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映画「シチリア・サマー」

「君の名前で僕を呼んで(以下、「君の名前で」)」がだいすきだったので、「その監督が褒めた監督とあらば!」と小鼻をぷくぷくふくらませて見にいきました。が、この映画は「あんまり」でした。
(この方法で映画チョイスすると高確率でハズすから、そろそろ止そうかしら。すきな人が「すき♡」だから自分も「すき♡」とは限らないこのおもしろさ、むずかしさ。映画に限った話ではありませんが)

「君の名前で」のクライマックスは、失恋で傷心したむすこへ語りかける、父親の長ゼリフがたいへんすばらしかったんですよね。
その寛容さは、何の根拠もない、ぽっと出の寛容さ(その親父がたまたま超人格者であった)ではなかったのだなあということを、この「シチリア・サマー」をみてはじめて理解しました。

「君の名前で」の主人公であるティーンの少年は、彼女(?)ができて、森林で致したり、かと思ったら(彼女(?)へのケアもとくになきまま)家におとずれた青年とマジな恋に落ちる。で、その青年は期間限定滞在だったので泣く泣くお別れするわけです(もちろん彼女(?)のことはさいごまでノータッチ・・・)。

すべてを知っているであろう親父さんはそのあいだ一切口をださない(なんなら暖かく見守っておられる)。
さいごのさいご、主人公がぺしゃんこになったとき「そういう人生の大きな流れみたいなもんは、そのときにしか来ない。自分はそういうものを断ち切ってしまったことを今でも悔やんでる」と、ちからづよく主人公の背中をおすんですよね。

こんな風に倫理や世間体も二の次で、あったか〜く、おお〜きくドーンと息子のいのちそのものを応援することのできるこの親父さんに「うお〜ん、おやじ〜!泣」しつつも、その寛容ぶりにいたくビックリした私は「このスーパー自由な恋愛観はお国柄か?イタリアってとっても自由なのね??」と思っていたのでした。

・・・で、今回の「シチリア・サマー」ですよ。
「君の名前で」とおなじで、舞台はイタリアなんですが、時代は数十年前。その頃はまだ、ずいぶんひどい、同性愛者への差別があったようです。
偏見によって、ふたりの青年が、親戚のおっさんに射殺される事件がじっさいにあった。それをきっかけに、その後イタリアは変わっていきました、という実話を描いた物語でした。

差別されている当事者からすると、差別する側の価値観を問うチカラを、日々摘まれ続けているし、そんななか抗うのは文字通り命がけ・・・と、幾重にもなすすべがない。精神的ないのちを損なうか、生命体としてのいのちを損なうかという、最低な二択をせまられるわけです(「戦争反対」と言えば「非国民」と言われたように)。
差別する側(多数派)にとっては、差別する価値観にポンと身を置いた方がはるかに楽で、耳を傾ける必要がない。迷いなく「正義」を身にまとえば、人を痛めつけるポジションと快楽が得られる。おそらく、兵藤会長のいう「セーフティの愉悦!」ってやつです(兵藤会長は、福本伸行マンガにでてくるキャラです)。

なんだかなあ。
フリチン&無人島で、「こりゃあみなで助け合わんと生き延びれんぞ!」な、環境的荒療治がよかったりすんのかなあ?
このまま少数派としてぷるぷる震えながら生きていくぐらいだったら、いっそその方がいいのかもしれない。また、多数派として我知らずブチブチと人を殺しているぐらいならそっちの方がええのでは、なんてことを妄想するけど、そら観念のお話で、このリアルワールドで、じぶんだけかわいこちゃんでありたいと願うのも、なかなかのキモさであるしな。ほんとむずかしいぜ。いったい、どうすりゃあいいんだい。

「君の名前で僕を呼んで」みたときのやつ。なつかしいな。 ↓
https://www.facebook.com/amane.akahoshi.7/posts/pfbid0RyWAjsLivkJpecg9rpuYZL1caNqRUovKpEv2xoTZRFoXNSet9YYdjp1d9wr5z5yil

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