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芥川龍之介の『貴族』をどう読むか①

 貴族

 貴族或は貴族主義者が思ひ切つてうぬぼれられないのは、彼等も亦われら同様、厠に上る故なるべし。さもなければ何処の国でも、先祖は神々のやうな顔をするかも知れず。徳川時代の大諸侯は、参覲交代の途次旅宿へとまると、必ず大恭は砂づめの樽へ入れて、後へ残さぬやうに心がけた由。その話を聞かされたら、彼等もこの弱点には気づいてゐたと云ふ気がしたり。これをもつと上品に云へば、ニイチエが「何故人は神だと思はないかと云ふと、云々」の警句と同じになつてしまふだらう。(八月二十六日)

(芥川龍之介『貴族』)

※大恭……中国語で💩 

 これはあくまで貴族という題名だが、「何処の国でも、先祖は神々のやうな顔をするかも知れず」とは天子様に対する大変な皮肉である。そしてさらには「徳川時代の大諸侯は、参覲交代の途次旅宿へとまると、必ず大恭は砂づめの樽へ入れて、後へ残さぬやうに心がけた由」とは皇族にも同じような努力をせいという追い打ちである。最後に「何故人は神だと思はないかと云ふと、云々」は大恭をする以上付け上がらないことだと念押ししている。

 これほどストレートな皇室批判もなかろう。

 貴族主義者も大恭をするかどうかは私には解らない。それ以上の方のことはなおさらである。


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