昨日はあらゆるものが眺められていて、誰も当事者足りえていないのではないかと書いた。
そのことは何故か現在の状況を言い当てているかのようでさえある。確かに眺められていて意味が見いだせない。
例えば『蜘蛛の糸』において蜘蛛はどの位置にいたのかと考えもしない。ありていの蜘蛛なら蜘蛛自身が垂れさがるのであり、もしも糸が切れれば蜘蛛は矢張り地獄の池に落ちるのである。
ただ文字が眺められている。
可能な限り意味からは遠ざかり、ただ眺められている。それは芥川龍之介個人の問題ではない。中島敦の『山月記』の「若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になる」というふりと落ち、大きな物語構造を理解できているものがこの宇宙にただの一人も存在しない。
小説を書くとは殆ど虚無と向き合うことに似ている。
ナンセンスと向き合うニヒリズム。それはトコジラミのために購入されたダニ避けスプレーに似ている。
そこにも大きな窓があり、「さん・せばすちあん」はその一部始終を眺めたのだと確認した後、あなたはきっとこう考えている。なんだかあれ以来少しずつ、彼のニュースに関心がなくなってしまった、彼の言葉は信じたいがやはりおかしい、シーズン途中でまた大問題になって、そこで嘘がばれてけじめが必要になったら、それは何かの穴が確定したくらいの話ではなくなってしまう。その前に少しずつ彼から関心を無くしたい……と。そのくらいこのエピソードには物語性がない。
既に二人目の死にも殆ど驚いていないあなたは、もうこの子供が誰であるとか、この紅毛人の男がどの男なのかを考えもしていない。つまり二人目の紅毛人の友人であるのか、二人目の紅毛人を剣で刺した男なのかを考えない。大きい書棚には本が横向きに並んでいるのか縦向きに並んでいるのか考えない。そういえば紅毛人が阿蘭陀人かどうかということも最初から気にしていなかった。みんな紅毛人というだけで同じ顔に思える。
そしてたぶんあなたは船の中で電燈が使われていることに何も感じなかったはずだ。第一の光景は蝋燭で照らされていた。なのに帆前船だと発電装置はないだろうとは考えもしない。つまりこの船があの帆前船かどうかという問題がどうでもよくなっている。携帯電話のバッテリーの残量を見る。そもそもこの船は子供まで乗せて何をしているのだろう。とあなたは考える。いや、目的など何もありはしない。これはきっと芥川が息抜きに書いたお遊びなのだからと。
わざとらしく誘いながら、けして正体を見せない。まるで正体不明の変態だ。
もはや手紙の中身がどうかなどと考えさせもしない。そこに文字が書かれていたかどうかも怪しいものだ。
露西亜人の半身像は上半身なのか下半身なのか、そんなことももう考えられない。文学もやはり一回きりしか起こりえないものなので、物理学でも歴史学でも扱うことができない。
下半身像などあるわけがないという思い込みはたった一つの例外で崩れてしまうものだ。
それはそもそもただ眺めることしかできないものだったのだ。手紙はいつこの船に届けられ、それから何時間後に彼女のもとにもたらされたのか。それは誤配ではないのか。そして彼女は誤読していないだろうか。
そして今度は蝋燭とも電灯とも書かれない。「不思議な光の落ちた」と書かれてしまう。
そしてようやく、なるほど印象派かと合点がいく。芥川が「印象派以来意味のある画が軽蔑されるように」と言い、三島が「絵は截然と文学からわかれたでしょう」と言った意味がやっと解った。「話のない小説」というのも解った。
今解った。
何だそういうことか。蝋燭から電灯へ。
この人形はまるでロボットだ。
この『撰集抄』にもロボットのようなものが出てくる。しかし芥川の描く人形はロボットのようなもののレベルではない。まるでボストン・ダイナミクスのレベルである。少なくとも飛び掛かるだけでアシモくんよりは未来にある。少なくとも「機械に故障」と書かれているので、ネジと歯車だけのからくり人形ではない。
彼が持っていた人工の花束、この言葉は芥川専用のようで、いわゆる造花の花束を指すようだが、むかしはこれがけして厭味ではなく、それなりのものであったようだ。
しかしここでは人形と合わせた悪戯であろう。女が笑い始めたのは、人形の殺意ではなく人工的な、しかしいかにも人間的な、しかしどこか滑稽な、腰ふりを目撃したからではなかろうか。そのホモセクシャルな景色は「さん・せばすちあん」だけに見えていて、決してあなたには見えない。紅毛人の男の人形と書かれていたのに、それがついていると認めない。
それがついていなければ男の人形ではない。