映画 「凱歌」

ここまで記録を書くことに窮した映画ははじめてでした。日を置いたけど全く整理がつかないまま。けれども鑑賞体験が薄まらぬうちに書いてみようと思います。

コロナで今、「命を守ることがなによりも大切」という意識がとんでもない規模で膨れているように思う。まあ私も死にたくはない。そこは否定しない。
けれども肥大した「命をたいせつに」に、私はすっかりビビっている。
まるで呪文のようじゃないですか。目的のために唱えられ、言葉の意味や中身は問われぬままって。「イノチヲタイセツニ」って。
私にとっての"命"ってなんなのか。私にとって、命を大切にするってどういうことなのか。あなたはそれを分かった上で、「命をたいせつに」と私に言っているんでしょうか。否。と思います。
あなたのためを思ってっぽさを纏いつつ「みんなのためにあんた、ホント頼んだわよ?分かってるわよね?」というイヤ〜な脅迫を受けてる気分になります。
こんな具合に言い返せればまだいいですが、ざんねんながら「イノチヲタイセツニ」は特定の人物なぞではなく、人と人の間に発生するプレッシャーが正体なんでしょうから、ひじょうに厄介です。
個々にとっての命の在り方を認めるっていうのが、尊厳を守るってことだと私は理解してるんですが、超巨大になった「イノチヲタイセツニ」さんには、そういった個々の在り方を見つめるまなざしを感じません。「お前、ちょっとうるせえぞ」なんて切り返したら殺されかねん。
種の生存戦略のためならば、個の尊厳はどうだってよいのでしょうか。もちろん、択一ではありません。命もだいじ。でも尊厳もだいじです。
その時々にどのようなバランスで生きていくか、を決めることも迷うこともまた尊厳であり、かつ、命なんじゃないんですかね。意味分からん言い方になりましたが、尊厳と命は本来不可分なんじゃないかって、ここまで書いてきて思いました。
風に名があるからといって、風そのものに輪郭は引けません。分けられないものも分けられたように誤解させるのが、言葉です。で、本来言葉で分けようのないものを分けたと誤解するのが人類(私)だと思います。少々脱線しました。話を戻します。
要するに、「命 or 尊厳」という最も決着を付けてはいけないものに、決着をつけてしまっている「イノチヲタイセツニ」という奴を、私はまったく好きになれないってことです。命と尊厳のあいだを好きにウロウロおろおろさせろって思います。
だから、「イノチヲタイセツニ」を無視しませんが、服従もしません。それをだれかに命令したくもありません。自分にそう願っています。難しいことこの上ないですけど。

この「凱歌」は、ハンセン病の元患者さんを取材したドキュメンタリーです。わたしはこの映画で、「イノチヲタイセツニ」に飲み込まれてしまったがために起きた惨事を目の当たりにしました(ほんの一端でしょうけれども)。あまりにむごいので、人類なんて居ない方がよかったんじゃないかって気さえしました。神の視点から言っているのではなく、自分だって居ない方がいい人間に、いつだってなり得るのだ。そういう悲惨なポテンシャルが世界には、自分にはあるのだなという恐怖から、そう思います(世界と自分を同一視しているわけじゃないです)。

その惨事を繰り返すかどうかの分岐点に、いま自分は立っているんだなあと気づかせてくれる、稀有な説得力を持つ映画です。
アンコール上映で鑑賞したので、今後劇場で観る方法を知りませんが、けれども多くの人にみてもらいたい映画だと思いました。とてもタイムリーな内容だと思います。監督さんも舞台挨拶で「自作のなかで、"これだけはみんな見てくれ"と思うのはこの映画だけです」とおっしゃってました。ぜひ。

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