映画「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」

監督のさかはらさんの懐というか、覚悟がとても魅力的な映画でした。

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わたしは去年の春、友人から宗教勧誘にあった。
高校生からの仲なので、かれこれ10年ちかく付き合いがある人だ。
去年のちょうど今頃「コロナたいへんだね」と言うと、その人は仏教の話をし始めた。「ふしぎなテンションだな?」と思いつつも興味を示した結果、やり取りは怒濤の勢いとなり、さいごは収拾がつかず私の方から関係を絶ってしまった。
今から相手へ何をする気もないが、どうすればよかったんだろうという問いは消えない。未だに答えは見つかっていない。

「自分にとっての正しさや幸せが、相手のそれと一致するとは限らない」
文章にするとたったこれだけの話なんだけど、このことを心身や行動を伴って受け入れていくのって死ぬほどたいへんですね。ビックリです。
「相手と自分はちがう人間である」なんて分かりきってて、当たり前なんだけど、とはいえ嫌なことされればしっかり腹も立つし、なんなら悲しくて涙も出てきます。頭の上での理解なんてホント大したことないです。

頭で対処できるのは、ほんと〜にペラ〜ッとした表面だけなので、「相手と自分はちがう人間である」ってことを身体で受けるというか、いわば腹にくくるしかないんでしょうねきっと。とても辛い話ですけれど。そう思う私は甘いのですけども。
だから順序としては「ちがう人間である」ことを引き受けて、それがあってはじめて「わかり合う」ことが叶うというか、理解し合う準備が整うんじゃないですかね。
なのでそこから言うと「同じ人間なのに言っても分かってくれないなんて!」はクレイジー・・・というかワイルドすぎるんですよね。「相手と自分はちがう人間である」ってことを腹にくくれていない証拠です。
この春に私と友人の間で起こったことは、おおよそこんなところだと思っています(自戒を込めて)。

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で、この映画監督のさかはらさんですよ。
さかはらさんはサリン事件の被害者です。
彼は、オウム時代から広報部長を努めてきた「アレフ(オウムの後身)」の荒木さんへ会いに行った。
互いのゆかりの地をたずねながら、さかはらさんと荒木さんが対話をする。

さかはらさんの態度は簡単に言葉でくくれませんが、「相手と自分はちがう人間である」ということを絶望的なくらい心得ている。一方で「だけどぼくらは同じ人間だ」という希望も持ち続けているように見えました。
まったく逆の感情を身の内に持ち続けるのは容易ではないと思います。
ましてや、事件の「あちら」と「こちら」に居た人間が対峙する場面では。
その境界上でじりじりと関わりを切り開こうとする様がかっこよかったです。

つらさに潰されるまま、被害者の檻のなかに籠城するのはかんたんです。
相手だけが悪くて、自分は悪くない。つらい、つらいといくらでも言えてしまう。その場に居続けることができる。
さかはらさんが荒木さんに対して放った「(事件現場に居合わせたことの全てを、あなたに負わせるほど)自分はトンマじゃない」という言葉は、「俺は被害者の檻のなかでぴーぴー泣くだけの人間じゃない。ナメんな」という意味に聞こえました。
「被害者の檻」は監督の語気から勝手にわたしが思いついた言葉ですが、「監督として、表現者として、さかはらあつしとして、被害者の檻の中にいることを自分に許さない」、そんな印象を受けたからです。後遺症による心身の苦痛は絶えず続いていて、今もさかはらさんは" 被害 "のまっただ中にいるにもかかわらず。
というかむしろ、現在進行形の痛みを抱える監督自身が「被害者の檻」から脱するために、この映画を撮ったんじゃないかって気がしてきました、ここまで書いてきて(それだけが動機ではないでしょうけど)。が、真相は監督さんと話をしないと分かりませんね。

さかはらさんの圧倒的な熱量と覚悟にぶん殴られてすこし目が覚めました。
映画から力をもらったので、会場にいた監督のすがたを目に刻んで帰路につきました。

https://www.aganai.net/

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