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帆船はもう古い 芥川龍之介の『猿』をどう読むか⑥


 昨日は『猿』が直接読者に向けた語りかけではなく、軍艦に乗ったことがある聞き手が存在し、その相手に向けられた語りであるということを書いた。

 最初から分かっていたという人がいれば退屈な記事だったかもしれないが、おそらくそんな人はいないだろう。何故なら昨日の記事も誰一人読めていないからだ。『猿』が直接読者に向けた語りかけではなく、軍艦に乗ったことがある聞き手が存在し、その相手に向けられた語りであるとして、それが一体何の意味があるのかと考えている人しかいない。

 違うだろうか。そういう人は「天皇乳房理論」に埋もれて〇〇〇〇。

 私は、異常な興奮を感じました。体中の血が躍るやうな、何とも云ひやうのない、愉快な昂奮です。銃を手にして、待つてゐた猟師が、獲物の来るのを見た時のやうな心もちとでも、云ひませうか。私は、殆、夢中で、その男にとびかかりました。さうして、猟犬よりもすばやく、両手で、その男の肩をしつかり、上からおさへました。
「奈良島。」
 叱るとも、罵るともつかずに、かう云つた私の声は、妙に上ずつて、顫へてゐました。それが、実際、犯人の奈良島だつた事は云ふまでもありません。

(芥川龍之介『猿』)

 あの天才芥川が面白い比喩を使ってきた。猟師のような心持でいたのに、猟犬よりも素早く奈良島を押さえつけている。寿司職人のような心持でいたのに、サラダ軍艦のようにとびかかるようなものだ。語り手は興奮しているが書き手は冷静そのものだ。そのことで語り手の上ずって顫えている感じがより際立って感じられる。両手で肩を抑えれば両脇が空いている。相手が刃物を持っていればがら空きの腹も胸も突き刺し放題だ。

 隙がありすぎる。

 偽物の成功体験が既にもう役立たずになっている。

「………」
 奈良島は私の手をふり離すでもなく、上半身を積入口から出したまま、静に、私の顔を見上げました。「静に」と云つたのでは、云ひ足りません。ある丈の力を出しきつて、しかも静でなければならない「静に」です。余裕のない、せつぱつまつた、云はば半ば吹き折られた帆桁が、風のすぎた後で、僅に残つてゐる力をたよりに、元の位置に返らうとする、あの止むを得ない「静に」です。私は、無意識ながら予期してゐた抵抗がなかつたので、或不満に似た感情を抱きながら、しかもその為に、一層、いらいらした腹立たしさを感じながら、黙つて、その「静に」もたげた顔を見下しました。

(芥川龍之介『猿』)

 引退したスポーツ選手が大食い番組に出て、そのスポーツにちなんだ例えをするように、この語り手はわざわざ「半ば吹き折られた帆桁が」と言ってみる。しかしこの「半ば吹き折られた帆桁が」の「静に」の意味は届いているものだろうか。

 帆桁とは帆柱に横に渡したもので、……帆船の軍艦は十八世紀までの活躍したが……

 この語り手は海軍士官候補生として帆船による航海技術も研修したということか。しかも帆桁が折れるほどの嵐の中を帆船で訓練航行したのだろうか。

運用術参考書 軍港堂 1916年

 そして折れた帆桁が「僅に残つてゐる力をたよりに、元の位置に返らうとする」とはどういうことか。折れた帆桁に元の位置に返ろうとする力などあるものだろうか。
 これはいかに専門家比喩にしても際どく解りにくい、いわば「ピンとこない」比喩、無理な比喩なのではなかろうか。

 ここで「解る、よーく解る」と感心した人は自分に対する嘘つきである。奈良島の「静に」は簡単に「ああ、あれね」と解られてしまってはいけないのだ。芥川はここに日常のどこにでも転がっているものではない、いわば得体のしれない「静に」というものを創り出そうとしている。当たり前ではない「静に」なので、「解る、よーく解る」とはならない筈だ。つまり帆桁が折れるほどの嵐の中を帆船で訓練航行した人間などほとんどいまいという前提でこの比喩は選ばれている。

 例えばアラスカの雪原で白クマと食べるチキンラーメンは美味い、と言われて「解る、よーく解る」と感心した人はたいてい嘘つきだろう。

 私は、あんな顔を、二度と見た事はありません。悪魔でも、一目見たら、泣くかと思ふやうな顔なのです。かう云つても、実際、それを見ないあなたには、とても、想像がつきますまい。私は、あなたに、あの涙ぐんでゐる眼を、お話しする事は、出来るつもりです。あの急に不随意筋に変つたやうな口角の筋肉の痙攣も、或は、察して頂く事が出来るかも知れません。それから、あの汗ばんだ、色の悪い顔も、それだけなら、容易に、説明が出来ませう。が、それらのすべてから来る、恐しい表情は、どんな小説家も、書く事は出来ません。私は、小説をお書きになるあなたの前でも、安心して、これだけの事は、云ひきれます。私はその表情が、私の心にある何物かを、稲妻のやうに、たゝき壊したのを感じました。それ程、この信号兵の顔が、私に、強いシヨツクを与へたのです。

(芥川龍之介『猿』)

 奈良島はとても想像のつかない顔をしていたのだ。悪魔が泣き出すほどの恐ろしい顔とはどんなものか。

 いや、こんなものではなかろう。

  これも違う。

 これも違う。
 こんなものでは悪魔は泣きださないだろう。

新聞集成明治編年史 第一卷

 若い頃の大久保利通くらいの迫力はあっただろうか。この頃の大久保利通にカツアゲされたら財布ごと渡して逃げるだろう。どう考えても顔が変わり過ぎである。

 とにかく「私」は奈良島の顔にやられてしまう。「私はその表情が、私の心にある何物かを、稲妻のやうに、たゝき壊したのを感じました」とは完全にやられている。奈良島の顔はそれほど恐ろしいものでなければならず、あなたがこれまで見てきたどんな顔より恐ろしくなくてはいけないのだ。それは「どんな小説家も、書く事は出来ません」と言われてしまうほどのものなのだ。まさに「画にも書けない美しさ」と外側から表現するしかないものだと、「私」に言わせているが、書いているのは芥川なので、やはり芥川にも直接表現することができないくらい恐ろしい顔なのだ。

 それにしてもこうやすやすと挫かれた優越感はこれから、どのようにしてさらに叩き潰されていくのだろうか、そしてここで犯人と呼ばれている奈良島にはどのような事情があってこんなことなったのだろうか。それはまた誰にも解らない。
 なぜならここまでしか読んでいないからだ。


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[余談]

 私の本を買わない人は、医者から止められているの?

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