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銅瓶に心元なき冬構 夏目漱石の俳句をどう読むか99

門閉ぢぬ客なき寺の冬構

 昨日パチンコ屋さんの前を通ったら、空調機入れ替えのために休業しているのに、女の子が「休業」と書かれたホワイトボードを持って道行く人に「本日休業でーす。明日は営業してまーす」と連呼していた。そこまでやらなくてもいいのになと思った。

 この寺は、門が開いていたら漱石が客となっただろうか。実は冬構ではなくて事件に巻き込まれていた可能性はないだろうか、とは漱石は考えなかったようだ。

 少し寂しいが平和だ。

 あまりにも平和だ。明治二十八年の暮れはこんなに平和だったのか。

 散歩をしていて門の締まった寺に出くわす。ああ冬構だなあと詠じる。

 おぢいちゃんか。

新纂俳句大全 冬之部

 ただ門を閉じての冬構という見立ては珍しい。解説には「冬構は冬の到来に備える用意」とある。そうなると寺は年内もう門を開けぬのか。

 そうなると冬構というより冬籠りという感じがしてくる。

門閉ぢぬ二度とは開かぬ冬構

冬籠米搗く音の幽かなり

 この句も間もなく分からなくなるんだろうな。この「米搗く」って精米のことですからね。昔は一升瓶にいれた玄米を竹の棒かなんかでゴシゴシ搗いて精米していたが、大量にやる場合は臼と杵で搗いた。今ではそんな光景はどこにもないだろう。
 精米したコメより玄米、玄米よりもみ殻付きの米のほうが保存が効くので、米は一度に精米しないで、……。

 いや、精米かなあ?

 まさか餅つき?


漱石俳句研究

 松根東洋城は、

どすどすと米搗く音や冬籠り

米を搗くかすかな音や冬籠り

 と遊んで音との距離感を確認している。寺田寅彦は外から見たような感じと言っている。これが正解ではないか。

 この外から見た感じというのは門閉ぢぬから繋がっているような感じがある。

砂浜や心元なき冬構

 これも冬構と詠んでいるが、なんだか「年用意」といってもいいような暮れの感じがある。時期的にもそれに近いのではなかろうか。

 ただ散歩で寺の前に立ったり、よその家の米搗きの音を聞いたり、砂浜を眺めたり、疎外感というのではないけれど「外から見たような感じ」というのは確かにある。砂浜も眺めたのであり、わざわざ波打ち際を歩いたりはしていないと思う。そこまでのあざとい哀愁は出さず、「そういえば何もしていないなあ」という感じを出しているのがこの句だと思う。

 真冬の砂浜というのは干している魚もない、小舟がひっくり返っているだけの寒々しい場所であろうが、その寒さではなく心を詠んでみたところがこの句の味わいだろうか。

銅瓶に菊枯るゝ夜の寒哉

 銅イオンは雑菌の繁殖を抑え生花を長持ちさせると言われている。しかし菊の生花は精々三週間ほどしか持つまいからいつの切り花かどうかはいざ知らず、暮れまで持てば大したものではなかろうか。

 詠まれているところは寒さだが、

菊の花も年を越されぬ寒さかな

 という菊のはかなさが詠まれてもいようか。

 これがいつの菊かというと

菊提げて乳母在所より参りけり

 まさかね。

 しかし菊が枯れたのは銅瓶の中の水が凍ったからではあるまいね。

[余談]

 若い男女が乳母車の左右にいて、男性が女性に「抱っこしてみます」と訊き、女性が「いいんですか?」と言っていた。

 その会話を聞いていたのは恐らく私一人。

 傍目には絶対にお母さんにしか見えないその人は誰?

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