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芥川龍之介の『保吉の手帳から』をどう読むか②

 昨日、この記事で書きたかったのは、

金が欲しいのです


 芥川龍之介の『保吉の手帳から』を太宰治の『二十世紀旗手――(生れて、すみません。)』と近接させて一回笑ってみよう、ということだった。実際『二十世紀旗手――(生れて、すみません。)』は金が欲しい男の究極の滑稽さを表現しており、

 こんな感じのユーモアがある。看護師さんなのに自販機の下の小銭を捜す、それくらいの覚悟がなくては芥川龍之介作品を「読む」ことなど不可能だろう。
 いや、真面目な話『保吉の手帳から』はお金の話にみえる。縦軸はそうだろう。実際保吉は「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」と太宰にヒントを出しているのだ。「ワンと言えなら、ワン、と言います」は間違いなく太宰の名言だが、太宰の発明ではない。芥川龍之介のヒントで八割がたの創意は尽きている。むしろ比較してみると完全に遜っている『二十世紀旗手――(生れて、すみません。)』に対して保吉は「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」とどこか惚けている。「え、主計官。」の分、保吉の方がユーモラスに思えるほどだ。

 しかし恐らく「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」も100パーセント芥川龍之介の発明というわけではなかろう。この「金が欲しい」というユーモア、やはりドストエフスキーのやり方が抜群に面白いのではなかろうか。

「ぼくはきみの友誼を望むんだよ、ズヴェルコフ。ぼくはきみを侮辱したが、しかし……」
「侮辱したって! きーみが! ぼーくを! ねえ、きみ、たとえどんな場合でも、またどんなことがあろうとも、きみがぼくを侮辱することなんかできないよ!」
「もうたくさんだ、どいてくれたまえ!」とトルドリューボフは力み返った。「さあ、出かけよう」
「オリンピヤはぼくのものだぜ、諸君、ちゃんと約束しておこう!」とズヴェルコフは叫んだ。
「われわれはあえて争わないよ! 争わないよ!」と一同は笑いながらいった。
 わたしは唾を吐きかけられたような気持ちで、そこにただずんでいた。酔漢の一隊はどやどやと部屋を出て行った。トルドリューボフは何やら馬鹿げた歌をうたいだした。シーモノフはボーイにチップをやるために、ほんのしばらく後へ残った。わたしは不意にその傍へ寄って行った。
シーモノフ! ぼくに六ルーブリ貸してくれたまえ!」わたしはやけ半分にきっぱりといった。
 彼はすっかり度胆を抜かれて、妙な鈍い目つきでわたしを眺めた。彼もやはり酔っていたのである。

(ドストエーフスキイ『地下生活者の手記』)

 大真面目に借金を申し出ること、金がないことはおかしい、面白い。実際金に困りながら彼らはそのユーモアに辿り着いていた。ただドストエフスキーと太宰は大真面目を押し通した。しかし保吉というキャラクターを立てた芥川は「え、主計官。」と妙なひねりを入れて來る。本当に何としても金が欲しければ、そして真面な人間であれば、けしてそんな言い方はしない筈なのに。

 ただこれまでドストエフスキーや太宰以上に、芥川龍之介がユーモア作家だ、などと云われてきたことがあっただろうか。
 おそらく近代文学1.0の世界では、そうしたことは一切なかったのではなかろうか。この「え、主計官。」のユーモアには誰も辿り着いていなかったのではなかろうか。保吉は太宰同様ただ金が欲しいのではない。そんな当たり前のことが誰にも伝わっていなかったとしたら……。


足穂の影響?

 彼は悪魔に別れた後、校舎の中へ靴を移した。教室は皆がらんとしている。通りすがりに覗いて見たら、ただある教室の黒板の上に幾何の図が一つ描き忘れてあった。幾何の図は彼が覗いたのを知ると、消されると思ったのに違いない。たちまち伸びたり縮んだりしながら、
「次の時間に入用なのです。」と云った。

 保吉はもと降りた階段を登り、語学と数学との教官室へはいった。教官室には頭の禿げたタウンゼンド氏のほかに誰もいない。しかもこの老教師は退屈まぎれに口笛を吹き吹き、一人ダンスを試みている。保吉はちょいと苦笑したまま、洗面台の前へ手を洗いに行った。その時ふと鏡を見ると、驚いたことにタウンゼンド氏はいつのまにか美少年に変り、保吉自身は腰の曲った白頭の老人に変っていた。

(芥川龍之介『保吉の手帳から』)

「大きな三日月に腰掛けているイナガキ君、本の御礼を云いたくてもゼンマイ仕掛の蛾でもなけりゃ君の長椅子へは高くて行かれあしない。」は芥川の稲垣足穂の『一千一秒物語』に関する評だ。『一千一秒物語』は大正十二年一月に刊行されており、献本を受けた芥川は『保吉の手帳から』を書く時点では当然読み終わっていたものと思われる。(※要確認)

 ……しかしながら、今日はもう時間がない。丸亀製麺に釜揚げうどんを食べに行かねば。

 食べてきた。そこそこ美味い。そして安い。もしも毎日一日ならばこれはお得だ。

 これで商売になるのか?

 しかし何度も書くが290円の半額は145円で、140円ではない。それは近代文学1.0の人達には永遠に解らないことなのだ。



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