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谷崎潤一郎の『卍』をどう読むか26 こんなに信用できない書き手はいない

貴方の言うことは信用できない

 そいから先の出来事は孰どの新聞にもあない委しいに出ましたぐらいで、先生かてよう御承知ですやろし、もうもうそないに管々しいに過ぎ去った日のことお聞かせせんかて、……何や私も、あんまり長いことしゃべったせえかけったいに興奮して、辻褄の合わんこと話したような気イしますねんけど、……ただ新聞に洩れてることいいましたら、あの時第一に「死の」いい出しなさって最後の手筈きめなさったのんは光子さんでしてん。

(谷崎潤一郎『卍』)

 酒鬼薔薇くんの書いた『絶歌』には実に奇妙な点がいくつもある。その中でも最も奇異なのは、太田出版の配慮で殺人シーンがカットされたために、どのようにして生首が拵えられたのかという点が曖昧になり、結果として『絶歌』が本人でなくても書くことが出来る内容になってしまったことである。さらに作者は調子に乗って、生首を黄門に飾った時間とアリバイ、目撃証言の矛盾をいい加減にやり過ごしてしまう。また例の「糸ノコ」「金ノコ」問題、「ハンマー」「金槌」問題、「縦に振り降ろす」「横に振り回す」問題、さらには「右利き」「左利き」問題もうやむやだ。こんなに信用できない書き手はいない。

 いや、いた。谷崎潤一郎がいた。「……ただ新聞に洩れてることいいましたら、あの時第一に「死の」いい出しなさって最後の手筈きめなさったのんは光子さんでしてん」とは、まさに死人に口なしの、責任転嫁ではないのか。そんなもん、云ったもん勝ちやなあ。『絶歌』にあった初めての精通は確かに新聞には書かれていないことだろう。しかしそれは証明もしようもないことだ。新聞にも書かれていないし、本人しか知り得ないけれど、一度証言してしまえば、それが真実であることが客観的に明らかになること、つまり「謎」を明かさねば、その発言が当事者のものである証にはならない。
 しかし柿内園子は何か自分に都合のいいことを言っている。生き残った人間が死んだ人間に責任を負わせている。

 たしかお梅どんに手紙盗まれたこと分った日イに、「こないなもん家い置いといたら危険や」いうて、証拠になるような文殻ふみがら全部私とこい持って来なさいましたのんで、「焼いてしまおか」いいましたら、「いや、いや、あてらいつ何どき不意に死なんならんか分れへんさかい、書き置きの代りにこの記録遺しとこ。どうぞ姉ちゃんのと一緒に大事に預かっといて頂戴」いいなさって、私らにも身イの周りのもん整理しとくようにいいつけたりして、そいから二、三日目エの、十月二十八日の午後一時頃「いよいよ家の様子おかしい、今日帰ったら出られんようになりそうな」いうて来なさって、逃げて掴まえられたりしたらあかんさかい、いっそいつもの部屋で死のいいなさいましてん。

(谷崎潤一郎『卍』)

 そう言えば柿内夫婦が徳光光子から毎晩睡眠薬を飲まされ、次第に衰弱していったという記録はどこかに残されているだろうか。それは新聞に書かれているかどうかは明らかではないものの、柿内夫婦の寝室で行われていた儀式であり、お梅どんは知り得ないことだ。この『卍』において、柿内夫婦が徳光光子に精神的に支配され、禁欲を強いられる下りはとても重要である。それがもし柿内園子の作り話であれば……。

 それに柿内園子の言う通り夫が綿貫栄次郎のような性格になって言ったとしたら、それはドイツ法を納めた最高にいやらしい厄介者である筈だ。その柿内園子の夫が、このままおめおめと自殺してしまうのか?

 綿貫栄次郎はもう作品に顔を出さないのか?

 本当にこれはお梅どんが仕掛けたことなのか?

 柿内園子の作り話ではないのか?

 いや、全ては谷崎潤一郎という信用ならない男の作り話なのだが、その谷崎潤一郎という男が、柿内園子の疑わしさを終局に加速させていることは間違いないのだ。

 さて、ではこの話はどう決着するのか。

 果たして「先生」とは誰なのか。

 柿内園子は何故生き残るのか。

 それはまだ誰にも解らない。

 何故なら、まだ数行残ってるからだ。



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