切支丹の奇蹟はどうした? 芥川龍之介の『尾形了斎覚え書』をどう読むか①
散々芥川作品を読んできて、なおこれらの問題には明確な答えが見つからないように思う。
①何故芥川は切支丹ものを書き続けたのか。
②最後にイエス・キリスト個人について批判したのは何故か。
この二つ目の問いは「イエス・キリスト個人に対する批判と切支丹ものにはどのような関係があるのか」という第三の問いへ還元されうる。
よくよく読めば芥川の切支丹ものにおける信仰の対象はさまざまで、それはさまざまにローカライゼションされたデウス、マリア、あるいはその他の特殊なものとの組み合わせの形をとっている。
未完の『邪宗門』においてはマリア信仰の切支丹ものに姿を寄せながら「天上皇帝」なる女菩薩をあがめる。
あるいは『煙草と悪魔』においてはキリストなどはだしに使われたに過ぎない。
あるいは「えす・きりすと様、さんた・まりや姫に恋をなされ、焦れ死にに果てさせ給うた」とまでねじれた『じゅりあの・吉助』がある。
そうしたキリスト教の扱いのヴァリエーションに私はただただ混乱して来た。そして今日にいたるまで何も核心的なことが述べられていないのである。そしてキリスト教の扱いのヴァリエーションに鑑みると、この『尾形了斎覚え書』の書き出しにおける「切支丹」の文字の意味もまだ曖昧なものである。むしろここにもこれまでとは違う「切支丹」、独自にローカライゼションされたキリスト教が待ち受けているのであろうと勘繰るしかない。
いずれにせよ「邪法を行ひ、人目を惑はし」というからにはご禁制のものには違いない。「私見聞致し候次第を、逐一公儀へ申上ぐ可き旨、御沙汰相成り候段屹度承知仕り候」とはちと固いが、「私が見聞きしたできごとを事細かく役所に申し上げるよう通達が出たことをしっかりと承知しております」という程度の意味であろうか。つまりこれから「私」が切支丹の怪しからん振る舞いを報告するというわけだ。
その「私」が「尾形了斎」であろうことは容易に想像できる。この「尾形了斎」という名はやはり「緒方洪庵」あたりからひねったものであろうか。国立国会図書館デジタルライブラリーにはこの作品と離れた「尾形了斎」はなく「緒方了斎」も「小方了斎」もいない。「了斎」の号を用いる茶人などはあるものの「尾形了斎」のモデルとなるような医者の「了斎」は見つからない。これは先ず芥川の創造した人物と考えてよいだろう。
どうも「私」は医者である。与作の後家の「篠」が娘の「里」を連れてきて大病なので脈診してくれと頼んできたというわけだ。しかしこれでは与作がいつ死んだのか解らない。困ったものだ。
なるほど九歳の子供を十年前に「儲けた」とは、妊娠したという意味か。それで程なく与作が死んだのなら里は与作の顔を知らず、与作は里の顔を知らないというわけだ。
それで篠はシングルマザー十年目のパートタイマーというところか。しかし与作も百姓なら、百姓をしないものかと思うがどうなのだろう。
隣村の伴天連ろどりげとできていると噂になって大変だと。で「泥烏須如来」をあがめ、「小き磔柱形の守り本尊を礼拝」するという切支丹か。それでけしからんということになって村を追いだそうとしていると。「泥烏須如来」は『悪魔』『神神の微笑』、「泥烏須」は『煙草と悪魔』に出てきた。『さまよえる猶太人』『おしの』では「デウス」と書かれた。「泥烏須如来」は切支丹佛法のデウス如来のことであろう。
切支丹佛法だから泥烏須如来となりマリア観音となるわけだ。このような資料を見るとローカライゼションというのは受容する側の勝手な解釈によるものではなく、どこかのあほなコンサルに導かれた布教する側の強引な戦略なのではなかったかと見えてくる。
要するにオウム真理教が桜丘のヨーガ教室「オウムの会」から始まったことを考えると、切支丹佛法といういいとこどりの折衷案はどうにも胡散臭い。この点を突き詰めてしまうとまさに切支丹佛法は邪宗である。現代のどれがとは言わないが、キリスト教を模した怪しげな宗教がかなりおかしなことをしていることを鑑みれば、当時の村人たちの怪しげなものに対する警戒感はむしろ「まともな神経」ではなかったかと思える。
ええと、そういうわけでかさねがさね頼まれたけれども脈は見てやれないと一度はなくなく帰宅させたけれども、再び訪ねてきて「一生のお願い」「医者は病気を治すのが仕事だろうがよ。医師法で診療に従事する医師は、診察治療の求があった場合には、正当な理由がなければ、これを拒んではならないって書いてあるだろう」と恨みがましいことを言ってきたので「そりゃそうなんだけれども、こっちのりくつもあるでのう」と断ったと。
そういえばキリストは数々の奇蹟を行ったが、後のキリスト教徒は、神父や牧師は、直接的には何もしてくれることなく、ただ神に祈ることを強いるようになったのは何故であろうか。
松本智津夫が学んだ阿含宗、『ヨーガ・スートラ』、仙道はいずれも超常的で現実的な力でもって何事かをなしうるという教えであった。平たく言えば超能力が獲得できるという触れ込みのものであった。キリストは奇蹟によって注目された。同じ事が原始仏教、密教、道教にはあり、例えば真言密教ではマントラにより災いを避けることができると信じられていた。
では当時の伴天連はどうだったのだろうか。『邪宗門』の摩利信之法師は念力合戦に応じる。篠は伴天連の祈祷によって救われようとはしなかったのか。
それはまだ誰にも解らない。
何故ならここまでしか読んでいないからだ。
[余談]
五十円の竹輪を二つ買ったつもりが、百円の竹輪を二つ買っていた。竹輪ショックだ。もう二度と竹輪は買わない。
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