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小笹刈る深山のふもとの眺めかな 芥川龍之介の俳句をどう読むか93

僕もこの春は病院と警視庁と監獄との間を往来して暮らした

[大正十二年一月二十二日 松岡譲宛]

 この年なにがあったんだっけ?


一 好 数学、博物、物理、漢文
二 悪 国語、化学(全然実験をせざりし故也)
三 支那文学か英文学の学者になるつもりなりき
四 十中八九、友人に創作家ありし悪影響による

[大正十二年二月六日 成城中学校学友会文芸部宛]


アガ歌ヲヨシト見ルキミ口ヒビクカミラモハシト食ハセザラメヤ

コノ次ニ文タブベクハ三銭ノ切手ヲ中ニ入レタマヒソネ

[大正十二年三月五日 杉浦翠子宛]


   庭前

春の日や水に垂れたる竹の枝

   屋後

篠を刈る余寒の山の深さかな

   鄰の客

膀胱の病にこもるうららかな

   山径春寂寞

春風の篠に消えたる麓かな

   一日六回入浴

温泉(デユ)の壺底なめらかに日永かな

[大正十二年三月二十五日 室生犀星宛]


膀胱の病にこもるうららかな

 とりあえず本人のことでなくてよかった、という句である。しかし他人の膀胱のことを気にしている場合ではないぞという句である。これはいびきのうるさい老弁護士のことかと思うが、なぜ膀胱の病と知ったのか気になるところ。見た目ではわかるまい。そしてなぜそんなところにうららがこもっているのかもわからない句である。

 膀胱にうららがこもるという状況もよくわからないが、


篠を刈る余寒の山の深さかな

 これもわかったようでわからない句である。なぜ篠を刈るのか。燃料にする? 何かの材料? そもそも篠を刈るって大変じゃない? 竹取の翁?

 それに山深き所で篠を刈る姿が宿から見えたとして、山深き所にいるからこそ感じられる余寒は見えないよね? 温度なんだから。

 では芥川自身が山の深いところで篠を刈っていた? ますます何のために?

 まさに幽体離脱。


春風の篠に消えたる麓かな

 これもわからない。裸山でも篠が生えていても麓は麓。篠に消える麓というのが解らない。


平家物語 中編

 もしかして「しの」ではなくて、「ささ」なのか?

 彼が五六年前に別れたうけ唇の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、屡彼等の話題になつた。その上、どうかすると、彼等は甚、性質たちの悪い悪戯いたづらさへする。それを今一々、列記する事は出来ない。が、彼の篠枝(ささえ)の酒を飲んで、後へ尿を入れて置いたと云ふ事を書けば、その外は凡そ、想像される事だらうと思ふ。

(芥川龍之介『芋粥』)

 空には薄雲が重なり合つて、地平に近い樹々の上だけ、僅かにほの青い色を残してゐる。そのせゐか秋の木この間まの路は、まだ夕暮が来ない内に、砂も、石も、枯草も、しつとりと濡れてゐるらしい。いや、路の右左に枝をさしかはせた篠懸(すずかけ)にも、露に洗はれたやうな薄明りが、やはり黄色い葉の一枚毎ごとにかすかな陰影を交まじへながら、懶げに漂つてゐるのである。

(芥川龍之介『東洋の秋』)

 もしかして、

 屋後

篠を刈る余寒の山の深さかな

 山径春寂寞

春風の篠に消えたる麓かな

 これ順番が逆じゃないの。

春風の篠に消えたる麓かな

 これこそ近景と遠景の対比で、春風が吹く小笹に隠されて山のふもとが見えないことだよ、篠がよく茂っているね、という後で、

篠を刈る余寒の山の深さかな

 こう読まれていて、屋敷の裏で小笹が刈り取られて隠されていた山の深いところが表れた、なんとも余寒な感じのする眺めであることだなあ、じゃないのかな。

 つまり我鬼先生、わざと、わざと順番をあべこべにして、我々の論理的読解力を試していないだろうか。よく考えたら、「屋後」とあるので刈られているのは屋敷の後ろの篠、そりゃわざわざ山奥まで行って篠は刈らないけれど、屋敷の後ろの増えすぎた篠は刈るんだろう。

 まあ、こんなことをいう人間がいないと、この二つの句はなんだかわからない句のままだったと思う。この解釈を論理的に否定してもらって全然かまわないけれど、なによりもまず観賞しようよ。

 すべてはそこからだ。


なんでや?

舟名物名38 67-415 1200501281901 f-7 77 6 8〓9 S〓3 2 1 20 6 8〓9 (

67-415平家物語中編卷第五都遷治本四年六月三日の日福原へ御幸なるべしと聞ゆ。この日頃都遷有る可しと聞えしかども、今明の程とは思はざりしものをとて、京中の上下騒ぎ合へり。忽に三日と定められたりしかども、剩へ今一日引き上げられて二日に成りぬ。二日の卯の尅に、行幸の御輿を寄せたりければ、主上は今年三歲、未だ、幼うましましければ、何心もなうぞ召されける。主上少う渡らせ給ふ時の御同興には、母后こそ參らせ給ふに、是はその儀なし。御乳母帥の亮殿計りこそ、一つ御輿には參られけれ。中宮·一院·上皇も御幸なる。攝政殿を始め奉つて、太政大臣巳下の卿相雲客、我も〓〓と供奉せらる。平家には太政の入道を始め參らせて、一門の人々皆參られけり。明くる三日の日、福原へ入らせ坐します。入道相國の弟池の中納言賴盛の卿の山莊、皇居になる。同四5.5日の日、賴盛家の賞とて正二位し給ふ。九條殿の御子、右大將良通の卿、加階越えられさせ給ひ一つ御輿には參られけれ。我も〓〓と供奉せらる。明くる三日の日、福原へ入らせ坐します。5.5賴盛家の賞とて正二位し給ふ。同四日の日、九條殿の御子、都遷一
平家物語中編二やう〓〓けり。攝錄の御子息、凡人の次男に加階越えられさせ給ふ事、是れ始とぞ承る。入道相國、漸思ひ直つて、法皇をば鳥羽の北殿を出し參らせて、都へ還御なし奉られたりしが、高倉の宮の御謀え叛に依つて大に憤り、又福原へ御幸成し奉り、四面に端板して、口一つ開きたる內に、三間の板屋を作つて、押し籠め奉る。守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ひける。容易う人の參いま〓〓り通ふべき樣も無ければ、童部などは、籠の御所とぞ申しける。聞くも忌々しうあさましかりし事共也。法皇今は世の政を知し召さばやとは、露も思し召しよらず、只山々寺々修行して、御心の儘に慰まばやとぞ仰せける。平家の惡行に於いては、悉く極りぬ。去んぬる安元より以來、多くの大臣公卿、或は流し或は失ひ、關白流し奉つて、我聟を關白になし、法皇を城南の離宮に押し籠め奉り、剩へ第二の皇子高倉の宮討ち奉つて、今殘る所の都遷なれば、斯樣にし給ふにやとぞ人申しける。都遷は是先蹤なきに非ず。て神武天皇と申すは、地神五代の帝、彥波激武鸕鵝草葺不合尊第四の皇子、御母は玉依姫、海人はら)の娘也。神の代十二代の跡を受け、人代百王の帝祖也。辛の酉の歲、日向の國宮崎の郡にして、〓に皇王の寶祚を繼ぎ、五十九年と云ひし己の未の歲十月に東征して、豐葦原中津國に留まり、この比大和の國と名付けたる畝傍の山を點じて、帝都を建て、橿原の地を切拂つて、宮室を作り給へり。是を橿原の宮と名付けたり。それより以來、代々の帝王、都を他國他所へ遷さるゝ事三十こほりく〓度に餘り、四十度に及べり。神武天皇より景行天皇迄十二代は、大和の國郡々に都を立て、他國へは終に遷されず。然るを成務天皇元年に、近江の國に遷つて、志賀の郡に都を立つ。仲哀天皇二年に、長門の國に遷つて、豐浦の郡に都を立つ。その國彼の都にして、御門隱れさせ給ひしかば、后神功皇后御世を請取らせ給ひ、女帝として、鬼界·高麗·契丹迄攻め從へさせ給ひけり。〓異國の軍を靜めさせ給ひて、歸朝の後、筑前の國三笠の郡にして皇子御誕生、軈てその所をば產の宮とぞ申しける。掛けまくも忝く、八幡の御事是なり。位に卽かせ給ひては、應神天皇とぞ申しける。その後神功皇后は、大和の國に遷つて、磐余稚櫻の宮におはします。應神天皇は、同じなんばき國輕島明の宮に栖ませ給ふ。仁德天皇元年に、攝津の國難波に遷つて、高津の宮におはします。tain履中天皇二年に、又大和の國に遷つて、十市の郡に都を立つ。反正天皇元年に、河內の國に遷つて、柴籬の宮に栖ませ給ふ。允恭天皇四十二年に、又大和の國に遷つて、飛鳥の飛鳥の宮におはします。雄略天皇廿一年に、同じき國泊瀨朝倉に宮居し給ふ。繼體天皇五年に、山城の國綴喜に遷つい〇〇て十二年、その後乙訓に宮居し給ふ。宣化天皇元年に、又大和の國に遷つて、檜隈の入野の宮に五六七栖ませ給ふ。孝德天皇大化元年に、攝津の國長柄に遷つて、豐崎の宮におはします。齊明天皇二都遷三
都平家物語中編遷五
平家物語中編六年に、又大和の國に遷つて、岡本の宮に栖ませ給ふ。天智天皇六年に、近江の國に遷つて、大津まの宮におはします。天武天皇元年に、猶大和の國に歸つて、岡本の南の宮に栖ませ給ふ。是を淨はら見原の御門と申しき。持統文武二代の聖朝は、藤原の宮におはします。元明天皇より光仁天皇迄七代は、奈良の都に栖ませ給ふ。然るを桓武天皇の御宇、延曆三年十月三日の日、奈良の京春日の里より、山城の國長岡に遷つて、十年と云ひし正月に、大納言藤原の小黑丸、參議左大辨紀の5た古作美、大僧都玄慶等を遣はして、當國葛野の郡宇多の村を見せらるゝに、兩人共に奏して曰く、ていごげんむ「この地の體を見候ふに、左靑龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相應の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」と申す。是に依つて、愛宕の郡におはします賀茂の大明神に、この由を告げ申させ給ひて、延曆十三年十一月廿一日、長岡の京よりこの京へ遷されて、帝王は三十二代、星霜はこのかた三百八十餘歲の春秋を送り迎ふ。それより以來代々の御門、國々所々へ多くの都を遷されしかども、此の如きの勝地は無しと、桓武天皇特に執し思し召して、大臣公卿諸國の才人等に仰せて、長久なるべき相とて、土にて八尺の人形を作り、鐵の鎧甲を著せ、同じう鐵の弓矢を持たせて、末代と云ふとも、この京を他國へ遷す事あらば、守護神とならんと誓ひつゝ、東山の峯に、53西向きに立てゝぞ埋まれける。されば天下に事出で來んとては、この塚必ず鳴動す。將軍が塚とへいあんじやうて今に有り。就中この京をば、平安城と名付けて、平ら安き城と書けり。尤も平家の崇むべき都bぞかし。桓武天皇と申すは、平家の曩祖にておはします。先祖の君のさしも執し思し召しつる都を、させる故なうして、他國他所へ遷されけるこそあさましけれ。一年嵯峨の皇帝の御時、平城の先帝、尙侍の勸めに依つて、旣に此の京を他國へ遷さんとせさせ給ひしかども、大臣公卿諸國の人民背き申ししかば、遷されずして止みにき。一天の君萬乘の主さへ遷し得給はぬ都を、入道相國、人臣の身として、遷されけるぞあさましき。舊都は哀れ目出たかりつる都ぞかし。王城やはいらかなら守護の鎭守は、四方に光を和らげ、靈驗殊勝の寺々は、上下に甍を雙べたり。百姓萬民煩なく、五畿七道も便あり。されども今は辻々を掘り切つて、車などの容易う行きかふ事もなく、邂逅に行iteく人は、小車に乘り、道を經てこそ通りけれ。軒を爭ひし人の栖居、日を經つゝ荒れ行く。家々は、加茂川桂河に毀ち入れ、筏に組み浮べ、資財雜具舟に積み、福原へとて運び下す。唯成りに花の都、田舎になるこそ悲しけれ。何者の所爲にや有りけん、舊き都の內裏の柱に、二首の歌をぞ書付けける。天主堂百年を四囘り迄に過ぎ來にし、愛宕の里の荒れや果てなん咲き出づる花の都を振り捨てゝ、風ふく原の末ぞあやふき都遷七
平家物語中編八新都ことはじめじつてい同六月九日の日、新都の事始有るべしとて、上卿には德大寺の左大將實定の卿、土御門の宰相ゆきたかの中將通親の卿、奉行の辨には前の左少辨行隆、多くの官人共召具して、當國和田の松原、西の野を點じて、九條の地を割られけるに、一條より下、五條まではその所ありて、それより下は無순으かりけり。行事官歸り參つて、この由を奏聞す。さらば播磨の印南野か、猶攝津の國昆陽野かなんど、公卿僉議有りしかども、事行くべしとも見えざりけり。舊都は旣にうかれぬ。新都は未だと事行かず。有りとし有る人は、皆身を浮雲の思をなし、本この所に栖む者は、地を失つて愁へ、すべ今遷る人々は、土木の煩をのみ歎きあへり。都て只夢の樣なつし事共也。土御門の宰相の中將通〓親の卿の申されけるは、「異國には三條の廣路を開いて、十二の洞門を立つと見えたり。況んや五かつ〓〓條迄有らん都に、などか內裏を立てざるべき、且々先づ里内裏を造らるべし」と、公卿僉議有つて、五條の大納言國綱の卿、臨時に周防の國を賜つて、造進せらるべき由、入道相國計ひ申されたしまけり。この國綱の卿と申すは、雙なき大福長者にておはしければ、內裏作り出だされん事、左右に及ばねども、如何んが國の費、民の煩無かるべき。誠に指し當つたる天下の大事、大嘗會な壱七番ざうだいりどの行はるべきを閣いて、かゝる世の亂れに、遷都·造内裏、少しも相應せず。古の賢き御代にかやは、則ち内裏に茨を葺き、軒をだにも調へず。煙の乏しきを見給ふ時には、限り有る御貢物をもそしやうくわ許されき。これ則ち民を惠み國を輔け給ふに依つて也。楚、章華の臺を立てゝ黎民索け、秦、阿でんまさあや房の殿を起いては天下亂ると云へり。茅茨剪らず、采椽削らず、舟車飾らず、衣服文無かりける世も有りけんものを。されば唐の太宗の、驪山宮を作つて、民の費をや憚らせ給ひけん、遂に臨お幸なくして、瓦に松生ひ、垣に蔦茂つて、止みにけるには、相違かなとぞ、人申しける。月見六月九日の日新都の事始、八月十日の日上棟、十一月十三日遷幸と定めらる。舊き都は荒れ行やう〓〓なかばけど、今の都は繁昌す。あさましかりつる夏も暮れて、秋にも旣に成りにけり。秋も漸半に成り行けば、福原の新都にまし〓〓ける人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大將の、昔の跡をせ五忍びつゝ、須磨より明石の浦傳ひ、淡路の灘を押渡り、繪島が磯の月を見る。或は白浦·吹上·たかさご·500、和歌の浦·住吉·難波·高砂·尾上の月の曙を、詠めて歸る人も有り。舊都に殘る人々は、伏見·廣澤の月を見る。中にも德大寺の左大將實定の卿は、舊き都の月を戀ひつゝ、八月十日餘り月見九
平家物平家物語中編一〇深くして、庭上露滋し。deに、福原よりぞ上り給ふ。何事も皆換果てゝ、稀に殘る家は、門前草蓬がを柚、淺茅が原、鳥の臥所と荒れ果てゝ、蟲の聲聲怨みつゝ、黄菊紫蘭の野邊とぞ成りにける。今故〓の名殘とては、近衞河原の大宮計りぞまし〓〓ける。大將、その御所へ參り、先づ隨身を以て惣門を扣かせらるれば、內より女の聲にて、「誰そや、蓬生の露打ち掃ふ人もなき所に」と咎む舊れば、「是は福原より大將殿の御上り候」と申す。「さ候らはゞ、惣門は鑰のさゝれて候ふぞ、東のつれ小門より入らせ給へ」と申しければ、大將さらばとて、東の小門よりぞ參られける。大宮は御徒然に、昔をや思し召し出でさせ給ひけん。南面の御格子開けさせ、御琵琶遊ばされける所へ、大將つと參られたれば、暫く御琵琶を閣せ給ひて、「夢かや現か、是へ〓〓」とぞ仰せける。源氏ばの宇治の卷には、優婆塞の宮の御娘、秋の名殘を惜みつゝ、琵琶を調べて、終宵心を澄し給ひしに、有明の月の出でけるを、猶堪へずや思しけん、撥にて招き給ひけんも、今こそ思し召し知られけれ。待宵の小侍從と申す女房も、この御所にぞ候はれける。抑この女房を待宵と召されける事は、時或時御前より、「待宵、歸る朝、何れか哀れは勝れる」と仰せければ、彼の女房、待宵の更け行く鐘の聲聞けば、歸る朝の鳥はものかは語中編一一月見
平家物語中編一二と申したりける故にこそ、待宵とは召されけれ。大將この女房を喚出でゝ、昔今の物語共し給ひて後、小夜も漸更け行けば、舊き都の荒れ行くを、今樣にこそ歌はれけれ、「舊き都を來て見れば、淺茅が原とぞ荒れにける、月の光は隈なくて、秋風のみぞ身には入む」と推返し推返し、三返うたひ澄されたりければ、大宮を始め奉つて、御所中の女房達、皆袖をぞ濡らされける。去程に夜も漸明け行けば、大將暇申しつゝ、福原へぞ歸られける。供に候ふ藏人を召して、「侍從が何と思ふやらん、餘りに名殘惜しげに見えつるに、汝歸つて兎も角も謂うて來よ」と宣へば、藏人走り歸り、畏まつて「是は大將殿の申せと候」とて、物かはと君が云ひけん鳥の音の、今朝しもなどか悲しかるらん女房とりあへず、待たばこそふけゆく鐘もつらからめ、歸る朝の鳥の音ぞうき藏人走り歸つて、この由申したりければ、「さてこそ汝をば遣したれ」とて、大將大に感ぜられけり。それよりしてこそ、物かはの藏人とは召されけれ。大將大に感ぜられけ物怪平家都を福原へ遷されて後は、夢見も惡しう、常は心噪ぎのみして、變化の者共多かりけり。或夜入道の臥し給ひたりける所に、一間にはゞかる程の者の面の出で來て、のぞき奉る。入道ちつとも騒がず、はつたと睨まへておはしければ、只消えに消え失せぬ。岡の御所と申すは、新しう作られたりければ、然るべき大木なんども無かりけるに、お好き或夜大木の倒るゝ音して、包装香人ならば놓晝二三千人が聲して、虛空に咄と笑ふ音しけり。如何樣にも、是は天狗の所爲といふ沙汰にて、PBB五十人、夜百人の番衆を揃へ、蟇目の番と名付けて、蟇目を射させられけるに、天狗の有る方へ向つて射たると思しき時は、音もせず。又無い方へ向つて射たる時は、咄と笑ひなんどしけり。又或朝入道相國帳臺より出でゝ、市大夫妻戶を押開き、坪の內を見給へば、死人の枯髑髏共が、幾らと5云ふ數を知らず、坪の內に滿ち〓〓て、上なるは下に成り、下なるは上に成り、中なるは端へ轉び出で、端なるは中へ轉び入り、轉び合ひ轉び除き、からめき合へり。入道相國、「人や有る〓〓」と召されけれども、折節人も參らず、斯して多くの髑體どもが、一つに固り合ひ、坪の內にはゞかる程に成つて、高さは十四五丈も有るらんと見るるのの如くに成りにけり。彼の一つの大頭に、生きたる人の目の樣に、大の眼が千萬出で來て、入道相國を吃と睨まへ、暫しはまたゝきもせず。入道些とも騒がず、丁ど睨まへて立たれたりければ、露霜などの日に當つて消ゆる樣に、跡方も物怪一三物
平家物語中編一四なく成りにけり。又入道相國、、一のの厩厩に立てて、舍人數多付けて、朝夕撫で飼はれける馬の尾るに、鼠一夜の中に巢をくひ、子をぞ產んだりける。「是只事にあらず、御占有るべし」とて、神祇官点だけにして御占あり。「重き御愼み」と占ひ申す。この馬は相模の國の住人、大庭の三郞景親が、東八箇國一の馬とて、入道大相國に參らせたりけるとかや。黑き馬の額の少し白かりければ、名をば望月とぞ謂はれける。陰陽の頭安倍の泰親賜つてげり。昔天智天皇の御宇に、寮の御馬の尾に、鼠一夜の中に巢をくひ、子を產んだりけるには、異國の凶賊蜂起したりとぞ、日本紀には見えたりける。らだ又源中納言雅賴の卿の許に、召し使はれける靑侍が見たりける夢も、怖しかりけり。喩へば、大だ內の神祇官と思しき所に、束帶正しき上薦の、數多寄り合ひ給ひて、議定の樣なる事の有りしに、末座なる上薦の、平家の方人し給ふと思しきを、その中よりして追つ立てらる。遙の座上に、氣高げなる御宿老のまし〓〓けるが、「この日來平家の預り奉る節刀をば召し返いて、伊豆の國の流人前の右兵衞の佐賴朝に賜ばうずるなり」と仰せければ、その傍に猶御宿老のまし〓〓けるが、「その後は吾が孫にも賜び候へ」とぞ仰せける。靑侍夢の中に、或老翁に次第に是を問ひ奉る。「末座なる上薦の、平家の方人し給ふと思しきは、嚴島の大明神、節刀を賴朝に賜ふと仰らるゝは、八幡大菩薩、その後吾が孫にも賜べと仰せけるは、春日の大明神、斯申す翁は武內の明神」物怪一五
平家物語中編一六と答へ給ふと云ふ夢を見て、覺めて後、人に是を語る程に、入道相國洩れ聞き給ひて、雅賴の卿の許へ使者を立てゝ、「それに夢見の靑侍の候ふなるを賜つて、委しう尋ね候はばや」と宣ひて、遣されたりければ、彼の夢見たりける靑侍、惡しかりなんとや思ひけん、軈て逐電してげり。その後雅て、賴の卿、入道相國の亭に行いて、「全くさる事候はず」と、陳じ申されたりければ、その後は沙汰心はcetも無かりけり。それに又何より不思議なりける事には、〓盛未だ安藝の守たりし時、神拜の次に、靈夢を蒙つて、嚴島の大明神より、現に賜はられたりける、銀の蛭卷したる小長刀、常の枕を放たず立てられたりしが、或夜俄に失せにけるこそ不思議なれ。平家日比は朝家の御堅めにて、天下を守護せしかども、今は勅命にも背きぬれば、節刀をも召し返さるるにや。心細くぞ聞えし。は大庭が早馬が早馬やう〓〓中にも、高野におはしける宰相入道成賴、この事どもを傳へ聞いて、「あははや平家の世は、漸は末に成りぬるは。嚴島の大明神の、平家の方人し給ふと云ふも、その謂れ有り。但この嚴島の大しやかつらぢよしん明神は、沙羯羅龍王の第三の姫宮なれば、女神とこそ承れ。八幡大菩薩の節刀を、賴朝に賜ふと仰せられつるも理なり。春日の大明神の、その後は吾が孫にも賜び候へと仰せられけるこそ心しよくくわん得ね。それも平家亡び源氏の世盡きなん後、大織冠の御末、執柄家の君達たちの、天下の將軍に成り給ふべきか」なんど宣ひける折節、或僧の來りけるが申しけるは、「夫れ神明は、和光垂跡のはうべんまち〓方便區々にましませば、或時は女神とも成り、又或時は俗體とも現じ給へり。誠にこの嚴島の大ら明神は、三明六通の靈神にてましませば、俗體と現じ給はん事も、難かるべきに非ずや」とぞ申しける。浮世を厭ひ眞の道に入り給へば、偏に後世菩提の外は、又他事有るまじき事なれども、浜善政を聞いては感じ、愁を聞いては歎く、是皆人間の習ひ也。程度去程に同九月二日の日、相模の國の住人、大庭の三郞景親、福原へ早馬を以て申しけるは、「去んぬる八月十七日、伊豆の國の流人前の右兵衞の佐賴朝、舅北條の四郞時政を語らうて、伊豆のま國の目代和泉の判官兼高を、屋牧が館にて夜討に討ち候ひぬ。その後土肥、土屋、岡崎を始とし一千餘騎を引率して押て三百餘騎、石橋山に楯籠つて候ふ所を、景親、御方に志を存ずる者共、さん〓〓おほわらは寄せて、散々に攻め候へば、兵衞の佐纔七八騎に打ち成され、大童に戰ひ成つて、土肥の杉山へ逃げ籠り候ひぬ。畠山五百餘騎で、御方を仕る。三浦の大介が子共、三百餘騎で源氏方をして、由井·小坪の浦で攻め戰ふ。畠山軍に負けて、武藏の國へ引き退く。その後畠山が一族、河越·か稻毛·小山田·江戶·葛西、惣じて七黨の兵共悉く起り合ひ、都合その勢二千餘騎、三浦衣笠の大庭が早馬一七
平家物語中編一八城に推寄せて、一日一夜攻め候ひし程に、大介討たれ候ひぬ。つて、安房上總へ渡りぬとこそ、人申しけれ。子どもは皆九里濱の浦より舟に乘やって、揃朝敵平家の人々、都遷の事も、早興醒めぬ。若き公卿殿上人は、「哀れ疾くして、事の出で來よかし。我先に討手に向はう」など云ふぞはかなき。畠山の庄司重能、小山田の別當有重、宇都の宮の左衞門朝綱、是等は大番役にて、折節在京したりけるが、畠山申しけるは、「親しう成つて候ふなれば、北條は知り候はず。自餘の輩は、よも朝敵の方人は仕り候はじ。只今聞し召し直さんずるものを」と申しければ、「實にも」と申す人も有り、「いや〓〓只今御大事に及び候ひなんず」と、叫く人々も有りけるとかや。入道相國の忿られけるさま斜ならず。「抑〓彼の賴朝は、去んぬる平あながち治元年十二月、父義朝が謀叛に依つて、旣に誅せらるべかりしを、故池の禪尼の强に歎き宣ふ間、流罪には有められたんなり。然るにその恩を忘れて、當家に向つて弓を引き、箭を放つにこかそあるなれ。その儀ならば、神明も三寶も、爭でか赦し給ふべき。只今天の責蒙らんずる賴朝かな」とぞ宣ひける。いはれひこのみこと抑〓我が朝に朝敵の始まりける事は、昔日本磐余彦尊の御宇四年、紀州名草の郡高雄の村に、一つの蜘蛛有り。身短く手足長くして、力人に勝れたり。人民多く損害せしかば、官軍發向して、かづら宣旨を讀みかけ、墓の網を結んで、終にこれを掩ひ殺す。それより以來野心を插んで、朝威を滅さんとする輩、大石の山丸·大山の皇子·山田の石河·守屋の大臣·蘇我の入鹿·大友の眞bぶんやtrue鳥な反労省電機の水平の創體-作選の部式太原原の底間の東名称移ゐがみのよ子一九十の長ミ,藤原白桃樣·平の將門-藤原の親ノを務め任の義親·惡左府·惡衞門の督に至る迄、その例旣に二十餘人、されども一人として、素懷を遂ぐわねくむげる者なし。皆骸を山野に曝し、首を獄門に懸けらる。この世こそ王位も無下に輕けれ、昔は宣旨を向つて讀みければ、枯れたる草木も忽に花咲き實なり、飛ぶ鳥も隨ひき。近比の事ぞかし、延しんせんゑん喜の御門神泉苑へ行幸成つて、池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召して、「あの鶯捕つて參れ」と仰せければ、如何が取らるべきとは思へども、綸言なれば步み向ふ。鷺羽づくろひして立たんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛び去らず。卽ち是を取つて參らせたりければ、「汝が宣旨に隨ひて參りたるこそ神妙なれ。軈て五位に成せ」とて、鷺を五位にぞ成されける。今日より後、鷺の中の王たるべしと云ふ御札を自ら遊ばいて、頸に付けてぞ放たせ給ふ。全く是は鷺の御料に朝敵揃一九
平家物語中編只王威の程を知し召さんが爲也。語二〇は非ず、咸陽宮又異國に先蹤をとぶらふに、燕の太子丹、秦の始皇帝に囚はれて、戒を蒙る事十二年、或時燕丹淚を流いて、「我れ故〓に老母有り、暇を賜つて今一度彼を見ん」とぞ歎きける。始皇帝あざtre笑つて、「汝に暇賜ばん事、馬に角生ひ、鳥の頭の白く成らんを待つべきなり」とぞ宣ひける。燕丹天に仰ぎ地に伏して、「願くは馬に角生ひ、烏の頭白く成したべ。本國へ還つて、今一度母を見一ん」とぞ祈りける。の妙音菩薩は、靈山淨土に詣して、不孝の輩を戒め、孔子顏囘は、支那雪旦に出でて、忠孝の道を始め給ふ。冥顯の三寶、孝行の志を憐み給ふ事なれば、馬に角生ひてart宮中にかり、烏の頭白く成つて庭前の木に栖めりけり。始皇帝鳥頭馬角の變に驚き、綸言返らざ交換る事を深う信じて、太子丹を宥めつゝ、本國へこそ返されけれ。始皇猶悔しみ給ひて、秦の國と燕の國の境に、楚國と云ふ國有り。大なる河流れたり。彼の河に渡せる橋を、楚國の橋と云へり。始皇先に官軍を遣して、燕丹が渡らん時、河中の橋を蹈まば、落つる樣に認めて、渡されたりければ、何かは好かるべき、眞中にて落入りぬ。されども水には些とも溺れず、平地を行くが如くにて、向の岸にぞ著きにける。燕丹こは如何にと思ひて、後を顧みたりければ、龜共が幾らといふ數を知らず、水の上に浮れ來て、甲を雙べてその上をぞ通しける。是も孝行の志を、冥顯の憐み給ふに依つて也。燕丹猶恨を含んで、始皇帝に隨はず。始皇官軍を遣はして、燕丹を滅さんとす。燕丹大きに恐れ慄いて、荊刺と云ふ兵を語らうて、大臣に成す。荊軻又田光先生と云ふ兵층を語らふに、先生中しけるは、「君はこの身が若う壯なつし事を知し召して、斯は憑み仰せらるゝか騏驥は千里を飛ぶと云へども、老いぬれば篤馬にも劣れり。この身は年老いて、如何にも叶ひ候ふまじ。詮ずる所、好き兵、を語らつてこそ參らせめ」と申しければ、荊刺、「穴賢、この事披露すな」と云ふ。先生聞いて、「この事漏れぬるものならば、我先づさきに疑はれなんず。人に〓疑はれぬるに過ぎたる恥こそ無けれ」とて、荊刺が門前なる李の木に頭を突き當てゝ、打ち碎い〓誌だよてぞ死にける。又樊於期と云ふ兵有り。是は秦の國の者なりしが、始皇の爲に、父伯叔兄弟亡されて、燕の國に逃げ籠りぬ。始皇四海に宣旨を成し下し、燕の指岡並に樊於期が育を持つて參りえらんずる者には、五百斤の金を與へん」と披露せらる。荊軻、樊於期が許に行いて、「我聞く、我が首五百斤の金に報ぜられたん也。汝が首我にかせ。取つて始皇帝に奉らん。悅んで数覽を經られSん時、劍を拔いて胸を刺さんは易かりなん」と云ひければ、樊於期跳り上り跳り上り、大息ついて咸陽宮二
平平家物語中編二二店申しけるは、「我父伯叔兄弟を、始皇帝に亡されて、夜晝これを思ふに、骨髓に徹つて忍び難し。誠に始皇帝討つべからんに於ては、我が首與へん事、塵芥よりも易し」とて、自ら首を切つてぞ上大在死にける。又秦舞陽と云ふ兵有り。是も秦の國の者なりしが、十三の年敵を討つて、燕の國へ逃又嗔つて向ふ時は、げ籠りぬ。彼が笑んで向ふ時は、稚子も抱かれ、大の男も絕入す。雙なき兵なり。荊刺彼を語つて、秦の都の案内者に具して行くに、或片山里に宿したりける夜、その邊近き里に管絃をするを聞いて、調子を以て本意の事を占ふに、「敵の方は水也、我が方は火也。白虹日を貫いて通らず、我が本意遂げん事、有り難し」とぞ申しける。去程に天も明けぬ。されども歸るべき道にあらねば、秦の都咸陽宮に到りぬ。燕の指圖並びに樊於期が首持つて參りたる由を奏聞す。臣下を以て請取らんとし給へば、「全く人傳には參らせじ。直に奉らん」と奏する間、さらばとて、節會の儀を調へて、燕の使を召されけり。咸陽宮は、都の廻一萬八千三百八十里に積二五五れり。內裏をは地より三里高く築上げて、その上にぞ立てられたる。長生殿有り、不老門有り、金眞珠の砂、一貫を以て日を作り、銀を以て月を作れり。瑠璃の砂、金の砂を布き充てり。四方にはPic Crist鐵の築地を、高さ四十丈に築上げて、殿の上にも同じう鐵の網をぞ張つたりける。是は冥途の壱山使を入れじと也。秋は田の面の順、春は越路へ歸るにも、飛行自在の障有りとて、築地には膓門家物語中編と名付て、鐵の門を開けてぞ通されける。その中に阿房殿とて、始皇の常に行幸成つて、政道行はせ給ふ殿有り。東西へ九町、南北へ五町、高さは三十六丈也。上をば瑠璃の瓦を以て葺き、下には金銀を瑩けり。大床の下には、五丈の幢を立てたれども、猶及ばぬ程也。荊刺は燕の指圖を持ち、秦舞陽は樊於期が首を持つて、珠の階を半許り登り上りけるが、餘りに内裏の夥しきを見て、秦舞陽わな〓〓と振ひければ、臣下是を奇んで、「刑人をば君の傍に置かず、君子は刑人に近づかず、近づけば則ち死を輕んずる道也」と云へり。荊軻立歸つて、「舞陽全く謀叛の心なし。や只田舎の陋しきにのみ習つて、かゝる皇居に馴れざるが故に、心迷惑す」と云ひければ、その時臣下皆靜まりぬ。仍つて王に近付き奉り、燕の指圖並に樊於期が首を見參に入るゝ處に、指圖の入つたる櫃の底に、氷の樣なる劍の有りけるを、始皇帝御覽じて、軈て込げんとし給へば、荊刺御袖を無手と控へ奉り、劍を胸に差し當てたり。今は斯とぞ見えたりける。數萬の軍旅は、庭上にCo袖を聯ぬと云へども、救はんとするに力なし。唯この君逆臣に犯されさせ給はん事をのみ、歎き悲み合へりけり。始皇帝、「我に暫時の暇を得させよ。后の琴の音を、今一度聞かん」と宣へば、荊刺暫しは犯しも奉らず。始皇帝は三千人の后を持ち給へり。その中に花陽夫人とて、雙なき琴の上手おはしき。凡この后の琴の音を聞けば、猛き武士の怒れる心も柔ぎ、飛ぶ鳥も地に落ち、咸陽宮二三
咸陽平家宮物語中編諸希二五二四
平家物語中編二六草木も搖ぐ計りなり。況んや今を限りの叡聞に備へんと、泣く〓〓彈き給へば、さこそは面白か〇九五たゆりけめ。荊刺首を低れ耳を側立てて、殆んど謀臣の心も緩みにけり。その時后始めて更に一曲を屏風は高くとも、ミ奏す。「七尺の躍らばなどか越えざらん。一條の羅穀は勁くとも、曳かばなどか絕〓えざらん」とぞ彈き給ふ。荊刺は是を聞き知らず。始皇帝は聞き知りて、御袖を引斷つて、七尺の屏風を躍り越え、銅の柱の陰へ、逃げ隱れさせ給ひけり。その時荊刺怒つて、劍を投げ懸け奉る。折節御前に番の醫師の候ひけるが、劍に藥の嚢を投げ合はせたり。劍、藥の嚢を懸けられなが좋ら、口六尺の銅の柱を、牛迄こそ截つたりけれ。荊刺又劍を持たざれば、續いても投げず。王立歸やつざきつて、御劍を召し寄せて、荊刺を八裂にこそし給ひけれ。秦舞陽も討たれぬ。軈て官軍を遣はして、燕丹をも亡ぼさる。蒼天有し給はねば、白虹日を貫いて通らず。秦の始皇は遁れて、燕丹終しきだいに亡びにけり。されば今の賴朝も、さこそはあらんずらめと、色代申す人々も有りけるとかや。文覺の强行然るに彼の賴朝は、去んぬる平治元年十二月、父左馬の頭義朝が謀叛に依つて、旣に誅せらるべかりしを、故池の禪尼の强に歎き宣ふに依つて、生年十四歲と申じゝ永曆元年三月二十日の文覺の强行二七
平家物語中編二八日、伊豆の北條蛭が小島へ流されて、二十餘年の春秋を送り迎ふ。年來も有ればこそ有りけめ、돈大正にもんがく今年如何なる心にて、謀叛をば起されけるぞと云ふに、高雄の文覺上人の、勸め申されけるに依しやうげんもちとほほどじゅつて也。抑〓この文覺と申すは、渡邊の遠藤左近の將監茂遠が子に、遠藤武者盛遠とて、一問だ院の衆也。然るを十九の年、道心發し髻切り、修行に出でんとしけるが、修行と云は、いかゆる程の大事やらん、ためいて見んとて、六月の日の草も馳がず照つたるに、或片山里の藪の中へはまひり、裸に成り、仰のけに臥す。虻ぞ、蚊ぞ、蜂蟻など云ふ毒蟲共が、身にひしと取り付いて、はたら刺し喰ひなどしけれども、些身をも動かさず。七日迄は起きも上らず、八日と云ふに起き上つて、「修行と云ふは是程の大事やらん」と、人に問へば、「それ程ならんには、爭でか命も生くべき」あんべいと云ふ間、「さては安平ござんなれ」とて、軈て修行にこそ出でにけれ。熊野へ參り、那智籠せんぎやうとしけるが、先づ行の試みに、聞ゆる瀧に暫くうたれて見んとて、瀧本へこそ參りけれ。比は十二月十日餘りの事なれば、雪降り積り、つらゝいて、谷の小川も音もせず。峯の嵐吹き凍り、瀧のほ白絲垂氷と成つて、皆白妙に押並て、四方の梢も見え分かず。然るに文覺瀧壺に下りひたり、頸ぎはつかぶis際漬つて、慈救の咒を滿てけるが、二三日こそありけれ、四五日にも成りしかば、文覺堪へずしなじて、浮き上りぬ。數千丈漲り落つる瀧なれは、何かは堪るべき、さつと推落され、刀の刄の如くに、さしも緊しき岩角の中を、きび浮きぬ沈みぬ、五六町こそ流れけれ。時に嚴しき童子一人來て、たぢやうごふ定業ならぬ文覺が手を把つて引き上げ給ふ。人奇特の思を成して、火を燒き炒りなどしければ、いきだ産だしおんじやう命ではあり、文覺程なく息出でぬ。大の眼を見噴かし、大音畳を揚げて、「我此の瀧に三七日うたれらくしや未だ七日だにも過ぎざるて、慈救の三洛又を滿てうと思ふ大願有り。今日は僅五日にこそなれ、虎又瀧壺に歸り立に、何者が是までに抱つて来れるぞと云ひければ、開く人、身の毛つてぞ打たれける。第二日と申すに、八人の童子來て、文覺が左右の手を把つて、引き上げんとし給へば、散々に抓み合うて揚らず。第三日と申すに、終にはかなく成りぬ。時に瀧壺を穢さじとや、あたゝか文覺が頂上よに香しき御手を以て、鬟結うたる天童二人、瀧の上より降トらせ給ひて、よに煖たなうらなづくだり始めて、手足の爪さき蹯に至る迄、撫下させ給へば、文覺夢の心地して息出でぬ。「抑ミ如何なる人にてましませば、斯は憐み給ふやらん」と問ひ奉れば、童子答へて曰く、「我は是大聖不動せいたちんたぎやう行いて明王の御使に、金迦羅、制多伽と云ふ二童子也。文覺無上の願を發し、勇猛の行を企つ。いからか力を併せよと、明王の勅に依つて、來れる也」とぞ答へ給ふ。文覺聲を嗔いて、「さて明王は何あが35くにましますぞ」「都率大に」と答へて、雲井遙に上り給ひぬ。文覺掌を合せて、「さては我が行いよ〓〓をば、大聖不動明王迄も知し召されたるにこそ」と、彌〓賴もしう思ひ、猶瀧壺に歸り立つてぞ文覺の强行二九
平家物語中編三〇打たれける。その後は誠に目出度き瑞相共多かりければ、吹き來る風も身に入まず、落ち來る水か、も湯の如し。斯て三七日の大願終に遂げしかば、那智に千日籠りけり。大峯三度、葛城二度、高た賢、粉川、金峯山、白山、立山、富士の嶽、伊豆、箱根、信濃の戶隱、出羽の羽黑、惣じて日本ほ國殘る所なう行ひ廻り、流石猶故〓や戀しかりけん、都へ歸り上りたりければ、凡そ飛ぶ鳥をも祈り落す程の、刄の驗者とぞ聞えし。三〇勸進帳〓その後文覺は、高雄と云ふ山の奥に、行ひ澄してぞ居たりける。彼の高雄に神護寺と云ふ山寺あり。是は昔稱德天皇の御時、和氣の〓麿が建てたりし伽藍也。久しく修造無かりしかば、春は霞に立籠めて、秋は霧に交り、扉は風に倒れて、落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵されて、佛壇更に露也。住持の僧も無ければ、稀に差し入るものとては、唯月日の光計り也文覺如何にもして、飲みたこの寺を修造せんと思ふ大願發し、勸進帳を捧げて、十方檀那を勸めありく程に、或時院の御所法住寺殿へぞ參じたる。御奉加有るべき由を奏聞す。御遊の折節にて、聞し召しも入れざりければ、文覺は本より不敵第一の荒聖ではあり、御前の事なき樣をば知らずして、唯人の申し入れだいおんじやうぬぞと心得て、是非なく御坪の内へ破り入り、大〓聲を揚いて、「大慈大悲の君にてまします。是程の事などか聞し召し入れざるべき」とて、勸進帳を引きひろげて、高らかにこそ讀うだりけれ。上大「沙彌文覺敬つて白す。殊には貴賤道俗の助成を蒙つて、高雄山の靈地に一院を建立し、二ぎ世安樂の大利を勤行せんと請ふ勸進の狀。夫れ以れば、眞如廣大なり。生·佛の假名を立つとこ雖も、法性隨妄の雲厚く覆つて、十二因緣の峯に靉靆きしより以來、本有心蓮の月の光幽かにしちまたみやう〓て、未だ三毒四曼の大虛に顯はれず。悲しい哉、佛日早く沒して、生死流轉の衢冥々たり。只色に耽り酒に耽る、誰か狂象跳猿の迷を謝せん。徒に人を謗じ法を謗ず、是豈間羅獄卒の責を免れたま〓〓んや。爰に文覺適俗塵を擺 つて、法衣を飾ると雖も、惡行猶心に逞しうして日夜に作り、善ki苗又耳に逆つて朝暮に廢る。痛ましい哉、再び三途の火坑に歸つて、長く四生の苦輪を廻らん事tだを。是の故に卒尼の顯章千萬軸、軸々に佛種の因を明し、隨緣至誠の法、一つとして菩提の彼岸に到らずと云ふこと無し。故に文覺無常の觀門に淚を落し、上下の眞俗を勸めて、上品蓮臺に緣らを結び、等妙覺王の靈場を建てんと也。夫れ高雄は山堆うして、鷲峯山の梢を表し、谷閑にして唇商山洞の苔を舗けり。岩泉咽んで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人里遠くして囂塵無し。咫尺好うして信心のみ有り。地形勝れたり、尤佛天を崇むべし。奉加少しきなり、誰か助成せざらん。勸進帳三
平家物語中編三二風に聞く、聚沙爲佛塔、功德忽に佛因を感ず。況んや一紙半錢の寶財に於てをや。願くは建立成就して、禁闕鳳曆、御願圓滿、乃至都鄙遠近、里民緇素、堯舜無爲の化を歌ひ、椿葉再會の笑をニ披かん。特には又聖靈幽儀、前後大小、速に一佛眞門の臺に至り、必ず三身萬德の月を翫ばん。仍つて勸進修行の趣、蓋し以て斯くの如し。治承三年三月日、文覺」とこそ讀み上げたれ。文文覺被流中に折節御前には、妙音院の太政の大臣殿、御琵琶遊ばし、朗詠めでたうせさせおはします。按察ふの大納言資方の卿、和琴搔鳴し、子息右馬の頭資時、風俗催馬樂歌はる。四位の侍從盛定、拍子つとつて、今樣とり〓〓歌はれけり。院中ざゝめき渡つて、誠に面白かりければ、法皇も付歌せさせおはします。それに文覺が大音聲出で來て、調子も違ひ、拍手も皆亂れにけり。「御遊の折節であるに、何者ぞ、狼藉なり。そ頸突け」と仰せ下さるゝ程こそありけれ、院中の早男の者共、我先にと進み出でける中に、資行判官と云ふ者進み出でて、「御遊の折節であるに、何者ぞ、狼藉也。とう〓〓罷り出でよ」と云ひければ、文覺、「高雄の神護寺へ庄を一所寄せられざらん限りは、全はたく出づまじ」とて動らかず。寄つてそ頸を突かうとすれば、勸進帳を取直し、資行判官が烏帽子覺〓を、はたと打つて打落し、拳を强く握り、胸をはたと突いて、後へのけに突倒す。資行判官は、コ ハ烏帽子打落されて、おめ〓〓と大床の上へぞ逃げ上る。その後文覺懷より、馬の尾で柄卷いたりける刀の、氷の樣なるを拔き持つて、寄り來ん者を突かうとこそ待ち懸けたれ。左の手には勸進帳、右の手には刀を持つて馳せ廻る間、思ひも儲けぬ俄事ではあり、左右の手に刀を持つたる様にぞ見えたりける。公卿も殿上人も、こは如何にと騷がれて、御遊も旣に荒れにけり。院中の奮騷動斜ならず。爰に信濃の國の住人、安藤武者右宗、その時當職の武者所にてありけるが、「何事ぞ」とて、太刀を拔いて走り出でたり。文覺悅んで飛んで懸る。安藤武者、斬つては惡しかりなひるんとや思ひけん、太刀のむねを取直し、文覺が刀持つたる右の肘を健に打つ。撲たれて些と疼む處に、えたりや、をうと、太刀を捨ててぞ組んだりける。文覺下に臥しながら、安藤武者が右の肘を健に突く。突かれながらぞ縮めたりける。互に劣らぬ大力、上に成り下に成り、轉び合落ちちひける所を、上下寄つて、賢顏に、文覺が動く所のぢやうを拷してげり。その後門外へ引き出でて、廳の下部にたぶ。賜はつて引張る。引張られて立ちながら、御所の方を睨まへ、大音聲を揚げて、「縱ひ奉加をこそし給はざらめ。剩へ文覺に是程まで辛き目を見せ給ひつれば、唯今思ひ知;)らせ申さんずるものを。三界は皆火宅也。王宮と云ふとも、争でかその難をば遁るべき。縱ひ十文覺被流三三
平家物語中編三四善の帝位に誇つたうと云ふとも、黃泉の旅に出でなん後は、牛頭馬頭の責をば、免れ給はじものを」と、躍り上り躍り上りぞ申しける。「この法師奇怪なり、禁獄せよ」とて、禁獄せらる。資行しばし判官は、烏帽子打落されたる恥がましさに、暫は出仕もせざりけり。安藤武者は、文覺組んだる55勸賞に、薦を經ずして、當座に右馬の允にぞ成されける。その比、美福門院隱れさせ給ひて、ら大赦有りしかば、文覺程なく赦されけり。暫くは何くにても行ふべかりしを、又勸進帳を捧げて十方檀那を勸め步きけるが、さらば只も無くして、「哀れこの世の中は、唯今亂れて、君も臣も共に亡び失せんずるものを」など、斯樣に怖ろしき事をのみ申しありく間、「この法師都に置いてはかなむんる叶ふまじ、遠流せよ」とて、伊豆の國へぞ流されける。源三位入道の嫡子、伊豆の守仲綱、その時の當職にてある間、その沙汰として、東海道より船ゐはうべんにて下さるべしとて、伊豆の國へ將て罷るに、放免兩三人をぞ付けられたる。是等が申しけるは、おやつk.おのづかえ몸「廳の下部の習ひ、斯樣の事に付いてこそ、自らの依怙も候へ。如何に聖の御房は、知人は持さんらうれうち給はぬか。遠國へ流され給ふに、土產根料如きの物をも乞ひ給へかし」と云ひければ、文覺はふみ「左様の要事言ふべき得意はなし。さりながら、東山の邊にこそ得意はあれ。いでさらば文を遣けらう」と云ひければ、怪しかる紙を得させたり。文覺大に怒つて、「斯樣の紙に物書くやうなし」とて、投返す。さらばとて、厚紙を尋ねて得させたり。文覺笑つて、「この法師は、物をえ書かぬやうぞ、己等書け」とて書かする樣、「文覺こそ、高雄の神護寺造立供養の爲に、勸進帳を捧げて、十方檀那を勸めありきけるが、かゝる君の世にしも逢うて、奉加をこそし給はざらめ、剩へ遠流せられて、伊豆の國へ罷り候。遠路の間で候へば、土產粮料如きの物も大切に候。この使にたべ」と云ふ。いふ儘に書いて、「さて誰殿へと書き候ふべきやらん」「〓水の觀音坊へと書け」と云ふ。「それは廳の下部を、欺くにこそ」と云ひければ、「一向欺くには非ず。さりとては文覺は、〓水の觀音をこそ、深う憑み奉つたれ。さらでは誰にかは用事をも云ふべき」とぞ申しける。去程に伊勢の國阿濃の津より、舟にて下りけるが、遠江の國天龍灘にて、俄に大風吹き大波立つて、旣すゐしゆかんどりにこの舟を打返さんとす。水手楫取共、如何にもして助からんとしけれども、叶ふべしとも見えざりければ、或は觀音の名號を唱へ、或は最後の十念に及ぶ。されども文覺は些も騷がず、船底いびきふなばたに高鼾かいてぞ臥したりける。旣に斯と見えし時、かつぱと起き上り、船舶に立つて、沖の方を노는睨まへ、大音聲を揚げて、「龍王やある龍王やある」とぞ喚うだりける。「何とて斯樣に、大願興しあやまたる聖が乘つたる船をば、過たうとはするぞ。唯今天の責蒙らんずる龍神共かな」とぞ云ひける。その故にや、波風程なく靜まりて、伊豆の國にぞ著きにける。文覺京を出でける日よりして、心文覺被流三五
平家物語中編三六の中に祈誓する事ありけり。「我れ都に歸つて、高雄の神護寺造立供養すべくんば、死ぬべからず。この願空しかるべくんば、道にて死ぬべし」とて、京より伊豆へ著きける迄、折節順風無かりければ、浦傳島傳して、三十一日が間は、一向斷食にてぞありける。されども氣力少しも劣へず、船底に行ひうちしてぞ居たりける。誠に唯人とも覺えぬ事共多かりけり。三六伊豆院宣その後文覺をば、當國の住人近藤四郞國高に仰せて、奈古屋が奥にぞ栖まはせける。去程に兵衞の佐殿おはしける蛭の小島も程近し。文覺常は參り、御物語ども申しけるとぞ聞えし。ある時co文覺、兵衞の佐殿に申しけるは、「平家には小松のハ臣殿こそ、心も剛に策も勝れておはせしか。平家の運命の末に成るやらん、去年の八月薨ぜられぬ。今は源平の中に、御邊程天下の將軍の相持ちたる人はなし。早々謀叛起させ給ひて、日本國隨へ給へ」と云ひければ、兵衞の佐殿、「それ思ひも寄らず。我は故池の禪尼に助けられ奉つたれば、その恩を報ぜんが爲に、每日法華經一部轉讀し奉るより外は、又他事なし」とぞ宜ひける。文覺重ねて、「天の與ふるを取らざれば、却つてその咎を受く。時至りたるを行はざれば、却つてその殃を受くと云ふ本文あり。斯樣に申せば、御邊の御心をがなひかんとて申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。先づ御邊の爲に志の深い樣を見給へ」とて、懷より白い布にて裏んだる髑體を一つ取り出す。兵衞の佐殿、「あれは如何」にと宣へば、「是こそ御邊の父、故左馬の頭の殿の頭よ。平治の後は獄舍の前の苔の下に埋れて、後世弔ふ人も無かしを、文覺存ずる旨有りて、獄〓に乞ひ、頸に懸け、山々寺々修行民して、この二十餘年が間弔ひ奉つたれば、今は定めて一劫も浮び給ひぬらん。されば故頭の殿の御爲には、さしも奉公の者にて候ふぞかし」と申されければ、兵衞の佐殿、一定とは覺えねども、や父の頭と聞く懷しさに、先づ淚をぞ流されける。良有つて兵衞の佐殿、淚を押へて宣ひけるは、「抑〓賴朝勅勘を赦りずしては、爭でか謀叛をば起すべき」と宣へば、文覺、「それ安い程の事也。寒上つてし若しあらとに置醤き家之、我がなる勸勘の身にもりなな人の事申さうと宣ふ。聖の御坊のあてがひ樣こそ、大きに誠しからね」と宣へば、文覺大きに怒つて、「吾が身の咎を赦りうと申さばこそ僻事ならめ。和殿の事申さうに、何かは僻事ならん。是より今の都福原の新都へ上らうに、三日に過ぐまじ。院宣伺ふに、一日の逗留ぞあらんずらん。都合七日八日には過ぐまじ」とてつき出でぬ。聖、奈古屋に歸りて、弟子共には、人に忍うで、伊豆の御山に七日參籠の志有りとて出でにけり。伊豆の御山に七日參籠の志有りとて出でにけり。三七伊豆院宣
平家物語中編三八實にも三日と云ふには、福原の新都に上り著いて、前の右兵衞の督光能の卿の許に、聊か緣有りければ、それに尋ね行いて、「伊豆の國の流人、前の右兵衞の佐賴朝、勅勘を赦されて、院宣をだに蒙り候はば、八箇國の家人ども催し集めて、平家を亡ぼし、天下を謐めんとこそ申し候へ」光台能の卿、「いさとよ我が身も當時は三官共に停められて、心苦しき折節なり。法皇も押し籠められて渡らせ給へば、如何あらんずらん。さりながらも伺うてこそ見め」とて、この由竊かに奏聞余せられたりければ、法皇大いに御感有つて、軈て院宣をぞ下されける。文覺悅んで頸にかけ、又三日と云ふには、伊豆の國へ下り著く。兵衞の佐殿、聖の御坊の、愁なること申し出して、賴朝又如何なる憂き目に逢はんずらんと、思はじ事なう、案じ續けておはしける。八日と云ふ午の刻に下り著いて、「くは院宣よ」とて奉る。兵衞の佐殿、院宣と聞く忝さに、新しき烏帽子淨衣を著、手水嗽をして、院宣を三度拜して披かれけり「頃の年より以降、平氏王化を蔑如して、政道に憚る事無し。佛法を破滅し王法を亂らんと欲す。夫れ我が國は神國也。宗廟相竝んで、神德惟れ新なり故に朝廷開基の後、數千餘歳の間、帝位を傾け國家を危ぶめんと欲する者、皆以て敗北せずと云ふ事無し。然れば則ち且は神道の冥助に任せ、且は勅宣の旨趣を守つて、早く平氏の一類を亡ぼして、朝家の怨敵を退けよ譜代相傳の兵略を繼ぎ、累祖奉公の忠勤を抽んでて、身を立て家を興すべし。者ば院宣此の如く、仍つて執達件の如し。治承四年七月十四日、前の右兵衞の督光能奉つて、謹上、前の右兵衞の佐殿へ」とぞ書かれたる。この院宣をば錦の袋に入れて、石橋山の合戰の時も、兵衞の佐殿頸にかけられけるとぞ聞えし。富士川去程に、右兵衞の佐殿謀叛の由頻に風聞有りしかば、福原には公卿僉議有つて、今一日も勢の付かぬ先に、急ぎ討手を下さるべしとて、大將軍には小松の權の亮少將維盛、副將軍には藤摩の守忠度、侍大將には上總の守忠〓を先として、都合その勢三萬餘騎、九月十八日に新都を立つて、明くる十九日には舊都に著き、軈て同じき廿日の日、東國へこそ赴かれけれ。大將軍小松の權の亮少將維盛は、生年二十三、京儀帝佩諭に晝くとも筆も及び難し、重代の著背唐皮とふふ鐘をば唐櫃に入れて界かせらる。路中には赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧著て、連錢蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍を置いて乘り給へり。副將軍薩摩の守忠度は、紺地の錦の直垂に、黑絲威の鎧著て、黑き馬の太う逞しきに鑰懸地の鞍を置いて乘り給へり。馬鞍·鎧甲·弓箭·太刀·刀に至る迄、光り耀く程に出立たれたれば、珍しかりし見物也。中にも副將軍薩摩の守忠度は、或宮腹の女房の許富士川三九
平家物語中編四〇Carやんごとやう〓〓へ通はれけるが、或夜おはしたりけるに、この女房の局に、止事なき女房客人來て、小夜も漸更たチすだけ行く迄歸り給はず。忠度軒端にイんで、扇を荒く使はれければ、彼の女房、「野もせに集く蟲の十七やが音よ」と、優に口占み給へば、扇を軈て使ひ止みてぞ歸られける。その後おはしたる夜、「何ぞやかしがま何とて扇をば使ひ止みしぞや」と問はれければ、「いさ、姦しなど聞え侍りし程に、さてこそ扇小さいをば使ひ止みては候ひしか」とぞ申されける。その後この女房、薩摩の守の許へ、小袖を一重遺すとて、千里の名殘の惜しさに、一首の歌を書添へてぞ送られける。ただけ東路の草葉をわけん袖よりも、たゝぬ袂の露ぞこぼるゝ薩摩の守の返事に、わかれち別路を何か歎かん越えて行く、關もむかしの跡と思へばあった關も昔の跡と詠める事は、先祖平の將軍貞盛·俵藤太秀〓、將門追討の爲に、吾妻へ下向したいとやざぐわいどりし事を、今思ひ出でて詠みたりけるにや、最優しうぞ聞えし。昔は朝敵を平げに、外土へ向ふ二九げ將軍は、先づ參內して節刀を賜はる。宸儀、南殿に出御して、近衞、階下に陣を引き、內辨·外べんおきませ辨の公卿參列して、中儀の節會を行はる。大將軍副將軍各〓禮儀を正しうして、是を賜はる。承35平·天慶の蹤跡も、年久しう成つて准へ難しとて、今度は讃岐の守平の正盛が、前の對馬の守源す。ざつしきの義親追討の爲に、出雲の國へ下向せし例とて、鈴計り賜はつて、皮の袋に入れて、〓色が頸に懸けさせてぞ下られける。古へ朝敵を平げんとて都を出づる將軍は、三つの存知有り。節刀を賜はる日家を忘れ、家を出づるとて妻子を忘れ、戰場にして敵に闘ふ時身を忘る。されば今の平氏の大將軍維盛·忠度も、定めて左樣の事共をば存知せられたりけん、哀れ成りし事共也。各〓九重の都を立つて、千里の東海へ赴かれける。平かに歸り上らん事も、誠に危き有樣共に六十六て、或は野原の露に宿を借り、或は高峯の苔に旅寢をし、山を越え河を重ね、日數經れば、十月ろPart十六日には、駿河の國〓見が關にぞ著き給ふ。都をば三萬餘騎で出でたれども、路次の兵附副ひかんばらてこやさて、七萬餘騎とぞ聞えし。前陣は蒲原·富士川に進み、後陣は未だ手越·宇津の谷に支へたり。大將軍權の亮少將維盛、侍大將上總の守忠〓を召して、「維盛が存知には、足柄の山打越え、廣みへ出でて軍をせん」と、早られけれども、上總の守申しけるは、「福原を御立ち候ひし時、入道殿鹿児島の仰には、軍をば忠〓に任せさせ給へとこそ仰せ候ひつれ。伊豆駿河の勢の參るべきだに、未だかりむしや一騎も見え候はず。御方の御勢七萬餘とは申せども、國々の驅武者、馬も人も皆疲れ果てて候。すみ東國は草も木も皆兵衞のににひひ付きて候ふなれば、何十萬騎か候ふらん。唯富士川を前に當てらて、御方の御勢を待たせ給ふべうもや候ふらん」と申しければ、力及ばで淘へたり。去程に、兵衞富士川四
平家物語中編四二きの佐賴朝鎌倉を立つて、足柄の山打越え、黃瀨川にこそ著き給へ。甲斐信濃の源氏共、馳せ來つて一つになる。駿河の國浮島が原にて勢揃あり。都合その勢廿萬騎とぞ註いたる。常陸源氏佐竹の四郞が雜色の、文持つて京へ上りけるを、平家の侍大將上總の守忠〓、この文を奪ひ取つて見るに、女房の許への文也。苦しかるまじとて取らせてげり。「さて源氏が勢は如何程有るぞ」と問15ひければ、「下薦は四五百千迄こそ、物の數をば知つて候へ。それより上をば知り參らせぬ候。多いやらう、少いやらう、凡そ七日八日が間は、はたと續いて、野も山も海も河も、皆武者で候。昨日黃瀨川にて、人の申し候ひつるは、源氏の御勢二十萬騎とこそ申し候ひつれ」と申しければ、s上總の守、「あな心憂や、大將軍の御心の延びさせ給ひたる程、口惜しかりける事はなし。今一日も先に、討手を下させ給ひたらば、大庭兄弟、畠山が一族、などか參らで候べき。是等だに參り候はば、伊豆駿河の勢は皆隨ひ附くべかりつるものを」と、後悔すれども甲斐ぞなき。大將軍權の亮少將維盛、東國の案内者とて、長井の齋藤別當實盛を召して、汝程の强弓精兵、八箇國には如何程有るぞ」と問ひ給へば、齋藤別當あざ笑つて、「さ候へば、君は實盛を大箭と思し召され候ふにこそ。僅十三束をこそ仕り候へ。實盛程射候ふ者は、八箇國には幾らも候。大箭と申すぢやうの者の、十五束に劣つて引くは候はず。弓の强さも、健かなる者の、五六人して張り候。斯樣いの精兵共が射候へば、鎧の二三領は容易うかけず射徹し候。大名と申すぢやうの者の、五百騎にあ劣つて持つは候はず。馬に乘つて落つる道を知らず。惡所を馳すれど、馬を倒さず。軍は又親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乘越え乘越え戰ふ候西國の軍と申すは、惣てその儀候はす。親討たれぬれば引き退き、佛事孝養し、忌明けて寄せ、子討たれぬれば、その愁へ歎きとて、あ寄せ候はず。兵粮米盡きぬれば、春は田作り、秋は刈り收めて寄せ、夏は暑しと厭ひ、冬は寒しと嫌ひ候。東國の軍と申すは、惣てその儀候はず。其の上甲斐·信濃の源氏等、案內は知つたり、富士の裾より、搦手にや廻り候はんずらん。斯樣に申せば、大將軍の御心を、臆せさせ參らせんとて、申すとや思し召し候ふらん。その儀では候はず。但し軍は勢の多少にはより候はず、大將軍の策に依るとこそ、申し傳へて候へ」と申しければ、是を聞く兵共、皆振ひ慄き合へりけり。去程に、同じき廿四日の卯の刻に、富士川にて源平の矢合とぞ定めける。廿三日の夜に入つて、平家の兵共、源氏の陣を見渡せば、伊豆駿河の人民百姓等が軍に恐れて、或は野に入り山に隱れ、店或は舟に取乘つて、海河に浮びたるが、營の火の見えけるを、「あな夥しの源氏の陣の遠火のか多さよ。實にも野も山も海も河も、皆武者でありけり。如何せん一とぞあきれける。その夜の夜い半計り、富士の沼に幾らも有りける水島共が、何にかは驚きたりけん、一度にばつと立ちける羽富士川四三
出租三++賦論日長野文正直
平家物語中編四六音の、雷大風などの樣に聞えければ、平家の兵共、「あはや源氏の大勢の向うたるは。昨日齋藤別かたき當が申しつる樣に、甲斐信濃の源氏等、富士の裾より、搦手へや廻り候ふらん。敵何十萬騎かあ1るらん。取籠められては叶ふまじ。爰をば落ちて、尾張河·洲俣を防げや」とて、取る物も取敢あわてくん、我先に〓〓とぞ落ち行きける。餘りに周章噪いで、弓取る者は矢を知らず、箭取る者は弓説を知らず、我が馬には人乘り、人の馬には我乘り、繋いだる馬に騎つて馳すれば、株を繞る事限inしゆくしゆくさかかしらけわりなし。その邊近き宿々より、遊君遊女共召しあつめ、遊び酒もりけるが、或は頭蹴破られ、或は腰蹈折られて、喚き叫ぶ事夥し。同じき二十四日の卯の刻に、源氏廿萬騎、富士川に押寄せて、天も響き大地も搖ぐ許りに、関をぞ三箇度作りける。平家の方には、靜まり返つて音もせず。古春人を入れて見せければ、「皆落ちて候」と申す。或は敵の忘れたる鎧取つて參る者もあり、或は平家の捨て置いたる大幕取つて歸る者も有り。凡そ平家の陣には、蠅だにも翔り候はず」と申す。お兵衞の佐、急ぎ馬より降り、甲を脫ぎ、手水嗽をして、王城の方を伏し拜み、「是は全く賴朝が私useやがの高名には非ず、偏に八幡大菩薩の御計也」とぞ宣ひける。軈て打取る所なればとて、駿河の國をは、條の次郞忠賴、遠江の國をば安田の三郞義定に預けらる。猶も續いて攻むべかりしかどchさすがも、後も流石覺束なしとて、駿河の國より鎌倉へぞ歸られける。海道宿々の遊君遊女ども、「あな語四六み忌々しの打手の大將軍や。軍には見逃をだにあさましき事にするに、平家の人々は、聞逃し給へり」とぞ笑ひける。さる程に落書共多かりけり。都の大將軍をば宗盛と云ひ、討手の大將をば權の亮と云ふ間、平家をひら屋に詠みなして、たのひらやなるむねもり如何に噪ぐらん、柱と憑むすけを落して富士河の瀨々の岩こす水よりも、早くも落つるいせ平氏かな又上總の守忠〓が、富士河に鎧捨てたりけるをも詠めり。富士河に鎧は捨てつ墨染の、衣たゞきよ後の世のためたゞきよはにげの馬にぞ乘りてげる、上總 〓 かけてかひなし五節の沙汰同じき十一月八日の日、大將軍權の亮少將維盛、福原へ歸り上り給ふ。入道相國大きに怒りて「維盛をば鬼界が島へ流すべし。忠〓をば死罪に行ふべし」とぞ宣ひける。是に依つて同じき九日の日、平家の侍、老少數百人參會して、忠〓が死罪の事、いかゞあるべからんと評定す。主馬の判官盛國進み出でて、「この忠〓を日來不覺人とは存じ候はず。あれが十八の歲と覺え候。鳥羽五節の沙汰四七
平家物語中編四八殿の寶藏に、五畿內一の惡盜二人込げ籠りたりしを、寄せて搦めうと申す者、一人も候はざりしに、この忠〓只一人、白晝に築地を越え、はね入つて、一人をば討取り、一人をば搦め取つて、名を後代に揚げたりし者ぞかし。今度の不覺は、只事とも覺え候はず。是に付けても、能く〓〓兵亂の御愼み候ふべし」とぞ申しける。同じき十日の日、除目行はれて、權の亮少將維盛、右近衞の中將に上り給ふ。今度投東へ討手に向はれたりとは中せども、させるしいだしたる事も候は昔平。將軍貞盛·俵藤太秀〓、ず。是はされば何の勸賞ぞや」とぞ、人々叫き合はれける。將門を追討の爲に、東へ下向したりしかども、朝敵容易う亡び難かりしかば、重ねて討手を下さるべしPheと、公卿僉議有つて、宇治の民部卿忠文、〓原の重藤、軍監といふ司を賜りて下る程に、駿河の國〓見が關に宿したりける夜、彼の重藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟の火の影は寒うして浪を燒き、驛路の鈴の聲は夜山を過ぐ」と云ふ唐歌を高らかに口遊み給へば、忠文優に覺えて、感淚をぞ流されける。去程に將門をば、貞盛·秀郷が終に討ち取つて、其頭を持たせて上る程に、駿河の國〓見が關にて行き逢うたり。それより前後の大將軍打ち連れて上洛す。貞盛·秀〓に勸賞行はれけり。時に忠文·重藤にも勸賞有るべきかと、公卿僉議有りしかば、九條の右丞相師輔公、「今度坂東に討手向うたりと云へども、朝敵容易う亡び難かりし處に、この人々勅定を承りて、四八關の東へ赴きし時、朝敵旣に亡びたり。されば忠文·重藤にも、などか勸賞無かるべき」と申させ給へども、の時の執柄小野の富數、又はしきをば成すまたかれよ。總記の文に終になさせ給はず。忠文是を口惜しき事に思うて、「小野の宮殿の御末をば、奴に見なさん、九條殿ひの御末は、何の世迄も守護神と成らん」と誓ひつゝ、終に干死にこそは死ににけれ。されば九條殿の御末、目出度う榮えさせ給へども、小野の宮殿の御末には、然るべき人もましまさず、今は絕え果て給ひけるにこそ。同じき十一日、入道相國の四男、頭の中將重衡、左近衞の權中將に上り給ふ。同じき十三日福原には、內裏造り出されて、主上御遷幸ありけり。大嘗會行はるべかりtax神としかども、大嘗會は十月の末、東河に行幸して、御禊あり。大內の北の野に齋場所を作りて、だんならび服神具を調ふ。大極殿の前、龍尾堂の壇下に、廻立殿を建てて、御湯をめす。同じき壇の竝に、か大嘗宮を作つて、神膳を備ふ。神宴あり、御遊あり、大極殿にて大禮あり、〓暑堂にて御神樂あり、豐樂院にて宴會あり。然るをこの福原の新都には、大極殿も無ければ、大禮行はるべきやうもなく、〓暑堂も無ければ、御神樂奏すべき所もなし。豐樂院も無ければ、宴會は行はれず。今年は唯新嘗會五節計りであるべきよし、公卿僉議ありて、猶新嘗の祭をば、舊都の神祇官にてぞ違メ遂げられける。五節は是淨見原の當時、吉野の宮にして、月白く冱え、嵐烈しかりし夜、御心を澄五節の沙汰四九
平家物語中編きん琴を弾き給ひしかば、ひ中編五〇して、神女天降りて、あまくだ五度袖を飜す。是ぞ五節の始めなる。都還今度の都遷をば、君も臣も斜ならず御歎きありけり。山·奈良を始めて、諸寺諸社に至る迄、然るべからざる由訴へ申したりければ、さしも橫紙を破られし太政の入道殿、「さらば都還あるべし」とて、同十二月二日の日、俄かに都還ありけり。新都は、北は山々聳えて高く、南は海近くかまびす15 bして下れり。波の音常に喧しく、鹽風烈しき所也。されば新院何となく、御惱のみ滋かりけれかうば、是に依つて急ぎ福原を出でさせおはします。中宮·一院·上皇も御幸なる。攝政殿を始め奉りて、太政大臣以下の卿相雲客、我も我もと供奉せらる。平家には太政の入道を始め奉りて、門の人々皆上られけり。さしも心憂かりつる新都に、誰か片時も殘るべき、我先に我先にとぞ上こられける。去んぬる六月より、屋共少々壞ち下し、形の如く取り立てられたりしかども、今又物兩院は六波羅狂はしう、俄かに都還ありければ、何の沙汰にも及ばず、皆打ち捨て上られけり。やはた池殿へ御幸なる。行幸は五條內裏とぞ聞えし。各〓の宿所も無ければ、八幡·賀茂·嵯峨·太秦·やど西山·東山の片邊に著いて、ほら或は御堂の廻廊、或は社の寶殿などに、然るべき人も立ち宿つてましましける。抑〓今度の都遷の本意を如何にと云ふに、舊都は山·奈良近くして、聊かの事にもさすが日吉の神輿、春日の神木など云つて猥りがはし。新都は山隔たり江重つて、程も流石遠ければ、左樣の事も容易かるまじとて、入道相國計らひ申されけるとかや。同二十三日、近江源氏の背きしを攻めんとて、大將軍には左兵衞の督知盛·薩摩の守忠度、都合その勢三萬餘騎、近江の國へ發向す。山本·柏木·錦織など云ふ溢れ源氏共攻め落し、それより軈て美濃·尾張へぞ越えられける。奈良炎上都には又南都·三井寺同心して、或は宮請取り參らせ、或は御迎に參る條、是以て朝敵なり。天んじ然らば奈良をも攻めらるべしと聞えしかば、大衆大に蜂起す。關白殿より、「存の旨有らば、幾度も奏聞にこそ及ばめ」とて、有官の別當忠成を下されたりけるを、大衆起つて、「乘物より取つて引落せ、髻切れ」と閲く間、忠成色を失ひて込げ上る。次に右衞門の督親雅を下されたりけれどひしめも、是をも髻切れと閲きければ、取る物も取敢へず、急ぎ都へ上られけり。その時は勸學院の雜僕にすん色二人が髻切られてけり。南都には又大なる毬杖の玉を作りて、是こそ入道大相國の頭と名付け奈良炎上五
平家物語中編五二toて、「打て、蹈め」などぞ申しける。詞の漏し易きは、殃を招く媒也。詞の愼まざるは、破を取る道なりと云へり。掛まくも忝く、この入道相國は、當今の外祖にておはします。それを斯樣に申しける南都の大衆、凡は天魔の所爲とぞ見えし。入道相國、且々先づ南都の狼藉を靜めんとて、瀨の尾の太郞兼康を大和の國の檢非所に補せらる。兼康五百餘騎で馳せ向ふ。「相構へて、衆徒はた狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物具なせそ。弓箭な帶せそ」とて、遣されたりけるを、南都の大衆、かゝる內議をば知らずして、兼康が餘勢六十餘人搦め取つて、一々に頸を斬つて、猿澤の池の端にぞ懸け雙べたりける。入道相國大に怒りて、「さらば南都をも攻めよや」とて、大將軍には、頭の中將重衡、中宮の亮通盛、都合その勢四萬餘騎、南都へ發向す。南都にも老少嫌雙はず七千餘人、甲の〓をしめ、奈良坂、二箇所の路を掘り切つて、搔楯かき、逆木引いて待ちかけたり。平家四萬餘騎を二手に分つて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭に押し寄せて、関を咄とぞ作りける。大衆は步立打物なり。官軍は馬にて懸け廻し〓〓攻めければ、大衆數を盡して討たれにけり。卯の尅より矢合して、一日戰ひ暮し、夜に入りければ、奈良坂、般若寺二箇所の城郭共に破れぬ。落ち行く衆徒の中に、坂四郞永覺と云ふ惡僧あり。是は力の强さ、弓箭打物取つては、七大寺十rec호는五大寺にも勝れたり。萌黄威の鎧に、黑絲威の腹卷、二領重ねてぞ著たりける。帽子甲に五枚甲kexの〓をしめ、茅の葉の如くに反つたる柄の大長刀、黑漆の大太刀、左右の手に持つまゝに、同さ宿十餘人、前後左右にたて、手蓋の門より打つて出でたり。是ぞ暫く支へたる。多くの官兵等、馬の足薙がれて多く亡びにけり。されども官軍は大勢にて、入れ替へ〓〓攻めければ、永覺が防たけ15ぐ所の同宿皆討たれにけり。永覺心は猛う思へども、後あばらに成りしかば、力及ばず、唯一人南を指してぞ落行きける。夜軍に成つて、大將軍頭の中將重衡、般若寺の門の前に打立つて、「暗げさは暗し、火を出せ」と宣へば、播磨の國の住人、福井の庄の下司、次郞大夫友方と云ふ者、楯を破り續松にして、在家に火をぞ懸けたりける。比は十二月二十八日の夜の戌の刻計りの事なれば、ほ折節風は烈しく、炎本は一つなりけれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。凡そ恥をも思ひ、名をも惜む程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にして討たれけり。行步に叶へる者は、吉野十津川の方へぞ落ち行きける。步みも得ぬ老僧や、尋常なる修學者、兒ども、女童部は、若しや助かると、大佛殿の二階の上、山階寺の内へ、我先にとぞ逃入りける。大佛殿の二階の上Caのには、千餘人上り揚り、敵の續くを登せじとて、階を引きてげり。猛火は正う押懸けたり。喚き叫むほのほぶ聲、焦熱、大焦熱、無間、阿鼻、焰の底の罪人も、是には過ぎじとぞ見えし。興福寺は淡海公奈良炎上五三
平家物語中編五四の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします佛法最初の釋迦の像、西金堂におはします自然しゆたん2湧出の觀世音、瑠璃を雙べし四面の廊、朱丹を交へし二階の樓、九輪空に輝きし二基の塔、忽にare煙となるこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、實報寂光の、生身の御佛と思し召し准へて、聖武ぢ皇帝、手づから自ら瑩き立て給ひし金銅十六丈の虛遮那佛、烏瑟高く顯れて、半天の雲にかくれ、ごご白毫新に拜まれさせ給へる滿月の尊容も、御頭は燒け落ちて大地にあり、御身は鎔き會ひて山の如し。八萬四千の相好は、秋の月早く五重の雲に隱れ、四十一地の瓔珞は、夜の星空しう十惡のほのほ()まのあた風に漾ひ、煙は中天に滿ち〓〓て、矣は虚空に〓もなし。親り見奉る者は、更に眼を當てず、퇴치かに傳へ聞く人は、肝魂を失へり。法相三論の法門聖〓、總て一卷も殘らず。我が朝は申すにでんしごんみがび及ばず、天竺震旦にも、是程の法滅有るべしとも覺えず。優塡大王の紫磨金を瑩き、毘須羯磨がだゆゐ赤梅檀を刻みしも、纔に等身の御佛なり。況や是は南闇浮提の中には、唯一無雙の御佛、長く朽吉川損の期あるべしとも思はざりしに、今毒燈の塵に交つて、久しく悲みを殘し給へり。梵釋四王、龍神八部、冥官冥衆も、驚き噪ぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、如何なる事をか:ほのほ思しけん。されば春日野の露も色變り、三笠山の嵐の音も恨むる樣にぞ聞えける。焰の中にて燒け死ぬる人數を數へたれば、大佛殿の二階の上には一千七百餘人、山階寺には八百餘人、或御堂つきたには五百餘人、或御堂には三百餘人、具に記いたりければ、三千五百餘人なり。戰場にして討たるゝ大衆千餘人、少々は般若寺の門に切りかけさせ、少々は頸共持ちて都へ上られけり。明くる二十九日、頭の中將重衡、南都亡して北京へ歸り入らる。凡そは入道相國計りこそ、憤晴れて喜ばれけれ。中宮·一院·上皇は、「縱ひ惡僧をこそ亡さめ、多くの伽藍を破滅すべきやは」とぞひふ御歎きありける。日來は、「衆徒の頸大路を渡いて、獄門の木にかけらるべし」と、公卿僉議有り〓しかども、東大寺興福寺の亡びぬるあさましさに、何の沙汰にも及ばず。爰やかしこの溝や堀にぞ捨て置きてける。聖武皇帝の宸筆の御記文にも、「我が寺興福せば、天下も興福すべし。我が寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる。されば天下の衰微せん事、疑なしとぞ見えたりける。あさましかりつる年も暮れて、治承も五年になりけり。奈良炎上五五
平家物語中編五六卷第六新院崩御と治承五年正月一日の日、內裏には、東國の兵革、南都の火災に依つて、朝拜停められて、主上出御もなし。物の音も吹嗚さず、舞樂も奏せず、吉野の國栖も參らず、藤氏の公卿一人も參ぜらいま〓〓れず。是は氏寺燒失に依つて也。二日の日殿上の宴醉もなく、男女打潜めて、禁中忌々しうぞ見(昭和4)えし。並びに佛法王法ともに盡きぬる事ぞあさましき。法皇仰なりけるは、「四代の帝王、思へば는子也孫也。如何なれば萬機の政務を停められて、空しう年月を送るらん」とぞ御歎ありける。同じき五日の日、南都の僧綱等、闕官せられて、公請を停止し、所職を沒收せらる。されば形の樣=德米にても、御齋會はあるべきものをと、僧名の沙汰有るに、南都の僧綱等は皆闕官せられぬ。北京の僧綱を以て行はるべきかと、公卿僉議ありしかども、さればとて今更南都をも捨て果てさせ給ふべきならねば、三論宗の學匠、成法已講が忍びつゝ、勸修寺に隱れ居たりけるを召し出でゝ、誌御齋會形の如く遂げ行はる。衆徒は皆老いたるも若きも、或は射殺され、或は斬り殺されて、煙崩御新院崩御五七
平平家物語中編五八ほのほなわづかの中を出でず、炎に咽んで亡びにしかば、纔に殘る輩は、山林に交つて、跡を留むる者一人もなし。中にも興福寺の別當花林院の僧正永圓は、佛像經卷の煙と立ち上らせ給ふを見進らせ、あむねいうなあさましとて、心打ち噪がれけるより病付きて、遂に失せ給ひぬ。この永圓は、優に艶しき人にておはしけり。或る時郭公の鳴くを聞いて、聞く度に珍しければ郭公、いつも初音の心地こそすれといふ歌を詠うでこそ、初音の僧正とは云はれ給ひけれ。をと는ぞ上皇は、去去年法皇の島羽殿に押し籠められて渡らせ給ひし御事、去年高倉の宮の討たれさせた給ひし御有樣、さしも容易からぬ天下の大事、都遷など申す事に、御惱付かせ給ひて、御煩しう聞えさせ給ひしが、今又東大寺興福寺の亡びぬる由聞し召して、御惱いとゞ重らせおはします。なる0法皇斜ならず御歎ありし程に、同十四日六波羅池殿にて、新院遂に崩御成りぬ。御宇十二年、德すた3政千萬端、詩書仁義の廢れぬる道を興し、理世安樂の絕えたる跡を繼ぎ給ふ。三明六通の羅漢もごんじや免かれ給はず、幻術變化の權者も遁れぬ道なれば、有爲無常の習とは云ひながら、理過ぎてぞ覺えける。軈てその夜東山の麓、〓閑寺へ遷し奉り、夕の煙にたぐへつゝ、春の霞と上らせ給ひぬ澄憲法印御葬送に參り會はんとて、急ぎ山より下られけるが、早道にて煙と立ち上らせ給ふ五八を見進らせて、泣く〓〓かくぞ詠じ給ひける。零常に見し君が御幸を今日間へば、歸らぬ旅と聞くぞ悲しきみ又或女房の、御門隱れさせ給ひぬと承つて、泣く〓〓思ひ續けゝり。5雲の上に行末遠く見し月の、光消えぬと聞くぞかなしきみだ御年二十一。内には十戒を保つて慈悲を先とし、外には五常を濫らせ給はず、禮義を正しうせさせおはします。末代の賢王にておはしければ、世の惜み奉る事、月日の光を失へるが如し。斯樣〇九五に人の願も叶はず、民の果報も拙き、只人間の境こそ悲しけれ。太い葉紅上海cheから高倉の院御在位の御時、人の順ひ付き奉る事は、恐くは延喜天曆の帝と申すとも、是には爭で勝らせ給ふべきとぞ、人申しける。大方は賢王の名を揚げ、仁德の行を施させおはします事も、む君御成人の後、〓濁を分たせ給ひての上の御事でこそあるに、無下にこの君は、未だ幼主の御時さより、性を柔和に受けさせおはします。去んぬる承安の比ほひは、御年十歲計りにや成らせおははじかしましけん、餘りに紅葉を愛せさせ給ひて、北の陣に小山を築かせ、櫨鶏冠木の、誠に色うつく紅葉五九
平家物語中編六〇しう紅葉たるを植ゑさせ、紅葉の山と名付けて、終日に叡覽あるに、猶飽き足らせ給はず。然るよを或夜野分はしたなう吹いて、紅葉皆吹散らし、落葉頗る狼藉なり。殿守の伴のみやつこ、朝淨特古めすとて、是を悉く掃捨てゝげり。殘れる枝、散れる木の葉をば、搔き聚めて、風寒じかりける南人之朝なれば、縫殿の陣にて、酒煖めてたべける薪にこそしてげれ。奉行の藏人、行幸より先にと、b急ぎ行いて見るに跡形なし。如何にと問へば、しか〓〓と答ふ。「あなあさまし。さしも君の執し思し召されつる紅葉を、斯樣にしつる事よ。知らず、汝等禁獄流罪にも及び、我身も如何なる逆鱗向けたにか預らんずらん」と、思はじ事なう案じ續けて居たりける處に、主上いとゞしく、夜の御殿を出でさせも敢へず、彼へ行幸成りて、紅葉を叡覽あるに、無かりければ、「如何に」と御尋有りけり。七七七藏人何と奏すべき旨もなし。有りの儘に奏聞す。天氣殊に御快氣に打笑ませ給ひて、「林間に酒を煖めて紅葉を燒くと云ふ詩の心をば、されば其等には誰が〓へけるぞや。優しうも仕つたるもの哉」とて、却つて叡感に預つし上は、敢て勅勘無かりけり。又安元の比ほひ、御方違の行幸の有と明王の眠を驚かす程にも成りしかば、何も御寢覺がちにて、りしに、さらでだに雞人曉を唱ふ聲、つや〓〓御寢もならざりけり。況んや沍ゆる霜夜の烈しきには、延喜の聖代、國土の民共が、如と何に寒かるらんとて、夜の御殿にして、御衣を脫がせ給ひける事など迄も思し召し出でゝ、吾が紅葉六一
平家物語中編六二帝德の至らぬ事をぞ、御歎き有りける。良深更に及んで、程遠く人の叫ぶ聲しけり。供奉の人々は聞きも付けられず、主上は聞し召して、「只今叫ぶは何者ぞ。あれ見て參れ」と仰せければ、上じやうじつあやわらは決定臥したる殿上人、上日の者に仰せて尋ぬれば、或辻に恠しの女の童の、長持の蓋提げたるが、泣やうくくにてぞありける。「如何に」と問へば、「主の女房の、院の御所に候はせ給ふが、この程漸にしきぬて仕立られたりつる衣を持つて參る程に、只今男の二三人詣で來て、奪ひ取つて罷りぬるぞや。今は御裝束が有らばこそ、御所にも候はせ給はめ。又はか〓〓しう立ち宿らせ給ふべき、親しき御方もましまさず。是を思ひ續くるに、泣く也」とぞ云ひける。さて彼の女の童を具して參り、むざんこの由奏聞したりければ、主上聞し召して、「あな無慚、何者のしわざにてかあるらん」とて、龍かたじけな古産すなほ顏より御淚を流させ給ふぞ忝き。「堯の代の民は、堯の心の直なるを以て心とする故に皆直也。かたまし今の代の民は、朕が心を以て心とする故に、好き者朝に在つて罪を犯す。是吾が恥に非ずや」とぞ仰せける。「さるにても取られつらん衣は、何色ぞ」と仰せければ、「しか〓〓の色」と奏す。建禮門院、その時は未だ中宮にて渡らせ給ふ時なり。その御方へ、「左樣の色したる御衣や候」と、33.御尋有りければ、先のもり遂に色嚴しきが登りたるを、付のゐの金にそ給はせける「口味又さる目にもぞ逢ふ」とて、上日の者を數多付けて、主の女房の局まで、送らせましましけるぞしづめされば恠しの賤の男賤の女に至る迄、はうさん只此の君千秋萬歲の寶算をぞ祈り奉る。忝き。葵の前それに何よりも又哀れなりし事には、中宮の御方に候はれける女房の召し使ひける上童、思はざる外、龍顏に咫尺することありけり。只尋常白地にても無くして、まめやかに御志深かりければ、主の女房も召し使はず、却つて主の如くにぞ、いつきもてなしける。當時謠詠に云へる事あひさんり。「男を生んでも喜歡すること勿れ、女を生んでも悲酸すること勿れ。男は是侯にだも封ぜられ〇七ず、女は妃たりとて后に立つ」と云へり。目出たかりける幸ひ哉。この人女御后とももてなされ、せんゐんあいか國母仙院とも仰がれなんずとて、その名を葵の前と申しければ、內々は葵の女御などぞ呼き合はれける。主上は、是を聞し召して、その後は召さゞりけり。是は御志の盡きぬるには非ず、唯世ごはちは御惱とて常の謗を憚らせ給ふに依つて也。されば御詠めがちにて、つや〓〓供御も聞し召さず、おとは夜の御殿にのみ入らせおはします。その時の關白松殿、この由を承つて、主上御心の盡きぬるまゐ事こそおはすなれ。申し慰め進らせんとて、急ぎ御參內あつて、「左樣に叡慮に懸からせましまさまゐkzんに於ては、何條事か候ふべき、件の女房召され進らすべしと覺え候。品尋ねらるゝに及ばず、葵の前六三
平家物語中編六四店だけど基房軈て猶子に仕り候はん」と、奏せさせ給へば、主上仰なりけるは、「いさとよ、足下に計ひ申±すもさる事なれども、位をすべつて後は、間さる樣も有るなり。正しう在位の時、左樣の事は後te代の謗なるべし」とて、聞し召しも入れざりければ、關白殿力及ばせ給はず、御淚を押へて御退には人出有りけり。その後主上綠の薄樣の、匂殊に深かりけるに、古き言なれども、思し召し出でゝ、斯ぞ遊ばされける。忍ぶれど色に出にけり我が戀は、物や思ふと人の問ふまで冷泉の少將隆房是を賜り續で、件の葵の前に賜ばせたれば、是を取つて懷に入れ、顏打ち赤め、「例ならぬ心地出で來たり」とて、里へ歸り、打ち臥す事五六日して、遂にはかなく成りにけり。君が一日の恩の爲に、妾が百年の身を誤つとも、斯樣の事をや申すべき。昔唐の太宗の、鄭仁基が女を、元觀殿に入れんとせさせ給ひしを、魏徴、彼の娘既に陸氏に約せりと、諫め申したりければ、殿に入れらるゝ事を止められたりしには、少しも違はせ給はぬ、今の君の御心操かなとぞ、人申しける。小督主上は戀慕の御淚に思し召し沈ませ給ひたるを、申し慰め進らせんとて、中宮の御方より小督の殿と申す女房を進らせらる。そもこの女房と申すは、櫻町の中納言重〓の卿の御娘、禁中一の美人、雙びなき琴の上手にてぞまし〓〓ける。冷泉の大納言隆房の卿、未だ少將なりし時、見初めたりし女房なり。始は歌を詠み文をば盡されけれども、玉章の數のみ積つて、靡く氣色も無か辛子りしが、流石情に弱る心にや、遂には靡き給ひけり。されども今は君へ召され參らせて、爲ん方もなく悲しくて、飽かぬ別の淚にや、袖しほたれて干し敢へず。少將、如何にもして、小督の殿소~を今一度見奉る事もやと、その事となく、常は參內せられけり。小督の殿のおはしける局の邊、あ彼方此方へ、イみ步き給ひけれども、小督の殿、「われ君へ召され進らせぬる上は、少將いかに申すとも、詞をも通すべからず」とて、傳の情をだにも懸けられず。少將若しやと、一首の歌を詠うで、小督の殿のましましける局の御簾の中へぞ投げ入れける。思ひ兼ね心は空に陸奥の、ちかの鹽釜近きかひなし小督の殿、軈て返事もせまほしうは思はれけれども、君の御爲御窘しとや思はれけん、手にだるに取りても見給はず。軈て上童に取らせて、坪の中へぞ投げ出ださる。少將、情なう恨めしけれども、さすが人もこそ見れと、空恐ろしくて、急ぎ取つて懷に引き入れて、出でられけるが、猶小督六五
平家物語中編六六立ち歸り、玉章を今は手にだに取らじとや、さこそ心に思ひ捨つとも今はこの世にて相見ん事も難ければ、生きて居て、兎に角に人を戀しと思はんより、唯死なんとのみぞ願はれける。入道相國この由を傳へ聞き給ひて、「中宮と申すも御女、冷泉の少將も又聟お也。小督の殿に二人の聟を取られては、世の中好かるまじ。如何にもして、小督の殿を召し出いて失はん」とぞ宣ひける。小督の殿この由を聞き給ひて、我が身の上は兎にも角にも成りなん。君の御爲御心苦しと思されければ、或夜內裡をば紛れ出でて、行方も知らずぞ失せられける。主上、御歎斜ならず、晝は夜の殿にのみ入らせ給ひて、御淚に沈ませおはします。夜は南殿に出御成つて、月の光を御覽じてぞ慰ませまし〓〓ける。入道相國この由を承つて、「さては君は、小督故に思し召し沈ませ給ひたん也。さらんに取つては」とて、御介錯の女房達をも參らせられず、參內し給ふ人々も猜まれければ、入道の權威に憚つて、參り通ふ臣下もなし。男女打潜めて、禁いま〓〓中忌々しうぞ見えし。比は八月十日餘りの事なれば、さしも隈なき空なれども、主上は御淚に曇やらせ給ひて、月の光も朦にぞ御覽ぜられける。良深更に及んで、「人や有る、人や有る」と召されやけれども、御いらへ申す者もなし。良有つて彈正の大弼仲國、其の夜しも御宿直に參つて、遙に遠う候ひけるが、「仲國」と御いらへ申す。「汝近う參れ。仰下さるべき旨有り」と仰せければ、何ゆっ、事やらんと思ひ、御前近うぞ參じたる。「汝若し小督が行方や知りたる」と仰せければ、「爭か知り進らせ候ふべき」と申す。「誠や、小督は、嵯峨の邊、片折戶とかやしたる內にありと、申す者のあるぞとよ。主が名をば知らずとも、尋ねて參らせてんや」と仰せければ、仲國、「主が名を知り候はでは、争か尋ね逢ひ進らせ候ふべき」と申しければ、主上、實にもとて、御淚せき敢へさせましまさず。仲國つく〓〓物を案ずるに、誠や小督の殿は琴引き給ひしぞかし。この月の明さに、や君の御事思ひ出で參らせて、琴引き給はぬ事はよも非じ。內裏にて琴引き給ひし時、仲國笛の役らに召され參らせしかば、その琴の音は、何くにても聞き知らんずるものを、嵯峨の在家幾程かあらん、打ち廻つて尋ねんに、などか聞き出ださであるべきと思ひ、「左候はゞ、主が名は知らず候ふとも、尋ね參らせ候ふべし。縱ひ尋ね逢ひ參らせて候ふとも、御書など候はずば、浮の空とや思し召され候はんずらん。御書を給はつて參り候はん」と申しければ、主上實にもとて、軈て御書遊ばいてぞ下されける。「賽の御馬に乘りて行け」と仰せければ、仲國寮の御馬給はつて、明月に鞭を揚げ、西を指してぞ步ませける。秀方小鹿鳴くこの山里と詠じけん、嵯峨の邊の秋の比、さこそは哀れにも覺えけめ。片折戶したるさこそは哀れにも覺えけめ。六七片折戶したる小督
平家物語中編六八ひかへ〓〓屋を見付けては、この内にもやおはすらんと、扣々聞きけれども、琴彈く所は無かりけり。御堂などへも參り給へる事もやと、釋迦堂を始めて、堂々見廻れども、小督の殿に似たる女房だにもなか〓〓無かりけり。空しう歸り參りたらんは、參らざらんより、中々惡しかるべし。是より何地へも迷何くか王地ならぬ、ひ行かばやとは思へども、身を藏すべき宿もなし。如何がせんと案じ煩ふ。誠や、法輪は程近ければ、月の光に誘はれて、參り給へる事もやと、其方へ向いてぞあくがれけ透方る。龜山の傍近く、松の一村ある方に、幽に琴ぞ聞えける。峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束無くは思へども、駒を早めて行く程に、片折戶したる内に、琴をぞ彈き澄まされたる。扣へて是を聞きければ、少しも紛ふべうもなく、小督の殿の爪音也。樂は何ぞと聞きければ、夫careを想うて戀ふと詠む、想夫戀と云ふ樂なりけり。仲國、さればこそ、君の御事思ひ出で參らせて、樂こそ多けれ、この樂を彈き給ふ事の優しさよと思ひ、腰より横笛拔き出だし、ちつと鳴らいてた門をほと〓〓と敲けば、琴をば軈て彈き止み給ひぬ。「是は內裏より仲國が御使に參りて候。開けたたやさせ給へ」とて、敲けども敲けども、咎むる者も無かりけり。良有りて、內より人の出づる音しthけり。嬉う思ひて待つ處に、鎻をはづし、門を細目に開け、城氣したる小女房の、顏計り指し出いて、「是は左樣に內裏より、御使など賜はるべき所でも候はず。若し門違へにてぞ候ふらん」と*小督六九
平平家物語中編七〇5云ひければ、仲國、返事せば門立てられ鎻さされなんずとや思ひけん、是非なく押開けてぞ入りにける。妻戶の際なる緣に居て、「何とて斯樣の所に御渡り候ふやらん。君は御故に思し召し沈ませ給ひて、御命も旣に危くこそ見えさせまし〓〓候へ。斯樣に申さば、浮の空とや思し召され候ふらん。御書を賜つて參りて候」とて、取り出いて奉る。ありつる女房取り次いで、小督の殿にぞ進らせける。是を開けて見給ふに、誠に君の御書にてぞありける。軈て御返事書いて引き結び、女房の裝束一重添へてぞ出されたる。仲國、「御返事の上は、兎角申すに及び候はねども、別の御爭か歸り參り候ふべき」使にても候はゞこそ、直の御返事承らでは、と申しければ、小督の殿、實にもとや思はれけん、自ら返事し給ひけり。「足下にも聞き給ひつらん樣に、入道餘りに怖しき3事をのみ申すと聞きしがあさましさに、或夜竊に忍びつゝ、內裏をば紛れ出でて、今はかゝる所の栖居なれば、琴彈く事も無かりしが、明日より大原の奥へ思ひ立つ事の候へば、主の女房、今夜ばかりの名殘を惜み、今は夜も更けぬ、立ち聞く人も非じなど勸むる間、さぞな昔の名殘も流石床しくて、手馴れし琴を彈く程に、易うも聞き出だされけりな」とて、御淚せき敢へ給はねば、や仲國も坐に袖をぞ絞りける。良有つて、仲國淚を押へて申しけるは、「明日より大原の奧へ、思し召し立つ事と候ふは、定めて御樣などもや特へさせ給ひ候はんずら然るべうも候はず。さて君家物語七〇企をば何とかし參らせ給ふべき。努々叶ひ候ふまじ。相構へてこの女房出し參らすな」とて、供に召し具したる馬部黃仕丁など留め置き、その屋を守護せさせ、我が身は寮の御馬に打騎つて、內裏へ歸り參つたれば、夜はほのぼのとぞ明けにける。仲國、やがて寮の御馬繋がせ、女房の裝束をば、はね馬の障子に打ち掛けて、今は定めて御寢も成りつらん、誰してか申すべきと思ひ、南殿を指して參る程に、主上は未だ夜邊の御座にぞましましける。南に翔り北に嚮ふ、寒溫を秋のか雁に付け難し。東に出で西に流る、唯瞻望を曉の月に寄すと、御心細げに打ち詠めさせ給ふ處に、仲國つと參りつつ、小督の殿の御返事をこそ進らせけれ。主上斜ならずに御感有つて、「さらば汝軈て夕さり具して參れ」とぞ仰せける。仲國、入道相國の還り聞き給はん所は怖しけれども、是やう〓〓tes又勅定なれば、人に車借つて、嵯峨へ行き向ふ。小督の殿參るまじき由宣へども、樣々に拵へ奉りて、車に乘せ奉りて、內裏へ參りたりければ、幽なる所に忍ばせて、夜な〓〓召され參らせける程に、姫宮御一所出で來させ給ひけり。坊門の女院とは、この宮の御事なり。入道相國、「小督が失せたりと云ふは、跡形もなき空事也。如何にもして失はん」と宣ひけるが、森何としてかは謀り出されたりけん。小督の殿を捕へつゝ、尼に成してぞ追放たる。歲二十三。出家は元より望なりけれども、心ならず尼に成され、濃き墨染に宴れ果て、嵯峨の奥にぞ栖まれけ小督七一
平家物語中編七二=る。無下にうたてき事ども也。主上は斯樣の事共に、御惱付かせ給ひ、遂に隱れさせ給ひけるとしげかや。法皇打ち續き御歎のみぞ滋かりける。去んぬる永萬には、第一の御子、二條の院崩御なりぬ安元二年の七月には、御孫六條の院隱れさせ給ひぬ。天に栖まば、比翼の鳥、地にあらば連理の枝と成らんと、天の河の星を指して、さしも御契淺からざりし建春門院、秋の霧に侵されて、あした朝の露と消えさせ給ひぬ。年月は隔たれども、昨日今日の御別の様に思し召して、御淚も未だ盡きせざるに、治承四年の五月には、第二の皇子高倉の宮討たれさせ給ひぬ。現世後生賴み思し召しされつる新院さへ先立たせ給ひぬれば、兎に角に、かこつ方なき御淚のみぞ滋かりける。悲の至つて悲しきは、老いて後子に後れたるよりも悲しきはなし。恨の至つて恨めしきは、若うして親しやうこうすみあきらおくに先立つよりも恨めしきはなしと。彼の朝綱の相公の、子息澄明に後れて、書きたりける筆の跡、今こそ思し召し知られけれ。彼の一乘妙典の御讀誦も、怠らせ給はず、三密行法の御薰修も、功も積らせおはします。天下諒闇に成りしかば、大宮人もおしなべて、花の袂や窶れけん。廻文本子は流石空怖しうや思はれけん。入道相國、斯樣に痛く情なう當り奉られたりける事を、法皇慰め參らせんとて、安藝の嚴島の內侍が腹の姫君の、生年十八に成りたまふをぞ、法皇へは參らせらる。當家他家の公卿多く供奉して、偏に女御參の如くにてぞありける。上皇隱れさせ給ひて、僅に七日だに過ぎざるに、然るべからずとぞ人々呼き合はれける。去程にその比信濃の國に、木曾たてはきせんじやうよしかたの次郞義仲と云ふ源氏ありと聞えけり。彼は故帶刀先生義賢が次男なり。然るを父義賢は、去んぬる久壽二年八月十二日、鎌倉の惡源太義平が爲に誅せられぬ。その時は未だ二歲なりしを、母かなく〓〓ちうざうか口とほ抱へて泣々信濃へ下り、木會の仲三兼遠が許に行きて、「是如何にもして育てゝ、人に成して我にたいはい見せよ」と云ひければ、兼遠甲斐々々しう請け取つて養育す。漸々長大するまゝに、容儀帶佩人よに勝れ、心も雙びなく剛なりけり。力の强さ、弓箭打物取つては、都て上古の田村、利仁、餘五らいくわうかいかで將軍、致賴、保昌、先祖賴光、義家の朝臣と云ふとも、是には爭か勝るべきとぞ人申しける。十はたや三で元服したりしにも、先づ八幡へ參り通夜して、我が四代の祖父義家の朝臣は、此御神の御子と成して、名をば八幡太郞義家と號しき。且は其跡を追ふべしとて、御寶前にて髻取り上げ、木曾の次郞義仲とこそ付けたりけれ。常は乳母の仲三に具せられて、都へ上り、平家の振舞有樣よく〓〓みうかゞ共をも、能々見窺ひけり。木曾、或時乳母兼遠を喚うで、「抑兵衞の佐賴朝は、東八箇國を討ち隨せんへ〓東海道より攻め上り、平家を追ひ落さんとすなり。義仲も東山北陸兩道を隨へて、今一日七三廻文
平家物語中編七四も先に平家を亡して、喩へば日本國に二人の將軍と仰がれんと思ふは如何に」と宣へば、兼遠大に畏り悅んで、「その料にこそ、君をばこの二十餘年迄、養育し奉りて候へ。斯樣に仰せらるゝこそ、八幡殿の御末とも覺えさせましませ」とて、軈て謀叛を企つ。先づ廻文候ふべしとて、信や游濃國には、根の井の小彌太、滋野の行親を語らふに、背く事なし。是を始めて信濃一國の兵共、皆隨ひ附きにけり。上野の國には、田子の郡の兵共、父義賢が好に依つて、これも隨ひ附きにけり。ch平家の末に成りぬる節を得て、源氏年來の素懷を遂げんとす。飛脚到來は長は木曾と云ふ所は、信濃に取つても南の端、美濃境なれば、都も無下に程近し。平家の人々、東國の背くだにあるに、北國さへこは如何にとて、大きに恐れ騷がれけり。入道相國宣ひけるは、5「縱ひ信濃一國の者共こそ、木曾に隨ひ附くと云ふとも、越後の國には、餘五將軍の末葉、城の太郞助長、同四郞助茂、是等は兄弟共に多勢の者也。仰せ下したらんに、易う討つて進らせてんず」と宣へば、「實にも」と申す人も有り。「いや〓〓只今御大事に及びなんず」と、咡く人々も有りけ55るとかや。二月一日の日、除目行はれて、越後の國の住人、城の太郞助長、越後の守に任ず。是は木曾追討せらるべき謀とぞ聞えし。同じき七日の日、大臣公卿家々にして、尊勝陀羅尼竝に不動明王書供養せらる。是は兵亂愼みの爲とぞ聞えし。同じき九日の日、河內の國の石川の郡に居住しける武藏の權の守入道義基、子息石川の判官代義兼、是も平家に背いて、賴朝に心を通はして、東國へ落ち下るべしなど聞えしかば、平家軈て討手を遣す。大將軍には源大夫の判官季貞、攝津の判官盛澄、都合その勢三千餘騎で、河内の國へ發向す。城の內には義基法師を始めとして、僅か百騎計りには過ぎざりけり。卯の尅より矢合して、一日戰ひ暮らし、夜に入りければ、義基法師討死す。子息石川の判官代義兼は、痛手負うて生捕にこそせられけれ。同じき十一日、義基法師が首、都へ入つて大路を渡さる。諒闇に賊首を渡さるゝ事、堀河の院崩御の時、前の對馬の守源の義親が首を渡されし、その例とぞ聞えし。明くる十二日、鎭西より飛脚到來、宇佐の大宮つ司公通が申しけるは、鎭西の者共、〓方の三郞維義を始めとして、臼杵、戶次、松浦黨に至る迄、一向平家を背いて、源氏に同心の由申したりければ、平家の人々、「東國北國の背くだにあるに、西國さへこは如何に」とて、手を打つてあざみ合はれけり。同十六日、伊豫の國より飛脚到來、備去年の冬の比より、伊豫の國の住人、河野の四郞通〓、一向平家を背いて、源氏に同心の間、後の國の住人、額の入道西寂は、平家に志深かりければ、その勢三千餘騎で、伊豫の國へ押し渡飛脚到來七五飛脚來七五
平家物平家物語中編七六たかなほ55り、道前道後の境なる、高直の城に推寄せて、散々に攻めければ、河野の四郞通〓討死す。子息ぬた河野の四郞通信は、安藝の國の住人奴田の次郞は母方の伯父なりければ、それへ越えて有り合はず、父を討たせて安からず思ひけるが、如何にもして西寂を討取らんとぞ窺ひける。額の入道西寂は、四國の狼藉を鎭めて、今年正月十五日、備後の鞆へ推渡り、遊君遊女共召し集めて、遊び〓れ酒もりける所へ、河野の四郞通信、思ひ切つたる者共、百餘人相語らつて、ばつと推寄す。西寂が方にも三百餘人有りけれども、俄事にてありければ、思ひ儲けず、周章てふためきけるが、立ちあふ者を射伏せ切り伏せ、先づ西寂を生捕つて、伊豫の國へ推渡り、父が討たれたる高直の城迄提げ持て行き、鋸にて頸を切つたりとも聞え、又、磔にしたりとも聞えけり。その後は四國の者共、河野の四郞に隨ひ附く。又紀伊の國の住人、熊野の別當湛增は、平家重恩の身なりしが、忽に心變りして、源氏に同心の由聞えしかば、平家の人々、東國北國の背くだにあるに、南海西海斯くの如し。夷狄の蜂起耳を驚かし、逆亂の先表頻に奏す。四夷忽に起れり。世巳に失せなんとする事は、必ず平家の一門にあらねども、心有る人々の、歎き悲しまぬは無かりけり。語七六入道逝去同じき廿三日、院の殿上にて、俄に公卿僉議あり。前の右大將宗盛の卿の申されけるは、「今度坂東へ討手は向うたりと云へども、させるし出したる事もなし。今度は宗盛大將軍を承つて、東國北國の凶徒等を追討す可き由」申されければ、諸卿色代して、「宗盛卿の申し狀、ゆゝしう候ひなんず」とぞ申されける。法皇大に御感ありけり。公卿殿上人も、武官に備り、少しも弓箭に携はらん程の人々は、宗盛を大將軍として、東國北國の凶徒等を追討すべき由仰せ下さる。同じきと二十七日門出して、旣に打立たんとし給ひける夜半計りより、入道相國違例の心地とて、留まり給ひぬ。明くる廿八日重病を請け給へりと聞えしかば、京中六波羅関きあへり。「すは仕つるは。身の左見つる事よ」とぞ叫きける。入道相國病付き給へる日よりして、湯水も咽へ入れられず、た內の熱き事は、火を燒くが如し、臥し給へる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪へ難し。只宣ふ事とては、あた〓〓と許り也。誠に只事とも見え給はず。餘りの堪へ難さにや、比叡山より千手井の水を汲み下し、石の船に湛へ、それに下りて寒え給へば、水夥しう湧上つて、程なく湯にぞ心はよ成りにける。若しやと筧の水を任すれば、石や鐵などの燒けたる樣に、水〓 つつ寄寄り付かず。resみち〓〓自ら中る水は、焰と成つて燃えければ、黑烟殿中に充滿て、炎渦卷いて揚りける。是や昔法藏僧都と云ひし人、閻王の請に赴いて、母の生所を尋ねしに、間王憐み給ひて、獄卒を相副へて、入道逝去七七入道去七七
平家物語中編七八ミほのほ焦熱地獄へ遣さる。鐵の門の内へ指し入つて見れば、流星などの如くに、炎空に打ち上り、多百由旬に及びけんも、是には過ぎじとぞ覺えける。又入道相國の北の方、八條二位殿の夢に、見給ひける事こそ恐しけれ。喩へば、猛火の夥しう燃えたる車の、主もなきを門の內へ遣り入れたるを見れば、車の前後に立ちたる者は、或は牛の面の樣なる者も有り、或は馬の樣なる者も有り。車の前には、無といふ文字計り顯れたる、鐵の札をぞ打つたりける。二位殿夢の内に、「是は何いづち;より何地へと問ひ給へば、「平集夫政の人造の悪行超過し給へるに闇魔王宮より御迎の御車也」中申す。さてあれれ如何に」と何ひ給は、南門洋抗金額大丈の店題むげむげんし給へる罪に依つて、無間の底に沈め給ふべき由、闇魔の廳にて御沙汰有りしが、無間の無をば書かれたれども、未だ■の字をば書かれぬ也」とぞ申しける。二位殿夢覺めて後、汗水に成りつはうつ、是を人に語り給へば、聞く人皆身の毛竪ちけり。靈佛靈社へ金銀七寶を投げ、馬·鞍·鎧·甲·弓箭·太刀·刀に至る迄、取り出で運び出して祈り申されけれども、叶ふべしとも見え給は〓ず。只男女の君達、跡枕に指し湊ひて、歎き悲み給ひけり。閏二月二日の日、二位殿熱さ堪へ難たのみけれども、入道相國の御枕によつて、「御有樣見奉るに、日に添へて賴少うこそ見えさせおはしませ。物の少しも覺えさせ給ふ時、思し召す事あらば、仰せ置かれよ」とぞ宣ひける。入道相國、中編七八入道逝去七九
平家物語中編八〇ひ日來はさしもゆゝしうおはせしかども、今はの時にも成りしかば、世にも苦しげにて、息の下にて宣ひけるは、「當家は保元平治より以來、度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、忝くも一天の君のこんじやう御外戚として、丞相の位に至り、榮花旣に子孫に殘す。今生の望は、一事も思ひ置く事なし。ほ只思ひ置く事とては、兵衞の佐賴朝が首を見ざりつる事こそ、何よりも又本意無けれ。吾如何にも成りなん後、佛事孝養をもすべからず、堂塔をも立つべからず。急ぎ討手を下し、賴朝が首を刎ねて、我が墓の前に懸くべし。それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」と宣ひけるこそ、いとゞ罪深うは聞えし。若しや助かると、板に水を置いて、臥し轉び給へども、助かる心地もし給はず。同じき四日の日、悶絕躄地して、遂にあつち死にぞし給ひける。馬車の馳せ違ふ音は、天かでも響き大地も搖ぐ計り也。一天の君萬乘の主の、如何なる御事ましますとも、是には爭か勝るべき。今年は六十四にぞ成られける、老死と云ふべきにはあらねども、宿運忽に盡きぬれば、大法祕法の效驗もなく、神明佛陀の威光も消え、諸天も擁護し給はず、況んや凡慮に於てをや。身に替り命に代らんと、忠を存ぜし數萬の軍旅は、堂上堂下に竝み居たれども、是は目にも見えず力かかはみつせがはにも抱らぬ無常の刹鬼をば、暫時も戰ひ返さず。又歸り來ぬ死出の山、三瀨川、黃泉中有の旅の空に、唯一所こそ赴かれけれ。されども日來作り置かれし罪業計りこそ、獄卒と成つて迎にも來大老りけめ。哀れなりし事共也。さてしも有るべき事ならねば、同じき七日の日、愛宕にて烟になし喜ち奉り、骨をば圓實法眼頸にかけ、攝津の國へ下り、經の島にぞ納めける。さしも日本一州に名をなにわfare揚げ威を振ひし人なれども、身は一時の烟と成つて、都の空へ立ち上り、骸は暫し徘徊ひて、濱さ赤坂4の眞砂に〓れつゝ、空しき土とぞ成り給ふ。經の島·葬送の夜不思議の事有りけり。玉を延べ金銀を鏤めて作られたりける西八條殿、その夜俄に燒けにけり。人の家の燒くる事は、常の習ひなれども、何者の所爲にやありけん、放火とぞ聞えし。又六波羅の南に當つて、人ならば二三十人計りが聲して、「嬉しや水、鳴るは瀧の水」と云ふ拍子いこを出いて、舞ひ躍り、咄と笑ふ聲しけり。去んぬる正月には、上皇隱れさせ給ひて、天下諒闇に成りぬ。纔か一兩月を隔てゝ、入道相國薨ぜられぬ。心なき恠しの者も、如何か憂へざるべき。如何樣是は天狗の所爲といふ沙汰にて、平家のはやり男の兵共百餘人、笑ふ聲に付て是を尋ぬるに、院の御所法住寺殿には、この三箇年は院も渡らせ給はず、御所預備前の前司基宗と云ふ者あり。彼の基宗が相知つたる者共、酒を持つて來り集り飮みけるが、「かゝる折節に音なせそ」と經の島八一
平家物語中編八二て飮みけるが、「次第に飮み醉ひて、斯樣には舞ひ躍りける也。六波羅の兵共是を聞き付け、ばつ坪の内に引つ居ゑさせ、と推寄せ、酒に醉ひたる者共二三十人搦め捕つて、六波羅へ將て參り、前の右大將宗盛の卿、大床に立つて、事の子細を尋ね聞き給ひて、「實にも左樣に飮み醉ひたらんずる者を、左右なう斬るべき樣なし」とて、皆歸されけり。上下人の失せぬる跡には、朝夕に鐘例、時懺法する事は、打鳴し、常の習なれども、この禪門薨ぜられて後は、聊供佛施僧の營と云ふ事もなし。朝夕只軍合戰の營の外は、又他事なしとぞ見えし。凡そは最後の所勞の有樣共こそうたてけれども、誠には只人とも覺えぬ事共多かりけり。日吉の社へ參り給ひしにも、當家他家の公卿多く供奉して、攝簿の臣の春日の御參詣、氏入など申すとも、是には爭か勝るべきとぞ人申しける。何よりも又福原の經の島築いて、上下往來の船の、今の世に至る迄、煩ひなきこそ目出たけれ。彼の島は去ぬる應保元年二月上旬に、築き始められたりけるが、同じき八月二日の日、俄に大風吹き大浪立ちて、皆淘り失ひてき。同じき三年三月下旬に、阿波の民部重能を奉行にて、築かれけるに、人柱立てらるべきなんど、公卿僉議有りしかども、それは中々罪業なるべしとて、石の面に一切經を書いて、築かれたりける故にこそ、經の島とは名付けけれ。家物語中編八二慈心坊鱼廿或る人の申しけるは、「〓盛公は只人には非ず、慈慧僧正の化身也。その故は、攝津の國〓澄寺150の聖、慈心房尊惠と申しゝは、本は叡山の學侶、多年法華の持者也。然るを道心發し離山して、この寺に住みけるを、人皆歸依しけり。去んぬる承安二年十二月廿二日の夜に入つて、尊惠常住の佛前に至り、脇息によりかゝつて、法華經讀み奉りける處に、夢ともなく現ともなく、淨衣に立烏帽子著て、薬鞋脛巾したる男二人、立文を持て來たり。尊惠夢の中に、「あれは何よりぞ」と間ひ給へば、「閻魔王宮より宣旨の候」とて、尊惠に渡す。尊惠是を開いて見るに、「南閻浮提大日本大学國攝津の國〓澄寺の聖慈心房尊惠、來廿六日、闇魔羅城大極殿にして、十萬部の法華經あり。十萬國より十萬人の僧を供養し、法華轉讀せらるべき也。尊惠もその人數たる上、急ぎ參勤せらるべし。閻王宣仍つて屈請件の如し。承安二年十二月廿二日、閻魔の廳」とぞ書かれたる。尊惠いなみ申すには及ばねば、軈て領承の請文を奉ると覺えて、夢覺めぬ。是を院主の光影房に語りたりければ、聞く人身の毛竪ちけり。その後は偏に死去の思を成して、口には佛名を唱へ、心にいんぜふ引接の悲願を念ず。同じき廿五日の夜に入つて、又常住の佛前に參り、例の如く念誦讀經す。子慈心坊八三
平家物語中編八四とう〓〓の尅計り眠り切なるが故に、住房に歸つて打臥す。丑の尅計り、又先の如くに男二人來て、疾々と勸むる間、尊惠參詣致さんとすれば、衣鉢更になし、閻王宣を辭せんとすれば、甚だその恐あか、二六五り。この思をなす處に、法衣自然に身に纒つて肩に懸り、天より金の鉢下る。二人の從儈、二人の童子、十人の下僧、七寶の大車、寺坊の前に現ず。尊惠喜んで車に乘り、西北に向つて空を翔けると覺えて、程なく闇魔王宮に至りぬ。王宮の體を見るに、外郭曠々として、その内渺々たり。その中に七寶所成の大極、殿あり。高廣ほ·天ま金色にして、更に凡夫の眼に及び難し。その日の法會畢つて後、餘僧等皆歸り去んぬ。尊惠は大極殿の南方の中門に立つて、遙の大極殿を見渡せば、冥官冥衆、皆閻魔法王の御前に畏る。有C18り難き參詣也。この次に後生の罪障を尋ね申さんと思つて、步み向ふ。その間に二人の從僧箱をがげ持ち、二人の童子蓋をさし、十人の下僧列を引いて、漸々步み近づく時、闇魔法王、冥官冥衆悉く下り迎ふ藥王菩薩·勇施薩菩、二人の從僧に變じ、多門·持國、二人の童子に現ず。十羅刹女、十人の下僧に變じて、隨逐給仕し給へり。閻王問うて日く、「餘僧等皆歸り去んぬ。御房一人來る事如何」尊惠答へ申されけるは、「我れ幼少より法華轉讀每日怠らずと云へども、後生の罪障を未だ知らず、尋ね申さんが爲也」。闇王仰せけるは、「往生不往生は、人の信不信にありと云々。夫れ法華は、三世の諸佛の出世の本懷、衆生成佛の直道也。一念信解の功德は、五波羅蜜の行にも越え、五重展轉の隨喜の功德は、八十箇年の布施にも勝れたり。されば汝彼の功力に依つて、都率の內院に生ずべし」とぞ仰せける。閣王又其官に勅して仰せけるは、「この人の一期の行、作ぎせ善の文箱にあり。取出いて、化多の碑文見せ奉れ」と仰せければ、冥官畏り承つて、南方の寶藏に行いて、彼の一の文箱を取つて參り、卽ち蓋を開いて讀み聞かす。一期が間、思ひと思ひ、爲しと爲し事の、一つとして顯れずと云ふ事なし。尊惠悲歎啼泣して、「唯願くは出離生死の方法をなく〓〓〓へ、證大菩提の直道を示し給へ」と、泣々申されければ、間王哀愍〓化して、種々の偈を証す。妻子王位財眷屬死去無一來相親〓と常隨業鬼繋縛我受苦叫喚無邊際この偈を誦し終つて尊惠に附囑す。尊惠斜ならずに悅び、「南闇浮提大日本國に、平大相國と申す人こそ、攝津の國和田の御崎を點じて、四面十餘町に屋を建て、今日の十萬僧會の如く、多くの持經者を屈請して、坊々に一面に座につけ、念誦讀經、丁寧に勤行致され候」と申す。閻王隨喜感歎し給ひて、「件の入道は、只人には非ず、誠には慈慧僧正の化身也、その故は天台の佛法護持の爲に、假に日本に再誕する故に、我れ彼の人を日々に三度禮する文あり。件の入道に得さすべ慈心坊八五
平家物語中編八六し」とて、敬禮慈慧大僧正天台佛法擁護者じ示現最初將軍身惡業衆生同利益この文を讀み終つて、尊惠に又附囑す。尊惠悅びの淚を流いて、南方の中門を出づる時、十餘人の從僧等、車の前後を守護し、東南に向つて空を翔り、程なく歸り來るかと覺えて、夢の心地しいて息出でぬ。その後都へ上り、入道相國の西八條の亭に行いて、この由申したりければ、入道相國斜ならずに悅び、樣々に持て成し、樣々の引出物給で、その時の勸賞には、律師に成されけるとぞ聞えし。それよりしてこそ、〓盛公をば、慈慧僧正の化身とは、人皆知りてげり。持經上人は、弘法大師との再誕、白河の院は又持經上人の化身也。この君は功德の林をなし、善根の德を重ねさせおはします。末代にも、〓盛公、慈慧僧正の化身にて、惡業も善根も共に功を積んで、世の爲人の爲に、た自他の利益を成すと見えたり。彼の達多と釋尊の、同衆生の利益に異ならず。こ御祇園女祇園女御八七
平家物語中編八八又故い人の申しけるは、「〓盛公は直人には非ず。誠には白河院の御子也。その故は去んぬる永ほと久の比ほひ、祇園女御とて、幸人おはしき。件の女房の栖居所は、東山の麓祇園の邊りにてぞありける。白河の院常は彼へ御幸なる。或時殿上人一兩人、北面少々召具して、忍の御幸有りし吉させよろづに、比は五月二十日餘り、まだ宵の事なるに、五月雨さへ搔暮れて、萬物いぶせかりける折節、件の女房の宿所近う御堂あり、御堂の傍邊より光物こそ出で來たれ。頭は銀の針を磨き立てたる樣にきらめき、片手には槌の樣なる物を持ち、片手には光る物をぞ持つたりける。是ぞ誠の鬼Catと覺ゆる。手に持てる物は、聞ゆる打出の小槌なるべし。如何せんとて、君も臣も大に噪がせおはします。その時忠盛北面の下薦にて供奉せられたりけるを、御前へ召して、「この中には汝ぞ有とるなん、あの者射も殺し、斬りも留めなんや」と仰せければ、畏り承つて步み向ふ。忠盛內々思ひけるは、この者さして猛き者とは見えず、思ふに狐狸の所爲にてぞあるらん。是を射も殺し、斬りも留めたらんは、無下に念なからまし。同じくは生捕にせんと思うて、步み向ふ。と計り有つては颯とは光り、と計り有つては颯とは光り、二三度しけるを、忠盛走り寄つて、無手と組む。co組まれてこは如何にと噪ぐ。變化の者にてはなかりけり。人にてぞ候ひける。その時上下手手によ火を燃いて、是を御覽じ見給ふに、六十計りの法師也。喩へば御堂の承仕法師にてありけるが、家物語中編八八佛に御明を參らせんとて、片手には手瓶と云ふ物に油を入れて持ち、片手には土器に火を入れてぞ持ちたりける。雨はゐにゐて降る、濡れじとて、小麥の藁を引き結んで被いたりけるが、土器ていの火に耀いて、偏に銀の針の如くには見えける也。事の體一々次第に顯れぬ「是を射も殺し斬りも留めたらんは、如何に念無からまし。忠盛が振舞こそ誠に思慮深けれ。弓矢取は、優しかりけるもの哉」とて、さしも御最愛と聞えし祇園女御を、忠盛にこそ下されけれ。此の女御胎み給へり。「產めらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛取つて、弓矢取ひに仕立てよ」とぞ仰せける。卽ち男を產めり。事に觸れては披露せざりけれども、內々は持て成びんぎしけり。この事如何にもして、奏せばやと思はれけれども、然るべき便宜も無かりけるが、或時白河の院、熊野へ御幸なる。紀伊の國絲鹿坂と云ふ所に、御輿かき居ゑさせ、暫く御休息ありけぬかり。その時忠盛、藪に幾らも有りける零餘子を、袖にもり入れ、御前へ參り、畏つて、いもが子は這ふ程にこそ成りにけれと申されたりければ、院軈て御心得あつて、たゞもり取りてやしなひにせよとぞ付けさせまし〓〓ける。さてこそ吾が子とは持て成されけれ。この若君餘りに夜啼をし給ひこの若君餘りに夜啼をし給ひ祇園女御八九
平家物語平家物語中編九〇しかば、院聞し召して、一首の御詠を遊ばいてぞ下されける。夜啼すと忠盛立てよ末の代に、〓く盛ふる事もこそあれそれよりしてこそ、〓盛とは名乘られけれ。十二の歲元服して兵衞の佐に成り、十八の歲四品して、四位の兵衞の佐と申せしを、子細存知せぬ人は、「華族の人こそ斯は」と申されければ、島羽の院は知し召して、「〓盛が華族は、人に劣らじ」とこそ仰せけれ。昔も天智天皇、胎み給へる女御を大織冠に給ふとて、「この女御の產めらん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば臣が子にせよ」と仰せけるに、則ち男を產めり。多武の峯の本願、定慧和尙是也。上代にかゝる樣有りけれ大字十ば、末代にも〓盛公、誠には白河の院の皇子として、さしも容易からぬ天下の大事、都遷など云ふ事をも、思ひ立たれけるにこそ。九〇洲の股合戰同じき二十日の日、五條の大納言國網の卿も失せ給ひぬ。入道相國とさしも契深うおはせしが、同日に病付きて、同じ月失せ給ひけるこそ不思議なれ。同じき廿二日、前の右大將宗盛の卿院參して、院の御所を法住寺殿へ御幸なし奉るべき由奏せらる。彼の御所は去んぬる應保元年四月十五日に造り出されて新日吉、新熊野、間近う勸請し奉り、山水木立に至る迄、思し召す儘なりしが、平家の惡行に依つて、この二三箇年は、院も渡らせ給はず、御所の破壞したるを修理して、御幸成し參らすべき由、奏聞せられたりければ、法皇、「何の樣もあるべからず、只とう〓〓」とて御幸成る。先づ故建春門院のおはしける御方を御覽ずれば、岸の松、汀の柳、年經にけりと思5)しくて、木高くなれり。大液の芙蓉、未央の柳、是に向ふに如何んが淚進まざらん。彼の南內西書き宮の昔の跡、今こそ思し召し知られけれ。三月一日の日、南都の僧綱等、皆赦されて本官に復す。末寺莊園一所も相違有るべからざる由仰せ下さる。同じき三日の日、大佛殿事始あり。事始の奉行には、前の左少辨行隆ぞ參られける。この行隆、先年八幡へ參り、通夜せられたりける夢に、御寶殿の御戶推開き、鑿結うたる天童の出でゝ、「是は大菩薩の御使なり。大佛殿事始の奉行の時は、是を持つべし」とて、笏を賜はると云ふ夢を見て、覺めて後見給へば、現に枕上にぞ候ひける。あな不思議、當時何事有つてか、大佛殿事始の奉行には參るべきと思はれけれども、御靈夢なれば、懷中して宿所に歸り、深う納めて置かれけるが、平家の惡行に依つて、南都炎上の間、多くの辨の中に、この行隆選び出だされて、大佛殿事始の奉行に參られける、宿緣の程こそ目出たけれ。洲の股合戰九
平家物語中編九二もくだい同じき十日の日、美濃の國の目代、早馬を以て都へ申しけるは、源氏旣に尾張の國迄攻上り、道を塞いで人を一向通さぬ由申したりければ、平家軈て討手を差向けらる。大將軍には、左兵衞の督知盛、左中將〓經、同少將有盛、丹後の侍從忠房、侍大將には、越中の次郞兵衞盛續、上總の五郞兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、都合その勢三萬餘騎、尾張の國へ發向す。入道相國薨ぜられて、纔に五旬をだに滿たざるに、さこそ亂れたる世と云ひながら、あさましかりし事155 $Am共也。源氏の方には、十郞藏人行家、兵衞の佐の弟卿の公義圓、都合その勢六千餘騎、尾張川を隔てゝ、源平兩方に陣をとる。同じき十六日の夜に入つて、源氏六千餘騎河を渡いて、平家三萬餘騎が勢の中へ懸入り、寅の尅より矢合して、夜の明くる迄戰ふに、平家の方には些とも騷がず。大吉「敵は河を渡いたれば、馬物具も皆濡れたるぞ、それをしるしに討てや」とて、源氏を中に取り籠めて、我れ討取らんとぞ進みける。兵衞の佐の弟卿の公義圓、深入して討たれにけり。十郞藏人行家、散々に戰ひ、家の子郎等多く射させ、力及ばで、河より東へ引き退く。平家軈て河を渡いて、落ち行く源氏を追物射に射て行くに、あそここゝにて返し合せて防ぎ戰ふと云へども、多ck勢に無勢、叶ふべしとも見えざりけり。水澤を後にする事無かれとこそ云ふに、今度の源氏の謀(あるよやは、疎なりとぞ人申しける。十郞藏人行家は引退き、參河の國に打ち越えて、矢矧川の橋を引き、猶も續い搔楯搔いて待ち懸けたり。平家やがて續いて攻め給へば、そこをも遂に攻め落されぬ。て攻め給はゞ、參河遠河の勢は、容易う附くべかりしを、大將軍左兵衞の督知盛、勞有りとて、參河の國より都へ歸り上られけり。今度も僅に一陣をこそ破られたれども、殘黨を攻めざれば、差せるし出だしたる事無きが如し。平家は、去々年小松の大臣薨ぜられぬ。今年又入道相國失せあらはともがら給ひぬ。運命の末に成る事、顯なりしかば、年來恩顧の輩の外は、隨ひ附く者無かりけり。東國は草も木も皆源氏にぞ靡きける。しはごゑ喘涸聲涸去程に越後の國の住人、城の太郞助長、越後の守に任ぜらる。朝恩の忝さに、木曾追討の爲にとて、その勢三萬餘騎で、信濃の國へ發向す。六月十五日に門出して、旣に打立たんとしける夜いかづちおびたゞ人だ()には半計り、俄に空搔曇り、雷夥しう鳴つて、大雨下り、天晴れて後、虚空に喘涸れたる聲を以なんえんぶだいこんどうしやなぶつて、「南関浮提金銅十六丈の虛遮那佛燒亡し奉つたる、平家の方人する者爰にあり。依つて召取れや」と、三聲叫んでぞ通りける。城の太郞を始として、是を聞く兵共、皆身の毛竪ちけり。郞等共、「是程怖しき天の御告の候ふに、只理を枉げて留まらせ給()と云ひけれども、「弓矢取る身の喘涸聲九三
平家物語中編九四それに依るべからず」とて、城を出でて僅廿餘町ぞ行きたりける。又黑雲一村立ち來つて、助長が上に覆ふと見えしが、忽に身すくみ心ほれて、落馬してげり。輿に昇かれて館へ歸り、打ち臥す事三時計りありて、遂に死ににけり。飛脚を以て、都へこの由を申したりければ、平家の人々大に恐れ騷がれけり。同じき七月十四日改元ありて、養和と號す。その日除目行はれて、筑後の守貞能、肥後の守に成つて、筑前肥後兩國を賜つて、鎭西の謀叛平げに、その勢三千餘騎で、鎭西へ發向す。又その日非常の赦行はれて、去んぬる治承三年に流され給ひし人々、皆都へ召し返さる。入道松殿殿下、備前の國より上らせ給ふ。、妙音院太政の大臣臣、尾張の國より御上洛。按察の大納言資方の卿は、信濃の國より歸洛とぞ聞えし。同じき廿八日、妙音院殿御院參。去んぬる長寬の歸洛には、御前dc.の簀子にして、賀王恩、還城樂を彈き給ひしが、養和の今の歸京には、仙洞にして秋風樂をぞ遊ばされける。何れも何れも風情折を思し召しよらせ給ひける、御心操こそ目出たけれ。按察の大納言資方の卿も、その日同じう院參せらる。法皇叡覽有つて、「如何にや如何に、この比は習はぬ鄙の住居して、郢曲なども、今は定めて跡方あらじとこそ思し召せども、先づ今樣一つあれかし」と仰せければ、大納言拍子取つて、「信濃にあんなる木曾路川」と云ふ今樣を、是は正しう見聞かれしかば、「信濃に有りし木曾路川」と、歌はれけるこそ、時に取つての高名なれ。橫田河原合戰八月七日の日、官の廳にして、大仁王會行はる。是は將門追討の例とぞ聞えし。九月一日の日、純友追討の例とて、伊勢大神宮へ鐵の鎧甲を進らせらる。勅使は祭主神祇の權の大副大中臣の十六s定高、都を立つて、近江の國甲賀の驛より病付いて、同じき三日の日、伊勢の離宮にして、遂に死にぬ。又調伏の爲に、五壇の法承つて行ひける降三世の大阿閣梨、大行事の彼岸所にして、寢に死に死にぬ。神明も三寶も、御納受なしといふ事揭焉し。又大元の法承つて行ひける安祥寺の實玄阿闍梨が、御卷數を進らせたるを、披見せられければ、平氏調伏の由を注進しけるこそ怖しけれ。て、「こは如何に」と仰せければ、「朝敵調伏せよと仰下さる。つら〓〓當世の體を見候ふに、平家專ら朝敵と見えたり。仍つて彼を調伏す。何の咎や候ふべき」とぞ申しける。この法師奇怪也。死罪か流罪かと沙汰有りしかども、大小事の忽劇に打紛れて、何の沙汰にも及ばず。平家亡び源氏の代に成つて、鎌倉へ下り、この由斯と申しければ、鎌倉殿感じ給ひて、その勸賞に、僧正に成されけるとそ聞えし。同じき十二月廿四日、中宮院號蒙らせ給ひて、建禮門院とぞ申しける。主橫田河原合戰九五
平家物語中編九六上未だ幼主の御時、母后の院號是始とぞ承る。げ去程に今年も暮れて、養和も二年に成りにけり。節會已下常の如し。二月廿一日、太白昴星を侵す。天文要錄に曰く、「太白昴星を侵せば、四夷起る」と云へり。又「將軍勅命を承つて、國のまなか境を出づ」とも見えたり。三月十日の日、除目行はれて、平家の人々大略加階し給ふ。四月十五日、前の權少僧都顯眞、日吉の社にして、如法に法華經一萬部轉讀致さるゝ事有りけり。御結緣の爲にとて、法皇も御幸なる。何者の申し出だしたりけるやらん、「一院山門の大衆に仰せて、平家追討せらるべし」と聞えしかば、軍兵內裏へ參じて、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳せ集る。本三位の中將重衡の卿、その勢三千餘騎で、日吉の社へ參向す。山門に又聞え七三けるは、「平家山攻めんとて、登山す」と聞えしかば、大衆東坂本へ降り下つて、こは如何にと僉南方議す。法皇も叡慮を驚かさせおはします。公卿殿上人も色を失ひ、北面の輩共の中には、餘に368西五十周章て噪いで、黃水吐く者多かりけり。山上洛中の騷動斜ならず。去程に重衡の卿、穴太の邊にて、法皇迎へ取り進らせて、都へ還御なし奉る。一院山門の大衆に仰せて、平家追討せらるべしあとかたと云ふ事も、平家又山攻めんと云ふ事も、跡形なき空事也。只天魔の能く荒れたるにこそとぞ人申しける。法皇仰せなりけるは、「斯のみあらんには、この後は御物詣など申す御事も、御心には任すまじき事やらん」とぞ仰せける。同じき二十日の日、廿二社へ官幣使を立てらる。是は饑饉疾疫に依つて也。同じき五月二十四日に改元ありて、壽永と號す。その日除目行はれて、越後の國の住人、城の四郞助茂、越後の守に任ず。兄助長逝去の間、不吉なりとて頻に辭し申しけれども、勅命なれば力及ばず。是に依つて、助茂を長茂と改名す。去程に、九月二日の日、越後の國の住人、城の四郞長茂、木曾追討の爲にとて、越後、出羽、會津四郡の兵共を引率して、都合その勢四萬餘騎、信濃の國へ發向す。同じき九日の日、當國橫田河原に陣をとる。木曾は依田の城にありけるが、三千餘騎で城を出でて馳せ向ふ。爰に信濃源氏、井上の九郞光盛が謀に、三千餘騎を七手に分ち、六九九九俄に赤旗七旒作つて手手に指し揚げ、あそこの峯、爰の洞より寄せければ、越後の勢共是を見て、「あはやこの國にも御方の有りけるは。力付きぬ」とて勇み悅ぶ處に、次第に近う成りければ、おハつ相圖を定めて、七手が一つに成り、赤旗共切り捨てさせ、兼て用意したりける白旗を、さつと差森し揚げて、関を咄と作りければ、越後の勢共、是を見て、「こは謀られにけり。敵何十萬騎かあるらん、取り籠められては叶ふまじ」とて、周章ふためきけるが、或は河へ追つばめられ、或は惡所へ追ひ落されて、助かる者は少う、討たるゝ者ぞ多かりける。城の四郞が宗と賴み切つたる越同じき二十日の日、廿二社へ官幣使を立てらる。是は饑饉權田河原合戰九七
平平家物語中編九八後の山の太郞、會津の乘丹房など云ふ一人當千の兵共、そこにて皆討取られぬ。城の四郞我が身手負ひ、辛き命を生きつゝ、河に附いて越後の國に引退く。飛脚を以て都へこの由を申したりけれども、平家の人々是を事ともし給はず。同じき十六日前の右大將宗盛の卿、大納言に還著して、十月三日の日、內大臣に成り給ふ。同じき七日悅申の有りしに、公卿には花山の院中納言を始め奉つて、十二人扈從して、遣り續けらる。藏人の頭親宗以下、殿上人十六人前驅す。中納言四人、三位の中將も三人迄おはしき。東國北國の源氏等、蜂の如くに起り合ひ、只今都へ亂れ入る由聞えしかども、平家の人々は、風の吹くやらん、波の立つやらんをも知り給はず。斯樣に花やかなりし事共、中々云ふ甲斐なうぞ見えし。去程に今年も暮れて、壽永も二年に成りにけり。節會以下常の如し。正月五日の日、朝覲の行幸有りけり。是は鳥羽の院六歲にて、朝覲の行幸有りし、其の例とぞ聞えし。二月廿一日、宗盛ふ公從一位し給ふ。軈てその日內大臣をば上表せらる。是は兵亂愼みの爲とぞ聞えし。南都北嶺の大衆、熊野金峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に至る迄、一向平家を背いて、源氏に心を通はしけり。四海に宣旨を成し下し、諸國へ院宣を遣せども、院宣宣旨をも、皆平家の下知とのみ心得て、隨ひ附く者無かりけり。九八卷第七北國下向壽永二年三月上旬に、木曾の冠者義仲、兵衞の佐賴朝、不快の事有りと聞えけり。去程に鎌倉の前の兵衞の佐賴朝、木曾追討の爲にとて、其勢十萬餘騎で、信濃の國へ發向す。木曾はその比依田の城にありけるが、その勢三千餘騎で、城を出でゝ、信濃と越後の境なる熊坂山に陣を取る。兵衞の佐も同じき國の內、善光寺にこそ著き給へ。木曾、乳母子の今井の四郞兼平を使者にて、兵衞の佐の許へ遣す。「抑御邊は東八箇國を打隨へて、東海道より攻め上り、平家を追ひ落さんとはし給ふ也。義仲も東山北陸兩道を打隨へて、北陸道より攻め上り、今一日も先に平家を亡さんとする事でこそあるに、如何なる子細有つてか、御邊と義仲中を違うて、平家に笑はれんとは思ふ可き。但し叔父の十郞藏人殿こそ、御邊を恨み奉る事有りとて、義仲が許へおはしつるを、義仲さへすげなう應答ひ持て成し申さん事、如何ぞや候へば、是までは打連れ申したり。義仲に於ては、全く意趣思ひ奉らず」と、宣ひ遣されたりければ、兵衞の佐の返事に、「今こそ左樣に宣へど北國下,向九九
平家物語中編一〇〇まも、正しう賴朝討つべき由の謀叛の企有りと、告げ知らする者あり。但しそれには依るべからず」とて、土肥·梶原を先として、數萬騎の軍兵を指し向けらるゝ由聞えしかば、木曾眞實意趣なき由cofを顯さんが爲に、嫡子に〓水の冠者義重とて、生年十一歳に成りける小冠者に、海野·望月·諏訪·藤澤など云ふ一人當千の兵を相副へて、兵衞の佐の許へ遣す。兵衞の佐、「この上は誠に意趣無かりけり。賴朝未だ成人の子を持たず。よし〓〓さらば子にし申さん」とて、〓水の冠者を相具して、鎌倉へこそ歸られけれ。去程に、木曾義仲は、東山北陸兩道を打隨へて、旣に都へ亂れ入る由聞えけり。平家は去年の冬の比より、明年は馬の草飼に付きて、軍有るべしと披露せられたりければ、山陰山陽南海西海の兵共、雲霞の如くに馳せ集る。東山道は近江美濃飛驒の兵は參りたれども、東海道は遠江より東の兵は一人も參らず、西は皆參りたり。北陸道は若狭より北の兵は一人も參らず。平家の人々先づ木曾義仲を討つて後、兵衞の佐賴朝を討つべき由の公卿僉議有りて、北國へ討手を差向けらる。大將軍には、小松の三位の中將維盛、越前の三位通盛、副將軍には、薩摩の守忠度、皇后宮の亮經正、淡路の守〓房、參河の守知度、侍大將には、越中の次郞兵衞盛續、上總の大夫判官忠綱飛驒の大夫判官景高、河內の判官秀國、高橋の判官長綱、武藏の三郞左衞門有國をさきとし一〇〇て、以上大將軍六人、然るべき侍三百四十餘人、都合その勢十萬餘騎、四月十七日の辰の一點に都を立つて、北國へこそ赴かれけれ。片道を賜つてげれば、相坂の關より始めて、路次に持つて逢ふ權門勢家の正稅官物をも恐れず、一々に皆奪ひ取る。志賀·唐崎·三川尻·眞野·高島·鹽津·貝津の道の邊を、次第に追捕して通りければ、人民こらへずして、山野に皆逃散す。竹生島詣大將軍維盛·通盛は進み給へども、副將軍忠度·經正·〓房·知度などは、未だ近江の國鹽津貝津に扣へ給へり。中にも皇后宮の亮經正は、幼少の時より、詩歌管絃の道に長じ給へる人にて九九九九おはしければ、かゝる亂の中にも、心を澄し、或朝、湖の端に打ち出でゝ、遙の漢なる島を見渡いよて、伴に候ふ藤兵衞の尉有〓を召して、「あれは如何なる島ぞ」と問ひ給へば、「あれこそ聞え候竹生島にて候へ」と申しければ、經正、「さる事あり、いざや參らん」とて、藤兵衞の尉有〓、安右衞門の尉守〓以下、侍六人召具して、小船に乘り、竹生島へぞ參られける。比は卯月中の八日の事なれば、綠に見ゆる梢には、春の情を殘すかと疑はれ、淵谷の鶯舌の聲老いて、初音ゆかしきほとゝぎす郭公、折知り顏に〓げ渡り、松に藤浪咲き懸つて、誠に面白かりければ、經正急ぎ舟より降り、竹生島詣一〇一
平家物語中編一〇二CAE岸に揚つて、この島の景色を見給ふに、心も言も及ばれず。彼の秦皇漢武、或は童男卯女を遣はし、或は方士をして不死の藥を求めしめ、蓬萊を見ずば、竟や還らじと云ひて、徒に船の中にて10老い、天水茫々として、求むる事を得ざりけん、蓬萊洞の有樣も、是には過ぎじとぞ見えし。或經の文に云く、闇浮提の內に湖有り、その中に金輪際より生ひ出でたる水精輪の山有り、天女栖む所と云へり。則ちこの島の御事也とて、經正、明神の御前につい居給へり。「夫れ大辯功德天は、往古の如來、法身の大士なり。妙音辯才二天の名は、各別なりとは申せども、本地·一體にして、衆生を濟度し給へり。一度參詣の輩は、所願成就圓滿すと承れば、賴もしうこそ候へ」とて、靜やう〓〓いよ〓〓かゞやに法施參らせて居給へば、漸々日暮れ、居待の月指し出でゝ、海上も照り渡り、社壇も彌 輝して、誠に面白かりければ、常住の僧、「これは聞ゆる御事なり」とて、御琵琶を奉る。經正是を取つて彈き給ふに、上玄石上の祕曲には、宮の中も澄み渡り、誠に面白かりければ、明神も感應に堪へずや思しけん。經正の袖の上に、白龍現じて見え給へり。經正餘りの忝さに、暫く御琵琶を指し置かせ給ひて、斯ぞ思ひ續けらる。千早振神に祈りの叶へばや、しるくも色の顯はれにけり目の前にて朝の怨敵を平げ、凶徒を退けん事疑ひなしと悅んで、又船に乘り、竹生島をぞ出でら中編一〇二又船に乘り、竹生島をぞ出でられける。有り難かりし事共也。ひ火ら燧合戰ひ5去程に木曾義仲は、自らは信濃にありながら、越前の國火燧が城をぞ構へける。彼の城郭に籠がしへいせいじ石黑、る勢、平泉寺の長吏齋明威儀師、富樫の入道佛誓、稻津の新介、齋藤太、林の六郞光明、宮崎、土田、武部、入善、佐美を始として、六千餘騎こそ籠りけれ。所本より究竟の城郭、磐石こ峙ち囘つて、四方に峯を連ねたり。山を後にし、山を前にあつ。城郭の前には、能美河、新道河とて流れたり。彼の二つの河の落合に、大石を重ね上げ、大木を伐つて逆木に引き、柵を夥しう§搔上げたれば、東西の山の根に、水塞きこうで、湖に向へるが如し。影南山を浸し、靑うして滉8つこんごんこんめいち漾たり。浪西日を沈めて、紅にして齋淪たり。彼の無熱池の底には、金銀の砂を敷き、昆明池の渚には、德政の船を浮べたり。我が朝の火燈が城の築池は、堤をつき、水を濁して、人の心を誑大字さす。船なくしては容易う渡すべき樣無かりければ、平家の大勢、向ひの山に宿して、徒に日數をぞ送りける。彼の城郭に籠つたる平泉寺の長吏齋明威儀師、平家に志深かりければ、山の根を廻せうそくひきめり、消息を書き、蟇目に入れ、平氏の陣へぞ射入れたる。兵共是を取つて、大將軍の御前に參り、火燧合戰一〇三
平家物語中編一〇四開いて見るに、「この川と申すは、往古の淵に非ず。一旦山川を塞留め、水を濁して、人の心を誑す。夜に入つて足輕共を遣して、柵を切落させられなば、水は程なく落つべし。急ぎ渡させ給へ。爰は馬の足立好き所にて候。後矢をば仕らん。斯申す者は、平泉寺の長吏齋明威儀師が申狀」とぞ書いたりける。平家斜ならずに悅び、夜に入り足輕どもを遣して、柵を切落させられたりけれ5Fば、誠の山河ではあり、水は程なく落ちにけり。平家暫の遲々にも及ばず、颯と渡す。城の內にも六千餘騎、防ぎ戰ふと云へども、多勢に無勢、叶ふべしとも見えざりけり。平泉寺の長吏齋明威儀師は、平家に附いて忠をいたす。富樫の入道佛誓、稻津の新介、齋藤太、林の六郞光明、叶はじとや思ひけん、加賀の國へ引き退き、白山河內に陣を取る。平家軈て加賀の國に打ち越え、富樫林が城郭二箇所燒拂ふ。何面を向ふべしとも見えざりけり。國々宿々より飛脚を以てこの由七六、都へ申したりければ、大臣殿を始め奉りて、一門の人々、勇み悅びあはれけり。同じき五月八日の日、平家は加賀の國篠原に著いて、大手搦手二手に分つ。大手の大將軍には、小松の三位の中將維盛、越前の三位通盛、侍大將には、越中の次郞兵衛盛續を始めとして、都合その勢七萬餘騎、加賀越中の境なる砥浪山へぞ向はれける。搦手の大將軍には、薩摩の守忠度、皇后宮の亮經正、淡路の守〓房、參河の守知度、侍大將には、武藏の三郞左衞門有國を先として、中編一〇四火燧合戰一〇五
平家物語中編一〇六ほふ都合その勢三萬餘騎、能登越中の境なる、志保の山へぞ向はれける。木曾はその比越後の國府にありけるが、是を聞いて、五萬餘騎で國府を立つて、砥浪山へ馳せ向ふ。義仲が軍の吉例なればとて、五萬餘騎を七手に分つ。先づ叔父の十郞藏人行家、一萬餘騎で志保の山へぞ向ひける。樋口の次郞兼光、落合の五郞兼行、七千餘騎で北黑坂へ差し遣す。仁科、高梨、山田の次郞、七千좋まつながみ餘騎南黑坂へ遣しけり。一萬餘騎は砥浪山のすそ、松長の柳原、菜黄の木林に引隱す。今井の四鷲瀬を打渡り、をや郞兼平、六千餘騎日の宮林に陣を取る。木曾我が身一萬餘騎で小野部の渡りをしなみはにて、砥浪山の北のはづれ、羽丹生に陣をぞ取つたりける。木曾の願書木曾殿宣ひけるは、「平家は大勢であんなれば、軍は定めて懸合の軍にてぞあらんずらん。懸合の軍と云ふは、勢の多少による事なれば、大勢かさに懸けて、取籠められては叶ふべからず。先ながれづ謀に白旗三十旒先立てゝ、黑坂の上に打立てたらば、平家これを見て、あはや源氏の先陣の向うたるは、何十萬騎かあるらん。取籠められては叶ふまじ。この山は四方岩石なれば、搦手よもて廻らじ。暫く下り居て、馬休めんとて、砥浪山にぞ下り居んずらん。その時義仲暫く應答ふ體にら持て成して、日を待ち暮し夜に入つて、平家の大勢、後の倶利伽羅が谷へ追ひ落さん」とて、先づ白旗三十旒読み黑坂の上に打立てたれば、案の如く平家是を見て、「あはや源氏の大勢の向うたるは。取籠められては叶ふまじ。爰は馬の草飼水便共に好げ也。暫く降り居て馬休めん」とて、砥はにふ浪山の山中、猿の馬場と云ふ所にぞ下り居たる。木曾は羽丹生に陣取つて、四方を吃と見廻せば、あけ前には鳥居ぞ立つたり夏山の峯の綠の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、片そぎ作りの社あり。あがける。木曾殿、國の案內者を召して、「あれをば何くと申すぞ。如何なる神を崇め奉つたるぞ」とやはた宣へば、「あれこそ八幡にて渡らせ給ひ候へ。所も軈て八幡の御領で候」と申す。木曾斜ならずにだいぶ悅び、手書に具せられたりける、大夫房覺明を召して、「義仲こそ何となう寄すると思ひたれば、幸に新八幡の御寶前に近付き奉つて、はた合戰を旣に遂げんとすれ。さらんにとつては、且は後代の爲、且は當時の祈禱の爲に、願書を一筆書いて進らせうと思ふは如何に」と宣へば、覺明、「此の儀尤も然るべう候」とて、馬より下りて書かんとす。覺明がその日の爲體、褐の直垂に黑絲威のは甲をば脫いで鎧著て、黑漆の太刀を帶き、二十四差いたる黑親の矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、哀れ文武二道の高紐に懸け、箙の方立より小硯疊紙取出し、木曾殿の御前に畏つて願書を書く。心はみちひろ達者哉とぞ見えたりける。この覺明と申すは、本は儒家の者也。藏人道廣とて、勸學院にぞ候ひ木曾の願書一〇七
平家物語中編一〇八ける。出家の後は、最乘坊信救とぞ名乘りける。常は南都へも通ひけり。一年高倉の宮園城寺へ南都の大衆如何思ひけん、入御の時、山奈良へ牒狀を遣されけるに、その返牒をばこの信救にぞ書かせける。抑〓盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥とぞ書いたりける。入道大に怒つて、「何條その信救めが、淨海程の者を、平氏の糠槽武家の塵芥と書くべき樣こそ奇恠なれ。急ぎその法師ら搦め捕つて、死罪に行へ」と宣ふ間、是に依つて、南都には堪へずして、北國へ落ち下り、木曾大夫坊覺明殿の手書して、と名乘る。その願書に云く、「歸命頂禮八幡大菩薩、日域朝廷の本主、累世明君の曩祖也。寶祚を守らんが爲、蒼生を利せんが爲に、三身の金容を顯し、三所の權扉を排き給へり。爰に頃の年より以來、平相國と云ふ者ありて、四海を管領し萬民を惱亂せしむ。是既に佛法の怨、王法の敵也。義仲苟くも弓馬の家に生れて、纔に箕表の塵を繼ぐ。彼の暴惡を案ずるに、思慮を顧みるに能はず。運を天道に任せて、身を國家に投ぐ。誠に義兵を起して兇器をじまえまち〓〓退けんと欲す。然るに鬭戰兩家の陣を合すと雖も、士卒未だ一致の勇を得ざる間、區々の心を怕れたる處に、今一陣旗を擧ぐ。戰場にして忽に三所和光の社壇を拜す。機感の純熟明か也。凶徒Ex誅戮疑無し。歎喜淚翻れて、渴仰肝に染む。就中曾祖父前の陸奥の守義家の朝臣、身を宗廟の氏きせい族に歸附して、名を八幡太郞義家と號せしより以來、その門葉たる者、歸敬せずといふ事無し。ゆう、かひ義仲その後胤として、首を傾けて年久し。今この大功を起す事、譬へば嬰兒の盡を以て巨海を測り、蟷螂が斧を怒らかいて隆車に向ふが如し。然りと雖も、國の爲君の爲にして之を起す、全く身の爲家の爲にして之を起さず。志の至、神感空に在り、憑もしき哉、悅ばしき哉。伏して願くは冥顯威を加へ、靈神力を勠せて、勝つことを一時に決し、怨を四方へ退け給へ。然れば則ち丹源祈冥慮に叶ひ、玄鑒加護を成すべくば、先づ一の瑞相を見せしめ給へ。壽永二年五月十一日、古トロの義仲敬みて曰す」と書いて、我が身を始めて、十三騎が上矢の鏑を拔き、願書に取り副へて、大菩薩の御寶殿にぞ納めける。憑もしき哉、八幡大菩薩、眞實の志二つなきをや遙に照覽し給ひじんらけん、雲の中より山鳩三つ飛び來つて、源氏の白旗の上に翩翻す。昔神功皇后新羅を攻めさせ給ひし時、御方の戰弱く、異國の軍强くして、旣に斯と見えし時、皇后天に御祈誓ありしかば、雲ののより靈地ニニ飛求來つて、御方の名の四に頗れて、異國の軍破又この人々の先祖、賴義の朝臣、奥州の夷貞任宗任を攻め給ひし時、御方の戰弱く、凶賊の軍强くして、既に斯と見おえしかば、賴義の朝臣、敵の陣に向つて、「是は全く私の火に非ず、神火なり」とて火を放つ。風忽に夷賊の方へ吹き覆ひ、廚河の城燒け落ちぬ。その時軍破れて貞任宗任亡びにけり。木曾殿斯樣の先蹤を思ひ出でて、急ぎ馬より降り、甲を脫ぎ、手水嗽をして、今この靈鳩を拜し給ひける、木曾の願書一〇九
平家物語층の心の中こそ憑もしけれ。中編一一〇か倶利伽羅落去程に源平兩方陣を合す。陣のあはひ纔三町計りに寄せ合せたり。源氏も進まず、平家も進まやせいひやうおも〓す。良有りて、源氏の方より、精兵を勝つて、十五騎楯の面に進ませ、十五騎が上矢の鏑を、只いだい こ一度に平氏の陣へぞ射入れたる。平家も十五騎を出いて、十五の鏑を射返さす。源氏三十騎を出いて、三十の鏑を射さすれば、平家も三十騎を出いて、三十の鏑を射返さす。源氏五十騎を出せば、平家も亦五十騎を出し、百騎を出せば、百騎を出す。兩方百騎づつ陣の面に進ませ、互に勝わざ負をせんと早りけるを、源氏の方より制して、態と勝負をばせさせず。斯樣に應答ひ、日を待暮し夜に入つて、平家の大勢を、後の倶利伽羅が谷へ追ひ落さんと謀りけるを、平家是をば夢にもあひしら知らず、共に應答ひ、日を待ち暮すこそはかなけれ。えびら去程に北南より廻る搦手の勢一萬餘騎、倶利伽羅の堂の邊に廻り合ひ、箙の方立打ち敲き、開を咄とぞ作りける。各後を顧み給へば、白旗雲の如くに差上げたり。この山は四方岩石であるなれば、搦手よも廻らじとこそ思ひつるに、こは如何にとぞ噪がれける。去程に大手より木曾殿一となみやまニ萬餘騎、関を合せ給ふ。砥浪山のすそ、松長の柳原、菜黄の木林に引き隱したりける一萬餘騎、ひか日の宮林に扣へたる今井の四郞の六千餘騎も、同じう関をぞ合せける。前後四萬餘騎が喚く聲に、山も河も只一度に崩るゝとこそ聞えけれ。去程に次第に闇うはなる、前後より敵は攻め來やからる。「きたなしや、返せや返せ」と云ふ族多かりけれども、大勢の傾き立つたるは、左右なう取つて返す事の難ければ、平家の大勢後の倶利伽羅が谷へ、我れ先にとぞ落ち行きける。先に落したる者しゆの見えねば、この谷の底にも道のあるにこそとて、親落せば子も落し、兄が落せば弟も落し、主落せば家の子郞等も續きけり。馬には人、人には馬、落ち重り〓〓、さばかり深き谷一つを、平造り矢家の勢七萬餘騎でぞ埋めたりける。巖泉血を流し、死骸岡を成せり。さればこの谷の邊には、の穴刀の疵殘つて、今にありとぞ承る。平家の方の侍大將、上總の大夫判官忠綱、飛驒の大夫の5c判官景高、河内の判官秀國も、この谷の底に埋れてぞ失せにける。又備中の國の住人瀨尾の太郞くらみつなりずみ兼康は、聞ゆる兵にてありけれども、運や盡きにけん、加賀の國の住人倉光の次郞成澄が手に懸かへりちうつて、生捕にこそせられけれ。又越前の國火燧が城にて忠したりける平泉寺の長吏齋明威儀師も囚はれて出で來る。木曾殿、「その法師は餘りに憎きに、先づ斬れ」とて斬らせらる。大將軍維希有にして加賀の國へ退く。5盛通盛、七萬餘騎が中より、僅二千餘騎こそ遁れたれ。同じき十二倶利伽羅落-一-一
平家物語中編一一二日奧の秀衡が許より、木曾殿へ龍蹄二匹奉る。一匹は白月毛、一匹は連錢葦毛なり。軈てこの馬じんbに鏡鞍置いて、白山の社へ神馬に立てらる。木曾殿今は思ふ事なしとておはしけるが、「但し伯父の十郞藏人殿の、志保の戰こそ覺束なけれ。いざや行いて見ん」とて、四萬餘騎が中より、馬や人を勝つて、二萬餘騎で馳せ向ふ。爰に氷見の湊を渡らんとし給ひけるが、折節沙滿ちて深さ淺さを知らざりければ、木曾殿先づ策に、較置馬十匹計り追ひ入れられたりければ、鞍爪ひたる程にて、相違なく向ひの岸にぞ著きにける。木曾殿是を見給ひて、「淺かりけるぞ、渡せや」とて、二萬餘騎さつと渡いて見給へば、案の如く十郞藏人殿は、散々に懸け成され引退き、人馬のおもしま息休むる所に、新手の源氏二萬餘騎、平家三萬餘騎が中へ駈け入り、揉に揉うで、火出づる程にぞ攻めたりける。大將軍參河の守知度討たれ給ひぬ。是は入道相國の末子也。その外兵多く亡びだにけり。平家其をも追ひ落されて、加賀國へ引退く。木曾殿は志保の山打ち越えて、能登の小田中、新王の塚にぞ陣をとる。篠原合戰た多田の八幡へは蝶屋の庄、木曾殿、軈てそこにて諸社へ神領を寄せらる。菅生の社へは能美のはんぱらはくさん庄、氣比の社へは飯原の庄、白山の社へは橫江宮丸二箇所の庄を寄進す。平泉寺へは藤島七〓をぞ寄せられける。去んぬる治承四年八月石橋山の合戰の時、兵衞の佐殿射奉りし武士共、皆迯げ上3Fつて、平家の御方にぞ候ひける。宗徒の人々には、長井の齋藤別當實盛、浮巢の三郞重親、俣野の五郞景久、伊藤の九郞助氏、眞下の四郞重直也。是等は皆軍のあらん程、暫く休まんとて、日じゆんしゆ每に寄り合ひ寄り合ひ、酒をしてぞ慰みける。先づ長井の齋藤別當が許に寄り合ひたりける日、つら〓ま實盛申しけるは、「倩當世の體を見候ふに、源氏方は彌强く、平家の御方は、負色に見えさせ給ひて候。いざ各木曾殿へ參らう」と云ひければ、皆、「さんなう」とぞ同じける。次の日、又浮巢の三郞が許に寄合ひたりける時、齋藤別當、「さても昨日實盛が申しゝ事は、如何に各」と云ひければ、その中に俣野の五郞景久、進み出でゝ申しけるは、「流石我等は、東國では人に知られて、こ焼き名ある者でこそあれ。吉に附いて、彼方へ參り此方へ參らん事は、見苦しかるべし。人人の御心共をば知り參らせぬ候。景久に於ては、今度の平家の御方で、討死せんと思ひ切つて候ふぞ」と云ひければ、齋藤別當嘲笑つて、「誠には各の御心共をがなひかんとてこそ中し實盛も今度僕に、so北國にて討死せんと思ひ切つて候へば、二度命生きて都へは歸るまじき由、大臣殿へも申し上げ、人々にもその樣を申し置き候」と云ひければ、皆又この議にぞ同じける。その約束を違へじとや篠原合戰一三
平家物語中編一一四當座に有りける二十人の侍共も、今度北國にて一所に死ににけるこそ無慚なれ。平家は加賀の國篠原に引退いて、人馬の息をぞ休めける。同じき五月二十日の日、木曾殿五萬餘騎、篠原へぞ向はれける。木曾殿の方より、今井の四郞兼平、先づ五百餘騎にて馳せ向ふ。平家の方には、畠山の庄司重能、小山田の別當有重、宇都の宮の左衞門朝綱、是等は大番役にて、折節在京したりけるを、大臣殿、「汝等は故い者也。軍の樣をも掟てよ」とて、今度北國へ向けられたり。彼等兄弟三百騎で打ち向ふ。畠山今井、始は五騎十騎づゝ出合ひて、勝負をせさせけるが、後には兩方亂れ逢うてぞ戰ひける。同じき二十一日の午の尅、草も颱がず照らす日に、源平の兵共、我れ劣らじと戰へば、遍身より汗出でゝ、水を流すに異ならず。今井が方にも、兵多く亡びにけり。畠山家の子郎等多く討たせ、力及ばで引退く。次に平家の方より、高橋の判官長綱、五百餘騎で馳せ向ふ。木曾殿の方より、樋口の次郞兼光、落合の五郞兼行、三百餘騎で打向ふ。源平の兵共、暫し支へて防ぎ戰ふ。されども高橋が方の勢は、國々の驅武者なりければ、一騎も落合〓はず、我れ先にとぞ落行きける。高橋心は猛う思へども、後あばらに成ければ、力及ばず、只騎南を指してぞ落行きける。爰に越中の國の住人人善の小太郞行重、よい敵と目を懸け、鞭鐙をほ塔ち合せて馳せ來り、押し並べて無手と組む。高橋入善を摑うで、鞍の前輪に推付け、ちつとも動か中編一一四さず、「さてわ君は何者ぞ、名乘れ、聞かう」と云ひければ、「越中の國の住人入善の小太郞行重、生年十八歲」とぞ名乘つたる。高橋淚をはら〓〓と流いて、「あな無慚、去年おくれたる長綱が子もあらば、今年十八歲ぞかし。わ君ねぢ切つて捨つべけれども、さらば助けん」とて赦しけり。だ高橋の判官は御方の勢待たんとて、馬より下りて息續ぎ居たり。入善も休み居たりけるが、哀れよき敵、我をば助けたれども、如何にもして討たばやと思ひ居たる所に、高橋是をば夢にも知らず、打ち解けて物語をぞし居たる。入善は聞ゆる早わざの男にてありければ、高橋が見ぬ隙に、刀を拔き立ち上り、高橋の判官が内甲を健にさす。刺されて疼む所に、入善が郞等、おくればせに三騎馳せ來つて落合ひたり。高橋心は猛う思へども、敵はあまたあり、手は負うつ、運や盡きにけん、そこにて遂に討たれぬ。次に平家の方より、武藏の三郞左衞門有國、三百餘騎で喚いてかく。木曾殿の方より、仁科·高梨·山田の次郞五百餘騎で打ち向ふ。是も暫し支へて防ぎ戰ふ。されども有國は、餘りに深入して戰ひけるが、馬をも射させ步立になり、甲をも打落され、大童に至るに成つて、矢種皆盡きければ、打物拔いて戰ひけるが、矢七つ八つ射立てられ、敵の方を睨へ、立死にこそ死ににけれ。大將斯樣になる上は、其勢皆落ちぞゆく。篠原合戰二五
平家物語中編一一六實盛最後落行く勢の中に、武藏の國の住人、長井の齋藤別當實盛は、存ずる旨ありければ、赤地の錦の:直垂に、萌黄威の鎧著て、鍬形打つたる甲の〓をしめ、金作の太刀を帶き、二十四差いたる截生の矢負ひ、滋籐の弓持つて、連錢葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乘つたりけるが、御方の勢は落ち行けども、只一騎返し合せ〓〓防ぎ戰ふ。木曾殿の方より、手塚の太郞進み出でて、「あなやさし、如何なる人にて渡らせ給へば、御方の御勢は皆落行き候ふに、只一騎殘らせ給ひたるこそ優に覺え候へ。名乘らせ給へ」と、詞をかけければ、「先づ、新云ふ和殿は誰そ」。「信濃の國の住古老舍人手塚の太郞金刺の光盛」とこそ名乘つたれ。齋藤別當、「さては互によき敵、但し和殿を下ぐるには非ず、存ずる旨があれば、名乘る事はあるまじいぞ。寄れ、組まう、手塚」とて、馳せ雙ぶる處に、手塚が郞等、主を討たせじと、中に隔たり、齋藤別當に押し雙べて無手と組む。齋藤別當、「哀れ己れは、日本一の剛の者と組んでうずよ、なうれ」とて、我が乘つたりける鞍の前輪に押付けて、些とも動かさず、頸搔切つて捨ててげる。手塚の太郞、郞等が討たるゝを見て、弓手に廻り合ひ、鎧の草摺引上げて、二刀刺し、弱る所を組んでふす。齋藤別當心は猛う思へども、軍にはし羸れぬ。手は負うつ。其上老武者ではあり、手塚が下にぞ成りにける。手塚の太郞馳せ來る郞等に頸取らせ、木曾殿の御前に參り異つて、「光盛こそ奇異の曲者と組んで、討つて參つて候へ。侍かと見候へば、錦の直垂を著て候。又大將軍かと見候へば、續く勢も候はず。名乘れ名乘れと責め候ひつれども、遂に名乘り候はず。聲は坂東聲にて候ひつる」と申しければ、木會殿、「哀れ是は齋藤別當にてあるござんなれ。それならんには、義仲が上野へ越えたりし時、稚目にゆ·せ見しかば、白髪の糟尾なつしぞかし。今は早七十にも餘り、白髪にこそ成りぬらんに、鬢鬚の黑いこそ奇しけれ。樋口の次郞兼光は、年來馴れ遊んで、見知りたるらん。樋口召せ」とて召されけり。樋口の次郞只一目見て、「あな無慚、齋藤別當にて候ひけり」とて、淚を流す。木曾殿、「そやれならんには、早七十にも餘り、白髪にこそ成りぬらんに、鬢鬚の黑いは如何に」と宣へば、良ゆ有つて、樋口の次郞淚を押へて申しけるは、「左候へば、その樣を申上げんと仕り候ふが、餘りに哀れに覺え候ひて、先づ不覺の淚のこぼれ候ひけるぞや。されば弓矢取は、聊の所にても、思出の言をば、兼て使ひ置くべき事にて候ひけるぞや。齋藤別當、常は兼光に逢うて、物語し候ひしは、六十に餘りて、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黑う染めて、若やがうと思ふ也。その故は、若殿原に爭うて、先を懸けんも長げなし。又老武者とて、人の慢らんも口惜しかるべしと申し候ひ盛最後一一七實盛最後
平家物語中編一一八しが、誠に染めて候ひけるぞや。洗はせて御覽候へ」と申しければ、木曾殿、「さもあるらん」とて、洗はせて御覽ずれば、白髪にこそ成りにけれ。又齋藤別當、錦の直垂を著ける事も、最後のだけ、暇申しに、大臣殿へ參つて、『斯申せば、實盛が身一つにては候はねども、先年坂東へ罷り下り候ひし時、水鳥の羽音に驚き、矢一つだに射ずして、駿河の蒲原より逃げ上つて候ひし事、老の後の恥辱、只此の事に候。今度北國へ罷り下り候はゞ、定めて討死仕り候ふべし。實盛元は越前のはん、國の者にて候ひしが、近年御領に附けられて、武藏の國長井に居住仕り候ひき。事の譬の候ふぞかし。故〓へは錦を著て歸ると申す事の候へば、何か苦しう候ふべき。錦の直垂を御免候へかし」と申しければ、大臣殿、「優しうも申したりけるもの哉」とて、錦の直垂を御免ありけるとぞ聞えLo昔の朱買臣は、錦の袂を會稽山に翻へし、今の齋藤別當實盛は、その名を北國の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵と成るこそ哀れなれ。去んぬる四月十七日、平家十萬餘騎にて、都を出でし事柄は、何面を向ふべしとも見えざりし六十九に、今五月下旬に都へ歸り上るには、その勢纔に二萬餘騎、流を盡して漁る時は、多くの魚を得ると云へども、明年に魚なし。林を燒いて獵る時は、多くの獸を得ると云へども、明年に獸なし。後を存じて、少々は殘さるべかりけるものをと、申す人も有りけるとかや。中編一一八は防玄는上總の守忠〓、飛驒の守景家は、去々年入道相國薨せられし時、二人共に出家してありけるが、今度北國にて、子供皆討たれぬと聞いて、その思の積りにや、遂に歎死にぞ死ににける。是を始めて、親は子に後れ、妻は夫に別れて、歎き悲む事限りなし。凡そ京中には、家々に門戶を閉ぢて、朝夕鐘打鳴らし、聲々に念佛申し、喚き叫ぶ事夥し。又遠國近國も此の如し。六月一日の日、祭主神祇の權の大副大中臣の親俊を、殿上の下口へ召されて、今度兵革靜まらば、伊勢大神宮へ行幸あるべき由仰せ下さる。大神宮は昔高天の原より天降らせ給ひて、垂仁天皇の御宇、廿五年·ただつ三月、大和の國笠縫の里より、伊勢の國度會の郡五十鈴の河上、下津磐根に大宮柱廣敷立てゝ、崇め初め奉つしより以來、日本六十餘州、三千七百五十餘社の、大小の神祇其道の中には無雙也。されども代々の御門、遂に臨幸は無かりしに、奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、參議式部卿宇合の子、右近衞の少將兼太宰の少貳藤原の廣嗣と云ふ人ありけり。天平十五年十月に、肥前の國松浦の郡にして、數萬の軍兵を率して、國家を旣に危めんとす。その時大野の東人を大將軍として、廣嗣追討せられし時、帝御祈の爲に、伊勢大神宮へ始めて行幸ありしその例とぞ聞えし。一一九玄昉
平家物語中編一二〇彼の廣嗣は肥前の松浦より、都へ一日に降り上る馬をぞ持ちたりける。されば追討せられし時、御方の兵共、落失せ討たれしかば、件の馬に打乘り、只一騎海中へ馳せ入りけるとぞ聞えし。そぼうれいの亡靈あれて、常は怖しき事共多かりけり。天平十八年六月十八日、筑前の國御笠の郡太宰府の觀世苦守供養せられし導師には、玄昉僧正いかづちとぞ聞えし。高座に登り鐘打鳴す時、俄に空搔曇り、雷夥しう鳴つて、彼の僧正の上に落ち懸り、その首を取つて雲の中へぞ入りにける。是は廣嗣調伏せられしその故とぞ聞えし。この僧正は吉お腹にほつさうしう備の大臣入唐の時、相伴ひて渡り、法相宗渡したりし人也。唐人が玄昉と云ふ名を笑つて、玄昉おはとは還亡といふ音あり、如何樣にも、この人歸朝の後、難に逢ふべき人也と、相したりけるどかや。同じき十九年六月十八日、枯觸體に玄昉と云ふ銘を書いて、興福寺の庭に落し、人ならばほつさうしう二三百人計りが聲して、虚空に咄と笑ふ音しけり。興福寺は法相宗の寺たるに依つて也。その弟コはか子共是を取つて塚につき、その内に納めて、頭墓と名づけて今に有り。是に依つて廣嗣が亡靈を崇められて、肥前の國松浦の、今の鏡の宮と號す。嵯峨の皇帝の御時、平城の先帝、尙侍の勸めに依つて、旣に世を亂らんとせさせ給ひし時、帝御祈の爲に、第三の皇女祐智內親王を、賀茂さいゐんむだよの齋院に立て進らさせ給ふ。是ぞ齋院の始めなる。朱雀院の御時も、純友追討の例とて、八地形,みかsて臨時の御神樂あり。今度もその例たるべしとて、樣々の御祈共ありけり。木曾山門牒狀去程に木曾義仲は、越前の國府に著いて、家の子郞等を召し集めて評定す。「抑義仲近江の國を經てこそ、都へは上るべきに、例の山僧共の防ぐ事もやあらんずらん。懸け破つて通らん事は信った安けれども、當時は平家こそ、佛法共云はず、寺を亡し僧を失ひ、惡行をば致すなれ。それを守護の爲に、上洛せんずる義仲が、平家と一つなればとて、山門の衆徒に向つて合戰せん事、少しも違はぬ二の舞なるべし。是こそ流石安大事よ。如何せん」と宣へば、手書に具せられたりける大夫坊覺明、進み出でゝ申しけるは、「山門の大衆は三千人候ふなるが、必ず一味同心なることは候はず。或は平家に同心せんと申す衆徒も候ふらん。或は源氏に附かんと申す大衆も候ふらん。詮ずる所、牒狀を遣して御覽候へ。返牒にこそその樣は見え候はんずらん」と申しければ、木曾殿、「この儀尤も然るべし。さらば書け」とて、覺明に牒狀を書かせて、山門へ送らる。その狀につら〓〓貴云く、「義仲、信平家の惡逆を見るに、保元平治より以來、長く人臣の禮を失ふ。然りと雖も、ユそりよりやう權賤手を束ね、緇素足を戴く。恣に帝位を進退し、飽くまで國郡を虜領す。道理非理を論ぜず、木曾山門牒狀一二一
平家物語中編一一二5ま門勢家を追捕し、有財無財を道はず、卿相侍臣を損亡す。その資財を奪ひ取つて、悉く郞從に與まヘ、彼の庄園を沒收して、濫く子孫に省く。就中去んぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絕域に流し奉る。衆庶言はず、道路目を以てす。加之同じき四年五ミ月、二の宮の朱闇を圍み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。爰に帝子非分の害を逃れんが爲に、竊に園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を賜はるに依つて、鞭を擧げんと欲する處に、怨敵巷に滿ちて、豫參道を失ふ。近境の源氏猶參候せず。況んや遠境に於てをや。然るに園城は分限無きに依つて、南都へ赴かしめ給ふ間、宇治橋にして合戰す。大將三位入道賴政父子、命を輕んじ義をち重んじて、一戰の功を勵ますと雖も、多勢の攻を免かれず。形骸を古岸の苔に暴し、姓名を長河の波に流す。令旨の趣肝に銘じ、同類の悲み魂を消す。之に依つて東國北國の源氏等、各參洛を企て、平家を滅さんと欲す。義仲去年の秋、宿意を達せんが爲に、旗を揚げ劍を把つて、信州を出でし日、越後の國の住人、城の四郞長茂、數萬の軍兵を率して發向せしむる間、當國橫田河原にして合戰す。義仲纔に三千餘騎を以て、彼の數萬の兵を破り了んぬ。風聞廣きに及んで、平氏の大將十萬の軍士を率して北陸に發向す。越州·加州·砥波·黑坂·鹽坂·篠原以下の城郭にして、と數箇度合戰す。策を帷幄の中に運らして、勝つことを咫尺の下に得たり。然るに擊てば必ず服一一二し、攻むれば必ず降る。秋の風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の薰蕕を枯らすに相同じ。景偏に神明佛陀の助也。更に義仲が武略に非ず。平氏敗北の上は、參洛を企つる也。今叡岳の麓を過古老人たぎて、洛陽の衢に入るべし。この時に當つて、竊に疑胎有り。抑天台の衆徒は、平家に同心か、源氏に與力か。若し彼の惡徒を助けらるべくは、衆徒に向つて合戰すべし。若し合戰を致さば、647や叡岳の滅亡踵を旋らすべからず。悲しき哉、平氏宸襟を惱まし、佛法を滅す間、惡逆を靜めんが爲に義兵を起す處に、忽に三千の衆徒に向つて、不慮の合戰を致さんことを。痛しき哉、醫王山王に憚り奉つて、行程に遲留せしめば、朝廷緩意の臣として、長く武略取地の謗を遺さんことを。ま進退に迷つて、兼て案內を啓する所也。庶幾はくは天台の衆徒、神の爲佛の爲國の爲君の爲に、源氏に同心して凶徒を誅し、鴻化に浴せん懇丹の至に堪へず。義仲恐惶謹んで言す。壽永二年六月十日の日、源の義仲進上、慧光坊の律師の御坊へ」とぞ書かれたる。山門返牒山門の大衆、この狀を披見して、案の如く或は平家に同心せんと云ふ衆徒も有り、或は源氏におもひ〓〓こゝろまち〓〓附かんと云ふ大衆も有り、思々心々、異議區々也。老僧共の僉議しけるは、我等專ら金輪聖主山門返牒一
平家物語中編一二四天長地久と祈り奉る中にも、平家は當代の御外戚、山門に於いて殊に歸敬を致す。然りと雖も、惡行法に過ぎて、萬人是を背き、國々へ討手を遣すと云へども、却つて異賊の爲に亡さる。源氏は近年より以來、度々の軍に打勝つて、運命既に開けんとす。何ぞ當山獨り宿運盡きぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや。須らく平氏値遇の義を翻して、源氏合力の旨に住ずべき由、三千一同に僉議して、返牒をこそ送りけれ。木曾殿、又家の子郎等召集めて、覺明にこの返牒を開かせらる。「六月十日の日の牒狀、同じき十六日到來、披閱の處に、數日の鬱念一時に解散す。凡そ平家の惡逆累年に及びて、朝廷の騒動止む事なし。事人口に在り、違失するに能はず。夫れ叡岳に到つては、帝都東北の仁祠として、國家靜謐の精祈を致す。然りと雖も一天久しく彼の天逆に犯されて、四海、鎭にその安全を得ず。顯密の法輪無きが如し。擁護の神威屢廢る。爰左にとに貴家適累代武備の家に生れて、幸に當時精選の仁たり。豫め奇謀を運らして義兵を起し、忽に萬死の命を忘れて、一戰の功を樹つ。その勞未だ兩年を過ぎざるに、その名旣に四海に流る。hat我が山の衆徒且以て承悅す。國家の爲累家の爲、武功を感じ武略を感ず。此の如くならば山上の精祈空しからざる事を悅び、海內の衞護怠り無き事を知んぬ。自寺他寺常住の佛法、本社末社さいてん祭奠の神明、再び〓法の榮えんことを喜び、崇敬の舊きに復せんことを隨喜し給ふらん。衆徒等5が心中唯賢察を垂れよ。然れば則ち冥には十二神將、忝く醫王善逝の使者として、凶徒追討の勇ま士に相加り、顯には又三千の衆徒、暫く修學鑽仰の勤節を止めて、惡侶治罰の官軍を肋けしめん。た、止觀十乘の梵風は、奸侶を和朝の外に拂ひ、瑜伽三密の法雨は、時俗を堯年の昔に囘さん。衆徒3僉議此の如し。倩之を察せよ。壽永二年七月二日の日、大衆等」とぞ書いたりける。平家山門への連署平家是をば夢にも知り給はず。興福園城兩寺は、鬱憤を含める折節なれば、語らふともよも靡かじ。當家は山門に於て、未だ怨を結ばず。山門又當家の爲に、不忠を存ぜず。詮ずる所、山王大師に祈誓申して、三千の衆徒を語らはゞやとて、一門の公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送らる。その願書に云く、「敬つて白す。延曆寺を以て氏寺に准じ、日吉の社を以て氏社として、一向天台の佛法を仰ぐべき事。右當家一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣如何となれば、叡山は是桓武天皇の御宇、傳〓大師入唐歸朝の後、圓頓の〓法をこの所に弘め、遮那の大戒をその內に傳へてより以來、專ら佛法繁昌の靈窟として、久しく鎭護國家の道場に備ふ。方に今伊豆との國の流人源の賴朝、身の咎を侮いず、還つて朝憲を嘲る。加之奸謀に與して同心を致す源氏平家山門への連署二五
平家物語中編一二六は君ミ等、義仲行家以下、黨を結んで數あり。隣境遠境數國を掠領し、土宜土貢萬物を押領す。之に因つて或は累代勳功の跡を追ひ、或は當時弓馬の藝に任せて、速に賊徒を誅し凶黨を降伏すべき由、苟くも勅命を含んで、頻に征伐を企つ。爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電載の威、か逆類勝に乘るに似たり。若し神明佛陀の加被に非ずば、爭か反逆の凶亂を鎭めん。何に況んや、よ〓すうちよう思へば忝く本願の餘裔と謂つつべし。臣等が曩祖、彌崇重すべし、彌恭敬すべし。自今以後、山門に悅び有らば一門の悅びとし、社家に憤あらば一家の憤として、各子孫に傳へて永く失墮せ등藤氏は春日の社興福寺を以て氏社氏寺として、久しく法相大乘の宗に歸す。平氏は日吉の社43延曆寺を以て氏社氏寺として、親り圓實頓悟の〓に値遇せん。彼は昔の遺跡也、家の爲め榮幸を思ふ。此は今の精祈也、君の爲め追罰を請ふ。仰ぎ願くは、山王七社、王子眷屬、護法聖衆、東西滿山、十二乘願、醫王善逝、日光月光、無二の丹誠を照して、唯一の玄應を垂れ給へ。然れば則ち邪謀逆心の賊、各手を軍門に束ね、反逆殘害の輩、首を京土に傳へん。仍つて一門の公や、卿等、異口同音に禮を作して、祈誓件の如し。從三位行兼越前の守平の朝臣通盛、從三位行兼右近衞の中將平の朝臣資盛、正三位行右近衞の中將兼伊豫の守平の朝臣維盛、正三位行左近衞の權の中將兼播磨の守平の朝臣重衡、正三位行右衞門の督兼近江遠江の守平の朝臣〓宗、參議正三位ガチャラテドだが平家山門への連署一二七
平家物語中編一二八皇太后宮の權の大夫兼修理の大夫加賀越中の守平の朝臣經盛、從二位行中納言征夷大將軍兼左兵衞の督平の朝臣知盛、從二位行權中納言兼肥前の守平の朝臣〓盛、正二位行權大納言兼陸奥出羽a按察使平の朝臣賴盛、從一位前の內大臣平の朝臣宗盛、壽永二年七月五日の日、敬つて白す」とぞ書かれたる。貫首是を憐み給ひて、左右なう衆徒に披露もし給はず。十禪師權現の社壇に籠め、三日加持して、その後衆徒に披露せらる。始めは有りとも見えざりける願書の上卷に、歌こそ一首出で來たれ。平かに花咲く宿も年ふれば、西へ傾く月とこそ見れ上海山王大師是を憐み給ひて、三千の衆徒力を合せよと也。されども年來日來の振舞、神慮にも違ひ、人望にも背きぬれば、祈れども叶はず、語らへども靡かざりけり。大衆も誠にさこそはと、事の體をば憐れみけれども、源氏合力の返牒を送りぬる上は、今又輕々しくその義を翻すに及ばねば、是を許容する衆徒もなし。一二八主上の都落同じき七月十四日、肥後の守貞能、鎭西の謀叛平げて、菊池·原田·松浦黨三千餘騎を召具して上洛す。鎭西の謀叛をば、纔に平げたれども、東國北國の軍は、如何にも靜まらず。同じき二十二日の夜半計り、六波羅の邊夥しう騒動す。馬に鞍置き腹帶しめ、物共東西南北へ運び隱す。只今敵の討ち入つたる樣なりけり。明けて後聞えしは、美濃源氏に、佐渡の衞門の尉重貞と云ふ者あり。去んぬる保元の合戰の時、鎭西の八郞爲朝が院方の軍に負けて、落人と成つたりしを搦めて出したりし勸賞に、本は兵衞の尉たりしが、その時右衞門の尉に成りぬ。是に依つて一門には怨まれて、この比平家を詔ひけるが、その夜六波羅に馳せ參り、木曾旣に北國より五萬餘騎で攻め上り、天台山東坂本に充ち滿ちて候。郞等に楯の六郞親忠、手書に大夫坊覺明、六千餘騎天禮台山に競ひ登り、三千の衆徒同心して、只今都へ亂れ入る由申しければ、平家の人々大に騷いで、方々へ討手を差し向けらる。大將軍には、新中納言知盛の卿、本三位の中將重衡の卿、三千餘騎で、先づ山階に宿せらる。越前の三位通盛、能登の守〓經、二千餘騎で宇治橋を堅めらる。左馬の頭行盛、薩摩の守忠度、一千餘騎で淀路を守護せられけり。源氏の方には十郞藏人行家、數千騎で宇治橋を渡つて都へ入る。陸奥の新判官義康が子、矢田の判官代義〓、大江山を經て上洛すとも申し合へり。又攝津の國河內の源氏等同心して、同じう都へ亂れ入る由申しければ、平家の人々、この上は力及ばず、「只一所で如何にも成り給へ」とて、方々へ向はれたりける討手共、皆主上の都落一二九
平家物語中編一三〇都へ呼び返されけり。帝都名利の地、鷄鳴いて安き事なし。治れる世だにも此の如し。況んや亂れたる世に於てをや。吉野山の奥の奥へも入りなばやとは思し召されけれども、諸國七道悉く背きぬ。何の浦か穩しかるべき。三界無安猶如火宅とて、如來の金言一乘の妙文なれば、何かは少しも違ふべき。同じき廿四日の小夜更方に、前の内大臣宗盛公、建禮門院の渡らせ給ふ、六波羅池殿に參つて申されけるは、「木曾旣に北國より五萬餘騎で攻め上り、比叡山東坂本に充ち滿ちて候。郞等に楯の六郞親忠、手書に大夫坊覺明、六千餘騎天台山へ競ひ上り、三千の衆徒引具して、只今都へ亂れ入る由聞え候。人々は只都の內にて、如何にも成らんと申し合されけれども、親り女院二位殿に、憂目を見せ進らせん事の口惜しく候へば、院をも內をも取り奉つて、西國の方へ御幸行幸をも成し進らせばやと、思ひ成つてこそ候へ」と申されければ、女院、「今は只兎も角も、足下の計でこそあらんずらめ」とて、御衣の御袂に餘る御淚、塞きあへさせ給はねば、大臣殿も直衣の袖絞るばかりにぞ見えられける。去程に法皇をば、平家取り奉つて、西國の方へ落ち行くべしなど申すあ事を、內々聞し召す旨もやありけん、その夜の夜半計り、按察使大納言資方の卿の子息、右馬のゆ頭資時計りを御供にて、竊に御所を出でさせ給ひて、御行方も知らずぞ御幸なる。人是を知らざりけり。平家の侍に橋內、左衞門の尉季康と云ふ者有り。さか〓〓しき男にて、院にも召し使はれSeeけるが、その夜しも御宿直に參つて、遙に遠う候ひけるが、常の御所の御方樣、世に物騷がしう、女房達忍び音に泣きなどし給へり。何事なるらんと聞きければ、「俄に法皇の見えさせましまさぬは、何方への御幸やらん」と申す聲に聞く程に、あなあさましとて、急ぎ六波羅へ馳せ參り、の由申したりければ、大臣殿、「定めて僻事でぞあらん」とは宣ひながら、急ぎ參つて見進らせ給ふに、現にも法皇渡らせましまさず。御前に候はせ給ふ女房達、二位殿丹後殿以下、一人も動き給はず。「如何にや」と問ひ參らさせ給へども、我こそ法皇の御行方知り參らせたりと申さるゝ女房達、一人もおはせざりければ、大臣殿も力及ばせ給はず、泣く〓〓六波羅へぞ歸られける。去程に、法皇都の中に渡らせ給はずと申す程こそありけれ、京中の騒動斜ならず。況んや平家の人人の周章て噪がれける有樣は、家々に敵の打ち入つたりとも、限りあれば是には過ぎじとぞ見え法し。平家日來は院をも內をも取り奉つて、西國の方へ御幸行幸をも成し進らせんと支度せられたりしかども、かく打捨てさせ給ひぬれば、賴む木の下に雨のたまらぬ心地ぞせられける。せめてまは行幸計りをも成し進らせよやとて、明くる卯の刻に行幸の御興を寄せたりければ、主上は今年六歲、未だ幼うまし〓〓ければ、何心なくぞ召されける。御同興には、御母儀建禮門院參らせ給主上の都落一一一
平家物語中編一三二いふ。神璽、寶劍、內侍所、印鑰、時の札、玄上、鈴鹿などをも取り具せよと、平大納言時忠の卿下知せられたりけれども、餘りに周章て噪いで、取り落す物ぞ多かりける。晝の御座の御劍などをも、取り忘れさせ給ひけり。軈てこの時忠の卿、內藏の頭信基、讃岐の中將時實父子三人、衣す冠にて供奉せらる。近衞司、御綱の佐、甲冑弓箭を帶して、行幸の御供仕る。七條を西へ朱雀をたば炭南へ行幸なる。明くれば七月廿五日也。漢天既に啓けて、雲東嶺に靉き、明方の月白くさえて、ぞ鷄鳴又忙がはし。夢にだにかゝる事は見ず。一年都遷りとて、俄にあわたゞしかりしは、かゝるべかりける先表とも、今こそ思ひ知られけれ。攝政殿も行幸に供奉して、御出有りけるが、七條大宮にて、鬟結うたる童子の、御車の前をつと走り通るを御覽ずれば、彼の童子の左の袂に、春の日と云ふ文字ぞ顯はれたる。春の日と書いては、春日と讀めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守り給ふにこそと、賴もしう思召す處に、件の童子の聲とおぼしくて、如何にせん藤の末葉の枯れ行くを、只春の日に任せたらなん供に候ふ進藤左衞門の製高直を召して、「この世の中様を御覽ずる行幸はなれども御幸は成らず。行末賴もしからず思し召すは如何に」と仰せければ、御牛飼に目を吃と見合せたり。軈て心得て、御車を遣りかへし、大宮を上りに、飛ぶが如くに仕り、北山の邊、知足院へぞ入らせ中編給ひける。維盛の都落越中の次郞兵衞、太刀脇挾み、攝政殿の御留あるを、押し留め進らせんと、頻に進みけれども、人々に制せられて、力及ばで留まりぬ。中にも小松の三位の中將維盛の卿は、日來より思ひ設け給へる事なれども、差し當つては悲しかりけり。この北の方と申すは、故中の御門の新大納言成親の卿の娘、父にも母にも後れ給ひて、孤、孤にておはせしかども、桃顏露に綻び、紅粉眼に媚をなし、柳髪風に亂るゝ粧、又人有るべしとも見え給はず。六代御前とて、生年十に成り給ふ若君、その妹八歲の姫君おはしけり。この人々も面々に後れじと慕ひ給へば、三位の中將宣ひけるは、「我は日來申しゝ樣に、一門に具せられて、西國の方へ落ち行く也。何く迄も具足し奉るべけれども、道にも敵待つなれば、心安く通らん事有り難し。縱ひ吾れ討たれたりと聞き給ふとも、樣ゆめ〓〓など替へ給ふ事は、努々あるべからず。その故は、如何ならん人にも見もし見えて、あの少き者やう〓〓共をも育み給へ。情を懸くべき人も、などか無くて候ふべき」と、漸に慰め宣へども、北の方兎角の返事をもし給はず、引き被いてぞ伏し給ふ。中將既に打立たんとし給へば、北の方袂にすが維盛の都落一三三
平家物語中編一三四り、「都には父もなし母もなし。捨てられ奉つて後、又誰にかは見ゆべきに、如何ならん人にも見えよなど承るこそ恨めしけれ。前世の契有りければ、人こそ憐み給ふとも、又人每にしもや情を何く迄も伴ひ奉り、懸くべき。同じ野原の露とも消え、一つ底の水屑とも成らんとこそ契りしに、されば小夜の寢覺の密語は、皆僞に成りにけり。せめては身一つならば如何せん。捨てられ奉るCam身の憂さを、思ひ知つても留りなん。少き者共をば、誰に見讓り、如何にせよとか思し召す。恨めしうも留め給ふ者哉」とて、且は恨み且は慕ひ給へば、三位の中將、「誠に人は十三一我は十五より、見初め奉つたれば、火の中水の底へも、共に入り共に沈み、限ある別路迄も、後れ先立たじとこそ思ひしか。今日はかく物憂き有樣共にて、軍の陣へ赴けば、具足し奉つて、行末も知らぬ旅の空にて、憂目を見せ進らせんも、我が身ながらうたてかるべし。その上今度は用意も候はず、何くの浦にも心安う落ち著きたらば、それより迎に人をこそ進らせめ」とて、思ひ切つてぞ立たれける。中門の廊に出で、鎧取つて著、馬引寄せさせ、旣に乘らんとし給へば、若君姫君走り出で、父の鎧の袖、草摺に取り附き、「是はされば何地へとて渡らせ給ひ候ふやらん。吾も參らん、我も行かん」と慕ひ泣き給へば、憂世の継と覺えて、三位の中將、いとゞ爲ん方なげにぞ見えられける。御弟新三位の中將資盛、左中將〓經、同じき少將有盛、丹後の侍從忠房、備中の守おんじやう師盛、兄弟五騎馬に乘りながら、門の中へ打ち入れ、庭に扣へ、大音聲を揚げて、「行幸は遙に延びさせ給ひぬらんに、如何にや今迄の遲參候」と、聲々に申されければ、三位の中將馬に打乘つ建みて出られけるが、又引き返し、緣の際に打寄せ、弓の彈にて御簾をさつと搔上げて、「是御覽候へ。少き者共が餘りに慕ひ候を、兎かう拵へ置かんと仕る程に、存の外の遲參候」と宣ひもあへず、はら〓〓と泣き給へば、庭に扣へ給へる人々も、皆鎧の袖をぞ濡らされける。爰に三位の中將の年比の侍に、齋藤五、齋藤六とて、兄は十九弟は十七に成る侍あり。三位の中將の御馬の左右の水つきに取り附いて、「何く迄も御供仕り候はん」と申しければ、三位の中將宣ひけるは、「汝等が父長井の齋藤別當實盛が、北國へ下りし時、供せうと云ひしを、存ずる旨が有るぞとて、汝等を留め置き、終に北國にて討死したりしは、故き者にて、かゝるべかりける事を、兼て悟つたりけるにこそ。あの六代を留めて行くに、心安う扶持すべき者のなきぞ。只理を枉げて留まれかし」と宣へば、二人の者共力及ばず、淚を押へて留りぬ。北の方は、「年來日來、かく情なき人とこそ、かけては思はざりしか」とて、引き被いてぞ臥し給ふ。若君姫君女房達は、御簾の外までこ蓄轉び出で、聲を計に喚き叫び給ひけり。その聲々耳の底に留つて、されば西海の立つ波の上、吹く風の音迄も、聞く樣にこそ思はれけれ。平家都を落ち行くに、六波羅·池殿·小松殿·八條·西維盛の都落一三三五
平家物語中編一三六ともがらその外次々の輩の宿所々々、八條以下、人々の家々廿餘箇所、て、一度に皆燒き拂ふ。京白川四五萬軒が在家に火をかけ聖主臨幸らんよせうばう或は聖主臨幸の地也。鳳闕空しく礎を殘し、鸞輿徒跡を留む。或は后妃遊宴の砌也。椒房の嵐えきていうれよくりんでうしよたちくわいきよく聲悲み、所は披庭の露色愁ふ。粧鏡翠帳の基、戈林釣渚の舘、桃棘の座、鶏鸞の栖多日の經營をか片時の灰燼と成り果てぬ。ざふにん空しうして、況んや郞從の蓬華に於てをや。況んや雜人の屋舍に於てをや。餘焰の及ぶ所、在々所々數十町也。强吳忽に亡びて、姑蘇臺の露荊棘に移り、5暴秦旣に衰さが〓〓、咸陽宮の烟睥睨を隱しけんも、かくやとぞ覺えける。日來は函谷二峰の峻しきを固うせしシティたのかども、北狄の爲に是を破られ、今は洪河徑滑の深きを憑みしかども、東夷の爲に是を取られたなく〓〓り。豈圖りきや、忽に禮儀の〓を攻め出だされて、泣々無知の境に身を寄せんとは。昨日は雲のBIOド上にて雨を降す神龍たりき、今日は肆の邊に水を失ふ枯魚の如し。禍福道を同じうし、盛衰掌を反す、今目の前にあり。誰か是を悲まざらん。保元の昔は春の花と榮えしかども、壽永の今は又秋の楓と落ち果てぬ。畠山の庄司重能、小山田の別當有重、宇都の宮の左衞門朝綱、是等は去んぬる治承より壽永迄、召し籠められてありしが、その時既に斬らるべかりしを、新中納言知盛の卿の異見に申されけるは、「彼等百人千人が頸を斬らせ給ひて候ふとも、御運盡きさせ給ひなば、御世を保たせ給はん事有り難し。故〓に候ふ妻子所從等、いか計り歎き悲み候ふらん。唯理を枉げて下させ給へ。若しと申されければ、運命啓けて、都へ歸り上らせ給ふ事も候はゞ、有り難き御情でこそ候はんずれ」わり、た大臣殿、「さらばとう下れ」とこそ宣ひけれ。これ等首を傾け掌を合せて、「何く迄も御供仕り候はぬけがらん」と申しければ、大臣殿、「汝等が魂は、皆東國にこそあるべきに、脫計り西國へ召具すべき樣なし。只とう下れ」とこそ宣ひけれ。是等も廿餘年の主なりければ、別れの淚押へ難し。忠度の都落薩摩の守忠度は、何くよりか歸られたりけん、侍五騎童一人、我が身共に混甲七騎取つて返し、五條の三位俊成の卿の許におはして見給へば、しはんぜい門戶を閉ぢて開かず。忠度と名乘り給へば、落人還り來れりとて、その内騷ぎあへり。薩摩の守急ぎ馬より飛んで下り、自ら高らかに申されけるきはは、「是は三位殿に申すべき事有つて、忠度が參つて候。縱ひ門をば開けられずとも、この際迄立忠度の都落一三七
平家物語中編一三八寄り給へ。申すべき事の候」と申されたりければ、俊成の卿、「その人ならば苦しかるまじ、開けにて入れ申せ」とて、門を開けて對面ありけり。事の體何となう物あはれなり。薩摩の守申されけゆめ〓〓るは、「先年申し承つてより後は、努々疎略を存ぜずとは申しながら、この二三箇年は、京都の噪ぎ、國々の亂れ出で來、剩へ當家の身の上に罷り成つて候へば、常に參り寄る事も候はず。君旣に帝都を出でさせ給ひぬ。一門の運命今日早盡き果て候。それに就き候ひては、撰集の御沙汰有るべき由承つて候ひし程に、生涯の面目に、一首なりとも、御恩を蒙らうと存じ候ひつるに、かかる世の亂れ出で來て、その沙汰なく候ふ條、只一身の歎と存ずる候。此後、世靜まつて、撰集の御沙汰候はゞ、是に候ふ卷物の中に、さりぬべき歌候はゞ、一首なりとも御恩を蒙つて、草の陰にても嬉しと存じ候はゞ、遠き御守とこそ成り進らせ候はんずれ」とて、日來詠み置かれたる歌共の中に、秀歌と思しきを、百餘首書き集められたりける卷物を、今はとて打立たれける時、是を取つて持たれたりけるを、鎧の引合より取り出でゝ、俊成の卿に奉らる。三位是れを開いてゆめ〓〓大ち見給ひて、「かゝる忘れ形見共を賜り候ふ上は、努々疎略を存ずまじう候。さても只今の御渡こそ、赤十五む情も深う哀も殊に勝れて、感淚押へ難うこそ候へ」と宣へば、薩摩の守、「骸を野山に曝さば曝らせ、憂き名を西海の波に流さば流せ、今は憂き世に思ひ置くことなし。さらば暇申して」とて、15馬に打ち乘り甲の〓をしめて、西を指してぞ步ませ給ふ。三位後を遙に見送つて立たれたれば、俊成忠度の聲と思しくて、「前途程遠し、思を雁山の夕の雪に馳す」と、高らかに口占み給へば、の卿も、いとゞ哀に覺えて、淚を押へて入り給ひぬ。その後世靜まつて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有樣、云ひ置きし言の葉、今更思ひ出でゝ哀れなりけり。件の卷物の中に、さりぬべき歌幾らも有りけれども、その身勅勘の人なれば、名字をば顯はされず、故〓の花と云ふ題にて、詠まれたりける歌一首ぞ、讀み人しらずと入れられたる。さゞ浪や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山櫻かなその身朝敵と成りぬる上は、子細に及ばずと云ひながら、恨めしかりし事共なり。經正の都落修理の大夫經盛の嫡子、皇后宮の亮經正は、幼少の時より、仁和寺の御室の御所に、童形にて候はれしかば、かゝる忽劇の中にも、君の御名残屹と思ひ出で進らせ、侍五六騎召具して、仁和寺殿へ馳せ參り、急ぎ馬より飛んで下り、門を敲かせ申し入れられけるは、「君既に帝都を出でさせ給ひ候ひぬ。一門の運命今日旣に盡きはて候ひぬ。C浮世に思ひ置く事とては、只君の御名殘計一三九經正の都落
平家物語平家物語中編一四〇じ在住り也。八歲の年この御所へ參り始め候ひて、十三で元服仕り候ひし迄は、聊相勞る事の候はんよ중층り外は、白地に御前を立ち去る事も候はず。今日旣に西海千里の波路に赴き候へば、又何れの日倒れの時、必ず立ち歸るべしとも覺えぬ事こそ口惜しう候へ。今一度御前へ參つて、君をも見參らせたう存じ候へども、甲冑を鎧ひ弓箭を帶して、あらぬ様なる粧に罷り成つて候へば、憚り存あはじ候」と申されければ、御室哀れに思し召して、「只その姿を改めずして參れ」とこそ仰せけれ。は1經正その日は、紫地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧著て、長覆輪の太刀を帶き、二十四差いたる截生の矢負ひ、滋籐の弓脇に挾み、甲をば脫いで高紐にかけ、御前の御坪に長る。御室軈て御出有つおほゆか515て、御簾高く捲げさせ、「是へ〓〓」と召されければ、經正大へこそ參られけれ。供に候ふ藤兵衞の尉有〓を召す。赤地の錦の袋に入れたりける御琵琶を持て參りたり。經正是を取次いで、御前に指し置き中されけるは、「先年下し項つて候ひし萬山持たとを參名殘は盡きず存じ候へざふらふども、さしもの我が朝の重寶を、田舍の塵に成さん事の口惜しう候へば、參らせ置く候。若し不思ひろ議に運命啓けて、都へ立ち歸る事も候はば、その時こそ重ねて下し預り候はめ」と申されたりければ、御室哀れに思し召して、一首の御詠をあそばいてぞ下されける。あかずして別るゝ君が名殘をば、後の形見に裏みてぞおく中編經正御硯下されて、かけひ吳竹の筧の水はかはれども、猶すみあかぬ宮の内かなさぶらひそうさて經正御前を罷り出でられけるに、數輩の童形、出世者、坊官、侍僧に至る迄、經正の名殘をこヒ惜み、袂にすがり、淚を流し、袖を濡さぬは無かりけり。中にも幼少の時、小師でおはせし大納桂川の言の法印行慶と申しゝば、葉室の大納言光賴の卿の御子也。餘りに名殘を惜み參らせて、端迄打送り、それより暇請うて歸られけるが、法印泣く〓〓斯ぞ思ひ續け給ふ。おいき哀れなり老木若木も山櫻、おくれ先だち花は殘らじ經正の返事に、旅衣よな〓〓袖をかたしきて、思へば我れは遠くゆきなんひかさて卷いて持たせられたりける赤旗、さつと指し揚げたれば、あそこ爰に、扣へ〓〓待ち奉る侍共、あはやとて馳せ集り、その勢百騎計り鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に追付き奉らる。靑山の沙汰宇佐の勅使を承つて下られけるに、この經正十七の年、靑山の沙汰その時靑山を賜つて、宇佐へ參り、御一四、
平家物語中編一四二、+5·殿に向ひ奉つて、祕曲を引き給ひしかば、供の宮人推並て、綠衣の袖をぞ絞りける。心なき奴迄も、いつ聞き馴れたる事は無けれども、村雨とは紛はじな。目出たかりし事ども也。彼の靑山と申す御琵琶は、昔仁明天皇の御宇、嘉祥三年三月に、掃部の頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶の博士康妾夫に逢ひ、三曲を傳へて歸朝せしに、その時玄象、獅子丸、靑山、三面の琵琶を相傳して渡りけるが、龍神や惜み給ひけん、浪風あらく立ちければ、獅子丸をば海底に沈めぬ。今二面の琵琶を渡いて、吾が朝の御門の御寶とす。村上の聖代應和の比ほひ、三五夜中の新月の色白くさえ、涼風颯々たりし夜半に、帝〓凉殿にして、玄象をぞ遊ばされける。時に影の如くなる者、御前にら參じて、優に氣高き聲を以て、唱歌を目出たう仕る。帝暫く御琵琶を閣かせ給ひて、「抑汝は如何なる者ぞ。何より來れるぞ」と仰せければ、答へ申して云く、「是は昔貞敏に三曲を傳へ候ひし、大唐の琵琶の博士廉妾夫と申す者にて候ふが、三曲の中に祕曲を一曲殘せる罪に依つて、魔道に沈淪仕る。今君の御撥音妙に聞え侍る間、參入仕る處也。願くはこの曲を君に授け參らせて、佛6條果菩提を證ずべき由」申して、御前に立てられたりける靑山を取り、轉手をねぢて、この曲を君に授け奉る。三曲の中に上玄·石上是也。その後は君も臣も恐れさせ給ひて、遊ばし彈く事も、せさせ給はざりしを、仁和寺の御室の御所へ參らさせ給ひたりしを、この經正最愛の童形たるに靑山の沙汰四三
平家物語中編一四四依つて、下し賜はられたりけるとかや。甲は紫藤の甲、夏山の嶺の綠の木の間より、有明の月の出でけるを、撥面に書かれたりける故にこそ、靑山とは名付けけれ。玄象にも相劣らぬ希代の名物也。一門の都落池の大納言賴盛の卿も、池殿に火懸けて出でられたるが、鳥羽の南の門にて、忘れたる事有りとて、鎧に附けたる赤印共撥り捨てさせ、その勢三百餘騎、都へ歸り上られけり。越中の次郞兵僕に衞盛續、弓脇挾み、大臣殿の御前に馳せ參り、急ぎ馬より飛んで下り、畏つて、「あれ御覽候へ。池殿御留に依つて、多くの侍共留り候ふが、奇怪に覺え候。池殿迄はその恐れも候へば、侍共に矢一つ射懸け候はばや」と申しければ、大臣殿、「今是程の有樣共を、見果てぬ程の不當人は、さなくともありなん」と宣へば、力及ばで射ざりけり。「さて小松殿の君達は如何に」と宣へば、(「未だ御一所も見えさせ給ひ候はず」と申す。大臣殿、「都を出でて、今一日だに過ぎざるに、早人々の心共の替り行くうたてさよ」とぞ宣ひける。新中納言知盛の卿、「行末とても賴しからず。只都の內にて如何にも成らせ給へと、さしも申しつるものを」とて、大臣殿の御方を、世にも恨本ますけめしげにぞ見給ひける。抑池殿の御留を如何にと云ふに、兵衞の佐賴朝、常は情をかけ奉つて、「全く御方をば踈に思ひ奉らず、偏に故池殿の御渡とこそ存じ候へ。八幡大菩薩も御照罰候へ」など、度々誓狀を以て申されけり。平家追討の討手の使の上るごとに、「相構へて、池殿の侍に向つて弓引くな」なんど、事に觸れて芳心せられたりければ、一門の平家は運盡きて都を落ちぬ。今は兵衞の佐にこそ助けられんずれとて、落ち留られたりけるとぞ聞えし。八條の女院は、都をば軍に恐れさせ給ひて、仁和寺の常磐殿に忍うでまし〓〓ける所へ參り籠られけり。この賴盛の卿と申すは、女院の御乳母宰相殿と申す女房に、相具せられたりけるに依つてなり。「自然の事も候はば、賴盛助けさせおはしませ」と申されければ、女院、「今は世が世で有らばこそ」と、世に賴しげもなうぞ仰せける。凡そは兵衞の佐計りこそ、芳心を存ずと云へども、自餘の源氏等は、如何あらんずらん、慾に一門には引き別れて落ち留りぬ。浪にも磯にも附かぬ心地ぞせられける。去程に小松殿の君達兄弟六人、都合その勢一千餘騎、淀の六田河原にて、行幸に追つ付き奉らる。Cak大臣殿斜ならず嬉しげにて、「如何にや今迄の遲參候」と宣へば、三位の中將、「少き者共が餘りに慕ひ候ふを、兎角こしらへ置かんと仕る程に、存じの外の遲參」と申されければ、大臣殿、「など六代殿をば召し具せられ候はぬぞ。心强くも留め給ふもの哉」と宣へば、三位の中將、「行末とても一門の都落一四五
平家物語中編一四六賴もしうも候はず」とて、問ふにつらさの淚を流されけるこそ悲しけれ。落ち行く平家は誰々ぞ。前の內大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言〓盛、新中納言知盛、修理の大夫經盛、右衞門の督〓宗、本三位の中將重衡、小松三位の中將維盛、同じき新三位の中將資盛、越前の三位通盛、殿上人には、內藏の頭信基、讚岐の中將時實、左中將〓經、同じき少將有盛、丹後の侍從忠房、皇后宮の亮經正、左馬の頭行盛、薩摩の守忠度、武藏の守知章、能登の)守〓經、備中の守師盛、尾張の守〓定、淡路の守〓房、若狭の守經俊、藏人の大夫業盛、經盛の乙子大夫敦盛、兵部の少輔正明、僧には二位の僧都專親、法勝寺の執行能圓、中納言の律師仲快、店153經誦坊の阿閣梨祐圓、武士には受領、檢非違使、衞府、諸司の尉百六十人、都合その勢七千餘騎、これはこの三箇年が間、東國北國度々の軍に討ち洩らされて、纔に殘る所なり。平大納言時忠の卿、山崎の關戶の院に玉の御輿を界き居ゑさせ、男山の方伏し拜み、「南無歸命頂禮八幡大菩薩、願くは君を始め進らせて、我等を今一度故〓へ歸し入れさせ給へ」と、祈られけるこそ悲しけれ。各後を顧み給へば、霞める空の心地して、煙のみ心細うぞ立ち登る。平中納言〓盛、はかなしな主は雲井に隔つれば、宿は煙と立ち上るかな修理の大夫經盛、故〓を燒野が原とかへりみて、末も煙の浪路をぞ行く誠に故〓をば一片の烟塵に隔てつゝ、前途萬里の雲路に赴かれけん、心の中推し量られて哀也。肥後の守貞能は、川尻に源氏待つと聞いて、蹴散さんとて、その勢五百餘騎で發向したりけるが、僻事なればとて取つて返して上る程に、宇度野の邊にて行幸に參り會ひ、急ぎ馬より飛んで下り、大臣殿の御前に參り畏まつて、「あな心憂や、こは何地へとて渡らせ給ひ候ふやん、西國へ下らせ給ひたらば、落人とて、あそこ爰にで討ち漏されて、憂き名を流させましまさん事、口惜しう候ふべし。只都の内にて、如何にも成らせ給ふべうもや候ふらん」と申しければ、大臣殿、「貞能みち〓〓は未だ知らぬか。木曾旣に北國より五萬餘騎で攻め上り、比叡山東坂本に滿々たり。法皇も過ぎし夜半に失せさせ給ひぬ。人々は都の中にて如何にも成らんと申し合はれけれども、面女院二位殿に、百を見せ進らせるも、我が音なら日世けらばせめては行業計もを各をも引具して、西國の方へ落ち下り、一先づもと思ふぞかし」と宣へば、「左候はゞ貞能は身の暇を賜つて、都の中にて如何にも成り候はん」とて、召具したりける五百餘騎の勢をば、小松殿の君達たちに附け進らせ、手勢三十騎計り都へ取つて返す。平家の餘黨の都に殘り留つたるを討たんとて、貞能が歸り入る由聞えしかば、池の大納言は、賴盛が身の上でぞあらんずらんと、大に恐れ門の都落一四七門の都落
平家物語中編一四八やけあと噪がれけり。されども貞能は、西八條の燒跡に大幕ひかせ、一夜宿したりけれども、歸り入らせひづめ給ふ平家の君達一人もおはせざりければ、流石世の形勢心細くや思ひけん、源氏の駒の蹄に懸けドさせじとて、小松殿の御墓掘らせ、御骨に向ひ奉つて、泣々申しけるは、「あなあさまし、御一門〓sの御果御覽候へ。生ある者は必ず滅す。樂み盡きて悲み來ると云ふ事をば、昔より書き置いたる事にて候へども、親かゝる憂き事候はず。君はかゝるべかりける事を、兼て悟らせたまひて、佛神三寶に御祈誓あつて、御世を早うせさせまし〓〓ける事こそ有り難う候へ。如何にもしてそながらsubの時、貞能も後世の御供仕るべう候ひしものを、甲斐なき命存へて、今日はかゝる憂目に逢ひ候ごふ事こそ口惜しう候へ。死期の時は、必す一佛土へ迎へさせ給へ」と、泣々遙に搔き口說き、骨あたうしろあはせをば高野へ送り、傍りの土をば賀茂川へ流させ、行末賴もしからずや思ひけん、主と後合に、東國の方へぞ落ち行きける。貞能は先年宇都宮を申し預つて、その時情有りしかば、今度も又宇都tis宮を賴うで下つたりければ、その好にや、芳心しけるぞと聞えし。平家は小松の三位の中將維盛卿の外は、大臣殿以下妻子を具せられけれども、次様の人々は、ひづさのみ引き擺ふにも及ばねば、後會その期を知らず、皆打ち捨てゝぞ落ち行きける。人は何れのいうたらく日何れの時、必ず立ち還るべしと、その期を定め置くだにも、如れは悲しき習そ況んや是はさうでんふだいよし今日を最後、只今限りの事なれば、行くも留るも、互に袖をぞ絞りける。相傳譜代の好み、年來日來の重恩、爭か忘るべきなれば、老いたるも若きも、皆跡をのみ顧みて、前へは進みもやらざ特むらりけり。或は磯邊の沈枕、八重の汐路に日を暮し、或は遠きを分け、嶮しきを凌いで、駒に鞭つ店人もあり、船に棹す者もあり、思々心々にぞ落ち行きける。福原落上で平家は福原の舊里に著いて、大臣殿、然るべき侍老少數百人召して宣ひけるは、「積善の餘慶家に盡き、積惡の餘殃身に及ぶが故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ進らせて、帝都を出でゝ旅泊に漾ふ上は、何の賴か有るべきなれども、一樹の陰に宿るも、先世の契淺からず。同じけにん、流を掬ぶも、他生の緣猶深し。況んや汝等は一旦隨ひ附く門客に非ず、累祖相傳の家人也。或はとの古へは、近親の好み他に異なるも有り、或は重代芳恩是深きも有り。家門繁昌その恩波に依つをて私を顧みき。何ぞ今その芳恩を酬いざらんや。然れば十善帝王、三種の神器を帶して渡らせ給くは、如何ならん野の末、山の奥迄も、行幸の御供申して、如何にも成りなんとは思はずや」とあしし宣へば、老少皆淚を押へて、「奇の鳥獸も恩を報じ德を酬ふ心は候ふなり。況んや人倫の身として、福原落一四九
平家物語中編一五〇いかで爭かその理を存じ仕らでは候ふべき。就中弓箭馬上に携はる習ひ、二心あるを以て恥とす。そしかしの上此の二十餘年が間妻子を育み、所從を顧み候ふ事も、併ながら君の御思ならずと云ふ事なし。装はくさ契〓丹、え然れば日本の外、新羅、百濟、高麗、雲の終海の終迄も、行幸の御供仕り、如何にも成りどうおん候はん」と、異口同音に申したりければ、人々皆賴もしげにぞ見給ひける。去程に平家は福原の舊里にして、一夜をぞ明されける。折節秋の月は下の弦なり。深更空夜閑にして、旅寢の床の草枕、露も淚に爭ひて、只物のみぞ悲しき。何歸るべしとも覺えねば、故入、道相國の作り置き給へる、福原の所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の濱の御所、ぎ泉殿、松陰殿、馬場殿、二階の棧敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館ども、五條の大納言國を心つ網の卿の承つて造進せられし里内裏、爲鴦の瓦、玉の甃何れも〓〓三年が程に荒れはて、舊苔道を寒ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ、垣に蔦茂れり。臺傾いて苔むせり。松風のみや通ふらん。簾絕え閨露也。月影のみぞ差し入りける。明けぬれば福原の內裏に火を懸けて、主上を始めあ進らせて、人々皆御船に召す。都を出でし程こそは無けれども、是も名殘は惜しかりけり。海士なぎさ〓〓bLの燒く藻の夕煙、尾上の鹿の曉の聲、渚々に寄する波の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきり〓〓す、總てはじ其其に觸るゝ事の、ととてんれを催しを傷ましめずと云ふ中編一五〇ともづなくつぱみを解いて七千餘人、雲海沈昨日は東關の麓に鑛とうくわんを雙べて十萬餘騎、今日は西海の浪の上に纜1潮に引沈として靑天旣に暮れなんとす。孤島に夕霧隔てゝ、月海上に浮べり。極浦の浪を分け、かれて行く船は、半天の雲に遡る。日數經れば、都は山川程を隔てゝ、さんせん雲井の餘所にぞ成りにけむはる〓〓波の上に白き島の簇れ居るを見給ひては、彼る。遙々來ぬと思へども、只盡きせぬものは淚なり。むつよ壽永二年七ならん、在原のなにがしの、隅田川にて言問ひけん、名も昵しき都鳥かなと哀れ也。月二十五日に、平家都を落ち果てぬ。一一五、福原落
平家物語中編一五二卷第八山門御幸壽來(五月三三日日の窓平日す、然置扶校從夫納品安右。四の四兵供にて、竊に御所を出でさせ給ひて、鞍馬の奥へ御幸なる。寺僧ども、「是は猶都近うして惡しう候さ、喜ひなん」と申しければ、さらばとて、篠の峯、藥王坂など云ふ峻き嶮難を凌がせ給ひて、橫川の解脫谷寂場坊へ入らせおはします。大衆起つて、「東塔へこそ御幸は成るべけれ」と申しければ、東塔の南谷圓融房御所になる。かゝりしかば、衆徒も武士も、皆圓融房を守護し奉る。法皇は仙洞を出でゝ天台山へ、主上は鳳闕を避つて西海へ、攝政殿は芳野の奥とかや。女院宮々は、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片邊に付いて、迯げ隱れさせ給ひけり。平家は落ちぬれど、源氏は未だ入り替らず、旣にこの京は主なき里とぞ成りにける。開闢より以來、かゝる事あるべしと覺えず。聖德太子の未來記にも、今日の事こそゆかしけれ。去程に法皇天台山に渡らせ給ふと聞えしかば、御迎に馳せ參らせ給ふ人々、その比の入道殿とは、前の關白松殿、當殿とは近衞殿、山門御幸一一五
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平家物語平家物語中編一五六太政大臣、左右の大臣、內大臣、大納言、中納言、宰相、三位四位五位の殿上人、すべて世に人と數へられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、一人も漏るゝはなかりけり。圓融良く房には餘りに人多く參りつどひて、堂上堂下、門外門內、隙はざまもなうぞ充ち滿みたる。山門繁昌、門跡の而日とこそ見えたりけれ。同じき廿八日、法皇都へ還御なる木曾五萬餘騎で守護し奉る。近江源氏山本の冠者義高、白旗さいて先陣に供奉す。この二十餘年見ざりつる白旗の、今日始めて都へ入る。珍らしかりし見物なり。十郞藏人行家、數千騎で宇治橋を渡いて都へ入る。陸奥の新判官義康が子、矢田の判官代義〓、大江山を經て上洛す。又攝津の國河內の源氏等同心かでして、同じう都へ亂れ入る。凡そ京中には源氏の勢充滿たり。勘解由小路の中納言經房の卿、檢すCCさぶら非違使の別當左衞門の督實家兩人、院の殿上の簀に候ひて、義仲行家を召す。木曾その日の裝束は15には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、いか物作りの太刀を帶き、二十四差いる截生の矢負い、滋籐の弓脇に挾み、甲をば脫いで高紐にかけ、跪いてぞ候ひける。十郞藏人行家は、紺地の錦の直垂に、黑絲威の鎧著て、黑漆の太刀を帶き、二十四差いたる大中黑の矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、是も甲を脫いで高紐にかけ、畏つてぞ候ひける。前の內大臣宗盛公を始めとして、平家の一族皆追討すべき由仰下さる。兩人庭上に畏り承つて罷り出づ。各宿所なき由を奏聞す。木中編かや法住寺殿の南殿と申す菅曾は大膳の大夫成忠が宿所、六條西の洞院を下さる。十郞藏人行家は、法住寺殿の南殿と申す菅の御所をぞ賜りける。主上は外戚の平家に囚はれさせ給ひて、西海の波の上に漾はせ給ふ事を、法皇斜ならず御歎あつて、主上竝に三種の神器、事故なう都へ返し入れ奉るべき由、西國へ仰せ下されけれども、平ch3家用ひ奉らず。高倉の院の皇子は、主上の外三所おはしましき。中にも二の宮をば、儲の君にし奉らんとて、平家取り奉つて、西國へ落ち下りぬ。三四は都にまし〓〓けり。八月五日、法皇この宮達、迎へ寄せ進らさせ給ひて、先づ三の宮の五歲に成らせまし〓〓けるを、法皇、「あれは如何に」と仰せければ、法皇を見進らさせ給ひて、大にむつがらせ給ふ間、「とう〓〓」とて出し參らさせ給ひけり。その後四の宮の四歲に成らせましましけるを、法皇、「あれは如何に」と仰せけれなつかしげば、軈て法皇の御膝の上に參らせ給ひて、斜ならず懷氣にてぞまし〓〓ける。法皇御淚を流させ給ひて、「現にも坐ならん者の、この老法師を見て、ふ如何でか懐氣には思ふべき。是ぞ誠の我が御孫にておはします。故院の少生に少しも違はせ給はぬ者哉。是程の忘れ形見を、今迄御覽ぜられざりつる事よ」とて、御淚塞き敢へさせ給はず。淨土寺の二位殿、その時は未だ丹後殿とて喜びち御前に候はれけるが、「さて御位はこの宮にてこそ渡らせ給ひ侍はめなう」と申されたりければ、六條西の洞院を下さる。十郞藏人行家は、山門御幸一五七
平家物語中編一五八ら法皇、「子細にや」とぞ仰せける。內々御トの有りしにも、四の宮に卽かせ給はば、百王迄も日本おんあるじナム☆國の御主たるべしとぞ勘へ申しける。御母儀は七條の修理の大夫信隆の卿の御娘なり。中宮の御方に宮仕給ひしを、主上常は召され進らせける程に、宮あまた出で來進らせ給ひけり。この信隆の卿は、御娘多くおはしましければ、何れにても女御后に立て進らせたく思はれけるが、人の家に白い鷄を千飼ひつれば、その家に必ず后の出で來ると云ふ事のあればとて、鷄の白きを千汰へて飼はれたりける故にや、この御娘皇子數多生み進らさせ給ひけり。信隆の卿も內々嬉しく思はれけれども、或は平家にも恐れをなし、或は中宮を憚り奉つて、持て成し奉る事も無かりしを、入道相國の北の方、八條の二位殿、「よし〓〓、苦しかるまじ、我育て進らせて、儲の君にし奉らん」芝とて、御乳母あまた附けて、持て成し進らさせ給ひけり。中にも四の宮は、二位殿の御兄法勝寺の執行能圓法印の養君にてぞまし〓〓ける。然るを法印平家に具せられて、宮をも女房をも京都いざなひに捨ておき、西國へ落ち下られたりけるが、法印西國より人を上せ、「宮誘引進らせて、急ぎ下りいざなひ給へ」と申し上げられたりければ、北の方斜ならずに悅び、宮誘引進らせて、西の七條まで出でひもられたりけるを、女房の兄紀伊の守〓光、「是は物の付いて狂ひ給ふか。この宮の御運は、只今啓とけさせ給はんずるものを」とて、取り留め奉りたりける次の日ぞ、法皇より御迎の御車は參りたりけるとかや。何事も然るべき事とは申しながら、紀伊の守〓光は、四の宮の御爲には、さしも奉公の人とぞ見えし。されども其の忠をも思し召し寄らざりけるにや、空しう年月を送りけるが、或時〓光若しやと二首の歌を詠みて、禁中に落書をぞしたりける。一聲は思ひ出てなけ郭公、老その森の夜半の昔をか籠の内も猶うらやまし山がらの、身のほど藏す夕顏の宿主上この由聞し召して、「是程の事を今迄思し召し寄らざりけるこそ、返す〓〓も愚なれ」とて、軈て朝恩蒙つて、正三位に敍せられけるとぞ聞えし。返す〓〓も愚なれ」とて、な那と都羅同じき十日の日、木曾左馬の頭に成つて、越後の國を賜はる。その上朝日の將軍と云ふ院宣をぞ下されげる。十郞藏人備後の守になりて、備後の國を賜はる。木曾越後を嫌へば、伊豫をたぶ。ゆうく十郞藏人備後を嫌へば、備前を賜はる。その外源氏十餘人、受領、檢非違使、靱負の尉、兵衞の尉にぞ成されける。同じき十六日、前の內大臣宗盛公以下、平家の一族百六十人が官職を停めて、ふだい父子三人を殿上の御札を削らる。その中に平、大納言時忠の卿、內藏の頭信基、讚岐の中將時實、一五九那都羅
平家物語中編一六〇ば削られず。その故は主上竝に三種の神器、事故なう都へ返し入れ奉れと、時忠の卿の許へ度々仰せ下されけるに依つて也。明くる十七日、平家は筑前の國三笠の郡太宰府にこそ著き給へ。菊池の次郞高直は、都より平家の御供に候ひけるが、大津山の關開けて參らせんとて、肥後の國に打55ち越え、己が城に引き籠つて、召せども〓〓參らず。その外九州二島の者ども、皆參るべき由の御領承をば申しながら、一人も參らず。當時は岩戶の諸卿大藏の種直計りぞ候ひける。同じき十よもすがられんが八日平家安樂寺に參り、終夜歌詠み連歌して、宮仕へ給ひしに、中にも本三位の中將重衡の卿、住み馴れし故き都の戀しさは、神も昔に思ひ知るらん人々實に哀に覺えて、皆袖をぞ濡されける。四にき三日の日、都は法軍の京命にて西宮高階體に依佐卽かなのに3/3近衞殿替らせ給はず。頭や藏人成し置いて、人々皆退出せられけり。三の宮の御乳母泣き悲み後悔すれども甲斐ぞなき。天に二つの日なし、國に二人の王なしとは申せども、平家の惡行に依つてこそ、京田舍に二人の王はまし〓〓けれ。昔文德天皇、天安二年八月廿三日隱れさせ給ひぬ。御子の宮達あまた御位に望を懸けてまし〓〓ければ、內々御祈どもありけり。一の御子惟喬の親き王をば、木原の皇子とも申しき。王者の才量を御心に懸け、四海の安危は掌の中に照し、百王の理亂は御心にかけ給へり。されば賢聖の名をも取らせまし〓〓ぬべき君なりと見え給へり。二の宮惟仁親王は、その比の執柄忠仁公の御娘、染殿の后の御腹也。一門の公卿列して持て成し奉らせ給ひしかば、是も又閣き難き御事なり彼は守文繼體の器量あり、是は萬機補佐の臣相あり。かきのもと彼も是も痛はしくて、何れも思し召し煩はれき。一の御子惟喬の親王家の御祈には、柿本の紀僧正眞濟とて、東寺の一の長者、弘法大師の御弟子也。二の宮惟仁の親王家の御祈には、外祖忠仁ま公の御持僧、比叡山の惠亮和尙ぞ承られける。何れも劣らぬ高僧達なり。頓に事行き難うやあらんずらんと、人々內々呼き合はれけり。案の如く、帝隱れさせ給ひしかば、公卿僉議ありけり。「抑臣等が慮を以て、選んで位に卽け奉らん事、用捨私あるに似たり。萬人唇を反すべし。如かず、競馬相撲の節を遂げ、その運を知り、雌雄に依つて、寶祚授け奉るべし」と、議定畢んぬ。去程に同じき九月二日の日、二人の宮達、右近の馬場へ行啓有りけり。爰に王公卿相、玉の鑛を雙べ、星の如くに列り給へり。是稀代の勝事、花の袂を粧ひ、雲の如くに重り、天下の壯觀日來心人 を寄せ奉りし月卿雲客、兩方に引き分けて、手を握り心を摧き給へり。御祈の高僧達、何れか疎だ略あらんや。眞濟僧正は東寺に壇を立て、惠亮和尙は大内の眞言院に壇を立てゝ、祈られけるが、ち惠亮は失せたりと云ふ披露をさなば、眞濟僧正少し緩む心もやおはすらんとて、惠亮は失せたり那都羅一六、
那平家物語都羅中編一六二一六五
平家物語中編一六四と云ふ披露をなして、肝膽を碎いて祈られけり。既に十番の競馬始まる。始め四番は一の御子惟喬の親王家勝たせ給ふ。後六番は二の宮惟仁の親王家勝たせ給ふ。軈て相撲の節あるべしとて、一のcof御子惟喬の親王家よりは、那都羅の右兵衞の督とて、凡そ六十人が力現したるゆゝしき人を出さ大丈モれたり。二の宮惟仁の親王家よりは、善雄の少將とて、背小う妙にして、片手に合ふべしとも見えぬ人、御夢想の御告ありとて、申し請けてぞ出でられける。去程に那都羅善雄寄り合ひて、ひし〓〓と爪取して退きにけり。暫くあつて那都羅つとより、善雄を取つてさゝげ、·二丈計りぞ投げ揚げたる。只直つて倒れず。善雄又つと寄り、那都羅を取つて伏せんとす。されども那都羅は南たん大の男、かさに囘る。善雄猶危う見えければ、御母儀染殿の后より、御使櫛の齒の如くに、しげう走り重つて、「御方既に負色に見ゆ。如何せん」と仰せければ、惠亮和尙は、大威德の法を行は15れけるが、「こは心憂き事なり」とて、獨鈷を以て頭を突き破り、腦を碎き、乳に和して、護摩にた燒き、黑煙を立て、一揉み揉まれたりければ、善雄相撲に勝ちにけり。二の宮位に卽かせ給ふ。〓和の御門是なり。後には水尾の天皇とも申しき。それよりして山門には、聊の事にも、惠亮腦を碎けば、二帝位に卽き、尊意智劍を振つしかば、菅相納受し給ふとも傳へたり。是のみや法力にても有りけん、その外は皆天照大神の御計ひなりとぞ見えたりける。中編一六四宇佐行幸平家は筑紫にてこの由を傳へ聞き給ひて、「あはれ三の宮をも四の宮をも具し奉りて、落ち下るべきものを」と申し合はれければ、平大納言時忠の卿、「さらんには高倉の宮の御子の宮を、御乳母讃岐の守重秀が、御出家せさせ奉り、具し奉つて北國へ落ち下つたりしを、木曾義仲上洛の時、主にし進らせんとして、還俗せさせ奉り、具し奉りて、都へ上りたるをぞ、位には卽け進らせんずらん」と宣へば、人々、「爭か還俗の宮をば、位に卽け奉るべき」と申されければ、時忠の卿、「さ読むもさうず、還俗の國王の樣、異國にはその例もやあるらん。我が朝には、先づ天武天皇未だ春宮の御時、大友の皇子に襲はれさせ給ひて、鬢髮を剃り、芳野の奥へ込げ籠らせ給ひたりしが、大友の皇子を亡して、終に位に卽かせ給ひき。又孝謙天皇と申しゝも、大菩提心を發させ給ひて、御飾を下し、御名を法喜尼と申しゝかども、二度位に卽かせ給ひて、稱德天皇と申しゝぞかし。況んや木曾が主にし進られたる還俗の宮なれば、子細に及ぶべき」とぞ宜ひける。同じき九月三日、伊勢へ公卿の勅使を立てらる。勅使は參議長〓とぞ聞えし。太上法皇伊勢へ公卿の勅使を立てらるゝ事は、朱雀、白河、鳥羽三代の蹤跡ありとは申せども、是は皆御出家以前なり。御出家宇佐行幸一六五
平家物語中編一六六以後の例、是初とぞ承る。平家は筑紫に都を定め、內裏造らるべしと、公卿僉議ありしかども、都も未だ定らず。主上はちその比、岩戶の諸卿大藏の種直が宿所にぞまし〓〓ける。人々の家々は、野中田中なりければ、麻の衣は打たねども、十市の里とも謂ひつべし。內裏は山の中なれば、彼の木の丸殿も斯や有りけんと、中々優なる方もありけり。先づ字佐の宮へ行幸なる。大宮司公通が宿所皇居になる。社頭は月卿雲客の居所に成る。廻廊は五位六位の官人、庭上には四國鎭西の兵ども、甲胃弓箭を帶して、雲霞の如くに竝み居たり。故りにし丹の玉垣、再びかざるとぞ見えし。七日參籠の曉、大け臣殿の御爲に、夢想の〓ぞありける。御寳殿の御戶推開き、ゆゝしう氣高げなる御聲にて、世の中のうさには神もなきものを、何祈るらん心づくしに大臣殿打ち驚き、胸打ち騒ぎ、あさましさに、さりともと思ふ心も蟲の音も、弱り果てぬる秋のくれかなといふ古歌を、心細げにぞ口占み給ひける。さて太宰府へ還幸なる。去程に九月も十日餘りにな何らりぬ。荻の葉むけの夕嵐、獨丸寢の床の上、片布く袖もしをれつつ、更け行く秋の哀れさは、くもとは云ひながら、旅の空こそ忍び難けれ。九月十三夜は、名を得たる月なれども、その夜はゆ大久堅の月に思ひを述べし夕も、都を思出づる淚に、我れから曇りてさやかならず。今の樣に覺えて、薩摩の守忠度、月を見し去年の今宵の友のみや、修理の大夫經盛、戀しとよ去年の今宵の終夜、皇后宮の亮經正、分きて來し野邊の露とも消えずして、九重の雲の上、都に我を思ひ出づらん契りし人の思ひ出られて思はぬ里の月を見る哉〓環豐後の國は刑部卿三位賴資の卿の國也けり。子息賴經の朝臣を代官に置かれたりけるが、京より賴經の許へ使者をたてゝ、平家は已に神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ進らせて、帝都を出でゝ、波の上に漾ふ落人となれり。然るを九州二島の者共が請け取つて、もてあつかふらん事こそ然るべからね。當國に於ては、一向隨ふべからず。東北國と一味同心して、九國の中を追ひ出げishisし奉るべき由、宣ひ遣されたりければ、是を〓方の三郞惟義に下知す。彼の惟義と申すは、怖し環〓環一六七
平家物語中編一六八き者の末にてぞ候ひける。喩へば昔豐後の國或片山里に女ありき。或人の獨娘、夫も無かりけるよな〓〓が許へ、男夜々通ふ程に、年月も隔たれば、身も直ならず成りぬ。母是を怪んで、「汝が許へ通ふ者は、如何なる者ぞ」と問ひければ、「來るをば見れども、歸るを知らず」とぞ云ひける。「さらばつ朝歸せん時、しるしを附けて繋いでみよ」とぞ〓へける。娘母の〓に隨つて、朝歸しける男の、水色の狩衣を著たりける頸上に針を刺し、賤の〓環と云ふ物を附けて、經て行く方を繫いで見れば〓まth豐後の國に取つても日向の境、姥が獄といふ獄の下、大なる岩屋の內へぞ繋ぎ入れたる。娘岩屋た十上の口にイんで聞きければ、大なる聲して喚びけり。女申しけるは、「御姿を見進らせんが爲に、わ喜ばららはこそ是まで參つて侍へ」と云ひければ、岩屋の內より答へて云く、「我は是人の姿には非ず。汝我が姿を見ては、肝魂も身に添ふまじきぞ。胎める處の子は、男子なるべし。弓矢打物取つては、九州二島に肩を雙ぶる者あるまじきぞ」とぞ〓へける。女重ねて、「縱ひ如何なる姿にてもあらばあれ、日來の好、爭か忘るべきなれば、互の姿を今一度見もし見えられん」と云ひければ、さらばとて岩屋の内より臥長は五六尺、跡枕邊は十四五丈も有るらんと覺ゆる大蛇にて、動搖してぞ這ひ出でたる。女肝魂も身に添はず、召し具したる十餘人の所從共、喚き叫んで逃げさりぬ。野上に刺すと思ひし針は、大蛇の喉笛にぞ立つたりける。女歸つて程なく產をしたりければ、男〓環一六九〓環
平家物語平家物語中編一七〇こだそだせいおほ子にてぞありける。母方の祖父貴」見んとて育てたれば、未だ十歲にも滿たきるに、有おまえいかりけり。七歲にて元服せさせ、母方の祖父を大太夫といふ間、これをば大太とこそ附けたりけあかまりわたんな夏も冬も手足に隙なく胝破れたりければ、胝大太とも云はれけり。彼の惟義は、件の大太には五代の孫也。かゝる怖しき者の末なればにや、國司の仰を院宣と號して、九州二島に廻文をあがしたりければ、然るべき者共も、惟義に皆隨ひ附く。件の大蛇は、日向の國にめられさせ給ふ、たかち高知尾の明神の神體なりとぞ承る。中編太宰府落去程に平家は筑紫に都を定め、內裏造らるべしと、公卿僉議有りしかども、惟義が謀叛に依つごけて、それも叶はず。新中納言知盛の卿の異見に申されけるは、「彼の〓方の三郞は、小松殿の御家よ人也。然れば君達御一所向はせ給ひて、こしらへて御覽ぜらるべうもや候ふらん」と申されければ、「この儀尤も然るべし」とて、新三位の中將資盛、その勢五百餘騎、豐後の國に打ち越え、様々にこしらへ宣へども、惟義隨ひ奉らず。剩へ君達をも、「是にて取り籠め進らすべう候へども、大事の中の小事なしとて、取り籠め進らせずば、何程の事か候ふべき。只太宰府へ歸らせ給ひて、御一所で如何にも成らせ給へ」とて、追つ返し奉る。その彼惟義が次男、野尻の次郞惟村を使者店にて、太宰府へ申しけるは、「平家こそ重恩の君にてまし〓〓候へば、甲を脫ぎ弓の弦を弛いて、かうにん申し送降人に參るべく候へども、一院の仰には、速に九國の內を追ひ出だし奉るべき由候」と、つたりければ、平大納言時忠の卿、緋〓括の袴、絲葛の直垂、立烏帽子にて、惟村に出で向ひて宣しやうとうひけるは、「夫れ我が君は天孫四十九世の正統、神武天皇より人皇八十一代に當らせ給ふ。さればこのかた天照大神正八幡宮も、吾が君をこそ守り進らさせ給ふらめ。就中當家は、保元平治より以來、度度の逆亂を謐めて、げきらん号九州の者共をば、皆内樣へこそ召されしか。うちざま然るにその恩を忘れて、東國北トラ國の凶徒等、賴朝義仲等に語らはれて、しおほせたらば國を預けん、庄をたばんと申すを、實とはなぶんご思ひて、その鼻豐後が下知に隨ふらん事こそ、然るべからね」とぞ宜ひける。豐後の國司刑部卿三位賴資の卿は、極めて鼻の大きなりければ、斯樣には宣ひけるなれ。惟村歸つて父にこの由告げたりければ、「こは如何に、昔は昔、今は今、その儀ならば、九國內を追ひ出だし奉れや」とてもりずみ召し捕勢汰ると聞えしかば、源大夫の判官季貞、攝津の判官守澄、「向後傍輩のために奇怪に候。たかのり候はん」とて、その勢三千餘騎で、筑後の國に打ち越え、高野の本庄に發向して、一日一夜攻め戰ふ。されども惟義が方の勢、雲霞の如くに重れば、力及ばで引退く。平家は〓方の三郞惟義一七一太宰府落
平家物語中編一七一が三萬餘騎の勢にて、旣に寄すと聞えしかば、取る物も取りあへず、太宰府をこそ落ち給へ。さし夫方も賴もしかりつる大滿天神の注連の傍を、心細くも立ち別れ、駕輿丁も無ければ、葱花鳳輦は只名をのみ聞いて、主上腰與に召されけり。國母を始め進らせて、止事なき女房達は、袴の裾を高# coく取り、大臣殿以下の卿相雲客は、指貫のそばを高く扶み、步既で水幾の戶を出で、我れ先に我れん七二先にと、箱崎の津へこそ落ち給へ。折節降る雨車軸の如し。吹く風砂を揚ぐとかや。落つる淚降しる雨、分きて何れも見えざりけり。住吉、箱崎、香椎、宗像伏拜み、主上只舊都の還幸とのみぞ祈お15られける。垂水山、鶉濱など云ふ峻しき嶮難を凌がせ給ひて、渺々たる平沙へぞ赴かれける。何習はしの御事なれば、御足より出づる血は沙を染め、紅の袴は色をまし、白き袴は裙紅にぞなりほにける。彼の玄弉三藏の、流沙葱嶺を凌がれたりけん悲も、是には爭か勝るべき。それは求法の爲なれば、自他の利益も有りけん、是は闘戰の道なれば、來世の苦み、且つ思ふこそ悲しけれ。七十六原田の大夫種直は、二千餘騎で、京より平家の御供に參る。山賀の兵藤次秀遠數千騎で、平家の御迎に參りけるが、種直、秀遠、以の外に不和なりければ、種直は惡しかりなんとて、路より引返す。それより蘆屋の津と云ふ所を過ぎさせ給ふにも、是は都より我等が福原へ通ひし時、朝夕見馴れし里の名なればとて、何れの里よりも懷かしく、今更哀れをぞ催されける。新羅、百濟、高麗、契丹、雲の終、海の終迄も、落ち行かばやとは思はれけれども、波風向うて叶はねば、力及53お花香ばず、兵藤次秀遠に具せられて、山賀の城にぞ籠り給ふ山賀へも又敵寄すと聞えしかば、取るこ物も取り敢へず、平家小舟共に取り乘つて、終夜豐前の國柳が浦へぞ渡られける。爰に都を定めて、內裏造らるべしと、公卿僉議有りしかども、分限無ければそれも叶はず。又長門より源氏寄すと聞えしかば、取る物も取り敢へず、海士小船に召して、海にぞ浮び給ひける。神無月の比ほひ、小松殿の三男、左の中將〓經は、何事も深う思ひ入れ給へる人にておはしけるが、或る月のふなばた鎭西夜、舷に立ち出でて、橫笛音取、朗詠して遊ばれけるが、「都をば源氏の爲に攻め落され、決たらをば惟義が爲に追ひ出され、網に懸れる魚の如し。何地へ行かば遞るべきかは。存へ果つべき身にも非ず」とて、閑かに經讀み念佛して、海にぞ沈み給ひる。男女泣き悲めども甲斐ぞなき。長門の國は新中納言知盛の卿の國なりけり。目代は紀伊の刑部の大夫通資と云ふ者也。平家海士小船に召したる由承つて、大船百餘艘點じて進らせたりければ、平家是に乘り移り、四國へぞ渡られける。阿波の民部重能が沙汰として、讃岐の國八島の磯に、形の樣なる板屋の內裏や、御所をぞ造らせける。その程は恠しの民屋を皇居とするに及ばねば、船を御所とぞ定めける。大臣殿以下あcer浪の上のの卿相雲客は、海士の苦屋に日を暮し、舟の中にて夜を明す。龍頭鷁首を海中に浮べ、太宰府落〓一三
平家物語平家物語中編一七四ひたにあたた行宮は、靜なる時なし。月を浸せる潮の深き愁に沈み、霜を掩へる葦の葉の脆き命を危む。洲崎よに騷ぐ千鳥の聲は、曉の恨みをまし、磯間にかゝる楫の音は、夜半に心を傷ましむ。白鷺の遠松にたれうかいよもすがら簇居るを見ては、源氏の旗を揚ぐるかと疑はる。野雁の遼海に鳴くを聞いては、兵共の終夜舟を漕すゐたいうがぐわいどぐかと驚かる。晴嵐膚を侵して、翠黛紅顏の色漸う衰へ、蒼波眼を穿ちて、外土望〓の淚押へ難251やあしすだれし。翠帳紅閨に替れるは、埴生の小屋の葦簾、薰爐の煙に異なる海士の藻鹽火燒く賤しきに付けてまゆずみも、女房達は盡きせぬ物思に、紅の淚塞き敢へ給はねば、綠の黛亂れつつ、その人とも見え給はず。中編征夷將軍の院宣よ去程に鎌倉の前の右兵衞の佐賴朝、武勇の名譽長じ給へるに依つて、居ながら征夷將軍の院宣ししやうを下さる。御使は左史生中原の泰定とぞ聞えし。十月四日の日關東へ下著。兵衞の佐殿宣ひけるは、「抑賴朝武勇の名譽長ぜるに依つて、居ながら征夷將軍の院宣を蒙る。されば私にては、争か請け取り奉るべき。若宮の拜殿にして、請け取り奉るべし」とて、若宮へこそ參り向はれけれ。つるがをか人 た八幡は鶴岡に立たせ給ふ。地形石〓水に違はず。廻廊有り、樓門有り、作道十餘町を見下したり。ひやうぢやう抑院宣をば、誰してか請取り奉るべきと評定有り。三浦の介義澄して、請取り奉るべし。その故ためつぎばつえふおほすけは、八箇國に聞えたる弓矢取、三浦の平太郞爲嗣が末葉也。又大介も君の爲に命を捨てし兵なれめいあんよしあきら家の子二人郎等十人具ば、彼の義明が黃泉の迷暗を照さんが爲とぞ聞えし。院宣の御使泰定は、ひしたり。三浦の介も家の子二人郎等十人具したりけり。二人の家の子は、和田の三郞宗實、比企の藤四郞能員なり。郞等十人をば、大名十人して、一人づゝ俄に仕立てられたり。三浦の介、そ1まえん滋籐の弓の日は褐の直垂に、黑絲威の鎧著て、黑漆の太刀をはき、廿四差いたる截生の矢負ひ、脇に挾み、甲をば脫いで高紐にかけ、腰を曲めて院宣を請取り奉らんとす。左史生申しけるは、「只今院宣請取り奉らんとするは誰人ぞ、名乘り給へ」と云ひければ、兵衞の佐の佐の字にや恐らんばこれけん、三浦の介とは名乘らずして、本名三浦の荒次郞義澄とこそ名乘つたれ。院宣をば蘭箱に入れられたり。兵衞の佐殿に奉る。良有つて蘭箱をば返されけり。重かりければ、泰定是を披いさいゐんぱいぜんて見るに、砂金百兩入れられたり。若宮の拜殿にして、泰定に酒を進めらる。齋院の次官陪膳す。五位一人役送を勤む。馬三匹引かる。一匹に鞍置いたり。宮の侍狩野の工藤一郞祐經是を引く。+りあつわたまつは紺藍摺古き萱屋を飾うて、泰定を入れらる。厚綿の衣二領、小袖十重、長持に入れて設けたり。たちはいばんゆたか共に十白布千端を積めり。杯盤豐にして美麗なり。次の日兵衞の佐の舘へ向ふ。內外に侍あり。とさぶらひうちさぶらひ侍には一門の源氏六間迄有りけり。外侍には家の子郎等、肩を雙べ膝を組んで列み居たり。内征夷將軍の院宣一一五
平家物語平家物語中編一七六+や上座して、末座には八箇國の大名小名居流れたり。源氏の上座には泰定を居ゑらる。良有つて寢み殿に向ふ。上には高麗緣の疊を敷き、廣廂には紫緣の疊を敷いて、泰定を居ゑらる。御簾高く捲せいひきき上げさせて、兵衞の佐殿出でられたり。その日は布衣に立烏帽子也。顏大きにして背短かりけ金り。容貌優美にして言語分明也。先づ子細を一事述べたり。「抑平家賴朝が威勢に恐れて、都を落?。その跡に木曾義仲、十郞藏人等が打ち入つて、我が高名類に、官加階を思ふ樣住り、剩へ國を嫌ひ申す條奇怪也。又奥の秀術が陸奥の守になり、佐竹の冠者が常陸の守に成つて、是も賴朝が下知に隨はず。彼等をも急ぎ追討すべき由の院宣賜はるべき由」を申さる。泰定軈て、「是にて名簿やが1kt.をも進らせたうは候へども、當時は御使の身で候へば、罷り上つて軈て認めてこそ進らせめ。第で候ふ史の大夫重能も、この儀を申し候」と申しければ、兵衞の佐殿あざ笑うて、「當時賴朝が身として、各の名簿思ひもよらず。さりながらも致されば、さこそ存ぜめ」とぞ宜ひける。泰定軈て今日上洛の由を申す。今日計りは逗留あるべきとて留めらる。次の日又兵衞の佐の舘へ向ふ。萌黄絲威の腹卷一領、白う作つたる太刀一振、滋籐の弓に野矢副へてたぶ。馬十三匹引かる。三匹に鞍置いたり。十二人の家の子郞等共にも、直垂小袖大口馬物具に及べり。馬だにも三百匹迄有りけり。鎌倉出の宿よりも、近江の國鏡の宿に至るまで、宿々に十石づゝの米を置かれたりけ中編れば、澤山なるに依つて、施行に引けるとぞ聞えし。ねこ猫ま間泰定都へ上り、院參して、御坪の內に畏つて、關東の樣を具に奏聞申したりければ、法皇大きに御感有りけり。公卿も殿上人もゑつぼに入らせおはしまし、如何なれば兵衞の佐は、斯こそゆさぶらゆしうおはせしか。當時都の守護して候はれける木曾義仲は、似も似ず惡しかりけり。色白う眉たちゐら、目は好い男にて有りけれども、立居の振舞の無骨さ、言ひたる詞續の頑なる事限なし。理哉なじ二歲より三十に餘る迄、信濃の國木曾といふ片山里に住み馴れておはしければ、何かはよかるべき。その比猫間の中納言光高の卿と云ふ人ありけり。木曾に宣ひ合すべき事有りておはしたりけ仕三るを、郞等共、「猫間殿の入らせ給ひて候」と云ひければ、木曾大きに笑うて、「猫は人に對面するか」とぞ云ひける。「是は猫間の中納言殿とて、公卿にて渡らせ給ひ候」と云ひければ、「さらば」けとて對面す。木曾、猫間殿とはえいはで、「猫殿の、食時にまればれわいたに、物よそへ」とぞ云ひける。中納言殿、「爭か只今さる御事のおはすべき」と宣へども、木曾、何をも新しき物をば、発ねのゐゐなか無鹽と云ふぞと心得て、「無鹽の平井爰にあり、疾う〓〓」と急がす。根井の小彌太陪膳す。田舎猫間一七七
平家物語中編一七八おでしさい合子の極めて大きにくぼかりけるに、飯堆うよそひ、御茶三種して、平茸の汁にて參らせたり。正木曾が前にも同じ體にてすゑたりけり。木曾箸取つて食す。中納言は餘りに合子のいぶせさに、召さざりければ、木曾、「きたなうな思ひ給ひそ。それは義仲が精進合子で候ふぞ。とうとう」と進むる間、中納言殿、召さでも流石惡しかりなんとや思はれけん、箸取つて召す由して、指し置かれ歩たりければ、木曾大きに笑つて、「猫殿は小食にておはすよ。聞ゆる猫おろしし給ひたり。搔い給へ〓〓や」とぞ責めたりける。中納言殿は、斯樣の事に萬づ興醒めて、宣ひ合はすべきこと共、一言も言ひ出さず、急ぎ歸られけり。其後義仲院參しけるが、官加階したる者の、直垂にて出仕せん事あるべうもなしとて、俄に布えかたくな衣とり、裝束、冠ぎは、袖のかゝり、指貫の輪に至る迄、頑なる事限なし。鎧取つて著、矢搔き負ひ、弓押し張り、甲の〓をしめ、馬に打ち乘つたるには、似も似ず惡しかりけり。されども、じた、車にゆがみ乘んぬ。牛飼は八島の大臣殿の牛飼也。牛車もそなりけり。逸物なる牛の居ゑ飼うたるを.門出づるとて、一樣當たらうに、何かはよかるべき。牛は飛んで出づれば、木曾は車の内にて、あふのきに倒れぬ。蝶の羽を播げたる樣に、左右の袖をひろげ手をあがいて、起きん〓〓としけれども、何かは起きらるべき。木曾、牛飼とはえ云はで、「やれ小牛健兒よ、やれ小牛健兒よ」と云ひければ、車をやれと云ふぞと心得て、五六町こそあがかせけれ。今井の四郞、鞭鐙を合せて追つ付き、「何とて御車をば斯樣には仕るぞ」と云ひければ、「餘りに御牛の鼻が强う候うて」とてぞ演べたりける。牛飼、木曾に中直せんとや思ひけん、「それに候ふ手形と申す者に取付かせ給へ」+ほ殿の樣か」とぞと云ひければ、木曾、手形に無手と掴み附いて、「哀れ支度や、牛健兒が計ひか、問ひたりける。さて院の御所へ參り、門前にて車かけはづさせ、後より下りんとしければ、京のこ者の雜色に召し使はれけるが、「車には、召され候ふ時こそ、後よりは、召され候へ。下りさせ給ふ時は、前よりこそ下りさせ給ふべけれ」と云ひければ、木曾、「爭か車ならんからに、何條す通りをばすべき」とて、終に後よりぞ下りてげる。その外をかしき事共多かりけれども、恐れて是を申さず。牛飼は終に斬られにけり。水島合戰去程に平家は讚岐の八島にありながら、山陽道八箇國、南海道六箇國、都合十四箇國をぞ討取りける。木曾安からぬ事也とて、軈て討手を向けらる。大將軍にて陸奥の新判官義康が子、矢田の判官代義〓、侍大將には、信濃の國の住人海野の彌平四郞行廣を先として、都合その勢七千餘一七九島合戰水島合戰
平家物語中編一八〇赤騎山陽道へ發向す。備中の國水島の渡に舟を浮べて、八島へ旣に寄せんとす。閏十月一日の日、水島が渡に小船一艘出で來たり。海士舟釣舟かと見る處に、さはなくして、平家の方よりの牒の使の船也けり。源氏の方の兵共是を見て、干上げたりける五百餘艘の船どもを、皆我先に〓〓とぞ下しける。平家は千餘艘でぞ寄せたりける。大將軍には新中納言知盛の卿、副將軍には能登の守〓經也けり。能登殿大音聲を上げて、「如何に四國の者共、北國の奴原に生捕にせられんをば、心憂しとは思はずや。御方の船をば組めや」とて、千餘艘の纜舳綱を組み合せ、中にもやひを入はれ、步の板をひき渡し〓〓渡いたれば、船の中は平々たり。関作り矢合して、遠きをば射て落し、近きをは太刀で切る。或は熊手に縣けて引き落さるゝ者もあり、或は引つ組み刺し違へて、海へ飛び入る者も有り。何れ隙有りとも見えざりけり。源氏の方の侍大將海野の彌平四郞行廣討たれぬ是を見て矢田の判官代義〓、安からぬ事也とて、主從七人小舟に乘り、眞前に進んで戰ひけるが、船蹈み沈めて失せにけり。平家は舟に馬を立てたりければ、船共乘り傾け〓〓、馬共追ひ下し〓〓、船に引き付け〓〓游がす。馬の足立候爪浸る程にも成りしかば、ひたひたと打乘つて、能登殿五百餘騎、喚いて先を懸け給へば、源氏の方には、大將軍は討たれぬ、我先にとぞ落ち行きける。平家は今度水島の軍に勝ちてこそ、會稽の恥をば雪めけれ。水島合戰一八、
平家物語中編一八二を尾瀨最後木曾の左馬の頭この由を聞いて安からぬ事也とて、其勢一萬餘騎で、備中の國へ馳せ下る。爰に吉ちくち平家の御方に候ひける、備中の國の住人、瀨尾の太郞兼康は、聞ゆる兵にてありけれども、去んぬる五月北國の戰の時、運や盡きにけん、加賀の國の住人、倉光の次郞成澄が手に懸つて、生捕に各C一さこそせられけれ。のの時既に忻らるべかりしち、木曾殿「あったたりを左右なう断そとて、弟三郞成氏に預けられてぞ候ひける。人あひ心樣誠に優なりければ、倉光も懇に持て成しけせきり。蘇子卿が胡國に囚はれ、李少卿が漢朝へ歸らざりしが如し。遠く異國につける事も、昔の人おしかはしやの悲めりしが處也と云へり。韋の鞴、毳の幕、以て風雨を禦ぎ、羶き肉、酪の漿、以て饑渴に充55 50ひねもすつ。夜は寢ぬる事なく、晝は終日に仕へて、木を伐り草を刈らずと云ふ計りに隨ひつゝ、如何にかたきもして敵を窺ひ計つて、今一度舊主を見ばやと、思ひ立ちける兼康が、心の中こそ怖しけれ。或る時瀨尾の太郞、倉光の三郞に云ひけるは、「去んぬる五月より、甲斐なき命を助けられ參らせて候べば、誰を誰とか思ひ進らせ候ふべき。今度御合戰候はゞ、命をば先づ木曾殿に奉らん。それは50とに就き候ひては、先年兼康が知行し候ひし備中の瀨尾と云ふ所は、馬の草飼好き處にて候。御邊申して賜はらせ給へ。案內者せん」と云ひければ、倉光の三郞、木曾殿にこの由を申す。木曾殿、「さては不便の事をも申すござんなれ、誠には汝先づ下つて、馬の草などをも構へさせよ」とぞ宣ひける。倉光の三郞畏り承つて、手勢三十騎計り、瀨尾の太郞を相具して、備中の國へ馳せ下る。瀨尾が嫡子小太郞宗康は、平家の御方に候ひけるが、父が木曾殿より暇賜つて下ると聞いて、年來の郞等共催し集めて、その勢百騎計りで、父が迎に上りけるが、播磨の國府で行きあうたり。それより打ち連れ下る程に、備前の國三石の宿に留つたりける夜、瀨尾が相知つたる者共、酒を起しも立てず、倉光持たせて來り集り、終夜酒盛しけるが、倉光が勢三十騎計りを强ひ臥せて、の三郞を始めとして、一々に皆刺し殺してげる。備前の國は十郞藏人の國也けり。その代官の國府にありけるをも、軈て推寄せて討ちてげり。瀨尾の太郞申しけるは、「兼康こそ木曾殿より暇賜つて、是迄罷り下つたれ。平家に御志思ひ進らせん人々は、今度木曾殿の下り給ふに、矢一つ射懸け奉れや」と披露したりければ、備前備中備後三箇國の兵共、然るべき馬、物具、所從などをば、平家の御方へ進らせて、おんかた休み居たりける老者共、らうじや瀨尾に催されて、或は柿の直垂につめ紐し、つやまうつぼたかえびら或は布の小袖に東折し、破れ腹卷綴り著、山靱竹箙に矢共少々さし、搔き負ひ〓〓都合その勢二なはてさ千餘人、瀨尾が館へ馳せ集る。備前の國福隆寺繩手、篠のせまりを城郭に構へて、口二丈深さ二一八三瀨尾最後瀨尾後
平家物語中編一八四sch丈に堀を掘り、搔楯かき、高櫓し、逆木引いて待ち懸けたり。十郞藏人の代官、瀨尾に討たれて、げその下人の迯げて京へ上るが、播磨と備前の境なる船坂山にて、木曾殿に行き逢ひ奉り、この由cef斯と申しければ、木曾殿、「惡からん瀨尾めを、斬つて捨つべかりつるものを、手延にして謀られぬる事こそ安からね」と、後悔せられければ、今井の四郞申しけるは、「奴が頰魂たゞ者とはたび見え候はず。千度斬らうと申し候ひしも、爰候ぞかし。さりながら何程の事か候ふべき。兼平先づ罷り向つて見候はん」とて、その勢三千餘騎で、備前の國へ馳せ下る。づゑ備前の國福隆寺繩手は、端張弓杖一杖計りにて、遠さは西國道の一里也。左右は深田にて、馬の足も及ばねば、三千餘騎が心は先に進めども、力及ばず、馬次第にぞ步ませける。今井の四郞推寄せて見ければ、瀨尾の太郞は、急ぎ高櫓に走り上り、大音聲を揚げて、「去んぬる五月より、かひなき命を助けられ進らせて候ふ、各の芳志には、是をこそ用意仕つて候へ」とて、廿四指いたる矢を、指しつめ引きつめ散々に射る。今井の四郞、宮崎三郞、海野、望月、諏訪、藤澤など云ふ、一人當千の兵共、是を事ともせず、甲の鍛を傾け、射殺さるゝ人馬をば、取り入れ引き入れむら堀を埋め、或は左右の深田に打ち入れて、馬の草脇鞅、盡し、太腹に立つ處をも事ともせず、簇めたにふけかいて推し寄せ、或は谷深をも嫌はず、懸け入り懸け入り、喚き叫んで攻め入りければ、瀨尾が方さの兵共、助かる者は少く、討たるゝ者ぞ多かりける。夜に入つて、瀨尾が賴み切つたる篠の迫りはたの城郭を破られて、叶はじとや思ひけん、引退く。備中の國板倉川の端に、搔楯かいて待ち懸けたり。今井の四郞やがて續いて攻めければ、瀨尾が方の兵共、山靱竹箙に、矢種の有る程こそ防ぎけれ、矢種皆盡きければ、力及ばず、我先にとぞ落ち行きける。瀨尾の太郞只主從三騎に打ちみどりやまなされ、板倉川の端に著いて、綠山の方へ落ちぞ行く。去んぬる五月北國にて、瀨尾生捕にしたる倉光の弟成澄は、弟の三郞成氏を討たせて、安からずや思ひけん、今度も又瀨尾めに於いては、虜にせんとて、只一騎群に拔けて追うて行く。交ひ一町計りに追つ付き、「あれは如何に、瀨尾とこそ見れ。正なうも敵に後を見する者哉。返せや返せ」と詞を懸けければ、瀨尾の太郞は板倉川を西へ渡すが、川中に扣へて待ちかけたり。倉光の次郞鞭鐙を合せて追つ付き、押し竝べ無手と組だいぢからんでどうと落つ。互に劣らぬ大力ではあり、上に成り下に成り、轉び合ひけるが、河岸に淵の有りけるに轉び入りぬ。倉光は無水練、瀨尾は究竟の水練にてありければ、水の底にて倉光が腰の刀を拔き、鎧の草摺引き上げて、柄も拳も透れ〓〓と三刀刺いて頸を取る。瀨尾の太郞我が馬をば乘り損じたりければ、倉光が馬に打ち乘つて落ちて行く。嫡子の小太郞宗康は、年は二十に成りけれども、餘りに太つて、一町ともえ走らず。是を見捨てゝ、瀨尾は廿餘町ぞ延びたりける。瀨尾最後一八五
平家物語中編一八六おたま瀨尾の太郞、郞等に云ひけるは、「日來は千萬の敵に逢うて軍するには、四方晴れて覺ゆるが、今日は小太郞宗康を捨て行けばにやあらん、一向先が暗うて見えぬなり。今度の軍に命生きて、二度平家の御方へ參つたりとも、兼康は六十に餘つて、幾程生かうと思うて、只一人ある子を捨てて、是迄遁れ參りたるらんなど、同款共に云はれん事こそロ惜しけれ」と云ひければ、郞等、「左よ候へばこそ、只御一所で如何にも成らせ給へと申しつるは、爰候ふぞかし。返させ給へ」とて、又取つて返す。案の如く小太郞宗康は、足かん計りに腫れて、臥せり居たる所へ、瀨尾の太郞取つて返し、急ぎ馬より飛んで下り、小太郞が手を取つて、「汝と一所で如何にもならんと思ふ爲に、是迄歸りたるは如何に」と云ひければ、小太郞淚をはら〓〓と流いて、「縱ひこの身こそ無器3rd量に候へば、爰にて自害を仕り候とも、我故御命をさへ失ひ進らせん事、五逆罪にや候はんずらん。只とう〓〓延びさせ給へ」と云ひけれども、「思ひ切りてん上は」とて、休み居たりける處に、又荒手の源氏五十騎計で出で來る。瀨尾の太郞射殘したる八筋の矢を、差しつめ引きつめ散々に射る。死生は知らず、矢場に敵八騎射落し、その後太刀を拔いて、先づ小太郞が頸ふつと討落し、ま敵の中へ懸け入り、堅樣橫樣蜘蛛手十文字に懸け廻り、散々に戰ひ、敵あまた討ち取つて、其に15て打死してげり。郞等も主に些とも劣らず戰ひけるが、痛手負うて生捕にこそせられけれ。中臺日あつて軈て死ににけり。彼等主從三人が頸をば、備中の國驚が森にぞ懸けたりける。「哀れ剛の者や、是等が命を助けて見で」とぞ宣ひける。木曾殿、室山合戰去程に、木曾は備中の國萬壽の庄にて勢汰して、八島へ旣に寄せんとす。その間都の留守に置かれたりける樋口の次郞兼光、西國へ使者を奉つて、「殿の渡らせ給はぬ間に、十郞藏人殿こそ、院のきり人して、樣々に讒奏せられ候ふなれ。西國の軍をば暫く指し置かせ給ひて、急ぎ上らせ給へ」と云ひければ、木曾さらばとて、夜を日に續いで馳せ上る。十郞藏人行家は、木曾に中違うて惡しかりなんとや思はれけん、その勢五百餘騎で、丹波路に懸つて播磨の國へ落ち下る。木曾は攝津の國を經て都に入る。平家は木曾討たんとて、大將軍には、新中納言知盛の卿、本三位の中將重衡の卿、侍大將には、越中の次郞兵衞盛續、上總の五郞兵衞忠光、惡七兵衞景〓、伊賀の平内左衞門家長を先として、都合その勢二萬餘騎、播磨の國に押し渡り、室山に陣をぞ取つたりける。十郞藏人行家は、平家と軍して、木曾に中直せんとや思ひけん、その勢五百餘騎室山へこそ平家と軍して、木曾に中直せんとや思ひけん、その勢五百餘騎一八七室山へこそ室山合戰
平家物語中編一八八懸けられけれ。平家は陣を五つに張る。先づ伊賀の平内左衞門家長、二千餘騎で一陣を堅む。越中の次郞兵衞盛續、二千餘騎で二陣を固む。上總の五郞兵衞忠光、惡七兵衞景〓、三千餘騎で三陣を堅む。本三位の中將重衡の卿、三千餘騎で四陣を堅め給ふ。新中納言知盛の卿、一萬餘騎で五陣に扣へ給へり。先づ一陣伊賀の平内左衞門家長、暫く應答體に持て成して、中を開けてぞ通しける。二陣越中の次郞兵衞、是も開けてぞ通しける。三陣上總の五郞兵衞、惡七兵衞、共に開けてぞ通しける。四陣本三位の中將重衡の卿も、同じう開けてぞ入れられける。先陣より後陣迄、兼て約束したりければ、源氏を中に取り籠めて、我討取らんとぞ進みける。十郞藏人行家、こは套むね謀られにけりとや思はれけん。面も振らず、命も惜まず、爰を最後と攻め戰ふ。新中納言の宗と賴まれたりける紀七衞門、紀八衞門、紀九郞など云ふ一人當千の兵共、皆そこにて十郞藏人に討かたき取られぬ。斯して五百餘騎の勢共、僅三十騎計りに討ち成され、雲霞の如くなる敵の中を破つてたかさご出づれども、我が身は手も負はず、廿七騎大略手負ひ、播磨の國高砂より船に乘つて、和泉の國ふけひ吹飯の浦へ押渡り、それより河內の國長野の城に立て籠る。平家は室山水島二箇度の軍に勝つていよ〓〓ボこそ、彌勢は附きにけれ。鼓判官いりどりやはた凡そ京中には源氏の勢滿ちて、在々所々に入取多し。賀茂八幡の御領とも云はず、靑田を刈つろ平家の都におはせし程て秣にし、人の藏を打開けて物を取り、路次に持つて逢ふ物を奪ひ取る。は、六波羅殿とて、只大方怖しかりし計り也。衣裳を剝ぎ取る迄は無かりしものを、平家に源氏替へ劣りしたりとぞ人申しける。法皇より木曾の左馬の頭のもとへ、「狼藉靜めよ」と仰せ下さる。御使は壹岐の守朝親が子に、壹岐の判官朝泰と云ふ者也。天下に聞えたる鼓の上手にてありければ、時の人鼓の判官とぞ申しける。木曾對面して、先づ院の御返事をば申さで、「抑和殿を鼓判官とは云ふは、萬の人に打たれたうたか、張られたうたか」とぞ問うたりける。朝泰返事に及ばず、急ぎ歸り參つて、「義仲嗚呼の者にて候。早く追討せさせ給へ。只今朝敵と成り候ひなんず」と申しければ、法皇軈て思し召し立たせ給ひけり。さらば然るべき武士にも仰せ付けられずして、山の座主、寺の長吏に仰せられて、山、三井寺の惡僧共をぞ召されける。公卿殿上人の召されける勢と云ふは、向ひ礫、きいて印地、じん云ふ甲斐なき辻冠者原、つじくわんじやばらさては乞食法師原也。こつじき又信濃源氏村上の三郞判官代、是も木曾を背いて法皇へぞ參りける。木曾の左馬の頭、院の御氣色惡しうなると聞えし鼓判官一八九
平家物語中編一九〇かば、始めは木曾に隨うたる五畿內の者共、皆木曾を背いて院方へ參る。今井の四郞申しけるは、あ「是こそ以の外の御大事にて候へ。さればとて十善の君に向ひ進らせて、如何で御合戰候ふべき。はう只甲を脫ぎ弓の弦を弛いて、降人に參らせ給ふべうもや候ふらん」と申しければ、木曾大に怒つをみあひだて、「我れ信濃を出でしより、小見、合田の合戰より始めて、北國にては、砥浪、黑坂、鹽坂、篠六三甘原、西國にては、福隆寺繩手、篠の迫り、板倉が城を攻めしかども、一度も敵に後を見せず。縱ひ十善の君にて渡らせ給ふとも、甲を脫ぎ弓の弦を弛いて、降人にはえこそ參るまじけれ。法住寺合戰喩へば都の守護してあらんずる者が、馬一匹づゝ飼うて乘らざるべきか。幾らも有る田共刈らくわんじやばらせて秣にせんを、强に法皇の咎め給ふべき様やある。兵粮米盡きぬれは、冠者原共が、西山東山げの片邊に付きて、時々入取せんは、何かは苦しかるべき。大臣以下宮々の御所へも參らばこそ、ひがごと僻事ならめ。如何樣是は鼓判官が凶害と覺ゆるぞ。その鼓め打破つて捨てよ。今度は義仲が最後の軍にてあらんずるぞ。且は兵衞の佐賴朝が還り聞かんずる所もあり、軍ようせよ者共」とて、打出でけり。北國の者共、始めは五萬餘騎と聞えしが、皆落ち下りて、纔六七千騎ぞありける。いまくまの義仲が軍の吉例なればとて、七手に分ち、先づ樋口の次郞兼光二千餘騎で、新熊野の方より、搦Cob手に差し遺す。殘る六手は、各が居たらんずる條里小路より皆打立つて、六條河原で一つになれと、相圖を定めて打立ちけり。御方の笠印には、松の葉をぞ付けたりける。軍は十一月十九日の朝也。院の御所法住寺殿にも、軍兵二萬餘人參り籠りたる由聞えけり。木曾、法住寺殿の西の門ぎやうじあがへ推寄せて見ければ、鼓判官朝泰は、軍の行事承つて、御所の西の築垣の上へ上擧つて立つたりけるが、赤地の錦の直垂に、甲計りぞ著たりける。甲には四天を書いてぞ押したりける。片手ほこんがうれいには鉾を持ち、片手には金剛鈴を持つて、打ち振り〓〓、時々は舞ふ折もありけり。公卿殿上人ふだてんぐは、風情なし、朝泰には天狗ついたりとぞ笑はれける。朝泰大音聲を揚げて、「昔は宣旨を向つて讀みければ、枯れたる草木も忽ちに花咲き實なり、飛ぶ鳥も地に落ち、惡鬼惡神も隨ひき。末代18%澆季なればとて、如何でか十善の君に向ひ進らせて、弓を引き矢をば放つべき。放たん矢は、却つて汝等が身に立つべし。拔かん太刀は、却つて身を斬るべし」など匐つたりければ、木曾、「さいまくまのな謂はせそ」とて、関を咄と作りける。去程に樋口の次郞兼光、二千餘騎、新熊野の方より、同じときのこゑう関をぞ合せける。今井の四郞兼平、鏑の中に火を入れて、法住寺殿の御所の棟に、射立てた()りければ、折節風は烈しし、猛火は天に燃え上つて、焰は虚空に充ち滿てり。黑煙押懸りければ、法住寺合戰一九、
平家物語中編一八二軍の行事朝泰は、人より先に落ちにけり。行事が落つる上はとて、二萬餘人の兵共、吾れ先にとぞ落行きける。餘りに周章噪いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず。或は長刀倒に突いて、我が足突き貫く者も有り、或は弓の彈物に懸けて、えはづさで捨てゝ込ぐる者も有り。七條が末をば、攝津の國の源氏の堅めたりけるが、院の御所より、落人あらば、用意して皆打ちね殺せと、下知せられたりければ、在地の者共、屋根に楯を突き雙べ、おそひの石を取り聚めて、待ち居たる處に、攝津の國の源氏の落ちけるを、あはや落人とて、石を拾ひ懸け、散々に打ちければ、「院方であるぞ、過すな」と云ひけれども、「さな云はせそ、院宣であるに、只打殺せ打殺せ」とて打つ程に、或は頭打破られ、或は腰打折られて、馬より落ち、這ふ〓〓迯ぐる者もあり、或は打ち殺さるゝ者も多かりけり。八條が末をば、山僧共の堅めたりけるが、恥有る者は討死し、强顏者は落ちて行く。爰に主水の正親業は、薄靑の狩衣の下に、萌黃威の腹卷を著、白月毛なる能つ引いて、馬に乘つて、河原を上りに落ちけるを、今井の四郞兼平追つかゝり、しや頸の骨をひやうつぱと射て、馬より倒に射落す。〓大外記賴業が子也けり。明經道の博士、甲冑を鎧ふ事是始めとぞ承る。近江の中將爲〓、越前の少將信行、伯耆の守光綱、子息伯耆の判官光經も、射落されて頸取られぬ。又木曾を背いて、院へ參りたる信濃源氏、村上の三郞判官代も討たれぬ。按察使の大納言資方の卿の孫右少將雅方も、鎧立烏帽子で、軍の陣へ出でられたりけるが、樋口の次郞兼光が手に懸つて、虜にこそせられけれ。天台座主明雲大僧正、寺の長吏圓慶法親王も、御所に參り籠らせ給ひたりけるが、黑煙旣に押し懸りければ、御馬に召して、急ぎ出でさせ給ひけるを、武士共散々に射奉る。明雲大僧正、圓慶法親王も、御馬より射落されて、御頸取られさせ給ひけり。法皇は御輿に召して、他所へ御幸なる。武士共散々に射奉る。豐後の少將宗長、木蘭地の直垂に、折烏帽子で、供奉せられたりけるが、「是は院にて渡らせ給ふぞ、過仕るな」と申されたりければ、武士共皆馬より下りて畏る。「何者ぞ」と御尋ありければ、「信濃の國の住人、矢島の四郞行重」と名乘り申す。軈て御輿に手かけ進らせて、五條内裏へ入れ奉つて、緊しう守護し奉る。豐後の國司刑部卿三位賴資の卿も、御所に參り籠られたりけるが、黑煙旣に推懸りけkれば、急ぎ河原へ込げ出でられけるが、武士の下部共に、衣裳皆剝ぎ取られて、眞裸にて立たれトたり。比は十一月十九日の朝なれば、河原の風、さこそは烈しかりけめ。三位の兄越前の法橋性意が中間法師のありけるが、軍見んとて出でたりけるが、三位の裸にて立たれたるを見付けて、5h3「あなあさまし」とて、急ぎ走り寄る。この法師は、白き小袖二つに衣をぞ著たりける。さらばら小袖をも脫いで著せ奉れかし。衣を脫ぎて投げ懸けたり。短き衣虛にかぶつて、帶もせず、後の法住寺合戰一九三
平家物語中編一九四て、體、さこそは見苦しかりけめ。さらば急ぎも步み給はで、白衣なる法師を供に具しておはしけるが、あそこ爰に立ち徘徊ひ、「あれなるは誰が家ぞ、爰なるは何者の宿所」なんど問ひ給へば、見たる人手を敲いて笑ひ合へりけり。主上は御舟に召して、池に浮ばせ給ひたりけるに、武士共頻に矢進らせければ、七條の侍從信〓、紀伊の守〓光、御船に候はれけるが、「是は內にて渡らせ給ふの三ぞや、過仕るな」と申されければ、武士共皆馬より下りて畏る。軈て閑院殿へ行幸なし奉る。行幸の儀式のあさましさ、申すも中々愚也。源藏人仲兼は、その勢五十騎計で、法住寺殿の西の門を堅めて防ぐ處に、近江源氏山本の冠者義高、鞭鐙を合せて馳せ來り、「如何に各は誰をかばはんとて軍をばし給ふぞ。御幸も行幸も、他所へ成りぬとこそ承れ」と云ひければ、さらばとて大勢の中へ懸け入り、散々に戰へば、主從八騎に討ちなさる。八騎が中に、河內の日下黨に、加賀房と云ふ法師武者あり。月毛なる馬の口の住ほな强きにぞ乘つたりける。「此馬は餘りに口が强うて、乘り堪るべしとも存じ候はず」と云ひければ、1源藏人、「さらばこの馬に乘り替へよ」とて、栗毛なる馬の下尾白いに乘り替へて、根井の小彌太が二百餘騎計りで控へたる、河原坂の勢の中へ懸け入り、散々に戰ひ、其にて八騎が五騎討たれぬ加賀房は我が馬のひあい也とて、主の馬に乘り替へたりけれども、運や蓋きにけん、其にて終に討たれにけり。爰に源藏人の家の子に、次郞藏人仲賴と云ふ者あり。栗毛なる馬の下尾白い下人を呼びが懸け出でたるを見付けて、「爰なる馬は源藏人の馬と見るは僻事か」「さん候」と申「すぎとの陣やべほほかんとを見つる」「原題名の三天もせ絞みこ軈てあの勢の中より出で來て候」と申しければ、次郞藏人淚をはら〓〓と流いて、「あな無慙、早討たれ給ひたり。幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契りしに、今は所々に臥さん事こそ悲しけれ」とて、妻子の許へ最後の形勢云ひ遣し、只一騎河原坂の勢の中へ懸け入り、鐙踏ん張り立ち揚り、大音聲を揚げて、「敦躬の親王に八代の後胤、信濃の守仲重が子に、次郞藏人仲き賴とて、生年廿七に罷り成る。我と思はん人々は、寄り合へや見參せん」とて、縱樣橫樣蜘蛛手中心者は十文字に懸け破り懸け廻り戰ひけるが、敵あまた討取つて、終に討死してげり。源藏人是をば知り給はず。兄の河內の守仲信打具して、主従三騎南を指して落ち行きけるが、攝政殿の、都をば軍に恐れさせ給ひて、宇治へ御出有りけるに、木幡山にて追付奉り、馬より下りて畏る。「何者ぞ」と御尋有りければ、「仲信、仲兼」と名乘り申す。東國北國の凶徒等かなんど思し召したればとて、御感有り。軈て「汝等も御供に候へ」と仰せければ、承つて宇治の富家殿送送り進それよりこの人々は、河內の國へぞ落ち行きける。明くる廿日の日、木曾の左馬の頭義仲、六條法住寺合戰一九五
平家物語中編一九六놓河原に打ち立つて、昨日斬る所の頸共、皆懸け雙べて註いたれば、六百三十餘人也。その中に天台座主明雲大僧正、寺の長吏圓慶法親王の御頸も懸らせ給ひたり。是を見る人淚を流さずと云ふ事なし。木曾の左馬の頭都合其の勢七千餘騎、馬の頭一面に東むけて、天も響き大地も動ぐ計りはに、関をぞ三箇度作りける。京中又騒ぎあへり。但し是は悅びの園とぞ聞えし。表信改めてい道への道常相長数。當宅急渡る其給左供內室。全て円せうをくすれば、守護の武士共赦さず。案內は知つたり、ある小屋に立ち入り、俄に髪剃り下し、墨染の衣袴著て、「この上は何か苦しかるべき、開けて入れよ」と宣へば、その時赦し奉る。泣く泣く御こ前へ參つて、今度討たれ給ふ人々の事、一々に申したりければ、法皇、「明雲は非業の死すべき者と、露も思し召し寄らざりしものを、今度はたゞ我が如何にも成るべかりつる御命に代りたるにこで、とて、御淚塞きあへさせ給はず。同じき廿三日、三條の中納言朝方の卿以下、四十九人が官職を留めて、追ひ籠め奉る。平家の時は四十三人をこそ停められしか。是は旣に四十九人なれば、平家の惡行には猶超過せり。松殿の姫君取り奉つて、關白殿の聟に推成る。其の日又木曾の左馬の頭、家の子郞等召し集めて評定す。抑義仲一天の君に向ひ進らせて、軍には打ち勝ちぬ。主上にや成らまし、法皇にや成るべき。法皇に成らうと思へども、法師に成らんもをかしかるべし。主上に成らうと思へども、童に成らんも然るべからず。よし〓〓さらば關白に成らうと云ひてしつぺいかければ、手書に其せられたりけうえ大局眞明進少出で、、關自には大機延の執柄家の君達たちこそ成らせ給へ。殿は源氏にて渡らせ給へば、それこそ叶ひ候ふまじ」とぞ申しける。さらばとて、院の御厩の別當に推成つて、丹波の國をぞ知行しける。院の御出家あれば法皇と申し、主上の未だ御元服なき程は、御童形にてまし〓〓けるを、知らざりけるこそうたてけれ。去程に鎌倉の前の右兵衞の佐賴朝、木曾が狼藉靜めんとて、範賴義經に六萬餘騎を相副へて、差し上せられけるが、都には軍出で來て、御所內裏皆燒き拂ひ、天下暗闇と成りたる由聞えしかば、左右なう上つて軍すべき樣もなしとて、尾張の國熱田の邊なる所にぞまし〓〓ける。北面にた候ひける宮内判官公朝、藤内、判官時成、この事訴へんとて、尾張の國へ馳せ下り、この由かくと申しければ、範賴義經、「これは公朝の關東へ下らるべきで候ふぞ。その故は、子細を存ぜぬ使は、返して問はるゝ時、不審の殘るに」とぞ宣ひける。今度の軍に所從皆落ち失せ、討たれにしかば、子息宮內所公茂とて、生年十五歲に成りけるを相具してぞ下りける。夜を日に續いで鎌倉へ空三馳せ下り、この由訴へ申されければ、鎌倉殿、「是は鼓判官が不思議の事申し出でゝ、君をも惱し奉り、多くの高僧貴僧をも失ひける事こそ、返す〓〓も奇怪なれ。是等を召し使はせ給はゞ、法住寺合戰一九七
平家物語中編一八八の後も天下の騷動絕ゆまじう候」と申されければ、朝泰この事陳ぜんとて、夜を日に續いで鎌倉へ馳せ下り、梶原平三景時に附いて、樣々に陳じ申しけれども、鎌倉殿、「しやつに目な懸けそ、應答なせそ」と宣へば、日每に兵衞の佐の館へ向ふ。終に面目なくして、又都へ歸り上り、辛き命生きつゝ、稻荷の邊なる所に、幽なる體にて栖ひけるとぞ聞えし。木曾西國へ使者を立て、「急ぎ上らせ給へ、一つに成つて關東へ馳せ下り、兵衞の佐討つべき由」云ひ遣はしたりければ、大臣殿を始め奉つて、一門の人々は皆悅ばれけれども、新中納言知盛のお酒で卿の異見に申されけるは、「縱ひ世末に成つて候へばとて、木曾なんどに語らはれて、爭か都へ上ららせ給ふべき。十善の帝王三種の神器を帶して渡らせ給へば、甲を脫ぎ弓の弦を弛いて、是へ降人に參れと、申させ給ふべうもや候ふらん」と申されければ、大臣殿其の樣を御返事ありしかども、木曾用ひ奉らず。入道の松殿殿下、木曾を召して、「〓盛公は悪行人たりしかども、希代の善根をし置いたればにや、世をば穩しう二十餘年迄保ちたんなり。惡行計りにて世を治むる事はなきものを、させる故なうて押し籠め奉つたる人々の官途共、皆赦すべき由」仰せければ、一向荒夷の樣なれども、隨ひ奉つて、押し籠め奉りたる人々の官途共、皆赦し奉る。松殿の御子師家公、その時は未だ從三位の中納言にてまし〓〓けるを、木曾が計らひにて、大臣攝政に成し奉る。折中編一八八節大臣あかざりければ、德大寺殿その比は、內大臣の左大將にてましましけるを、借り奉つて、何しか人の口なれば、大臣攝政に成し奉る。新攝政殿をば、借の大臣とぞ申しける。同じき十二月十日の日、法皇をば五條內裏を出だし奉つて、大膳の大夫成忠が宿所、六條西の洞院へ御幸成し奉る。同じき十三日歲末の御修法始めらる。その日除目行はれて、木曾が計らひにて、人々の官加階、思ふ樣に成し置きてげり。平家は西國に、兵衞の佐は東國に、木曾は都に張り行ふ。前漢後漢の間、王莽が世を討取つて、十八年治めたりしが如し。四方の關々皆閉ぢたれば、公の御貢物をも奉らず、私の年貢も上らねば、京中の上下、只少水の魚に異ならず。危ながらに年暮れて、壽永も三年に成りにけり。法住寺合戰一九九
平家物語中編二〇〇卷第九は拜小朝壽永三年正月一日の日、院の御所は大膳の大夫成忠が宿所、六條西の洞院なりければ、御所のて院の拜禮も行はれず。ら、體然るべからずとて、院の拜禮無かりければ、內裏の小朝拜も行はれず。平家は讃岐の國八島の磯に送り迎へて、年の始めなれども、元日元三の儀式事宜しらす。主上渡ら廿五郞せ給へども、節會も行はれず、四方拜もなし。腹赤も奏せず。吉野の國栖も參らず。世亂れたりしかども、都にては流石斯は無かりしものをとぞ、各宣ひ合はれける。靑陽の春も來り、浦吹く何も氷に閉ぢ籠められたる心地して、風も和かに、日影も長閑に成り行けど、只平家の人々は、15)寒苦鳥に異ならず。東岸西岸の柳、遲速を交へ、南枝北枝の梅、開落已に異にして、花の朝月の{記夜、詩歌、管絃、鞠、小弓、扇合、繪合、草盡、蟲盡、樣々興ありし事ども思ひ出で、語り續けて、長き日を暮しかね給ふぞ哀れなる。小朝拜二〇一
平家物語中編二〇二宇治川同じき正月十一日、木曾の左馬の頭義仲院參して、平家追討の爲に、西國へ發向すべき由を奏聞す。同じき十三日、既に甘達すし聞くんばは、鋳建の前の有表橋の佐賴明、木曾が撰諸て、範賴義經を先として、數萬騎の軍兵を差し上せられけるが、既に美濃の國伊勢の國にも著くと聞えしかば、木曾大きに驚き、宇治勢田の橋を引いて、軍兵共を分ち遣す。折節勢こそ無かりけれ。先づ勢田の橋へは、大手なればとて、今井の四郞兼平、八百餘騎にて指し遣す。宇治橋へは、k仁科、高梨、山田の次郞、五百餘騎で遣しけり。一口へは、伯父の信太の三郞先生義〓、三百餘は騎で向ひけり。去程に東國より攻め上る大手の大將軍には、蒲の御曹司範賴、搦手の大將軍には、九郞御曹司義經、宗徒の大名三十餘人、都合その勢六萬餘騎とぞ聞えし。其の比鎌倉殿には、生食、磨墨とて、聞ゆる名馬有りけり。生食をば梶原源太景季頻に所望申しけれども、「是は自然の事の有らん時、賴朝が物具して乘るべき馬なり。是も劣らぬ名馬ぞ」とて、梶原に、は磨墨をこそ賜びてげれ。その後近江の國の住人、佐々木四郞の御暇申しに參られたるに、錄合殿如何が思し召されけん、「所掌の者は幾らも有りけれども、その旨存知せよ」とて、生食をば佐々木に賜ぶ。佐々木長つて申しけるは、「今度此の御馬にて、宇治川の眞先渡し候ふべし。若し死にたりと聞し召され候はゞ、人に先をせられてげりと、思し召され候ふべし。未だ生きたりと聞し召され候はゞ、定めて先陣をば、高綱ぞしつらんものをと、思し召され候へ」とBukて、御前を罷り立つ。參會したる大名小名、「哀れ荒涼の申し樣哉」とぞ、人々呼き合はれける。各鎌倉を立つて、足柄を經て行くもあり、箱根に懸る勢もあり。思ひ〓〓に上る程に、駿河の國浮幾原原にて、概率大學、當品高に行たり、雪拍ニをくるだきを見け置かせ、色々の鞦かけ、或は乘口に引かせ、或は諸口に牽かせ、幾千萬と云ふ數を知らず、引き店嬉しう思ひて見る通し引き通ししける中にも、景季が賜つたる磨墨に勝る馬こそ無かりけれと、處に、爰に生食と覺しき馬こそ一騎出で來たれ。金覆輪の鞍置かせ、小總の鞦懸け、白轡はげ、白沫かませて、舍入あまた付けたりけれども、春猶引きもためず、躍らせてこそ出で來たれ。梶原打寄つて、「是は誰が御馬ぞ」「佐々木殿の御馬候」と申す。「佐々木は三郞殿か、四郞殿か」「四郞殿の御馬候」とて引き通す。注梶原、「安からぬ事なり。同じ樣に召し使はるゝ景季を、佐々木に思し召し替へられける事こそ遺恨の次第なれ。今度都へ上り、木曾殿の御內に四天王と聞ゆる、今井、樋口、楯根井と組んで死ぬるか。然らずば西國へ向つて、一人當千と聞ゆる平家の侍共と二〇三川宇治川
平家物語中編二〇四軍して、死なんとこそ思ひしに、この御氣色では、それも詮なし。詮ずる所爰にて佐々木を待ち受け、引き組み刺し違へ、好き侍二人死にて、鎌倉殿に損とらせ奉らん」と、つぶやいてこそ待懸けたり。古玉佐々木何心もなう步ませて出で來たり。梶原、推竝べてや組む、向ふ樣に當てや落すべきと思ひけるが、先づ詞をぞ懸けける。「如何に佐々木殿は、生食賜らせ給ひて、上らせ給ふな」と云ひければ、佐々木、哀れこの仁も、內々所望申しつると聞きしものをと思ひ、「さ候へば、今度この御大事に罷り上り候ふが、定めて宇治勢田の橋をや引きたるらん。乘つて河を渡すべき馬はなし。生食を申さばやとは存じつれども、御邊の申させ給ふだに、御赦されなきと承つて、況して高綱などが申すとも、よも賜はらじと思ひ、後日に如何なる御勘當も有らばあれとなじつ齋曉立たんとての夜、舍人に心を合せて、さしも御祕藏の生食を盜みすまして、上りさうは如何に梶原殿」と云ひければ、梶原、この詞に腹がゐて、「ねつたい、さらば景季も盜むべかりけるものを」とて、咄と笑うてぞ退きにける。佐々木四郞の賜はられたりける御馬は、黑栗毛なる馬の、極めて太う逞しきが、馬をも人をも傍を拂つて食ひければ、生食とは付けられたり。八寸の馬とぞ聞えし。梶原が賜つたりける御馬も、極めて太う逞しきが、誠に黑かりければ、磨墨とは付けられたり。何れも劣らぬ名馬なり。去程に東國より攻め上る大手搦手の軍兵、尾張の國より二手に分つて攻め上る。大手の大將軍:.には、蒲の御曹司範賴、相伴ふ人々、武田の太郞、加賀見の次郞、一條の次郞、板垣の三郞、稻都合その勢三萬五千餘騎、近江毛の三郞、榛谷の四郞、熊谷の次郞、猪俣の小平六を先として、同じく伴ふ人々、安田の三郞、の國野路篠原にぞ陣を取る。搦手の大將軍には、九郞御曹司義經、ま놓大內の太郞、畠山の庄司次郞、梶原源太、佐々木四郞、糟屋の藤太、澁谷の右馬の允、平山の武者所を先として、都合その勢二萬五千餘騎、伊賀の國を經て宇治橋の詰にぞ押寄せたる。宇治も勢田も橋を引き、水の底には亂杭打つて大綱張り、逆木つないで流し懸けたり。比は睦月二十日Ries餘りの事なれば、比良の高根、志賀の山、昔長柄の雪も消え、谷々の氷打解けて、水は折節增りたり。白浪夥しう漲り落ち、瀨枕大きに瀧鳴つて、逆卷く水も早かりけり。臺夜は既にほの〓〓と明け行けど、河霧深く立籠めて、馬の毛も、鎧の毛も、さだかならず。大將軍九郞御曹司、河の端に打出で、水の面を見渡いて、人々の心を見んとや思はれけん、「淀、一口へや向ふべき、又河內路へや廻るべき、水の落足をや待つべき、如何せん」と宣ふ處に、爰に武藏の國の住人、畠山の庄司次郞重忠、生年二十一に成りけるが、進み出で、「この河の御沙汰は、鎌倉にても能々候ひしぞかし。兼ても知し召されぬ海河の、俄に出て來ても候はゞこそ。近江の湖の末なれば、待つと宇治川二〇五
平家物語中編二〇六も〓〓水旱まじ。橋をば又誰か渡いて參らすべき。去んぬる治承の合戰に、足利の又太郞忠綱が、ま書生年十七歲にて渡しけるも、鬼神にてはよもあらじ。重忠先づ瀨踏仕らん」とて、丹の黨を宗として、五百餘騎ひし〓〓と鑛を竝ぶる處に、爰に平等院の良、橋の小島が崎より、武者二騎引つかけ〓〓出で來たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木の四郞高綱也。人目には何とも見えざりけれども、內々先に心を懸けたるらん。梶原は佐々木に一段計りぞ進んだる。佐々木、「如何に梶はるび原殿、この河は西國一の大河ぞや。腹帶の延びて見えさうぞ、縮め給へ」と云ひければ、梶原さも有るらんとや思ひけん。手綱を馬のゆがみに捨て、左右の鎧を踏み透し、腹帶を解いてぞ縮めたりける。佐々木その間に、そこをつと馳せ拔いて、河へ颯とぞ打ち入れたる。梶原謀られぬとや思ひけん、軈て續いて打入れたり。梶原、「いかに佐々木殿、高名せうとて不覺し給ふな。水の底には大綱あるらん、心得給へ」と云ひければ、佐々木さも有るらんとや思ひけん、太刀を拔いて、馬の足に懸りける大綱共を、ふつふつと打ち切り〓〓、宇治川早しと云へども、生食と云ふ世一の馬には乘つたりけり。一文字に颯と渡つて、向の岸にぞ打上げたる。梶原が乘つたりける磨墨は、川中より篦繁形に押流され、遙の下より打上げたり。その後佐々木鐙踏張立ち上り、大音聲を揚げて、「宇多の天皇に九代の後胤、近江の國の住人佐々木三郞秀義が四男、佐々木四郞高二〇七宇治川
平家物語中編二〇八綱宇治川の先陣ぞや」とぞ名乘つたる。畠山五百餘騎打入れて渡す。向ひの岸より、山田の次郞が放つ矢に、畠山馬の額を篦深に射さてせ、はぬれば、弓杖を突いて下り立つたり。岩波甲の手先へ、颯と押し懸けけれども、畠山是をハ髙事ともせず、水の底を潛つて、向の岸にぞ著きにける。打上らんとする處に、後より物こそ無手と扣へたれ。「誰そ」と問へば、「重親」と答ふ。「大串か」。「さん候」。大串の次郞は、畠山が爲には鳥帽子子にてぞ候ひける。「餘りに水が早うて、馬をば川中より押し流され候ひぬ。力及ばで是まで著き參つて候」と云ひければ、畠山、「いつも和殿原が様なる者は、重忠にこそ助けられんずれ」つかと云ふ儘に、大申を掴んで岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられてたゞ直り、太刀を拔いて額にあて、大音聲を揚げて、「武藏の國の住人、大串の次郞重親、宇治川の步立の先陣ぞや」とぞ名乘つたる。敵も御方も是を聞いて、一度に咄とぞ笑ひける。その後畠山乘替に乘つて、喚いてかく。爰に魚陵の直垂に、緋威の鎧著て、連錢蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍を置いて、乘つたりける武者騎.眞先に進んだるを、畠山、「爰に驅くるは如何なる者ぞ、名乘れや」と云ひければ、「是は木曾殿の家の子に、長瀨の判官代重綱」と名乘る。畠山、「今日の軍神祝はん」とて、押し雙べて無はたら手と組んで引落し、我が乘つたりける鞍の前輪に押し付け、些とも動かさず、頸ねぢ切つて、本田の次郎が鞍のとつ附にこそ付けさせけれ。是を始めて、宇治橋堅めたりける兵ども、暫し支へて防ぎ戰ふと云へども、東國の大勢皆渡いて攻めければ、力及ばず、木幡山伏見を指してぞ落行たなかみきける。勢田をば稻毛の三郞重成が計らひにて、田上の供御の瀨をこそ渡しけれ。かはら河原合戰合戰4軍破れにければ、九郞御曹司義經、飛脚を以て、鎌倉殿へ合戰の次第を委しう註いて申されけり。鎌倉殿、先づ御使に、「佐々木はいかに」と御尋有りければ、「宇治川の眞先候」と申す。さて日記を披いて見給へば、宇治川の先陣、佐々木四郞高綱、二陣梶原源太景季とぞ書かれたる。宇治勢田破れぬと聞えしかば、木曾は最後の暇申さんとて、院の御所六條殿へ馳せ參る。木曾門前迄參りたりしかども、さして奏すべき旨もなくして、取つて返し、六條高倉なる所に、初めて見そめたりける女房の有りければ、そこに打ち寄つて、最後の名殘惜まんとて、とみに出でもやらざりけり。爰に今參りしたりける、越後の中太家光と云ふ者あり。「御敵旣に河原迄攻め入つて候ふに、何とて左樣に打解けては渡らせ給ひ候ふやらん。只今犬死せさせ給ひ候ひなんず。とう〓〓御出で候へ」と申しけれども、猶出でもやらざりければ、「左候はゞ家光は先づ先立ち進らせて、二〇九河原合戰
平家物語中編二一〇レ死出の山にてこそ待ち進らせ候はめ」とて、腹搔き切つてぞ死ににける。木曾、「是は我を進むる自害にこそ」とて、軈て打立ち給ひけり。爰に上野の國の住人、那波の太郞廣純を先として、その勢百騎ばかりには過ぎざりけり。六條河原に打ち出でゝ見れば、東國の勢と覺しくて、先づ三十騎ばかりで出で來る。その中より武者二騎先に進んだり。一騎は鹽屋の五郞惟廣、一騎は勅使河原の五三郞有直也。鹽屋が申しけるは、「後陣の勢をや待つべき」又勅使河原が申しけるは、「一陣破れぬれば殘黨全からず。只懸けよや」とて、喚いて駈く。木曾は今日を最後と戰へば、東國の大勢木曾を中に取り籠めて、我れ討取らんとぞ進みける。大將軍九郞御曹司義經、軍をば軍兵共にせさせ、我が身は院の御所の覺束なきに、守護し奉らんとて、混甲五六騎、院の御所六條殿へ特に馳せ參る。御所には、大膳の大夫成忠、御所の東の築墙の上に登り揚つて、慄なく〓〓見渡せば、g武士五六騎除甲に戰ひ成つて、射向の袖春風に吹き靡かさせ、白旗颯と差し擧げ、黑煙蹴立てゝ馳せ參る。成忠、「あなあさまし。木曾が又參り候」と申しければ、院中の公卿殿上人、傍の女房達に至る迄、今度ぞ世の失せはてとて、干を握り立てぬ願もましまさず。成忠重ねて奏聞しけるは、かさじるし「今日始めて都へ入る、東國の武士と覺え候。如何樣にも皆笠印が替つて候」と、申しも果てぬに、大將軍九郞御曹司義經、門前にて馬より下り、門を敲かせ、大音聲を揚げて、「鎌倉の前の右兵衞の佐賴朝が弟、九郞義經こそ、宇治の手を攻め破つて、この御所守護の爲に馳せ參つて候へ。いがき開けて入れさせ給へ」と申されたりければ、成忠餘りの嬉しさに、急ぎ築墙の上より躍り下るゝとて、腰を衝き損じたりけれども、痛さは嬉しさに紛れて覺えず、這々御所へ參つて、この由奏聞したりければ、法皇大きに御感あつて、門を開けさせてぞ入れられる。義經その日の裝束には、は赤地の錦の直垂に、紫下濃の鎧著て、鍬形打つたる甲の〓を縮め、金作の太刀を帶き、廿四指いたる截生の矢負ひ、滋籐の弓の鳥打の本を、紙を廣さ一寸ばかりに切つて、左卷に卷きたる。是ぞ今日の大將軍の印とは見えし。法皇中門の連子より叡覽あつて、「ゆゝしげなる者共哉、皆名乘らせよ」と仰せければ、先づ大將軍九郞義經、次に安田の三郞義定、畠山の庄司次郞重忠、梶原源太景季、佐々木四郞高綱、澁谷の右馬の尤重資とぞ名乘つたる。義經具して武士は六人、鎧は色色替つたりけれども、頰魂。事柄、何れも劣らず。成忠仰せ承つて、義經を大床の際へ召して、合戰の次第を委しう御尋あり。義經畏つて申されけるは、「鎌倉の前の右兵衞の佐賴朝、木曾が狼藉靜めんとて、範賴義經を先として、都合六萬餘騎を差し上せ候ふが、範賴は勢田より參り候へども、未だ一騎も見え候はず。義經は宇治の手を攻め破つて、この御所守護の爲に馳せ參じて候へ。木曾は河原を上りに落ち候ひつるを、軍兵共を以て追はせ候ひつるが、今は定めて討取り候河原合戰二
平家物語中編二一二ひなんず」と、最事もなげにぞ申されける。法皇大に御感あつて、「又木曾が餘黨など參つて、狼よく〓〓藉もぞ仕る。汝はこの御所能々守護仕れ」と仰せければ、畏り承つて、四方の門を堅めて待つ程に、兵共馳せ集つて、程なく一萬餘騎計りに成りにけり。木會は自然の事あらば、法皇取り奉つて、西國へ落ち下り、平家と一つに成らんとて、力者廿人汰へて待つたりけれども、御所には又九郞義經參つて、緊しう守護し奉ると聞いて、今は叶はじとや思ひけん、河原を上りに落行きけるが、六條河原と三條河原の間にて、旣に討ち取られんとする事度々に及ぶ。木曾淚を流いて、「かくあるべしとも期したりせば、今井を勢多へは遣らざらまし。幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契りしか。今に所々で討たれん事こそ悲しけれ。さりながら今一度今井が行方を聞かんとて、河原を上りに懸かる程に、六條河原と三條河古老店原の間にて、敵襲ひ懸かれば、取つて返し取つて返し、木曾纔なる小勢にて、雲霞の如くなる敵の大勢を、五六度迄追ひ返し、賀茂河さつと打ち渡り、粟田口松坂にも懸かりけり。去年信濃を出でしには、五萬餘騎と聞えしが、今日四の宮河原を過ぐるには、主從七騎になりにけり。況して中有の旅の空、思ひやられて哀れなり。木曾の最後いたはり木曾は信濃を出でしより、巴、款冬とて、二人の美女を具せられたり。款冬は勞有つて、都に留りぬ。中にも巴は色白う髪長く、容顏誠に美麗也。究竟の荒馬乘の、惡所落し、弓矢打物取つては、如何なる鬼にも神にも逢ふと云ふ、一人當千人の兵也。されば軍と云ふ時は、利よき鎧著さればせ、强弓大太刀持たせて、一方の大將に向けられけるに、度々の高名肩を雙ぶる者なし。今度も多くの者落ち失せ討たれける中に、七騎が中までも、巴は討たれざりけり。木曾は長坂を經て、丹波路へとも聞ゆ。龍華越に懸かつて、又北國へとも聞えけり。かゝりしかども、今井が行末の覺束なさに、取つて返して、勢多の方へぞ落行き給ふ。今井の四郞兼平も、八百餘騎にて勢田を堅めたりけるが、五十騎計りに打なされ、旗をば卷かせて持たせつゝ、主の行方の覺束なSceさに、都の方へ上る程に、大津の打出の濱にて、木曾殿に行きあひ奉る。中一町計りより、五にそれと見知つて、主從駒を早めて寄り合ひたり。木曾殿今井が手を把つて宣ひけるは、「義仲六條ゆっ、옴河原にて、如何にも成るべかりしかども、汝が行方の覺束なさに、多くの敵に後を見せて、是迄遁れたるは如何に」と宣へば、今井の四郞、御諚誠に忝う候。兼平も勢田にて討死仕るべう候ひ木曾の最後二一三
平家物語中編二一四しかども、御行方の覺束なさに、是迄遁れ參つて候」と申しければ、木曾殿、「さては契は未だ朽ちせざりけり。義仲が勢山林に馳せ散つて、此邊にも扣へたるらんぞ。汝が旗揚げさせよ」と宣くはっ、卷いて持たせたる今井が旗差し上げたり。是を見付けて、京より落つる勢ともなく、又勢田より參る者ともなく、馳せ集つて、程なく三百騎計りに成り給ひぬ。木曾殿斜ならずに悅びて、「この勢にては最後の軍、一軍などかせざるべき。あれにしぐらうて見ゆるは、誰が手やらん」。「甲斐の一條の次郞殿の御手とこそ承つて候へ」。「勢は如何程有るらん」。「六千餘騎と聞え候」。かたき「さては五によい敵、同じう死ぬるとも、大勢の中へ懸け入り、よい敵に逢うてこそ、討死をもせめ」とて、眞先にぞ進み給ふ。木曾殿其の日の裝束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、いか物作りの太刀を帶き、鍬形打つたる甲の〓をしめ、二十四指いたる石打の矢の、その日の軍かしらだかおにあしげに射て、少々殘つたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓の眞中取つて、聞ゆる木曾の鬼蘆毛といふ馬に、金覆輪の鞍を置いて乘つたりけるが、鐙踏張り立ち上り、大音聲を揚げて、「日來は聞きけんものを、木曾の冠者、今は見るらん、左馬の頭兼伊豫の守朝日の將軍源の義仲ぞや。甲斐の一條の次郞とこそ聞け。義仲討つて兵衞の佐に見せよや」とて、喚いて懸く。一條の次郞是を聞いわかたうて、「只今名乘るは、大將軍ぞや。餘すな者共、洩らすな若黨、討てや」とて、大勢の中に取り籠たてさまめて、我討取らんとぞ進みける。木曾三百餘騎、六千餘騎が中へ懸入り、竪樣、横樣、蜘蛛手、十文字に懸け破つて、後へつと出でたれば、五十騎計りに成りにけり。そこを破つて行く程に、土肥の次郞實平、二千餘騎で支へたり。そこをも破つて行く程に、あそこにては四五百騎、爰にては二三百騎、百四五十騎、百騎計りが中を、懸け破り〓〓行く程に、主從五騎にぞ成りにける。づち五騎が中迄も、巴は討たれざりけり。木曾殿巴を召して、「己れは女なれば、是より疾う〓〓何地useへも落行け。義仲は討死をせんずる也。若し人手に懸らずば、自害をせんずれば、義仲が最後の軍に、女を具したりなど云はれん事、口惜しかるべし」と宣へども、猶落ちも行かざりけるが、餘りに强う云はれ奉つて、「長れ好からう敵の出で來よかし。あつぱ木曾殿に最後の軍して見せ奉らん」と的九七たいぢから梦は大大吉御田の八郞師重と云ふ一力の剛の者、三十騎計て、扣へて敵をまつ處に、爰に武藏の國の住人、ならりで出で來る。巴その中へ破つて入り、先づ御田の八郞に押し雙べ、焼き無手と組んで引き落し、すてものゝぐ我が乘つたりける鞍の前輪に推しつけて、些とも動かさず、頸ねぢ切つて捨てんげり。その後物具ぬ脫ぎ棄てゝ、東國の方へぞ落行きける。手塚の太郞討死す。手塚の別當落ちにけり。木曾殿今井の四郞只主従二騎に成て宣ひけるは、「日來は何とも覺えぬ鎧が、今日は重う成つたるぞや」と宣(は、今井の四郞申しけるは、「御身も未だ羸れさせ給ひ候はず。つか御馬も弱り候はず。何に依つて二一五木曾の最後
平家物語中編二一六きせなが一領の御著背を、俄に重うは思召され候ふべき。そは御方に續く勢が候はねば、臆病でこそ、さは思し召し候ふらめ。兼平一騎をば、餘の武者千騎と思召し候ふべし。爰に射殘したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢仕り候はん。あれに見え候は、粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入らせ給ひて、靜に御自害候へ」とて、打つて行く程に、又荒手の武者五十騎計りで出で來る。兼平は、「この御敵暫く防ぎ進らせ候ふべし。君はあの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、義仲、「六條河原にて、如何にも成るべかりしかども、汝と一所で如何にも成らん爲にこそ、多くの敵に後を見せて、是迄遁れたんなり。所々で討たれんより、一所でこそ討死をもせめ」とて、馬の鼻を雙15べて、旣に懸けんとし給へば、今井の四郎急ぎ馬より飛んで下り、主の馬の水づきに取り付き、戻をはら〓〓と流いて、「弓矢取は、年來日來如何なる高名候へども、最後に不覺しぬれば、永き瑕つかにて候ふ也。御身も羸れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱つて候。云ふ甲斐なき人の郞等に組み落されおにがみて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本國に鬼神と聞えさせ給ひつる木曾殿をば、何某が郞等の手に懸けて、討ち奉つたりなんど申されん事、口惜しかるべし。唯理を枉げて、あの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、木曾殿、「さらば」とて、只一騎粟津の松原へぞかけ給ふ。今井の四郞取つて返し、五十騎計りが勢の中へかけ入り、鐙踏張立ち上り、大音聲を揚げて、「遠からん者中編二一六二一七木曾の最後
平家物語中編二一八は音にも聞け、近らかん人は目にも見給へ。木曾殿の乳母子に、今井の四郞兼平とて、生年三十三に罷り成る。さる者有りとは、鎌倉殿迄も知し召されたるらんぞ。兼平討つて兵衞の佐殿の御見參に入れよや」とて、射殘したる八筋の矢を、差しつめ引きつめ散々に射る。死生は知らず、法矢庭に敵八騎射落し、その後太刀を拔いて、斬つて廻るに、面を合する者ぞなき。只射取れや射取れとて、差しつめ引きつめ散々に射けれども、鎧好ければ裏かゝず、開間を射ねば手も負はず。木曾殿は只一騎、栗津の松原へ懸け給ふ。比は正月廿一日、入相計りの事なるに、·薄氷は張つたりけり。深田有りとも知らずして、馬を颯と打ち入れたれば、馬の首も見えざりけり。あふれど南·〇も〓〓、打てとも〓〓動かず。かゝりしかども、今井が行方の覺束なさに、振り仰き給ふ所を、能つ卵てひようと放つ。相模の國の住人、三浦の石田の次郞爲久追つ懸り、木曾殿內甲を射させ、te痛手なれば、甲の眞甲を馬の首に押し當てゝ俯し給ふ所を、石田が郞等二人落合ひて、旣に御頸ふをば賜りけり。やがて頭をば太刀の鋒に貫き、高く指上げ、大音聲を揚げて、「此の日來日本國に鬼神と聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郞爲久が討ち奉るぞや」と名乘りければ、今井の四郞は軍しけるが、是を聞いて、「今は誰をかばゝんとて、軍をばすべき。是見給へ、東國の殿原、日本一の剛の者の、自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬より倒に飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。樋口の被斬今井が兄の樋口の次郞兼光は、十郞藏人討たんとて、その勢五百餘騎で、河内の國長野の城へここ越えたりけるが、其にては討ち漏しぬ。紀伊の國名草にありと聞いて、軈て續いて寄せたりけるおほわたりが、都に軍ありと聞いて、取つて返して上る程に、淀の大渡の橋にて今井が下人に行きあうたり。「是はされば、何地へとて渡らせ給ひ候ふやらん。都には軍出で來て、君は討たれさせ給ひ候ひぬ。今井殿も御自害候」と云ひければ、樋口の次郞淚をはら〓〓と流いて、「是聞き給へ殿原、だr3君に御志思ひ進らせん人々は、是よりとう〓〓何地へも落行き、如何ならん乞食頭陀の行をもしごて、君の御菩提を弔ひ進らさせ給へ。兼光は都へ上り討死して、冥途にても君の御見參に入り、は今井をも今一度見ばやと思ふ爲也」とて、打つて行く程に、五百餘騎の勢共、あそこ爰に抑へ抵へ落行く程に、鳥羽の南の門を過ぐるには、その勢纔に二十餘騎にぞ成りにける。樋口の次郞今かうけしゆじやか日旣に都へ入ると聞えしかば、黨も高家も、七條、朱雀、作道、四塚へ馳せ向ふ。樋口が手に、茅野の太郞光廣と云ふ者あり。四塚に幾らもありける勢の中へ懸け人り、鐙踏張立ち揚り、大音樋口の被斬二一九
平家物語中編二二〇聲を揚げ、「この勢の中に甲斐の一條の次郞殿の、御手の人やまします」と問ひければ、「一條の次郞が手でないは、軍をばせぬか。誰にも合へかし」とて、咄と笑ふ。笑はれて名乘りけるは、「斯申す者は、信濃の國諏訪の上の宮の住人、茅野の大夫光家が子に、茅野の太郞光廣と云ふ者也。必ず一條の次郞殿の、御手の人を尋ぬるには非ず。弟の七郞それにあり。子供二人信濃の國あつぱに置いたるが、哀れ我が父は、好うてや死んだるらん、惡しうてや死んだるらんと歎かんずる處に、弟の七郞が前にて討死して、子供に慥に聞かせんと思ふ爲也。敵をば嫌ふまじ」とて、あれおたまに馳せ會ひ、是に馳せ合ひ、武者三騎切つて落し、四人に當る敵に押し雙べ、無手と組んでどうと落ち、刺し違へてぞ死にける。樋口の次郞は兒玉黨に結ぼほれたりければ、兒玉の人共寄合ひて、抑弓矢取の、我も人も廣中へ入ると云ふは、自然の時一先づの息をも續ぎ、暫しの命をも生かうと思ふ爲也。されば樋口が我等に結ぼゝれけんも、さこそありけめ。命計りを助けんとて、는ねのゐ樋口が許へ使者を立てゝ、「木曾殿の御內に、今井、樋口、楯、根井と聞えさせ給ひて候へども、木曾殿討たれさせ給ひ候ひぬ。今井殿も御自害候ふ上は、何か苦しう候ふべき。我等が中へ降人に成り給へ。今度の動功の賞に申し替へて、御命計りをば、助け奉らん」と云ひ送りたりければ、樋口の次郞は聞ゆる兵なりしかども、運や盡きにけん、おめ〓〓と兒玉黨の中へ、降人にこそ成Bakりにけれ。大將軍範賴義經にこの由を申す。院へ伺ひ申されたりければ、院中の公卿殿上人、局多くの高僧貴僧の女房、女の童に至る迄、「木曾が法住寺殿へ寄せて、御所に火を懸け燒き亡し、を失ひたりしには、あそこにも爰にも、今井樋口と云ふ聲のみこそありしか。是等を助けられんは、無下に口惜しかるべし」と、口々に申されたりければ、叶はずして又死罪にぞ定められける。同じき廿二日新攝政殿停められさせ給ひて、本の攝政還著し給ふ。纔六十日の內に替へられさせ給ひぬれば、未だ見果てぬ夢の如し。昔粟田の關白は、悅申の後只七箇日だにありしぞかし。是は六十日と申せども、その間に節會も除目も行はれぬれば、思出なきに非ず。同じき廿四日、木曾の左馬の頭、餘黨五人が頸、都へ入れて大路を渡さる。樋口の次郞は降人たりしが、頻に頸の供せんと申しければ、さらばとて、藍摺の直垂烏帽子にてぞ渡されける。明くる廿五日、樋口の次郞終に斬られにけり。範賴義經樣々に申されけれども、今井、樋口、楯根井とて、木曾が四天王の其の一つなれば、是等を助けられんは、養虎の憂あるべしと、殊に沙汰あつて、斬られけるとぞ聞えし。傳に聞く、은虎狼の國衰へて、諸侯蜂の如くに起つし時、沛公先に咸陽宮へ入ると云へども、項羽が後に來らん事を恐れて、妻は美人をも犯さず、金銀珠玉をも掠めず、徒に函ぜん〓〓谷の關を守つて、漸々に敵を亡して、天下を治する事を得たりき。されば今の木曾の左馬の頭も、二二一樋口の被斬二二一樋口の
平家物語中編二二二先づ都へ入ると云へども、賴朝の朝臣の命に順はましかば、彼の沛公が謀には劣らざらまし。괸去程に平家は去年冬の比より、讃岐の國八島の磯を出でゝ、攝津の國難波潟押し渡り、西は一東は生田の森を大手の谷を城郭に構へ、の木戶口とぞ定めける。その間福原、兵庫、板宿、須磨に籠る勢、山陽道八箇國、南海道六箇國、都合十四箇國を討ち隨へて、召さるゝ所の軍兵、十萬餘騎とぞ聞えし。一の谷は北は山、南は海、口は狹くて奥廣し。岸高くして屏風を立てたるに異ならず。北の山際より、南の海の遠淺迄、大石を重ね上げ、大木を伐つて逆木にひき、深き所に55は大舟共を側て、搔楯にかき、城の面の高櫓には、四國鎭西の兵ども、甲胃弓箭を帶して、雲霞は大、の如くに列み居たり。櫓の前には、鞍置馬共、十重廿重に引つ立てたり。常に大皷を打つて亂聲す。一張の弓の勢ひは、半月胸の前に懸り、三尺の劍の光は、秋の霜腰の間に横へたり。高き所には赤旗多く打立てたれば、春風に吹かれて、天に飜るは、只火炎の燃え上るに異ならず。六箇度合戰去程に平家一の谷へ渡り給ひて後は、四國の者共一向隨ひ奉らず。中にも阿波讃岐の在廳等、皆平家を背いて、源氏に心を通はしけるが、流石昨日今日迄、平家に隨ひ奉つたる身の、今日始めて源氏へ參りたりとも、よも用ひ給はじ。平家に矢一つ射懸け奉つて、それを表にして參らんtheもとて、門脇の平中納言〓盛、越前の三位通盛、能登の守〓經、父子三人、備前の國下津井に在す我等が馬の草剪つと聞いて、兵船十餘艘でぞ寄せたりける。能登殿大きに怒つて、「昨日今日迄、たる奴原が、何しか契を變ずるにこそあんなれ。その儀ならば、一人も洩さず討てや」とて、小船共押し浮べて追はれければ、四國の者共、人目計りに矢一つ射て、退かんとこそ思ひしに、能tas登殿に餘りに手痛う攻められ奉つて、叶はじとや思ひけん、遠負にして引き退き、淡路の國福良故六條の判官爲義が末子、賀茂の冠者義の泊に著きにけり。その國に源氏二人ありと聞えけり。能登殿押し寄せて散々嗣、淡路の冠者義久と聞えしを、大將に賴んで、城郭を構へて待つ處に、垂?に攻め給へば、賀茂の冠者討死す。淡路の冠者は痛手負うて、虜にこそせられけれ。殘り留つて防矢射ける者共、二百三十餘人が頸斬り懸けさせ、討手の交名記いて、福原へこそ進らせられけれ。む上のそれより門脇殿は、一の谷へぞ參られける。子息達は伊豫の河野の四郞が召せども參らぬを責めんとて、四國へぞ渡られける。兄越前の三位通盛の卿は、阿波の國花園の城にぞ著き給ふ。弟能登の守〓經は、讚岐の八島に著き給ふ由聞えしかば、伊豫の國の住人、河野の四郞通信は、安藝の國の住人、沼田の次郞は、母方の伯父也ければ、一つに成らんとて、安藝の國へ推し渡る。能二二三六箇度合戰二二三
平家物語中編二二四登殿この由を聞き給ひて、八島を立つて追はれけるが、その日は備後の國簑島と云ふ所に著きて、the次の日沼田の城へぞ寄せられける。沼田の次郞·河津の四郞一つに成つて、城郭を構へて持つ處に、能登殿軈て押し寄せて、散々に攻め給へば、沼田の次郞叶はじとや思ひけん、甲を脫ぎ弓のはづ弦を外いて、降人に參る。河野は猶も順はず。その勢五百餘騎ありけるが、五十騎計りに討成され、城を落ちて行く處に、爰に能登殿の侍に、平八兵衞爲員と云ふ者、二百騎計りが中に取籠められ、主從七騎に討ち成され、助舟に乘らんとて、細道に懸つて汀の方へ落行く處を、平八兵衞追つ懸り能つ引いて七騎を五騎射落す。が子息、讚岐の七郞義範、究竟の弓の上手なりければ、主従二騎にぞ成りにける。河野が身に替へて思ひける郞等に、讃岐の七郞押雙べ無手と組んでどつと落ち、取つて押へて頸を攝かんとする所に、河野のつ通返、我が郞等の上なる讚岐の七郞が頸搔き切つて深田へ投げ入れ、大音聲を揚げて、「伊豫の國の住人、河野の四郞越智の通〓信、生年二十一、軍をば斯こそすれ。吾れと思はん人々は、寄つて留めよや」と名乘り捨てゝ、郞等を肩に引つ懸け、其をばなつく込げ延び、伊豫の國へ押渡る。能登殿河野をば討ち漏されたりけれども、沼田の次郞が降人たるを召し具して、一の谷へぞ參られける。又阿波の國の住人、安摩の六郞忠景、是も平家を背いて、源氏に心を通はしけるが、大船二艘に兵粮米積み、物具入れ、都を指して上りけるを、能登殿福原にて、この由を聞き給ひて、小舟共押し浮べて追はれければ、西の宮の沖にて返し合せて防ぎ戰ふ。能登殿、「餘すな洩すな」とて、散々に攻め給へば、は슨安摩の六郞叶はじとや思ひけん、和泉の國吹飯の浦に楯籠る。又紀伊の國の住人、園邊の兵衞忠康、是も平家に快からざりけるが、安摩の六郞が能登殿に手痛う攻められ奉つて、和泉の國吹飯の浦にありと聞いて、その勢百騎計りで、和泉の國へ打ち越えて、安摩の六郞園邊の兵衞一つに成つて、城郭を構へて待つ所に、能登殿軈て推寄せて、散々に攻め給へば、安摩の六郞園邊の兵衞.叶はじとや思ひけん、身がらは込げて京へ上る。殘り留つて防矢射ける兵共、百三十餘人が〇十七頸切つて、福原へこそ參られけれ。又豐後の國の住人、白杵の次郞惟隆、〓方の三郞惟義、伊豫の國の住人、河野の四郞通信一つに成つて、都合その勢二千餘人、小船共に取り乘つて、備前の154 5國へ押し渡り、今木の城に楯籠る。能登殿福原にて、この由を聞き給ひて、安からぬ事也とて、その勢三千餘騎で、備前の國に馳せ下り、今木の城を攻め給ふ。能登殿、「奴原は强い御敵で候。重ねて勢を給はるべき由」申されたりければ、福原より數萬騎の軍兵を、指し向けられるる由聞注えしかば、城の內の兵共、手の際戰ひ、分捕高名し窮めて、敵は多勢也、味方は小勢也ければ、取り籠められては叶ふまじ。爰をば落ちて、暫しの息を續げやとて、臼杵の次郞惟隆、〓方の三六箇度合戰二二五六箇度合戰
平家物語中編二二六郞惟義は、豐後の國へ押し渡り、河野は伊豫へぞ渡りける。能登殿今は攻むべき敵なしとて、福原へこそ參られけれ。大臣殿以下の月卿雲客、寄り合ひ給ひて、能登殿の每度の高名をぞ感じ合はれける。草勢汰同じき正月廿九日、範賴義經院參して、平家追討の爲に、西國へ發向すべき由を奏聞す。本朝には神より傳はれる御寶三つあり、神璽、寶劍、內侍所是也。事故なう都へ返し入れ奉るべき由仰せ下さる。兩人庭上に畏り承つて罷り出づ。二月四日の日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く遂げ行はる。朝夕の軍立に、過ぎ行く月日は知らぬども、去年は今年に廻り來て、憂かりし春にも成りにけり。世の世にて有らましかば、如何なる起立塔婆の企、供佛施僧の營も、ンcat有るべかりしかども、只男女の君達たち指し湊ひて、歎き悲み合はれけり。福原には、この次にPat除目行はれて、僧も俗も皆司なされけり。中にも門脇の平中納言〓盛の卿をば、正二位大納言にきは、上り給ふべき由、大臣殿より宣ひ遣はされたりければ、〓盛の卿、今日迄も有れば有るかの我が身かは、夢の中にも夢を見るかなげと御返事申させ給ひて、終に大納言には成り給はず。大外記中原の師直が子、周防の介師純、大外記になる。兵部の少輔正明、五位の藏人になされて、藏人の少輔とぞ召されける。昔將門東八箇國を打ち隨へて、下總の國相馬の郡に都を立て、我が身を平親王と稱して、百宮を成したりしには、曆の博士ぞ無かりける。是はそれには似るべからず。主上舊都をこそ出でさせ給ふと云へ老五ども、三種の神器を帶して、萬乘の位に備り給へば、敍位除目行はれんも、僻事には非ず。平家旣に福原迄、攻め上つたる由聞えしかば、故〓に殘り留り給ふ人々、皆勇み悅び合はれけり。中套50にも二位の僧都專親は、梶井の宮の年來の御同宿にておはしければ、風の便にも申されけり。宮よりも又御文有り。「旅の空の粧ひ、御心苦しけれども、都も未だ靜まらず」など、細々とあそばいて、奧に一首の歌ぞありける。人知れず其方を忍ぶ心をば、傾く月にたぐへてぞやるずん定僧都是を顏に押し當てゝ、悲の淚塞きあへず。去程に小松の三位の中將維盛の卿は、年隔り日重るに隨つて、故種に留め置き給へる北の方少き人々の事をのみ歟き悲分給ひけ。商人の便に、文などの通ふにも、北の方の都の御栖居、心苦しう聞き給ひて、さらば是へ迎へ進らせて、所でいかにも成らばやとは思はれけれども、我が身こそあらめ、御爲痛はしくてなど、思し召し沈三草勢汰二二七
平家物語中編二二八んで、明し暮し給ふにぞ、せめての御志の深さの程は顯はれにける。二月四日の日、源氏福原を攻むべかりしかども、故入道相國の忌日と聞いて、佛事遂げさせん十五所が爲に、その日は寄せず。五日は西塞り、六日は道虚日、七日の日の卯の刻に、一の谷の東西の木戶口にて、源平矢合とぞ定めける。されども四日は吉日なればとて、大手搦手の軍兵、二手に分けて攻め下る。大手の大將軍には、蒲の御曹司範賴、相伴ふ人々、武田の太郞信義、加賀美の次郞遠光、同じき小次郞長〓、山名の次郞〓義、同じき三郞義行、侍大將には、梶原平三景時、嫡子の源太景季、次男平次景高、同じき三郞景家、稻毛の三郞重成、榛谷の四郞重朝、同じき五西五(十七年郞行重、小山の小四郞朝政、中沼の五郞宗政、結城の七郞朝光、左貫の四郞大夫廣綱、小野寺の禪師太郞道綱、曾我の太郞資信、中村の太郞時經、江戶の四郞重春、玉井の四郞資景、大河津の太ト5郞廣行、庄の三郞忠家、同じき四郞高家、勝大の八郞行平、久下の次郞重光、河原の太郞高直、ゆきやす同じき次郞盛直、藤田の三郞大夫行泰を先として、都合その勢五萬餘騎、二月四日の日の辰の一點に、都を立つて、その日の申西の刻には、攝津の國昆陽野に陣をぞ取つたりける。搦手の大將軍には、九郞御曹司義經、同じう伴ふ人々、安田の三郞義貞、大内の太郞惟義、村上の判官代康國、田代の冠者信綱、侍大將には土肥の次郞實平、子息の彌太郞遠平、三浦の介義澄、子息の平六義村、畠山の庄司次郞重忠、同じき長野の三郞重〓、佐原の十部義連、和田の小太郞義盛、同じき次熊谷の次郞直實、子息の小次郞直家、平郞義茂、三郞宗實、佐々木四郞高綱、同じき五郞義〓、山の武者所季重、天野の次郞直經、小河の次郞資能、原の三郞〓益、多々羅の五郞義春、その子の太郞光義、渡柳の彌五郞〓忠、別府の小太郞〓重、金子の十郞家忠、同じき與一親範、源八廣綱、片岡太郞經春、伊豫の三郞義盛、奥州の佐藤三郞嗣信、同じき四郞忠信、江田の源三、熊井太郞、武藏坊辨慶、是等を先として、都合その勢一萬餘騎、同じ日の同じ時に、都を立つて丹波路に懸かり、二日路を一日打つて、丹波路と播磨の境なる、三草の山の東の山口、小野原に陣をぞ取つたりける。三草合戰平家の方の大將軍には、小松の新三位の中將資盛、同じき少將有盛、丹後の侍從忠房、備中の守師盛、侍大將には、伊賀の平内兵衞〓家、海老の次郞盛方を先として、その勢三千餘騎で、三草の山の西の山口に押し寄せて陣を取る。その夜の戌の刻計に、大將軍九郞御曹司義經、侍大將土肥の次郞實平を召して、平家は是より三里隔てて、三草の山の西の山口に、大勢で扣へたり。三草合戰二二九
平家物語中編二三〇「夜討にやすべき、又明日の軍か」と宣へば、田代の冠者進み出で、「平家の勢は三千餘騎、御方の御勢は一萬餘騎、遙の利に候。明日の軍と延べられ候ひなば、平家に勢附き候ひなんず。夜討好かんぬと覺え候」と申されければ、土肥の次郞、「いしうも申させ給ふ田代殿哉、誰も斯こそ申し度う候ひつれ。夜討よかんぬと覺え候」と申しければ、兵共、暗さは闇し、如何せんと、口々に申しければ、御曹司、「例の大續松は如何に」と宣へば、土肥の次郞、「去る事候」とて、小野原の在家に火をぞ懸けたりける。是を初めて、野にも山にも草にも木にも火を懸けたれば、晝には些とも劣らずして、三里の山をぞ越え行きける。この田代の冠者と申すは、父は伊豆の國の前の國司、中納言爲綱の末葉也。母は狩野の介其光が娘を思うて設けたりしを、母方の祖父に預けてま弓矢取には仕立たんなり。俗姓を尋ぬれば、後三條の院の第三の皇子、輔仁の親王に五代の孫也。俗姓も能き上、弓矢を取つても好かりけり。平家の方には、その夜、夜討にせんずるをば、夢に+も知らず、「軍は定めて明日の軍にてぞあらんずらん。軍にも睡たいは大事の物ぞ、能く寢て軍せ春はよ者共」とて、先陣は自ら用心しけれども、後陣の兵共は、或は甲を枕にし、或は鎧の袖箙などを枕として、前後も知らずぞ臥したりける。その夜の夜半計り、源氏一萬餘騎、三草の山の西のは山口に押し寄せて、関を咄とぞ作りける。平家の方には、餘りに周章て噪いで、弓取る者は矢を知らず、矢を取る者は弓を知らず、あわてふためきけるが、馬に當てられじとや思ひけん、皆中あそこに追つ懸け、爰に追つつめ、散々に攻めけを開けてぞ通しける。源氏は落ち行く平家を、れば、矢場に五百餘人討たれぬ。小作手負ふ者共多かりけり。大將軍新三位の中將資盛、同じき少將有盛、丹後の侍從忠房、三草の手を破られて、面目なうや思はれけん、播磨の高砂より舟に乘つて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。備中の守師盛計りこそ、何としてかは漏れさせ給ひたりけん、平內兵衞海老の次郞を召し具して、一の谷へぞ參られける。老馬在一大臣殿、CO安藝の右馬の助能行を使者にて、人々の許へ宣ひ遺されけるは、「九郞義經こそ、三草の手を攻め破つて、旣に亂れ入る由聞え候。山の手が大事で候へば、各向はれ候ひなんや」と宣ひ遣はされたりければ、皆辭し申されけり。能登殿の許へも、「度々の事では候へども、今度も又御邊向はれ候ひなんや」と、宣ひ遣されたりければ、能登殿の返事に、「軍は左様に獵、漁などの樣に、足立の好からう方へは向はう、惡しからん方へは向はじなど候はんには、軍に勝つ事はよ一方打ち破つて進らも候はじ。幾度でも候へ、强からん方へは〓經承つて、罷り向ひ候ふべし。二三一老馬
平家物語中編二三二せ候はん。御心安う思し召され候ふべし」と申されたりければ、大臣殿斜ならずに悅び給ひて、越中の前司盛俊を先として、一萬餘騎能登殿にぞ附けられける。兄越前の三位通盛の卿を相具しひよどりごえて、山の手へぞ向はれける。この山の手と申すは、一の谷の後、鴨越の麓也。通盛の卿、能登殿100の假屋へ、北の方迎ひ寄せ給ひて、最後の名殘惜まれけり。能登殿大きに怒つて、「この手は大事の方とて、〓經向けられ候ふが、誠に强う候ふ也。只今も上の山より、敵落す程ならば、取る物も取りあへ候ふまじ。縦ひ弓をば持つたりとも、矢を番ずば惡しかるべし。縱ひ矢をば番たりとも、引かずば猶も惡しかるべし。況して左様に打ち解けて渡らせ給ひては、何の用に合はせ給ふげベロリと諫められて、通盛の卿實にもやと思はれけん、急ぎ物具して、人をば返し給ひけり。五日の日の暮方に、源氏昆陽野を立つて、漸う生田の森へ攻め近づく。雀の松原、御影の松、昆陽たなが野の方を見渡せば、源氏手手に陣を取つて、遠火を燒く。更け行くまゝに詠むれば、山の端出づかたる月の如し。平家も遠火燒けやとて、生田の森にも形の如くぞ焼いたりける。明け行く儘に見渡かはべせば、晴れたる空の星の如し。是や昔河邊の螢と詠じ給ひけんも、今こそ思ひ知られけれ。斯樣に源氏は、あそこに陣取つては馬休め、爰に陣取つては馬飼ひなどしける程に急がず。平家の方には今や寄す、今や寄すると相待つて、安い心もせざりけり。あけぼの同じき六日の日の曙に、大將軍九郞御曹司義經、一萬餘騎を二手に分けて、土肥の次郞實平に、ひよどりごえ七千餘騎を差し副へて、一の谷の西の木戶口へ指し遣す。我が身は三千餘騎で、一の谷の後鴨越を落さんとて、丹波路より搦手へこそ向はれけれ。兵共、「是は聞ゆる惡所にてあるなり。同じうあつぱ死ぬるとも、敵に逢うてこそ死にたけれ。惡所に落ちては死にたからず。哀れこの山の案内者やある」と口々に申しければ、爰に武藏の國の住人、平山の武者所進み出でて、「季重こそこの山のそだ案內能く存知仕て候へ」と申しければ、御曹司、「和殿は東國育ちの者の、今日始めて見る西國のごぢやう山の案內者、大きに誠しからず」と宣へば、季重重ねて申しけるは、「こは御諚とも覺え候はぬ物中大き55 18剛の武者が知り哉。吉野泊瀨の花をば、見ねども歌人が知り、敵の籠つたる城の後の案内をば、べつぶ生年候」とぞ申しける。是又傍若無人にぞ聞えし。又武藏の國の住人、別府の小太郞〓重とて、か十八歲に成りけるが、進み出でゝ申しけるは、「父にて候ひし義重法師が〓へ候ひしは、喩へば山老馬に手綱結んで打ち懸け、越の狩をせよ、又は敵にも襲はれよ、深山に迷ひたらんずる時は、先に追つ立て行け。必ず道へ出でうずるぞとこそ〓へ候ひしか」と申しければ、御曹司、「優しう5:たたしも申したる者哉。雪は野原を埋めども、老いたる馬ぞ道は知ると云ふ様有り」とて、白葦毛なる老馬に、鏡鞍置き、白轡番げ、手綱結んで打ち懸け、先に追つ立て、未だ知らぬ深山へこそ入り二三三老馬
平家物語中編二三四むらぎ給へ。比は二月初の事なれば、峰の雪村消えて、花かと見ゆる所も有り、谷の鶯音信れて、霞に迷ふ所も有り。登れば白雪皓々として聳え、下れば靑山峨々として岸高し。松の雪だに消えやらかすかで、苔の細道幽なり。嵐にたぐふ折々は、梅花とも又疑はれ、東西に鞭を揚げ、駒を早めて行く程に、山路に日暮れぬれば、皆下り居て陣を取る。爰に武藏坊辨慶、或る老翁一人具して參りたり。御曹司、「あれは如何に」と宣へば、「是はこの山の獵師で候」と申しければ、「さては案内能く知つたるらん」。「爭でか存知仕らでは候ふべき」。御曹司、「さぞあるらん。是より平家の城郭一の谷へ落さうと思ふは如何に」。「努々叶ひ候ふまじ。凡そ三十丈の谷、十五丈の岩崎などをば、本ます容易う人の通ふべき樣も候はず。その上城の內には、落穴をも掘り、菱をも植ゑて待ち進らせ候しふらん。況して御馬などは思ひも寄り候はず」と申しければ、御曹司、「さて左様の所は、鹿は通ふか」。「鹿は通ひ候。世間だに暖に成り候へば、草の深きに臥さんとて、播磨の鹿は丹波へ越え、は丹波の鹿は播磨の印南美野へ越え候」な世間だに寒う成り候へば、雪のあさりに食まんとて、とぞ申しける。御曹司、「さては馬場ござんなれ。鹿の通はんずる所を、馬の通はざるべき樣やある。さらば軈て汝案內者せよ」と宣へば、「この身は年老いて、如何にも叶ひ候ふまじ」と申す。detさぶらふ汝に子は無いか」。〓とて、熊王とて生年十八歲に成りける小冠者を奉る。御曹司軈て髻取り上げさせ給ひて、父をば鷲尾の庄司武久と云ふ間、是をば鷲尾の三郞義久と名乘らせて、一の谷の先打せさせ、案內者にこそ具せられけれ。平家亡び、源氏の代に成つて後、鎌倉殿と中違うて、奧州へ下り討たれ給ひし時、鷲尾の三郞義久と名乘つて、一所で死にける兵也。かけ懸一の六日の夜半計り迄は、熊谷平山搦手にぞ候ひける。熊谷子息の小次郞を呼うで云ひけるは、「こ西のの手は惡所であんなれば、誰先と云ふ事もあるまじきぞ。いざうれ土肥が承つて向うたる、手へ寄せて、一の谷の眞先懸けう」と云ひければ、小次郞、「この儀尤も然るべう候。誰も斯こそ申し度う候ひつれ。さればとう寄せさせ給へ」と申す。熊谷、「誠や平山も、この手にあるぞかし。ち案の如く平山は、熊谷打込の軍好まぬ者なれば、平山が様見て參れ」とて、下人を見せに遣す。より先に出で立つて、「人をば知るべからず、季重に於いては、一引も引くまじい者を、引くまじい者を」と、ひとりごと獨言をぞし居たる。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長食哉」とて、鞭ちければ、平山、「さうなせそ。その馬の名殘も、今夜計りぞ」とて打立ちけり。下人走り歸つて、主にこの由かち告げければ、「さればこそ」とて、是も軈て打立ちけり。熊谷がその夜の裝束には、褐の直垂に、の二三五一二の懸
平家物語中編二三六ライル海赤革威の鎧著て、紅の母衣を懸け、權太栗毛と云ふ、聞ゆる名馬にぞ乘つたりける。子息の小次郞直家は、澤潟を一入摺つたる直垂に、節繩目の鎧著て、西樓と云ふ白月毛なる馬にぞ乘つたりける。旗指は黄塵の直垂に、小櫻を黄にかへいたる鎧著て、黄河原毛なる馬にぞ乘つたりける。た?主從三騎打ちつれ、落さんずる谷をば弓手になし、馬手へ步ませ行く程に、年來人も通はぬ田井年の畑と云ふ古道を經て、一の谷の波打際へぞ打ち出でける。一の谷近う鹽屋と云ふ所あり。未だ담夜深かりければ、土肥の次郞實平、七千餘騎で扣へたり。熊谷夜に紛れて、波打際よりそこをば53つと馳せ通り、一の谷の西の木戶口にぞ押し寄せたる。その時も未だ夜深かりければ、城の內には靜まり返つて音もせず。熊谷子息の小次郞に云ひけるは、「この手は惡所であんなれば、我も我もと先に心を懸けたる者共多かるらん。旣に寄せたれども、夜の明くるを相待つて、この邊にひかも扣へたるらんぞ。心狹う直實一人と思ふべからず。いざ名乘らん」とて、搔楯の際に歩ませ寄り、鐙踏張り立ち上り、大音聲を揚げて、「武藏の國の住人、熊谷の次郞直實、子息の小次郞直55家、一の谷の先陣ぞや」とぞ名乘つたる。城の內には是を聞いて、「よし〓〓音なせそ。敵の馬のや1足疲らかさせよ。矢種を射盡させよ」とて、應答ふ者こそ無かりけれ。良有つて後より武者こそ二騎續いたれ。「誰そ」と問へば、「季重」と答ふ。「問ふは誰そ」。「直實ぞかし」。「如何に熊谷殿成田五郞に謀は、何よりぞ」。「宵より」とこそ答へけれ。「季重も軈て續いて寄すべかりつるを、打ち連れて寄せつれられて、今迄は遲々したりつる也。成田が死なば一所で死なんと契りし間、ば、痛う平山殿先懸早りなし給ひそ。軍の先をかくると云ふは、御方の勢を後に置いて、先をかけたればこそ、高名不覺をも人に知らるれ。あの大勢の中へ只一騎かけ入つて討たれたらんは、ん だ三三かしら下り樣に馬の首を引何の詮にか合ふべきと云ふ間、實にもと思ひ、小坂のありつるを打ち登せ、き立て、御方の勢を待つ處に、成田も續いて出で來り、打ち竝べて軍の樣をも云ひ合せんずるか€と思ひたれば、さはなくして、季重が方をば、すげなげに見成しつゝ、傍をつと馳せ通る間、哀れこの者季重謀つて、海鮮は先懸くるよと思ひ、五六段計り進んだるを、あれが馬は我が馬より弱げな藻るものをと目をかけ、一鞭打つて追つ付き、如何に成田殿は、正なうも季重程の者を、謀り給ふ物哉と云ひかけ、打ち捨てゝ寄せつれば、今は遙に下りぬらん。よも後影をば見たらじ」とこそ語りけれ。去程に篠目漸う明け行けば、熊谷平山、彼是五騎でぞ扣へたる。熊谷は先に名乘つたりけれども、平山が聞く前にて、又名乘らんとや思ひけん、搔楯の際へ步ませ寄り、鐙踏張り立ち上り、大音聲を揚げて、「抑以前名乘つたる、武藏の國の住人、熊谷の次郞直實、子息の小次郞直家、一の一二の懸二三七
平家物語平家物語中編二三八5/35よもすがらこひつ生谷の先陣ぞや」とぞ名乘つたる。城の內には是を聞いて、「いざ終夜名乘る、熊谷父子を提げて來ん」とて、進む平家の侍誰々ぞ。越中の次郞兵衞盛續、上總の五郞兵衞忠光、惡七兵衞景〓、後むねと發ゆひ藤內定經を先として、宗徒の兵廿餘騎、木戶を開いて懸け出でたり。爰に平山は滋目結の直垂に、ふたつひきりやうほろ緋威の鎧著て、二引兩の母衣をかけ、目糟毛と云ふ聞ゆる名馬にぞ乘つたりける。旗指は黑革威さびつきげの鎧に、甲猪頸に著なしつゝ、宿月毛なる馬にぞ乘つたりける。保元平治二箇度の軍に、先懸けて高名したる、武藏の國の住人、平山の武者所季重と名乘つて、喚いてかく。熊谷蒐くれば平山續き、平山蒐くれば熊谷續き、互に我れ劣らじと、入れ替へ〓〓名乘り替へ〓〓、揉みに揉うで、火出づる程にぞ攻めたりける。平家の侍共、熊谷平山に、餘りに手痛う攻められて、叶はじち吉〇とや思ひけん、城の内へ颯と引いて、敵を外樣に成してぞ防ぎける。熊谷は馬の太腹射させ、はぬれば、弓杖突いて下り立つたり。子息の小次郞直家も、生年十六歲と名乘つて、眞先蒐けて戰ゆってひけるが、弓手の肘を射させ、是も馬より下り、父と雙んでぞ立つたりける。熊谷、「如何に小次こちらたら郞は手負うたるか」。「さん候」。「鎧築を常にせよ。裏搔かすな。錣を傾けよ。內甲射さすな」とroughぞこそ〓へけれ。熊谷は鎧に立つたる矢共撥り捨て、城の內を睨へ、大音聲を揚げて、「去年の冬鎌このかた書店さば倉を立ちしより以來、命をば兵衞の佐殿に奉り、骸を一の谷の汀に曝さんと、思ひ切つたる直實中編ぞかし。去んぬる室山水島二箇度の軍に打ち勝つて、高名したりと名乘るなる、越中の次郞兵衞、上總の五郞兵衞、惡七兵衞はないか。能登殿はおはせぬか。高名不覺も敵に依つてこそすれ。CCC人每にはえせじものを。只熊谷父子に落ち合へや、組めや組め」とぞ訇つたる。城の內には是を聞いて、越中の次郞兵衞盛續、好む裝束なれば、小村濃の直垂に、赤威の鎧著て、鍬形打つたる1連錢蘆毛甲の〓を縮め、金作の太刀を帶き、廿四差いたる截生の矢負ひ、滋籐の弓脇に挾み、なる馬に、金覆輪の鞍を置いて乘つたりけるが、熊谷父子を目に懸けて、步ませ寄る。熊谷父子いよ〓〓あひすか彌前へも中を破られじと、交も透さず立ち竝び、太刀を拔いて額に當て、後へは一引も引かず、ぞ進んだる。越中の次郞兵衞是を見て、叶はじとや思ひけん、取つて返す。熊谷、「あれは如何に、越中の次郞兵衞とこそ見れ。敵にはどこを嫌はうぞ、押し雙べて組めや組め」と云ひけれども、次郞兵衞、「さもさうず」とて引き返す。上總の惡七兵衞是を見て、「きたない殿原の振舞哉。しや組まんずる物を、落ち合はぬ事はよもあらじ」とて、旣に苐け出で組まんとしければ、次郞廿兵衞、惡七兵衞が鎧の袖を扣へて、「君の御大事是に限るべからず。有るべうもなし」と制せられをめて、力及ばで組まざりけり。その後熊谷は乘替に乘つて喚いてかく。平山も熊谷父子が戰ふ間に、馬の息休め、い是も同じう續いたり。平家の方には是を見て、只射取れや射取れとて、差しつ二三九一二の懸
平家物語中編二四〇め引きつめ散々に射けれども、敵は小勢なり、御方は大勢也ければ、勢に紛れて矢にも當らず。只押し雙べて組めや組めと、下知しけれども、平家の方の馬は、飼ふは稀なり、乘りしげし。舟に久しう立てたりければ、皆彫りきつたる樣なりけり。熊谷平山が乘つたる馬は、飼ひに飼うただる大の馬共なり。一當當てば皆蹴倒されぬべき間、流石押し雙べて組む武者一騎も無かりけり。爰に平山は、身に替へて思ひける旗指を討たせて、安からずや思ひけん、城の中へ蒐け入り、軈てその敵が首取つてぞ出でたりける。熊谷父子も、分捕あまたしてげり。熊谷は先に寄せたれども、木戶を開かねば蒐け入らず。平山は後に寄せたれども、木戶を開けたれば懸け入りぬ。さてこそ熊谷平山が、一二の懸けをば爭ひけれ。二度の懸去程に成田五郞も出で來る。土肥の次郞實平七千餘騎、色々の旗指し上げ、喚き叫んで攻め戰はらふ。大手生田の森をば、源氏五萬餘騎で堅めたりけるが、その勢の中に、武藏の國の住人、河か原太郞河原次郞とて兄弟あり。河原太郞、弟の次郞を呼うで云ひけるは、「大名は我と手を下さねどけも、家人の高名を以て名譽す。我等は自ら手を下さでは叶ひ難し。敵を前に置きながら、矢一つをだに射ずして待ち居たれば、餘りに心元なきに、高直は城の中へ紛れ入つて、一矢射んと思ふ也。されば千萬が一つも、生きて歸らん事有りがたし。汝は殘り留つて、後の證人に立て」と云ひければ、弟の次郞淚をはら〓〓と流いて、「只兄弟二人有る者が、兄を討たせて、弟があとに殘より留つたればとて、幾程の榮花をか保つべき。所々で討たれんより、一所でこそ討死をもせめ」とて、下人共呼び寄せ、妻子の許へ、最後の有樣云ひ遣し、馬には乘らで、芥下をはき、弓杖を突いて、生田の森の逆木を上り越えて、城の中へぞ入つたりける。星明に鎧の毛さだかならず。河原太郞大音聲を揚げて、「武藏の國の住人、河原太郞私の高直、同じき次郞盛直、生田の森のあつば先陣ぞや」とぞ名乘つたる。城の内には是を聞いて、「哀れ東國の武士程怖しかりける者はなし。まこの大勢の中へ、只兄弟二人懸け入つたらば、何程の事をかし出すべき、唯置いて愛せよや」とて、討たんと云ふ者こそ無かりけれ。河原兄弟究竟の弓の上手なりければ、差しつめ引きつめ散長く散に射る。城の中には是を見て、「今はこの者愛し惡し。討てや」と云ふ程こそ有りけめ、西國に聞えたる强弓精兵、備中の國の住人、眞名邊の四郞、眞名邊の五郞とて兄弟有り。兄の四郞をばusi一の谷に置かれたり。弟の五郞は生田の森にありけるが、是を見て能つ引き暫し保つて兵と射る。むないた홍兄を肩河原太郞が鎧の胸板を、後へつと射拔かれて、弓杖に縋り疼む所を、弟の次郞走り寄り、ニ四、二度の懸ニ四、二の
平家物語中編二四、に引つ懸けて、生田の森の逆木登り越えんとする處を、眞名邊が二の矢に、弟の次郞が鎧の草摺のはづれを射させて、同じ枕に臥しにけり。眞名邊が下人落ち合せて、河原兄弟が頸を取る。大あつぼ將軍新中納言知盛の卿の御見參に入れたりければ、「れ剛の者や、是等をこそ一人當干の、好きあつたら兵共とも云ふべけれ。可惜者共が命を助けて見で」とぞ宣ひける。その後河原が下人走り散つはて、「河原殿兄弟こそ、只今城の中へ眞先懸けて、討たれさせ給ひぬるは」と、呼はつたりければ、梶原平三是を聞いて、「是は私の黨の殿原の不覺でこそ、河原兄弟をば討たせたれ。時能く成りぬさかもぎるぞ、寄せよや」とて、梶原五百餘騎、生田の森の逆木をとり除けさせて、城の内へ喚いてかく。次男平次餘りに先を蒐けうと進む間、父平三使者を立てゝ、「後陣の勢の續かざらんに、先懸けたらん者には、勸賞有るまじき由、大將軍よりの仰ぞ」と云ひ送つたりければ、平次暫く扣へて、武士の取り傳へたる梓弓、引いては人のかへすものかはと申させ給へやとて、喚いてかく。梶原是を見て、「平次討たすな者共、景高討たすな續けや」とて、父の平三、兄の源太、同じき三郞續いたり。梶原、五百餘騎の大勢の中へ蒐け入り、竪樣横様、蜘蛛手、十文字に懸け破つて、颯と引いて出でたれば、嫡子の源太は見えざりけり。梶原、郞等共に、「源太は如何に」と問ひければ、「餘りに深入して討たれさせ給ひて候ふやらん。遙に見えさせ給ひ候はず」と申しければ、梶原淚をはら〓〓と流いて、「軍の先を懸けうと思ふも、子共がため、源太討たせて、景時命生きても、何にかはせんなれば、返せや」とて又取つて返す。その後梶原鐙踏張り立ち上り、大音聲を揚げて、「昔八幡殿の後三年の御戰に、出羽の國千福金澤の城を攻め給ひし時、生年十六歲と名乘つて、眞先懸け、弓手の眼を甲の鉢付の板に射付けられながら、其の矢を拔かで、當の矢を射返し、敵射落し、勸賞蒙り、名を後代に上げたりし、鎌倉の權五郞景政に、五代の末葉、梶原平三景時とて、東國に聞えたる、一人當千の兵ぞや。我れと思はん人々は、寄り合へや見參せん」とて、喚いてかく。城の內には是を聞いて、「只今名乘るは東國に聞えたる兵ぞや。餘すな、漏すな、討てや」とて、梶原を中に取り籠めて、我れ討取らんとぞ進みける。梶原先づ我が身の上をば知らずして、源太は何くにあるやらんと、蒐け破り蒐け廻り尋ぬる程に、案の如く、源太は馬をも射させ步立になり、甲をも打ち落され、大童に戰ひなつchaて、二丈計り有りける岸を後に當て、郞等二人左右に立て、打物拔いて敵五人が中に取り籠められて、面も振らず命も惜まず、爰を最後と攻め戰ふ。梶原是を見て、源太は未だ討たれざりけり敵に後と嬉しう思ひ、急ぎ馬より飛んで下り、「如何に源太、景時爰にあり、同じう死ぬるとも、を見すな」とて、父子して五人の敵を三人討ち捕り、二人に手負はせて、「弓矢取は懸くるも引く二四三二度の懸
平家物語中編二四四も、折にこそよれ、いざうれ源太」とて、かい具してぞ出でたりける。梶原が二度の懸とは是也。さか坂まして落ゐのまたゐpid是を始めて、三浦、鎌倉、秩父、足利黨には、猪俣、兒玉、野井與、橫山、西黨、綴喜黨、總行くよかづちじて私の黨の兵共、源平互に亂れあひ、喚き叫ぶ聲は山を響し、馳せ違ふる馬の音は雷(如く、ホ射遣ふる矢は雨の降るに異ならず。或は薄手負うて戰ふ者もあり、或は引つ組み刺し違へて死ぬるもあり。或は取つて押へて首を搔くもあり、搔かるゝもあり、何れ隙有りとも見えざりけり。かゝりしかども、源氏大手計りでは、如何にも叶ふべしとも見えざりしに、七日の日の曙に、大將軍九郞御曹司義經、その勢三千餘騎、鵯越に打ち上つて、人馬の息休めておはしけるが、そをぶの勢にや驚きたりけん、牡鹿二つ牝鹿一つ、平家の城郭一の谷へぞ落ちたりける。平家の方の兵k kおちやう共是を見て、縱ひ里近からん鹿だにも、我等に恐れて山深うこそ入るべきに、只今の鹿の落樣こかたきおとそ恠しけれ。如何樣にも、是は上の山より敵落すにこそとて、大きに噪ぐ處に、爰に伊豫の國のきよのり住人、武智の武者所〓〓進み出で、「縱ひ何者にてもあらばあれ、敵の方より出で來たらんずるを者を、通すべき樣なし」とて、牡鹿二つ射留めて、牝鹿をば射いでぞ通しける。越中の前司是を見て、「詮ない殿原の鹿の射樣哉。せんし只今の矢一筋では、敵十人をば防がんずる物を、罪作りに矢だん だうなに」とぞ制しける。去程に大將軍九郎御曹司義經、平家の城郭遙に見下しておはしけるが、馬共落いて見んとて、少々落されけり。或は中にて轉んで落ち、或は足打ち折つて死ぬるもあり。まったざれどもその中に、鞍置馬三匹、相違なく落ち着いて、越中の前司が屋形の前に、身振してこそぬしくたゞ落せ、立つたりけれ。御曹司、「馬は主々が心得て落さんには、痛うは損ずまじかりけるぞ。義經を手本にせよ」とて、先づ三十騎計り、眞先懸けて落されければ、三千餘騎の兵共、皆續いだんて落す。其しも小石交りの砂なりければ、流れ落しに二町計り颯と落いて、壇なる所に扣へたり。其れより先へ其れより下を見下せば、大磐石の苔むしたるが、釣瓶下に、十四五丈ぞ下つたる。は進む可き共見えず、又後へ取つて返す可き樣も無かりしかば、兵共爰ぞ最後と申して、あきれ鳥一つ立ちてだて扣へたる所に、三浦の佐原の十郞義連、進み出で申しけるは、「我等が方では、ぼにも、朝夕斯樣の所をば馳せありけ、是は三浦の方の馬場ぞ」とて、眞先懸けて落しければ、大勢皆續いて落す。後陣に落す者の鐙の鼻は、先陣の鎧甲に障る程なり。餘りのいぶせさに、目をよき大方人の所爲とは見えず、只塞いで落しける。えい〓〓聲を忍びにして、馬に力を付けて落す。山彥鬼神の所爲とぞ見えし。놓落しも果てぬに、関を咄つとぞ作りける。三千餘騎が聲なれども、二四五坂落
平家物語中編二四六答へて十萬餘騎とぞ聞えける。村上の判官代康國が手より火を出だいて、平家の屋形假屋を、片時の烟と燒き拂ふ。黑烟旣に押し懸けければ、平家の兵共、若しや助かると、前なる海へぞ多く走り入りける。渚には助舟共いくらも有りけれども、船一艘には鎧うたる者共が、四五百人千人目の前にて大舟三艘沈計り込み乘つたらうに、何かは好かるべき。渚より三町計り漕ぎ出でゝ、みにけり。その後は好き武者をば乘するとも、雜人原をば乘すべからずとて、太刀長刀にて打ちづ拂ひけり。斯する事とは知りながら、敵に逢うては死なずして、乘せじとする舟に取り付き摑み付き、或は臂打斬られ、或は肘打落されて、一の谷の汀に、朱に成つてぞ列み臥したる。去程に、大手にも濱の手にも、武藏相模の若殿原、面も振らず命も惜まず、爰を最後と攻め戰ふ。能登殿は度々の軍に、一度も不覺し給はぬ人の、今度は如何思はれけん、薄墨と云ふ馬に打ち乘つて、西を指してぞ落ち給ふ。播磨の高砂より御船に召して、讚岐の八島へ渡り給ひぬ。盛盛俊最後新中納言知盛の卿は、生田の森の大將軍にておはしけるが、東に向つて戰ひ給ふ處に、山のそtchばより寄せける見玉黨の中より、使者を立て、「君は一年武藏の國司にて渡らせ給へば、その好を二比七俊盛俊最後
平家物語中編二四八以て、兒玉の者共が中より申し候。未だ御後をば御覽ぜられ候はぬやらん」と申しければ、新中納言以下の人々、後を顧み給へば、黑烟推し懸けたり。「あはや西の手は破れにけるは」と云ふ程こそありけれ、取物も取り敢へず、我先にとぞ落ち行きける。越中の前司盛俊は、山の手の侍大ひ、將にてまし〓〓けるが、今は落つとも叶はじとや思ひけん、扣へて敵を待つ所に、猪俣の小平六則綱、好き敵と目を懸け、鞭鐙を合せて馳せ來り、押し雙べて無手と組んでどうと落つ。猪俣は八箇國に聞えたる健者也。鹿の角の一二の草かりをば、輙く引き裂きけるとぞ聞えし。越中の前司も、人目には二三十人が力顯すと云へども、內々は六七十人して上げ下す舟を、たゞ一人して推し上げ推し下す程の大力也。されば猪俣を取つて押へて、動かさず、猪俣、下に臥しながら、刀を拔かうとすれども、指の股はだかつて、刀の柄を握るにも及ばず。物を云はうとすれども、餘りに强う推さへられて聲も出でず。されども猪俣は、大剛の者にてありければ、暫しの息を休大正めて、「敵の首を捕ると云ふは、我も名乘つて聞かせ、敵にも名乘らせて、首取つたればこそ大功なれ。も知らぬ類以てる。何になはし給べくきとなけひれば、越中の前電「本は平家の一門たりしが、身不肖なるに依つて、當時は侍になされたる、越中の前司盛俊と云ふ者也。和君は何者ぞ、名乘れ、聞かう」と云ひければ、「武藏の國の住人、猪俣の小平六則綱と云ふ者也。只今我が命助けさせおはしませ。さだにも候はゞ、御邊の一門、何十人もおはせよ、今度の動功の賞に申し替へて、御命計りをば助け奉らん」と云ひければ、越中の前司大いに怒つて、「盛俊身不肖なれども、流石平家の一門也。盛俊源氏を憑まうとも思ひもよらず、源氏又盛俊に15憑まれうとも、よも思ひ給はじ。惡い君が申樣哉」とて、旣に頸を搔かんとしければ、「正なう候。中心に降人の頸搔く様やある」と云ひければ、さらば助けんとて赦しけり。前は堅田の畠の樣なるが、や緋威後は水田のごみ深かりける畔の上に、二人ながら腰打ち懸けて、息續ぎ居たり。良あつて、の鎧著て、月毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乘つたりける武者一騎、鞭鐙を合せて馳せ來る。越中の前可惟氣に且ければ「「れれ演僕に親しう候人見の四郎で候ふ則綱が有るを見て、詣で來ると覺え候。苦しうも候はぬ」と云ひながら、あれが近付く程ならば、しや組まんずるものを、落ち合はぬ事はよもあらじと思ひて待つ處に、交一段計りに馳せ來る。越中の前司、初めは小花香子兩人の敵を一目づゝ見けるが、次第に近付く敵を、はたと守つて、則綱を見ぬ隙に、猪俣力足を踏んで立ち上り、拳を强く握り、越中の前司が鎧の胸板を、はたと突いて、後へのけに突き倒す。起き上らんとする處を、猪俣上に乘り懸かり、越中の前司が腰の刀を拔き、鎧の草摺引き上げて、づ柄も拳も通れ〓〓と三刀刺いて、首を取る。去程に人見の四郞も出で來たり。斯樣の時は論ずる盛俊最後二四九
平家物語中編二五〇事もありとて、軈て頸をば太刀の鋒に貫き、高く指し揚げ、大音聲を揚げて、「この日來平家の御方に、鬼神と聞えつる、越中の前司盛俊をば、武藏の國の住人、猪俣の小平六則綱が、討つたるぞや」と名乘つて、その日の高名の一の筆にぞ附きにける。忠度最後薩摩の守忠度は、西の手の大將軍にておはしけるが、その日の裝束には、紺地の錦の直垂に、沃懸地の鞍置いて、お方台黑絲威の鎧著て、黑き馬の太う逞しきに、乘り給ひたりけるが、その勢百騎計りが中に打ち圍まれて、最と騒がず、扣へ〓〓落ち給ふ所に、爰に武藏の國の住人、岡部の六ま彌太忠純、好き敵と目を懸け、鞭鐙を合せて追つ蒐け奉り、「あれは如何に、好き大將軍とこそ見進らせて候へ。正なうも敵に後を見せ給ふ物哉。返させ給へ」と詞を懸けゝれば、「是は御方ぞ」とて、振り仰き給ふ內甲を見入れたれば、かね黑也。哀れ御方にかね付けたる者はなき物を、如何樣にも是は平家の公達にてこそおはすらめとて、押し雙べて無手と組む。是を見て百騎計りの兵共、皆國々の驅り武者也ければ、一騎も落ち合はず、我先にとぞ落ち行きける。薩摩の守は聞げゆる熊野育ちの大力、究竟の早業にておはしければ、六彌太を爬うで、「惡い奴が、御方ぞと云はば云はせよかし」とて、六彌太を捕つて引き寄せ、馬の上にて二刀、落ち付く所で一刀、三刀迄こそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず。一刀は内甲へ突き入れられたりけれども、薄手なきれば死なざりけるを、取つて押へて頸を搔かんとし給ふ處に、六彌太が童、後れ馳せに馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、討刀を拔いて、薩摩の守の右の肘を、臂の本よりふつと打ち落す。薩摩はの守今は斯とや思はれけん、「暫し退け、最後の十念唱へん」とて、六彌太を爬うで、弓長計りぞ投げ退けらる。その後西に向ひ、「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨」と宣ひも果てねば、六彌太後より寄り、薩摩の守の頸を取る。好い首討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、箙に結ひ付けられたる文を取つて見ければ、旅宿の花と云ふ題にて、歌をぞ一首讀まれたる。ま行き暮れて木の下影を宿とせば、花や今宵の主ならましを忠度と書かれたりける故にこそ、薩摩の守とは知りてげれ。軈て頸をば太刀の鋒に貫き、高く差し上げ、大音聲を揚げて、「この日來日本國に、鬼神と聞えさせ給ひたる、藤摩の守殿をば、武藏の國の住人、岡部の六彌太忠純が討ち奉つたるぞや」と名乘つたりければ、敵も御方も是を聞いて、「あないとほし、武藝にも歌道にも勝れて、好き大將軍にておはしつる人を」とて、皆鎧の袖忠度最後二五一
平家物語中編二五二をぞ濡らしける。重衡虜本三位中將重衡の卿は、生田の森の副將軍にておはしけるが、その日の裝束には、褐に白う黃こがねなる絲を以て、岩に村千鳥縫うたる直垂に、紫下濃の鎧著て、鍬形打つたる甲の〓をしめ、金作1りの太刀を帶き、廿四差いたる截生の矢負ひ、滋籐の弓持つて、童子鹿毛と云ふ、聞ゆる名馬に、金覆輪の鞍置いて騎り給へり。乳母子の後藤兵衞盛長は、滋目結の直垂に、緋威の鎧著て、三位たすけぶねの中將のさしも祕藏せられたる、夜目無し月毛にぞ乘せられたる。主從二騎助船に乘らんとて、ト渚の方へ落ち給ふ處に、庄の四郞高家、梶原源太景季、好き敵と目を懸け、鞭鐙を合せて追つ懸け奉る。渚には助舟共多かりけれども、後より敵は追つ懸けたり。乘るべき隙も無かりければ、湊河刈藻河をも打ち渡り、蓮の池を馬手に見て、駒の林を弓手になじ、板宿須磨をも打ち過ぎて、西を指してぞ落ち給ふ。三位の中將は、童子鹿毛と云ふ、聞ゆる名馬に乘り給へり。もり伏せたる馬共、容易う追つ付くべしとも見えざりければ、梶原若しやと遠矢に、能つ引いて兵ど放つ。ぶか三位の中將の馬の三頭を、篦深に射させて弱る處に、乳母子の後藤兵衞盛長、吾が馬召されなん心とや思ひけん、鞭を打つてぞ込げたりける。三位の中將、「如何に盛長、我れをば捨てゝ何くへ行くぞ。日來は、さは契らざりしものを」と宣へども、空聞かずして、鎧に付けたる赤印共撥り捨て、只北げにこそ北げたりけれ。三位の中將馬は弱る、海へ颯と打ち入れ給ふ。身を投げんとし七給へども、其しも遠淺にて、沈むべき樣も無かりければ、腹を切らんとし給ふ處に、庄の四郞高家、鞭〓を合せて馳せ來り、急ぎ馬より飛んで下り、「正なう候、何く迄も御供仕り候はんずるものを」とて、我が乘つたりける馬に搔き乘せ奉り、鞍の前輪にしめ付け奉つて、我が身は乘替に乘つて、御方の陣へぞ入りにける。乳母子の盛長は、其をば、なつく逃げ延びて、後には熊野法師に、尾中の法橋を憑うで、居たりけるが、法橋死にての後、後家の尼公の訴訟の爲に、都へ上るに伴して上りたりければ、三位の中將の乳母子にて、上下多くは見知られたり。「あな憎や、後藤兵衞盛長が、三位の中將のさしも不便にし給ひつるに、一所で如何にも成らずして、思ひも寄もまはじきらぬ後家尼公の供して、上りたるよ」とて、皆爪彈をぞしける。盛長も流石恥しうや思はれけん、扇を顏にかざしけるとぞ聞えし。あつ敦盛最後敦盛最後二五三
平家物語中編二五四去程に一の谷の軍破れにしかば、武藏の國の住人、熊谷の次郞直實、平家の公達の助舟に乘ら酒店信用んとて、汀の方へや落ち行き給ふらん。哀れ好き大將軍に組まばやと思ひ、細道に懸かつて渚の方へ步まする處に、爰に練緯に鶴繡うたる直垂に、萌黃匂、の鎧著て、鍬形打つたる甲の〓をしめ、こがねづくり小金作の太刀を帶き、二十四差いたる截生の矢負ひ、滋籐の弓持ち、連錢蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて、乘つたりける者一騎、冲なる船を目に懸け、海へ颯と打ち入れ、五六段計ぞ游がせける。熊谷、「あれは如何に、好き大將軍とこそ見進らせて候へ。まさなうも敵に後を見せ給ふ物心扉は哉、返させ給へ〓〓」と、扇を擧げて招きければ、招かれて取つて返し、渚に打ち上らんとし給ふ所に、熊谷浪打際にて、押し雙べ無手と組んでどうと落ち、取つて押へて頸を搔かんとて、甲うすげしやうたまえを押し仰けて見たりければ、薄化粧してかね黑也。我が子の小次郎が齡程して、十六七計なるが、ようがん容部誠に美麗なり。「抑如何なる人にて渡らせ給ひ候ふやらん。名乘らせ給へ。助け進らせん」と申しければ、「先づかう云ふ和殿は誰を」。「物その數にては候はねども、武藏の國の住人、熊谷の次郞直實」と名乘り申す。「さては汝が爲には好い敵ぞ。名乘らずとも頸を取つて人に問へ。見知あつぼらうずるぞ」とぞ宣ひける。熊谷、「哀れ大將軍や。この人一人討ち奉つたりとも、負くべき軍に勝つべき樣なし。又助け奉つたりとも、勝つ軍に負くる事もよもあらじ。今朝一の谷にて、我が敦盛最後二五五
平家物語中編三六、子の小次郞が薄手負うたるをだにも、直實は心苦しく思ふに、この殿討たれ給ひぬと聞き給ひて、さこそは歎き悲み給はんずらめ。助け進らせん」とて、後を顧みたりければ、土肥梶原五十騎計りで出で來る。熊谷淚をはら〓〓と流いて、「あれ御覽候へ、如何にもして助け進らせんとは存じ候へども、御方の軍兵雲霞の如くに滿ち滿ちて、よも遁し進らせ候はじ。哀れ同じうは、直實が言手に懸け奉つて、後の御孝養をも住り候はん」と申しければ、「只何様にも、疾う〓〓頸を取れ」他くに刀を立つべしとも覺えず。とぞ宣ひける。熊谷餘りにいとほしくて、目も昏れ心も消え果てゝ、前後不覺に覺えけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く頸をぞ搔いてげる「哀れ弓矢取る身程口惜しかりける事はなし。武藝の家に生れずば、何しに只今かゝる憂目をば見るべき。情なうも討ち奉つたる物哉」と、袖を顏に押し當て、さめ〓〓とぞ泣き居たる。頸を裏まんとて、鎧直垂を解いて見ければ、錦の袋に入れられたりける笛をぞ腰に指されたる。「あないとほし。此の曉城の内にて、管絃し給ひつるは、この人々にておはしけり。當時御方に東國の勢、何萬騎かあるらめども、軍の陣に笛持つ人はよもあらじ。上薦は猶も優しかりける物を」とて、海是を取つて大將軍の御見參に入れたりければ、見る人淚を流しけり。後に聞けば、修理の大夫經盛の乙子、大夫敦盛とて、生年十七にぞ成られける。それよりしてこそ、熊谷が發心の心は出でお好き來にけれ。件の笛は祖父忠盛、笛の上手にて、鳥羽の院より下し賜られたりしを、經盛相傳せら〓sれたりしを、敦盛笛の器量たるに依つて、持たれりけるとかや、名をば小枝とぞ申しける。狂げんき言綺語の理と云ひながら、遂に讃佛乘の因となるこそ哀れ也。は濱軍甘さ門脇殿の末子、藏人の大夫業盛は、常陸の國の住人、土屋の五郞重行と組んで討たれ給ひぬ。皇后宮の亮經正は、武藏の國の住人、河越の小太郞重房が手に取り籠め奉つて、遂に討ち奉る。尾張の守〓定、淡路の守〓房、若狭の守經俊、三騎つれて敵の中へ破つて入り、散々に戰ひ、分捕あまたして、一所で討死してげり。新中納言知盛の卿は生田の森の大將軍にておはしけるが、その勢皆落ち失せ討たれにしかば、御子武藏の守知章、侍に監物太郞賴方、主従三騎汀の方へ落ち給ふ處に、爰に兒玉黨と覺しくて、團扇の旗差したる者共が、十騎計り鞭鐙を合せて、押し懸け奉る。監物太郞は、究竟の弓の上手なりければ、取つて返し、先づ眞先に進んだる、旗差が頸おぼの骨を、兵つばと射て、馬より倒に射落す。その中の大將と覺しき者、新中納言に組み奉らんとて馳せ雙ぶる處に、御子武藏の守知章、父を討たせじと、中に隔たり、押し雙べて無手と組んで、濱軍二五七濱軍
平家物語中編二五八わらはどうと落ち、取つて押へて頸を搔き、立ち上らんとし給ふ處に、敵が童落ち合せて、武藏の守の頸を取る。監物太郞落ち重り、武藏の守討ち奉つたりける敵の童をも討ちてげり。その後、矢種の有る程射盡し、打物拔いて戰ひけるが、弓手の膝口を健に射させ、立ちも上らで居ながら討死してげり。この紛れに新中納言知盛の卿は、其をつと迯げ延びて、究竟の息長き名馬には乘り給おもひぬ。海の面二十餘町泳がせて、大臣殿の御舟へぞ參られける。舟には人多く取り乘つて、馬立に注意次大夫音つべき樣も無かりければ、馬をば渚へ追つ廻さる。阿波の民部重能、「御馬敵の物に成り候ひなんかたてたす。射殺し候はん」とて、片手矢番げて出でければ、新中納言、「縱ひ何の者にも成らばなれ。只ぬし今我が命助けたらんずる者を、有るべうもなし」と宣へば、力及ばで射ざりけり。この馬、主のわかれ別を惜みつゝ、暫しは船を離れもやらず、沖の方へ泳ぎけるが、次第に遠く成りければ、空しき入が渚へ泳ぎ廻り、足立つ程にも成りしかば、猶船の方を顧みて、二三度迄こそ嘶きけれ。その後陸に上つて、休み居たりけるを、河越の小太郞重房、取つて院へ進らせたり。本もこの馬、院の御祕藏にて、一の御廐に立てられたりしを、一年宗盛公内大臣に成つて、悅申の有りし時、下し賜はられたりしを、弟中納言に預けられたりしかば、餘りに祕藏して、この馬の祈の爲にとて、たいざんふ每月朔日每に、泰山府君をぞ奠られける。その故にや馬の息も長う、主の命をも助けけるこそ目ゐのうへ出たけれ。この馬本は信濃の國井上だちにてありければ、井上黑とぞ召されける。今度は河越が取つて院へ進らせたりければ、河越黑とぞ召されける。その後新中納言知盛の卿、大臣殿の御前におはして、淚を流いて申されけるは、「武藏の守にも後れ候ひぬ。監物太郞をも討たせ候ひぬ。今は心細うこそ罷り成つて候へ。されば子は有つて父を討たせじと、敵に組むを見ながら、いかおやなる父なれば、子の討たるゝを助けずして、是迄遁れ參つて候ふやらん。哀れ人の上ならば、いか計りもどかしう候ふべきに、我が身の上に成り候へば、よう命は惜しいものにて候ひけりと、はちに今こそ思ひ知られて候へ。人々の思し召さん御心の中共こそ、愧しう候へ」とて、鎧の袖を顏に押し當て、さめ〓〓と泣かれければ、大臣殿、「誠に武藏の守の父の命に代られけるこそ、有り難けれ。手も利き心も剛にして、好き大將軍にておはしつる人を、あの〓宗と同年にて、今年は十六な」とて、御子右衞門の督のおはしける方を見給ひて、淚ぐみ給へば、その座に幾らも竝み居給へる人々、心有るも心なきも、皆鎧の袖をぞ濡らされける。おち落足小松殿の末子備中の守師盛は、主從七人小舟に乘り落ち給ふ處に、爰に新中納言知盛の卿の侍落足二五九
平家物語中編二六〇に、〓衞門公長と云ふ者、觀鎔を合せて馳せ來り、「あはれ加何に、備中の守の殿の、御舟と流行に見進らせ候へ。參り候はん」と申しければ、船を渚へ棹し寄せたり。大の男の鎧著ながら、馬より船へがばと飛び乘らうに、何かは好かるべき。船は小さし、くるりと踏み返してげり。備中の守浮きぬ沈みぬし給ふ處に、畠山が郞等、本田次郞親經、主從十四五騎鞭鐙を合せて馳せ來たり、急ぎ馬より飛んで下り、備中の守を熊手に懸けて引き上げ奉り、遂に御頸をぞ搔いてげる。生年十四歲とぞ聞えし。越前の三位通盛の卿は、山の手の大將軍にておはしけるが、その勢皆落ち失せ討たれ、大勢に押し隔てられて、弟能登の守には後れ給ひぬ。心靜に自害せんとて、東に向ひて落ち行き給ふ處に、近江の國の住人、佐々木の木村の三郞成綱、武藏の國の住人、玉井の四郞資景、彼是七騎が中に取り籠め進らせて、遂に討ち奉つてげり。その時迄は、侍一人付き奉つたりけれども、是も最後の時は落ち合はず。凡そ東西の木戶口時移る程にも成りしかば、源平數をを盡して討たれにけり。櫓の前逆木の下には、人馬の肉山の如し。一の谷の小篠原、綠の色を引きも替へて、薄紅にぞ成りにける。一の谷、生田の森、山の傍、海の汀に、射られ斬られて死ぬるはむねと知らず。源氏の方に斬り懸けらるゝ頸共、二千餘人也。今度一の谷にて討たれさせ給へる、宗徒の人々には、先づ越前の三位通盛、弟藏人の大夫業盛、薩摩の守忠度、武藏の守知章、備中の守師盛、尾張の守〓定、淡路の守〓房、經盛の嫡子、皇后宮の亮經正、弟若狹の守經俊、その弟大夫敦盛、以下十人とぞ聞えし。軍破れにければ、主上を始め進らせて、人々皆御船に召して、出しでさせ給ふこそ悲しけれ。汐に引かれ風に隨ひて、紀伊路へ赴く船もあり。蘆屋の沖に漕ぎ出でて、浪に淘るゝ舟もあり、或は須磨より明石の浦傳ひ、泊定めぬ楫枕、片敷く袖もしをれつゝ、を使い朧に霞む春の月、心を摧かぬ人ぞなき。或は淡路の瀨戶を押し渡り、繪島が磯に漾へば、波路遙よisに鳴き渡り、友迷はせる小夜千鳥、是も我が身の類ひ哉。行末未だ何くとも、思ひ定めぬかと覺お店に上しくて、一の谷の沖に徘徊ふ舟もあり。斯樣に浦々島々に漾へば、互の死生も知り難し。國を隨ふる事も十四箇國、勢のつく事も十萬餘騎、都へ近付く事も纔に一日の道なれば、今度はさりともと憑もしうこそ思はれつるに、一の谷をも攻め落されて、いとゞ心細うぞなられける。ざい小宰相ざい小宰相けん越前の三位通盛の卿の侍に、見田瀧口時員と云ふ者有り。急ぎ北の方の御船に參つて申しけるは、「君は今朝湊河の下にて、敵七騎が中に取り籠め進らせて、終に討たれさせ給ひ候ひぬ。中にも殊に手を下いて、討ち奉つたりしは、近江の國の住人、佐々木の木村の三郞成綱、武藏の國の小宰相二六一小小宰相
平家物語中編二六二住人、玉井の四郞資景とぞ、名乘り進らせて候ひつれ。時員も一所で討死仕り、最後の御供仕るべう候ひつれども、兼てより仰せ候ひしは、通盛如何に成るとも、汝は命を捨つべからず。如何ゆっ、(税込にもして存へて御行方をも尋ね進らせよと、仰せ候ひし程に、甲斐なき命計り生きて、强顏うこそ是迄參つて候へ」と申しければ、北の方兎角の返事にも及び給はず、引き被いてぞ臥し給ふ。一定討たれ給ひぬとは聞き給へども、若し僻事にてもやあるらん、生きて歸らるゝ事もやと、二三日は白地に出でたる人を、待つ心地しておはしけるが、四五日も過ぎしかば、若しやの賴も弱り果てゝ、いとゞ心細くぞ成られける。只一人付き奉つたりける乳母の女房も、同じ枕に臥し沈みにけり。斯と聞き給ひし七日の日の暮程より、十三日の夜迄は、起きも上り給はず。明くれば十四日、八島へ押し渡る。宵打ち過ぐる迄は、臥し給ひたりけるが、更け行く儘に、船の中靜まりければ、乳母の女房に宣ひけるは、「今朝までは、三位討たれにしとは聞きしかども、實とも思はでありつるが、此の暮程より、實にさもあらんと思ひ定めてあるぞとよ。その故は皆人每に、湊河とやらんにて、三位討たれにしとは云ひしかども、その後生きてあうたりと云ふ者一人もないし。明日打ち出でんとての夜、白地なる所にて、行き合ひたりしかば、何よりも心細げに打歎いて、明日の軍には必ず討たれんと覺ゆるはとよ。我れ如何にも成りなん後、人は如何はし給ふべきなど云ひしかども、軍は何もの事なれば、一定さるべしとも思はで、有りつる事こそ悲しけれ。それを限とだに思はましかば、など後の世と契らざりけんと、思ふさへこそ悲しけれ。直ならず成りたる事をも、日來は隱して謂はざりしかども、餘りに心深う思はれじとて、云ひ出だしたりしかば、斜ならず嬉しげにて、通盛三十に成る迄、子と云ふ者も無かりつるに、哀れ同じうは男子にてもあれかし、淨世の总形見にもと、思ひ置く計り也。さて幾月にか成るらん、心地は如何Lheあるらん、何となき波の上、船の中の栖居なれば、閑に身々と成らん時、如何はし給ふべきなど空云ひしは、はかなかりける兼言哉。誠やらん女は、左樣の時十に九は、必ず死ぬるなれば、愧ぢゐがましううたてき目を見て、空しう成らんも心憂し。靜に身々と成つて後、少き者を育てゝ、亡まき人の形見にも見ばやとは思へども、それを見ん度每には、昔の人のみ戀しくて、思の數は增るとも、慰む事はよもあらじ。終には遁れまじき道也。若し不思議にこの世を忍び過すども、心に任せぬ世の慣ひは、思はぬ外の不思議もあるぞとよ。それも思へば心憂し。目睡めば夢に見え、醒むれば面影に立つぞとよ。生きて居て兎に角に、人を戀しと思はんより、水の底へも入らばやと思ひ定めてあるぞとよ。足下に一人留つて、歎かんずる事こそ心苦しけれども、妾が裝束の有るをば取つて、如何ならん僧にも奉り、亡き人の御菩提をも弔ひまゐらせ、妾が後生をも助け給小宰相二六三
平家物語平家物語中編二六四店員ヘ。書き置いたる文をば、都へ傳へてたべ」など、細々と宣へば、乳母の女房淚を押へて、「幼きはる〓〓子をも振り捨てゝ、老いたる親をも留め置き、遙々と是迄附き進らせて侍ふ志をば、いか計りときんだち何らか思し召され侍ふらん。今度一の谷にて討たれさせ給ふ、御一家の公達たちの北の方の御歎、はナナれか疎に思し召され侍ふべき。必ず一つ蓮へと思し召され侍ふとも、生れ替らせ給ひなん後、六km道四生の間にて、何れの道へか赴かせ給はんずらん。行き逢はせ給はん事も不定なれば、御身を装投げても由なき御事なり。靜に身々と成らせ給ひて、如何ならん岩木の狭間にても、少き人を育て進らせ、御樣を替へ、佛の御名を唱へて、亡き人の御菩提を弔ひ進らせ給へかし。その上都の御事をば、誰見續ぎ進らせよとて、斯樣には仰せられ侍ふやらん。恨めしうも承り侍ふ物哉」とて、さめ〓〓と搔き口說きければ、北の方この事惡しうも知らせなんとや思はれけん、「是は心に代つても推し量り給ふべし。大方の世の恨めしさ、人の別れの悲しさにも、身を投げんなど云ふむたしは、常の習ひなり。されども、左樣の事は、有り難き樣ぞかし。誠に思ひ立つ事有らば、足下に知らせずしては、有るまじきぞ。今は夜も更けぬ、いざや寢ん」と宣へば、乳母の女房、この四五日は湯水をだに、はか〓〓しう御覽じ入れさせ給はぬ人の、斯様に細々と仰せらるゝは、誠にげ思し召し立つ事もやと、悲しうて、「凡そは都の御事も、さる御事にて侍へども、實に思し召し立中編むにれながつ事ならば、妾をも千尋の底迄も、引きこそ具せさせ給はめ。後れ進らせなん後、更に片時存らふべしとも覺えぬ者哉」と申して、御傍に在りながら、些と打ち目睡みたりける隙に、北の方やいづちはら舷へ起き出で給ひて、漫々たる海上なれば、何地を西とは知らねども、日の入るさの山の端五人レミドとcfあを、其方の空とや覺しけん、閑に念佛し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天の戶渡る楫の音、折からhb哀や勝りけん、忍び聲に念佛百返計り唱へさせ給ひつゝ、「南無西方極樂世界の〓主、彌陀如來、むらに本願誤たず、飽かで別れし妹背のなからひ、必ず一つ蓮に」と、泣く〓〓遙に搔き口說き、南無と唱ふる聲共に、海にぞ沈み給ひける。一の谷より八島へ押し渡らんとての、夜半計りの事也ければ、舟の中靜まつて、人是を知らざりけり。その中に楫取の一人寢ざりけるが、この由を見奉つて、「あれは如何に、あの御舟より、女房の海へ入らせ給ひぬるは」と呼はつたりければ、乳母のま女房打驚き、傍を搜れどもおはせざりければ、唯あれよあれとぞあきれける。人數多下りて、取う.り揚げ奉らんとしけれども、さらぬだに、春の夜は、習ひに霞むものなれば、四方の村雲浮れ來おぼろて、被けども〓〓、月朧にて見え給はず。遙に程經て後、取り上げ奉りたりけれども、早この世ねりぬきになき人と成り給ひぬ。白き袴に練貫の二つ衣を著給へり。髪も袴も、しほたれて、取り上げけれども、甲斐ぞなき。乳母の女房手に手を取り組み、顏に顏を押し當てゝ、「などや是程に思し召小宰相二六五
平家物語中編二六六おつまし立つ事ならば、妾をも千尋の底迄も、引きこそ具せさせ給ふべけれ。恨めしうも、只一人留めこがさせ給ふもの哉。さるにても今一度物仰せられて、妾に聞かせ給へ」とて、悶え焦れけれども、早この世に無き人と成り給ひぬる上は、一言の返事にも及び給はず、纔に通ひつる息も、はや絕え果てぬ。去程に春の夜の月も、雲井に傾き、霞める空も明け行けば、名殘は盡きせず思へども、きせながさてしもあるべき事ならねば、浮きもや上り給ふと、故三位殿の着背の一領殘つたるを、引き纒ひ奉り、終に海にぞ沈めける。乳母の女房、今度は後れ奉らじと、續いて海に入らんとしけるを、おろ人々取り留めければ、力及ばず。責めての心のあられずさにや、手づから髮をはさみ下し、故三位殿の御弟、中納言の律師忠快に剃らせ奉り、泣く〓〓戒を保つて、主の後世をぞ弔ひける。昔たるくもたてより男に後るゝ類多しと云へども、様を替ふるは常の習、身を投ぐる迄は有り難き樣也。さればふ초忠臣は二君に仕へず、貞女は二夫に見えずとも、斯樣の事をや申すべき。此の女房と申すは、頭(りかたせの刑部卿範方の女、禁中一の美人、名をば小宰相殿とぞ申しける。上西門院の女房也。この女房十六と申しゝ、安元の春の比、女院法勝寺へ花見の御幸の有りしに、通盛の卿、その比は未だ中みモ宮の亮にて、供奉せられたりけるが、見初めたりし女房也。始めは歌を詠み、文を盡されけれどたまづさも、玉章の數のみ積つて、取り入れ給ふ事もなし。旣に三年に成りしかば、通盛の卿今を限りの中編二六六文を書いて、小宰相殿の許へ遣す。剩へ取り傳へける女房にだに逢はずして、使空しう歸りける道にて、折節小宰相殿は、里より御所へぞ參られける。使空しう歸り參らん事の本意なさに、傍ナールをつと走り通る樣にて、小宰相殿の乘り給へる車の簾の中へ、通盛の卿の文をぞ投げ入れたる。供の者共に問ひ給へば、知らずと申す。さて彼の文を開けて見給へば、通盛の卿の文也けり。車に置くべき樣もなし、大路に捨てんも流石にて、袴の腰に挾みつゝ、御所へぞ參り給ひける。さて宮仕へ給ひし程に、所しもこそ多けれ、御前に文を落されたり。女院これを取らせおはしまし、ぬし急ぎ御衣の袂に引き藏させ給ひて、「珍しき物をこそ求めたれ。この主は誰なるらん」と仰せければ、御所中の友房達、萬の神佛に懸けて、知らずとのみぞ申しける。その中に小宰相殿計り、顏打ち赤めて、つや〓〓物も申されず。女院も內々通盛の卿の申すとは、知し召されたりければ、にほひたちよつつねさてこの文を披けて御覽ずれば、綺爐の烟の匂殊に深きに、筆の立ども尋常ならず。「餘りに人の心强きも、今は中々嬉しくて」など、細々と書いて、奧に一首の歌ぞありける我が戀は細谷川のまろき橋、ふみ返されてぬるゝ袖かななかごろ女院、「是は逢はぬを恨みたる文や。餘り人の心强きも、中々今は怨となん成るものを」中比小野めかたちうつく右エロかたの小町とて、眉目容嚴しう、情の道有り難かりしかば、見る人聞く者、肝魂を傷ましめずと云ふ小宰相二六七
昭和十年六月三十日昭和十年六月二十六日平家物語こそ見給ふべきに、へる人とては、じ道へぞ赴かれける。三位この女房を賜つて、胸の中の思は、返事遊ばされけり。命をば過しけれ。事なし。只賴め細谷川のまろ木橋、雨を漏さぬ業もなし。されども心强き名をや取りたりけん、焼き能登の守〓經、富士の烟に顯はれ、それさへ斯樣に成り給へば、門脇の中納言は、女院、「是は如何にも返事有るべき事ぞ」とて、宿に曇らぬ月星は、互の志淺からず。僧には中納言の律師忠快計り也。袖の上の淚は、ふみ返しては落ちざらめやは嫡子越前の三位の末子、されば西海の浪の上、淚に浮び、終には人の思ひの積とて、いとゞ心細うぞ成られける。〓見が關の浪なれや。野邊の若菜、故三位殿の信とも、業盛にも後れ給ひぬ。舟の中迄も引き具して、御硯召し寄せて、澤の根芹を摘みてこそ、お友人生眉目は幸の花なれば、風を防ぐ便りもなく、忝くも自ら御この女房を今賴み給終に同露の發複不平家物語行製許中編所發印中編終行刷印印發編東京市刷刷行輯平いてふ本家物語中所者者者營業所營業三中野區高根町六番所〓振替東京四五電話中野二八〇電話神田二四東京市神田區錦町一ノ一書地八〇八四番五番番院東京市神田區錦町三丁目十一番地精興東京市神田區錦町三丁目十一番地東京市中野區高根町六番地白鈴三代表者〓井木書鈴赫種院木種編太次次輯定金五拾錢價二六八社郞郞郞部(本製野浦·京東)
いてふ本刊行の辭現今の讀書界が嘗ての諸外來思想偏重より飜つて、漸く自國の過去に於ける產物に對して新たに注目し始めた事は、當然の推移とは云へ喜ぶべき現象である。顧みて現時の我國出版界を見るに、日々發行される書物の如何に多いかは暫く措き、所謂際物に類するものが非常に多く、やゝ見るべきものは〓して高價なる爲一般的でないか、或は豫約出版等により讀者の自由選擇を拒否するが如きものが多い弊院は右の缺陷を除く意味より、此度多大の犠牲を覺悟して、內容·裝幀·價格の點に於ては、絕對に他の追從を許さゞる『いてふ本』の刊行を企てた。蒐むるところ、古典といはす、輕文學といはず、雅といはず、俗といはず、韻文といはす、散文といはず、過去の日本が產める文藝作物の一切はもとより、必ずしも本邦を範圍とせず、漢籍中必讀のものを選み、必ずしも文藝を範圍とせず、經世修養其他の書を撰み、廣く讀書界に提供し以て現下の缺陷を補はむとす。大方の御支持を期待して已まない所以である。昭和十年五月三〓書院主昭和十年六月中葉のもの武經七書全唐詩選全三體詩全曾我物語上下雨月物語全附世間猿諸道聽耳日蓮大士眞實傳全新編水滸畫傳東海道中膝栗毛上下修紫田舍源氏三釋迦八相倭文庫一二いろは文庫上下いてふ本書目古事記全萬葉集上下枕草子全平家物語上中下徒然草全神皇正統記全附吉野拾遺近松心中物全西鶴物全俳諧七部集全蕪村七部集全武將感狀記全和裝の表紙は始めに絲の綴目の處にしつかりと折り目を付けて下さい。さうすれば表紙に皺がよらず耐久力は殆ど永久的です。

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