灰皿がないなら喫煙者ではないのかもしれない 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑤
昨日は芥川の映像編集技術、特に場面転換の動画の斬新さ、そして孤高さについて書いた。一日経っても類似の描写が思い出せない。そんなものは本当に芥川しか書いていなかったのではなかろうか。
ここが凄い。「但し斜めに後ろを見せている」でカメラ位置を決めておいてから「明るいのは窓の外ばかり」で窓を捉え、「窓の外はもう畠ではない。大勢の老若男女の頭が一面にそこに動いている」としてカメラを移動して窓の外の景色を捉えている。頭が動いているように見えるのだから、カメラが据えられた位置はかなり高いことになる。「姿」と説明しないで「頭」と描写したことがはっきりわかる。これが「靴」ならこの部屋は半地下になる。
それにしても「さん・せばすちあん」は洞穴から移動してきたのか、元々そこにいたのか、回想なのかとあれこれ考えさせる隙を与えないで、剣呑な景色が描かれる。「大勢の頭の上には十字架に懸った男女が三人高だかと両腕を拡げている。まん中の十字架に懸った男は全然彼と変りはない」とは、「さん・せばすちあん」が自らが十字架に懸かった景色を眺めていることになる。
この自分が自分を眺めるという構図もリアリズムの小説では決して現れないものだ。自分で自分の姿を眺められるようになるのは家庭用ビデオカメラが普及した後のことだ。記憶を辿り過去の自分を眺めるとき、その眺者たる自分自身はたいていほぼ身体性を失いアングルから消え、透明な眼球と化している筈だ。
健三はむしろ過去の空間に身体ごと意識を沈めて動き回る。この奇妙な回想もまた『メトロに乗って』などの映像作品を見るまでなかなか腑に落ちないものかもしれない。おそらくこうした芸当は夏目漱石ほどの一次記憶領域がなければできないことであろう。
その夏目漱石においてさえ、過去の自分を眺める自分をアングルに入れることはできなかったのだ。やはりそんなものが現れるのは少なくとも八ミリフィルムといった映像記憶装置の出現以降のことであろう。
寺を天皇のメタファと見做す人の話を読んでいたら、今度は釈迦に十字を切る人が現れた。もうめちゃくちゃである。マリア観音やデウス如来ならまだ解る。しかしいくら何でも釈迦に、しかも降誕の釈迦に十字を切るのはやり過ぎではなかろうか。
山みちが黒いテエブルに変ってしまうのはやり過ぎだ。しかし芥川はまたアングルで男の「姿」は見切れさせて、まるで真上から撮影するようにトランプと「手」を描写する。「男の手が二つ」とは左右の手であることが「静かにトランプを切った上」で解り、「左右へ札を配り」でここに三人いるのではないかと疑わせる。
ここに?
そこは「山みち」が変化したテエブルを真上から映している絵なので、そのテエブルの脚が何に支えられているのかは定かではない。もう読者が猿のことを忘れかかっているのをいいことに、ここで配られた札を手にするのは、二人ではなく二匹なのかもしれない。
しかしそれはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
[余談]
世界に広がる漱石の『こころ』。
しかしあのことには誰一人気が付いていない。
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