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『さまよえる猶太人』をどう読むか⑤ 即座にやり返す男はいなかった

 それにしても芥川の意地の悪いのは、よくぞというネタを拾ってくることだ。「さまよえる猶太人」伝説は格好のキリスト攻撃のネタである。

 これまで見てきたように「やがて御主の救抜を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました」という「さまよえる猶太人」の主張を拾えば、キリスト自身は救いの御子でもなんでもなくなる。さらにキリスト教を信じても誰も救われないことになる。

 そればかりかよくよく考えてみれば、神に見捨てられたキリストがたまたまつらく当たったヨセフを捕まえて「キリストの呪い」という必殺技を発射してしまったことになる。人を不死にするほどの超能力があれば自分が死ななければ良いものを、八つ当たり的に一人のユダヤ人を犠牲にしてしまう。

 それも「俺に喧嘩を売ったらどうなるか解っているんだろうなと」言わんばかりに、即座にやり返す。

「行けと云うなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待って居れよ。」

(芥川龍之介『さまよえる猶太人』)

 この脅し文句は恐い。

 無論これは伝説であり、磔刑にかかろうとするクリストに、溺れる犬に石を投げるような態度を取った当時の誰かに「罰」を与えたいというキリストびいきの願望が生んだ「無かった話」であるべきなのだろうが、「さまよえる猶太人」伝説は、創作とは区別され、実際に「さまよえる猶太人」が生き続けているというていで語られるものであるため、当時の誰かに「罰」を与えたいというキリストびいきの願望が、逆にキリストを呪いの御子に変えてしまうという、なんとも捻じれた仕掛けを作ってしまう。

 キリストは誰も救わない。キリスト教は「さまよえる猶太人」にしか御主の救抜を与えない。キリストは度を過ぎて絡んて来た奴は呪ってしまう……。

 芥川が描く『さまよえる猶太人』には天主教及びキリストに対する強烈な毒がある。『さまよえる猶太人』の語り手「自分」は、学者としてmms.の中から「ふらんしす上人さまよえるゆだやびとと問答の事」を取り出し、考察する。本人は小論文と言っているが「論」には至っていない。論拠を示して意見を述べる形式にはなっていない。

 第一の疑問、「さまよえる猶太人」は日本に来たか、第二の疑問、なぜ「さまよえる猶太人」ひとりクリストの呪いを負ったのか、という二つの疑問の答えが「ふらんしす上人さまよえるゆだやびとと問答の事」に見られたとするならば、論者は「やがて御主の救抜を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました。罪を罪と知るものには、総じて罰と贖いとが、ひとつに天から下るものでござる」という「さまよえる猶太人」の言葉に対して、罪を罪と知るものがなぜお前一人なのかと問いかけなければならないだろう。

 しかし論者は穿鑿しない。

 このことにより『さまよえる猶太人』は「論」としては立たない。ここに芥川の皮肉屋さんらしさがある。「さまよえる猶太人」は伝説であり、願望なのだ。

 本当はキリストの呪いもない代わりに、「罪を罪と知るもの」はただ一人としていなかったのだ

 だから論者は罪を罪と知るものがなぜ「さまよえる猶太人」一人なのかという馬鹿々々しい穿鑿をしない。そのことで『さまよえる猶太人』は「論」としては立たないが、「さまよえる猶太人」の非存在を指摘することで「罪を罪と知ることの」困難さを指摘している。恐らくその困難さは凄まじいもので、note民が私の本を買うことくらい困難なのだ。その向うに近代文学2.0のはらいそがあることをまだ信じられないとは、どれだけ疑り深く強欲なのか。『さまよえる猶太人』は『強欲な老人の一生』の代わりに書かれた「そうではない別の話」、ある意味では救いの話なのだ。


[余談]

『さまよえる猶太人』に関して物凄く真面目に考えている人がいるけれど、そもそも物語構造を捉えないで「切り取り」で論を進めてしまっているように思う。
 小論文のていで精々考察に留まり、「ふらんしす上人さまよえるゆだやびとと問答の事」は物語に挿入された資料の一部に過ぎないという設定が見えないで、ヨセフの言葉がそのまま芥川の思想みたいになっていないだろうか。

 それだと三島由紀夫なんか手も足も出ないんじゃないのかな。

 

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