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『きりしとほろ上人伝』をどう読むか③ そうやすやすと担がれはしない


 つまり「きりしとほろ」の往生にこそ芥川らしい知的なひねりが見出されねばならないのだ。鎌倉の雑貨屋が関東大震災の津波で流されるような、そうした仕掛けがなくてはおかしい。仕掛けはただ山の男が河で死ぬというレベルの落ちではなく、おそらくはキリストやキリスト教そのものを覆すものでなくてはならない。「呪うキリスト」は既に『さまよえる猶太人』に現れていたものだし、「十歳未満のキリスト」も種本から借りたに過ぎまい。そうであるなら「きりしとほろ」の往生の意味とは何なのか?

 例えば『きりしとほろ上人伝』が「上人」「往生」「馬太の御経」といった形で仏教に翻訳されたローカル化の物語であること、また『羅生門』同様本来誰にも語り得ない形式の物語であることそのものは際立った長所ではない。

 馨しく咲き誇る赤い薔薇はキリスト教の象徴で、その色はキリストが流した血に準えられる。「きりしとほろ」が幼い「えす・きりしと」にポアされて往生する。悪魔の家臣になろうとしたこと以外にはこれという罪もないのに世界の苦しみを担わされ、ポアされてしまう「きりしとほろ」こそが繰り返されたキリストであることは解る。「えす・きりしと」が形式的に「さまよえる猶太人」であることも解る。

 そこから先は解らなかった。

 昨日までは。

 今解った。

 理由は私がルーテル幼稚園に通っているからだ。

 いやしかし「えす・きりしと」は本当に「えす・きりしと」だったのだろうか。

 その疑問は、「われらが父のもとへ帰らうとて。」から生じる。

 日曜学校に通えば「天にまします我らが父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ御国を来たらせたまえ、みこころの天になるごと地にもなさせたまえ……」と天の神に祈ることを教わる。エルサレムは聖地ではあるが神の居場所ではない。「われらが父のもとへ帰らうとて。」という台詞はどこかおかしいのだ。

 そして『きりしとほろ上人伝』においても悪魔(ぢやぼ)がその姿を変えて、切支丹を惑わす者であることが念押しされている。そもそも「えす・きりしと」が「さまよえる猶太人」伝説のように様々な時代の様々な場所をさ迷い歩いたという伝説などなかろう。

 ……ならば「きりしとほろ」が幼い「えす・きりしと」にポアされて往生するという結末は、「きりしとほろ」が幼い「えす・きりしと」に化けた悪魔にポアされて往生する話なのではなかろうか。キリスト教徒のいる様々な時代の様々な場所に現れるものは「さまよえる猶太人」か悪魔である。「えす・きりしと」ではない。キリストを背負う者という名を受けた「きりしとほろ」が悪魔を担いでしまうこと、それが芥川らしい皮肉な知的なひねりなのではなかろうか。

 一昨日『トマスによるイエスの幼児物語』を持ち出して書き抜きながら「確かに『さまよえる猶太人』の呪うキリストはこの幼いイエスに近いイメージではあるけれど、どこからしくないなあ」と感じていた。これまで多くの作品でキリストそのものは「だし」にしか使われてこなかったことを鑑みると、白衣のわらんべをキリストだと信じ込むのはどうなのかと考えられなくもない。無論すべては仏教に翻訳されたローカル化の物語としての『きりしとほろ上人伝』の語り手の信心深い勘違いであり、語り得ない話でもあるから、白衣のわらんべは悪魔であると決めつけられるわけではない。

 我々はいつでも悪魔を担いでその手先になるかもしれない。芥川の懐疑主義はそうやすやすとキリストを担いだりはしない。



[余談]

 ここまで見てきた中で、「えす・きりしと」のふるまいが書かれるのはまだ『西方の人』『続西方の人』『きりしとほろ上人伝』『さまよえる猶太人』だけだ。何れも一般的なキリスト像とは異なる。中でもやはり子供の姿で平安時代以降に現れて人間を殺したとなると、これはいかにも極端過ぎる。欧洲天主教国に流布した聖人行状記の一種に数百年後ロジックエラーを見出せばやはり得意になって当然である。


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