の北方に住む異民族・匈奴を意味して、やや差別的な意味合いを感じます。

 

22.田横感歌(でんおうかんか)

 「20.蘇武持節」の項で、「李陵初詩」のことを少しばかり触れましたが、これと対句になっているのが、この分です。

紀元前202年、項羽を滅ぼした漢王劉邦は皇帝になり高祖と名乗りました。斉王田横は殺されるのを恐れて食客500人と共に海上の島へ逃げました。高祖は、田横らが持つ斉における強い影響力から乱が起こりかねないと考え、いろんな好条件を付けて田横を召し出しました。田横は已む無く食客二人と共に高祖の許へ向かいましたが、途上で「自分も高祖も、元は王。高祖は今や天子、自分は亡虜(ぼうりょ 逃亡した捕虜、逃亡した者を卑しんでいう語)。高祖に仕えるとは恥も甚だしい。洛陽まではそう遠くないから腐敗することはなかろう。殺害するのが高祖の目的に違いないから、この首を見せて確認させろ。」と二人に命じ自刎しました。二人は田横の首を高祖に奉じたところ、涙を流して二人を都尉(郡の軍司長官)に任命して田横を王の礼で葬りましたが、二人は墓のそばで自剄しました。島に残っていた食客もまた田横が死んだことを知ると全員自殺しました。

中国に『文選(もんぜん)』という詩文集があります。中国南北朝時代編纂された800余りの作品を収録しているそうです。古来、白居易(白楽天)の『白氏文集』と共に日本でも愛読された詩集で余りにも有名です。

この『文選』に「薤露蒿里の歌」が収録されており、それは田横の自殺を悲しんで食客たちが作った二編の詩に基づいているそうです。「薤露」は貴人の死に際して、また「蒿里」は庶民の死に際して、それぞれを送るにあたって、棺を挽く人たちが歌った歌です。「挽歌(ばんか)」という呼び名の所以です。

「薤露」は、薤(にら)の上におりた朝露の意で、乾きやすく落ちやすいことから、人の命の儚いことの譬え。「蒿里」は中国泰山の南にある山名で、人が死ぬと魂がここに来るとの伝説があり、それが由来とされているそうです。転じて、墓地の意にも使われます。

 

23.孫楚漱石(そんそそうせき)

 孫楚は若くして隠者の生活に憧れ、友人の王済に「当(まさ)に石に枕し流れに漱(くちすす)がんとす。」というべきところを、誤って「石に漱ぎ流れに枕せん。」と言ってしまいました。それを聞いて王済が誤りを指摘すると、孫楚は「流れに枕する所以は、其の耳を洗はんと欲すればなり。石に漱する所以は、其の歯を礪(みが)かんと欲するなり。」と言い逃れて、最後まで訂正しなかったということです。以来、負け惜しみが強いこと、こじつけて言い逃れることを、「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」と言うそうです。夏目漱石の名の由来です。「さすが」に「流石」の字を充てるのも、この故事からきているようです。

因みに、川の流れで耳を洗うという故事もありますが、これは別途、許由巣父(きょゆうそうほ)の項で紹介させていただきます。

 

24.卞和泣玉(べんかきゅうぎょく)

 中国戦国時代、楚に和(か)という人がいました。璞(ハク・あらたま 掘り出したままで磨かれていない玉)を山中で見つけて厲王に献じましたが、ただの石ころとされて左足を切られ、次の武王にも同様に献上しましたが、同じくまた右足を切られました。和は文王の時にそれを抱いて三日三晩哭泣。文王がそれを磨かせてみると立派な璧(ヘキ・たま)であったので、この璧を「和氏の璧(かしのへき)」と言いました。「完璧」という語の語源です。この璧は、後に趙王の所有となり、秦の昭王が欲しがって15もの城と交換しようと申し出たので「連城の璧」とも言われたそうです。その際、藺相如が昭王の約束不履行の真意を見抜いて無事持ち帰った故事がよく知られています。藺相如は廉頗との「刎頸之交(ふんけいのまじわり)」でも有名です。ロッキード事件の国会証人喚問の際、田中角栄総理との関係を質された小佐野賢治氏の答弁で発せられた語ですから充分ご存知と思います。

 

25.友人・友情に関する故事や熟語

「刎頸之交」が出たところで、厚い友情に結ばれた交友関係の故事などをいくつかご紹介させていただきます。

「刎頸之交」

藺相如と廉頗の故事から。

刎頸とは斬首のこと。お互いに相手のためならば首を斬られても後悔しないような仲の意です。

「管鮑之交(かんぽうのまじわり)

春秋時代の斉の管仲と鮑叔の故事から。

親友であった管仲と鮑叔が共に商売をしたときに、貧しかった管仲は自分の取り分を余計に取ったけれど、鮑叔はそれを知っても責めませんでした。むしろ、鮑叔は斉の宰相に管仲を推薦するし、一方、管仲も「自分を知る者は鮑叔」と、二人の利害を超えた親密な友情は生涯続いたそうです。

「知音之交(ちいんのまじわり)」「伯牙絶絃」(はくがぜつげん)

鍾子期と伯牙の故事から。

伯牙は琴の名人で、鍾子期は素晴らしい聴き役でした。伯牙が高山に登ったような心持ちで弾くと、鍾子期は「泰山のよう」と言い当て、伯牙がゆったりと流れる大河を思って弾くと、鍾子期は「長江か黄河のよう」と伯牙の心内を察しました。鍾子期が死んだ後、伯牙は琴を壊して絃を絶ち、生涯琴を弾かなかったということです。この故事が親友を「知音」という語源になりました。

「生死之交」

三国時代の劉備・関羽・張飛の故事から

「水魚之交」「君臣水魚」

とても仲がよくて離れがたい友情や交際の意。

「膠漆之交(こうしつのまじわり) 」

後漢の雷義と陳重の故事から。

接着剤の膠や漆よりも二人の関係は固いと噂されたということです。

「忘年之交」

年齢や身分の違いに拘らぬ親密な交わりの意。

「金石之交」「断金之交」

二人が心を一つにすれば金属をも断ち切ることができる意から、非常に強い友情で結ばれていること。

「貧賤之交(ひんせんのまじわり)」

貧しくて苦労していた頃からの友。また、自分が出世してもそうした時の友は大切にすべきの意。

「竹馬之友(ちくばのとも)」

幼い頃、竹馬に乗って一緒に遊んだ友達の意で、幼友だち。

「総角之好(そうかくのよしみ)」

幼い頃からの友。総角は小児の髪型(あげまき)のこと。

「冒雨剪韮(ぼううせんきゅう)」

後漢時代の郭泰の故事から。

友が来訪した時、雨に濡れても畑へ出てニラを摘み、ご馳走を作ってもてなしたと言います。友人を心からもてなすことを言います。

「截髪(せっぱつ)」

晋の陶侃の母の故事から。

母が自分の髪を売って酒を買い陶侃の客をもてなしました。真心から客をもてなすことを言います。

「傾蓋知己(けいがいのちき)」

孔子と程氏の故事「傾蓋如故」から。

孔子が道で初めて偶然に出会った程子と車の幌を傾け合って親しく語り合ったという故事が『史記』で出ているそうです。心の通じ合う相手であれば、例え新しくとも意気投合し旧知のように親しくなるし、一方、白髪になるほど以前からの知り合いでも心が通じ合わなければ、新しい人と同じという意。「白頭如新、傾蓋如故」と言います。

「晨星落落(しんせいらくらく)」

晨星とは、明け方、夜空に残っている星。それらが一つ一つ消えていくの意。転じて、仲のよかった友が徐々に亡くなることを言います。

「落月屋梁(らくげつおくりょう)」「屋梁落月」

李白を思う杜甫の詩から。

罪を得て流罪となった李白の夢を見た杜甫が目を覚ますと、家の屋根に落ちかかる月に李白の面影を見たという詩があるそうです。友を思う切なる心情を言います。

 ここで、時期についてついては異説もあるようですが、李白が罪を許されて白帝城を後にしたときに読んだとされる詩を記載しておきます。

『早発白帝城』

〔原文と書き下し文〕

朝辞白帝彩雲間  朝(あした)に辞す白帝彩雲の間

千里江陵一日還  千里の江陵一日にして還(かえ)る

両岸猿声啼不住  両岸の猿声啼いて住(や)まざるに

軽舟已過万重山  軽舟已(すで)に過ぐ万重の山

〔現代語訳〕

朝焼け雲に染まる白帝城を朝早く辞して

千里も離れた江陵まで一日で帰還した

川の両岸からは猿の鳴き声が絶えず聞こえ

船はすでに幾重にも重なる山々の間を通り過ぎた

 

26.西施捧心(せいしほうしん) 顰に倣う(ひそみにならう)

ここで、また、『蒙求』に戻ります。

西施は、王昭君、貂蝉、楊貴妃と合わせて中国古代四大美女の一人とされています。西施が川で洗濯する時に、川中の魚は西施の美しい姿を見て動けなくなったとされています。

西施には胸が痛む持病があって、その発作が起きた時、胸元を押さえ顰(眉間)に皺を寄せた姿が艶めかしく美しかったため、同じ村の女性がその真似をしましたが、却って、みんなから嫌われ顰蹙を買ったということです。

「西施捧心」は、病に悩む美女の様子を言い、「顰に倣う」は、むやみに人の真似をするのは愚かなことという意味です。

なお、越王勾践が策謀として呉王夫差に献上した美女たちの中に、この西施がいました。策略は見事に成功。夫差は西施に夢中になり、ついに越に滅ぼされました。勾践の夫人が夫も二の舞にならぬよう、西施を生きたまま皮袋に入れて長江に投げ込んだと伝わっています。

因みに、松尾芭蕉が『奥の細道』で「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいます。

 

27.沈魚落雁閉月羞花(ちんぎょらくがんへいげつしゅうか)

絶世の美人を表す言葉で、あまりの美しさに魚は泳ぐのを忘れて沈み、雁は飛ぶのを忘れて落ち、月は恥じて姿を隠し、花は恥じらいしぼんでしまう、という意味です。先の分と重複しますが、敢えて紹介させていただきます。

西施(せいし) 沈魚美人

  詳細は省略します。前項をご参照ください。

 

王昭君(おうしょうくん) 落雁美人

匈奴の呼韓邪単于(ぜんう 北アジア遊牧国家の初期の君主号)が漢の女性を妻にしたいと願って選ばれた女性で、異国に嫁いだ悲劇的な美女です。王昭君が祖国を思い琵琶を弾くと、あまりの美しさに雁が飛ぶことを忘れ落ちてきたので、「落雁美人」と呼ばれたそうです。

 

貂蝉(ちょうせん) 閉月美人

『三国志演義』に登場する人物で、貂蝉自体は創作上の人物だと言われています。董卓と呂布の仲を貂蝉の美貌を利用して撹乱。見事に董卓の殺害に成功しています。この作戦は「美女連環の計」と呼ばれているそうです。貂蝉のあまりの美しさから、月が恥じて姿を隠してしまったので、「閉月美人」と呼ばれたそうです。

 

楊貴妃(ようきひ) 羞花美人

世界三大美女の一人とされています。安史の乱の原因となった「傾国の美女」です。その美しさから花が恥じらいしぼんでしまったので、「羞花美人」と呼ばれたそうです。

因みに「傾国」も「傾城」も共に、国や城を傾けるほどの美女を意味する語です。ご存知の方も多いと思いますので省略します。

巻末の資料編に白居易(白楽天)による『長恨歌』を記載します。楊貴妃のことを偲んでいただければ幸いです。

 

28.許由巣父(きょゆうそうほ)

「23.孫楚漱石」の項で、この許由について少しばかり触れましたが、後程に触れたいとして残しておりましたので、ここで改めて紹介したいと思います。

許由は中国古代の伝説の隠者です。伝説によれば、人格廉潔と名高かったので、理想の聖天子で五帝の一人として誉れ高い堯帝が帝位を譲ろうと申し出ましたが、許由は潁水のほとりに赴き「汚しいことを聞いた。」と、流れで自分の耳をすすぎ、箕山に隠れてしまったと言います。

また、巣父は、許由が潁水で耳の穢れを洗い落としたと聞いて、そのような汚れた水を牛に飲ますわけにいかないと言って、飲水のために連れてきていた牛をそのまま連れ帰ったという故事があるそうです。

古来、その故事を描いた画が多く、狩野永徳作と伝わる『許由巣父図』が有名だそうです。前加古川市副市長・久保一人氏の著書によれば、同家にも伝来の画があると記載されています。

徒然草第十八段には、「人はおのれをつづまやかにし、奢りを退けて財(たから)を持たず、世をむさぼらざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。唐土(もろこし)に許由と言ひつる人は、さらに身にしたがへる貯へもなくて、水をも手にして捧げて飲みけるを見て、なりびさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手にむすびてぞ水も飲みける。いかばかり心のうち涼しかりけん。孫晨(そんしん)は冬月(ふゆのつき)に衾(ふすま)なくて、藁一束(ひとつか)ありけるを、夕(ゆうべ)には是に臥し、朝(あした)には収めけり。唐土は、これをいみじと思へばこそ、記しとどめて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。」と記しています。

 

29.周公握髪(しゅうこうあつはつ)  握髪吐哺(あつはつとほ)

古代中国の周公旦は、来客があった時、入浴中であれば洗いかけの濡れた髪を握ったまま、また食事中であれば口の中の食べ物を吐き出してまで面会して優秀な人材を求めたという故事があるそうです。優れた人材を熱心に求める喩えになりました。

 

30.尭階三尺(ぎょうかいさんじゃく) 土階茅茨(どかいぼうし)

茅茨不剪(ぼうしふせん) 茅屋采椽(ぼうおくさいてん)

采椽不断(さいてんふだん)

中国古代の伝説上の帝王・尭は、舜とともに徳をもって理想的な仁政を行ったことで後世の帝王の模範とされました。ここで、特に尭に関連する熟語を紹介させていただきます。

尭の宮殿の階(きざはし)は、土で出来ていて、しかも高さ僅か三尺しかなく、椽(テン・たるき 屋根を支えるために棟から軒にかけ渡す木材)は、木を伐りだしたままできちんと揃えてなく、屋根を葺く材料は粗末な茅茨で、しかも、それも綺麗に揃えてなかったと言われています。尭帝の質素な生活ぶりが覗えますね。民の上に立つ者の理想とされる所以です。

 

31.夷蛮戎狄(いばんじゅうてき)

正也おじいちゃんが、いつも言っていることを、最後に紹介して、僕の独り言を終わりにしたいと思います。おじいちゃんの言葉をそのまま綴ってみようと思います。

古代中国では、尭や舜など、理想的な天子が多く出現したにも拘わらず、漢民族以外の周辺異民族を蔑視する傾向が強いことを、故事や漢字の勉強をすればするほど感じます。孔子や孟子など、礼節を重んじて諸国で説いて回った人もあるのに、あれは何だったのでしょう。因習として礼節を顧みない伝統があったからかもしれません。

中華という語は、我らは世界の中心、世界の華、世界の選良という意味です。確かに紀元前何世紀もの頃の記録が残っていますし、長安には世界各地から多数の留学生(るがくしょう)や留学僧(るがくそう)が来て学んでいました。歴史の古さにも文化の高さにも敬服します。でも、それがもとで漢民族の人たちは思い上がりや奢りが過剰になっているように思うのです。

三国時代の記録では、日本のことを「倭」といい、この字の下に「夷」をつけて「倭夷」、あるいは「奴」をつけて「倭奴」と呼びました。「夷」も「奴」も蔑む語です。「漢委奴国王印」にも「奴」を使っています。卑弥呼の「卑」の字は「いやしい」の意です。いろんなところで、日本のことを蔑視していたことがわかります。

話が逸れますが、天武天皇時代から『古事記』や『日本書紀』など、日本の歴史書が次々編纂されました。多分、中国の『春秋』や『史記』を真似たと考えられますが、『古事記』は国内向けに、また『日本書紀』は外国向けに編纂されたものとされています。殊に『日本書紀』の場合は、こうした中国からの蔑視に対抗して、日本の古さと伝統を示す必要性を認識したからではないでしょうか。極端に誇張して天皇が長寿になっているのも、その意図を強く感じます。

北方異民族を「北狄」、南方異民族を「南蛮」、東方異民族を「東夷」、西方異民族を「西戎」と呼びました。いずれも「えびす」の意です。モンゴルは「蒙古」と呼び、「蒙」の字を充てています。これは「くらい 無知」の意です。匈奴の「奴」にも「奴」を充て、また、チベットは吐蕃で「蕃」を充てており、これも「えびす」です。これすべて差別語に外なりません。現在でも、ウイグル自治区、内モンゴル自治区やチベット自治区に対しては、「羈縻政策」を採っています。まるで、牛や馬と同じです。ウイグル自治区、内モンゴル自治区やチベット自治区の人たちは、資格試験や任用試験などで言語上も随分不利な条件を強いられているようですし、教育の名を借りた施設収容など人権侵害も著しいようです。その他、日本と係争中の島嶼のことはここで議論しないとしても、明らかに他国の領土としか思われないような東南アジアの島嶼に進出して軍事基地化を図ってみたり、他国が何年も費やして苦労の末にやっと改良した農産物などを横取りしてみたり、同様の科学技術をこっそり盗んでみたり、いわゆる他国の知的財産に何ら敬意を払わない言動や考え方は、どこから来るのでしょうか。これ凡て最初に言った他民族蔑視の悪しき伝統からきているような気がしてなりません。

こんなことを言っていたら中国当局に拘束されるかもしれませんね。言論の自由は無きに等しいのですから。今でも30年前の天安門事件を語るのはタブーだそうで、国民は政治から距離を置いていると聞いています。その姿勢が、結局、経済優先に走らせるのでしょうか。経済優先の国民感情がモラルの低下を招いているような気がします。中国の真の発展のためにモラル高揚が急務と感じる昨今です。同じ漢字圏の者として中国の真の発展を願ってやみません。

故事や漢字の勉強から随分外れて誠に失礼いたしました。

未熟で独りよがりな考えに最後までお付き合いいただき真にありがとうございました。心から厚く御礼を申し上げます。

令和元年6月 識す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【資料編】

 

『長恨歌』  白居易(白楽天)  『白氏文集』より

 

〔原文と書き下し文〕

漢皇重色思傾國 漢皇(かんこう)色を重んじて 傾国を思う

御宇多年求不得 御宇(ぎょう)多年 求むれども得ず

楊家有女初長成 楊家(ようけ)に女(むすめ)有り 初めて長成し

養在深閨人未識 養われて深閨(しんけい)に在り 人未(いま)だ識(し)らず

天生麗質難自棄 天生の麗質 自(おのずか)ら棄(す)て難く

一朝選在君王側 一朝選ばれて 君王の側(かたわら)に在り

回眸一笑百媚生 眸(ひとみ)を迴(めぐ)らして一笑すれば 百媚(ひゃくび)生じ

六宮粉黛無顏色 六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい) 顔色無し

 

春寒賜浴華淸池 春寒くして浴を賜(たま)う 華清の池

温泉水滑洗凝脂 温泉水滑(なめ)らかにして 凝脂を洗う

侍兒扶起嬌無力 侍児扶(たす)け起こすに 嬌(きょう)として力無し

始是新承恩澤時 始めて是(こ)れ新たに 恩沢を承(う)くるの時

雲鬢花顏金歩搖 雲鬢(うんびん)花顔 金歩揺(きんほよう)

芙蓉帳暖度春宵 芙蓉(ふよう)の帳(とばり)暖かにして 春宵を度(わた)る

春宵苦短日高起 春宵短きに苦しみ 日高くして起く

從此君王不早朝 此(こ)れ従(よ)り君王 早朝せず

 

承歡侍宴無閒暇 歓を承(う)け宴に侍して 閑暇無く

春從春遊夜專夜 春は春の遊びに従い 夜は夜を専らにす

後宮佳麗三千人 後宮の佳麗 三千人

三千寵愛在一身 三千の寵愛(ちょうあい) 一身に在り

金屋妝成嬌侍夜 金屋粧(よそお)い成りて 嬌として夜に侍し

玉樓宴罷醉如春 玉楼宴罷(や)んで 酔(え)いて春に和す

姉妹弟兄皆列土 姉妹弟兄 皆土を列(つら)ぬ

可憐光彩生門戸 憐(あわ)れむ可し 光彩の門戸に生ずるを

 

遂令天下父母心 遂(つい)に天下の父母の心をして男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜ令(し)む

驪宮高處入青雲 驪宮(りきゅう)高き処(ところ) 青雲に入り

仙樂風飄處處聞 仙楽風に飄(ひるが)えりて 処処に聞こゆ

緩歌謾舞凝絲竹 緩歌慢舞 糸竹を凝らす

盡日君王看不足 尽日君王 看(み)れども足らず

漁陽鞁鼓動地來 漁陽の鞞鼓(へいこ) 地を動かして来たり

驚破霓裳羽衣曲 驚破す霓裳(げいしょう) 羽衣(うい)の曲

 

九重城闕煙塵生 九重(きゅうちょう)の城闕(じょうけつ) 煙塵(えんじん)生じ

千乘萬騎西南行 千乗万騎 西南に行く

翠華搖搖行復止 翠華(すいか)揺揺(ようよう)として 行きて復(ま)た止まる

西出都門百餘里 西のかた都門を出ずること 百余里

六軍不發無奈何 六軍(りくぐん)発せず 奈何(いかん)ともする無く

宛轉蛾眉馬前死 宛転(えんてん)たる蛾眉(がび) 馬前に死す

花鈿委地無人收 花鈿(かでん)地に委して 人の収むる無し

翠翹金雀玉掻頭 翠翹(すいぎょう)金雀(きんじゃく) 玉搔頭(ぎょくそうとう)

 

君王掩面救不得 君王面を掩(おお)いて 救い得ず

回看血涙相和流 迴(かえ)り看て血涙 相(あい)和して流る

黄埃散漫風蕭索 黄埃(こうあい)散漫(さんまん) 風(かぜ)蕭索(しょうさく)

雲棧縈紆登劍閣 雲桟縈紆(えいう) 剣閣(けんかく)に登る

峨嵋山下少人行 峨眉山下 人の行くこと少(まれ)に

旌旗無光日色薄 旌旗(せいき)光無く 日色薄し

蜀江水碧蜀山靑 蜀江(しょくこう)は水碧(みどり)にして 蜀山は青   

        く

聖主朝朝暮暮情 聖主朝朝 暮暮の情

 

行宮見月傷心色 行宮(あんぐう)に月を見れば 心を傷ましむるの色

夜雨聞鈴腸斷聲 夜雨に鈴を聞けば 腸(はらわた)断つの声

天旋地轉迴龍馭 天旋(めぐ)り日転じて 竜馭(りゅうぎょ)を迴(めぐ)らし

到此躊躇不能去 此(ここ)に到りて躊躇(ちゅうちょ)して 去る能(あた)わず

馬嵬坡下泥土中 馬嵬(ばかい)の坡下(はか) 泥土(でいど)の中(うち)

不見玉顏空死處 玉顔を見ず 空(むな)しく死せし処(ところ)

君臣相顧盡霑衣 君臣相顧みて 尽(ことごと)く衣を霑(うるお)し

東望都門信馬歸 東のかた都門を望み 馬に信(まか)せて帰る

 

歸來池苑皆依舊 帰り来たれば 池苑(ちえん)皆(みな)旧に依(よ)

        る

太液芙蓉未央柳 太液の芙蓉 未央(びおう)の柳

芙蓉如面柳如眉 芙蓉は面の如く 柳は眉の如し

對此如何不涙垂 此に対して 如何(いかん)ぞ涙の垂(た)れざらん

春風桃李花開日 春風桃李(とうり) 花開く夜

秋雨梧桐葉落時 秋雨梧桐(ごどう) 葉落つる時

西宮南内多秋草 西宮南苑(なんえん) 秋草多く

落葉滿階紅不掃 葉階に満ちて 紅掃(はら)わず

 

梨園子弟白髮新 梨園(りえん)の弟子 白髪新たに

椒房阿監靑娥老 椒房(しょうぼう)の阿監(あかん) 青娥(せいが)

        老いたり

夕殿螢飛思悄然 夕殿蛍飛んで 思ひ悄然(しょうぜん)

孤燈挑盡未成眠 孤灯挑(かか)げ尽(つ)くすも 未だ眠りを成さず

遲遲鐘鼓初長夜 遅遅たる鐘鼓 初めて長き夜

耿耿星河欲曙天 耿耿(こうこう)たる星河 曙(あ)けんと欲するの天

鴛鴦瓦冷霜華重 鴛鴦(えんおう)の瓦冷ややかにして 霜華重く

翡翠衾寒誰與共 翡翠(ひすい)の衾(ふすま)寒くして 誰(たれ)と

与共(とも)にせん

 

悠悠生死別經年 悠悠(ゆうゆう)たる生死 別れて年を経たり

魂魄不曾來入夢 魂魄(こんぱく)曾(かつ)て来たりて 夢にも入らず

臨邛道士鴻都客 臨邛(りんきょう)の道士 鴻都(こうと)の客

能以精誠致魂魄 能(よ)く精誠を以て 魂魄を致す

爲感君王輾轉思 君王輾轉の思いに感ずるが為(ため)に

遂敎方士殷勤覓 遂(つい)に方士をして 殷勤(いんぎん)に覓(もと)

めしむ

排空馭氣奔如電 空を排し気を馭(ぎょ)して 奔(はし)ること電(い

なづま)の如く

升天入地求之遍 天に昇り地に入り 之を求むること遍(あまね)し

 

上窮碧落下黄泉 上は碧落(へきらく)を窮め 下は黄泉

兩處茫茫皆不見 両処茫茫(ぼうぼう)として 皆見えず

忽聞海上有仙山 忽(たちま)ち聞く 海上に仙山有りと

山在虚無縹緲間 山は虚無縹緲(ひょうびょう)の間に在り

樓閣玲瓏五雲起 楼閣玲瓏(れいろう)として 五雲起こり

其中綽約多仙子 其の中(うち)綽約(しゃくやく)として 仙子多し

中有一人字太真 中に一人有り 字(あざな)は太真

雪膚花貌參差是 雪膚花貌(かぼう) 参差(しんし)として是(これ)

なり

 

金闕西廂叩玉扃 金闕(きんけつ)の西廂(せいしょう)に 玉扃(ぎょ

くけい)を叩(たた)き

轉敎小玉報雙成 転じて小玉をして 双成に報ぜしむ

聞道漢家天子使 聞道(き)くならく漢家天子の使いなりと

九華帳裡夢魂驚 九華の帳裏 夢魂驚く

攬衣推枕起徘徊 衣を攬(と)り枕を推して 起ちて徘徊(はいかい)す

珠箔銀屏邐迤開 珠箔(しゅはく)銀屛(ぎんぺい)邐迤(りい)として

開く

雲鬢半偏新睡覺 雲鬢(うんびん)半ば偏りて 新たに睡(ねむ)りより

覚め

花冠不整下堂來 花冠整えず 堂を下り来たる

 

風吹仙袂飄飄舉 風は仙袂(せんべい)を吹いて 飄颻(ひょうよう)と

して挙がり

猶似霓裳羽衣舞 猶(な)お霓裳羽衣の舞に似たり

玉容寂寞涙闌干 玉容寂寞(せきばく) 涙闌干(らんかん)

梨花一枝春帶雨 梨花(りか)一枝 春雨を帯ぶ

含情凝睇謝君王 情を含み睇(ひとみ)を凝(こ)らして 君王に謝す

一別音容兩渺茫 一別音容 両(ふた)つながら渺茫(びょうぼう)たり

昭陽殿裡恩愛絶 昭陽殿裏 恩愛絶え

蓬莱宮中日月長 蓬萊(ほうらい)宮中 日月長し

 

回頭下望人寰處 頭(こうべ)を迴(めぐ)らして 下人寰(じんかん)

の処(ところ)を望めば

不見長安見塵霧 長安を見ずして 塵霧(じんむ)を見る

唯將舊物表深情 唯(た)だ旧物を将(もっ)て 深情を表さんと

鈿合金釵寄將去 鈿合(でんごう)金釵(きんさい) 寄せ将(も)ち去

らしむ

釵留一股合一扇 釵は一股(いっこ)を留め 合は一扇

釵擘黄金合分鈿 釵は黄金を擘(さ)き 合は鈿を分かつ

但敎心似金鈿堅 但(た)だ心をして金鈿の堅きに似せしめば

天上人間會相見 天上人間(じんかん) 会(かなら)ず相見(まみ)え

んと

 

臨別殷勤重寄詞 別れに臨んで殷勤に 重ねて詞(ことば)を寄す

詞中有誓兩心知 詞中に誓い有り 両心のみ知る

七月七日長生殿 七月七日 長生殿

夜半無人私語時 夜半人無く 私語の時

在天願作比翼鳥 天に在りては願わくは比翼の鳥と作(な)り

在地願爲連理枝 地に在りては願わくは連理の枝と為(な)らんと

天長地久有時盡 天は長く地は久しきも時有りて尽くとも

此恨綿綿無絶期 此(こ)の恨み綿綿として 絶ゆるの期無からん

 

〔現代語訳〕

漢の皇帝は女色を重視し絶世の美女を望んでいた

天下統治の間の長年にわたり求めていたが得られなかった

楊家にようやく一人前になる娘がいた

深窓の令嬢として育てられ、誰にも知られていなかった

生まれつきの美しさは埋もれることなく

ある日選ばれて、王のそばに上がった

視線をめぐらせて微笑めば、その艶やかさは限りなく

宮中の奥御殿にいる女官たちは色あせて見えた

春まだ寒い頃、華清池の温泉を賜った

温泉の水は滑らかで、きめ細かな白い肌を洗った

侍女が助け起こすと、なまめかしく力がない

こうして初めて皇帝の寵愛を受けた

雲のように柔らかな髪、花のような顔、歩くと揺れる黄金や珠玉で作られた釵(かんざし)

芙蓉の花を縫い込めた寝台の帳は暖かく、春の宵を過ごした

春の宵は短いことに悩み、日が高くなってから起き

このときから王は早朝の政務をやめてしまった

皇帝の心にかない、宴では傍らに侍り暇がなかった

春には春の遊びに従い、夜は夜で皇帝のお側を独り占めにした

後宮には三千人の美女がいるが

三千人分の寵愛を一身に受けた

黄金の御殿で化粧をすまし、なまめかしく夜をともにし

玉楼での宴がやむと、春のような気分に酔った

妃の姉妹兄弟はみな諸侯となり

うらやましくも、一門は美しく輝いた

ついには天下の親たちの心も

男児より女児の誕生を喜ぶようになった

驪山の華清宮は、雲に隠れるほど高く

この世のものとも思えぬ美しい音楽が、風に飄(ひるがえ)りあちこちから聞こえてきた

のどやかな調べ、緩やかな舞姿 楽器の音色も美しく

皇帝は終日見ても飽きることがないその時、

漁陽の進軍太鼓が地を揺るがして迫り

霓裳羽衣の曲で楽しむ日々を驚かした

宮殿の門には煙と粉塵が立ち上り

兵車や兵馬の大軍は西南を目指した

カワセミの羽を飾った皇帝の御旗は、ゆらゆらと進んでは止まり

都の門を出て西に百余里

軍隊は進まず、どうにもできなくて

美しい眉の美女は、馬の前で命を失った

螺鈿細工の釵は地面に落ちたままで、拾い上げる人はなかった

カワセミの羽の髪飾りも、孔雀の形をした黄金の釵も、地に落ちたまま

君王は顔を覆うばかりで、救けることもできなかった

振り返っては、血の涙を流すばかりだった

土ぼこりが舞い、風は物寂しく吹きつけ

雲がかかるほどの高い架け橋は、うねうねと曲がりくねり、剣閣山を登っていった

峨眉山のふもとは、道行く人も少なく

皇帝の所在を示す旌旗は輝きを失い、日の光も弱々しく

蜀江の水は深い緑色で満ち、蜀の山は青々と茂るも

皇帝は朝も日暮れも(彼女を)思い続けた

仮の宮殿で月を見れば心が痛み

雨の夜に鈴の音を聞けば断腸の思い

天下の情勢が大きく変わって、皇帝の御車は都へと向かうこととなった

ここに到って、心を痛め去ることができない

馬嵬の土手の下、泥の中に

玉のような美しい顔を見ることはない 彼女が空しく死んだところ

君臣互いに見合い、旅の衣を涙で湿らした

東に都の門を望みながら、馬に任せて帰って行った

帰って来ると、池も庭も皆もとのまま

太液池の芙蓉、未央宮の柳

芙蓉は(彼女の)顔のよう、柳は眉のよう

これを見て、どうして涙をながさずにおられようか

春の風に桃や李の花が開く夜

秋の雨に梧桐(あおぎり)の葉が落ちる時

西の宮殿や南の庭園には、秋草が茂り

落葉が階を赤く染めても掃く人はいない

梨園(玄宗が養成した歌舞団)の弟子たちも、白髪が目立ち

椒房(皇后の居室)の阿監(宮女を取り締まる女官)も、その美しい容貌は老いてしまった

夕方の宮殿に蛍が飛んで、物思いは憂い悲しく

ひとつの明かりをともし尽くしてもまだ眠れず

時を告げる鐘と太鼓を聞くにつけ、夜の過ぎるのが初めて長く感じられ

天の川の輝きはかすかとなり、空が明けようとしていた

鴛鴦の瓦(オシドリの形をした瓦)は冷ややかで、霜が重なり

翡翠の衾(カワセミの雌雄を織り出した寝具)は寒々しく、いっしょに寝る人はいなかった

生死を分かって幾年月

魂は夢にも出て来なかった

臨邛の道士が長安を訪れていた

真心を込めた念力で、魂を招き寄せられると聞いて

眠れなく何度も寝返りを打つほどの君王の思慕の情を思い

方士に懇ろに探し求めさせた

大空を押し分け、大気に乗り、雷のごとく走りめぐり

天に昇り、地に入って、くまなく探し求めた

上は青空を極め、下は地の底まで探したが

どちらも広々としているだけで、姿は見あたらなかった

にわかに聞いたところによると、海上に仙山というがあるという

その山は何物も存在しない遠くかすかなあたりにあった

楼閣は透き通るように美しく、五色の雲が湧き上がっている

その中に若く美しい仙女がたくさんいた

そのうちのひとりに、太真という字の女性がいた

雪のような膚、花のような容貌、その様子は楊貴妃にほとんどそっくり

黄金造りの御殿の西側の建物を訪れ、玉で飾られた扉を叩き

小玉に頼んで(楊貴妃の腰元である)双成に(自分が来たことを)伝えてもらった

聞くところ、漢の天子の使い

華麗な刺繍の帳の中で、夢を見ている(楊貴妃の)魂は驚き目覚めた

衣装をまとい、枕を推しやって、起き出してさまよい歩くと

真珠の簾や銀の屏風が、次々と開かれていった

雲のような鬢の毛はなかば偏って、目覚めたばかりの様子

花の冠も整えないまま、堂を降りて来た

風が吹き、仙女の袂はひろひらと舞い上がり

まるで霓裳羽衣の舞のよう

玉のような容貌はさびしげで、涙がはらはらとこぼれ

一枝の梨の花が春の雨に打たれるよう

想いを込めてじっと見つめ、君王に謝辞を述べるのだった

別れ以来、(玄宗皇帝の)声も姿も共に遥かに遠ざかり

昭陽殿での寵愛も絶え

蓬萊宮の中で過ごした月日が長くなった

頭をめぐらせ、はるか人間界を望めば

長安は見えず、塵や霧が広がっているばかり

思い出の品で、ただ深い情を示したいと

螺鈿細工の小箱と黄金の釵を(方士に)預け持って行かせた

釵の片方の脚と、小箱の(蓋か本体の)一方を残し

釵は黄金を裂き、小箱は螺鈿を分かった

金や螺鈿のように心を堅くさせれば

天上と人間界に別れた二人も、必ず会うことができるだろう

別れにあたっては、丁寧に重ねて言葉を送った

言葉の中に皇帝と楊貴妃だけに分かる言葉があった

七月七日、長生殿

誰もいない夜中、親しく語った時の誓いの言葉

天にあっては、願わくは比翼の鳥となり

地にあっては、願わくは連理の枝となりたい

天地はいつまでも変わらないが、いつかは尽きる時がある

この悲しみは綿々と、いつまでも絶えることがないだろう

 

 

 

『春望』  杜甫

 

〔原文と書き下し文〕

国破山河在  国破れて山河在り

城春草木深  城春にして草木深し

感時花濺涙  時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ

恨別鳥驚心  別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

烽火連三月  烽火三月に連なり

家書抵万金  家書万金に抵(あ)たる

白頭掻更短  白頭掻けば更に短く

渾欲不勝簪  渾(す)べて簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す

 

現代語訳(口語訳)

(戦で)首都が破壊されても山や川は(昔のままかわらずに)あり

(荒廃した)城内にも春がきて草や木が深々と生い茂っている

(この戦乱の)時代を思うと(美しい)花をみても涙が落ち

(家族との)別れを悲しんでは(心がはずむ)鳥の鳴き声を聞いても心が痛む

戦火は何ヶ月も続いており

家族からの手紙は万金に値する

白髪頭を掻くと(髪は)ますます短くなって

冠をとめるためのかんざしも挿せそうにない

『早に白帝城を発す』  李白

 

〔原文と書き下し文〕

朝辞白帝彩雲間  朝に辞す白帝彩雲の間

千里江陵一日還  千里の江陵一日にして還る

両岸猿声啼不住  両岸の猿声啼いて住(や)まざるに

軽舟已過万重山  軽舟已に過ぐ万重の山

 

〔現代語訳〕

朝焼けの空に五色の雲が美しくたなびく中、白帝城を出発し

千里先の江陵まで一日がかりで戻ってきた

両岸から聞こえる寂しげな猿の声がなりやまぬうちに

私の小さな舟はもう幾万にも重なった山々を通り過ぎてしまう

 

 

 

『楓橋夜泊』  張継

 

〔原文と書き下し文〕

月落烏啼霜満天  月落ち烏啼きて霜天に満つ

江楓漁火對愁眠  江楓(こうふう)漁火(ぎょか)愁眠に対す

姑蘇城外寒山寺  故蘇城外の寒山寺

夜半鐘声到客船  夜半の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到る

 

〔現代語訳〕

月が西に傾き夜もふけたころに、カラスが鳴き、辺りには霜の寒気が満ちあふれている

川辺の楓や漁火(いさり火)が、眠れずにいる私の目に飛び入ってくる

故蘇城の外にある寒山寺からは

夜半を知らせる鐘の音が、この客船にまで聞こえてくる

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