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「由宇子の天秤」

この映画のチラシには「正しさとは何なのか?」とあります。

ドキュメンタリー作家である主人公が、あっちゃ〜としか言いようのない、どうしようもない状況に追い込まれていく物語。"真実"を報道することに身を投じてきた主人公が、しだいに"真実"を語れなくなっていく・・・
で、冒頭の問いについて考えてみると、"正しさ"って誰かを支配するための言葉なんじゃねーかなと思いました。

自身に"正しさ"のような感触があったとして、それを誰かにむかって"正しい"と言い切ってしまった途端、もともとあった感触としてのオリジナルな"正しさ"っぽいものからは逸脱して、ただの"正しい"っていう観念だけが相手のなかで一人歩きしはじめてしまうんでなかろうか(相手が受け入れるにせよ、しないにせよ)?あらわされてしまった"正しさ"って結果的に人を支配する足かせにしかならないんじゃなかろうか・・・
で、きっと自身に語りかける"正しさ"すらも、また支配なんだろうな。
じゃ、"正しさ"をわざわざ口にして自他を支配したくなるそのこころは?それは不安や恐怖のせいなんじゃないかしら。
「いったい自分は、生きててオッケーな生命体なんだろうか?」という切実すぎる問いへの、答えられなさからくる。
それをどうにかこうにか「おれはオッケーだ!」「きみはオッケーだよ!」として、埋めるために人類が必死にこしらえたのが"正しさ"っていう概念なんじゃないでしょうか。あるいは"正しさ"ってもんがあったばっかりに、自分はオッケーな生命体なのか?という問いが産まれちゃったのかもしれませんが。まあでもこれはニワトリタマゴか・・・

っていうのはお人好しな解釈で「この大量の人間を管理するには"正しさ"で縛り付けるのが手っ取り早いな」と、きっと太古のだれかが考えたんだと思います。自分がオッケーな生命体なのか?という根源的な不安につけ込んだひじょうにウマい作戦だと思います。
"正しさ"がだれかを思いやって産まれてきた言葉とは、どうしても私には思えないんだよな。私が今まで会ってきた"正しさ"を信じている人って、そら立派な人もいるけど、みんなどこか苦しそうだった。"正しさ"が語られてハッピーになった現場をわたしはあまり見たことがないし、わたし自身一度もハッピーになったことがない。
"正しさ"は「ぼくは君のチカラなるよ!」って顔しながら、腹の底では(この規範からはみ出したらどうなっても知らないけどね!)ってな具合ですごくエラそうなんだもの。超トレードオフじゃんか。まるで言葉のかみさまだよ。なんてこった。

私のなかにある"正しさ"は、太古の誰かさんの策略の延長にあったのだな、こわ・・・と思ったので、"正しさ"くんとはすこしずつ縁を切って生きるとしよう。
って思った映画でした。

https://bitters.co.jp/tenbin/

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