御所解にうもる菫も凍りけり 芥川龍之介の俳句をどう読むか101
竹垂るる窓の穴べに君ならぬ菊池ひろしを見たるわびしさ
遠つ峯にかがよふ雪の幽かにも命を守ると君につげなむ
秋たくる庭にたかむら置く霜の音の幽けさ君知らざらむ
詩の御返事
露芝にまじる菫の凍りけり
震災後に芝山内をすぎ
松風をうつつに聞くよ古袷
久しぶりに姪に会ひ
かへり見る頬の肥りよ杏いろ
[大正十二年十二月十六日 室生犀星宛]
露芝にまじる菫の凍りけり
この句は、
この詩を室生犀星から送られての芥川龍之介の返句ということになるのだろうか。室生犀星にはほかに、
石垣に冬すみれ匂ひ別れけり
石垣のあひまに冬のすみれかな
という句があり、この句に関しては萩原朔太郎が取り上げてこう述べている。
別に「冬すみれ」に関する随筆がある。
この「蕾のまま凍え上つて咲かずにくされてしまふすみれは、まつたく可愛いものの極致だらう」視点から見た室生犀星の詩はリリシズムにみち、かえって芥川の返句はモチーフをそのままにべちゃっとつぶれているように私には思える。随筆までを含めて眺めるのはルール違反かもしれないが、
露芝にまじる菫の凍りけり
この句の後半はすでに言い尽くされていて、「溫かき石垣のあひまなれば」とあるものを「露芝にまじる」と場所を強引に置き換えたところで、新味はない。
仮に現実の冬すみれをデザインに抽象化する意匠であれば、「末梢神経的な先鋭さはあるとしても、ポエヂイとしての真実な本質性がなく、やはり頭脳と才気と工夫だけで造花的に作つた句である」とか「造花的の美術品で、真の詩がエスプリすべき生活的情感の生々しい熱意を欠いてる。」などと萩原朔太郎に云われかねない。
いや、言われている。私ゃ嫌いじゃないけどね。
いや本当に。
尋ぬべき草の原さへ霜枯れて誰に問はまし道芝の露
きえかへりあるかなきかの我身かなうらみてかへる道芝の露
朝ぼらけ置きつる霜の消えかへり暮待つほどの袖を見せばや
故郷を戀ふる淚やひとり行く友なき山の道芝の露
まあ、植物の文様では松葉、狢菊、桜楓文、桐橘と皆花が被ってしまうので露芝としたところが芥川の細工か。
平安の道芝の露という言葉の持っていたはかなさを凍った菫にあてるところが詩人だと思うんだけれどもね。
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