見出し画像

芥川龍之介の『奇怪な再会』をどう読むか⑤ で、肝は?

 なんとなく構成は解ってきた。ふりと落ちも何となく解ってきた。段々「読んだ」感覚に近づきつつある。しかしまだ「読んだ」とは言えない。まだ肝が分からないからだ。

 改めて読み直してみると、やはり『奇怪な再会』は奇怪な話だ。昨日ようやく「私」の立ち位置が見えて、これが実は一人称の小説なのに三人称の小説のように見せかけられていて、お婆さんからKへの伝聞が基礎になった話だというところまでは分かった。

 それがかなり解りにくく仕組まれているということも解った。形式としての『奇怪な再会』の大きなふりと落ちは、「私」の存在がぼんやりと隠されていたところが最後に間接的に「私」の声が聞こえてくるところでもあろうか。しかしこれほどふりと落ちがやかましい小説も珍しい。従って肝が見えにくい小説でもある。

 形式ではなく内容の肝は何?

 そう改めて考えるとやはり先に述べた「私の国の人間は、みんな諦めが好いんです」というふりと「見えない鮮血」の落ちに肝があるように思える。

 しかし今一つ釈然としない。それは牧野が単に「人知れない苦労が多かったろう」とされているからだ。「見えない鮮血」はまさに見えないのであって、そこに何か一つぼんやりとしたものがあるからだ。

 そもそも「見えない鮮血」は「――え、金はどうした?」というように「――え、牧野はどうした?」と聞き返されもしないことから、蓋然性の高い事実として、ロジックが導き出しただけの書かれていないことだからだ。

 Kが見せた古写真には、寂しい支那服の女が一人、白犬と一しょに映っていた。

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

 ここで微かな身体性を獲得しながら女の写真を見た「私」は、お蓮をただ「寂しい支那服の女」と形容する。別嬪とは形容しない。「寂しい支那服の女」を密輸入しようとした牧野には、頭のおかしい本妻がいた。本宅は東京の端っこだ。下手をすれば千葉になる。陸軍一等主計の身でありながら。この牧野と云う男に日本を代表させることもできないし、お蓮に清国を代表させることはできないけれど、やはりここには「帝国軍人片破たるものが、戦争後すぐに敵国人内地へ」というその時代における独特の関係性と云うものがあったのだ。陸軍一等主計とは言え、牧野は誰もがうらやむエリートでもなければ決して幸福でもなかっただろう。勇猛な英雄でもなく、ご清潔でもない。
 
 芥川もそういうものを書こうとしたのだ。
 帝国軍人は敵国人にのぼせ上ったが、敵国人はまだ昔の男を忘れることはできない。なに「私」からみれば敵国人はただの「寂しい支那服の女」なのだ。

 剣舞の次は幻燈だった。高座に下した幕の上には、日清戦争の光景が、いろいろ映ったり消えたりした。大きな水柱を揚げながら、「定遠」の沈没する所もあった。敵の赤児を抱いた樋口大尉が、突撃を指揮する所もあった。大勢の客はその画の中に、たまたま日章旗が現れなぞすると、必ず盛な喝采を送った。中には「帝国万歳」と、頓狂な声を出すものもあった。しかし実戦に臨んで来た牧野は、そう云う連中とは没交渉に、ただにやにやと笑っていた。
「戦争もあの通りだと、楽なもんだが、――」
 彼は牛荘の激戦の画を見ながら、半ば近所へも聞かせるように、こうお蓮へ話しかけた。が、彼女は不相変らず、熱心に幕へ眼をやったまま、かすかに頷いたばかりだった。それは勿論どんな画でも、幻燈が珍しい彼女にとっては、興味があったのに違いなかった。しかしそのほかにも画面の景色は、――雪の積った城楼の屋根だの、枯柳に繋いだ兎馬だの、辮髪を垂れた支那兵だのは、特に彼女を動かすべき理由も持っていたのだった。 

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

 改めて「戦争もあの通りだと、楽なもんだが、――」というだらしない言葉の揚げ足を取れば、戦争の最中に敵国人の妓館の売春婦を妾にするとはさぞやご苦労なさってということになろうか。戦争、その人類がなしうる最大のデカダンの最中に、敵国人の「寂しい支那服の女」にのぼせ上るほど健全なふるまいはなかろう。実際に牧野も楽ではなかったのかもしれない。しかし牧野は肥っている。

それからまた以前よりも、ますます肥って来た牧野の体が、不意に妙な憎悪の念を燃え立たせる事も時々あった。

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

 牧野は寂しい人間だ。どうもお蓮には敵国人に対する愛情はかけらもない。からからに乾いている。いつもの芥川作品らしく、『奇怪な再会』にも安っぽい愛はない。そして「野暮」と言われるように、金さんもお蓮に殺されていたとしたのなら、どこにも愛はない。ただ幻燈があるだけだ。

 では詩はどこにあるのだろうか?

ここから先は

593字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?