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映画 「夜明け前のうた 〜消された沖縄の障害者〜」

ちいさいころから「座敷牢」という言葉を聞くたびゾクゾクした。
なぜゾクゾクするのかは分からなかった。
いまは分かる。自分がそこへ閉じ込められる可能性は、ゼロではないからだ(し、考えたくもないけど、だれかを閉じ込めてる可能性だってある)。

そして、私に身近な幾人かも、時代がちがえば座敷牢に入れられていたかもしれない。

自分も、身近な人も「座敷牢」に入る可能性を想像するだけでつらい。そんな「閉じ込めたさ」を持った社会を生きるのが、おそろしくってたまらない。
「ヤバい人は監禁しときましょう」というルールにGOを出した人には、こういう感覚なかったんだろうなあ。
「自分も、身近な人間もけっしてヤバくないし、未来永劫ヤバくなるはずがない」と確信していたんであろう。ずいぶん、楽観的だ。

人間には身体がある。身体はもともと、自然を生きてきた。
であるなら身体にとっては、狩ったり狩られたり、食べたり食べられたりが当たり前であろう。
自然は危険だ。ヤバいのだ。とうぜん自然に適応した身体も、ヤバい。身体のない人間なんていない。人間はすべからくヤバいのである。

「ヤバい」という言い方をしたが、私は「ヤバさ」を嫌っていない。
「人間も動物なんだから野生を含んでるのが当たり前。ヤバくて当然」という気分だ。そんなもん否定したってしょうがない。

「レッツ座敷牢!」した人たちは、そういった逃れようのない己の野生を正視せず、誤魔化してもみ消そうとした。
そういった拒絶の表れである座敷牢を見て、下々の者も「野生を隠さなければじぶんも座敷牢」と、状況を内面化したのであろう。
その系譜のさきっちょに自分は生きてるんだなー、と感じた映画でした。

現代人の心身不調は、人類が野生を否定して、理性をのさばらせちゃったとこに端を発してるんだろう。そんな気がしてならない。
「ぶっちゃけ、ぼくたち理性でそれっぽくふるまってるだけで、じつは野生解放したくってたまんないよね!!」っていうところから話ができればいいのだけど。
野生の抑圧ではなく、むしろ野生の解放にこそ理性を使うべきなんじゃなかろうか。
少なくともじぶんは、できるだけそういう方向で生きたいと願っています。

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