芥川龍之介の『奇怪な再会』をどう読むか23 本所との再会
お蓮を日本人に戻して「私」や「滝」の国籍を危うくして、結局辿り着いたところは「いかようにも読める」と云った程度の地平なのではないかという感じもして来る。
とりあえず、
この問題には、
ここで緩い答えが一つ見つかったような感じはある。「恵蓮」が誘拐された日本人なら「孟蕙蓮」が日本人でもおかしくはない。牧野が犬にまで嫉妬して殺し、「金さん」も「暗打ち」にしたらしいことも見えて来た。
明治二十八年時点で「金さん」が四十歳、牧野が四十九歳、「孟蕙蓮」も二十代ではなかろうという辺りのこともなんとなく見えて来た。清国と狂人と云うトゲも見えて来た。一人称でも三人称でもない奇妙な語り口も見えて来た。最後に牧野がどうなったのか解らないように書いていることも解った。芥川龍之介が犬を嫌いなことも解った。牧野が酒飲みであることも解った。
池田満寿夫が久保田の大吟醸を御燗して海鼠腸で飲んだことも解った。
いや、そんなことは解らない。しかしからすみや海鼠腸で日本酒を飲むのは立派な酒飲みである。
Kの口が軽いことも解った。解らないことがたくさんあることも解った。たとえば本宅が新小岩方面のど田舎であること。そして滝が凶暴なのかどうか。三匹目の犬の始末。お蓮の脱いだ支那服のゆくえ。K脳病院のパジャマの柄。卯の一白が何年なのか分かりやすい表を拵えてくれた人の正体。
解らないところはやはりいくら考えても解らない。何度読み直しても答えには辿り着けない。
あるいは『アグニの神』のような形で、ヒントは外側にあるのかもしれない。
たとえば『河童』との関係で考えてみると、芥川龍之介は「パジャマの柄だけは絶対に書かない」と決めていた可能性がなくはない。
たとえば『本所両国』との関係で考えてみると、お蓮が這入った銭湯は「常磐湯」なのかもしれない。妾宅の場所は「生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町」だから本所に据えられたのかもしれない。
牧野の制服はやはり本所にあった陸軍被服廠で手に入れられたものなのかもしれない。冬になると猪や猿を食はせる豊田屋で牧野も猿を食ったのかもしれない。
お蓮も長命寺の桜餅を食べたであろう。
本所は芥川が二十歳頃まで住んでいたところで、大正十二年の関東大震災で丸焼けになる。大正九年の『奇怪な再会』はその震災の前にある。そういう意味ではまだ失われる前の本所に作品の中で再び出会えたことこそが『奇怪な再会』なのだとも言える。
あるいは『本所両国』は昭和二年五月、死の手前にある。そして四度「支那人」が現れる。
この支那人はいずれも辮髪の清国人ではない。賈島、戴叔倫、杜甫は「唐」の詩人、蘇軾は北宋の詩人だ。
こうして見てみると芥川にとって辮髪の清国人というものはやはり偽者のの支那人なのではないかと思えてくる。重ねて支那服を着た日本人の「孟蕙蓮」という矛盾のような矛盾でないようなものが、芥川の支那人にたいするもやもやに思えてくる。
解らないものは解らない。
そして解ることは増えて来た。
まだ読者にはなり切れていないが、『奇怪な再会』に関する記事は今回で一旦休憩しよう。
何故ならとても疲れたからだ。
背中が痛い。
[完全なる余談]
ロボット電話によるセールスが当たり前になって来たけれど法整備はどうなっているんだろうか。
つまり通信法とか訪問販売法とか。
あるいは間もなくロボット電話による振り込め詐欺なんかも技術的には可能になる筈。
これまでは「機械の案内に従って操作を行ってください」と言われればその通りにしていたものを急に逆らえるのだろうか?
いや、つまり人は小説を読むときも話者を信用しすぎていて、あれこれが見えないよねと云う話でした。
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