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芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか⑨ あっちと繋がっていたとは 

買わない客もいる

 鍛冶の親子は互にしっかり抱き合いながら、まだ土の上に蹲って居りましたが、沙門の法力の恐ろしさには、魂も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の幢を仰ぎますと、二人とも殊勝げな両手を合せて、わなわな震えながら、礼拝いたしました。と思うとつづいて二三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠を脱いだり、烏帽子を直したりして、画像を拝んだものが居ったようでございます。ただ私は何となく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔界の風に染んでいるような、忌しい気が致しましたから、鍛冶が正気に還ったのを潮に、怱々その場を立ち去ってしまいました。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 どんなに優秀なデモンストレーションが行われようと絶対買わない冷やかしの客と云うものはいる。そもそもこの名もなき語り手は、『地獄変』の時からずっと近代的自我さえ持たないただの傍観者だった。ただ観察して語ることに徹して、その場にいながら自らは当事者であることを避けるかのように言葉を発しない。

 自分の考えは述べるものの、自分の姿かたちは語らない。何を食うているのか、そもそも財布を持っているのかさえ明らかではない。商売人の立場から見れば素見(すけん)である。

 しかしそもそもこの話者はこの沙門の「智羅永寿の眷属が、鳶の翼を法衣の下に隠しているのではないかと思うほど、怪しい姿に見うけられました」と最初から天狗扱いである。沙門のバイを「ふーん」している。


ずいぶん遠くまで確認したものだ

 後で人の話を承わりますと、この沙門の説教致しますのが、震旦から渡って参りました、あの摩利の教と申すものだそうで、摩利信乃法師と申します男も、この国の生れやら、乃至は唐土に人となったものやら、とんと確かなことはわからないと云う事でございました。中にはまた、震旦でも本朝でもない、天竺の涯から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨染の法衣が翼になって、八阪寺の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩利信乃法師の仕業には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。

(芥川龍之介『邪宗門』)


 

 宗教の定義はさまざまだが、

しゅう‐きょう【宗教】‥ケウ (religion)神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教、特定の民族が信仰する民族宗教、世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教など、多種多様。多くは教祖・経典・教義・典礼などを何らかの形でもつ。

広辞苑

しゅう-きょう ―ケウ [1] 【宗教】 (1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また,神仏の教え。 (2)〔religion〕 経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し,積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから,ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教,さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。

大辞林

しゅうきょう【宗教】シュウケウ⁑[1] 心の空洞を医(イヤ)すものとして、必要な時、常に頼れる絶対者を求める根源的・精神的な営み。また、その必要性を求めることの意義を説く教え。

新明解

 不思議なものを信じようとする心の働きだと考えてもいいのではなかろうか。つまり不思議であればあるほどよく、非合理的であればあるほど良い。異形であることも都合が良い。摩利信乃法師はわざと怪しげな自己演出をして宗教らしさを高めた。
 新明解と逆の言い方をすれば、宗教は中身が空洞でも成立する。話者が見たものは芝居かも知れず、噂は摩利信乃法師自身が流したものかもしれない。
 つまりこの時代に摩利の教が現れたのは単なる偶然ではなく、素朴な地蔵信仰には飽き足らぬ民衆がおり、邪な神仏を求めていたという理窟にはなるのだろう。百鬼夜行も融の左大臣の亡霊も当時の京の暗闇が生んだものではないかという考え方もあるにはある。しかし陰陽師が人々の幻覚だけを飯の種にしていたとは思えない。おそらく百鬼夜行としか言いようのない何かが現に存在したのだろう。

 摩利信乃法師はそんな時代の空気を利用したに過ぎない。

 しかし八坂寺が愛媛県の八坂神社であるならば、そんなところまで行って帰ってくるものを確認する方法があるわけもなく、その噂そのものは明らかな嘘であるどこかに話を大きくするのが好きな人がいることだけは間違いない。

そういうことはあるよね

と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師が、あの怪しげな陀羅尼の力で、瞬く暇に多くの病者を癒した事でございます。盲目いが見えましたり、跛えが立ちましたり、唖が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩わしいくらいでございますが、中でも一番名高かったのは、前の摂津守の悩んでいた人面瘡ででもございましょうか。これは甥を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す報いから、左の膝頭にその甥の顔をした、不思議な瘡かさが現われて、昼も夜も骨を刻るような業苦に悩んで居りましたが、あの沙門の加持を受けますと、見る間にその顔が気色を和らげて、やがて口とも覚しい所から「南無」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方もなく消え失せたと申すのでございます。元よりそのくらいでございますから、狐の憑きましたのも、天狗の憑きましたのも、あるいはまた、何とも名の知れない、妖魅鬼神の憑きましたのも、あの十文字の護符を頂きますと、まるで木の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 このクリームの名前何と言いましたか? はい「爽健!」覚えましたか。これ富士山の溶岩で作られたクリームで、来年の夏からマツモトキヨシで1200円で販売になります。
 これ触っても指は熱くないんです。ところが血の流れが悪いところに塗るとたちまち熱くなります。
 皆さんの中で肩が痛い、腰が痛い、静坐が出来ないって人いる? はい、静坐が出来ないよって人? ああ、結構いるね。これそういう人にいいの。

 それから涙目、五十肩にもいいの。この中で五十肩だよ、っていう人?
嘘つけ、おめえ八十肩だっべ。なら、お母さん肩が回らない? 回るのは腕。肩は回らないの。クリーム塗ってみたい? 塗る? 脱がなくていいぺよ。おらお母ちゃんのおっぱいみたくねえっぺよ。ちょっと肩出して見。ほら、こうして塗ると、だんだん熱くなったっぺ。これ血流が良くなったってこと。これで明日になると腕が回るようになるから。

 え? もう廻る。あら、みんな拍手。この「爽健!」まだ発売前ということで特別にメーカーさんに頼んで、でも1200円では、買え、ない。私はお金が、ない。

 そんなの顔見りゃわかるっべよ。で販売前ということで特別に限定50個、一個30000円で……高くなってる? 解ったよ、もう、しょうがない。特別に3000円で限定50個、先着でご用意させていただきます。拍手……。

 

家庭薬品講座 大阪三越薬品部 編纂三越大阪支店薬品部 1929年

 イエスキリストも似たようなことをした。民衆の心をとらえるには病人を治すのが手っ取り早く、しかもわかりやすい。さらに言えば、黎明期の心霊治療はプラセボ以上の効果を上げることが知られている。

 要するに健康になるお茶というものはあるかもしれない。しかしガンを治すお茶として販売してはいけない。それは現代の話。十文字の護符ではないにせよ、今でもお守りは正々堂々と売られている。陀羅尼の力と云ってもそれはただの言葉で、と割り切っている人には陀羅尼の効果はなかろう。

 しかし丹参仙を飲んで下肢静脈瘤がすっかりなくなったというお婆さんが現れると、丹参仙を飲めば糖尿病も治ると言われても信じてしまう。

 狐の憑き、天狗の憑き、妖魅鬼神の憑きの時代だからこそ、陀羅尼や加持や護符が効果を発揮するのだ。


ちゃんと気にしてみるものだ

 が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗したり、その信者を呵責したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥い血潮に変ったものもございますし、持ち田の稲を一夜の中に蝗が食ってしまったものもございますが、あの白朱社の巫女などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 

 この「白朱社の巫女」は『運』にも出てくる。

「死んだおふくろと申すのは、もと白朱社の巫子で、一しきりは大そう流行はやったものでございますが、狐を使うと云う噂を立てられてからは、めっきり人も来なくなってしまったようでございます。これがまた、白あばたの、年に似合わず水々しい、大がらな婆さんでございましてな、何さま、あの容子じゃ、狐どころか男でも……」
「おふくろの話よりは、その娘の話の方を伺いたいね。」

(芥川龍之介『運』)

 そういう意味では『邪宗門』は『地獄変』の続編であると同時に『運』の続編であると言ってもいいかもしれない。

「それから、とうとう八坂寺の塔の中へ、つれこまれて、その晩はそこですごしたそうでございます。――いや、その辺へんの事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい。」

(芥川龍之介『運』)

 あれ? 「八坂寺の塔」も出てくる。「八坂寺の塔」って松山じゃないのか。

故実叢書 中古京師内外地図(森幸安) 今泉定介 編吉川弘文館 1906年


故実叢書 中古京師内外地図(森幸安) 今泉定介 編吉川弘文館 1906年

 ということはつまり……。

 五重塔か。

 これはうっかりしていた。木曽義仲の首塚がこんなに近くにあるなんて。





[余談]

プリゴジンの業績を良く知っている科学者たち(中略)は、彼のことについては、ほとんど、あるいは全くよく言っていない。彼らは、プリゴジンを傲慢で権力志向だと非難する。彼らは、プリゴジンは、科学に対し具体的に何も貢献していない、と断ずるのだ。

(『科学の終焉』・ジョン・ホーガン著・p.315)

 こっちとは関係ないのか。

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