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芥川龍之介の『三右衛門の罪』をどう読むか④ それこそ依怙贔屓と云うものだ


近世日本国民史 第34 徳富猪一郎 著民友社 1933年
徳川時代の金座 東京市 1931年

 何故吉田精一の『三右衛門の罪』の読み方が根本的に駄目なのか。

 今日はそこをやります。

「その数馬をなぜ負かしたのじゃ?」
「さあ、そこでございまする。わたくしは確かに多門よりも数馬を勝たしたいと思って居りました。しかしわたくしは行司でございまする。行司はたといいかなる時にも、私曲を抛げうたねばなりませぬ。一たび二人の竹刀の間へ、扇を持って立った上は、天道に従わねばなりませぬ。わたくしはこう思いましたゆえ、多門と数馬との立ち合う時にも公平ばかりを心がけました。けれどもただいま申し上げた通り、わたくしは数馬に勝たせたいと思って居いるのでございまする。云わばわたくしの心の秤はかりは数馬に傾いて居るのでございまする。わたくしはこの心の秤はかりを平たいらに致したい一心から、自然と多門の皿の上へ錘を加えることになりました。しかも後に考えれば、加え過ぎたのでございまする。多門には寛に失した代りに、数馬には厳に過ぎたのでございまする。」

(芥川龍之介の『三右衛門の罪』)

 吉田精一は『芥川龍之介全集』の編集と解説をしています。これはどうしても嫌いで出来ることではありません。その割に解説を読むと露骨な、あるいは不躾な、さして理論立っていない批判も目立ちます。

 この『三右衛門の罪』に対する批判もそうです。「心理描写があってただそれだけで失敗作」なんて読書メーターに書いても笑われそうな事を全集ではありませんが、別のところで書いています。

 しかしその心理状態こそが三右衛門そのままなのではないでしょうか。

 つまりそこで図星を突かれたとは「思いたくない」程度に公平であろうと努めて、おやっと首を傾げざるを得ない程度に偏った批判をしてしまうところがなかったでしょうか。

 評価というのは難しいもので、勤務評定なんて人間がやっている限り所詮は好き嫌いです。いくらきれいごとを言っても採用試験では顔で合否が決まることが実験で証明されています。経験で言ってもそうですね。例外というのはほぼないでしょう。好悪の感情なしに何かを評価するなんてことは本当に難しいわけです。これがごく普通の現実ですよ。

 そこを三右衛門は何とか踏ん張って正しく公平であろうとして、結果として自分自身に変なバイアスをかけて可笑しなことになってしまったわけです。つまりある意味では眼力が落ちているわけです。吉田精一も同じです。

 審判という行為の困難さが指摘されているということは理解できても、それを本当にリアルだ、とは思えていないのです。まさに今自分が多くの文学作品に接しながら、好悪の感情なしに冷徹にその本質を見抜くことの困難さに直面している筈なのに、歌合せの判から現在の文学賞にまで続く評価の難しさ、この問題を芥川は三右衛門を通して見事に描いた……とまでは吉田精一にはどうしても「思えない」わけです。

 それは何故か。

 つまり贔屓の引き倒しで提灯批評になってしまうと恥ずかしいという気持ちがどこかにあったからでしょう。それで自分自身に変なバイアスをかけてしまったのです。

 こうした評価エラーによって組織全体のパフォーマンスが落ち生産性が低下する恐れがあります。また家臣の間で評価への不信感が蓄積され、不満が募った結果、評価者との関係悪化や闇討ち率の上昇が引き起こされる可能性があります。

 吉田精一は治修式の「ぶった斬り批判」に陥ります。治修は「お前正直だからよし」「お前利口ぶるからダメ」とぶった斬ります。これ批評ではなく、好き嫌い批判ですよね。

 この『三右衛門の罪』では治修式と三右衛門式の判、そして数馬の三つの物事の受け止め方のスタイルが描かれていて、吉田精一は自らが暴君スタイル、治修式に陥っていることにさえ気が付いていません。(太宰治が数馬スタイルであることは仕方ないでしょう。)

 しかし書かれていることが読めさえすれば、そう簡単に失敗作の一つなどとは言えない筈です。「それ、ある意味身贔屓ですよね」と指摘してくださいと言っているようなものですから。

 少なくとも『三右衛門の罪』には判の難しさというテーマがあるなと気が付けば、そしてそれがリアルなテーマで、ブルシットジョブに従事されている皆さんの勤務評定から文芸批評迄を貫くものだと気が付けば、ただそれだけとは書けなかった筈です。

 判の難しさに向き合っていない評論家など所詮偽物でしょう。このテーマが生々しすぎて直視できなかったのだとしたら吉田精一にはそもそも何かを書く資格がないでしょう。

 私はこれを教科書に載せてもいい作品だと思いますね。「判」「評価」の難しさというテーマが現代にも通じていますから。
 そうじゃないですか?

 結論を言えばやはりシンプルに吉田精一には『三右衛門の罪』の構造やテーマが見えていなかったと断ずるよりほかはありません。

 勿論まだまだ続きがありますよ。明日は数馬のことを書こうかな。

[余談]

 富士と鷹が出て來るのに茄子が出てこない?

 


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