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八波則吉「漱石先生と私」


漱石先生と私


 夏目鏡子夫人の『漱石の思ひ出』を讀んでゐるうちに、不圖こんな題で何か書いて見たくなつた。漱石先生は私の先生であつた。五高の學生時代先生から英語を教はつた。

 先生が赴任された當時、先づ先生の姓名が私共の好奇心を唆つた。夏目とは珍らしい目だ。春目や秋目冬目は無いのに、夏目とは抑もどんな目だらう? 多分棗といふ果物の事だらう。金之助とは役者の名前の樣だ、などと取沙汰したものだ。

 よく見れば顏面には痘瘡の痕があるが、鼻が高く、髭が濃く、好男子で、而も生粹の江戶つ子と來てゐるから、言語がきびきびしてゐるので、若い者の中で評判が好かつた。

 授業振は、一言にして言へば、粗略であつた。嚙んで含める樣な丁寧な教へ方ではなくて、
「ザ、ネキスト。ザ、ネキスト。」と次から次に讀ませて、不審を聞けば、「どの字が解らない? ······字引を引いたのか?」
 といふ風に反問されるから、滅多に質問もされない。で、其の進むこと進むこと。
 由來、教科書は中途、又は三分の一乃至三分の二位しか濟まないものと極めてゐた。中でも英語の教科書はヂ、エンド(終り)まで讀んだことは臍の緒切つて以來一度もなかつた。
 
 然るに、夏目先生から教はつた一年間に、『アツチツク、フイロソファー』や『オピヤム、イーター』や、『オセロ』など皆ヂ、エンドまで讀んだ。
 其の上『サイラス、マーナー』の半分まで進んだ。教科書を一册終りまで讀むことは、何でもない樣だが、非常に嬉しいものである。私は此の喜びを先生から授けて貰つた。

 進むのは嬉しいが、其の代り試驗前の忙しさといつたらなかつた。同級生が寄つて集つて今更の如く研究會を開いたものだ。
 或個處の如きは、先生が唯素讀されただけで、譯を附けられなかつたのが二三頁も續いてゐるので、誰の本も假名一つ附いてゐない。どう譯するのが當つてゐるか、甲論乙駁容易に決しないのであつた。

 『オセロ』は課外講義で、午前七時から一時間、先生が讀んで下さつた。で、油斷して單語を引かずに行つて、先生の講義に聞き恍れてゐると、
「ミスタM、××といふ字の譯を言つて見給へ。」と來る。
 あわてゝ、「忘れました。」といへば、
「忘れたのではなからう。知らないのだらう。調べて來ないのだらう。」と銳い。

 何でも宴會の場面で、皆が一杯機嫌で囃し立てゝゐるところの歌の文句に、「カナキン、カナキン。」と伊太利文字で書いた言葉があつた。「ミスタ八波、カナキンとは何だ?」私はぬからず、「布の名前でございます。」先生は、「あはゝゝゝ。」と高く笑つて、「これは上出來!」と、又高く笑はれた。後で聞けば、カナキンとは歌の調子で、日本で言へば「コラコラ」とか「ヨイショヨイショ」と言ふのださうだ。お蔭で珍らしく先生の笑ひ聲を聞いた。

 概して生徒の見た先生は嚴肅な態度であつた。教場では、叱られる事はあつても、笑はれる事は殆んどなかつた。で、生徒は恐ろしい先生と思つてゐたが、採點はさう辛くはなかつた。


 『猫』に出て來る愛嬌者の多々良三平事、俣野義郞君は、久留米藩の出身で、私の知人であつたが、當時夏目先生の宅に寄寓してゐた。
「おい、諸君、今日は先生は低氣壓だよ、注意せよ。」と警告する。理由を問へば、「奧さんと喧嘩してゐた。」といふ。

 果して其の日は先生の雲行が惡かつた。先生自身も、あんな文才が潜んでゐるとは氣づかれなかつたらしいが、生徒から見た先生は、ただの英語の先生であつた。

 唯これも後で氣付いた事だが、當時の龍南會雜誌に出された論說の「人生觀」は頗る振つてゐた。又同雜誌に出された俳句の中に、非常に碎けた粹なのが交つてゐた。其の頃の五高生といへば、剛毅朴訥そのものの樣に頑固で、女の「を」の字を言つても、拳固を見舞はれた時代に、こんな淫猥な俳句を載せていゝかしらんと思つた位である。

 私が卒業してから、間もなく先生は洋行された。歸朝後の先生は一高の教授と大學の講師を勤めながら、盛に書かれた。倫敦塔や、ライルの博物館や、猫など。つづいて二百十日や草枕などに熊本の地名や方言などが出るのが嬉しかつた。

 中でも三四郞は自分等の仲間がモデルになつてゐる樣な氣がした。あの嚴肅な先生が、どうしてこんな滑稽な事を書かれるかと、不思議に思ふことさへあつた。

 先生が大學を止めて朝日新聞社へ入社されると聞いて、私は私かに、先生の爲に惜しんだ。たまたま上京したので、先生を駒込の邸に訪うて、
「先生、なぜ大學を止めますか。先生が大學教授として小說を書かれるから、先生の小說が一層有難いのです。先生が新聞社へ入社されゝば、唯の小說家となられます。」と如何にも殘念さうに言つた。

 すると先生はにつこり笑つて、「そんな理由で止めるなら私は止まらない。大學をやめて、小說家になつて食へますかと言つて止める者には、私も目下頗る考へさせられてゐる。讀者の趣味を、果して何年間繋ぎ得るか、これは甚だ心細い。しかし私も男だ。大膽にやつて見る積りだ。」と言はれた。

 今から考へて見れば、私の抗議は幼稚なものであつた。その日、先生は松根東洋城氏と書齋で謠曲を謠つてをられた。見臺には洋書が重ねられてゐた。先生の書齋は洋書だらけであつた。話が『野分』の事に及ぶと、私が、「先生、あの先生と奥さんとの對話の何陽は實に好く出來てゐました。」と言ふと、先生が、「其の書棚の上から二段目の、赤い表紙の本を拔いて見給へ。」
「これですか。」
「うん、其の二卷目の眞中程の、折つてある所を見給へ。」
 言はれた所を開けて見れば、一面にアンダーラインがしてある。分からずながら讀んで見ると、『野分』の對話の個處によく似た對話が四五頁も續いてゐた。

「先生何か、一筆書いて下さい。」と言つて扇を出したら、「やあ、絹張だな。こんな物に書いた事はないが。」と言つて躊躇されたが、東洋城氏も傍から勸められたので、釣鐘もうなるばかりに野分哉と、墨痕美しく書かれた。私の大事な寳物となつてゐる。

 『虞美人草』がむづかしいから、虞美人草講習會を神田あたりで開いたら、相當な聽講者があらうなどといふ笑話も出た。又虞美人草を書いてゐる時に、方々から投書が來たといふ話も出た。實は私も其の投書家の一人であつた。

 『文學論』に誤植が多いから、正誤表を一部づつ購讀者に配つたといふ話も出たので、「私はまだ受取りません。」と言つたら、わざわざ先生の坐右の一部を下さつた。

「文學論の中の用例を、和漢の書物から選んで、通俗的の文學論を書いて見たいと思ひます。」と言つたら、「やつて見給へ。」と許されたが、つい其の儘になつてゐる。

 私が東京へ赴任すると、間もなく先生は逝かれた。雜司ケ谷に先生の英魂をとむらつて日の暮れるのを知らなかつた。昨今鏡子夫人の思ひ出を讀んで、ひしひしと思ひ當る物があつて、小說以上の興趣を覺えてゐる。



[出典]『詩味情味』八波則吉 著教育研究会 1929年



[付記]

 漱石の授業に関しては様々な発言が記録されているが、『野分』のネタ本と「釣鐘もうなるばかりに野分哉」については珍しい記録ではなかろうか。「文學論の中の用例を、和漢の書物から選んで、通俗的の文學論を書いて見たいと思ひます。」という八波則吉の試みが成らなかったことは残念。理論を実践に近づけてみれば焦点的認識から暗黙知、層の理論へと繋がったかも。繋がらないか。


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