イザベラ・ディオニシオの『女を書けない文豪たち』を読む③ 書いてあることを読もう
イザベラ・ディオニシオの『女を書けない文豪たち イタリア人が偏愛する日本近現代文学』では、こんなことが書かれている。
繰り返し書いているように誤読は、
①書いてあることを読まない
②書かれていないことを付け足す
という非常にシンプルなところから生じる。イザベラ・ディオニシオはまず「月が綺麗ですね」が都市伝説であると承知したうえで、漱石の表現にはそうした間接的なところがあり、真意は別にあるという独特の解釈をしているようだ。しかし件の都市伝説そのものは表現そのものというよりも考え方の違いを示してはいまいか。
整理しよう。書いてあることから言えば、
恋人からもらった手紙の文字を、その書かれている言葉の意味としてではなく、その文字そのものとして、その美しさまたは拙さをいとおしく眺めた経験はないだろうか。ここで「先生」はお嬢さんを好きは好きでも直接向き合うのではなく、間接的に捉えることに喜びを見出している。お嬢さんの下手な活花、下手な琴が嬉しいのであって、キスは望んでいない。表現が間接的なのではなく、間接的にお嬢さんを捉えることによって好きと言えるのである。まだその肉体と向き合う覚悟はない。
つまり「今すぐキスしたい」というのは間違いである。三四郎ではないが逃げ出してしまうだろう。その証拠に、
話をするだけでいっぱいいっぱい。これではとてもキスは無理だ。そう読まなくてはならない。しかしそう読めていない。自分の勝手な感覚で読み流しているからであろう。
プロフィールを確認して教師でないことに安心した。こんな人を雇う大学が有ったら悲惨だ。
一日でも早くやり直してもらいたい。生きている間は何度でもやり直せる。死んだら終わりだ。
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