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明けやすき死にたくもなきふくべかな 夏目漱石の俳句をどう読むか21
明けやすき七日の夜を朝寝かな
歳時記を捲り始めた当初は誰しも、「冴え返る」や「涼しさ」そして「明けやすき」などという俳句的表現の季題に興味が惹かれる。
雪は冬で蚊は夏のものとは俳句に関係なく誰しもが知っていること。歳時記を捲てこそなるほどという季題に出くわす。「砧打つ」もそうだしこの「明けやすき」も全く俳句を知らない人にとっては何ということもない言葉だが、歳時記で出くわして実際にその季節になるとなるほどと感心する。そして漱石はほぼ素直に、やや滑稽を交えながらも解りやすく詠んでいる。
芥川とは大違いだ。
明けやすき夜を隱してや東山 蕪村
もう少し寝たいという意味では蕪村の句にも近いところがなくはない。
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そしてかなり気まずい被りもある。
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季語を二つ重ねた形なので、まあ、被るか。
明け易き夜ぢやもの御前時鳥 漱石
とふざけるのはまだ先。
秋の蠅死に度くもなき声音かな
この句は芭蕉の、
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉
この句とよく比較されているようだ。無常迅速と前書きされた芭蕉この句は比較的有名な部類に入る。
やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲芭蕉是れ亦『無常迅速』と題せるもの。即ち作者は無常迅速といふことを、蟬を以て說明せんとしたるものにして、此の理窟あるところ俗俗の稱讃を博するところなるべし。
老の名のありとも知らで四十雀老慵蠣よりは海苔をば老の賣りもせて無常迅速やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲四十雀も文字より思ひつきたる諷刺なるべく、他の二句は自ら題するが如し。
高浜虚子 著香蘭社書店 1935年
例へば「秋は夕暮··鳥のねどころへ行くとて三つ四つ二つなど飛びゆくさへ哀れなり」『枕草子』)を「二つ三つ四つなど飛びゆく」と改めようが、「やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲」(芭蕉)を「やがて死ぬらしくも見
えぬ蟬の鳴聲」と改めようが其の意味に變りは無いやうなものであるが、やはり、三つ四つ二つ」や「やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲」方が音調が美に感ぜらる。
坪内鋭雄 著||坪内逍遥 閲富山房 1903年
【やがて死ぬ云々】芭蕉の句に「やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲」。とあり。蟬は命短きものなれば、やがてまもなく死ぬべきものなるに少しもそんな樣子も見えず、盛んに鳴いて居る。
国語研究会 編東雲堂 1912年
ねにたかく-なきそしぬへき-うつせみの-わかみからなる-うきよとおもへは
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私は蝉のたくさんいる環境に生まれ育ったので、蝉というとまず死のイメージがある。ぼたぼたと落ちているのが蝉だというイメージがある。だから蝉と死を結び付けた句はたくさんあるだろうと思い込んでいたが案外ない。
そこにはまず芭蕉の句が有名過ぎて蝉と死を結び付けた句が結びつけられた句は詠みにくいという理由があるだろう。それともう一つ、一茶は
秋の蝉ころび落ては又鳴きぬ 一茶
として落ちた蝉を見ているが、多くの句は基本蝉の姿を見るのではなく、声を聴いている。これは和歌における「鹿」「蛙」のルールと同じだと考えてよいかもしれない。そして人間が生きている間しか本を読むことができないように、蝉の声は生きている間しか聞こえない。声を発せない死んだ蝉は、本を読まない人間同様存在しないも同じだ。
ぬけ殻に並びて死ぬる秋の蝉 大草
こんな句は極めて珍しい部類に入る。そもそも蝉が現に生きていて元気に鳴いているにも関わらず、「もうすぐ死ぬのにな」と考えるのは、きちんと服を着ている相手に対して、「下着の下は全裸だ」と言いがかりをつけるようなもので、芭蕉や漱石くらいのひねくれものではないと考えつかないことなのだ。
芭蕉の句も漱石の句も蝉に対して意地が悪い。
閑さや岩にしみ込む蟬の聲 芭蕉
このなんとも風雅な句とは好対照だ。しかしこの句も、
さびしさや岩にしみ込む蟬の聲
淋しさの岩にしみ込む蟬の聲
と練られた句であり、五月末の山形で詠まれたと聞くと、おやっというところがないでもない。その練り上げられた風雅よりも、漱石の冷やかすような物の見方の方が面白いことは面白い。そして改めて芭蕉はいろんな面があるなと感心する所。
柳ちるかたかは町や水のおと
この「かたかは町」は解説によれば「道の片側ばかりに家の建った町、片町」ということらしい。辞書にもそう書いてある。しかしこの句は、
柳ちるかたかは土手や川の岸
という意味であろう。そりゃ道の片側ばかりに家の建つわけだ。
風ふけば糸瓜をなぐるふくべ哉
この句は糸瓜と瓢箪が並べて植えられていて、瓢箪が風に吹かれて揺れて糸瓜にぶつかるよ、という意味であろうか。
何かいずれも実を腐らせて取り除かれるという特殊な二つの植物が張り合っているようで、弱いものがさらに弱いものを殴る的な、どこか諷刺的な感じのなくもない句である。
と思えば瓢箪の果肉は食べないが、糸瓜は食用にも栽培されているようである。
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食べたことないなあ。別に無理して食べようとも思わないけれど。
瓢箪の果肉も油で揚げたり煮込んだりしたら食えそうだが、とにかく瓢箪料理が見つからない。ククルビタシンという毒があるからだそうだ。なるほど瓢箪は腐るしかないのか。
爺と婆さびしき秋の彼岸哉
この爺と婆とはいったい誰のことであろうか。
今、爺と婆を見るとけして「さびしき」とは感じられない。ほほえましく、羨ましくも思える。気のせいが、爺と婆で連れ添って歩いているのを見ると本当に仲の良い夫婦が多いように思う。年をとればとるほど手をつなぎあっている。
むしろこの時期本当に寂しいのは漱石の方だったのではあるまいか。
岩波の『定本 漱石全集』ではどういうわけかこの句はぽつんとそのまま置かれているが、子規あての書簡では
親一人子一人盆のあはれなり
という句が並べられていたようで、たまたまにせよ盆と彼岸が一緒に来たような滑稽と「さびしき」と「あはれ」が並んだ感傷の衝突が出来上がっている。
そしてさらには夫婦ではさびしい、親子でもあわれと、かなりの屁理屈が見られる。この理屈だと「三人以上ならいいのか?」ということになってしまうが、蝉でも人間でも死ぬ時は一人だ。さびしいとか哀れとか言っている暇があれば、まず本を読もう。
どうせ人間は死んでしまう。生きていられるのは今日が最後かもしれない。『外接円』を読まないで死ぬなんて、なんて悲惨な人生だ。
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