見出し画像

しぐるるや犬も小蓑をほしげなり 芥川龍之介の俳句をどう読むか90

時雨るゝや犬の来てねる炭俵

 松尾芭蕉の句の中で犬と時雨の取り合わせはこの二句のみ。

ゆく雲や犬の逃吠村時雨

草枕犬もしぐるゝか夜のこゑ

 芭蕉の句に炭俵の文字は見えない。

 言っていることは解りますか。炭俵集はあれど炭俵の句はない。

 自分の適当な感覚だけで適当なことを言って格好をつけない。そういう態度こそが俳句から最も遠い精神の表れだということです。

 さて犬嫌いの芥川が時雨を避けて我が家に迷い込んだ野良犬をそっと見ている、というこれも翁ぶった句だと云えよう。

 今日は用事があるのでここまで。

客聲三長
元禄1 72-368
庭家翁雪鳴の
席上価諸連歌スル鳥あり花ますすきをの風 其みなるこえすツイむ山〓花規ヽ山をちろ雛の土産を用意て政黨も見らううけのるいつ校様つらく其十〓もそんとちいただの案たてゝ盗花〓芳の必〓〓坡焦まん虫于につらのほの刀〓其十社しえ松代シ幸ほ盗花鳴雪戯翁畫サノ法第を持ってわる神の前政\n〓の〓みの〓~ "3廿十1私ち岩情〓〓花花に〓花規就心見るミズタそう連破薫達我るこれを前對面の俳場を移にしてし雪橇のしない事業芭蕉地其つて五シラヤ盗化之は「言志集」の中の一〓であつて、正岡子規の筆寫にかゝるものである。其十は碧梧桐の兄竹村黃塔、破蕪は即ち鳴雪翁の別號であつた(「正岡子規の人物」參照)
すそそれますうちのうんれるよてしずすしリサソテんだよ幕イアアル凡例本書に收めてあるものは、俳句の評釋が多分を占めて居るが、併し、一般の俳事に渉つた諸種のわが見解も吐露してあるから、一面から見て、近著の「俳句作法」の足らざる所を補ふものともなるつもりである。近來、或は俳句の意義に於いても多少の變化を來たし、新傾向などを云7云するものもあるが、わが玆に說く所は全くそれとは無關係で、一に純美的文學としての俳句に就いてゞあるから、讀者は先づ此の點を承知した上で、熟讀もし〓究の資料ともして貰ひたいと思ふ。本書に收めてあるものゝ內、評譯の多くはかつて「文章世界」に連月揭載したもので、俳話の多くはかつて他の諸種の新聞雜誌に揭載したものを更に修正したものである。されば或はこれを前著「鳴雪俳話」の續として見る。も亦妨げない己西十一月著者識一近著者識
目次「春の日」果の客觀句「春の日」集の主觀句「あらの」の蕪門以外の句「あらの」の蕉門の句「あらの」の雑の句「猿養」の客觀の句「猿養」の主觀の句「炭俵」の月並の句「炭俵」の月並でない句「續猿養」の俗な句「續猿養」の正風の句正岡子規の生涯三二五三九四八六二七三八三九三一〇二-三三五一
子規の初期の句子規の餘情のある句女子の俳句曉臺の句十句園更の句十句一茶の句十句大江丸の句十句太祇の句十句惟然の句十句西鶴の句十句魚貫の句十句夏と句作の快味俳味と實業作句上の思考法一四八一五九一七五一八四一九二二〇三-二二四二三三二四三二五六·二六四·二八一俳句の詩形に就いて世界に唯一なる俳句俳句の本領俳句の將來俳趣味と家庭俳句と宗〓俳句と新文藝美的文學の存在俳句を雖する者に現今の小說に現はれたる男女藤野古白の最期·二九〇三〇〇三〇八三三一六三一九三二八三三九三四八三六二三六九
鳴俳話と評釋雪『春の日』集の客觀句體七部集の中の『春の日』は、しちぶしうかいはるひせいふうかいはつしやうつたいうめい首唱といひ傳へられてをるかの有名な、ふるいけかはずとみづ古池や蛙飛び込む水の音しふうちみこの集の中に見えてゐる。せいふうかいはつしふ正風開發の集ともいふべきもので、せいふう正風句の「日の春」ふるいけ古池や芭蕉の句も、およなにごとさうしき.凡そ何事も創始の際は、じゆんばくしつそ淳撲質素で、かざ飾りもなく、たく〓工みも少ないもので
-あるが、この集は然るとともに、今一つの特色を有つてゐる。それは、客次ぎの集の『曠野』になると却つて主觀的の其の次ざの『猿簑』に行くと、また客觀が多くなつてゐる。而佛話翰評 と觀的の傾きが多いことである。か六廿傾きが多く、また客觀が多くなつてゐる。〓再び客觀が稀になつて、而/して、更に『續猿簑』『炭俵』となると、主觀が重になつてゐる。ひと〓〓其の人々の手許に多く集まつたものを選ぶ尤も、編輯者の異ふ時には、所から、おのづから、それが一つの傾きを有つことゝなるであらうが、づ大體に於て、七部集發兌の順序は、やがて、見られると思ふ。先やがて、芭蕉當時の俳句の變遷ともで、この集は、紙數も僅かで、まで玆には先づ客觀の句を解釋しよう。中から連俳を除けば、俳句は僅かに五六十句に過ぎぬ。け門は松芍藥園の雪さむし舟泉すまゐこれは新年の句である。芍藥園といふのは、或る人の住居の地に此かる名の園があつたものか、或は、芍藥が多く植わつてゐる所から、この句にはと用ゐる場合にかく稱へたものか、兎に角、他日花を開くべき芍藥の園は、雪が積つてゐて寒げに見えてゐるといふだけであるが、其の春深く美しきがいこ〓あを〓〓花を開く園は、皚々たる雪景であつて、門の邊りは靑々たる松であると、これは新年の句である。芍藥園といふのは、或は、花を開く園は、此の二つの配合で自然に年の始めの趣が現はれ、しく面白いといふ興も自然に生じてゐる。りやう〓〓と前にもいつた如く、兩々の配合を取つたばかりで、また、何處となく目出度句の「日の春」前にもいつた如く、別に工みといふことは見えて居らぬ。
こ▲鯉の音水ほのぐらく梅白し釋評と話俳羽笠これは春の始めの趣である。時は明け方であるか、また日暮であるか、ま兎に角日の光は無くて、池の水がほのぐらく見えてゐる時、或る響がした〃が、それは鯉の躍り跳ねた音である。それを耳にすると同時に、打見やると、梅が咲いて白かつた。この白き色とほのぐらき水の色と、それへ一つの音を立てた鯉の狀態とが結合されて、此處に早春の庭前などの景色が現が、と、はされて居る。これるヽ修辭上などはいかにも無造作で、質樸なやうに思はれる。船々の小松に雪の殘りけり旦藁川ででもあるか、川ででもあるか、幾艘かの船が、繋いであるのもあれば、ふね〓〓去るのもある。年の始めで、その船々には、門松の如くに、の.けてある。それに、雪がかゝつて殘つてゐる。即ち、最前降つて、う空は霽れてゐるのだが、もと〓〓餘り多くの雪でもないから、あを〓〓消えて了つて、唯だ靑々とした此の小松にのみ殘つてゐる。眺めになつたといふのである。どこか、年の始めに、漕ぎ行き漕ぎ去るのもある。年の始めで、小松の枝をつけてある。それに、即ち、今はも他は大抵それが一つのま.見た有りの儘の趣がどこか、現はれてゐる。そして別段工みを弄した點はない。若竹の·つら踏み垂るゝ雀哉龜旬の『日の者」洞そこに竹があるが、それはまだ今年生えた若竹であつて、それへ雀が留つて、自然しなやか其の重りの爲めに枝がたわゝになつた。其處である。其處
を踏み垂るゝといつたので、一寸瞬間の出來事で、たから、それを見た儘に詠じたものに過ぎぬ。又一つの景色ともなつ話 併と釋評たから、·ト踏み垂るゝといふ中七文字は、この集中では働いた方で、いかにも其處の有樣が、目に見えるやうである。序でにいふが、「踏み垂るゝ」といふ言葉は、自他が混同してゐる。即ち、たその續きからいへば、當然「垂らす」とたそれを「垂るゝ」といつて、竹の方から言葉を立てゝ自他が混同してゐる。即ち、た當然「垂らす」と即ち、「踏み」は雀よりの言葉であるから、その續きからいへば、當然「垂らす」とたでもいはねばならぬそれを「垂るゝ」といつて、竹の方から言葉を立てゝうふゐる。だから、文法の上からいへば不都合であるが、もしもこれを竹の方ふからいつて、「踏まれ垂るゝ」といふか、雀の方からいつて、「踏み垂らす」siといはうものなら、調子が惡く、理窟めいて聞えるで、詩美の感を重んうゐる。だから、文法の上からいへば不都合であるが、もしもこれを竹の方ふからいつて、「踏まれ垂るゝ」といふか、雀の方からいつて、「踏み垂らす」siといはうものなら、調子が惡く、理窟めいて聞えるで、詩美の感を重んずる俳句に於ては、止むを得ず、此く自他を混同して列ねたものであらう。ゐる。で、た一面から解釋して、「踏み垂るゝ」とは、雀が踏んだ、た〓かう自他二段になる言葉を列ねていつたとすれば、なほ又、雀が踏んだ、すると、じ强ち自た竹が垂れたと、た他の混同ともいはれまい。か、兎に角、けいしき形式の定つて、かやうなことは、字數の制限された詩では免れな又これも見慣こなほ云ふ、此の種ぬことで、殊に俳句には許さなくてはならぬことである。又れて來れば、强ち無理な文法とも思はれぬやうになる。のち〓〓しに〓〓みのことは、後々も數々見える例である。なほ云ふ、のことは、帚木の微雨こぼれて啼く蚊哉柳雨句の「日の春」そ其處へ今がた小雨が降つて溜つと搖りこぼれた。その途端に蚊が庭を見ると、帚木が生えて立つてゐる。てゐたのが、そよ〓〓と風でも吹いてか、
とでなこゑだしぜんゆふぐれごろさび飛び出て、啼いて聲を出したといふので、自然に夕暮頃で淋しく、周圍のながさくしやいめっみよなががえん眺めもなく、作者は聊かのことにも目が着き、耳が寄つて、眺め勝ちに緣はたでさまさうく〓しふちうひかくてきたくいな端に出てゐる樣が想像される。集中で比較的巧みに言ひ做された句であら話 俳と釋評う。あかつきなつかげちややおそかな曉の夏蔭茶屋の遲き哉昌圭さくしやそとあるみなつかげおほ1.ところ作者が外を歩いて見た句らしい。をりしも夏、蔭が多く涼しげな所に、よしずはなにしやうぎおちやゝあけがた葭簀張りか何かで、床几の一つ二つも置いてある茶屋があるが、まだ曉方さひときちやわかさまみまで日も射さぬから、人の來て茶を沸しなどする樣も見えず、その儘にしておそかなうたほかひとしうゐしづある。それを遲き哉と歌つたので、われの外、人もなく周圍は靜かで、まそしづなか1.いさこよきかんこゝちちょくた其の靜かの中に等して勵かの量気もばして、すがく〓しい心地でおもむきあらちやくさうなか〓〓たくみちゃしてゐる趣が現はれてゐる。着想は中々巧みに見つけてゐるが、それを茶やおそかなところとことばぶてうはぶきハァ屋の遲き哉などゝいつた所は、何處までも、言葉は不調法たるを免れぬ。せどはたなすびききり背戶畑の茄子黃ばみて蟋蟀旦藁せどはたいへうらてぞくはたモみうむくす背戶畑は家の裏手に屬してゐる畑である。其處を見ると、植ゑた茄子はきすなはきいろ〓んきり〓〓すなだもう黃ばんで、即ち黃色に變じてゐる。そこへ蟋蟀が啼き出したといふのあきはおひ〓〓ふかながあさびゆおもむきみ秋も早や追々弾くなつて、眺めも荒れて寂しくなり行いた趣が見えまたさくしやすまゐしちうゐなかはすゑおもむきみ作者の住居は、市中などでなく、田舍とか、塲末とかの趣も見えてゐいあらま〃ざうさはうるこれも言ひ現はしは先づ無造作な方である。で0また又、句の「日の春」るあさがはすゑりん葬は末一輪となりにけり舟泉
car言葉のまゝの意味だ。即ち、葬も最早未一輪となつて、唯だこればかりが咲き殘つてゐるといふのであるが、この眺めやつた景色の中に、閑にして、且つ寂れつゝあることが感せられる。これも無造作にいつてある釋評と話俳にして、が、何處かに趣は現はれてゐる。山寺に米搗くほどの月夜哉越人しら山寺で、弟子坊主とか下部とかゞ、月明りで米を搗いてゐる。それを米唯だ見た儘のを搗くことの出來るほどの月の明るさであるといつたので。き、景色へ、一寸感じた儘の主觀を加味したものに過ぎぬ、らそれを米景色へ、國馬は濡れ牛は夕日のむら時雨杜ひろ〓〓廣々とした所の一方には馬がゐる、其處へ時雨-元來時雨の性として、野邊の景色と見える。野邊の景色と見える。廣々とした所の一方には馬がゐる、他の一方には其處へ時雨-元來時雨の性として、一面に空を蔽うて降るばかりでなくと年年ははつて、手分は晴れてゐる場合がある-が降馬の方は今滿れてゐるが、牛の方へは夕日が射してゐるといふ眼前の即景牛がゐる時雨の性として、牛の方へは夕日が射してゐるといふ眼前の即景を詠じたのである。むら時雨のむらといふは、此處では、いつもの一叢といふ意の外、日も當り、當り、降つでもゐるといふ、即ち斑のある趣をいつたので、言ひ換へれば、bふ、斑のごくと口和と時間もが色合を分けてゐるといふ意も兼ねてゐる3.0降つでもゐるといふ、旬の「日の春」
『春の日」集の主觀句釋評と話俳ぜんくわい?.前回の續きとして、こんくわいはるひしふしゆくわんかたむかい今回は『春の日』集の主觀に傾いた句を解する。こしぐわんじつさとわ かな腰てらす元日里の眠り哉犀々しんさいあたあじんかうちくつろさまえいさと新歲に方つて、或る人家の打寬いだ樣を詠じたので、「里の」とあるから、いちまちがうかたしやうすまゐぐわんじつひやゝたかのほ市町ではなく、〓方で、百姓の住居などであらう。元日の日も稍高く登つニらつねしよくげふいそがしやうどもひなにごとた頃と見える。常には職業に忙しい百姓共も、この日は何事をもなさず、しんたいよこきうそくときさむじぶんこし身體を橫たへなどして休息してゐる。時は寒さの時分であるが、その腰のくころひさあたこゝろよねむり所には日が射してゐるので、それも溫まつて、快ささうにうと〓〓眠眠をさましんたいせいしんうちくつろしうゐくわうけいおだやへいわ催ふしてゐる樣だ。身體も精神も打寛ぎ、それに周圍の光景も穩かに平和〓さまさうぞう、みあにんにんぐらゐの樣が想像される。そして、これは、見たのは或る一人もしくば二人位でさとねむかなcheよはんさとがたのうかおもおきさいあらうが、「里の眠り哉」といふ言葉に依つて、一般の里方の農家の趣を思のひやつて敍べたものらしい。ぐわんじつつねもちれきじつぞくはうとしさいしよで、この元日といふのは、常に用ゐるのは曆日に屬する方で、歲の最初ぐわんじつつねもちれきじつぞくはうとしさいしよで、この元日といふのは、常に用ゐるのは曆日に屬する方で、歲の最初ひさどうじかねたいやうひかりの日のことであるが、此處ではそれを指してゐると同時に、兼て太陽の光ふくすなはくはぐわんじつぐわんじつのことをも含んでゐる。即ち詳しくいへば、元日の日といふべきを元日とやくげんしうじうへみどこふびみ約言したので、修辭の上より見れば、何處か不備のやうにも見えるが、やせいふうさいしよしつぼくところてんみはり正風最初の感模な所がこれらの點に見えてゐるのである。〓旬の「日の春」けまつおうしむめ今日とても小松負ふらむ牛の夢聽雪りつしゆんにこねひおもむきみ立春の初めての子の日の趣と見える。うしふねむみ牛の臥して眠つてゐるのを見て、
かれつねさま〓〓にもつおらういま彼も常には樣々な荷物を負うて勞してゐるのだが、今は新歲のことであるいさゝらうまねかやすゆめなかものおらうから、聊か勞を免れて休らうてはゐるが、夢の中にはやはり物を負うて勞ところゆめけふねひひと〓〓こまつしてゐる所を夢みてゐるであらう。けれども、今日は子の日で、人々が小松いはその荷物は右の小松であらうと思ひ3)みぎまつおもを引いて祝ひをすることであるから、と語俳釋評14から、やつたのである。たんつねらうどううしけふやすねど單に、常に勞働した牛が今日は体らうて眠つてゐるといふばかりでは、りくつ〓ひけいぶつこまつおゆめところ理窟に止まるが、その日の景物である小松を負うた夢といつた所に、一つしてきしゆみ之どうちくつろうおもむきめでたの詩的趣味が含まれる。そして、何處か打寬いだ上に趣があつて、目出度ところすなはうしひにんじやうともなこヽちげの所がある、即ち、牛もこの日がらの人情に伴はれて、心地よきのみなめでたふうりうむちううしすこぶたくハらず、目出度く風流なる夢中の牛となつてゐるであらうと、頗る巧みに複ざつしかけふことはあまうま雜なことをいつてゐる。然し、「今日とても」などゝいふ言葉は、餘りに旨らず、ざつ雜なことをいつてゐる。いくは言うてなく、わりいみあらとゞま僅に意味を現はしたといふに止つてゐるやうである。せりっさけふくべかな▲芹摘むとてこけて酒なき瓢哉旦藥ベあそでときできごとうたさだじつつこれは野邊へ進びに出た時の出來事を歌つたもので定めて事實でもそせりはっふはづたであらう。其處に芹が生えてゐたから摘まうとしたらば、踏み外して、ころそたちたちへうたんくちn轉げて、其の爲めに携へてゐた瓢簞の口が拔けたか、もしくは割れたかしさけへうたんしつばいところどあて、酒のない瓢簞となつてしまつたといふので。失敗した所に、何處が可かおもむきあきいあらところがぼくじやう笑しな趣があつて、さうして、有りの儘を言ひ現はした所に、雅撲な情もみ見えてゐる。さうして、旬の「日の春」かさはねむてしかな傘張りの眠り胡蝶のやどり哉重五TE〓
かさはしよくにんはるひわむけもして傘を張る職人がゐたが、春の日のことゝて、眠氣を催ふして、手を止め∴こセこてふときいまはからかさぅ~て、船など漕いでゐる。其處へ胡蝶が飛んで來て、今張りつゝある傘の上とまかえいかさはねむまそからかさに止つたのを此くは詠じたのであらう。傘張りの眠つてゐる間の其の傘あホホこてふげんぐわいのこちらひは、宛も胡蝶のやどりになつたわいといつたのだが、言外に、長閑な日のけいしよくあらモしよくにんむざうさむじやきさまおも景色も現はれてゐれば、また其の職人の無造作な無邪氣な樣も思ひやられ話俳釋評とる。かさねむいだこてふつみぎが、「傘はりの眠り」と言ひ出し、「胡蝶のやどり」と續けたのは、右の意みすゐさつすこぶふそくことばたんことば味に推察こそされるけれども、頗る不足した言葉であつて、單に言葉のみかいなんいみすこわかしふで解しては、何の意味やら少しも分らない。此處らがやはりこの集のこのしふところあん集たる所と思はれる。はなきづもゆめすぐかな花に埋れて夢より直に死なむ哉越人はなみうたすべうサイこゝろもちうた花を見て浮かれて、他のことは總て打ち忘れた心持を歌つたものである。±はなみじつこゝろよゆめうつゝわかへいぜいじんじわづらわ今、花を見てあれば、實に快く、夢か現か分らなく、平生の人事の煩しいどいなofこさことなどは何處へ行つたか失くなつてゐる。けれども、一度び此處を去まうきよたちもどいつこはななかしんたいつたならば、復た浮世に立戾ることであるから、寧そ此の花の中に身體がうづさやうゆめししましま埋もれて、左樣な夢から直ぐに死んで了つて、それなりになつて了ひたい。いのちっもつとしあはまんぞくこれでわが命が盡くれば、最も仕合せで滿足であるといつたので。はなしやうはるうところきよくたんいぜん〓〓く花を賞し、春に浮かれてゐる所を極端に言つてゐるが、これは前々の句ことばたせうとヽのおもがぼくきうどよりは言葉も多少整うてゐるやうに思はれる。が、やはり雅撲な氣風は何こそん處となく存してゐる。ことなどは旬の「日の春」が、
釋評と話俳藤の花唯だ俯向いて別れ哉越人これは題に「餞別」としてある。其處に藤の花が咲いてゐる。其の下で今、人と別れるのであるが、また何時達はむうかと長を合む所から、頭を垂れて、面も擧げずして、その別れをなしつゝあるといふので。これには、第頭を垂れて、その別れをなしつゝあるといふので。これには、第一に、藤の花の咲いてゐるにも拘らず、それに眼を注ぐこともなく、頭を下げて俯目勝ちに憂を含んだ所もあるし、また第二には、藤の花が下に垂か、自然に人の俯向くといふ所へ係つて行く團係もあるらしいが、然し「藤の花」といふ初五の言葉と下の十二字との關係などは、どうも不手際に思はれる。れてゐる所から、いが、ど▲蚊一つに寐られぬ夜半ぞ春の暮重五春の暮は暮の春といふも同じことで、即ち舊の三月に當る。意味は、春とき〓〓さ時々整すので寐ようとしてb賑かな春も最早過ぎ去つて、我が身も夜も更けてそれに、周圍も意味は、春の末に、蚊が出て來た。それは唯だ一疋だが、も寐られないといふので。言外に、し自然に寂しいといふ情懷が敍せられてゐる。言外に、それに、淋しく、唯だ一疋の蚊の聲のみが耳に入るといふので、如何にも寂寞な感これも「夜半ぞ」といつて、「春の暮」じがされる。けれども、と同じ時間ことを接近して使つた所などは、巧みな修辭とは思はれぬ。けれども、旬の「日の春」嬉しさは葉隱れ梅の一つ哉杜國19
にはながところすであを〓〓あんたしけうめきみ庭などを眺めてゐる所で、已に靑々と靑葉の茂つてゐる梅の木を見ると、そはなかうめみなみめづうれ其の葉の中に、梅の實の一つ生つてゐるのを見た。それが珍らしく嬉しくかんときなつはじうめみかずめいころ感じたといふので。時は夏の初めで、梅の實もまだ數目に入らぬ頃に、ふみけしきおもしろかんモうめみふかとそれを見つけたので、その景色を面白く感じたのだが、其の梅の實に深じやうよひじやうめづほだものきよくたんうたく情を寄せて、非常に珍らしい堀り出し物でもしたやうに、極端に歌つたとこるしゆしてきじやうくわいしかはうめことばたく所が一種の詩的情懷である。併し、これも、「葉がくれ梅」といふ言葉が巧たくつたつたおもみといへば巧みだが、また拙ないといへば拙なくも思はれる。釋評と話俳20 1.かけそらころもがは篠懸やして行く空の衣川商露まへがむさしばうべんけいとむらおうしうころもがはくわいこおも前書きに、「武藏坊辨魔を弔ふ」としてある。奥州衣川での懷古と思はれこ〓んtexたくろう六びてんこの句は、言葉が願る巧みを弄したやうで、しかも不偏な點があつて、る。この句は、いみぶんとにくまみよしつねしゆうじゆういくにん意味も十分には取り難いが、先づ言つて見ると、かの義經主從十幾人がやまぶしすがたおうしうくだときおもかうなかむさしはうべんけい山伏姿で奧州へ下つた時を思ひやつて、さて、その一行の中の武藏辨慶みすゞかけちやくようとうさんだうくだたびそらころもがはが身に篠懸を着用して、東山道をはる〓〓と下つて、旅の空もはや衣川ちたうちやくくらゐことはとしぜんの地へ到着したといふ位のことであらう。が、この言葉に依つて、自然にやまぶしすがたべんけいめうかどこのうがくうちべんけいすがた山伏姿の辨慶が目に浮び、またそれが何處となく能樂の中の辨慶の姿になくつて來る。くちうりことばすゞかけちやくようで、句中の「して行く」といふ言葉であるが、ごれは、篠懸を着用するのうがくいみふくといふことゝ能樂のシテ、ワキのシテの意味とを二つながら含めてあるやすなはすゞかけちやくようすなはモたびぢゆうである。即ち、篠懸を着用し、即ち、して、其のシテが旅路を行いてゐこヽろもちかOhkたいあしにこいそふさらふるといふ心持となるので、彼のすらり〓〓と能舞藁に足を運んで、「急ぎ候よだこゝろもちみくほどに」などゝ呼び出した心持が見える。けれども、それは、この句の意さて、で、ごれは、句の「日の春」ほどに」けれども、それは、
とかいをよく取つて解したので、もんじうへ文字の上には、ぶんをふおもそれが十分に言ひ終せたとは思釋評と話俳はれないあきひとりことぢはづねかな秋一人琴柱外れて寐ぬ夜哉荷今かんきよますこひだっみミくしづひとりゐ〓閑居增戀」といふ題が附いてゐる。して見れば戀の句で、閑かに一人居こひじやうおもむきよみて戀の情がいやますといふ趣を詠んだものと見える。しゆじんこうふじんろニ、こがひとこの主人公は婦人であるらしい。心に思ひ焦れてゐる人があるが、それき名セナよひくおもまが少しも訪れて吳れぬ。今宵は來るか來るかと思つても、いつも待ちぼうしまあきよひとりそひとまさびけになつて了ふ。で、秋の夜の一人ゐて、其の人を待つにも寂しいから、いさゝこゝろなぐさたことだひことぢたび〓〓はづおも;聊か心を慰むる爲めにと、琴を出して彈けば、琴柱が度々外れて思ふ樣にひねねお彈けぬ。さらばとて、寢るにも寢られず起きてゐる。ほんとにじれつたいしづひとりゐ閑かに一人居それさらばとて、ほんとにじれつたいいうたことぢはづことであるといふ意を歌つたのである。この琴柱外れるといふことが、れるはづところかよおもに思うたことの外れたといふ所に通うてゐるやうに忠はれる。しよなかくわんけいなかきやくくわんけいすこぶこの句も、初五と中七との關係、また中七と脚五との關係などが、こんざつはとんぶんをモぼくこうきみ混雜してゐて、殆ど文をなして居らぬ。どこまゝも素撲な口氣が見える。あん暗すこぶ頗るこの句も、こんざつ混雜してゐて、*ふるいけをきなくこしふうちげんろくかの「古池や」の翁の句は、此の集の中にあるのだが、この句が、元祿ごあはいじんとなしんおうきはぜんくわい以後の或る俳人などの稱ふるごとく、深奧を極めた句でないことは、前回こんくわいかいたならみるゐすゐすわかすなはたと今回とに解した他の句と並べて見て、類推すれは直ぐ分る。即ち、唯だかくゝわんけしきそかんいさしゆくわんおうたす客觀の景色に、其れに感じた聊かの主觀を帶びて歌つたものに過ぎない、しんおうきはおなしふちうくわんとうくわんぢくのもしまた深奥を極めた句ならば、同じ集中でも、卷頭とか卷軸とかに載せとくべつへうしやうたいるくめはさまて、特別の表象がありさうなものだのに、唯だ春の句の十六句目に挾つて句の「日の春」て、
べつなんらたいぐううをかた〓〓もつゐて、別に何等の待遇も受けて居らぬ。旁以てこの「古池」の句に、特別いみすゐちの意味のないことが推知される。おきなほかいづつう翁の句は、他にまだ二句あるが、何れも普通の句であるから、かた〓〓ふるいけふつうおきなみづか〓わか「古池」の句も、普通の句として翁自らも作つたものであることが分る。そ)3、ところわれ〓〓みか、せいふうしゆしやう而して、この普通の句といふ所が吾々から見ると、却つて正風の首唱とわれ〓お支えそんしんひつきやうゆゑわれ〓うたは、なるので、吾々が翁を尊信するのも畢竟この故である。で、吾々が歌ふ俳ふつうべつだうとくParkたまさ〓〓り句は、すべて普通の句であつて、別に道德とか禪味とか、その他樣々の理「古池」の句に、特別話俳釋評となるので、で、ふつうべつだうとくParkたまさ〓〓り句は、すべて普通の句であつて、別に道德とか禪味とか、その他樣々の理()窟ではないのだ。いじやうとミはるひさうまいきふうがばくくたいみ以上說いた如く、この『春の日』は草味の氣風と雅撲な句體が見えるが、ぶんそしやくみこうせいたくかーしゆまたこれを十分に咀嚼して見ると、後世の巧みな句よりは、却つて一種のあぢはてんおも味ふべき點もあるやうに思はれる。『あらの』の蕉門以外の句こんどぶしふうちくかいじゆんじよ今度は七部集の中の『あらの」の句を解する順序になつた。たしふはせをもんじんかけいひときやうりをにり一體この集は、芭蕉の門人の荷分といふ人が、その〓里尾張において、じぶんかんがへあつはせをあづか自分の考をもつて集めたもので、芭蕉はこれに與つてゐなかつたやうであもちろんない〓〓さうだんうしすくなへうめんむくわんる。勿論、內々相談を受けてはゐたかも知れぬが、少くとも表面では無關い.できのちはじはせをなつさう〓〓てき係で、出來た後になつて、始めて芭蕉が『あらの』の名に就いて想像的のじよぶんかゐおなぶしふうちたこふはせをこんひと序文を書いて居る。されば同じく七部集の中でも、他の集は芭蕉一門の人あつひとしふたことはんゐひろと俳〓の句を集めたやうだが、獨りこの集は他と異なり、範圍を廣く取つて、くはじい.5.ひと〓〓もうら句始まつて以來の人々を網羅してある。句の「のらあ」
しふせいふうおこのちねんすうでさこの集もまた、正風の起つて後、まだ年數を經ぬうちに出來たものであまへとはるひ?.そばくうおるから、前に說いた『春の日』に續いて、素樸な風を帶びてゐる。いはゞ、せいふういぜんはいくかたむすなはなにりくつしてんくちあひ正風以前の俳句の傾き、即ち、何か一つの理窟とか洒落とか、口合とかはいくかたむぺんなにごとわいふやうなことをいはねば、俳句でないといふ領きを一變して、何事も我かんあき、えいしゆついまことはけいヨうが國ずることを有りの優に称出する-今の言葉でいへば、餘計な技巧をほどこはいくしんめんぼくてんしゆぎあつ施つぬといろの件性句の眞面曰であといふ〓を工義として集めたもしたがじゆんしよくくはしきさいほどこところいたをしい從つて、潤飾を加へ、色彩を施すといふやうな處にはまだ至つて居あらじたてまだ一鋤だも入れぬぢよあらのこヽろもちらず、ほんの新仕立である、曠野であるといふ心持かしよめいふら『あらの』なる書名を付した。はるひはうかくくわんかたむしふもつばしゆくわんかたむで、『春の日』の方は客に傾いてゐたが、此の集は專ら主觀に傾いてゐかく·わんかならしゆくわんまじじゆんかくゝわんて、たま〓〓客觀があつても必ず主觀がそれに混つてゐる。純客觀のごと話 俳と釋評らず、て、ほとんしかしふおさだつくきは殆どあるかなきかである。而して、この集に收められた發句はすべてうちきぞくざふ七百三十六何の內四季に屬するものが、四百七十二、雜が二百六十四といたすうしほかふろくれんぱいくわんそじつさいげんろくじだいふ多數を占め、外に附錄として連俳が十卷添うてゐる。實際、元祿時代のばんほうふにうだいしよもつせいふういぜんそうかんもりたけそうぎ句集としては、し.一番豐富な龙大な書物で、正風以前の宗鑑、守武、宗祇をはじふるひとなまへでくるゐまげんろく始めとして、古めかしい人さへ名前が出てゐる位であるから、况して元祿たうじひといたはせをはことひと〓〓すくな當時の人に至つては、芭蕉と派を異にしてゐる人々も、少からず取つてあしか而して、る。とかくしよめい兎に角、たすうど多數であるから、いぐわいひとと以外の人を取つて、しよめいないようしふぜんじゆつ書名の『あらの』たる內容を持つた集で、句もまた前述のごとくどこか.いとぐちたにくいまはせをは何處から解するとしても緒が立ち惡い。が、今は芭蕉派としふちうじゆんじよくかこヽろ集中の順序で句解を試みて見よう。句の「のらあ」が、
貞室釋評と話俳是は是はとばかり花の吉野山く勿論貞德派に屬する人であるが、貞室は貞德の子息で、また、芭蕉派に接近した句をも大分詠じてゐて、この集にも四句採用してある。句意は、吉野山へ來て見ると、滿山花だ、その盛んで美しい景色は、何といつて宜しからうか、うの上一言も吐くことが出來ぬ、只だ驚き呆れて、これは〓〓と叫んだばかり、こかくのごとき花の吉野山であるといつたので。たいかにも花の盛りに對して、ひと〓〓正風の人々にあつても、興を發した所を極言してゐて、その濶大なる詩胸は、)か、頭に揭げたのを見ても、餘り見ない所である。で、この集の冐いかに推服したかがる。;花の吉野山といふ風に、唯だこの派の癖として、花のよいといふことゝわれ〓〓我々吉野のよしとをかけてゐる。そこらが家傳をもつてゐる所であるが、, "は左樣な點には强ち目を着けず、寧ろ不問において、〓ふ樣に吐露したものとしてこの句を見る。唯だ驚いた感興を思▲うすぐもりけだかく花の林哉信德信德は梅盛といふ人の門人で、矢張り異派の俳人である。これも花を眺めた感興で、-其處に花咲く林がある。今しも天は薄曇りで、日は幾分旬の「のらあ」か遮ぎられ、か、の樣が却つて品致よく、明らかな景色ではないが、しかもこの、聊か陰翳を帶びた花氣高く眺められるといつたのである。なるほど、餘り日光に照らされて、明らさまな景色よりは、羅を隔てたごとくに、何
處となく奧深く直接せぬといふ所に一種の趣はあるものだ、其處を氣高い話 俳と見立てた所は、確に一つの詩眼が存してゐるやうに思はれる。で、當時釋評の蕉門の句と、何處といつて區別される點はない。或は氣高く花の花は鼻に通はしたのだと、作者自身は思つて居るかも知れぬが、無論是は不問に付したい。鳥籠の浮目見つらむほとゝぎす季吟季吟は有名な連歌師で色養も運歌はこの人に學んだ。この句には、人の杜鵑を飼つてゐるのを見て、この句には、人の杜鵑を飼つてゐるのを見て、(ら求め得て、放ちやる時に作つたといふ意味の前書がある。は鳥籠に飼はれて、嘸ぞ憂い辛い目を見たことであらうが憐れに思つて、其の人か句意じ、今迄ら求め得て、今迄嘸ぞ憂い辛い目を見たことであらうが今ぞ放して、ほと·ぎす杜鵑に申聞けたのである。汝の自由に生活することを許してやると、今日よりいへば、何等の興もないが、然し、口合も加へずに、これだけのことをいつたのは珍らしい。()正風以前に、何等の理窟も其處が「あらの」口合も加へずに、に拾はれた所以であらう。6と我等式が宿にも來るや今朝の春貞室しよじやう,年の始めの抒情の句である。年即ち春は、勿論陰曆で、年立てば春となるから、われ〓〓我々の家へも同じやうに來る。年立てば春となるから、今朝の春といつたのである。年即ち春は、われ〓〓とも、我々も年立つ喜びを共にすることが出來、といふ意味だ。年なり春なりに逢ふのはもとより當然のことであるが、で、旬の「のらあ」新たなる年に逢ふことが出來た其處を擬人的に
しいつて、春には棄てられぬ、年には背かれぬといつた所が即ち詩人の興で言ある。それにわれら式の宿などゝ古風な言葉を使つて、一つの滑稽になつ〇.ら其の派の特色の殘つた所であるが、それがわざとらしい技巧でもいつて、春には棄てられぬ、話俳釋評と一つの滑稽になつらそれがわざとらしい技巧でもた所は、なく、正風に對しても、聊か礙はりとなつて居らぬ。▲手をついて歌申上ぐる蛙かな宗鑑蛙の形は、いつも手をついてしやがんでゐて何か人に語つてゐる樣があ「古今集」貫之のの序に、鶯と蛙とは、歌を詠むといつてある其の故事と彼の形とを取り來つて趣向を成したのである、即ち今るそれに、貫之のの序に、鶯と蛙とは、歌を詠むといつてあるので、即ち今蛙を見ると、蛙を見ると、手をついて歌を申上げつゝあるといふので。今一つ穿てば、経質之に向つて伸せの通りからの斯くくの歌く獸みましたといつて〓とも見做されようかa 1いや味があるといふ人もあらうがき後世の一茶なども、今からいへば、tせう一多少の價がある滑稽といふ點より見この趣向を幾度も繰返してゐれば、る。金凉しさに榎もやらぬ木かげ哉玄旨法印玄旨法印は有名なる細川幽齋のことである。ろ夏の頃、どうも暑いのであるが、どうも暑いのであるが、幸ひ邊りに榎があつて、其の蔭に便つ句の「のらあ」て暑さを凌くことが出來るて暑さを凌くことが出來るそれ故、人に遣ることは出來ぬ、納涼の爲めに何處までも自分が持つてゐて手放しはせぬといふので、そればかりさつ·では餘りに突然たる感があるが察するに、吉田兼好の『徒然草』にある人に遣ることは出來ぬ、に
ゑのきそうじやうきんじよひとうはさぢはらたつひゑのききしま近所の人が噂すると直きに腹を立てゝ、遂に榎も切つて了つおもゑのきそうじやうゑのききしま1.たといふことに思ひよせて、榎の僧正は榎を切つて了つたが、われは涼しとたひときれ、さを取る爲めに人にもやらぬ、切りもせぬといつたのであらうと思ふ。こそうかんいらいはいかいしゆみこつけいうたれは、宗鑑以來の俳諧趣味の滑稽を歌つたものである。ゑのきそうじやう榎の僧正が、話 俳釋評とこれは、あめつちとだしぐれかゐ天地のはなし途絕ゆる時雨哉湖春こしゆんきんしそくしたんきたところみしうゐ湖春は季吟の子息である。時雨が降り來つた處と見えて、周圍がいかにものしづなんおときはせき〓〓ばく〓〓かんも物靜かに、何の音もなく、極めて寂々寞々たる感じであるといふことをきよくげんさだそまへあらしきせつ極言したのである。定めし其の前は嵐なども吹き、季節でもあるから木のはちものおとたしたいきや葉も散り、物音も立てゝゐたのであらうが時雨が來てからばたりと止んすなはてんもはなしやしまはなしきめしぐれで、即ち天地の話をしてゐたのが止んで了つた。その話の切れ目が時雨にしうゐ周圍がいかに2おほぶたとどこなつたといふので。いかにも大きく舞臺を取つてゐるが、さくあとかんひと鑿の痕もあるやうに感じられる。これはこの派の人にしては、どこたせうふ何處か多少斧なしふぎ寧ろ不思議ではないことだ。あをうじろくろかもあか▲靑海や羽白黑鴨赤がしら忠知たゞともしろずみいうめいひとたれした忠知が白炭の旬で有名な人であることは誰も知つてゐる。この何は、唯さま〓〓いろあつすなはあをうみしろくろあかだ樣々な色を集めただけで、即ち靑い海に、これらの白、黑赤の三つ、みづどりかすたんけしきみど水鳥が浮んでゐるといふに過ぎぬ。けれども、單に景色として見て何處かうつくそこしさいようてんおも美しいといへば云はれる。其處がこの築にも採用された點であらうと思ふ。しろずみはるこの句は白火の句などよりは遙かによい。た唯ぁ」旬の『のら
せきこかな▲關越えて此處も藤しろみさか哉釋評と話俳宗祇法師づるひとでくくすこわかかね兼る所もあるがむだん〓〓古い人が出て來る。この句は、少し解り藤しみのヽくにュはせきちめいかいしゃくしやおばみるちかは美濃國の不做の關のほしもの地名たしいふ府釋者があつみそうざほとりたびふはせきまへ146みえてゐる。して見れば、宗祇が其の邊を旅して、不破の關の前でも藤を見せきぢはなさしろうつくながたが、關を越えた此處にも藤の花が咲いて、白く美しく眺められたといつそちめいたらしゆたのではあるまいか其れを地名の藤しろみさかにかけたので、一種のかChhてきしゆだんもてあそけ言葉的の手段を弄んだものらしい。たが、さがあゆくひみやこどりいざのぼれ嵯峨の鮎食に都鳥貞室えどきすみだがはつくまへがきあ江戶に來て隅田川で作つたと前書に有る。みやこどりむか都鳥に向つて、いざこれからみやこのはころちやうどあゆどきさがあゆたぎじん都へ上つて、頃は丁度鮎時であるから、嵯峨の鮎を食べるがよいと、擬人てきたはむみやこどりところみやこふるさと的に戯れたのである。つまり都鳥といふ所から、都は故〓であらうといひ、いそふるさとあゆどきうん〓〓は今は其の故〓の鮎時であるから云々といつたのであらう。これも、この派みやこみふわはせをはそからいへば、都といふ意味が重になつてゐるが、芭蕉派からいへば、其處わすとりむかかるたはむしゆみ늘は忘れて、鳥に向つて輕く戲れたのを主として見ねばならん。いざ言問はくてうかぐらゐせいふうさしつかんの句調を借る位は正風としても差支へぬ。さとびとわたさふらふはしし6里人の渡り候か橋の霜宗因旬の「のらあ」そういんかだんりんはせんせいあさはやのベでみまつしろお宗因は例の談林派の先生である。朝早く野邊に出て見ると、眞白に置いはししいさあしりとさてある橋の霜に、聊か足跡がついてゐる。されば、われより先きに、もはさとびとわたとbおはし·あしあとながや里人が渡つたのであらうえいつたので。新に置く積の足誘を腓め
けしき一つの景色であるが、モこひとりうぎうたこじゃ其處をこの人の流義で診ひの言葉を用ゐた所が興味釋評と話俳になつてゐる。めとほちかとしくれ▲目は遠し耳や近よる年の暮西武ひとていとくもんじんらうねんときさくみことこの人は貞德の門人である。もはや老年になつた時の作と見えて、殊にとしくれひとしほらうたんところみめわるとほめ年の暮といふので、一入その老を嘆ずる所が見える。目は惡くなつて遠目きら、わるそはうちかが利くやうになり、耳は惡くなつて其の方に近よらねばならぬやうになつじんせいをはたんそくはとはたもう人生も終つたことだと歎息したのである。この派としては、遠いちかしゆかうちかとしくれにち近いといふのが一つの趣向で、なは近よる年の暮といつて、一日々々と押つまゆところはせをはたむとんし詰つて行く所へもかけてゐる。けれども、芭蕉派からいへば、唯だ無頓ぢやくおひたんさましゆかんみ着に老を歎じた樣を主として威じることゝ見ればよい。ちはななむわだらゆふべかな散る花も南無阿彌陀佛と夕哉守武じせいくまつごまへがへうめんちはなみこれは辭世の句、末期にと前書きしてある、句の表面は散る花を見て、はなをはなむみだうつごゆふぐれさまもはや花は終りを告げる、南無阿彌陀佛ぢや此の夕暮の樣はいふとだけであんわれはなゆねんぶつぺんをはあるが、暗に、我も花のごとくこれから散り行く、もう念佛一邊となり終ゆふべぐうじこくゆっくくちなむあみだる夕であるといふ意を寓してゐる。それに、時刻の夕と、口に南無阿彌陀ぶつあはしゆこつけい佛をいふことゝがかけ合されて、一種の滑稽になつてゐる。句の「のらあ」『あらの』の蕉門の句しふくふう『あらの』集の句風が、そはく素樸で、かざいさゝかの飾りもなく、ぎこうもり技巧も用ゐず、
あまうたかたむぜんくわいこんくわい有りの俵を厭よに傾いてゐこととは聞回に認いた。今回はこの集のとしふはせをちうしんぢつきんもんていたち芭蕉を中心としての呢近の門弟達や、たひとくふうその他二三の人について、この句風ぞくとみに屬するものを說いて見よう。ましふへんしやかけい先づ、くこの集の編者たる荷分の句に、話 俳を釋評40あさがほそ蕣を其の子にやるな食ふものsまへがきこもことばこれは、前書に、「子を守るものに言ひし言葉の句になりて」とある。べつ別くさくいぐうぜんでClahほつくに句作の意もなく偶然に出た言葉が發句になつたといふので。みさく意味は、作しつこどもこもり者の子供でヾもあらうか、あそところそれを子守などが遊ばしてゐた所が、じその子供モああさがほもてあそが、くち其處に有つた葬をいさくしや弄びにして、き口に入れようとしたので、作者が氣あさがほモ葬を其の子にやるな、すおをつけて、捨てゝ置げば食ふからといつたので。な〓なことばわれ〓〓ときはるほど、こんな言葉は我々も時として吐くであらうし、しぜんはつところすなはしはいく自然に發する所が即ち詩で、俳句であるといへば、なんらたくか何等巧みを借らずこれられいしよう是等は一つの例證に、であらう。さだまをにせをそして、定めしこんなことを申したが、句になつたやうであると芭蕉につおほこでくふうしやうれい告げると、なるほど大いにさうだ、此處で工夫せねばならぬと奬勵もされしふうちのたので、この集の中にも載せたのであらう。じつさいはいくかちところきまたじ實際、俳句としての價値はないが、やるなといつた所で切れて、切字のきそくあたうじせうもんひと〓〓ふこゝる規則にも合つてゐるから、當時の、蕉門の人々が、かういふ風のものを心がへうほんしふこつし懸けたといふ標本で、この一句は、『あらの』集の骨子ともいはれる。そして、つ告げると、旬の「のらあ」な、くさなかな七草をたゝきたがりて泣く子哉俊似
かひとなヽくさたこどもま折節七日で、人が七草を叩いてゐると、子供がその眞似をしたがつて、つひなたはななんらむく遂にむづかつて泣いたといふので。これも唯だ言ひ放したばかり何等の巧かざも飾りもない話 併釋評とあかつきつるベ.あがかな▲曉の釣瓶に上るつばき哉荷今あかつき嘆みづくつるべひきあつけるはなあがき水を汲まうと菊瓶を引上げたら、それに椿の花がついて上つて來たみまでき〓うたすこれも見た儘の出來事を歌つたに過ぎぬ。といふので。はるあめおとうと▲春の雨弟どもを呼んで來よ鼠彈はるあめとかくなが?.そとでできひとたいくつ春の雨は兎角長く續くもので、外出も出來す、人の退屈するものである。さくしやあめたうちこゝたいくつところおとうとゞもはなし作者も、この雨の爲めに内に籠つて退屈な所から弟共と話でもし、で、なんあそカ。めしつかひなんいひ何かの遊びでもしたいと思つたので、それを呼んで來いと召使か何かに吩っ附けた。かu.さいしよくらはるあめおすこれは、荷分の最初の句に比べると、春の雨と置いたのが工夫になつてあとじきったこんばまたおとうとどもゐるが、後の十二文字は全く言葉の儘である。唯だ弟共とどもといつたのじだすこふるきが、この時代よりは少し古く聞えるのみである。が、たけこあんどんさまは▲竹の子に行燈下げて廻りけり長虹たけははとか、たけ竹の子が生えたとか、もう生えたであらうとかいつて、兎に角、竹の子たあんどうさやぶまはりまほできことその爲めに、行燈を下げて數の周圍を廻つたといふので。これも出來事其のいかむざうさはなぜん〓〓きようみ儘を如何にも無造作に言ひ放してあるが、前々の句よりは、いくらか興味おほおもも多いやうに思はれる。旬の「のらちあ
ゆふがほひとしなり夕顏のしぼむは人の知らぬ也釋評と話俳野水ゆふがほゆふがたさしばとき8.はやよいたれなるほど、夕顏は夕方に咲くものミ、凋む時は最早夜に入るから、誰もししまモはなさづきよう知らずに了ふであらう。はなこれも其の花に氣附いた儘の興を言ひ放したのみである。ひざぶしさむかな膝節を包めど出づる寒さ哉鹽車そすはきものまへひざぶしで其處に坐つてでもゐたか、ところませまきもの着物の前から膝節が出る、所間狹な着物つまたでまえたさむこまであつたか、包むと又出る、又出るして、寒くて困つたといふので。いかかざけこゝろもちにも飾り氣のない心持をいつたものである。ところ所いかゆきみろところいざ行かん雪見に轉ぶ所まで芭蕉をりふしゆきだおほゆきばんけんぶつで折節雪が降り出した。大雪でもあるかして、これを一番見物に出たらよきようはつささい、だいぶゆききふ大分雪急に興が發した樣であるいざこれから行つて見ようみちとかくころことろゆ道もなからうけれど、兎に角轉ぶ所までは行かうぢやないかとあひかはむざうさしよじやうおきなおきなどこ(う)いふので。相變らず無造作な抒情であるが、翁は翁だけに、何處となく飄いつてきふうがすぐところ逸的の風雅の勝れた所がある。からうとが積んで、なに何ごと事ぞはなひとなが外モード花見る人の長刀去來旬の「のらあ」じんこうくわいしややはむざうさはうたん、これは人口に胎炙した句であるが、矢張り無造作に放膽にやつてゐる。はなみなかぶはさむらひながかたなさきやさはなみひとふさう花見の中に武張つた士が長い刀を差して來た。優しい花を見る人とは不相
おう應で、おうかじやまところなんことはなみひとながき應で、且つ邪魔になるといふ所を、何の事ぞ、花見る人が長いものを橫たおよいますこはなみさうおうようだいへるには及ぶまい今少し花見相應な容能でもしてゐべきであるといつたたんとがうちをかたはむところまたぶこつぶしので。單に答めたといふ中に、可笑しく戯れた所もあり、又、無骨な武士はなはいがしゆきようおこと花との配合に一種の興も起るのである。釋評と話俳いづまきのふひとけじこ稻妻や昨日は東今日は西其角たれし句意は、この頃稻妻が毎晩する。いごろいなづままいばんこれも誰知らぬものもない句であつて、きのふいでしはラひかけふにしはうひかあきはじめちむざう昨日は東の方で光つた、今日は西の方で光つたと、秋の初めの景色を無造さうた作に歌つたのである。あるひいなづまつまところたじやうをんなぎきのふをとこ或は、相妻の妻といふ所から多情の女なとに擬して昨日はあちらの刀にけふをとこしゆじんじうたかいつき、今日はこちらの男につくと一種の人事を歌つたものであると解するつき、せつ說もあつて、じんこうくわいしやいみはうおもお人口に膾炙してゐるのは、この意味の方に重きを置いてゐるまたなんしよもつさくしやあできごといなづまかうた又、何かの書物に、作者は或る出來事を稻妻に借りて歌つよなんのはうめん假しそれは何であれ、『あらの』に載せた方面からさいとたむざうさうたかいしやくと唯だ無道作に歌つたものとしての解釋に止めやうであるし、たとあるかのやうだが、さいとは、これらは一切問はずに、ねばならぬ。いほよみぢき庵の夜も短かくなりぬ少しづゝ嵐雪かつはじみよみぢ夏の初めの句と見えて、夜がだん〓〓と短かくなるといふ意をいつたにまいばんきみぢなんらかざた過ぎぬ。毎晩々々少しづゝ短かいといふ、これも何等の飾りもない。唯だいほよところわみかんうみはいくすがた庵の夜といつた所に、我が身に感じる上でいつたことが見えて、俳句の姿たせうできも多少出來たのである。旬の「のらあ」

        • 釋評と話俳48以上で見ると、以上で見ると、師弟共にこの頃の句作の傾向が、眞率なる所に傾いてゐたことが見える。併し、ひと〓〓弟らのは、自ら他の人々のと異つて、量に有つてゐる所が見える。務めて文飾を去つて、併し、併し、芭蕉を始め、その眠近の門同じく素樸といふ上にも、趣味は多此處らは爭ふべからざる技倆修養の區別であ芭蕉を始め、らうと思ふ『あらの』の雜の句『あちの』は春夏秋冬の四季と、雜の部とに分れてゐるから、今度はこのか.雜の部の句を解して見よう。かつて『文庫』であつたかと思ふ。この『あらの』集は、かつて『文庫』であつたかと思ふ。佐藤紅綠氏が七部集の批評を書いて、っこの『あらの』集は、一部の書中が判然と二樣に分れてゐる。四季の部は大··お花び〓ね荒つぽくて拙いが、雜の部は大〓ね巧者に出來てゐる。どうも同じ時節に同じ技倆で作つたものとは思はれぬ、或は異なる技倆で作つたものが四季の部は大どうも同じ時或は異なる技倆で作つたものが偶然一部として編輯されたものではあるまいかと、疑つてゐたやうである疑つてゐたやうであるが、この書の序文を見ても、又、全卷を通じて分類の體裁を見ても、一時に出來たものに相違なく、紅綠氏の說の如きものとは思はれぬ。僕は必ずしも雜の部が非常に優れてゐるとは思はぬが、ふ。委曲な複雜なとをいうてゐるとは思ふ。四季の部の句よ旬の「のらあ」りも、〓〓雜の部が委曲で複雜であるさらば、何故、四季の句が荒つぽく拙くて、かといふに、これについては僕に說がある。
          芭蕉以前も芭蕉時代も連俳が本位となつてもと〓〓俳句は連俳が本で、話 俳と釋評ゐた。從つて、芭蕉の重な弟子は號つて連俳をやつた故に、熟練して居つ、た。で、連併は春夏秋冬の節物は勿論。あらゆる人事なり宇市の現象なり、なか〓〓はたらそれを變化の材料としてゐるから、着想も中々働いすべてを取り來つて、それを變化の材料としてゐるから、て言葉にも變化があつた。が、俳句になると、であるから、委曲複雜は其の主とする所でなく、が、俳句になると、所謂發句で、連俳の第一句さら〓〓と連ねるのが一であるから、つの作法であつた。それに、また、後の『猿蓑』の時代ほどに、人の着想こ十七字のみに止めてゐるも人の着想の熟練も出來てゐない時であつたから、自然、のは、簡單な着想となつたのであらう。然るに、然るに、雜の句は、歌はねばならぬから、前書きにあるだけの意味は、〓自然、複雜ともなり委曲ともなる。是非共、十七字の中にで、此處には連俳で得た力を縱に用ゐて、出來る限りの働きをしたものと思ふ。して見xると、此の雜の部だけの力は、當時の人も、それ〓〓持つてゐたので、唯ーだ其れを發揮する機會を四季の句に於てでなく、雜の句で見出したのであして見ると、らうと思ふ。たま〓〓佐藤氏の考にも、一應の理のあることを思ひ出したので、一言辯じて置くのである。灌佛今日の日やついでに洗ふ佛達荷分旬の「のらあ」これは四季の人事の部に属すももので。益も雜の部よすとし及及ば正面の灌佛のことを歌うてないから、其處らが題の廣く働いたものかも知
          れぬ。ふひさだわかしbことはほいづ今日の日と指すは、題でよく分るけれど、下の言葉だけでも略々何れのひさわかほとけあらくわんぶつすななしやくそんうぶゆふ日を指すかは分る。佛を洗ふといへば、灌佛即ち釋尊に產湯を使はすといしぜんおもいたぐわつかねかひれいこふことに自然と想ひ到り、四月八日を指すことが分る。この日は例の如くたんじやうぶつしやかとだうぶゆつかすなはあまちやあら誕生佛の釋迦を取り出して產湯を使はす、即ち甘茶をかけて洗ふことであモついたほとけたちどうやうかうくわす.かったあらるが、其の序でに他の佛達をも同樣に、香火に煤けた身體を洗つてやるあらじゐんたんさう〓〓-洗ふ寺院もあるであらうといふだけで、いはゞ單に想像であるが、そうたこしてきヽようみちよつとききちやくさうれをあつたとして歌つたのだ。此處が詩的興味で、一寸氣の利いた着想で話 俳と釋·評ある。こ駒むか迎つめたびすがたニから▲爪かみも旅の姿や駒迎へ荷兮きぶざくくかいみこれも四季の部に屬する句であるが、此處にあるから解して見る。むかしゝなのかひむさしかうづけとうまきみやこうまさしだてうていこれは昔信濃甲要武藏上野等の牧かち都へ馬を差出して、=よう朝廷の御用にたひくこまひむかゆこまむか立てる。それを曳いて來るのを駒曳きといひ、迎へに行くのを駒迎へといこまむかあみさかせき300で、この駒迎へは逢坂の關ですることゝなつてゐる。いまモひきうまみひづめたてがみたびすがた今、其の曳いて來た馬を見ると、蹄も鬣も旅の姿をしてゐる。といふのゑんごくながだうちうみやこちかひとしぜんかそは、遠國から長い道中を經て都近くまで來るのだから、人も自然疲れて其おもむきようだいあらうまそやうすみの趣が容體に現はれてゐるが、馬にもまた其の樣子が見えてゐるといふのすなはひづめだのゐたてがみみだながで、即ち歸も大六伸びて居るし怒も亂れて長くなつてゐるといゐでだゐきよくうたこれも此の題としては委曲に歌はれてゐる。あ」句の「のら
          百片落梅浮澗水釋評と話俳54水鳥の嘴についたる梅白し野水ぶこれは詩が題になつてゐるが、へん〓〓其の百もある片々たる花片が誰の句であるか知らぬ。其の意は梅の花か谷間の水に浮んでゐるといふの其の意は梅の花の散つて、である。句意は、句意は、水鳥の嘴を見ると、梅の花がついてゐる、それが白いといふの9ので。なるほど、梅の花の多く散つてゐる下に居る水鳥であれば、時に物を餐る場合に、其の花を啄むこともあらうし、又、上から落るのがつく場合もあらう、此時代では巧な着想の一つであるといつてよからう。花下忘歸因美景梅の花がついてゐる、それが白いといふの9の時に物をで。なるほど、もあらう、寝入りなば物引よせよ花の下野水い、だそれは餘り題は、花見に來て花の下に立つて、家へ歸ることを忘れた。(におしい然に見惚れたからすああといふので。これも誰の詩句カ加それに日も暮れかゝる句意は、花見のことゝて、酒も飮んで居ようし、いさうしが、兎に角、此の儘、此處へ、前後を忘れて寢入るかも知れぬが、着る物を引きよせて我が身體にかけて吳れと、たならば、同行の者なり、又は石健の者なりに云つな冒菜で、十才花見の與に浮れた所を歌つ李夫人さうしが、句の「のらあ」▲陽炎のだきつけば我ころも哉越人
          りふじんかんよていちようあいふかをんなそ李夫人は漢の武帝の寵愛深かつた女で、しこ六あ其の死後もどうか再び逢ひたいおほいしたをんなあひとはんごんかうと大に慕はれた女である。けんすると或る人が反魂香といふを献じて、これをたたましひたとすた梵けば魂が立ち戾るといつて進めたので、つたそれを焚いたと傳へられてあるそえいそごと其のことを詠じたもので、あひとすがたみ其處に、かげろふの如く或る人の姿が見えるのだたちますがたきうかうで、いわころも抱きつけば、忽ちありし姿は消え失せて、それは衣桁にかけた我が衣ぶていありさまさう〓〓であつたと、えい武帝はこんな有樣であつたらうとの想像を、あるとして詠じたものである。だたいかてきたううた題に對しては、可なり適當に歌はれてゐる。せうりじん昭陽人話 俳と釋評であつたと、ものむし物ずきや昔の春のまゝならむ越かんせいていきうじんはんきたひじやうちようあいえこれは、漢の成帝の宮人で、斑姫といつて、一度びは非常に寵愛を得たをんなつひちよううしなせうやうでんちうどくきよさびつきひおく女であるが、遂に寵を失つて、昭陽殿中に獨居して寂しい月日を送つたとこうせいかんしかえいびじんいふので、後世漢詩家がよく詠じてゐる美人である。くモせうやうでんうみところモこびじん句意は、其の昭陽殿を打ち見た所にしたので、其處らにある此の美人のいふくてうどなどいまどきはおかしはやりき、こんにち80衣服調度等が、今時流行つたものでなくて、昔の流行の儘を今日も用ゐてむかしちようあいみあまさかひとえいたんゐる。昔は寵愛身に餘つて、盛んであつた人だが、と詠嘆したのである。いまよあありさまむかしとくいありさまうたかなり今、世に逢はぬ有樣と、昔の得意であつた有樣とが歌はれてゐて、可也ゐる。いまよあ今、こうしや巧者である。句の「のらあ」ふら藤ふさ房ほとゝぎすなやときし時鳥啼き止む時を知りにけり一井
          ふぢふさニだいごていたすほうでうほろひとたちうこう藤房は、後醒勵布を住けて北條を亡ぼし、「皮び中興をさせたけれとも、のちみかど:せいぢたう六おほたび〓〓かんげん後帝の御政治が當を得ぬことが多いので、たてまつすゑふ度々諫言を奉つた末遂にフカハいたひとえ、仕を致した人である。この句はそれを詠じたのである。しほとゝぎりなときせじんめう、むねに時鳥の暗く時は世人に賞でられて、しか耳を聳てられるが、併し、何時までななマときしまも啼いてゐずに、いつた啼き止む時はきつぱりと止めて了ふ。何時までも啼けばつひひとあなヤときじぶんな遂に人にも飽かれるから、啼き止める時を知つて、よい時分に啼き止むと、あんふぢふさひのがほんば暗に藤房の身を免れたのを讃美したのである。ぜんたいにほんじんしんかじやういかいかふみはつか全體、日本人の臣下の情としては、如何に怒りに觸るゝも、身を辱しめあくいさほんりやうつひじさつうちじにられるも、飽まで諫めるのが本領で、遂には自殺したり、討死したりするはじしんみちつふぢふさが、しよゐそれで始めて臣たる道が盡きるとしてある。されば、藤房の所爲は、ヒはんじんいぎところぶつだうさかときよなかみだ日本人から云ふと、議すべき所もあるが、佛道の盛んな時で、世の中の亂釋評と話俳られるも、いといつだつきよいんどしゆみくはれるのが厭はしくて、寧そこれを脫去しようとする印度趣味が加はつてゐさしならはうみたびいさいるし、それに、三度諫めて納れられざれば去るといふ支那趣味の方から見ふぢふさしんたいそのよろえずゐぶんうたれば、藤房の進退は其宜しきを得たものとも随分歌はるゝのである。もろなほ師直るし、れば、ひとみいばらかな▲うつくしと人に見らるゝ茨哉長虹もろなほあしかゞたかうじしょうずゐぶんじもちひとわかよ師直は足利尊氏に從つて、隨分一時は用ゐられた人である。和歌も詠みさうたうがくもんふうりうみちくらひとこゝろかんねい相當の學問もあつて、風流の道にも暗からぬ人であつたが、心が奸佞で、ひとざんたあしかゞしまつりごとみだ人を讒したりして、爲めに足利氏の政を亂したこともある。えいひとうつくみいはらとげこの句は、それを詠じたので、人に美しく見られる茨は、棘があつて、ゆだんきづヽきっ油斷すれば傷けられる、氣を附けなければならぬといつたのだ。あ」句の「のら
          ちうしんぐらでくもろなほかほおちしろかの忠臣藏に出て來る師直は、にく〓〓(顏なども怖しく憎なしく作つてあるが、れきしゞやうもろなほたいみやえんやつ歷史上の師直は、よくしつかいまみ一體に雅びて、鹽谷の妻の浴室を垣問見したりするやうちじやうえんをとこな、痴情にして艶な男であつたらしい。おくころ子に後れける頃話 俳釋評とな、かほでみ似た顏のあらば出て見む一踊をどり▲落梧をりほんらしにわかねん人折しも盆の頃に、のこおたち子に死別れて、我身ばかりが殘つたといふ悲みを抒べたものである。ちやうどほんそここぼんをどりモ丁度盆で、なか其處此處で盆踊をしてゐる。bにもしも其の中に、我が子に似たかほまじせ顔の子が交つてゐるなら、みおもかげ切めてはそれなりと見て俤を偲びたいから、しのをどりでみせつじつ踊出て見ようかといふので、ところたくうたいかにも切實な所が巧みに歌はれてゐる。しにわか子に死別れて、ねん人のこおたち我身ばかりが殘つたといふ悲みを抒べつまつゐぜん妻の追善におみなへししでさとぴとたの女郞花死出の里人それ賴む自悅つましわかつゐぜん(おんたへしもろちんはなこれは、妻に死に別れた追善に作つたといふので、女郞花は勿論花のこそりめんつまさしでさとびとめいどしとだが、其の裏面は妻のことを指してゐる。死出の里人とは、冥途をば死でつきそさとすひと出の山などといふから、其處に里があつて住む人もあらう〓見たのだ。わつまヒさとをんなあちこちまよ我が妻が其の里へ行くだらうが、女のことで、彼方此方と迷ふことであみちをしすなはごくらくまゐはかくだらうから、よく道を〓へて、即ち極樂參りするやうに計らつて下さいと、モなかむりやうかむこふくりさうてきうたすべてを理想的に歌つたのだが、其の中に無量の悲みを含めてゐる。ぁ」旬の「のら
          『猿蓑』の客觀の句釋評と話俳のとほはせをいぜんはいくひわ.しやれりSかつても述べた通り、芭蕉以前の俳句は、卑猥な酒落とか、理窟つぽいうがはんまたくちあひてきこつけいす穿ちとか、判じものとか、又は、口合的の滑稽とかいふものに過ぎなかつはせをはいおよこんにちしてきさうとなだまつたたが、芭蕉の一派出づるに及んで、今日からいふ詩的の想を唱へ出し、全きぢくあらたいたく機軸を改むるに至つたのである。およすであはくわいあらけんせつしゆがんが、凡そ、既に有るものを破壞して、新たなるものを建設するが主眼でじげふたいていたうじさんぶつあとみそまつある事業は、大抵、その當時の產物を後から見れば、粗末なものであるつねはせをはじげふおいまたぜん〓〓とはるひが常だ芭蕉一派の事業に於ても亦さうであつた。前々に說いた『春の日』しふあるひかくゝわんあるひしゆくわんともあずさづくモまつや『あらの』などの集は、或は客觀、或は主觀共にまだ粗木造りで、粗末まめがかまためんみたいかんしやうみつせんであつたのを免れぬ。且つ又、一面から見れば大簡にして詳密でなく、淺ぼくしんおうかたむも薄にして深奥でないといふ傾きを有つてゐた。しかたちはいシわりあらはじじげふ併し、かゝる立場に何時までも止まる譯でないから、新たに始めた事業ゆあひだおのづかいまそうすきばうしやうこすなはが續いて行く間には、自ら今一層進んだ希望が生じて來ねばならぬ、即ちえうきうみぎしやうみつしんおうかくして、要求されたものが、右の詳密なもの、深奥なものであつた。もちろんきわうおしやれリつくこつけい勿論、既往に於いても、洒落とか、理窟とか、滑稽とかいふものには、かしやうみつ〓きよくえうみちてきはう可なり詳密なのも、委曲なのもあつたが、それらは要するに皆な知的の方めんしかこんどかんじやうてきしてきはうめんもと面であつた。然るに、今度は、それらを感情的、詩的の方面に求めんとししかぜんじせいこうきのはせをはいふうまたいせいた。而して、それの漸次成功したのを以て、芭蕉の俳風の先づ大成したもモだいへうさるみのとのといはれる。で、其の代表たるべき句は、『猿装』集である。さるみのしいぶ去こくはせたげんじうかんとくもとでき「猿装」集は七部集の一つであつて、殊に芭蕉の嚴重なる監督の下に出水しようだくしふしたしらきよらいはんてうにんにせをた集だ。下調べは去來、凡兆の二人がしたのだが、一句として芭蕉の承諾あらはじじげふ新たに始めた事業すなは即ちた。の「變猿」
          を經ずに入つたものはなかつたらしい。だから、後世この集を以て、芭蕉の著述とさへ唱へられて居る。後に、『炭俵』『續猿装』等の集も出來てゐるが、これらは寧ろ元祿の盛時を過ぎて、既に一種のよくない傾きを有つて來たといつてもよい。尤も、中には、『猿蓑』の系統を追つて、ます〓〓〓た達し、成功した門人もあるが、併し、全體として圓滿なる俳風を歌つたのは、この『猿蓑』集の時といはねばならぬし即ち、この集を以て、芭蕉の事業の最も成功したものと見、だから、話俳と釋評尤も、併し、は、し即ち、この集を以て、芭蕉の事業の最も成功したものと見、其の俳風を知りもし、又、批評もすることが出來るとおもふ。さて、この集中で多くの句を有してゐるのは、編者の一人たる凡兆であ且つ其の多くは、つて、客觀の句であるから、先づそれを說くのが、此のえ集の一面の傾きを說くに最も要を得たものであるが、この人の句は、僕が即ち、其の俳風を知りもし、又、さて、つて、此のこの人の句は、僕がひと〓〓かつて別に解釋したこともあるから、今は態と避けて他の人々のを取る。且つ、今回は、其の中にも、先づ客觀に屬する句を擧げることゝする。今回は、其の中にも、▲山鳥や躑躅よけ行く尾の捻り探丸躑躅が生ひ茂つて花を着けてゐる。其の中を一羽の山鳥が步きつゝあるが、茂りの中を通ることゝて、あちらこちらと、巧みに躑躅をよけて行く度びに尾を捻るといふので。この句を讀むと、躑躅の花が咲き滿ちてゐる中を、山鳥のいかに活動してゐるかゞ、ひの日』や『あらの』等の句と比べると、眼前に見えるやうに思はれる。『春猿」句の1養大に彩色もあり、又活躍してゐるともいへる。
          かいどうはなよるつき海棠の花は滿ちたり夜の月釋評と話俳普船ていぜんながモかいどうきいまぶんはなさこれは庭前の眺めである。其處に海棠の木があつて、今十分に花が咲きをりよるつきてはな滿ちてゐる。折しも夜で、月がそれを照らしてゐる。この花はいかにも、はなえんれいいろひとぢいろしろびじん華やかな蛇麗なる色を有つてゐて、人でいはゞ、肥え地な色白き美人にもどらはだはなつきて比ぶべきものである、そのふくやかな肌ともいふべき花を、月が照らしてところうつくながひとほとんくわうこつゐる所は、いかばかり美しい眺めであらうか、人をして殆ど恍惚たらしめかんことみことばはなまんかいぶんえんる感がある。殊に、「滿ちたり」といふ言葉が、その花の滿開で、十分に艶さま〓かんけいようはいくつね、たんしびなる樣を遺憾なく形容してゐる。俳句とし云へば、常に枯淡な寂しみのみうたいなもつとはんルやっくきよくを歌ふごとく言ひ做すものもあるが、これらは、最もそれに反して積極てきえんれいたいうたいあらかた的に範麗でに歌うたものといつてよからう。かやうな言ひ現はし方も、ここれらは、こしふいたはじみの集に至つて始めて見られるのである。にぐらはるすゞめえんさき荷鞍蹈む春の雀や緣の先土芳い、えんさきにうまつなせくらおをりある家の緣先に荷馬が繫がれてゐて、その背に鞍が置いてある。折しもはるはるなとすゞめおきうまくらろと春で、その春に啼きつゝ飛んでゐた雀が下りて來て、その馬の鞍の上に止ふゐかときおもつて踏んで居るといふので。なるほど、此かることは時としてあらうと思すゞめむじやきうまくらしとところそすゞめとまはれる。雀のいかにも無邪氣で。此の被とも知らず止まつた所、其の復を止うまなんらかんうこつなところいづはるのふからせて馬は何等の感じもなく動きもせず繋がれてゐる所、何れも春の長閑けしきてうわすゞめときたそとまな景色とよく調和してゐる。のみならず、その雀の飛び來つて、其處に止ところしゆのどうちくわつどうえうききつた所は、一種の長閑けき中に活動があつて、要するに、氣が利いて、しかこざかをんが·おもむきうしなも小賢しくなくて、そして溫雅な趣を失はぬものといつてよからう。句の「養猿」しか
          どろがあなはしろみづあぜづた泥龜や苗代水の畔傳び話 俳と釋評史邦ゐなかたんばけしきみなはしろどさい のめはいを〓〓田舍の田圃の景色と見える。まだ苗代時で、稻の芽生えが靑々としてゐあぜどろかめあるあを〓〓る。その畔を、泥のついた龜がそろ〓〓と步いてゐるといふので。靑々とはりないかぜそよ§どろがめきたした針のやうな苗の風などに戰いでゐる樣と、泥龜の汚なげなのがのそりうごはいがふきはおもしろはろすゑちかたんばさまぶのそり動いてゐる配合も極めて面白く、春の末に近づいた田圃の樣も十分めみできごとぶんかくゝわんあけしきbに目に見える。これも一つの出來事で、十分に客觀の或る景色を現はしてる。ゐる句だ。ゐすゑあさすかきつばた▲井の末に淺々凉し杜若半殘ゐどふうゐどなにたながみこの井戶は噴井戶が何がて。起きすいゝさかの流れはしてゐると見そながすゑかきつばたさねことみづとほゆおもむき:其の流れの末に杜若が咲いてゐるが、その根元を水の通つて行く趣が、淺あさすゞこゝちながどく淺涼しといふごとく、いかにも心地よい眺めであるといふので。一讀して、そかすみづおととき〓〓かぜうごむらさきひともとふたもと基産に微かな水の言がしてゐるのや。時々風に働いてゐる業の一本めうかくずゐぶんふくざつけしきいはら眼に浮んで來る。隨分複雜な景色をよく言ひ現はしてゐる。:淺いりあひひゞきなか入合の響の中やほとゝぎす羽紅いまゝでめえいけしき...きこゑはう今迄のは目に映する景色であつたが、これは耳に聞く聲の方になつてゐもはやひくかたいりあひかねひ.どうじひゞきなかほとヽぎする最早日の暮れ方で、入相の鐘が響く、と同時に、その響の中に杜鵑のこゑはうつよふとかねこゑきたばうちひ聲がするといふので、一方に强い太い鐘の聲を聞き、他の一方には、小さするどとりこゑきどうじおこりやうたんしぜんてうわえくして銳い鳥の聲を聞く。この同時に起る兩端のものが、自然の調和を得しゆしてきかんきようひきおこところとらうたてゐて、一種の詩的感興を惹起す。よい所を捉へて詠つたものだ。の「養独」句てゐて、
          さくしやうこうこの作者羽紅は、ひとた人である。せんじやほんてうつま選者凡兆の妻で、theぢよりう當時の女流としては、可なり成功しと話俳釋評さをしかかさふかれのかな▲小男鹿の重なり臥せる枯野哉土芳ふゆくさかのみかれくさうをしかいくとうかさ冬、すでに草の枯れた野と見える、その枯草の上に、牡鹿が幾頭も重なあ七じせつかもとおもごたがひだんきり合つて臥してゐるといふので。其處に、時節の寒氣に赴いて、互に暖氣とあ¥またけものしたさまみどくを取り合うてゐる樣や、又、獸ながら親しげにしてゐる樣も見えて、一讀ぶんあはどうかんおこくして十分哀れな同感を起きしめる句といつてよい。さをしかちひじたくはことばべつこの小男鹿の「さ」は、小さいといふ字だが、唯だ附け加へた言葉で、別だんいみたを.しかかはかさ段の意味はない。唯だ牡鹿といふと變りはないが、重なり臥せるといふにおほちひいうだんおもむきモは、大きなといはんよりは、小さなといふ方が一段と趣が添はる。べつ別は、ぐれくならぶね時雨來や並び兼ねたるいさゝ舟史邦あふみびとさかなモみづうみいさゝといふは近江の琵吾湖で漁れる魚であるから、この句は其の湖のながをりしぐれふきたんきしくんとも眺めと見える。折しも時雨が降つて來たといふのが時雨來やで、時雨と共かぜふモとぎよせんれつたならに風も吹き添ふので、いさゝを漁らうとする漁船が、列を立てゝ並ばうとかぜたあとさきならかしぐしても、風の爲めに後や先になつて、並び兼ねてゐるといふのである。時れヒルトルくきそらもやうしうゐくわうけい雨は俄に來るものであるから、それが來て、空模樣といひ、周圍の光景といさものすごさまがんぜんうかふねあやついひ、聊か物凄くなつた樣が眼前に浮んで來る。のみならず、船を操つてせんどうはたぶみとかくすこぶくわつどうゐる船頭の働らき振りなども見える。兎に角頗る活動した句である。旬の「養猿」入相の梅に鳴り込む響き哉うめなa.かな風麥
          モこうめはやしみかずはしげ其處に梅の林があつて、實が結んでゐる。葉も茂つてゐる。折しも夕方いりあひかねひきもちろんことさら0.きで、入相の鐘が響いて來た。勿論、殊更に此處ばかりに響いて來たのではなにみふさ〓〓むすはまたしげうめはやしむかないが、何となく、實の房々と結んで、藥も亦茂つてゐる梅の林に向つて、もつとつよひ.なかゆお最も强く響いて、その中へもぐり込んで行くやうに思はれるといふので、つよかね0.しげうめきくわんけいあら强き鐘の響き〓茂れる梅の樹との關係が、いかにもよく言ひ現はされて、ときとありさまくわつどうてきうたこれも時に取つての有樣を巧みに活動的に詠つてゐる。と話併釋評で、うぐひすゆきかほかな鶯の雪ふみおとす垣穗哉一桐かきほ垣穂といふのは、はる亡春の初め、たかきくらゐほじべつみ唯だ垣といふ位のことで、穂の字に別に意味はない。かきゆきつもそうぐひ〓ときさへづたま〓〓垣に雪が積つてゐた。其處へ鶯が飛んで來て、囀りもとかくみうことたんあしゆきおと兎に角身を動かした途端に、足が雪を踏んでばら〓〓と落ししたらうが、うぐひすちいみもつくわつどうたかきほたといふので。いかにも爲の小さき身を以て活動して、その爲めに垣穂のゆきこぼさまめみちひけしきなか〓〓びんせふうた雪が零れる樣が目に見える。小さな景色ではあるが、中々敏捷に詠はれてゐる。『猿蓑』の主觀の句ぜんくわいおいさるみのかくゝわんかい前回に於て、『猿装』の客觀の句を解したから、かたむかいしやくおも傾いた句を解釋しようと思ふ。こんどしゆ今度は主として、しゆくわん主觀に句の「養猿」ミごゝろたつぶとん▲寢心や火燈蒲團のさめぬうち其角ふゆふ冬の夜。よひうちたね宵の中は火縫を入れて寢てゐたが、もはやほんたうねむ最早本當に睡ることになつ
          た。とこで、今迄當ってるた火邊を是たどて布國の外へ突き出してn、ぎ、それからまだ火の溫もりのある布圓を其儘引被つて寢る。其心地がいこ·ろかにもよろしい。氣も心も落着いて、次第に睡境に入りつゝあるといふの話 俳釋評と其心地がいかにもよろしい。次第に睡境に入りつゝあるといふので。一寸誰にも有りさうな場合で、そして、隨分複雜なことが、よく短詩形の中に現はれてゐる。五十疊み目はわが手の痕ぞ紙会曾良これは、同じ俳人仲間の竹戶といふ人の紙衾に題するといふ前書のあるしよ〓〓句である。曾良は前方芭蕉の供をして、諸所を遊歷した人だが、思ふに、しこれらの師弟は、いつも紙会などを携帶して旅をしたものと見える。で、この句の趣向は、それから立つたのである。句意は、この紙衾は、かつてで、この句の趣向は、この紙衾は、かつてたそれに疊み目のあるのは、たわが手で疊んだその名た翁から貰つたものだが、それに疊み目のあるのは、わが手で疊んだその名殘である。左樣承知して下さいといふので。かつて翁と共に旅をしたことを思ひ出で、この紙衾を見るにつけても、その時に厚き〓を受けて恩を蒙かつて翁と共に旅をしたことこの紙衾を見るにつけても、つたことが偲ばるゝといふのである。又少しはその旅したことを面目として友に誇る意もあらう。A鉢叩あはれは顏に似ぬものか乙州よな〓〓きそう夜々京の町を瓢を叩いて歩くものゝよな〓〓きそう空也寺から出る法師で、それを、夜家に在つて聞けは、鉢叩きは、旬の「養波」ことである。それを、夜時は冬の季節に限られたもきいかにも哀れに聞える。のであるから、其の周圍の寂しい趣と相和して、定めて哀れツぼい八であらうと思つてゐた所、で、其の法師も、或る日、
          その人の顏をつく〓〓と見たら、意外にも逞しいとか、又は、憎いとかのたび〓〓きはちた〓樣子がらで、かつてより度々聞いた鉢叩きの音とは打つて變つた趣があるして見れば、鉢叩きの哀れは顏には似ぬものであつた、といふので。た.又一面からは、あんな顏でも良れツぼい音を立てるものであるかやと、多ミ少の滑稽も含められてゐる。話 俳と釋評る多六尺も力落しや五月雨其角この句にも前書がある。この句にも前書がある。作者の近傍に、七十餘の老醫があつた。それが沒くなつたので、何か弔ひの句を作つて吳れると註文されたけれども、最はやこ早古稀をも過ぎた人を悲むでもなからうと、其角のことであるから用捨なたび〓〓い(く斷つたが、なほ度々言はれるので、餘儀なく作つたといふ意味である。く斷つたが、:駕籠昇は背が高くて、:駕籠昇は背が高くて、二人ながら同じ丈をしやく〓〓略々六尺もあらうといふ所から六尺々々とい六尺は駕籠昇のこと。昔は、持つたものを擇んだものだ、つでゐた。尤も、尤も、道中筋で一時雇ふのは、別に雲介といふ名があつた。는 て55醫師などは、多少容體振る所から、その老醫も、思ふに六尺を常で、嘸ぞ六尺どもゝ力落しをすることであらかう毎日毎日五月雨で何の用もないからといふので。その五月雨の中n肝心の醫者も沒くなつて、今は暇で、氣力も拔けてゐるといふ趣を歌道中筋で一時雇ふのは、さて、醫師などは、多少容體振る所から、その老醫も、雇にしてゐたものと見える。で、う。に、肝心の醫者も沒くなつて、今は暇で、つたのである。何處までも調〓ひ、愚弄したやうな處のあるのは、やがて旬の「養猿」其角の一種の面目である。い、麥藁の家してやらむ雨蛙智月
          まごあいまへがきくへうめんあまかはづあめふなか孫を愛するといふ前書がある。句の表面は、雨蛙が雨の降る中に、びよいまむぎわらい、(そなかあめさこんとしてゐるが、今に麥藁で家を作つてやらう。其の中で雨を避けて、じぶん。どこほんたうかあいやつ自分の宿りとしたらよからう。本當に可愛い奴であるわいといつたのだげんぐわいまごあいいおのづかあらあまかはづいいが言外に、孫を愛する意が自ら現はれてゐる。雨蛙に家してやらうといこどもなぐさみおもしろ子供の慰みに、んんふのは、そんなことをして見せて、面白がらせるといふ點またこどもあまかはづたとだいじもたもあらうし、又一つは、子供を雨蛙に譬へて、それを大事に守り立てゝやいみらうといふやうな意味もあらう。話 俳釋評とふのは、もあらうし、みやこすすまふとり都にも住みまじりけり角力取去來すまふとりからだおほあらをとこ角力取といへば、身體も大きく、荒くれ男である。それがやはり、みやひとすこきやうとうまじすまく雅びやかな人の住む此の京都に打ち混つて住つてゐるといふのでゆき優しめん一面ひとなかせいこつかくところみSafとこるまためん人中で背も骨格もすぐれた所を見て珍しいといふ所。又一面には、みやこさま〓〓なりはいものすはんくねさうしよくさすがは都で樣々の生業の者も住んでゐて、それ〓〓繁華を裝飾してゐるかんといふ感もあらう。には、おもしろまつがさうすづき面白う松毬燃えよ薄月夜土芳おすすめやどはあひさくまへがき翁の宿をした場合の作といふ前書がある。なにちやわかさけあたたかまどひはちひごといづ何か茶を沸すとか、酒を溫めるとかで、竈か火鉢に火を熾した。何れ佗しやうがいまつがさひろきたきものびた生涯であるから、そこらの松毬を拾つて來て、焚物としたが、、どうか、おもしろたそこらんいおきなきよう축面白く燃え立つて吳れろ、せめて其れでも御寛に入れて、翁の興を助けたをりひうすづつよいまてうわさだごきげんいから、折から日も暮れて、薄月夜の今、それと調和して、定めて御機嫌きよけしきしもてなぅかなに合ふであらうといふので。いかにも涼しく〓げな景色と、師を欵待す心いづ何れ佗旬の「養 a」いから、折から日も暮れて、かなに合ふであらうといふので。
          の、淡白に、酒脫な、懇切な所が見える。話 俳釋評とか〓斯る夜の月も見にけり野邊送り去來そう〓〓これは或る人の送葬の時の句で、折りふし月夜で、曠野にそれを眺めつハつ作つたものと見える。かゝる夜とは即ち野邊送りする夜で、これまで樣さま〓〓さま〓〓樣な夜の月も見て、樣々な景色も見、樣々な感懷も起きたことであるが、今夜はいかにも悲しい哀れな人事に逢つて、自然周圍の光景も悽慘に見える中に、月も亦、いつものとは違つて、はかないやうな光を浴せてゐるといふので。隨分複雜なことが言ひ了せてある。折りふし月夜で、いふので。きモ其春の石ともならず木曾の馬乙州これは、木曾塚に詣でゝの作とあつて、即ち旭將軍義仲のことを思うて詠じたものである。義仲は粟津の深田に馬を乘入れて、流矢に中つて亡つたのであるが、その時の馬は、定めて主人を傷み慕つたことであらうから、aと見えて、その儘、田の中の石となつて了ひさうなものであるが、たれ今、田面を見渡すに、何も見えぬ。さもなかつた何も見えぬ。兎に角將軍の最期は傷ましいことであつたといふので。春といふのは、その最期が壽永三年の正月であつたからである。なほ昔は高貴の人の廟前には、石で人や馬の形を作へて立てるから、この樣な趣向が出來たのであらう。又、松浦佐用姫の事蹟なども、そ句の「養猿」れらのことも思ひやつて、又、事は異ふけれども、多少は材料を與へてゐるかも知れぬ。
          さとびとくそおとたにしかな里人の臍落したる田螺哉釋評と話俳嵐推たにしえ、じつきさうでんぐわいおこおもむきたにし田螺を詠じたのだが、實に奇想天外より落つる底の趣がある。田螺をみこあたさとびとモへそとおとこれは此の邊りの里人が、其の臍を取り落したのではなからうか、ひとへそみおほかたもちろんこつけいてきどうしても人の臍としか見えぬ。大方そんなことであらうと、勿論滑稽的ことはくらゐきよくたんきさうんめづしやらくの語ではあるが、この位に極瑞な奇想は古今にも珍らしい。いかにも洒落はいじんきんくわいていろなる俳人の襟懷が呈露されてゐる。たにし田螺をみ見て、いじやうさるみのしふうちしゆくわんかたむかふくざつあてて以上で、『猿装』集の中には、コ且つ複雑な、或る程主観に傾き、そして、どふかじやうかんのはたらもわう〓〓み度までの深い情感を打べるといふ働きを有つた句が、往々にして見られるわかといふことが分らう。あてて或る程もちろんしふちう勿論、この集中には、きはまれものは極めて稀で、もちろんしふちうさいかくヽわんt.ぶつかじゆんしゆくわんうた勿論、この集中には、一切客觀の事物を借らず、純主觀のみで歌つたきはまれげんろくあひと〓〓しゆつくものは極めて稀で、これらは、元祿に在つては、人々の主として作つたもこうせいいたあまおほわのではなかつた。なほ後世に至つても、これらの句は餘り多くはないが和かさこかくゝわんじぶつかさま〓〓ちやくさううた歌では、少しも客觀の事物を借らずに、樣々なる着想が歌はれてゐる。こはいくわかしけいじやうしぜんくべつしやうりいうれらは、俳句ミ和歌との詩形上より自然に區別の生する一つの理山であらこれらは、おもうと思ふ。『炭俵』の月並の句旬の「俵炭」なにことCafeたおよそ何事でも、シぜんすうきます自然の數の免れぬところである。Cafeたへんせんゆ月日の經つうちにはいろ〓〓と變進して行く。これははいくまたれいさるみのしふ俳句も亦この例に漏れない。『猿蓑』集に
          ほとんくわんぜんゐきたつはいくっおいて殆ど完全の域に達した俳句は、すみだわらしふいたつひこうせい次ぎに『炭俵』果に至つて、遂に後世つきなみはたんちよひらもちろんへんしやの月並派の端〓を開いてゐる。〓はこたいり3)勿論これは、編者たる野坡、孤屋、利牛のにんいくぶんぞくてきはうめんしゆみ三人が、幾分か伶的方面の趣味をもつてゐたからであらうが、又一面には、まためんさるみのふうやうやあとかくしんき『猿装』の風に漸く飽いたところから、ばん兎に角新奇だといふので、一般にもみとおもことはせをそせいぜん認められたのであらうと思ふ。ぢきでしひと〓〓殊に芭蕉までが、其の生前、直弟子の人々へんしふとがしゆつぱんがかくのこときものを絶解するを待あらもず、出版うせてるるのをみたせうしふしゆみあぢみやはり多少はこの集の趣味にも味を持つたものと見える。ぐわんらいしゆみせいめいはいく元來が趣味を生命とする俳句のことであるから、さかひどヘかゝる境を一度は經る吉祥またこうらいひろぞくじんあひてつきなみはことを免れまいし、それに又、後來廣く俗人を相手とする月並派のものが、おほしふのりとすみだわらすみだわら多くこの集に範を取つたところから見ても、『炭俵』にはまた『炭俵』だけのいみとくしよく意味があり、特色があるといはなければならぬ。話 俳と釋評しかしふいへどもみぎけいかうと併し、この集と難もすべてが右のごとき傾向を取つてゐるのではない。はせをはじそたひと〓〓ぜん〓〓かはとらおほうた色飛始め其の他の人なは前々と變りのない趣味を多く歌つてゐる。で、こしふとくしゆかたむきすなはしゆみへんしやにんの集特殊の傾たる、即ちこれまでにない趣味は、編者三人の句において、もつとみこんなまかい最もよく見られるから、今度は先づこれを解する。で、こめしたちうミはとしじざ▲目下にも中の言葉や年の時宜孤屋としじぎしんねんあいさつめしたじぶんち〓ひく年の時宜は新年の挨拶。目下は自分より地位の低いもの。モヒぶんち〓ひくむかつねモまつかろことば其の自分より地位の低いものに向つては、常には粗末な、輕んじた言葉もちさいたんあたひとひときぶんあった10たせうぎしきを用ゐてゐるが、歲旦に方つては、人と人との氣分も改まり、多少儀式めところことばおりつあらたまちうくらゐきけいくはことばく所より、言葉も自から改まつて、先づ中位な、少しは敬を加へた言葉をもちにんげんならとしたをりひとじやうたい用ゐる。これも人間の慣はし、歲立つ折の人の狀態であるといつたので。旬の「俊炭」
          じゞつしやくわいくたじっつなるほど事實社會はこんなものであらうが、この句は、唯だその事實をうがつうぞくでつちごんすけかい穿つたまでヾ、これまで、これだけ通俗な、丁稚にも權助にも直ぐ解されてうところしふあたらて、なるほどと手を拍つやうな所のものはなかつた。こゝらが此の集の新けいかうらしい傾向といつてよい。話佛釋評とて、ちやうまつおやなぎよひかな長松が親の名で來る御慶哉野坡しやうにんいへさまそこほうこうちやうまつこれは、ある商人の家の樣である。かつて、其處に奉公をして、長松々よでつちこひまとやどもとさが々と呼ばれてゐた丁稚が、その後暇を取つて宿元へ下つたが、それがこのとしたひなにべゑなにさくしかつめおやななねんれいき年立つある日、何兵衡とか何作とか鹿爪らしく親の名を名告つて年禮に來にんげんかはゆめんまたた。さても人間も變り行くものであるといつたので。一面には又、あの小ぞうおとなしゆこつけいてきえいたん僧がかくまで大人びたかといふ、一種滑稽的な咏嘆もある。ちやうまつ長松々くなんびとわかこの句も何人にもよく分る、もつとつうぞくてききやうと最も通俗的の興を取つてある。なくさりはひきり七草や化粧しかけて切きざみ野坡しやうぐわつなぬかれなヽくさかゆ正月七日には、例の七草をたゝいて、それを粥に入れることであるが、をりからじんじつせつくをんなしゆじんすこはやおけはひ折柄人日の節句でもあるから、女主人は少し早めに起きて、化粧にかゝつそくざべにうちおつけをかゆにてゐた。その中、齊もたゝき終へて粥を義ることになつたから、則座に紅おけしやうなかだいどころでいなづななゝくごききざおしろいそ七草の切の刻み白粉を其處に置き、お化粧半ばに臺所に出て行つて、養をしたといふので。をんなやさところうたたどつうぞくてきこれも何處までも通俗的である。が女の優しい所を歌つてある爲めに、すくてんまへでつちちやうまつこどもみいさぞくしゆみ子供といふ意味聊か俗趣味を救うてゐる點がある。前の了稚長松の句も、たせうぞくしゆうすらくはきむじやきところが加はるから、少しは無邪氣な所もあつて、多少は俗趣を薄げてゐる。かの「俵炭」旬か
          めしたうんぬん目下云々の句は、つひぷくばう遂に俗一方で、なん〓みち何の救ふ道もない。話 俳釋評と8sはさうぢつばきちり掃き掃除してから椿散にけり野坡いまはさうぢモ八代号ち今掃き掃除をした其のあとへ椿が散つた、にはうつくputsちごみもない庭へ美しい椿が散ちよつとなかぞくじんつたのは、かん一寸眺めがあるといふので。あたきこれも俗人に感じを與へさうな氣のきいた句である。あさめしゆかたひざにははな朝飯の湯を片膝や庭の花孤屋はろあさめしくしまゆ春のことである。朝飯を食つて了つて、もはや湯を飲むところであるが、モじ〓きぜんなかたひざたをり其の時間を、さ少し膳を離れて片膝を立てゝ玉はななが折しも咲いてゐる庭の花を眺われ〓〓めるといふので。たれてなるほど、よくこんなことは我々にもあると、誰しも手うくを拍つ句であらう。さかなやさくらがりおちつきは魚屋まかせ櫻狩利牛はなみいときありさはかないあるひたつれともでか花見に行つた時の有樣である。一家内或はその他の連などゝ共に出懸けゆどこやすそはなみかうたれして行くのであるが、何處らで休んで其の花を見ることか、一向誰も知らぬ。でいりさかなやべんたうそたさいまかいづところが、出入の魚屋に辨當其の他一切は任せてあるから、何れ、それがいゝ所みたおあきやうじやうゆはなみさまを見立てゝ置いて吳れるだらうと、當てもなく興に乘じつゝ行く花見の樣じよまちかたたいかあを叙したものである。町方の大家などには、いかにも有りさうなことで、がてんばんとうてだいおめなるほどと合點する番頭.手代などもあらうと思ふ。句の「俵炭」かきどもどころ柿のなるもとを子供のより處利牛89
          かきこずゑモきもとこどもあつまあそすなは柿が棺になつてゐる其の木の下に子供が集つて遊んでゐる。即ち、よりまさかおとたできどころとしてゐるといふので。眞道それを落して食べることも出來ぬが、なつうまくだものあたところ〓しかも懷かしい旨い果物のある邊りであるといふ所より、あつまあそそこに集つて遊うがどもすミむじやきんでゐるといふ。これもよく穿つてゐるが、子供だけに少しは無邪氣であ釋評と話俳る。はちまきとわかしゆだいこp▲鉢卷を取れば若衆ぞ大根引野坡はたみおほひとだいこんひみなほヽかむ畑を見れば多くの人が大根を引いてゐる。はちまき皆頰冠りとか、鉢卷とかをしいまそにんはちまきとみまへがみわかしうちよてゐる。今、其の一人が鉢卷を取つた。見るとまだ前髪のある若衆で、一Cityなんのなかとほ3みきやうきは寸美男であつたといふので、野中を通りながら打ち見た興であらうが、際ところみこうせいつきなみかねらてんおもどい所を見つけたのは、やはり後世月並家の狙ふ點と思はれる。はつゆきとなりかほをし初雪に隣を顏で〓へけり野坡はつゆきひさむふところでもんぜんたおも初雪の日、寒いので懷手をして門前などに立つてゐたものと思はれる。そこひととほなにがしい.どこたづとなり其處へ人が通りかゝつて、何某の家は何處と尋ねたが、それは隣家であつずゐぶんあモてゆびさ顔で〓へたといふので。をしたので、其のまゝ手で指しもせず、これも隨分有たれわかかほをしふとこでることで、誰にもよく分る句だ。それに、顏で〓へたといふので、懷ろ手すゐていもんぜんしすゐていてきしゆだんこうも推定され、なほ門前などにあたことも知られる。この推定的手段は、後せいつきなみかじやうしゆだん世の月並家の常手段となつてゐる。たので、旬の「俵炭」としくれたがひぜにハイの暮互にこすき錢づかひ野坡かうくわつこすきは狡猾をりとしくれ折しも年の暮で、たれかね誰しも金錢が要るから、ふところなるべく懷か
          だら出さぬやうにと、だとつさきそとたがひら出さぬやうにと、咄嗟を競うて取らうがやるまいと互にやつてゐるといことぞくじやうしかあまろこつきよくたんうたふので。これなどは殊に俗情のみであるが、併し、餘りに露骨に極端に歌'nしてきしつみ越つて少しはか、ぞくききみつてあるので、俗氣の拔けた氣味もある。こゝらが詩的趣味そんざいけんきうシーえうてんの存在を〓究するに於て一の要點である。釋評と話俳ふので。 * * *いじやうみつきなみげんろくすでてほんでき以上で見ると、月並の句は元祿において曰にお手本が出來てゐることがわがはせをせいぜんおこありさまいこだい〓〓そうしやう分る。芭蕉生前に於いてさへ此の有機であつたのだから、以後、代々宗匠よ.しだいきんじつありさまむしなんちふしぎの世となつて、次第に近日のごとき有樣となつたのは、寧ろ何等の不思議またはせをおろうわかつくもない。又芭蕉に於いても自らこそ此くのことき句は作つてゐず、此のしふちうおたかうていらともべつやうとくしよくそな〓すで集中にがいても他の高弟等と共に別樣の特色は価へてゐるとしても既にしふはつかうみといじやうはせをばんねんしゆみめんかはうめんかたむ此の集の發行を認めた以上は、芭蕉晩年の趣味の一面の如何なる方面に傾けだおもなかす蓋し思ひ半ばに過ぎるであらう。いたかは、『炭俵』の月並でない句ぜんくわいすみだはらしふとくしよくかたむすなはじうらいつきなみてきかたむ前回には『炭俵」集の特色ともいふべき傾き、即ち從來の月並的の傾をもかいしやくこんくわいおなしふなかはんたいさるつた句を解釋したが、今回は同じ集の中で、それとは反對な、やはり『猿そん以來の趣味を保存してゐる側の句を解して見よう。ののらいしゆみほがはかいみ道路、おほはらてふでまつき大原や蝶の出て舞ふおぼろ月丈草旬の「俊炭」おほはらきやうとしぐわいちゆ.おにつるちよめいとち大原は京都市外の地名、かの大原女で著名な土地である。よるおほはらとはをりそらいさゝくもお夜、大原を通りかゝつた。折しも空は聊か曇りを帶びて朧月がさしてゐ
          うすあかしたてふでまた。そのおぼろ〓〓たる薄明りの下に、蝶が出て舞うてゐたといふので。はあひめはいさだしろてふかゝる場合に目に入つたことであるから、定めて白い蝶であつたらう。くときであけしきのすこの句は、たんたゞ時に出會つた一つの景色を叙べたに過ぎぬが、しかも單うつくやさもくぜんありさまどこおはつかに美しいとか優しいとかいふ目前の有樣のみでなく、いん何處か覺束ない、印しやうふめいれうくわんねんおこともおくゆきふかいうげんひんち象の不明瞭な觀念が起ると共に、いかにも奧行深く、幽玄にして品致ある、またよゐんよじやうあかん又餘韻餘情の有るを感ずる。cた。釋評と話俳からかさおわみやったり傘に押し分け見たる柳かな芭蕉きヘくちがおくゆきこの句は前の句と違つて、すこた奥行といふほどのものは少しもない。唯だ一できごとあきつの出來事を有りの儘に叙べただけであるが、がうぞくてきけいかうおちいしかし毫も俗的傾向には陷をつて居らぬ。にうこさめふとさからかさとはやなぎき春小雨の降つてゐる時、傘をさして通りつゝあると、柳の木があつて、みどりえだあめうるほおなよ〓〓しだぜいきその線の枝が用の藥ひを帶びて婦々と枝垂れてゐる風情が、どうもその儘むなとはすしまおからかさそしだ空しく通り過ぎて了ふには惜しい。で、さしてゐた傘を其の枝垂れてゐるなかっおわみなんた中へ突ツ込んで押し分けて見たといふので、もとより何の爲めにしたのでまたけつくわなにあらきやうもなければ、又、さうした結果が何を現はすといふのでもない。たゞ興にじやうモにしじんきやうしの乘じてそんなことをしたといふだけである。が、其處に詩人の興も偲ばるまたやなぎやなぎせいしつあめひはるみちはたけしきあはあられば、又、柳の柳たる性質や、雨の日の春の路傍の景色なども併せて現はゆされてゐる。れば、旬の「俵炭」やまどくらちをがはみづぐろま▲山櫻散るや小川の水車智月にしよどこ場所を何處と、かんたさだ必ずしも定めずともよい。とかくやまざくらさら兎に角山櫻が咲いてもはや散
          したをがはながみづぐろままはりつゝある。その下に小川が流れてゐて、そこに水車が廻つてゐる。とかほかなんらいみなかゑかういつただけで、外に何等の意味も無いが、これを假りに繪に書いたならはるしようけいうつおもゑえいば、一つの春の勝景が寫されるだらうと思ふ。この句は繪のごとく詠ずるしゆだんべつむちみろうしゆおもむきかんといふ一つの手段であつて別に巧を弄せずに、一種の趣を感ぜしめる。りつゝある。とか話 俳と釋評ば、さみだれいろよどがはやきとがは▲五月雨の色や川大和川桃隣やまとがはいませついづみこくきやうながさかいしほくほうおほさかわん大和川は、今は攝津と和泉との國境を流れ、堺市の北方を過ざて大阪灣そ.ほうえいねんかんモさくしんかげんろくらうに注いでゐるが、それは寳永年間に疏鑿した新河であつて、元祿の頃は、いまねこまがはりうゐきながおほさかじやうほくはうよどがはモ今の麵問川の流域を流れ大阪城の北方で淀川に注いたものである。いみかはりんうたすゐせいまみづいろで、この句の意味は、二つの川とも、霖雨の爲めに水勢を增し、水色がにごはげいきほひなががふりうもうれついきほひ濁つて、烈しい勢で流れてゐる。それが合流すると、いかにも猛烈な勢ほんりうとなつて奔流してゐる、ほんりうそはけにごみづいろすなはさみだれいろとなつて奔流してゐる、其の烈しい濁つた水の色は即ち五月雨の色であるかはかはがふりうそすゐせいぞうかといふので。一つ〓〓の川でなく、二つの川が合流し、其の水勢の增加しところみさみだれえ、ところモちやくさうほんひろおほけしきた所を見て、五月雨を詠じた所は、其の着想が凡でない廣く大きい景色かちからこるで、且つ力の籠つた句である。で、やまぶきともゑたうゑかな山吹も巴も出づる田植哉許六きそ5まへがきくモたびときき「木曾路にて」と前書のある句である。其處を旅した時の句であらう。木モぢたびたうゑどきをとこをんなあまたでたうゑ曾路を旅したのが、たま〓〓田植時であつて、男も女も數多出て田植をしみきモよしなかめかけやまぶきともゑいづきモてゐた。されを見るといふと木曽義仲の姿であつた山吹も巳も何れも本日おたをんなおもおこやまぶきともゑいづでに生ひ立つた女であつたことを想ひ起して、あれ〓〓山吹も巴も何れも出たうゑえいもちろんじつさいきよときほとんて田植をしてゐるわいと詠したのである。勿論、實際は許六の時より殆ど句の「俵炭」
          ねんおむしふたりをんなはずがんぜんで四百年も昔の二人の女がゐよう等はないのだが、それを眼前に出てゐるとれんさうもとづしゆきやうみむきしざいれうつかいふのは、つまり聯想に基いた一種の興味で、この句は歷史を材料に使つさくれいた一つの作例である。僕話と釋評をどばんつき踊るべきほどには醉うて盆の月李由ばんどをどりらうにやくなんによあして盆には何所でも踊をして、老弱男女さま〓〓な遊をすることであるが、としとへいぜいまじめひとみやゝ年を取り、わかもの平生眞面目な人であつて見れば若い者のやうにすぐに随のをどりなかまはいできはんしやくゑ.き仲間に入ることも出來ぬが、をどりなかま晩酌でだん〓〓と醉つて來て、もう踊の仲間くはできくらゐゑきやううごだいたんへ加はることも出來る位に醉つた。興も動き大膽にもなつたから、これからでかをりそらちうげんつきはさ出懸けようとする折しも、空には中元の月が晴れやかに射してゐたといふきやうじよううわいへいをどりむれくはので。いかにも興に乘じて浮かれつゝ我が家を出で、踊の群に加はらうとそにあひあらもつとさくしやじつさいことする其の場合がよく現はされてゐる。尤も作者が實際にこんな事をしたかわかとかくあにんげんじやうたいうたどうか分らぬが、兎に角或る人間の狀態を歌つたのだ。たけがりはなさうた茸狩や鼻の先きなる歌がるた其角ぢよちうたけがりみまへがきくたれこれは「女中の茸狩を見て」と前書のある句で、誰にもよくあることだたけかときわちかニきづほかひととが、茸を狩りつゝある時、我が近くに有るを氣附かず、外の人に取られてしまところえ.きかくをんなどもともたけがり了ふといふ所を詠じたのである。其角としていへば、女共と共に茸狩をしをんなとところいたけときつゝあつて、その女の取つてゐる所へ行つて茸を取つた、これにお氣が附ばんかちしたはむをんなかれぬか、一番勝を占めたといふやうに戯れたのであらう。それを女のよとうたたとうたかくく取る歌がるたに譬へて、歌がるたにも此のごときことがあるが、それとおなうはなさきゆだんきがる同じ樣に眞の先で油斷をなされたといつたのである。氣輕くおどけたことつゝあつて、句の「俵炭」それと
          ぞくおしかも俗に落ちず、ひんちそんどこかに品致を存してゐる所は、を云つて、きかく其角である。さすがに話 俳釋評と100すまふとりあきからにしき▲角力取ならぶや秋の唐錦嵐雪たれわかすまハとりどへういりさまうつくけしやうまはこれは誰にも分る。角力取の士俵入の樣でおの〓〓美しい化粧廻しをつたならうみところちやうどあきにしきもみぢけしきそこを打ち見た所は、丁度、秋の錦の紅葉の景色にながなん似てゐる。さてもよい眺めであるといふので。何でもないことでもかういぶくぐわどへういりししゆみききぞくみひなすと一幅の〓となつて、土俵入が詩趣味をもつて來て、少しも俗味をかん感じなくなる。たれわかこれは誰にも分る。たならけて立ち並んでゐる。似てゐる。ほたひあかつきしやく榾の火や曉がたの五六尺丈草やまがありさまさくしやモことまあさおみさくや山家などの有樣で、作者が其處へ泊つたものか、朝起きて見ると、昨夜ゐろりたほたいの.から園爐裏に焚いてあつた榾が、だん〓〓燃えて行つたが、まだ殘りが五しやくよこたはいみ六尺も橫つてゐるといふので。意味はたゞこれだけであるが、いかにもとたびねやますすまゐさまおも山家の住居の樣が思ひやられて、むくつげにあら〓〓しい宿に旅寐をしたじやうやきうまたおもしろながところぶんあら狀況と、又それが西日く眺められたといふ所とが十分に現はされてさくや昨夜ゆきひうすえふくも雪の日や薄葉曇るうつしもの猿雖あじやうらうぢうきよさまうつだおもゆきひこれは、或る上〓などの住居の樣を寫し出したものかと思ふ。雪の日、まどしたようところつねそうすえふかみしろ窓の下などに寄つて寫しものをしてゐる所で、常は其の薄葉の紙も白かつけふ(〓くろみしうゐゆきたが、今日は曇つていくらか黑げに見られるといふので。これは周圍に雪,ひかりてたおもむきしちしぜんじやうけいが積つて、その光が照らす爲めにこの趣を生ずるのであるが、自然に情景句の「俵炭」けたが、,が積つて、
          やさかんが優しく感ぜられる。と話俳釋評102『續猿蓑』の俗な句ぜん〓〓くかいいる前々からの句解は、『の日』『あらの』『猿蓑』ひさるみのすみだはらしぜんぶしふ『炭俵』と、自然に七部集じゆんじよおきぶしふうちの順序を追うて來てゐる。ふゆひで、七部集の中でも、「冬の日』と『ひさご』とのしいはいくすなはほつくれんぱい二集には、俳句即ら發句はなくて、こんどぞくさるみの連俳ばかりであるから、今度『續猿蓑くかいぶしふまの句解をすると、とほをはこれで七部集は先づ一通り終ることになる。ぶしふおやしにくわんけいくしふもと七部集は、ひやうじゆん翁の關係ある句集といふを標準として集めたものであるあつぞくさるみのはせをばつこできに、しふこの『續猿装』は芭蕉發後に出來た集であるから、たしふたせう他の集とは多少そるゐこともつとぶしふの類を異にしてゐる。おきなせいぜんまた尤も、この七部集なるものは、かう翁の生前又はその高ていらよたしかさだはるのちいた弟等に依つて、確にこれ〓〓と定められたものではなく、遙か後に至つて、しやうしふとあはかたたせういどうかやうな目が生じたのであるから、その集の取り合せ方にも多少の異同がある。ばんいま·ヘあぶもつぶしふなかはるひ一般には今前に擧げた七部を以て七部集としてゐるが、中には『春の日』ぞくさるみののぞゆきつるしくはと『續猿蓑』とを除いて、『害さろげ』と『鶴のあゆみ』との二集を加へたふかゞはうたつしふリやうしふくはじつさいはるものもあるし、また、深川卯辰集の雨集を加へたものもある。實際『春のひとかくぞくさるみのたしふかはうはせをせいぜんひやうじゆん日』は兎も角も、『續猿蓑』は他の集と代へた方が、芭蕉生前といふ標準にあいまたんくかいしばらは合ふことになるのであるが、今は單に句解さへすればよいのだから、姑ふつうさだしたんたちいせんさくことはせをく普通の定めに從つて、立入つた穿鑿をせぬことゝしよう。殊には、芭蕉ぼつごはいくへんせんみぞくさるみのの歿後に、俳句の變遷がどうなつたかを見るに、この『續猿義』がよいかおもしふくかいとも思ふから、玆にはこの集の句解をすることゝする。句の「養猿續」103
          ぞくさるみのしふがはいじんなかまいがちきなかヽはさて『續猿装一集は、伊賀の俳人仲間が、伊賀は翁の生國であるに係らぶはいしよせけんでをざんねんらくこず、一部の俳書も世間に出て居らぬのは殘念だからといふので、落梧といひとしふつくしゆつばんおきないいまおきなふ人が一つの集を作つて、出版したいと翁に言ひ出でたが、間もなく翁がほつことおこなおきなばつごひとく〓歿して、ついその事も行はれなかつたのを、その後、なほ翁歿後の人々のぞうかなりたつた句をも増加して成立つたものであると言ひ傳へられてゐる。しふみわたなるほどすみだはらのちヲみで、この集を見渡すと、成程『炭俵』の後を承けたものと見えて、そのしふおなか九七おほおきなはじかうていいぜん集と同じ傾きを有つた句が多い。くが翁始めその高弟の句なぞは、依然とせいふうみやくうしなこんくわいまぞくてきはうめんかたむして正風の脈を失はずにゐる。いさ·で、今回は先づ俗的方面に傾いたものを聊かいみか解して見よう。話俳と釋評104で、はなしてうしあはるあめ話さへ調子合ひけり春の雨乃龍coあめふさともだちであはなし春の雨がしめやかに降つてゐる際、友達などと出會つて話をしてゐるのしうゐしづおもむきしようとつだが、それが、いかにも周圍の靜かな趣につれて、いさゝかの衝突もなく、たがひてうしあむつまおもしろをかなははるあめ互に調子が合うて、睦じく、面白可笑しく話してゐるといふので春の雨となつあめあらあきあめふゆあめさびいへば、夏の雨のごとく荒つぽくもなく、秋の雨や冬の雨のごとく、寂しかなものすごふうところしぜんぎにんじやうてうわいとか、悲しいとか、物凄いとかいふ風もない所から、自然に人情の調和むつまいあうたaあながして陰じいといふ意と合ふので、かくは歌つたのであらうして見れ强ちやくさうぞくはなしてうしあことばち着想が俗といふではないが、『話るへ調子合ひけり』といふ言葉がいかにぞくてうのちつきなみかみなはんとも俗調で、この後の月並家は皆これらより範を取つてゐる。いへば、句の「養猿續」しながはじかげしほひかな品川に富士の影なき汐干哉閣指まへしゆてうしことはぞく前のは主として調子なり言葉なりの俗であるが、すこぶりくつてきこの句は頗る理窟的の105
          さいく細工になつてゐる。しながはしばうらあたじつさいふじうみ品川から芝浦にかけての邊りには、實際富士が映るものと見える。それりふしほひひがたうつすたましながはじかげが、ふ今日は沙が干て干潟となつたから映つてゐない、即ち品川に富士の影こんにちしたいけしきうたじつさいけしきがない今日の汐干の景色はさやうであると歌つたので、實際の景色といへけしきし日ひふじかげみうたしながはじかげば景色であるが、汐が干て富士の影が見えぬと歌はずに、品川に富士の影LEAげんいんけつくわたいせういところがないというて、汐干の原因とこの結果を、對照したごとく云つた所は、どりくつてきかちしきてきみっだところ何處か理窟的で、う且つ知識的に見附け出したといふ所がある。こゝらも後もいつみなみはよう來月並派の価をなしてゐる。釋評と話俳106ども1そうりやうくらびら▲子供には先づ物領や藏開き蔦雫くらびられたけはじくらひら藏開きといふは年始に始めて藏を開いて、あきなもつだに出し入れをするの商ひ荷物のいはひえ、もで、一つの祝ひとなつてゐる。その日のことを詠じたので、子を持つならまをとこうモあとっめてたひしそんば先づ男の子を產んで、其の後を繼ぐものこそ目出度けれ。この日は子孫あひあつまかげふはんえいいはをんなこものた相集つて家業の繁榮を祝はねばならぬのに、女の子ばかりでは物足らぬ。こどもまそうりやうかぎ子供には先づ惣領に限るといふのである。にんじやううがモうがしゆかううたこれもよく人情を穿つてゐるが、たゞ其の穿ちばかりを趣向として歌ふすなはつきなみしゆみわれ〓〓いますこはうたんこつけいおつかのは即ち月並趣味である。我々は今少し放膽な滑稽か、さもなくば高雅ないみまたことはっ〓しようちちやくさううへぞく意味又は言葉を附け加へなければ承知されぬ。で、この句は着想の上で俗かもせchaきはつうぞくてきぢよに傾いてゐるのみなしや、景基も極めて通俗的に匁うれてあるのあ句の「養猿續」いつさめみのきじこゑ▲春雨や蓑に包まむ雉子の聲酒堂はるさめレひきじこゑき春雨の降つてゐる日に雉子の聲を聞いて、あはおもそれを憐れに思つたといふ意
          きじこゑであらう。ちわそれを、雉子の聲がして、いかにもいとほしく思ふから、わがきみの着てゐる養で包んでいたはつてやりたいと、どうぶつつまこ動物ではあるが妻戀ふとか、おもところべつだんどうじやうつひ子を思ふとかいふ所より別段に同情でて、遂にかくまでにいつつのこゑみのたくたくじつさいじやうけれども、聲を装に包むなどは、とほ巧みは巧みだが實際の情に遠い。こゝらつきなみてきくぢがやはり月並的の工夫といふべきものである。わが話 俳釋評と108こゝらすなかみほそおやつじら▲巢の中や身を細うして親燕峯嵐のきはCPBす(をこ軒端などに燕が巢を作つてゐて、おやつはめそと其處に子がゐる。それへ親燕が外からときこ飛んで來て入り込むのだが、さはみほそなるべく子に觸らぬやうにと、身を細うして入りてうるゐなさけぶかおやごゝろ込む。かやうな鳥類でも子には情深いべつだん親心といふものは別段なものみところうたであると、見た所を歌つたのである。であると、みほそところじやううつぞくてきが、身を細うしてなどゝいふ所は、いかに情を寫したとはいへ、俗的にたくみらうごじんいますこうはなうたおもふ巧を弄してゐる。吾人ならば今少し打ち離れて歌ひたいと思ふ。併しこのさくしやかたがきせうねんしるところみじぶんじつさいおやあい作者は肩〓に少年上記してある所から見ると、自分が貢際組に愛せはあひおたおもむきであしぜんこめうたかやうな現合〓同じ趣に出會つつゐてで、自然に此がに目がついてしいさヽしゆみしやうくみものかも知れぬ。さうすると、聊か趣味も生じて來るが、それにしても身ほそどこざかニどもいますこむじやきいを細うしてとは、何處までも小賢しい、子供としても今少し無邪氣な言ひかたもらおも方をして貰ひたいと思ふ。ひめうりそでハおも姫瓜や袖に入れても重からず至曉句の「養猿續」ひめうりまるちいじゆくきいあぢにが姫瓜は圓くて小さく、熟すればやゝ黃ろくなるが、味は苦くて食へはせどもとおもちやいそでよく子供などが取つて玩具にするものである。今、それを袖に入れてぬ。
          みちもおほひめうりな見たがやさ重く覺えぬ。〓瓜はやはり名たけに優しいものであるといふので、もつばひめうりひめところモ專ら姫瓜の姫といふ所に意を注いで、いふうそれが工夫となつてゐる。うり瓜そのももi.てきゝようみににすする詩的與味でなくて主として言乘文は名にかゝはつた所はしゆことばまたなところわれ〓〓我々おもしろれてんの面白く思はぬ點である。話 俳釋評と默禮に因る涼みや石の上もくれ、こますう▲正秀さたかところあがかぜ少しでも高い所へ上れば風もよく當るといふので、あたいまいしうた今、石の上に立つて:ところひと凉みをしてゐる。もくれい所が人に來られて默禮をせねばならぬが、わづめんせき僅かの面積の石の上に立つてゐるのだから、うたからだうごあしもとうつかり身體を動かすと足元があぶない。きそこで困つたといふのである。だれすなはぞくじやうなるほど、とう誰もいふことで、即ち俗情に投じた穿ちといふことを免れぬ。うがまぬがあつひあふぎてほそ暑き日や扇をかざす手の細り印苔あつひひとあふぎかしらたいやうみ暑き日、ある人が扇を頭へかざして太陽をよけてゐる。それを見ると、いますこてふとあつよわだほそみ今少し手も太かつたが、暑るに弱つたせゐか大ぶ網つて見えるといふので。てそほみなつやけつくわそかんせつあつうた手の細りを見つけて、それが夏痩せの結果だとし、而して間接に暑さを歌ところちしきてききびんところしゆかうつた所は、どこまでも知識的に機敏な所を趣向としたものである。みそれを見ると、とびきやくてろつきみたか飛入りの客に手を拍つ月見哉正秀句の「養猿續」いまつきみえんひらところやくそくきやくきしゆ今しも月見の宴を開いてゐる所へ、かねて約束もない客が來たので、主じんはじめづいてう人始めが、これはお珍らしいようこそお出でだと、手を拍つたといふので、ことつきみおもむきむしじんじうがこれもよくある事で、月見の趣といふよりは寧ろ人事の穿ちである。しゆ主III
          釋評と話俳はひとは0さしも一つ葉や一葉々々の今朝の霜支考はかく·わんえいいづこれは一つ葉を客觀に詠じただけであるが、はしもお何れの葉にも霜が置いてあはところひとはみなけさし6るといふのを、一つ葉といふ所より、その一葉々々が皆今朝の霜を有つてすではうはおほめゐるといふのである。ところ既に一つ葉といふ上は、その葉の大きく目につく所ひとはしぜんてきおもむきモてゝより、一葉々々といつて、自然的に趣を有つけれども、かやうに其の點をおもしゆかうChkしゆかんじんけしきっ重なる趣向にすると、おそれ言葉が主となつて肝心の景色が二の次ぎとなる度がふかとがこの句などはまだ深く〓合めるほどでもないが、へいしやうある。これより弊を生じてけしきことはあやつきてんきは、景色はどうでもよい。言葉の操りさへ機轉が利けばよいといふことにだん〓〓ゆたぶんせめお段々なつて行く。それらの爲めには、この句なども十分責を負はねばなら支考ぬ。『續猿蓑』の正風の句こんくわいぞくさるみのなかさるみのいらいせいふうしたきうしなをかい今回は『續猿装』の中で、『猿装」以來の正風の主義を失つて居らぬ句を解することゝする。やむそうにははうめさかかな病僧の庭掃く梅の盛り哉曾良やむそうびやうきそうたせうたはたできところ病僧といへば病氣してゐる僧だが、多少なりとも立ち働らきが出來る所ふびやうきだいぶよろはうむかおもより見れば、もはや病氣も大分宜しい方に向つてゐるものと思はれる、そにはさうぢそばうめきいまはなざかわが庭を掃除してゐる、その傍に梅の木があつて、今しも花盛りだ句の「養猿續」それが、113といふので。
          通の人でなくて、勿論客觀的に見た趣であるが、病氣してゐるのが普六その衣服なども鼠色の綿入でゞもあらうと想像せ信話 俳侶だといふところから、釋評られるし、又その傍に咲いてゐる梅も、その連想上から、白梅か何かで、多少の寒さ、,この樣な人物が掃除をしてゐる所は、淋しさを帶びた花であらうと思はれる、その梅の木の送りに、いかにも配合がよくて、單に客觀の景色たる以外に、幾分か奧行があつて、人物の境遇なども想ひ送る處から、詩的感想が自然に深くなるやうに思はれる。き、鶯や柳のうしろ藪の前芭蕉この句は前の句と比べると、〓叙したに止まる。奥行はさまでない。唯だ現在の見た景色を爲の啼く音がするので氣をつけて見れば、綠を梳づる柳の後ろの方でもするし、又、こんもりとした藪の前でもするといふので。な一羽の慾が啼いてゐるとしてもよいが、あちらでもこちらでも啼ゆ春もやゝ閑になり行く景色を歌つたとした方がまさると勿論、あちらでもこちらでも啼いてゐるとして、思ふ。じゆんかく·わんれ.み.この句など、純客觀の一例と見てよいであらう。瀧壺もひしげと雉子のほろゝ哉去來旬の「養猿.續」所は山中などゝ思はれる。3.子がほろゝ啼きをした。其處に瀧が落ちてゐて、其處に瀧が落ちてゐて、其の瀧壺の邊りで雉その聲がいかにも烈しく强くて、瀧の音を壓倒すきつまり、雉子の聲と瀧の音とを相對せしるかとまで思はれるといふので、つまり、
          めたのである。じゆんかくゝわんむしさくしやかんぶんこちからこれは純客觀といはんよりは、寧ろ作者の感じを十分に持ち込んで、カ23あかくゝわんぶあながくうさう强く或る客觀を詠にたものである。。ううとで、これは强ち空想でじつさいきじなねしえぎニくらゐけいようしか實際雉子の啼く音といふものは、詩人が聞けば此の位に形容しても然るべつよはげきほど强く烈しいものである。釋評116しらうをよつでかな白魚をふるひよせたる四手哉其角あこあみしらうをとところげんじやうそじよこれは四手網をもつて白魚を捕りつゐる所の現狀を其のまさに叙しものである。いまよつであみひきあなかしらうをたくさん今しも四手網を引上げた。それをふるひよせると、中に白魚が澤山ゐたことはあひこの句では、『ふるひよせたる』といふ言葉がよくるの場合をといふので。うつ寫してゐて、白魚がぐぢや〓〓と網の底に集つて、しらうをあみそこあつまあるひはめうかるのが目に浮ぶ。げんじやうくわつやくてきうつところてがらおるこれは現狀を活躍的に寫した所に手柄のある句だと思ふ。あるひ或は跳ね或は躍つてゐはあるひをど〓.うりつらあさつゆ朝露によごれて涼し瓜の土蕉芭たはたあところうながけしき田畑の或る所を打ち眺めた景色である。うりはたけつちゝかたうりあめふなごりそれは瓜の畑で、土近く垂れてゐる瓜へ、いつか雨でも降つた名殘のはねが上つてゐて、あが多少よごれてゐるのが、たせう夜中以來の露を帶びて濕つてゐやなかいらいつゆをしめなつあさなとこゝろもち、をつうりる。そのよごれを帶びた露けき瓜のさまが、いかにも夏の朝の人の心持とあ1.かんよく合つて、涼しく感ぜられるといふのである。ちひあヒうつしてきみところてがらこの句は、小さい或る事物をよく詩的に見つけたといふ所に手柄がある句の「養狼續」る。
          まじつけいえいし、又實景を詠じても、ともなる句である。たせうおくゆきしゆかうたう多少の奥行をもつた趣向を立て得るといふ一例話俳釋評とのりかたびらひる糊ごわな帷子かぶる晝寐哉ねかな惟然なつひひるねときいさゝみおほた夏の日晝寐した。9)その時、聊か身を蔽ふ爲めに物をかふつたが、それがかたびらのり帷子で、しかも糊のこわいのであつたといふので。たれかういふことは誰しもさくしやはふしすることだが作者が法師であるだけに、ばうずあたまかぶひろねその坊主頭へ打ち冠つて書寐したところべつきがるかんしやうといふ所に、またなつ別して氣輕い感も生ずるし、1.又夏の凉しさにも合つてゐる。びじんうすものそれに、美人でヾもあれば、のり羅ともいふべきところを、かたびら糊ごわの帷子とおのづかすできさるせんたくいつてあるので、自ら已に着古して、たびかさあさ洗濯なども度重なつた麻などの荒々あら〓〓れんさうしいものなることが理想される。ここて一段も性びた遊葉の樣と息だんbひるねさよおもそれに、また又、そう1.しやうがい一層の凉しげな生涯も、ひとれんさういく讀む人の連想に入り來るのである。ひろざはせおかあきくれ▲廣澤や脊負うてる秋の暮野水さくしやぜんかいしやくじだいモまつこの作者は、以前解釋した『あらの』の時代には、まだ〓〓粗末の句ばかつくくいたなか〓〓しんぼほとんゆうげんゐきす。り作つてゐたが、この句に至ると中々の進步をして、殆ど幽玄の域に進んおもだやうに思はれる。ところひろざはいけモながたヽや所は廣澤の池で、其處をあちこちと眺めて佇んでゐたのであるが、もはやかーさいけうしだん〓〓あゆやわが家へ歸り去らうとして、その池を後ろにして段々と歩みつゝある。ときあきくれぐろりさびこといけみづまたあた。時は秋の暮のことだから、周圍はすべて淋しい。殊に池の水や、又その邊そうさびかなあきくれけしきりやは一層淋しく悲しげで、いかさま秋の暮の景色となつてゐる、それをうしおかへあきヽれせシおも後ろに置いて歸りつゝあるのは、秋の暮を脊に負つてゐるやうに思はれるぜんかいしやくじだい以前解釋した『あらの』の時代には、くいたなか〓〓しんぼこの句に至ると中々の進步をして、モまつまだ〓〓粗末の句ばかほとんゆうげんゐきす。殆ど幽玄の域に進んもは句の「婆独續」
          といふので。もつとりく,うかいしやくかうわかしてきかんさうはし尤も理屈の上から解釋しては一向分らぬことであるが、詩的感想を走らモはあひおもぶんおもむきなかんづくせおか、せて其の場合を思ひやると、十分にこの趣もあつて、就中脊負つて歸るとところはたみすなはたんかくゝわんおもむきぶんしゆくわんいふ所に、働らきが見える。即ち、單に客觀の趣ではなく、十分に主觀たくましげんぐわいよゐんよじやうふくかんを逞うして、言外に餘韻條情を含んでゐることがよく感ぜられる。話 俳釋評とうづびかべきっくかげはふし▲埋み火や壁には客の影法師芭蕉いづわひといほりおそはせたたしんいほり何れ侘びた人の庵のことで、恐らく芭蕉自身の庵でもあつたであらう。8ふゆひばちうづびをりきやくきかたあ冬のことで、火鉢に埋み火がしてある。折しも客が來て語らひ合つてゐかべうみきやくかげはふしうつたが、ふと壁のはうを打ち見ると、その客の影法師が寫つてゐるといふのたが、Toうづみびさびbところうつうききやくかげにふしかべ埋火ですでに淋しく侘しげな所を寫してある上に、來た客の影法師を壁うみそうすまゐあははかなさまあらの上に見るといふので、一層その住居の哀れに僂き樣を現はしてゐる。かげはふしなんようつうづみびたきそこでその、影法師は何に依つて寫つたのであらうか。埋火でなくて焚びたあんどん火ならば、その爲めにと云へるが、それではない。さすれば行燈などであらよるりしきうか。けれども、これもつて夜といふ景色もないから、それではないらしまひゆうかげおむらうつい先づ日、それも夕日などで、影も朧げに寫つてゐるのではなからうか。とかくかげみうづみびはいがふところくしゆかう兎に角に、その影を見て、埋火に配合した所が句の趣向であるから、こかげせんさくかたるれるけつてんの影の穿鑿は必ずしもせなくてよいと思ふ。が、もしこれが缺點といふなびんとできらば、どうも辯護することは出來ぬ。そこでその、び火ならば、それではないらしこが、句の「養 續續續」らば、よめいりかどはちた嫁入の門も過ぎけり鉢叩き許六
          いまよめとうちしうげんめでたしき今しも嫁を取つて、あおって內では祝言の目出度い式を擧げてゐるに、その門邊くうやじはちたふくべたねんぶつには空也寺の鉢叩きが、とな瓢を叩いて念佛を唱へてゐるといふので。いづさくしやはたみえい何れ作者は傍より見て詠じたことになるのだが、むねことふる內部の事を思ひやつてはちたヽはいがふうたんかく·わんこの鉢叩きを配合する上は、しゆくわんぶんまじ單に客觀でなくて主觀が十分に混つてゐる。あるひばうよろここと或はこの句は、じけんまたばう一方には喜びごと、殊になまめかしい事件、又一方にはむじやうねんぶつせぞくいま無常を告げる念佛で、むしじきはうず世俗よりは忌はしくも思はれる乞食坊主の事件-じけんはいがふじんせいりやうめんあらこの二つのものゝ配合は、かいむ人生の兩面を現はしたとでも解する向きもあらわれ〓〓しゆみうが、我々の趣味として取るとところ所はさういふ點ではないぐわんらいはちたヽおな元來鉢叩きは、同むじやうがはマくつうちがじく無常の側に屬してゐるものでも、そうりよしゆへうげこつ普通の僧侶と違つて、一種標氣た滑けいおもむきそなひとだちうち稽な趣を備へてゐる。あひおひまつめでさやうな人達が內では『あひに相生の松こそ目出たうたかゝはなんさつ度けれ』などゝ歌つてゐるにも拘らず、〓t、むとん何の察しもなく、瓢を叩いて無頓話 俳釋評とぢやくねんぶつとなところしゆこつけいかんくく着に念佛を唱へるといふ所に一種の滑務が感せられて來る。そこをこの句むらかちすなはおなはいがふはいがふり(1うへみンの重な價値とする。即ち、同じく配合は配合でも理窟の上から見ずに、趣みうへか味の上から見るのである。ねだうぐうたままつ寢道具のかた〓〓や憂き魂祭り去來つまわかはあひおもむきをりはんたまゝつりな〓〓わが妻に別れた場合の趣である。折しも盆で魂祭をしてある。亡き妻もまつてぜますまゐそヤぐまくらねそれに祭つてあるが、手狭な住居だから、其處には夜具とか枕とかいふ寢だうぐカあるひねとのにあひと道具も置いてある。或は寢ようとして床を延べてゐる場合かも知れぬ。兎かくおなまうちねだうぐまたかたすみたまつ·りかすに角同じ一間の中に寢道具もあれば、又、片隅には魂祭がしてあつて、微ともしびかに灯などもともしてある。ひとみさびわびすままこゝろたまゝつり獨り身で淋しく侘しく住つてゐるこの一間に、心ばかりの魂祭もしてあ旬の「養猿續」こゝろたまゝつり心ばかりの魂祭もしてあ
          ものうきやうがいわれたいたる。さて、物憂きことである、かやうな境涯に我は立ち至つたことであるかやといふので。まへをかわらこれは前の句のごとく、ぶんうじやうてき可笑しく笑つたといふよりは、うた十分有情的に歌はいじんあんたなにごとひにんじやうつたものである.ひねつじやうわけ俳人とても、强ち何事にも非人情、非〓情といふ譯ではあはあひなつましたわみわび或る場合には亡き妻をも慕ひ、たんない我が身の佗を歎ずることもある。ミかおなおるたんモねだうぐ同じくそれを思ひ、たまゝつりたなそれを歎ずるにしても、其の寢道具とか、魂祭の棚とかく·わんてきうたよものししかを客觀的に歌つて、どうじやう讀む者をして知らす識らず同情せしめながらも、しfモどうじやうどこくつろかも其の同情には何處となく寬ぎがあつて、よちうた餘地あらしめるやうに歌つてすなははいしゆみたぶんがく此處が即ち俳趣味ともいふべきものて、他の文學と異なる酷であることてんある。きやうがいわれたいたかやうな境涯に我は立ち至つたことであるる。さて、話俳と釋評124正岡子規の生涯ぜんくわいはせをぶしふはいくたいりやくはなじゆんじよこんくわい前回までに芭蕉の七部集の俳句の大略は話したから、順序として、△回はふうにせをぼつごきやうほういかはいくはせをもんていおも人々の句風とか、ひと〓〓芭蕉の門弟の重なるまたは芭蕉歿後、亨保以下の俳句のへんせんくわんけいしよかふうはなこんぐ變遷やそれに關係ある諸家の句風とかを話すべきであるが、今度は一つ、そくとげんろくめいぢうつしきいさはなしおも一足飛びに元祿から明治に移つて、子規のことを聊かお話しようと思ふ。しきおやこぶじんぶしおも香ぶんさて、子規の親といふのは一個の武人であつて、武士氣質は十分持つてひさけのなんらたいへい何等ゐたのであるが、太平の世であつたから、日々酒ばかり飮んでゐて、さいぢよすなはしきぶんがくしゆみ文學などの趣味はなかつたといふことである。が、その妻女、即ち子規のはゝびとおほはらしちおほはらくわんざんはんがくけうじゆかんがくころけうじゆちう母人大原氏の父は、大原觀山といふ藩學の〓授で、たうじかんがくしやしゆけんきう漢學はその頃の〓授中けいしよいぐわいしぶんもつとすぐ詩文鼓る優れてゐた。として、貸時の渡線者が主として研究する經畫以さて、渥生の規子
          にも十分の力を以つてゐた。今日劔舞をする時などによく歌はれる、怒髮衝天眼如電。爛々直射襄子面。右提一劍左警衣。三躍擊衣々寸斷。悲風慘憺天日黑。讐家君臣皆無色。刄扞漆身兩徒爲。一死聊以報知伯。の詩は、この人がかつて幕府の昌平熟にあた頃に作つたので、當時の昌平塾の〓師に賞讃されたものである。それが世間へ傳はつて、今も人に歌はれてゐるのだが、その作者が大原觀山で子規の祖父であることは恐らく世間で餘り知らぬであらう。かやうな人の外孫であるから、子規の文學的の才能は、は·かた〓父方よりは寧ろ母方の遺傳に由るのではあるまいかと思ふ。で、この觀山は老年まで生きてゐだから、釋評と話俳126父方よりは寧ろ子規も四書や五經の素讀など河東碧梧桐の父は、幾分かこの人から授かつたかも知れぬ。つゞいては、たる河東靜溪といふ人にも就いて、漢學を學んだらしく聞いてゐる。けれども、一種の天才たる子規は、漢學のみに甘んぜずして國文にも指を染めた〓そして聊がばかりの和文とか和歌とかいふものをも口眞似などしてゐたやうである、俳句を試みるやうになつたのはそれからで、要する又、それにあらゆる文學即ち和漢洋に渉つて、すべてのことを〓究もし、(を作つて、一大家をなすといふのが彼の素志であつたらしい。そこで右の俳句であるが、昔は士族以上の者などには餘り多く弄ばれな七かつたので、子規も同等の身分の者に其の師を求めることが出來なかつたドと見えて、郷里の松山城下から一里ばかり隔つた三準ク濱といふ所の大原身分は平民其戎といふ、今日からいへば月並宗匠について添削を乞うた。つゞいては、を染めた〓それすべてのことを〓究もし、涯生の規子と見えて、其戎といふ、
          で、で、士族とは其の區別が多少存してゐたが、ちやうどくわいそふ丁度外祖父と同姓であつたか多少はそんな緣故があつたのかも知れぬ。ら、その時の俳句で、其或の點を取つたのを後に聞いたのがある。持村へまであまぼしのつゞきけりあまぼしにしたし浮世の人心柿の實の火と燃え出でゝ寒さ哉などもそれで、それらは當時其戎宗匠から夜められて彼も得意であつた句だ。今からいへば皆な月並であるが、中では末の「火と燃え出でゝ」だけが少しは句となつて趣があるかとも思ふ。されば、子規の俳句は、柿の實の火と燃え出でた結果といつてよいかも知れぬ。き右は子規がまだ中學修業中、松山にゐた頃のことで、ミ後、大學に入る目釋評と話俳128ら、柿の實ミ大學に入る目後、びじ的をもつて某束に出て來だが、それには先づ恐備門へ入るわばならその準備として、Source出其の當時に、やはり中學程度の私立學校へ行つて修業してゐた。そのわれの宅へも訪問して來て、其處でわれは始めて子規といふ人を知つたのである。せう〓〓もと、われは少々ばかり漢學をしてゐて、もと、漢詩も人の口眞似位はしてゐたから、子規は同〓の先輩と思つたかして、出京間もなく、わが宅へ來る度びに、漢詩の話をしたり、添削などしたのであつた。批評を乞うてゐた。で、われもそれに對して、涯生の規子それから數年の間、子規との交際は右位のものであつたが、その後、わが同〓の書生の爲めを計つて、奮藩主の久松家で常盤會寄宿含といふを設けられた。で〇子規も當時は久松家の給費を受けてゐたから、當然その寄
          宿舍へ入ることゝなつた。當時の寄宿舍の監督は、服部嘉陳といつて、子規の母方の親族であつた。この人は子規の從兄弟たる藤野古白からは伯父に當り、現今文學場裏へ頭を出してゐる服部嘉香には父親である、さういふ關係から、子規は寄宿舍に入つて後は、服部監督などゝも文學上の交際をしてゐた。この服部に娘があつて、それに子規が文章軌範の講釋をしてゐるのを、ある時われが傍聽したことがあるが、年輩不相當に巧く講じて、その辯もよかつたのに驚いた。後、服部は病氣の爲めに益督を辭して〓里へ歸り、か、その後をばわれが襲ぐことになつたので、いよ〓〓子規と同じ寄宿舍の一棟の內に住むことゝなつた。爾來交際はます〓〓密になるし、又、文學的の側では一層互ひの話 俳釋評後、〓究もすることになつた。その頃、その頃、河東碧梧桐の兄の竹村黃塔といふ、やはり同〓で、漢學も出來、일し且つ文才もあつた人であつて、これと子規とわれとの三人はよく小集をし汽メては文學的の遊びをしたり、又、連れ立つて郊外へ散歩に出懸けたりしてゐたが、當時われらの主として弄んだものは、まだ俳句ではなかつた。勿論子規は多少月並的俳句の心得があつたから、俳句を作り、われら兩人もその口眞似をして十七字を作つたことはあるが、多くは漢詩で、稀には(た、和歌のやうなものをも作つてゐた。但しこれもつて今から見れば月並的のものであつたらしい。で、この小集の結果は『言志集』といふ、薄い假綴のものとなつて。五六卷ばかりは今もわれが手許に存してゐる。それを今から見ると、實に捧腹に堪へのやうな文辭を綴り合つてゐる。ゐたが、論われら兩人多くは漢詩で、稀には涯生の規子で、薄い假綴のものとなつて。それを今か131ら見ると、
          ふう〓しきはいくちょつくきくわいこの風で行けば、子規が俳句を專らに作らうといふ機會にはまだ中々進なか〓〓とほむらかれすでだいがくぶんくわかつたのであらうが、彼は已に大學へ行つて、ねんきふ當時、文科の一年級あたりたはうめんぶんがくけんきうくわうたふによじやうで、·多方面の文學を〓究してゐたから、かうさいこ黄塔とわれと如上の交際に止まらたはうめんどうきやうじんおなきしゆくしやす、他の方面において、ふちのはくこれも同郷人で同じ寄宿合にゐた藤野古白、ほ五百きへうていにひのみひぢともべつだんぶんがくもてあそ木瓢亭、せうせつ新海非風などゝ共に別段の文學を弄んでゐた。それは小說などもおもはいくもつとたあつたが、ひと〓〓こゝろえ重には俳句であつた。尤も他の人々には心得があつたのでないしきせんだうしやから、子規を先導者としてやつたのである。ところきはいくつきなみてきPark所3子規の俳句は月並的であつたから、;たひと〓〓勢ひその風をもつて他の人々さづまた·がひつくにも授け、又互に作りもしたのであつたが、しかも、それが天才ともいふてんさいはくへうていひふう古白なり、つきなみてうものか、瓢亭なり、こんにち非風なりは、月並調にならないで、今日わびてきしゆみみとはいくしゆみとれわれの美的趣味と認める俳句の趣味を取つて居た。いまおかず今から考へると、話 俳と澤評ものか、てんしきおしをしへうたひと〓〓せんかくしやこの點は、子規よりも寧ろ效を受けつゝある他の人々が先營者であつたのしきか、つきなみしゆみ30ひとてんさくで。子根は如つて月逆趣味を以てこれらの人の句をは無制してゐたことこうねんしきみづかはなとてんさくこの事は、後年、子規自らわれなどに話して、飛んでもない添削をしたものであつたといつてゐた。せんしんけんきうじつくわねんじいつましきあつかさとが、專心に〓究する結果は驚くべきもので、何時の間にか子規は自ら悟ところたひと〓〓いじやうびてきしゆみしんやゐつかつひはいくうへる所あつて、他の人々以上に美的趣味の眞髄を摑み、遂に俳句の上においたいせいて大成することゝなつた。まへはいくがはしきくわんけいで、われは前にもいつたごとく、俳句の側では子規とさしたる關係もなかんとくきしゆくしやないつくかつたのであるが、監督してゐる寄宿舍內で、それを作りつゝあることはときしきそはなしきみ知つてもゐるから、時として子規などに其の話も聞くし、その句も見るしところくちまねあときじ?.みする所より、つひ口眞似がしたくなつて、或る時十七字を綴つて見たが、で、涯生の規子かつたのであるが、133
          いぐわいしきとところほのきでそれが意外にも子規の取る所となつて、褒められたので、ふと乘り氣が出きつひはいく女性くはまへひと〓〓んぐ來て、遂にわれも俳句仲間へ加はることゝなり、前にいつた人々と會もすきやうさうさくるし、競爭作をもすることゝなつた。ころわれ〓〓はいくおもかくゝわんてきかたむしきちよだつが、その頃は、吾々の俳句は重に客觀的に傾いてゐた。子規の著の『獺さいしよをくはいわかたむきあひだできたうじせうそくしよちう祭書屋俳話』は、この傾の間に出來たもので、當時の消息はかの書中にもどんな十分見えてゐる。ごしきCIAただいがくしりぞあらおもはいくもちその後、子規は病の爲め大學を退いて、力を重に俳句に用ゐることゝなさらにほんしんぶんにしゆいひろせけんはつべうきくわいえり、更に日本新聞へ入つて、その趣意を廣く世間に發表する機會を得たのぜんじゆつさいしよどうきやうはういうなかまもてあそであるが、前述のごとく、最初はたゞ同〓の朋友仲間の弄びに過ぎなかつほのきで褒められたので、ふと乘り氣が出まへひと〓〓んぐ前にいつた人々と會もす話 俳と釋評134るし、だつ『獺り、であるが、たのである。ばんねんかくて晩年には、はいく內在友bか俳句の傍ら和歌もやるし、せうせつ小說もやるし、しやせいぶんなほ寫生文はじさかのばかんがしきとうきやういいぜんなどをも始めたが、遡つて考へれば、子規がいまだ東京へ出でざる以前にきやうりしよしんながしゆ〓〓はうめんわたぶんがくてきけんきうけつくわほか〓里で、初心生らも種々の方面に渉つて文學的の研究をしてゐた結果に外をわづかそしよしいくぶんしとならぬのである。惜しいことには、僅に其の初志の幾分を仕遂げたのみで、くわうせんかくびやうたいまたびやうたいいますこよはひ黄泉の客となつたが、もしも病體でなく、又病體であつても、今少し齡をあたちからそんぶんがくかいしごと與へ力を存したならば、まだ〓〓文學界において仕事をしてゐたことであれるると思ふ。子規の初期の句子規の旬ぜんくわいしきしやうがいかた前回で子規の生涯を語つたから、かいしやくみおもしく解釋して見ようと思ふ。こんどそっ今度は其の續きとして、かれはいく彼の俳句を少
          しきぐわんらいたさくひとしやうがいよはいく子規は元來多作の人で、すうおほさて、その生涯に詠んだ俳句の數は頗る多いのいまかいしやくどはじあで、ちよつとつ今、解釋をするとしても、何處から始めるといふ當てが一寸附きにくおじらはいくてうせうかつて世に公けにされた『俳句帖抄』といふは、せいぜんいが、しきみづかえら生前の子規自ら選んおとしおまモじんんで置いたもので、いさゝ年を逐うてもゐるから、先づ其の順に依つて、聊かばかくかいしやくみりの句を解釋して見ることにしよう。はいくてうせうたもつはじきみづか『俳句帖抄』は二十五年を以て始まつてゐる。たぶんしこあた多分子規自ら、まづ此の邊はじはいくはいく(はじりより始めて俳句らしい俳句を作り初めたといふ考で、かんがへかうしたものであじつさいぜんくわいのきやうりつきなみそうしやうひゝやうらうが、實際は前回にも述べたごとく、〓里で月並宗匠の批評を乞うたこまたてもときしゆくしやわが手許の寄宿舍で三四の友人と作り合つてゐたこともいうじんてあともあるし、又、はいくさくむんたぜんおほあるから、俳句の作はもとより二十五年以前にも多くあつたのであはいくてうせうみしよげんところねんで、『俳句帖抄』を見ると、はいくのその緒言の所に二十四年の俳句が載せてある。さて、いま今、話 俳釋評と136で、ぜんぜんくわいつきなみてきいく二十四年これ以前の句は商回にもいつたご〓ゝ月並的のものであつたが、だいぶんめんもくあったかいしやくそとなつては、さすがに大分に面目を改めてゐるので、この解釋は、まづ其へんはじゆの邊より始めて行く。〓とゝする。こがらしあれをすげかさ用や荒〓くひこむ菅の笠カットむさしのたびきときさくじつさいじよく實際のことを叙したこの句は三日ばかり武藏野を旅して來た時の作で、みものと見える。こがらしハモたあたまいたすげがさふか、凩が吹くと其の爲めに、頭に頂いてゐる菅笠が吹き返されるもので、そひしおほかさをあごしたところくの筆の緒が斷の下の所へ食せんで引き締められるやうに變えたといむかかぜ〓ときおもおきかひろ〓〓なるほど向う風に吹かるゝ時は、かやうな趣もあらうし、ぶんうつ且つ廣々としのベあつときじやうきやうて野邊を步きつゝある時の狀況も十分寫されてゐる。じつさいじよ實際のことを叙したそ子規の句
          ちやくがんてんきはくわんけいうたけれども、その着眼點が際どい關係を歌つてゐるし、なかまそれに、中に先づかさい笠のことを云つて置いて、したすばかさおところじづつさうして、下へ菅の笠を置いた所などは、事實じよしやすこぶおも〓〓おいまの叙寫として、はげじやうたいうつかんけい頗る重々しく、ふでかやうな勢ひの烈しい狀態を寫す簡勤な筆ふてきたうてんつきなみしうとしては不適當である。さこのここの點などはかつての月並臭がなほ少しばかり殘ところさまたおもつてゐる所といつて妨げなからうと思ふ。話 俳と釋評138ゆふひおぶせ夕日負ふ六部脊高き桔野哉たかかれかなぶさいこくしよらいはいしゆぎやうしや六部は西國三十三ヶ所を禮拜する修行者のことである。いまかれのそれが今、枯野をりふしゆふがたたいやうすでちへいせんを行きつゝあるが、ちか折節、夕方で、太陽は既に地平線に近くなつてゐて、そなからぶうしろてちやうど其の光はまともに六部を後から照らしてゐる。ぶゆふひそれが丁度、六部が夕日をセおゐみ背負つて居るやうに見えたといふのである。たいぶせおひおへんおひう一一、六部は背に一つの笈を負うてゐる。そんな邊より、その笈の上に、ゆふひおたんふ3)ひとゆ·大いま單に普通の人が夕日今は夕日までを負うてゐるといつたのであらう。が、ぶひおまつたおを負うてゐるのならばまだしも、六部が日を負うてゐるといふのは、全くきヘくひとんちてきとりあはまたくちあはせ頓智的の取合せ、又、口合といつてもよいのであつて、これは前の句に比そうつきなみてきしゆかうぬまかおもすると、一層月並的趣向を免れてゐぬやうに思はれる。が、すると、くもすけきんたまくろほたび雲助の睪丸黑き榾火かなりよかうちうこれは旅行中、おむしみ昔はよく見たもので、すもすけきやくまち雲助が客待をして、みちはたいじんりききやくまち道端に、今でいへば、人力の客待さむじぶんたきび寒い時分には焚火などをしてゐ子規の旬をしてゐるごとく、雲助が客待をして、みところる。それを見た所である。いまほたびたあたくもすけこかん今滑火を焚いて當つてゐる雲助の股間に、きんたまあら睪丸が現はれてゐるが、それ
          が火に映じて黑く見えたといふので。いかにも無造作に見た所を言ひ現はしたのはよいが、さらばといつて餘りいゝ感じも與へぬ。たゞそんなこともよくあるといつた位のことである。と話併釋評140たゞそんなことこれは、これは、月並家にあつては卑怯で、これだけ穢苦しいものは露骨にいふこともなからうから、それに比すれば聊か特色があるといつてもよいが、さらば汚ないものをよく詠む其角ほどの技倆に似た所があるかといふに、なか〓〓中々そこにも達してゐない。で、要するに初歩の作たるは免れぬが、唯だ大略に憚りなく句作するといふ子規の氣魄だけは、この句で窺はれるといへるであらう。神に灯をあげて戾れば鹿の聲春日の社か何かで、今しも神官が神の前に灯を上げて戾りつゝあると、後で鹿の聲がしたといふので。これらの趣向は、叙寫法さへ今少し〓究とされたならば、隨分趣もあつたであらうが、「上げて戾れば」といふごとき中七字では、たるみがあつて一向に振つたところがない。この句は子規l自らも、その際は神韻縹渺たる積りでゐたが、その實句柄が幼稚で調子も整はぬと嘲つてゐるが、實際その通りである。以上は『俳句帖抄』以前のものであつて、翌年即ち廿五年になつては、『俳句帖抄』にも聊か留めて置いてあるから、自身にも、先づ新たに拓いた俳句の畑へ足を踏み込んだ位の自信はあつたものと思はれる。で、これから廿五年の句を解する。されたならば、この句は子規自らも、子規の句で、これから
          みのかさはうらくさ、いほ蓑笠を蓬萊にして草の庵話 俳釋評とこの句には、みのまいかさこみのばうしうあめかさは川越の風にざれたるを床の間かはごゑ裁一枚笠一個義は房州の雨にそほち笠まかざにうやうやしく飾りてまへがきしきぐわんらいひじやうりよかうずといふ前書がある。かった子規は元來非常な旅行好きであつて、たつしやとき身體の達者な時じゞやうすゆかぎりよかうは事情の許す限り旅行をしたものだ。わらぢきやはんすげがさそれが、いつも草鞋に脚半に管笠をいたあめふみのき頂いたもので、こと雨が降れば蓑を着た。とくいみなりで、それが殊に得意の身形であつたなにしよもつしきせうねんごろしやうがいので、かつて何かの書物に、ねん〓〓しやしん子規の少年頃よりして生涯の年々の寫眞を載のくわはんみのかさすがたせてあつたが、うつそれも過半は装笠の姿を寫してゐる。こうねんとこっ後年、床に就いて、またりよかうできさいご又、旅行の出來ぬことになつても、りよかうきみのかさその最後の旅行に着た装笠をば、いつので、いつうながいまいたしとこわきかべつる子も床傍の壁に吊して、それを打ち眺めてゐた。それは今に至るまでも、きうたくせいぜんかふうりよかうず規の舊宅にはやはり〓前のごとく懸つてゐる。かういふ風に旅行好きで、ねんうきみやつとくいかみのかさこの廿五年にすでに且つ義笠に浮身を要すことを得意としてゐたことは、でき〓〓それであつたから、この句も出來たのである。たいへ〓〓のでたはうらいかざしゆ〓〓かたと他の家々では目出度き慈萊を飾り、それに種々のものを式のごとくに取あつびよそほくさいほりみのかさとこり集めて、美々しく裝つてゐるが、わが草の庵にあつては、蓑と笠とを床かざすなははうらいはうらいせんにんすまゐたのの間に飾るのが即ち蓬萊であるといふので。蓬萊は仙人の住居で、樂しきめでたきやうがいところときみのかさりよかうしやうがいわれ目出度き境涯であるといふ所より、時に蓑笠の旅行生涯が吾にあつてははうらいしまおなかんいだ500おも送菜島と同じき感を抱かせるといふことを次かしてあるとも思はれちやくさうじよしやぶんせいこうこの句などは、着想といひ叙寫といひ、十分成功されてあるものであしんねんはうらいめいぢたいかしきそもそはつる。さすればこの新年の萊の句が、やがて明治の大家の子規の抑もの發し子子規の句る。
          とたい途の第一句ともいふべきであらう。釋評と話俳しふつか死はいやだそのきさらぎの二日灸きう144ぐわつかきうす4+4なじゆみやう二月二日に灸を据ゑると病が無く、ながたもいつた壽命が長く保てるといふ言ひ傳へがしある。そこで、死ぬのはいやであるから、きうすべつこの灸を据ゑるといふので、別かはしゆかうに變つた趣向もないが、はうたんてきいはなところかくのごとく放膽的に言ひ放した所と、「そのきささいぎやうはふしうたことはらぎ」と西行法師の歌の言葉をあやつゝた所が、ところまあたひ先づこの句の價であらう。きめしたこおもひ五器の飯ほとびる猫の思かやきわんしゆるゐ五器は椀の種類。ねこしよくきおほわん8°猫の食器には多く硫が用ゐれらてあるから詠んだのである。をりミときしきこひか折しも猫のさかりのつく時、頻りに戀にあこがれて、駈けめぐつてゐめしくわすわんめしめして、飯食ふことも忘れてゐるから、その椀の飯もほとびてゐる。飯をほとことたこふかおもくるびさせるほどに猫も深く思ひ狂うてゐることであるかやといふ。これも言ははたらおもかち葉の働きが重なる價値となつてゐるやうである。みしゆくわんてきくことははたらまへみ前の句を見てもこの句を見ても、主觀的の句で、そして言葉の働いた句おにつらふうてんみとししきあるひはせをこの年での子規で、或は芭蕉でなくて鬼貫風の點もあるやうに見えるが、むしじゆくかくゝわんてきじよけいおほの句としては、寧ろ純客觀的の叙景の句が多かつたので、しかもそれらおほへいはんちんぶみなおほとくそんいまみ特に存すを今から見れば、多くは平凡陳腐と見做すべきものが多い。で、かんひかくてきすくなはうめんじんおほえらるものとしては、却つて比較的少かつた方面の句を、自分に多く選んだもしきこひか頻りに戀にあこがれて、わんめしその椀の飯もほとびてゐる。か駈けめぐつてゐめし飯をほとことこれも言て、で、の句としては、いまみを今から見れば、子句の規るものとしては、おものかと思はれる。
          とたいく途の第一句ともいふべきであらう。釋評と話俳144ふつか死はいやだそのきさらぎの二日灸きうぐわつかきうすやまひなじゆみやうながたも二月二日に灸を据ゑると病が無く、いつた壽命が長く保てるといふ言ひ傅へがしきうすある。死ぬのはいやであるから、べつそこで、この灸を据ゑるといふので、別かはしゆかうはうたんてきに變つた趣向もないが、いはなところかくのごとく放膽的に言ひ放した所と、「そのきささいぎやうはふしうたことばところらぎ」と西行法師の歌の言葉をあやつゝた所が、まあたひ先づこの句の價であらう。きめしねこおもひ▲五器の飯ほとびる猫の思かやきわんしゆるゐ五器は椀の種類。ねこしよくきおはわんもち猫の食器には多く碗が用ゐれらてあるから詠んだのでよある。わうねこときしきふか駈けめぐつてゐ折しも猫のさかりのつく時、頻りに戀にあこがれて、わすわんめしめしめしく飯をほとて、飯食ふことも忘れてゐるから、その椀の飯もほとびてゐることねこふかちかくるこれも言びさせるほどに猫も深く思ひ狂うてゐることであるかやといふ。ははたらおもかち葉の働きが重なる價値となつてゐるやうである。まへみみしゆくわんてきことははたらく前の句を見てもこの何を見ても、主觀的の句で、そして言葉の働いた句あるひはせをおにつらふうてんみこの年での子規とししきで、或は芭蕉でなくて鬼良風の點もあるやうに見えるが、の句としては、寧ろ純客むしじゆくかくゝわんてき觀的の叙景の句が多かつたので、じよけいおほしかもそれらみなおほとくそんいまみおほへいほんちんぶで、特に存すを今から見れば、多くは平凡陳腐と見做すべきものが多い。はうめんくじんおほえらかんひかくてきすくなるものとしては、却つて比較的少かつた方面の句を、自分に多く選んだもか駈けめぐつてゐめし飯をほとことこれも言で、子句の規るものとしては、おものかと思はれる。
          行き〓〓てひらりと返す燕哉か、釋評と話俳146燕の飛ぶ形を叙したものである。一方へ行き〓〓つゝある中に、忽ちひか、らりと、身を返して他の方面へ飛んで行くといふので、この中七字に燕のう狀態がよく寫されてある本人もこの活躍が得意であつたのだと思ふ。これは客觀的で活動の加味された句である。忽ちひらりと、こ△黑門に丸のあとあり山ざくらこれは「上野」の句であつて、黑門に丸のあとがある。その傍らに山櫻が咲いてゐるといふので。打ち見た所と多少歷史的の感慨を加味したゞけで、別にどうといふ巧みな點もないが、かく平穩に叙された所は、これもで、一つの句の體をなしてゐる。た〓歌〓一一、子規の句は餘りに奇僻なことや、餘りに活動したことなどは、ひはするけれども少い方であつて、却つてこの句などが子規の重なる面目を顯はしてゐるといつてよからうと思ふ。開いても〓〓散るけしの花t:罌粟の花は、他の花に比すると脆いもので、咲くかと思へば忽ちに風に吹かれて散り落ちて了ふ。即ちいくら開いても又開ひても散つて了ふことであるといふので。何處か言葉は子供らしくあどけない叙寫であるが、し3つかもそれが罌粟の花の狀態をよく寫してゐる。これも彼の平穩なる着想のた一例である。咲くかと思へば忽ちに風に子規旬のし
          釋評と話俳子規の餘情のある句ぜんくわいしきしよきくすことおこんくわい2.前回に子規の初期の句を少しく解いて置いたが、今回はそれに續いて、かれモのちだん〓〓いところくとみ々彼が其の後段々に進んで行つた所の句を解いて見よう。かすがのねひすぎつるこゑ春日野や子の日も過て鶴の聲めいぢねんくぐわさんだつこれは明治廿六年の句で、『〓賛』といふ題が附いてゐる。かすがのちめいをりとしはじしやうぐわつねひすこう春日野は地名、折しも年の始め、正月の子の日も過ぎた頃のこと、なこゑきの鳴く聲を聞いたといふのである。むかししやうぐわつねひのベこきつひちㅗちぎきつれい昔は正月の子の日に野邊の小松を引いて、っる鶴ちㅗちぎきつれい千代を契るといふ吉例があねひそもちろんしやうぐわつゐんれきつた。茲に子の日といふのは其れのことである。勿論正月は陰曆のことかんそゆるしうゐじぶつはろのベであるから、もはや寒氣もだん〓〓弛み、周圍の事物も春めいて、野邊にみをんだんきもよほモきやうけみやをとこをんなうつくころもは一味の溫暖の氣を催してゐた。其處へ、京家の雅びた男、女が美しい衣きできたはむあそそうはるおもむきセを着て出て來て、戯れ遊ぶのであるから、一層春めいた趣を添へる。さいうねひすですみうそしゆんしよく左樣なことのあつた子の日も既に過ぎたといへば、一層其處らの春色もよほおよみひとこゝろのどかときそらも催して、霞もたなびき、人の心も長閑になりつゝある。かゝる時に、空あたつるなこゑうつくおだおもむきに當つて鶴の鳴く聲がしたといふのだから、いかにも美しく穩やかな趣げんぐわいさうぞうが言外に想像される。ガチャの6じすではるひところたらべつそれに春日野といふは、文字が既に春の日といふ所より、他の地より別かんのどかねひな6てうみやこれきしして感じも長閑である。それに子の日といへば、奈良朝の都あたりを歷史てきおもうかところわづかじすこぶよじやうよゐんと的に想ひ浮べた所もあらうし、僅に十七字であるが、頗る餘情餘韻に富んつた。子規の句
          かんちくかくおもで、含蓄の深い句であると思ふ。こくしきすでぶんしんきやうえところみ此の句は子規の既に十分なる進境を得た所も見えるか、のちしかもなほ後のしきおよどうじんくがらくらみいちじることなところみ子規及び同人の句納と比べて見ると、とき著しく異つた所も見えて、この時にもつはけだかひん(·おくゆきふかところつとしは専ら氣高く品よく與行の深いやうな所を力めたことが知れる。いんしやうまだ印象めいれうごろじきはじたひとり明瞭にして、テキバキとした句などは、此の頃は子規始め誰れ一人としていたぶしんはいくたぶんこかかむ到つてはゐなかつた。かの一部の『新俳句』も多分は此のあたりの傾きを以みて充たされてゐる。釋評と話併150まさむねまなこどようはし正宗の眼もあらん土用干りくぜんまつしまずゐがんじさくみぎてらまさむねこれは陸前松島の瑞嚴寺での作である。くわんゆいしよ右の寺は正宗に關する由〓のあところじんおもたせうこつけいみふ(る所より、古人を思ひ出でゝ、多少の滑稽味を帶びて作つたものである。をりなつモこじつさいどようほしまたてら折ふし夏であつたから、其處に實際土用干をしてゐたか、又、どの寺にじうもつどようばしおもとかくそとようばしも什物があるから、土用干をすると思ひやつたのか、兎に角其の土用干のさま〓〓しなものなかせんだいこうさまむねまなこえいゆう樣々の品物の中には、仙臺侯正宗の眼もあるであらう。かくのごとき英雄まなこひほうもつつたの眼は是非資物として傳へられてゐることであらうといつたのであもちろんじっつしんきやうかうた勿論事實にはあるべくもないが、詩人の興として此くのごとく歌つて、しゆくわいこじやう끈ひととくべつえいゆう一種の懷吉の情を将ただのである。それに其の人が特別なる英雄でことかためうしなこゝひとところさうぞうモひとがん殊には片眼を失つて一目の人であつたといふ所ら想像して、其の人を眼ぜんいみごとゑがてんまへおくふかことな前に持ち出だして見るが如くに描かれた點もある。前の句の奥深きとは異しゆざんしんしゆだんろうところぶんしんきやうあらるが、一種の斬新な手段を弄した所は、これも十分の進境が現はれてゐる子規の句るが、みとを認められる。
          釋評と話佛五文づゞに分けて淋しや草の花秋の草花を摘んで、秋の草花を摘んで、それを賣る場合と見えて、一束づゝに分けてそれが五文づゝだといふ。賣るものも貧しき人であれば、賣らるゝ能も春の花と報あ·さ異つて、どこかに淋し味を帶びてゐる。其の花の價が五文づゝだと聞けば、一層其の感が深く思はれるといつたのだ。五文づゝだといふ。人間の食しいのと花の淋しさとを配合して一つの秋のじ.これは少さい景であつて、趣が歌はれてゐ之しかも其の中に頗る餘情を含めた手段が見る。えてゐる。▲須磨の浦や松に涼しき裸蜑これは廿七年の作である。所は須磨の浦で、其所此所に松が生えてゐて、す.其の根元に裸の蜑がゐる。それを涼しく感じたといふので。この蜑は勿論女蜑と思はれる。即ち昔の在原中納言の故事を地に依つて思ひ出でゝ、そす.れに發といへば裸體の場合の多いものであるから、其處で涼しいといふ意味を歌ひ、なほ其の奧には一種の懐かしき美人であることを思ひやられるそ味を歌ひ、のである。ん實際この句のおもては作者自身が日藥したごとく叙してあるけれとも、今時に、かの地に裸の女がゐるのでもないから、やはり昔の樣を想像してゑ描いたものであつて、それにある歷史の趣をも取入れてあるから、には一幅の裸體〓とも見らるゝ譯であるが、併しかやうに描いてあれば、別段裸體攻擊を受けるやうな氣遣はなからうと思ふ。實際于規の句一面
          ひあた▲日の當る石に觸れば冷たさよいしさはろの釋評と話俳154いませいてんひて今しも晴天で日が照つて、ごあたそれが石のおもてに當つてゐる。てそれへ手をさわみつめかん觸つて見れば冷たく感ずるといふので。めんあたゝかうたためん一面に溫みを歌つて他の一面につめあらところふゆひなか冷たさの現はれる處が、おもむきかな冬の日中のこはる趣に合つてゐて、問はずして、小春ごろおもむきうたわか頃の趣を歌つた句といふことが分る。ぶつホこれらは、ある一物について、深とうてつくしみ〓〓と透微したものであつて、しきしがんえいりいよ〓〓子規の詩眼も銳利になつたところばく所がトされる。なつかはばしみつう▲夏川や小橋たわゝに水を打つねんさくこれは廿八年の作である。どこみ何處にもよく見ることであるが、いまじこう今しも時候なつをがはながちひはしわたまいは夏で、小川が流れてゐる。それに小さき橋が渡してあるが、それが一枚ばしまいならひとふしたみづあた橋かもしくば二枚も並べてあるか、人が踏めば下の水に當つてへたりへたみみづうほとばしひとしぜんすところり其の水を打つて迸りが人にもかゝるといふので。自然に涼しげな所は、なつかはもつとあらあせいしつbかん夏川といふことを最もよく現はしてゐて、なほ或るものゝ性質も遺憾なくひとかんじゆ人に感受せしめてゐる。まいそれが一枚だいぶつあし3さむかな大佛の足一元に寢る夜寒吸な6すみさだださつすみさだならりよ〓奈良の角定にて」といふ題のある句である。察するに、角定は奈良の旅てんたびモばくときさくおも店で、旅して其處に一泊した時の作と思はれる。をりあきよさむおはときことだいぶつだうわきそあし折しも秋、夜は寒さを覺える時であるに、殊には大佛堂の傍で、其の足かんもちろんならともとねおもそうよさむ元に寢てゐると思へば、一層夜の寒さを感ずるといふので、勿論奈良の宿さつ察するに、すみさだならりよ角定は奈良の旅子規の句
          屋のある所と大佛殿とは距離もあるけれども、此くのごとき大きな殿堂は殆ど奈良一面を壓して居るやうなものであるから、〓詩人の心では大佛の直ぐ傍に寢るとも思はれるので、此處に一つの想像が働いて、ハ餘情餘韻を含み、なほ詩の境地が頗る雄大に誇張されてゐる。この句などは子規集中でも最も雋拔なものゝやうに思はれる。話 俳釋評春風にこぼれて赤し齒磨き粉これは廿九年に入つての作である。其處に齒を磨いた時の齒磨粉が赤くこぼれてゐる、折しも春で春風が吹いてゐるといふのであうが、其のこぼれたのが風に吹かれたと思ひやるので。一體ならば、何らかといへば汚なげな卑しげなものであるが、配合物の爲めに一種の色彩を添へて、どこかどこかこれも詩的手段として十分造詣した所情ありげに思はれることになつた。が見える。·▲相撲取小さき妻を持ちてけり其處に相撲取がゐる。それに連れ添ふ妻を見れば頗る小さい女であるといふだけのことであるが、この小さき妻といふ所に一層優しげな趣も見だかやうな女が肥大な感健な關取などともいはれる益良夫に連れ添うてゐるといふので、其の反對なものゝ趣を歌つた所に、一種の情味ある調和が感得せられる。なほ餘意としては千兩 戦の稻川とお翌和の故事な裏面にども連想に浮んで來る。言ひ現はしは極めて簡單な言葉であるが、える。てゐるといふので、調和が感得せられる。ども連想に浮んで來る。頗る複離な趣を現はしてゐる。于規句
          釋評と話俳きくみなみやまうへ菊ばたけ南の山は上野なり七きくはたけみなみあた其處に菊畑があつて、〇十うへのそれから南に當つて山がある。それは上野であるしきじえむらりじつきやうすこぶこれは子規自身の庵の實境であつて、そつちよくといふので、かぎ頗る率直に飾り氣もないのモなかきくみなみく言ひ述べてあるが、うへのしせんしゆみ、其の中に菊とか南とか上野とかか〓自然の趣味の通ふところまたえんめいこじすこにほ所があつて、又淵明の故事も少しは匂はせ、たりやうおもむきゑがやはり、多量の趣を描いてゐなか〓〓らうれんしゆだんうかゞくる。これも中々の老練手段が窺はれる句である。る。 * いじやうねんねんねんかん以上は廿六年から九年まで、はんじつさい四ヶ年間の句の一斑であるが、實際は、そころじゆんかくゝわんけしきえいくさかの頃は純客觀の景色を詠じた句が盛んに行はれてゐる。おこなしき子規にもそれらおほじせんの句が多かつたけれども自選の句集には、それらよりは寧ろ主觀にいて、くしふむししゆくわんおむぎじつさい實際は、そリめんよじやうふくひかくてきおほえらこんくわいおも裏面に餘情を合んだやうなるのが比較的多く振ばれてゐるから、今回も重かいえうどうじんはいくせいこうにそれを解したのであるが、要するに、われ〓〓同人の俳句の成功は、やはへんおもおしきモかんがへりこの邊に重きを置かるべきものであつて、子規も其の考からかういふふうこうせいのこきおもしかじゆんかくゝわんりいしよく風のものを後世にも殘さうと期したものと思はれる。併し純客觀の景色われ〓〓めいぢはいくしゆほこせいこうの句も、吾々の明治の俳句としては一種誇るべき成功もしてゐることであしきはじそたひと〓〓きるから、なほそれらの句についても、子規のを初め其の他の人々の句も機やはの句も、るから、なほそれらの句についても、くわいえせうかいおも會を得て紹介したいと思ふのである。旬俳の子女女子の俳句ぢよしはいくかいしやくさき女子の俳句の解釋をするに先だつて、±ぢよしせいしつことなてん先づ女子の性質の男子と異つた點
          のみを述べて見よう。ぢよしほんらいてんねんしよくぶん七五だんしなとくべつしよくぶんも女子は本來、天然の職分、即ち男子には無い特別の職分を持つてゐる。だんしそとではたらたじよしうちのかじべんさすそれは男子が外へ出て働くに對し、女子は內に居て家事を辨する。而してこどもはらうあとしごろそだこのことひと子供を孕んで產んで、或る年頃までは、はぐゝみ育てゝ行く。此事は單りにんげんかうとうどうぶノみなそのとほすこぶめんたうやく人間のみでなく、高等なる動物も皆其通りで、頗る面倒な役まはりである大古より造物主が女子の方へ、之れをいひつけて居る。おほむかしどうぶつしゆぢよしゐこのやくめおほむかしが、此役目を太古よぢよしひきうゐせいしつそれそかなできり女子たるものは引受けて居るから、性質が其等に適つたものとして出來こつかくきんにくはつたつひハじうなんところいしきはたらかんてゐる。骨格筋肉の發達から、皮膚の柔軟なる所から、意識の働きや、感じやうしりよusみぎしよくじんってきがふできゐだんし情とか、思慮とかも右の職分を盡くすに適合して出來て居るで、男子にくらやわらこましうちやくふかカてんとくき柔かであるし、細かであるし、執着が深く、或る點には特に氣きいぢよしどこそれであるから女子たるものは何處までと話俳釋評160はつたつてゐる。骨格筋肉の發達から、じやうしりよusみぎしよくじんっ情とか、くらやわらこま比べると、柔かであるし、きいの着くと云ふやうなこともある、てんねんできゐそのやくめつくよりよくだんしおなじ"ても天然に出來て居る其役目を盡し、餘力あらば男子と同じやうな事業を手そのほかおのれらくぢよしさうおうつだ女子相應のも傳ふこともよからうし、其他自己の娯樂とすることなども、えらななのを選んで爲しいゝのを爲せばいゝのである。しかぶんめいはつたつけつくわじよしがくもんきくわいで然るに文明の發達とか云ふことの結果は、女子にも學問をする機會が出きはつたつちしききふはつたつしおばい來て、發達しなかつた智識も急に發達し、知らなかつたことも覺えると云ふ風で、ふう女子の側では頗るめづらしいと云ふ所から、ちよしがはすこぶいところ何でも是等の智識學なんこれらちしきがくなんてまむたしあつおうよう壓とん男子をへこましてやらう、問を應用して、男子に負けぬやうにしたい、これせいやうきにほんおひ〓〓このふうものじやうせいしてやらうと、是が西洋から來て日本も追々此風になつてきた。物の情勢いまへいかじむたむり前に言つた家事を營として無理ならぬことではあるが、さらばと言つて、いたんしはうひきわたしまラそだむとか、子を產んで育てるとか云ふことが、ごとぢよしはうふたん男子の方へ引渡されて了つたゐいやいしぜんういべん嫌と云つても自然受のでもない、以前の如く女子の方に負擔されて居て、むとか、のでもない、
          もこやくめさらけ持たねばならぬのであるから、此の役目をしながら更に男子と同樣なしだんしにんやくたぢよしすくなにんはんやくとをしようとするには、男子の一人役に對して、女子は少くも一人半役をつとはたぢよししん〓〓だんしわりすぐと勤めねばならぬ。果して女子の心身が男子よりも五割も優れてゐるか何うぢよしだんしくらあちやうたんかまだかおとはうか女子は男子と比べて或る長短あるに拘はらず先一つは老つた方になすなはすうりおいゆるじちしきがくもんはつたつつてゐる。即ち數理に於て許されぬから、一時智識や學問が發達したからあまづのをとこせけんでしみとて、餘り國に乘つて、男のいたことを世間に出て爲て見ようとするのはみほどしふつかふし.だいい身の程知らぬ不都合なる次第と云つてよい。せう〓〓はなしわきみちはいはいくびうたたんじゆん少々話が岐路へ入りすぎた。さて俳句は一つの美を歌ふもので、單純なもくてきひと〓〓こらくゐしやすこれそのたぶんがくおなる目的としては、人々の娯楽慰藉に過ぎない。是は其他の文學と同じわけじんせいぎやくきやうはんもんいので、人生にはあらゆる逆境があり、煩悶があるから、そのまゝで居ては生ち?ところなにきてんそのきやうぐうゐいさゝよゆうそん命も續かぬ所から、何か氣を轉じて、其境遇に居ながらも、聊か餘裕を存俳話と釋評162かもとおのれりがいとくしつくわんけいたびいうたすることを求めるには、己と利害得失の關係の無い美と謂ふことを歌ふにそのびいうたすべぶんがくしごと如くはないし其美と謂ふことを歌ふのは、凡ての文學の仕事であつて、そぶはいくみぎしごとしゆるゐぞくぶんがくやはり右の仕事の種類に屬の文學の一部として俳句があるのであるから、びうたもくてきぢよしおいにちじやうせいして、美を歌ふことを目的としてをる。さすれば女子に於ても、日常生をいろ〓〓ぎやくきやうはんもんことかんじやうえいびんおく殊に感情の銳敏送つてゆくうちには色々の逆境も煩問もあるのであるし、しりよちみつせいしつむたしいじやうくるなやときおほで、思虛の緻密な性質にあつては、男子以上にも苦しく惱む時が多いのではやしつとおこじやすゐれいなどおこそのある。早く言へば嫉妬が起る、邪推をする、例のヒステリー等も起る。其いうけいてきあひしよなにきやうぐうまぬかに有形的には場合に處して、何かその境遇を免れることがなくてはならぬ、わたしいまぬかせいしんまぬか免れずとも、せめて精神だけでも免れねばならぬ。それには私から云ふとがでんいんすゐしはいくばんてきたうなぜたんぶんがく我田引水かも知れぬが、俳句が一番適當してゐる。何故なら單に文學としせうせつはじながぶんがくおんがくくわいぐわえんげきても小說を初め、長い文學もある。また音樂、繪〓、演劇などもあるがで、
          がくもんかねなげうできこれは學問もせなければならぬ。ぢよし金も擲たねばならぬ、これが出來る女子かくべつそのたものできまぶじばうさいなら格別、其他の者にあつては、したくても出來ず、又家事に忙殺されてじかんこれらさはりいさヽなもと時間があてられぬ。であるから是等の故障が脚か無いものを求めるなら、どはいくほかかおもすなはた。じ何うしても俳句より外に可なるものがなからうと思ふ。その即ち只十七字で其ことばつうじやうことはたすこことに言葉も通常の言葉で足る、なほ少しはむづかしい言葉もあれば宜いが、そまいにちめふしんぶんぶんぐらゐよれとて每月眼に屬れる新聞の文位を領みむじヵがあれば不自由はなちからじいうかんがいみぎごとたんしけいこどものそして考へると云ふことも、ち、右の如き短詩形であるから、子供に乳を呑まぬひも〓だいどころしごとせんたくはりものなどせながらも、縫物〓ながらも、イ臺所の仕事、洗濯、張物等をしながらも、かんかできさうそのうたところなんらせけんふかきどあいらくとう考へることが出來る。而して其歌ふ處は何等世間の深い壹怒哀樂等のことおほくわてうふうげっそのたじんじうたとこではなくして、たんばくしやだつ多くは花鳥風月、其他人事を歌つても何處かに淡泊で酒脫こゝろうたいきかたむきで、心を浮き立たしめるやうな方に傾向を持つことが、ほんらいこたんしけい本來此の短詩形の話俳釋評と164で、せいしつこれもてあそましごとじうじゐなかがくもん性質であるから、之を弄ひつゝ、又た仕事に從事して居れば、大した學問じつうやまへいきてんぎやくきやう金も入らず、かねかんも入らず、時間も費さずして前に言うた氣を轉じて、逆境はんもんちこらくゐしやえこのはい煩悶の地にありながら、娛樂慰藉を得られるではないか。してみれば此俳もてあそいぢよしゆゐたれでき句を弄ぶと云ふことは、女子として唯一の誰にも出來るたのしみと言うてモそのさくうおいいかうたいさヽさまたき、よい。而して其作の上に於ては如何なることを訳つても聊が妨げぬ。前にぢよしたんじきやうさうをとこまさしごとばんだんしうは女子が男子と競爭して、男勝りの仕事をして、一番男子を打ちまかさういはいくういかことうただんしとするのは、いけないと言つたが、俳句の上では如何なる事を歌ひ、男子まさつくたんしだうじやくなんらっがふよりも勝つたことを作つて、男子をして瞠若せしめても、何等の不都合もないく1ためだんしわりせいりよくいい無い好い句を作る爲に男子より五罰まさりの勢方が入ると云ふでもないまへごとかじいくじこかできうほんち前に云ふ如く、家事や育兒の勤めを缺くと云ふのではない、出來得る範圍きむたしできいたゞはいくうへに於て男子をうちまかすことが出來ると云ふことは只俳句の上のみに云ふ
          ちよしこのうへがくもんきくわいぢよしゐちたかだんしのである。女子に此上學問をする機會があつて、女子の位置を高め、男子おどろたできうきくむいを發かすやうにすると云ふことは他にもあつて、出來得る機會もあそのかたはぢよしやくめむりせいしんはたら其側らには、女子たる役目がおろそかになるとか、無理なる精神を働かせせいりよくて勢力の不足を感そんかんいことぢよしずるとか云ふこともあらう。それらの事なくして女子のきいえんはさしつかへこはいくいこのてんおい氣焔を吐いて差支ないのは、此の俳句のみと云つてもよからう。此點に於ぢよしはいくてわれは女子に俳句をおやりなるいとすゝめるのである。さうどひだんしかほんらいこらく而してなにも是非とも男子に勝たうとしなくともいゝ。本來が娛樂であむりふんはつおよたゞおのしうゐおのかんじるから無理な奮發をするにも及ばぬ。只己れの周圍、己れの感じを十七字あらよきよしんへいきモうたに表はせば宜いので、つとめて虛心平氣で其れを歌ひつゝあるうちには、ぢよししたしつきやうぐうかなおもしろできだんしかんがおよ境遇に適つた面白い句も出來、い女子の性質、男子の考へ及ばぬやうな好いでき句も出來る。釋評と話佛けつくわこらいぢよしはいくでんしやうねそれのの集果が古來女子の俳句となつて僅唱されて居るのであるかこのぢよりうはいくかいしやくことわかそのれきしたど此女流の俳句を解釋すれば、それらの事も分るであらうし、其歷史を辿り、しゆかうまなときざうけいしほり趣向を學んでゆく時には十分俳句に造詣する來ともなる。くかいくすべしうしきさくさてこれから句解をしよう。句は凡て秋色の作である。こひたこゝろおそ戀せずば猫の心の恐ろしやこのくしゆんきぞくねここひいよねこよ此句は春季に屬する猫の戀と云ふものを詠んだのだが、猫そのものを詠えいぶつねこいちよつとみひとこんだ詠物と云つてもよい。猫と云ふものは、一寸見ると人に媚びたり、あところやさそのじつどうもうするどつめも銳き爪を持つまへなづく處は優しさうにもあるが、其實なか〓〓獰猛で、parとくらくちちゐところずゐぶんあらて、鼠などを取り食つて、口つきを血まみれにして居る處などには随分荒ざんこくせいじやうみぐわいけいとかくこヽろおそかんつぱい、殘酷な性情も見える。外形は兎も角、心は恐ろしい感じのするもあ句俳の子女て、つぱい、
          いまこひをめしたやさなさけのであるが、それが今、戀をしつゝ雄は雌を慕うて優しく泣き叫びつゝあところみいかつくとこみねづみる處を見ると、如何にもあはれで、優しげな處がある。つね〓〓鼠などをとくらわすしまここひねここゝろ捕り食ふことなどは忘られて了ふ、此の戀をすることがなければ、猫の心どこおそろこのことためこのおそろかんなは何處までも恐しいのであるが、此事の爲に此恐しき感じが無くなることいかたれわかだんであると云つたので。斯う云つてみれば、誰にも分ることではあるが、男しかつうはうめんねこだできなんておそろ子では斯樣な方面から猫をうつし出すことは出來がたい。男子なら恐しいとらおほかみいねこおそいいづものは虎とか狼とか云ふであらうが、猫が恐ろしいなどと云ふのは、何れぢよせいはうみかたこらしぜんぢよしもしゆかた女性の方からの見方である。此處等が自然に女子のものに對する一種の傾等あらゐい向を現はして居ると云つてよい。168と話俳釋評ゐどはたさくらさけゑひ井戶端の櫻あぶなし酒の醉これじうこうくわいしやいうめいくこのひとこえうせうときよ是は人口に胎炙してゐる有名な句であつて、此人の極く幼少な時に詠んいつたなるほどそじみどこさまだと言ひ傳へられてあるが、成程措辭を見ても何處かあどけない態があつこどもよこのくねうちて、子供の詠んだ句として、此句には價値がある。いゐどばたさくらさそのさくらそばさけゑひと句の意は井戶端に櫻が咲いてゐる。其櫻の傍を酒に醉つた人がふら〓〓ゐはあひそのみづくのみとしてあるいて居る。ある場合には其水を汲んで飮まうとする。それを見ゐどなかおちいきづかてゐるとあぶない井の中へ陥りはしなからうか氣遣はしいと云つたので。これをとこかんをんなとくおこ是も男にも感じられぬこともなからうが、女として特に起しやすいのであそそおのはなみでかけもくげきそくせきかんのる而して其の己れが花見に出掛て、それを目擊した即席の感を述べたとえうせうしうしきがんぜんあらくかんこれミヘすると、幼少なる秋色が眼前に現はれて來るやうな感じもある。是も前のくらくゐこどもさくそのせいじやうあら句に比べると句としてはすぐれて居ぬが、子供の作として其性情を表はしゐつぎかいしやくて居るから、次に解釋をしたのである。て、る旬俳の子女
          おやおなとんわかじも親も子も同じ蒲團や別れ霜釋評と話俳わかじゃいじこうあたしもふ別れ霜と云ふのは、もはや時候もだん〓〓暖かになりて、霜の降ることそのさいゝさしものこゐましももなくなる。其際聊かまだ霜の殘つて居るのを云ふのだ。けれども未だ霜のこゐいいささむかんさくこんおんそが殘つて居ると云へば、聊か寒さも感じるのである。昨今は暖氣になつたこんやまたしもわかしもおやこおなムとんが、今夜は又霜が降つた。もうお別れの霜であらう。親と子が同じ蒲團でねゐまわりさむかんところおやこあひだむつまじやうあひかよ寢て居る、周圍の寒さを感じる處から一しは親子の間が睫じく、情合が通ゐいかんいいこれもちろんしうしよくじゝんうて居ると云ふ感じがすると云ふことを言つたので。是も勿論秋色自身のはヽおやあ、ところかやうにあひししゆかううたことで、母親の子を愛する處から、斯樣な場合に一つの詩の趣向として歌これなんじちよつとおもつしゆかうおもはるゝことになつた。是も男子では一寸思ひ着きにくい趣向のやうに思はことで、はるゝことになつた。れる。ほとけこヽろはちす佛めきて心おかるゝ蓮かなこのくはちすはなみかんこのはちすはなどこほとけところ此句は蓮の花を見た感じで、此蓮の花は何處かに佛めきた處があつて、たはなどこかしこうやますなはこゝろかん他の花よりは何處かに畏く、敬ふべく、即ち心おかるゝ感じがすると云ふもちろんはちすごくらくはうちひらいあまたほとけので、勿論運は極樂の七責池に開いてあると云ふこともあり、數多の佛がれんだいざいそれられんさうたれこのかん蓮臺へ座してゐると云ふこともあつて、其等の聯想から誰しも此感はあるこゝろうたところどこぢよしせいじやうあらが、やはり心おかるゝなどゝ歌ひなした處は、何處にか女子の性情が表はをれて居る。が、旬併の子女まじはしモそうめかな交りを紫蘇の染めたる小梅哉これえいぶつ是も詠物で、れうめみっそしモま例の梅の實を漬けて其れに紫蘇を交ぜて、しそいろそ紫蘇の色が染み
          っうめあかそりよモ〓じんてきこと附いて梅が赤くなつてゐる。其さまを詠んだものだが、其處を擬人的に言はつしそこうめしたまはじそのためいろし葉を使つて、あ紫蘇と小梅とが親しく交つたので、其爲に色が染み合つたとことはざしゆまじあかこまかところいふので諺に朱に交はれば赤くなると云ふこともあるが、くわん細い處へ觀さつくだモやさゝのおもむきうたところこれまをんなきゴ而して優しく其しゆかう察を下して、趣を歌つた處は、是も先づ女の氣着く趣向はうおもの方に思はれる。話 俳と釋評172はこわうゆびかりくれかね▲箱王が指さす雁や暮の鐘れきしてきはこわうそがらうえうせうなこれは歷史的の句であつて、あ箱王は曾我の五郞が幼少の名で、それが或ゆふぐれいりあひかれなa.ころかりそらわたゆびる夕暮に入相の鐘が鳴り響く頃、あ€雁が天を渡つてゐる。それを指さして彼かりふたおやじよんらたゞはおやなきやくの雁には兩親と子〓がある、自分等には只母ばかりで親が無いと云つて兄だいかなしあさい弟で悲み合つたと云ふことがあるが、そたんそこを詠じたものである。而して單ちうしやうてきじよれきしせつおもにそのことを抽象的に叙したのでは、歷史の一節としか思はれぬのであるこのくじよはふあだかみこあミそのはあひはこわうきよどうもくぜんあらカ此句の叙法は恰も好玆に在る如く、其都合舘王の擧動を自前に現はかりこゑかねこゑきことじよそすでちんぶ、れきし雁の聲や、鐘の聲やも聞くが如く叙してある。其處で既に陳腐なる歷史のはなしかこのくみあたらかんおここれえいしうさんかう話なるに拘はらず、此句を見ると新しい。じが起る、此は詠史の上に參考なふかうこじえいところぢよせいえ、になる句であるし、猶ほ不幸なる孤兒のありさまを詠じた處が、女性の詠になる句であるし、しい史と云ふことにもかなつてゐる。のちつきゆびたまつをか後の月指喰ひはそ松ケ岡句俳の子女のちつきたれしぐわつマつきまつをかいかまくらちはうあ後の月は誰しも知る九月十三夜の月、松ヶ岡と云ふのは鎌倉地方に在るあまでらこのつきよまつをかあまでらさまえいあまたあまと尼寺である。此月夜に松ヶ岡の尼寺の樣を詠じたので、數多の尼が集うてつきみこのうちゆびくたれぜひそのひとを月見をしてゐるが、此中に指喰ひをしたものは誰であるか、是非其人も居173
          るであらとう云ふのである。と話.併釋評此指喰ひと云ふのは源民物語の雨夜の品定めにある女が嫉妬の餘り男の指に喰ひついたとあるので、それを取つて嫉妬深い女と云ふことの代りにしたので、つまり、尼寺などに居るものは、既に世の逆境を經來つたものの のび.が多い、定めて嫉妬の爲に髪を削つた者もあらうが、それらの比丘尼は何處に居るかと云ふことである。同じことでも斯樣な物語なとの言葉を引くと一つの越があつて、單に松ケ岡、後の月と云ふ以上に餘情が深くなる。此句などは多少學問もなければ詠めぬ句であるが、其學問が何處までも女性的に現はれて居ることが知られる。にしたので、つまり、が多い、曉臺の句十句芭蕉以後の俳句の中興は天明であつて、其の中樞となつたものは蕪村であつた。が、この蕪村と志を同じうし、力を協せて俳句の中興を企てたものが他に一人あつた。それは加藤曉臺である。た.蕪村とは啻に通信のみならず、た.曉臺は尾張の人で、は蕪村が早く死んだので、二條家より「花の本」の免許をも受け、しば〓〓わうらい屢々往來をしてゐたらしい。それを悼んだ句もある。後には京都に往七ヶ谷天下の宗匠とも稱せられた。曉臺の句つて、であるから、この人の俳風も、一時は隨分廣く及んだものであらう。この人の句を蕪村のに比すれば、全體に平穩で覇氣が少ない、けれども、
          あるひ、あきた隨つて今日から見れは、或は慊らぬ感じをする人もあるであらうが、兎にしゆ〓〓、る弊風を一新して、角、芭蕉の死後に生じた種々な再び正風に人の目を注がしめただけの功績はあると思ふ。と話俳釋評176角、▲元日や暗きより人あらはるゝ句の表は多く客觀に屬してゐる。元日の曉曉打ち見るとまだ日は上らず、月はもとより無いから、周圍がその中より物言がして人の形が異はれで來たといふので、一人であ打ち見るとまだ日は上らず、月はもとより無いから、暗いるか二人であるか、兎に角曜ろげに人の往來などする樣である。ミ右の如く單に其の時の樣を叙寫したのみであるが、しかも其の中に、自然と元日の趣が生じて來るので、此處では年の始めといふ所から、遂に"か.世界の開關の昔を思ひやつて、例の混沌たるものが開割され、國士も出來、さう〓〓人間も出來たといふ所迄を想像に浮べて、それと、この元日のまだ暗い所さま〓〓より人が樣々に現はれる所とが相似てゐると感じたのである。beeこの句などは隨分奥行もあり、趣味の深い所は蕪村にもよく見る趣向でそれと、この句などは隨分奥行もあり、彼と劣つた所は殆ど見えぬ。あつて、〇五雪解や深山ぐもりを啼くからす÷だん〓〓〇七春まだ淺き頃である。降つた雪は段々と解けて來る。、曇つてゐる。其處に啼く鴉があるといふので、言外に寒く淋しいぜられるが、併し唯だそれだけの句であつて、きども、享保以後の弊風は少しも見えて居らぬ。〇七所は深山で、空は趣が感空は曉臺の旬ぜられるが、別段の働らきもない。けれども、
          釋評と話俳花とわれわれと櫻の影二人春も闌 になつて櫻の咲いてゐる頃、其處を道遙しつゝある。晝であれば日、夜であれば月、其處の所はどちらでもよいが、兎に角其の光の爲めにわが影と櫻の影とが地に映つてゐる。外には人がゐない。唯だ櫻の花とわれとが二人で相伴うてゐることぢやといつたので、を歌つた句である。,上を花といひ下を樓といつたのは、多少情を含んで美景字數の關係もあるかも知れぬが、その爲めのみといつては不手際である。やはり一たびは花と呼び、又た櫻といつて、歌ひ重ねた所に趣を添へたものであらう。▲すみれ摘めば小さき春の心哉菫を摘んて見ると、其の色のいかにも優しく愛らしい所より、春の心といふものは小さいものであると感じたといふのだ。春といへば總合的理想で、あらゆる周圍に景色をなしてゐるものである十五春は即ち此處にある。春の心は十五それをこの菫の花にのみ目を留めて、春は即ち此處にある。千tこの菫のごときものであると歌つて、殊に菫を愛でいつくしんだ所、が、春の心はが詩人の一つの感情といふべきものである。曉の 臺旬更衣ひとり笑み行く座頭の坊折から更衣の季節で、見ると座頭の坊が通る。それも衣を更へてゐて、
          顏には嬉しげに笑を含んでゐるといふので。かやうな片輪で目の不自由なものも、世間並に衣を更へて、何處か嬉しげに得意げであるといふ所。一面には普通の人情を歌つてゐるが、他の一面にはどこか可笑げな趣のある所も見えて、其處が一種の趣味ともなるのである。と話俳釋評佐渡に降る雨は涙かほとゝぎすこれは定めて佐渡へ渡つた時の句であらう。折しも雨の降つてる時に、時鳥の啼くのを聞いて、今この佐渡の島に降る雨は雨であるか涙であるから時鳥よと、それに尋ねた風に言ひ做したのである。=が句の裏面には、かつて此の島へ徒されて、崩御された後鳥羽上皇の時鳥よと、=崩御された後鳥羽上皇のが+歷史に思ひ到つて、嘸上皇の心にも都戀しく思召されて、時鳥のごとく不ならH如歸不如歸と泣かれたであらうといふ所から、この涙といふ字も出で來つたのである。田簡單な十七字の中に、目前の景色と歷史の趣とを複雑に合せ叙べた所なか〓〓ゆきとヾは、中々行屆いた手段のやうに思はれる。歷史に思ひ到つて、趣とを複雑に合せ叙べた所今日の秋死にしと聞きし人に逢ふ今日の秋といふは即ち秋立つた日で、今日から秋になつたといふ日に、それはかつて死去したと噂ふと知る人に逢つた。に聞いてゐた人だが、だ生きてゐたか、さても喜ばしいことぢやといふのである。が、たゞ珍らしい人に逢つたのでなくて、かつては死んだと聞いて、曉臺ま句181かつては死んだと聞いて、歎
          ひといぐわいあところよろこなかどさびなみだいた人に、意外にも逢つたといふ所は、喜びの中にも何處かに淋しく、淚ミさまあったてんちおひ〓〓せうでうゆの零るゝ樣のあるのは、やはり秋立づて、天地も追々と蕭條となつて行くけしきてうわ景色に調和するのである。俳話釋評と182いぬたでふしをあきくれ犬蓼の節折れしたり秋の暮みいぬたではかぜふしをそこを見ると、犬蓼が生えてゐて、それが風にでも吹かれたか、節が折あたちふときあきくれすなはちひしよくぶつれて傾き伏してゐる。時は秋の暮であつたといふだけで。即ち小さい植物ありさまながしうゐさびふゆちかじやうけいうつの有樣を眺めて、周圍もいよ〓〓寂れて、冬も近くなつた狀景を寫したものである。ふゆひさまつに日かな冬の日の射し入る松の匂ひ哉まつばやしをりふゆでひひまつさ松林がある。折しも冬で、出る日か入る日か、その松へ射し入つてゐる。ひとにほけしきながかんたんかくヽわんじよしやそこが一つの匂ひ景色と眺められ感せられるといふので。單に客觀の叙寫どなつじやうおまめんそわづあたみではあるが何處が懷かしげな情も帶びて、又た一面には其の僅かの溫か味ひとこゝろかんなぐさてんみを人の心にも感じて慰むやうな點も見える。おほどしよろほこみ▲大歲は夜の埃りも見ゆるなりおほどしすなはおほしんねんむかぜんや大歳は即ち大つもごりで、新年を迎へる前夜のことである。モこひよるながあかわづほこひと其處も此處も火をともして夜乍らも明るい。それで僅かの埃りまでも人ひみじよしやげんぐわいしうゐひとの目に見えるといふので。これだけの叙寫ではあるが言外に周圍の人も、せわた法どここゝろときさまさうぞうおのがじゝ忙しく立ち廻つて、何處かに心時めいてゐる樣も想像される。かんたんはたらおも簡單にして、しかも働きのある句といつてよからうと思ふ。曉臺の句183
          釋評と話俳184關更の句十句げうだいくかいつひこんどげうだい曉臺の句を解した序でに、はなもどらんかう今度は、曉臺に次いで「花の本」になつた關更くかいみひとぶそんげうだいの句を解して見よう、ちうこうふうてうかんくわいくこの人は蕪村、曉堂あたりの中興の風潮の感化を幾ぶんうくうおやゐぶんみ分か受けてゐたので、その句風に於いても隨分見るべきものもあるが、まぶんせいてんぼせつくわときたわう〓〓ごくしゆみた、文政夫保に接する過渡期に立つただけに、だ往々にして俗趣味に堕しはおもくせずやと思はれる句もある。てんめいけれども、まだ〓〓此處いらまでは、天明のよきやううしゆみしさくしや餘響を受けた趣味を知る作者といふべきであらう。ましやうぐわつかすひと正月も三日過ぐれば人ふるししやうぐわつなにごとあらたこゝろうき〓〓めでたことぶ正月といへば、何事も改まつて、心も浮々として目出度い〓〓と壽きぐわんじつかふつかみつかさらみつかすつゝあるが、はや元日が二日となり、二日が三日となり、更に三日も過ぎしまみぎやういはことぶひとこゝろいくぶんつねふくきあたしうて了へば、右樣に祝ひ壽いた人の心も幾分か常に復して來て、新らしい周ゐくわうけいみあとこる、そわひとう3さる圍の光景もやゝ見飽きる所より、其の吾れ人を打ち見ても、はや古びたやかんうな感じがするといふので。にんじやううたすこうがところふい三六よく人情を歌つてはゐるが、少し穿ちといふ所に踏み入つてゐるを免れこひとげうだいたせどぞくかたむてんおもぬ。こゝが此の人の曉臺よりも多少俗に傾いた點と思ふ。ぬ。ぐわんじつこゝろよ▲元日やこの心にて世にゐたし更關の旬ぐわんじつひとこゝろあつたすこけがまがかんがへおこ元日は人の心も改まりて、少しも汚れたり曲つたりする考は起さぬ。すじゆんせいこゝろもこゝろもつよべてが純正なる心を持つてゐるから、いつも此の心を以て世にゐたいもの185
          にんげんしやくわいきはへいわおのなんである。さすれば人間の社會は極めて平和で、ゆり行くであらうといふので。いたしゆじんせいくわんところわたこゝに至るともはや一種の人生觀ともいふ所に渉つて、ほとんできじゆんぜんつきなみてうものは殆ど見ることが出來ぬ。純然たる月並調である。おのなんくるわた己れも何の苦しみもなく渡話 俳釋評と186はいかいしゆみ俳諧趣味といふかみすてもとちはろゆき紙漉きの手許に散るや春の雪そかみすひとモてもとをりふしはるゆき其處に紙を漉いてゐる人がある。其の手許に、折節春の雪がちら〓〓とふしなものかみどおもむきところ降りかゝつてゐるといふので、品物が紙であつて何處かに趣を持つ所へゆきさまぐげしゆまたかろすずゐぶんつめ雪のちらつく樣はいかにも書趣がある。又、紙を漉くのは隨分冷たいことしのさらゆきちそうくるおもを忍ぶのであるに、そこへ更に雪が散るといふので、一層苦しさも思ひやじやうけいあはところしゆしてきしゆみこうせいこの情と景とを合せた所に、一種の詩的趣味が構成されたので、られる。まげうだいともちうこううたえれらは先づ曝參あたとと其に中製を歐ひ得たがはの句といつてよう。いとゆうしづ糸遊のみだれ〓〓て靜かなりところのベいとゆうたみだ處は野邊でもあらうか、糸遊が立つてゐる、それが亂れ〓〓てゐるが、しづなんらきう〓〓おもむきいかにも靜かな、何等の騷々しき趣もないといふので。しぜんはるのしらいけいしよくうたいこぞくてきかたむ自然に春の長閑な景色が歌はれてあつて、を持つてゐない。いこぞくてきかたむこれなども聊かの俗的な傾き園の.更句やぶいりふたりきた藪入の二人となつて來りけりをんなみこれは女と見える。おやざときところすでうそれが親里へ來た所であるが、已に子を生んだので、187
          ともふたりきふはうれおもところその子と共に二人となつて來たといふので、父母のそれを嬉しく思ふ所かむすめおやこたさまれんさううかじんじじよしやら娘親子のそれに對する樣なども聯想に浮んで、人事の叙寫としてはよくうたふたりことばき歌はれてゐるけれども、「二人となつて」などといふ言葉は、あまりに氣がきすたじつつきなみてきうがモひら利き過ぎて、他日月並的の穿ちの祖を開いてゐるのである。話俳釋評と188はるみづせせうなごんまた春の水〓少納言跨きけりぞはるみづながところをんなきせいせうなごん其處に春の水が流れてゐる所へ女が來た。それば〓少納言であつたが、さいはそみづは、あまひろみまたをか幸ひ其の水の申も餘りに廣くなかつたと見えて跨ぎ越した。それが可笑しかつたといふのである。はるみづやさまたをんなこときうぢよやさ春の水は優しいもの。又、女も、殊に宮女のごときものは優しいものでまたひめごかんある。それが跨いで越したといふと、姫御前のあられもないといふ感があまた又、をんな女も、ある。ひとおもむにうはるはなみのやまけしき、をんなづるこゝが一つの趣きで、一方に、春の花見などの野山の景色で女連れのあそさまあらをんないくぶんきやんふうにんげん遊びつゝある樣も現はされるし、また、その女が幾分か使な風の人間であみることも見える。もつとおむしさまむしげんざいもくげきところうた尤も、此處では昔の樣といふよりは寧ろ現任日擊した所を歌つたのであそおむしせいせうなごんかところひとしゆだんひとむらさせらうが其處へ普の〓少納言を假りた所に一つの手段がある。この人は紫しきぶちがをとこげんきあらひと式部などとは違つて、男まさりで元氣を現はした人であるから、たまたまことりあはかなつのらつきなみかおもよ此の取合せにも適ふ譯である。これらは後の月並家などには思ひも依らぬしゆかふらんかうめんもくたもく趣向で、さすがは關更の面目を保つた句ともいはれる。はるはなみのやまけしき、をんなづ春の花見などの野山の景色で女連れのをんないくぶんきやんふうにんげんまた、その女が幾分か使な風の人間であ關更旬のかまくらおとはつがつを▲鎌倉の世にも劣らず初鰹はつがつをまいねんかまくらえどおく初鰹は每年鎌倉から江戶に送られて、ぜんとしやうくわんえいきほ全都の賞 翫を得て非常な勢ひの
          いまふりかへみかまくらおむしげんけはとなものである。で、今振返つて見るに、鎌倉は昔、源家、北條家が覇を唱へをときなか〓〓さかものかはほしうつ物變り星移つて今の其の地は衰頽を極いまそちきはて居つた時は中々盛んであつたが、むかしよおとはつがつをめてゐる、それだのに、その昔の世にも劣らぬのは初鰹のみであるといふ俳話ど釋評190ので。こんつうくわんかんがいうたよおと古今を通觀して一の感慨を歌つたのであるが、「世にも劣らず」といふごことばつうぞくてきおむなたれなるほどがてんとヨニ暴はやゝ通信的に傾いて、逆にも感程と合歸せしめるだけそつきなみせうそくつうてんみ月並に消息を通じてゐる點が見える。ひやめしあきたひとかな冷飯に秋立つ獨りずまひ哉わひとものおもむきいまめしひやめしモ侘びたる獨り者の趣である。今しも飯を食ふがそれが冷飯で、其のひかんところけふあきたひきづ冷えを感じる所より、今日は秋立つ日であると氣付いたといふのである。ひやめしいとんぢやくうただところ冷飯と無頓着に歌ひ出した所などは、ある。ニもつだらくけいかう先づ以て墮落の傾向もないやうでせきとひざうへ關の戶やあられたばしる膝の上せきもりすなはせきしよはんにんさまこれは關守即ち關所の番人の樣である。いまはんしよすわをりあられふきたはしぢかひざう今、番所に坐つてゐると、折しも霰が降り來つて、端近なので膝の上にあやくにんめんいがぐわんばをもたばしつたといふので。或る小役人の一面には嚴めしく頑張つて居れどめんさむみミわびところうたも、一面には寒く身も凍えて侘しい所を歌つたものである。ごぶそんもてあそらいらくしゆみほのみこれには何處かに蕪村なとの亦んた薄落趣味が反かに見えてゐる。も、旬の更關ふゆたきびくもめがねかな冬ごもり焚火に曇る眼鏡哉
          たこれも侘び人と見えて、冬ごもりして梧など焚いて其の火に當つてゐる。きたび〓〓ぬぐその日々の埃でごけてゐる眼鏡が曇つて物見ることが出來ず、度々拭はねばならぬやうになる。話 俳釋評と,もとより雅樸な人間を描いてはゐるが、いた言ひ方であつて、位地が位地だけに、りやうめん兩面とも現はしたものといつてよからう。き焚火に曇るなどゝいふは氣が利これらが先づ關更の俳句生涯を一茶の句十句げうだいらあづか蕪村、曉臺等と同じ時代に出でゝ、中興の俳風に與つて力あつた人に加?.舍白雄といふ人がある。前回の續きからいふと、今度はこの人の句を解す蕪村、べきであるが、さうく、同じ包含の初をのめ解するも擧なるでであた寬政度の俳人中、他と異つた一生面を開い今回は一つ一足飛びに飛んで、寬政度の俳人中、た小林一茶の句を解することゝしよう。じけいばこの人は幼年の時分から繼母の手にかゝつて、餘りに苦しめられる所よち. 12表は脫走の姿にして、り、父も見兼ねたが、また妻に憚かる所もあつて、ない〓〓いさ內々聊かの金を與へて江戶へ遣はしたといふことである。で、江戶で或る商人の小僧となつてゐるうち、何時の間にか滑稽趣味の俳句を唱へて、だんだん人にも知られることゝなつた。い、其の後發年かを經 歸〓した時に、自分の家に屬する租稅をば、不在中り、で、商人の小僧となつてゐるうち、だ-茶の句い、自分の家に屬する租稅をば、自分の家に屬する租稅をば、不在中他の納稅者との權術を得ぬといつ當時の役人に其の不公平を訴へたことがある。われも昨年彼の產地たにも納めねばならぬことゝなつたので、て、われも昨年彼の產地た
          おれわあそときそぶんめんみる長野に遊んだ時に、其の文面を見たことがあるが、それがいかにも洒落まためんわうちやくこうじやうつかところみしやらくしやうがいなかまたで、又一面には橫看な口上を使つてある所を見ると、洒落生涯な中にも亦きらけんきはゞかさまみ氣骨があつて、權貴を憚らぬといふ樣も見えてゐる。こひとしゆ〓〓かんく~いこはじさいたいそして此の人は、種々なる艱苦を經たせいか、四十以後に初めて妻帶しモはじうまこうしなひじやうかむしさまみたが、其の始めて生れた子を失つたので、非常に悲んだ樣も見えるし、なまたふかうつどかはめんたほ又不幸にして妻も三度ばかり變つてゐる。それについては、一面には多じやうことわう〓〓つたみぎらしよかんじさにつき情なといふやうな事も往々傳へられてゐて、右等の書簡とか自記の日記ときやうりなかのいまもつのこかいふものも〓里の長野には今以て殘つてゐる。いまこひとだんかんれいしひじやうちんちようさくねんながのきようしんくわいで、今は此の人の斷簡零紙も非常に珍重されて、昨年長野に共進會のをりモてんらんくわいひらみああつた折などは、其れらのものゝみの展覧會が開かれたのを見ても、或るしゆじんぶつきやうじんそんちようわか一種の人物として〓人に尊重せられてゐることが分る。釋評と話俳で、モかいじんこうくわいしやいよ〓〓其の句を解することゝするが、人口に脂炙してゐるのさて、は、めでたちうぐらゐはる〓目出度さも中位なりおらが春これは江戶に在つた頃のどあころくえどこんおなた句でもあらうか、すべてが江戶言葉で成り立ついまたまはるあびんばうもくてきてゐる。今、あら玉の春に逢つたが、われはまだ貧乏でもあるし、目的もはたをなにのぞ果して居らぬ。けれども、何かまだ望みのないこともないのであるから、まめでたじやうげちうぐらゐところいはゞ先づ、目出度さも上でもなければ下でもない、中位の所である。そはるじつきやうこが、おらが春の實境であるといつたので。じこしようえどかりうしやくわいことばまたちうぐらゐ「おら」といふは自己の稱で、江戶の下流社會の言葉であるし、又、「中位」えどじんつかことばげびなどゝいふのも江戶人の使ふ言葉であつて、すべてが下卑てゐる。けれどそこが、茶の旬
          おもきむとんぢやくつかよころしゆがちしやうも.それを、思ひ切つて無頓者に使つた所に一種の雅致を生じて、作者のしやらくしやうがいかへあら洒落な生涯も却つて現はざれてゐる。ついこんにちしよしんはいじんなに〓〓序でにいふが今日の初心の俳人などが、やゝもすれば「おらが何々」などつかありあしやらくくうたこヽろえことはと使つて、それで廟れ酒落な句を歌つたと心得てゐるが、かやうな言葉はたび〓〓つかなんらきようみさごとひと度々使へば何等の興味もないことになる。一茶の如き人が、たまたまこのごとはあひうたはじきようたひとおなくりかへ句の如き場合に歌つてこそ始めて興あれ、他の人が同じことを繰返すのはむしそセつあら寧ろ其の拙を現はずやうなものである。作者のも.話 俳釋評と190かすにくやどやむら霞みけり憎い宿屋もあとの村はるなたとさまこれは春の旅路の樣である。あえきことこゆる或る驛へ着いて宿を請うたに許して臭れぬので、よそいこた餘儀なく其處を立ち出すこだふかみをりはるかすみ+で、少し隔たつてから振り返つて見れば、折しも春のことだから、霞が立いまやどことはにくおもモのどやおちなたにあとつてゐて、今しも宿を斷られて憎いと思つた其の宿屋も、霞を隔てた後のむらしまどなが:なかい村となつて了つて、何處かに一つの眺めある〓の中に入つたわいといふので、て〇にくやどやけびことばかすなが〓憎い宿屋」といふは下卑た言葉であるが、それを霞みの眺めに入れて、おお土なつかうたところおもしろがちみと忽ち懐しくなつたと歌ふ所に、面白い雅致が認められるのである。もんぜんつゑゆきげがは▲門前や杖でつくりし雪解川ひさふゆきとそこみづたまそこ久しく降つた雪がだん〓〓と解けて、其處此處に水が溜つてゐる。其處もんぜんつうろたつゑもつそゆきかが門前であつたから、通路の爲めに杖を以て其の雪を掻き分けた。すると、そすぢみづながゆゆきげがはつゑつく其の筋へ水が流れて行く。それを雪解川といつて、これはわが校で作つたそこ其處茶句の
          できごとものだと云ひなしたのである。うたなんでもない出來事をちよツと面白く歌つさくしやきがるきやうかいしぜんあらたので、作者の氣輕な境界も自然に現はれてゐる。話 俳と釋評としよりみなかみそば年寄と見てや鳴く蚊も耳の側いま今、いまかみヽもときな蚊が耳許へ來て鳴く。としよゆゑとほはな今、きおもわが年寄り故に違く離れては聞えまいと思つそばきなとしよりて、かくまで傍へ來て鳴くことであるか、かよけいDaoう年寄は蚊にも餘計の頒ひを受けることであるといつたので。かなんこゝろい蚊には何の心もないが、かわっなかどそれをかく言ひなして、蚊に煩ふ中にも何處かをかたはむところはいじんよゆうに可笑しく戲れた所に、さかいうた俳人の餘裕ある境が歌はれてゐる。て、なだあしさきくるみね投げ出した足の先なり雲の峰なつゑんばたあしなだそさひろのはら夏のことで、緣端へ足を投げ出した。其の先きは廣い野原か、それともね士でばなとかってむかくもみねた山の出鼻などであつたか、兎に角直ぐ向ふに雲の峰が立つてゐたので、そあしされを足の先きにあるといつたのである。はうたんてきはなしうゐおもむさひろ〓〓おほともいかにも放膽的に言ひ放して、周圍の趣も廣々と大きくなつたと共に、じこしんたいうくつろす。ところさう〓〓自己の身體も打ち寬いで、さも涼しげに打ち臥した所が想像される。それともそおばすてさふらうかしかな姨捨はあれに候と案山子哉おはすてしんしうめいしよさきやうりあまとほところそかたは姨捨は信州の名所で、一茶の〓里とも餘り遠からぬ所である。其の傍られいたごとかしたつかしおばすてくわんけいみところは例の田毎で案山子が立てゐる。その案山子と嫉捨との關係を見た所がちやうどしたひゞとめいしよ〇エさふらうゆびみ丁度知らぬ旅人などに、名所の山はあれに候と指さしてゐるやうに見えニ茶190たといふので。
          無心なものを可笑しく看做して、なほそれに、なほそれに、「あれに候」と能か狂言の下車ずに一つの興を歌つてゐる。釋評と話佛ごとき言葉を用ゐたので、名月を取て吳れろと泣く子哉めいげつ名月の明るい鏡みたやうなのを見て、と取つて欲しいと泣あれが欲しい、く子があるといふので。强ちかくいつたのではないとしても、子供に對しては、さもかやうなこめいげつとがあらうといふ所に、いよ〓〓空に名月の明らかに懸つてゐる樣が思ひやられる。「吳れろ」と俗な言葉を使つたので、一層その趣が眼前に躍り出るやうである。さもかやうなこやられる。一層その趣が眼前に躍り出祐成が蒲團引きはぐ笑ひ哉所は大磯の里で、曾我十郞祐成が昨夜より泊り込んで、朝になつてもまだ蒲團を被つて寐てゐる。相方の虎はすでに起き出でたが、ら成が起きぬので、態とつれ無く着てゐた蒲團を引ばぐと、を覺まして、互ひに打ち笑つたといふので。を無頓着に可笑しい所に一種の戀愛的情味も含まれてゐる。〓曾我物語時代にあつたらうと、詩人の想像を歌つたものである。いつまでも祐祐成も驚いて目気にし昔定めて、曾我物語時代にあつたらうと、茶の物十日程置いて一日小春哉く毎日々々霜も置き、十月の頃で、すでに寒氣もだん〓〓催して、凩も吹
          きすさんでゐるが、かたにちおれてそれが十日ばかり立つと一日は穩かなよい日和、ひよりすなは即ちこはるびよりますこ小春日和になる。たすひとで先づ少しは助かつたと人が感じるといふので。かんむざうさこれも無造作に言ひなして、モじううおもむきいかにも其の時候のうた趣がよく歌はれてゐる釋評と話俳あさはすみき朝晴れにばち〓〓炭の機嫌哉げんかなふゆあさおいしやうじあ冬の朝、起き出でゝ障子などを開ける。をりはそこひはちなにすみび折しもよく晴れてゐたが、其處の火鉢が何かにあつた次火がなち〓〓とはれて音をさせたといふのおとそちやうどめづ·てんきれが工皮この珍らしよし天氣を幾ちぎんだと見えて、よくはねるのすみよろこみごきげんた機嫌のよい爲めであるといつたのである。じつさくしやあさこゝちおも實は作者がこの朝を心地よく思つた所を、ところすみことうた炭のはねるのに事よせて歌つすみことうた炭のはねるのに事よせて歌つたのであらう。大江丸の句十句ぜんくわいさかいこんくわいこつけいしゆみくわんけいおほえまる前回に一茶の句を解したから、今回はその滑稽趣味の關係から大江丸のかいみひとさすこせんぱいこつげいさきよく句を解して見よう、この人は一茶よりは少し先輩で、滑稽も一茶ほどに極たんたはいじんひしゆとくしよくあるひさ端ではないが、他の俳人に比すると一種の特色がある。或は一茶などは此ひといくぶんし·ゆくところしの人に幾分私淑する所があつたかも知れぬ。句の丸江大た、くさおやひやうし七草や親の拍子にかしこまりしやうぐわつなぬかあさ正月七日の朝、はやおしゆじんひとなゝくさみづかた早くより起きて、王人たる人が七草を自ら叩いてゐる。
          その音を、息子か娘かヾ聞きつゝある心持を歌つたのだ。一體七草をはやたそれが親の叩く釋評とすのは、拍子を以てはやすのであるから、それを聞いて、み畏まつて耳を欹てゝゐるといふのである。それを聞いて、のであるといふ所より、畏まつて耳を欹てゝゐるといふのである。じ表面はいかにも眞面目らしいが、この「かしこまり」といふ所に滑稽がなか〓〓ある。中々に親爺も巧くはやすわいと感じる所、又、親爺が新玉の春ちやある。又、親爺が新玉の春ちやむ親に對しては何き少し起きむといつて浮れてゐる樣などにも聊か可笑しい所もあるが、親に對しては何き處までも畏まりつゝあるといつたので。殊に男子などであれば、少し起き遲れて、床の中で其の拍子を聞いて、畏まつて、はや親爺は起きて、七草せう〓〓めんばく二三のことにも及んでゐると、少々面目ない困つたといふ意味もあるかも知れ遲れて、七草のことにも及んでゐると、ぬ。と兎に角、若い子が親に對するこの正月の祝ひ日の趣を叙した所に、種の滑稽を認めるのである。▲戀ひ〓〓て猫のおなかや春の月これは猫の戀で、騷がしき叫びの戀の日もはや過ぎ去つて、牝猫は孕ん言で腹も少し大きくなつた。折しも春の月の照らす頃であるといつたので。ミ春の月影に猶の腹の膨れてゐるのを見た可笑味を叙へたのである。Rakなほはるといふこどばが、上下にかゝつて居るし、又おなかと俗語を使騷がしき叫びの戀の日もはや過ぎ去つて、牝猫は孕ん折しも春の月の照らす頃であるといつたので。なほはるといふこどばが、上下にかゝつて居るし、つた所が、他日の一茶を開いたさまが見える。旬の丸江大なほ見たし花の夕の月の顏〓月は何時見ても床しいものであるが、櫻花咲く夕の其の顏はなほ更ら見
          たいものである。いかに美しく床しいことであらうかといふので。これだけならば餘りに平凡な着想であるが、これは芭蕉翁が、なほ見たし花に明け行く神の顏釋評と話俳206これは芭蕉翁が、と歌つて、かの葛城の神の顏が醜いといふ所から、それと花との對照がいかに醜からうといつた反對に、月の顏は常に美しい、その美くしい月と美しい花との對照は、しい花との對照は、更に一入の眺めがあらうとこれが所謂飜案なるもので、こ史的趣味を起すのである。う今日は此の樣な趣味を弄ぶものが少くなつたやうだが、のあたりの趣向も、翁と反對に着想を附けた。この關係を知つてこの句を讀むと、一種の歷われはやはり此ます〓〓開ける文學としては存して置きたいと思ふ。▲夕涼み地藏こかして逃げにけりさ地藏菩薩が一つ立つて村里か何かで夕涼みをしてゐる。其處は道端で、地藏菩薩が一つ立つて力自慢か何かして其奴を倒した。そこへ村の親爺などが出叱られてはならぬと逃げ去つたといふので。少年の無邪す。何處か夏の夕の凉しさも思ひやられて、且つ頗ござつたのを、懸けて來たので、氣な惡戯をしてゐる所に、る可笑しい。丸裸これほど暑きことはなし旬の丸江大nすべて衣類を脫いて丸裸になつてゐる。三伏などの日で、まだそれでも堪へ難いといふ心持を歌つたので。これほど暑きことはなしとは、其の丸
          はだかひとじしんかんまたいみはけんと裸になつた人自身の感じか、と又他より見て吐いた言語でもあらうか、兎にかくじじよしやどらいらくまるはだかてき角十七字の叙寫が何處までも磊落で、うたところしゆやはり丸裸的に歌はれた處が一種のしやだつかんひとあた洒脫なる感を人に與へる。話 傍釋評と208いもうつきわかあきこゑ芋賣りや月に別れし秋の聲いもうえどあまみおもきやうおほさか芋賣りといふのは、江戶では餘り見なかつたと思ふが、京大阪あたりよるえどすこちがやきいもうあるには、かつ夜江戶とは少し違つた燒芋を賣り歩いたもので、われなども曾てせつさくしやおほさかびとあきうど接したことがある。うりごゑきこの作者は大阪人であるからそれらの商人の賣弊を聞ときおもいた時の句でもあるかと思はれる。いるうあきお一ちかとき.ひと此の芋を賣るのは秋もやゝ老いて、&冬に近づく時であるから、人に持てはややつきほそゆしうゐuしき囃された十五夜の月も、ひともはやだん〓〓と細り行いて、周圍の景色も人のきやう京いもうこふたくこヽろはそおもそれがこゝろさびその芋賣る聲に託して、心も淋しく心細く思はれるといふことを、あきわびかなうた秋めいて、侘しく悲しげに歌はるゝやうであるといつたのである。めんまじめいもうこゑあらこれらは一面はやゝ眞面白なれし、平良りの聲にそれを現ほすしいこつけいてきしゆだんはなをやはり滑稽的手段を離れて居らぬ。それがたなばたよひおほばしりきや七夕の今宵大星力彌かなみやゐぶんたはうめんかいとかくたなはたほしあひこの句の意味は隨分多方面に解されるやうであるが、兎に角七夕は星逢そほしLheおほゞしりきやまたほしあひロットハところ又星逢のあの夕である所から、其の星から芝居の大星力彌といふへかけ、りきやさいびせうねんりきやいひなづけおほゞしふから大星とかけて、その力彌-まだ十五歲の美少年である力彌と許嫁こなみこひおもあはたばしなさけかよの小浪の戀などに思ひ合せ、それを二つ星の情にも通はせたものであらう。あるひこたなばたひりきやぎをんくるわつかひきみ或はまた、此の七夕の日に力彌が祇園の廓へ使に來たことゝ見ることも句の丸江大
          内出來る。と話俳釋評210要するに、これは口合ひ的の手段を弄したもので、前の俤も現はれてゐるやうである。何處か芭蕉の正風以〓盛の文張つてある火桶哉これには尼といふ題がある。불昔〓盛の愛妾の祇王及び佛の前が、遂に世を優んで尼になつたことを思ひ合して、この尾の住居に火桶がある。侘しげな古めいたものであるが、それに張つてあるのは〓盛より贈つた文愁ではあるまいか、昔侘しげな古めいたものであるが、いや文殻であると言ひ切つたのが一つの趣向で、主人は尼、それに對して暴威を振ひ、權勢を縱にした其の人の戀文の名殘があるといふのは、これも何處かにを可笑しな感じがある。▲脫ぐまいと一町まはる頭巾哉宙冬の日、宙き冬の日、外を歩いてゐると、向うから知つた人が來た。それも少しく丁重に挨拶をせねばならぬ人であるが、折しも寒さ凌ぎに頭巾を着てゐたのnで、それを脫いて挨拶するのも面倒だからと、忽ち横町へ外れて一町ばかそれも少しく丁で、忽ち横町へ外れて一町ばかり廻り道をしたといふので。勿論、今しも來るから、さあ廻らうとする時の感じのやうに思はれる。句の丸江大これも其の來る人のあまり親しからず、逢つて話をするにも及ばぬ、いはヾ厭ふべき奴に出會つたといふ心持と、又一面には、禮儀作法の面倒臭といと横着おの狀然なも現はれて、何處までも溝格變味を存してあ
          しらざくおしあさうか〓〓と白菊老いぬ霜の朝釋評と話俳すでふゆきはなおしばしもふあささむなか巳に冬となつて菊の花も老い姿んでゐる。霜の降つた朝、寒さの中に此はなみうつくもてあそいまの花を見たが、かつては美しいと弄ばれたものが、何時の間にかうか〓〓おいまありさまと老いさらばうて今の有樣になつた。さてもあはれなことであると、これさうもくぎじんてきょりめんひとまたかごときやうかいたんは草木を擬人的に詠んで、裏面に人も亦此くの如き境界があるのだと嘆じことばことくしよくたのである。うか〓〓といふ言葉が此の句の特色をなしてゐる。いじやうとところおもこつけいてきほかまじめ以上解いた所は、重に滑稽的の句であるが、此の外にまた、やゝ眞面目うたかたさぜんしふあげこつけいてきな歌ひ方をした句のないこともない、そこらは一茶の全集を擧て滑稽的ないさゝちがところさくしやかれことてんおもとは聊 達ふ所で、それがこの作者の彼と異なる點かとも思はれる。えうおよびまるちやうしよいじやうあことこつけいてきはうおほそん要するに、大江丸の長所は、以上に擧げた如き滑稽的の方に多く存してしもふあささむなか霜の降つた朝、いま何時の間にかうか〓〓さむなか寒さの中に此ゴシ居るかと思ふ。太祇の句十句たいぎぶそんどうじだいひとべつとくしよくそなはいじん大戰は經村しはヾ間降代の人で、また別に一特色を備へた佳人であしきせいぜんぶそんすゐそんひととくしよくみとかつて、子規の生前にも、蕪村を推尊したかたはら、この人の特色をも認のて、その句象テ桃育堂がら後見せしたたことととある。極端なるしふはいしよだうはつだきよくたんこつけいさひふうたはうめん一茶などに比すれば、句風も多方面になつてゐるといつてよいが、しかし、しゆうじゞやうおいおほぞくごもちしやだつその修辭上に於ては、けいめう多く俗語を用ゐて、酒脫に、また輕妙に言ひこなしてゐる。で、これらの點より見れば、てんみやはり一茶、さ大江丸の續きには、おほえさる2.自しぜんひとれんさうおよぜん〓〓くわいさとぜん然この人に聯想を及ほさねばならぬことになる。前々回に一茶を解き、前太紙の句
          くわいおほえまるとちな回に大江丸を解いた因みから、こんくわい,たちくと今回は太祇の句を解くことゝする。釋評と話俳214としだまきくすりだい年玉や利かぬ未の醫三代むかしぐわつもちとモもつばでいりいしやもらすなは昔は、一月に用ゐる屠蘇は、專ら出入の醫者から貰つたもので、即らこぎやくとそいしやとしだまよろれを逆にいへば、屠蘇はきまつて醫者のお年玉であつたといつて宜しい。モしゆかうたおもで、この句は其處から趣向を立てたものかと思はれる。いまとしだまもらでいりいしやおくりものひとてうがふくすり今、年玉を貰つた。これは出入の醫者の贈物で、その人の調合した藥でいこつだい?.いへがらくすりあまある。この醫者はすでに三代も續く家柄であるが、その藥といつては餘りかうのうすなはきくすりくだいしやさま効能がない。即ち利かぬ藥を下さるお醫者樣である、といふので。とそみあながききろんこれが屠蘇であつて見れば、、强も利く利かぬといつて論ずるでもないが、しんさいあたかびやうきいしやもらめでたたま〓〓新歳に方つて一家病氣もなく、醫者から貰つたものは、目出度いさけとうとそなんらびやうききめいしや酒に投ずる屠蘇である。けれども、何等病氣には利き目はないと、醫者をあざけごとげんぐわいかぶじめでたはるいはこゝろもち嘲る如き言外に、一家の無事で日出度く春を祝ふ心持もほのめかされてゐる。こことさらだいいせいくすり玆に殊更に三代といつたのは、かの醫三世ならざればその藥かたじことわざときもちろんといふ淡土の諺から取つて來たこと勿論である。それから、ふくを服せず、ながひめつかうみう永き日や目の疲れたる海の上ひながじぶんかんがんたひろ〓〓おきながをりはるのど日永の時分に海岸に立つて、漫々とした沖を眺めてゐた。折しも春の長かそらた·みしをだやなみめんうご開な空であるがら、嚴を敢いたやうな穩かながが一面に酷いてゐるほかなんらかくだんいをだやはるうみたなが外には何等格段なものも目に入らない。その穩かな春の海を、立つて眺めつひめつかてゐたので、遂には目も疲れるやうになつたわいといふのである。太祇の旬
          かぎうみかぎながしぜんなが〓限りもない海を限りもなく眺めてゐるところに、自然に永き日の心持がうかめつかこたいぎ浮んで來る。この句も「目の疲れたる」といふ一語は、どこまでも太祇のしゆだんうしな手段たるを失はない。話佛と釋評はるよあんた▲春の夜や女をおどすつくりごとはるよをとこちんてんことわかひとたちいろ〓〓なぐさきようれい春の夜は男、女、殊に若い人達は色々まどゐをして慰み興する例であるをりふしをんなおどをとこどうしいが、あは折節、一つ女にからかつて嚇してやらうといふので、男同士が言ひ合なにをんなこときようみせて、何か女のびつくりするやうな事をして興じて見たといふので。おどあんたうらうつたこうしろさう〓〓嚇かされて女の怨みごとを訴へるといふことも此の後に想像されて、こしゆ둘之かんまたおどところじやうれも一種の情を含んだ感があるし、又、それを嚇かした所にも一つの情をふくはるよおもむきまたたせう含んでゐて、こゝらが春の夜の趣によくかなつてゐる。又、多少なまめいじやうたいさうぞうた狀態も想像される。かないのぞかつぎき△家內して覘き枯らせし接木かなには?ほんいかしまかたま〓〓庭に接木をした。それが本意なくも枯れて了つた。この枯れたかないぢうものめのは、家内中の者が、もうついたであらうか、もう芽を吹くであらうかと、かはたかはのぞさやうあませところ入り代り立ち代り、それを覘いたからで、左樣に餘りに責められる所より、きつひせいゝくと木も遂に生育を遂げなかつたのであらうというたのである。もらろんくわんけいなきようなん勿論かやうな關係は無いことであるが、それをかく興じて、何とはなくわんけいかんしゆはいかいしゆだんしに關係あるがごとく感せしめる。これも一種の俳諧手段である。かこの枯れた本祇句のせきbせどぐらた1.かな關守の脊戶口に立つ凉み哉
          せきしよはんひとせきしよあまりとゞほなひまみ關所の番をしてゐる人が、關所も餘り人通りが無くて間暇であつたと見diaうらたす.さたなつゆふぐれころえて、おのが住居の裏に立つて凉みをしてゐる。定めて夏の夕暮頃でもあせきしよへきちあるひやまらう、關所とはいへど、僻地で、或は山のほとりでもあらうといふことが、ことがら、れんさうすなはよなかたいへいうくつろなつあつこの事柄より聯想される。即ち、世の中も泰平で、打ち寬いで、夏の暑さわすぶん1.できかれもしやうがい3も忘れて十分に涼みも出來る彼等の生涯を寫したものである。せどぐちたとらたしかひとぎりやうおも脊戶口に立つといふことを捉へたのは、確に此の人の技倆であると思は話 俳釋評と218えて、れる。たなはたかちうおほかたいもきよ▲七夕や家中大方妹と居すおむしえどだいみやうやしきおもむきおもやしきこれは昔の江戶の大名屋敷の趣と思はれる。これらの屋敷には、くにもとかぞくCafeきおほすいつて國許より家族を引運れて來でゐるものも多く住んでゐるし、ぢやうづめ定詰とまたどく又、獨しんきんばんものゐ身の勤番者も居るのである。をりたなはたまつりゆふべほしあひちぎりよひかちうおほかた折しも七夕祭の夕、つまかの星合の契をなす宵であるが、家中も大方は妻とともすまそらほしともおの〓〓たのこよひおくゐ共に住つてゐて、空の星と共に、各も樂しく此の宵を送つて居るといふので〇つますことさらいとこがいまたしたきよ妻と住むといはずに、殊更に妹と古雅に言ひなし、又、その下へ居すとかんにつかところムてうわかーしゆかんひおこ漢語を使つた所が、たな不調和なやうで、却つて一種の感じを惹き起して、七ばたよひだいみやうやしきことそぶひがたもつとをかまた夕の宵の大名屋敷、殊に其の武家方のさまを最も可笑しく、又あはれあるいあらとかくたなばたよひあしやくわいじやうきやうおもしろさまに言ひ現はして居る。兎に角、七夕の宵の或る社會の狀況を面白くうた歌つたものである。太祇句ごけうしろをどきつねかの後家の後にる狐かな219
          れいほんをどりいろ〓〓ひとまじをどなかあいへけこれは例の盆踊で、色々な人が交つて踊つてゐる中に、或る家の後家がをどモみところきよう踊つてゐる。それを除所から見た所の興である。ニけきんじよひやうばんみばうじんかの後家くいへば、すでに近所あたりにも評判になつてゐる未亡人で、みぶんとしはをどらとモうしろきつねそれが身分にも年にも恥ぢず踊つてゐる。あのやうに踊るのは其の後に狐きつねなどきつねしぜんがついてゐて、その狐が踊らしてゐるのである。で、この狐とは、自然に、わかをとこすかたぶらみさをやぶつひしわかほおしろいっ若い男などが、それを賺し誰かして操を破り、遂には皺の顏に白粉を附けをどりなかまあさましやうがいとほさうぞうて踊の仲間になるやうな淺猿しい生注にしたのであると、遠く想像される。むらざとおほたうじじやうきやうをかうたことうしるこれも村里などにはをくある當時の狀況を可笑しく歌つてゐて、殊に、後きつねもつとはたらことはおもに狐がゐるといふのは、最も働きのある言葉だと思はれる。あいへけ或る家の後家が話併と縣評220モわかしゆとくれ剃りこかす若衆のもめや年の暮くぶそんこの句は、かの蕪村の、てうちふうふころもがへお手討の夫婦なりしを更衣ならた、じふくざつじよじわれ〓〓なかまと並べて、唯の十七字でいかにも複雜な叙事をしてゐると、吾々仲間でもたび〓〓しようさん度々稱讃されてゐる句である。ここくたよカルサみあさむらひなかまひとりわかしゆすなはさて、此の言葉に依つて考へて見ると、或る侍仲間などで一人の若衆即びせうねんあいかふねんじやち美少年を愛してゐた。それが、甲が念者となつてきまつてゐるのに、つたおつものねんしやかふおつあらせさうどうい他の乙の者がまた念者となることになつたので、甲乙の間に一つの騷動おすなははたしあひが起きた。それが即ちもめである。で、いよ〓〓果合でもせねばならぬこそちうさいはいモけつくわわかしゆあたまそとになつたが、其處へ仲裁が這入つて、其の結果、つまり若衆の頭を剃りはうずこものしゆつけいじやうたがひいひぶんたこかして坊主にし、此の者がすでにかく出家した以上は、互の言分も立つわけぶじすもらなが譯であるから、これで無事に濟まして貰ひたいといふことになつて、長らわれ〓〓なかま吾々仲間でも太祇の句そとになつたが、はうずこかして坊主にし、わけ譯であるから、
          ののじけんとしくれらくちやくく延び延びになつてゐた事件も、年の暮でやつと落者したといふので。ふくざつできごといあらところまことひほんしゆだんかくのごとき複雜な出來事をうまく言ひ現はした所は、誠に非凡な手段おもであると思ふ。話 俳釋評と222おめいかうはなをんながた▲御影供の花のあるじや女形にちれんしやうにんきにちはふゑた御影供は『おめいかう』とよみ、日蓮上人の忌日の法會のことで、例のほつけしんじやいろ〓〓ぶつぜん.ミ法華のことであるから、信者から色々のものが佛前に捧げられてある。そなかりつばはなさモきぬしたれおもをんながたやくしやの中に立派な花が捧げてあるが、其の捧げ主を誰かと思つたら女形の役者さだたうじはながたたてであつたといふので。定めて當時花形の立おやまでもあつたであらう。たいなかましんぶつしんじんひとめつき一體かやうな仲間にはよく神佛の信心をして、人の目に着くやうな捧げものめんなくわうこくいま物をするものがある。これは、一面にはわが名の廣〓にもするので、今もかむしかはおこなわるのたじんじ昔と變らずに行はれてゐることである。これらも惡く叙べると、唯だ人事うがゆはながたはなうたところの穿ちになり行くのであるが、花形にかけて「花のあるじや」と歌つた所がちうしなぶんぞくおところ「は、どこまでも雅致を失はずして、十分に俗に墮ちる所を救つてゐる。は、ふぐくひとねごとかな鰒食ひし人の寝言のねぶつ哉いま〓たをはなかころねうち今しも鰒を食べ終つて、中にはすでに轉がつて寢たものもある。その內ねごといだねごときねんぶつとなに寢言を言ひ出したが、その寢言は、よく聞くと念佛を唱へてゐるのであきやつゐはいちへいきたたモつた、彼奴も威張つたことを言ひ散らして、平氣が食べは食べたが、其のじつこゝろおそいのちをおもみしゆめみ實心には恐ろしく、命惜しく思つたものと見えて、死ぬる夢でも見たこなむあみだぶつとなかれじつじやうあらしまとか、南無阿彌陀佛を唱へてゐる。これで彼の實情がすつかり現はれて了つたといふので。うちその內太祇の句とか、
          たやくぼうあい。どこれも下手にいふと、俗一方に陷るのであるが、何處までも上品になだうたおなねんぶつよ2.らかに歌つて、同じことでも念佛といはずに、ねぶつと讃むやうに綴つたど·ここがおこひとちやうしよぶんはつきのは、何處かに古雅を帶びて、此處にも此の人の長所が十分に發揮されておもゐるやうに思はれる。話 俳と釋評224のは、惟然の句十句くわいこつけいへういつてきさくしやたどきえこの二三回滑稽飄逸的の句の作者を辿つて來たから、その序でに、今くわいげんろくさかのはおなけいかういうひとはせをぢきでしゐ回はずツと元祿へ遡つて、同じ傾向を有する人で、芭蕉の直弟子である惟ねんくとみ然の句を解いて見よう。ひとにせをもんていちうもつと)せいくわつまおまえしここの人は芭蕉の門弟中でも最も飄げた生活をした人で、翁の死後には、おまえしこ翁の死後には、ひさごた瓢を叩いて、にせをかの芭蕉の句、しゐきなつこだちまづたのむ椎の木もあり夏木立あとの後へおとひのさがさなむあみだ音はあられか檜木笠南無阿彌陀うたこじきなかわたあるくらゐなどゝ歌ひつゞけて、乞食のやうに世の中を渡り歩いた。その位であるかはせをせいぜんしぜんそせいしつはいく、うたら、芭蕉の生前からも、自然其の性質は俳句に歌はれてゐたのだが、そのしこそうとつぴふうおなせうもんまじめべきよらい死後には一屑突飛な風になつたので、同じ蕉門でも、眞面目一遍な去來なひんしゆくひとひやうあきよらいせうみどは顰蹙して、人とも評し合つたことが、去來抄などにも見えてゐる。惟句の然ろしきおあげひばり▲風呂敷に落ちよつゝまむ揚雲雀はるのなららまあ春の野で雲雀が舞みひ揚がつたのを見て、はやお早く落ちて來よ、225.わムろ我がこの風呂
          しきㅊもの敷に包んで獲物にしてやらうといつたのである。はるうかまたひばりたいろもちあいかにも春に浮れてゐるさま、又、雲雀に對する心持などもなるほど或しきやうおもどこむじやきうたる詩境にはこんなこともあらうかと思はれる。何處までも無邪氣に歌はれひととくしよくはつきたところがこの人の特色を發揮してゐる。話 俳、と釋評226かなあさぎはしおとなな悲しさや麻木のも大人並みたまゝつりをり魂祭の折、なか中へ、たまゝつりをりこどもたまたいかんいへだいほとけまつ魂祭の折、子供の魂に對する感じである。わが家代々の佛を祭つてあるなかはいこどもほとけたひとおなきつ中へ、この子も入つた。子供ながらも佛となれば、他の人と同じやうに祭あさぎはしおとなおほそなさちひられて、麻木の箸も大人並みの大きなものを供へられてゐる。嘸ぞ小さいて5、うちむりやうかたしいた手では持ち惡いとであらうといふのであるが、かういふ中に無量の悲み悼おもむきどこはいかいてきどだいうしなをこむ趣があつて、そして何處までも俳諧的土臺を失つて居らぬ。これも此のひとうたくがらか人でなければ歌へぬ句柄であらうと思ふ。わかかきくさかう別るゝや喰ひながら坂の上あときこれは或る時、いわかまを今お別れ申す。おきなむにおく翁の旅立ちを送つた句である。そさかうかきわかことばの其處は坂の上で、柿を食ひながら別れの言葉を叙べるといふので。もんじんしヽやうかどでおくぶさ12.門人が師匠の首途を送る句としてはいかにも無作法のやうであるがここひととくしよくまたおきなしゆかはやつあいてん處が此の人の特色で、又翁にも一種變つた奴だと愛された點であらう。こ此惟然旬のす.はきをむしきまいふ煤掃や折敷一枚踏みくだくすゝはき煤掃といへば、かこぞはたらさわ一家擧つてどたばたと働き騒ぐ。しぜんすると自然、うちその中に
          しつさくは色々な失策もある。いまそをりしきすなはぜんとりだ今其處へ折吸即ち膳のやうなものを収出した。と、くだしままことアノみ碎いて了つた。誠にそゝつかしい奴であるといふので。モありさまゑがてがるうたおもしろ其の有樣を〓くがやうに、手輕く歌つたところが而白い。話 俳釋評とそひとりはや其れを一人が踏と、ぞろた·みとりおあせき候や疊へ鷄を追ひ上げるせきぞろれいさゝらたさわにずもんないなど節季候は例の能を叩いて、騷がしく賑やかに門内などへ躍り込むものでたかとりおどろたゝみうあがきすなはせきぞろある。その爲めに飼つてある鶏が驚いて盤の上へ上つて來た。即ち節季候おあとりい、うちかに追ひ上げられて、鶏が家の內まで駈け込んだといふのである。さいまつできごとまことをかまたじつきやうがんぜんくわつやくこれも歲末の出來事として、誠に可笑しく又その實境が眼前に活躍してゐる。いじやう六しみすなはにせをせいぜんさくしかか以上は七部集あたりにも見えて、即ち芭蕉生前の作である。而して以下あはせをしこおもきよらいに擧ぐるものは、芭蕉死後のものと思はれる。これについては去來などはたせういゴにつおきなざいせいこひととくしよくあましやうさんた多少異議を發したもので、翁の在世に此の人の特色を餘りに賞讃された爲きよくたんはししまこまめに、それが極端に走つて了つた。あれでは困るなどゝいつてゐる。めに、うめはなあかあか梅の花赤いは〓〓赤いはなほとんかいおよくらゐうめはなあかかん殆と解するにも及ばぬ位である。梅の花の赤いところを感じて、か、さんたんむじやきこどもうたところ返して讚嘆したので、無邪氣で子供らしく歌つた所は、じきしやうがいあらいた乞食生涯が現はれてゐる。ゞくりそれを繰へうたんたさすがに瓢箪を叩惟然すほしざきど▲涼まうか星崎とやらさて何處ぢや
          かいがんそこ1.おもモ星崎は海岸などであらうか。其處へ行つて凉まうかと思ふが、さて其れどむざうさおもきうたは何處であらうかといつたので、いかにも無造作に思ひ切つて歌つてある。釋評と話俳ぜにてきならさく▲錢百のつかひが出來た奈良の菊ぜにもんもらたなんつかおも錢が百文貰ひ溜めてある。何に遣つてよからうかと思つてゐたが、たまならきみきくはなうつくかあまたま奈良へ來て見ると、菊の花が美しい。あれでも買つたら、この持て餘ぜにやくかいものしてゐる錢がなくなるのである。やつとのことで厄介物をなくすことになしやだつへういつきはつたといふので。いかにも洒脫、飄逸を極めた句である。つたといふので。ひこさんはなはるかな彥山の鼻ひこ〓〓と小春哉ひこさんしう四十な彥山は九州にある山の名、〇十はなこはるいよりそびところみその山の鼻が小春日和に聳えてゐる所を見てうたはなところやまなえんよう歌つたので、鼻といつた所から山の名に緣をとり、ひこ〓〓と形容して、をりはるびより〇七とくい折しも小春日和を山も得意げにしてゐるといふのである。ひこさんひとななにかよところとなほ彥山といふのが、人の名の何さんといふのに通ふ所から取つたのかおもすこぞくおとも思はれる。これらは少し俗に堕ちたと云へばいはれる句である。ようひこ〓〓と形容して、みづとりむかきし▲水鳥や向うの岸へつういついみづうおよみづどりにははうかうさだむかきしさある水の上に泳いでゐる水鳥が、遽かに方向を定めて、向うの岸指して歩きみづとりがんぜんうかつういついといふのがいかにもよく水鳥を眼前に浮ばゆ行くさまであるが、惟然の句せる。〓ねんみぎこつじきしやうがいのちこの惟然が右の乞食生涯になつて後に、とちうむすめぁはなしぎすわ途中で娘に逢つた話がある。娘231
          はやわかあぎつうかかないあといふのは早くより別れて或る愛家の家內になつてゐたが、久振りに逢つちあまみぐるおばなみだながとた父が、餘りに見苦しいなりをしてゐるので、覺えず淚を流して取り付いた時に、釋評と話俳りやうそでなんしぐれ兩袖にたゞ何となく時雨かなうたなんどひとめんもくあらと歌つたといふことである。たゞ何となくが何處までも此の人の面目を現まためんひじやうあっなみだごもおもはしてゐるが、又一面には、非常に熱い涙も籠つてゐると思はれる。とかくゐねんはいじんちうとくしよくひと兎に角、惟然は、俳人中でも一つの特色を持つてゐる人で、やゝこれににひとおなせうもんろつうひとよほどぞくき似た人に同じ蕉門で、路通といふのがあるが、この人は餘程俗氣があるやうである。西鶴の句十句はせをけいとういぐわいひとゐはらせいくわく芭蕉系統以外の人に井原西鶴がある。ひとめいぢしゆぶんがくじやうなみとひとそちよさくなど此の人は明治になつて一種の文學上に名を認められた人で、其の著作等こんにちおおほいしやうさんはいくは今日に於いても大に賞證されてゐるのであるが、さらば俳句は?といふたうじあべつだしゆつしよくところみていとくもんかしよしに、これは當時に在つて別段出色な所も見えず、やはり貞德門下の諸子なたいかはもつとだんりんはそういんもんていどゝ大した變りはない。尤も、談林派の宗因の門弟だというてはあるが、そういんふうくてうみさらばといつて宗因風の口調も見えぬやうである。こんくわいかいしやくかれはいくなかとかつかくてきはいくで、今回解釋するものは、彼が俳句の中でも、兎に角比較的俳句としみとえらて認められるものを選ぶことゝする。四鶴の今旬とかつかくてきはいく兎に角比較的俳句とし
          ほうらいふもとかよねやみ蓬萊の麓に通ふ鼠かな釋評と話俳ほうらいれいむたじかざものねずみゑさあさちかよ蓬萊は例の年始の飾り物であつて、それへ鼠が餌を漁つて近寄るのを、ふもとかよいなおもむきモすなはめでたほうらいさんその麓に通ふと言ひ做して趣を添へたのである。即ち、目出度い蓬萊山がこひとかくねやみしわざしゆをかきよう戀か、あらぬか、兎に角風の所業は一種可笑しなことであると與じたので、ふもとかよことばたましひ麓に通ふといふ言葉がこの句の魂である。こひまつしまがすみわが戀の松島もさぞはつ霞こひとこときまつしまみみ此の人は此の時きで松島を見てゐなかつたものと見える。みおもそきくわいたうらいうちたい見たいと思つてゐたが、まだ其の機會も到來せぬ中に、まつしまはるはつがすみたた。松島もさぞや春の初霞が立ちこめてゐることであらう。ねん〓〓まつしまみ年々松島を見ほるまた春となつけしきこの景色はいた。おもむきとしたはじかねあそおかばかり趣があらう。かういつて年立つ始めに豫てから遊びたいと思つてまつしまおもゐる松島のことを思ひやつたのである。こひまつしまきじんてきこひびとところきつまところわが戀と、松島を擬人的に戀人になぞらへた所と松と待つとをかけた所しゆかうすなははいかいしゆだんおもこの句の趣向で、即ち俳諧手段であると思はれる。としたはじかねあそおかういつて年立つ始めに豫てから遊びたいと思つてが、た.ときよしのゆめさくら只の時も吉野は夢の櫻かなよしの〇十おとこさくらめいしよたれみさくら吉野山といへば音に聞えた櫻の名所であるから、誰も皆な、その櫻のこみものおもだみさうぞうはるほかちつとのみを、見た者は想ひ出し、見ぬものも想像する。そこで、春の外、夏、あき面はなた.ときよしのゆめさくらみ秋冬と花のない只の時でも、吉野といへば夢もなは櫻のことばかり見てたれみ誰も皆な、四越の句ゐるというたのである。どこよしのさくらあひはなめいしよ何處までも吉野は櫻と相離れぬ名所であるといふので、しゆみこれは趣味とい
          むしりくつかたむふよりは寧ろ理窟に傾いてゐる。3.8%免れぬといつてよからう。ていとくふうてうこゝらはまだ貞德の風調に屬してゐるを236釋評と話併ながもちはるころも長持に春かくれゆく衣がへないころもがへはるころもながもちもはや夏となつて更衣をすることになつた。で、春の衣はすべて長持なしまつしまはるながもちなかしまなつどへ始末をして了ふ。それを春が長持の中へかくれて了つて、そこで夏のきせつみころもかる季節となり、わが身につける表も輕いすが〓〓しいものとなつたというたで、のである。ころもところながもちはるごとことばこれも衣といふ所から長持といひ、それへ春がかくれたといふ如き言葉もちり69おこうらいにせをはみなんを用ゐたのは、やはり理窟を帶びてゐて、後來の芭蕉の派から見れば、何らかちみと等の價値の認められぬ句である。はなやまたきゞ花なき山薪にせぬもほとゝぎすなつはい〇十はなモじゆもくきたきすでに夏に入つて山にも花がない。さらば其の樹木は切つて薪にしてもo일わけときほとゝぎすなよい譯であるが、それをせぬのは一つの譯がある。時しも時鳥が啼くのでけしきそたはなきそまおあるから、それに及色を添へる爲めには色なき本も其の儘にして置いて、みどりこやゑモこゑき綠する梢に其の聲を聞かうとするのであらうといつたのである。かく·わんてきしんりよくほとゝぎすうたおもむこれも客觀的に、新綠と時局を聞くことゝのみを歌へば一つの趣きをなたきヾりいうとおこゆところどこすのであるが、「新にせぬ」といふ理由かる說き起して行く所は何處までもりくつもつとりくつをかりくつこつけい理窟になつてゐる。尤も理窟としては可笑しな理窟で、滑稽ではあるが、モこつけいしゆみうつたちてきとこる其の滑稽が趣味に訴へずして智的になつてゐる所はやはり當時の缺點であたうじる。西越の付
          釋評と話俳.鯛は花は見ぬ里もあり今日の月とこれは何處で欧んだのか我れは今記憶して居らぬが恐らくは或る山どの吟であらう。兎に角深山住居で、海に遠いから鯛を食つたこともない、又、櫻の花の如きも全くないでもないかも知れぬが、め.つまり、口によき味ひ、目に美しき春の景色、それらを見て樂しむなどゝいふこともない。つまり、口によき味ひ、其の何れをも知らぬ輩であるが、唯だ今日の月即ち十五夜の明るい月ばかりは其處をも照らして、其の里人もさすがに打ち眺めて知らず乍らに月見のは其處をも照らして、興を催ふしてゐるといふので。()この句に至つては大ぶん理窟を離れて、何處か興に訴へた所もあり、Cheに、銅に花はしいいたたななど言言葉に可笑しい節がつけてあつて殊何處かに浮れ興ずるさまのあるのは、俳句こして多少の價を與へてもよいやうに思ふ。〓草淋し寺と宇治との其の間3これは宇治での吟であらう。今作者が其處を步きつゝある。それは例の平等院とか黄檗山とかの寺でもなく、又、宇治の流れの川岸でもなく、それらの間をあちこちしてゐるのであるが、周圍に草が生ひ茂つて淋しい感平等院とか黄檗山とかの寺でもなく、又、宇治の流れの川岸でもなく、それらの間をあちこちしてゐるのであるが、周圍に草が生ひ茂つて淋しい感じがするといふのである。うこの句は文字の上からは四季の何れに屬するか分り兼ねるが、先づ夏草の生ひ茂つてゐるのへ、多少の昔を偲ぶ感を寄せた懐古的の句であらうかと思はれる。そ西越の旬
          六なるほどかやうな境地に立たば、∴吾人にも思はれる句である。これも別に理窟も加はらず、かやうな話俳釋評と詩的趣味が起るであらうと、秋の風藥違ひをせぬやうにか、人も病氣に罹り易くなるもか、秋風立ちてだん〓〓季候が冷やかになれば、かすでに己れか家族か風邪にでも罹つたものと見える、のである。そこで買ひ藥をしたか又は藪醫者殿に懸つたか、兎に角藥を貰つたが、それが病に適當せぬ、適當せぬ、藥違ひをせぬやうに氣をつけねばいかぬといつたので。言外に、秋の淋しく作し何何が便りな人生生の殺へに向つて心細く感じさや所を歌つてゐる。これには隆までも芭蕉以前の口調であるけれともせの精神はすでに來の眞の俳句にも通つてゐる所がある。南冬籠り長寢しからぬ人となり冬ごもりをして爲すこともなく日々隙であるから、朝も長寢をしてゐる。けれども、別に早く起きろ、長寢であると叱るものもなく、誰にも許され赤戸て長寢の十分出來る人と、もはや成つて了つたといふので。世に遠ざかり長寢であると叱るものもなく、誰にも許されて長寢の十分出來る人と、もはや成つて了つたといふので。世に遠ざかり世の中に何等望みもなく、唯だ。しし淋淋い生涯を送つてゐるといふ樣な感を叙したものである。元來は叱られぬ人といふべきであるが口調の爲めに他より言葉をて立て叱らぬといつたものと思はれる。或は人の長寢を叱らぬやうな寬大な人になつたとも解されぬこともないが、それでは冬ごもりの意には切實でないやうに思はれる。世の中に何等望みもなく、感を叙したものである。口調の爲西鶴それでは冬ご241
          さだよさだなか大三十日定めなき世の定め哉話 俳釋評とおおきみモかたれこにちところとしよたん大三十日は誰しも此處一日といふ所で、わが年の寄ることを嘆じもするまたはるまたせうたのしまためんねんぢうようじが又、春待つ多少の樂みも持つものである。又一面には一年中の用事をとしやくきんなはらろ取りつゝめて借金などは成るたけは拂ふといふやうにする。この心はすべひとわたおむしいまおなさだかんよなかむじやうての人に涉つて、昔より今まで同じお定まりの感じである。世の中は無常じんそくなんさだこおほみそかモ迅速で、何の定まりもないというてはあるが、此の大三十日だけは、其のさだよさだすおはもんきりがたにちひとさとがほ定めなき世に定まつた即ち紋切形の一日でゐるといふので。一つの悟り顏ことはかりめんこつけいいみそんしかどなる言葉を書いて、裏面にはやはり滑稽の意味が存してゐる。併し何處かりくつくさこころまぬかさいかくころお理窟吳い所を免れぬのは西鶴の頃の句かと思はれる。さいくわくものあまくはaをたいしやだつおもきれねは西親物は餘り詳しくは見ては居らぬが、一讀に酒股に思ひ切にんげんまるだじよしやところむらんにんげんしゆひばんとこる人間の丸出しを叙寫した所などは、當時の人間としても一種非凡な所があバおもはいくおきぢくいたきばつさうるやうに思はれる。されば、俳句に於いても機軸を出して、奇拔な想とかまたおひきらいらくはうたんいおも又は思ひ切つた磊落放膽なこときかを言つてあらうかと思ふに、さほどのおもひひとちやうしよたんしよひとさんぶん思もない。やはり人には長所短所があるものであるから、此の人は散文にちやうはいくたんしけいりつぶんえておもは我じてゐても性切のことろ短評形の律文には不得干であつたものはれる。鬼貫の旬鬼貫の句十句さいくわくおな西鶴と同じく、はせをはいぐわいたひとうへじまおにつらま色権派以外に立つた人に上島鬼貝といふ人があつた。243こ
          ひとせつしういたみ、ひとだんりんそういんもんりうは廿四川この人は攝州伊丹の人で、談林の宗因の門流を汲んで、芭蕉派の人々とは始じうあひたいりつところさおなそういんもんまつゐそうたんぶこれより先き、同じく宗因の門に松井宗旦とい終相對立してゐた。所がひとひとたみひとところおにつらい、なふ人があつて、この人もやはり伊丹の人であつた所から、鬼貫が家を爲しいたみはめいしようよみとすなはいたみはそうたんせんてからは、伊丹派といふ名稱が世に認められた。即ち伊丹派では宗旦が先ばいおにつらます〓〓だいくわんけいもつとおにつらつね輩で、東貫が益々それを大にしたといふ關係になつてゐる。尤も鬼貫は常たはうめんかうさいはせをはひと〓〓れんぱいとに多方面に交際して、芭蕉派の人々と連俳などをしたこともあるが、兎にかくはせをはいぐわいじなだひと角芭蕉派以外に一時名を出した人であつた。話 併と釋評244 '20たほしなかま)いろ▲春立つや星の中から松の色はるたりつしゆんだいにちきこ春立つといへば、立春の第一日のことをいふごとく聞えるが、この句のいみよむしとしはじめうたおもさくしやよ意味に依ると、寧·ろ年の始を歌つたものゝやうに思はれる。作者に依つてとしたまたはるたぐわんてうサれいは、年立つとも亦春立つともいつて元朝を歌つた例が幾らもある。いくすで11/已に國はるちよはるはるまつたとしたはるの春とか千代の春とかいふ春は、あしたあいまい全く年立つ朝の春であるから、曖昧のやモよみうだが其處は句に依つて見分けをつけなくてはならぬ。まつたぐわんてううたとさて、その句を全く元朝のことを歌つたものとして解いて見ると、みこのあさはやおやいそちながあかつき朝に早くから起出でた。ほしかゞやしうゐ日ハ空を眺めるとまだ曉の星が輝いてゐる。周圍は微ぐらうちしだいあかかどまつ暗いその內次第々々に明るくなるにつれて門松の緣の色も見えるやうにみどりいろみほしひかりあひえいほしなかまつなつた。それが星の光と相映じて、!いろしやうき星の中から松の色が生じて來たやうになが眺められるといふのである。ばうひのばしのゝめけしきめでたじん〓〓一方にまだ日は昇らず、うへなが東雲の景色をこの目出度き人心の上に眺めた所ところうたことなかことばがよく歌はれてゐて、こひと殊に「中から」といふ言葉は、しゆだん此の人の一つの手段のガけいとうだんりんはぞくホホルやうに思はれる。系統は談林派に屬してゐても、ふう大家だけに、もはや句風鬼貫
          たしかはおしはせんだかんくわししうは確かに變つてゐて、寧ろ芭蕉派の感化を知らず識ら寺の間に受けてゐたみたはせをはひかくしやだつはだやうに見える。只だ芭蕉派と比較すると、さら〓〓とした酒脫どいつた肌あひおはおもげんくみモおもかげみ合を多く持つてゐるやうに思ふ。現にこの句を見ても其の俤が見えるでは話 俳と釋評240ないかはるみづかな春の水ところ〓〓に見ゆる哉すではるみづながいづはるおとたみどりいろみ巳に春になつて水が流れてゐる。何れも春らしい音を立て、綠の色を見モこながはるきけしきせて、其處にも此處にも流れてゐるやうになつた。いよ〓〓春も來て景色おもしろも面白くなりつゝあるといふので。くいんしやうめいれうもとてんふぶんあげんじつこの句は印象の明瞭を求むるといふ點からは不十分であるが、或る現實けしきじよしゆさうぞうハモはうめんすこぶおほの景色を叙するに一種の想像を加へて、其の方面を頗る大きくしたものといづはるおとたみどりいろみ何れも春らしい音を立て、綠の色を見はるきけしきいよ〓〓春も來て景色あげんじつ或る現實みおもしろすなはたあきよくぶはるわしんして見て面白い。即ち唯だ或る一局部でなくして、春に逢つた詩人の其のしうゐたいけいしよくじやうかんうたふれおなかくゝわん周圍に對する景色上の感を歌つたものゝやうに思はれる。同じく客觀ときよくぶかくゝわんげんじつめおよとこるさうぞうかいつても一局部の客觀でなくて、現實の眼の及ばぬ所までも想像を借りてみわたおもおきぶそん見渡したといふ趣がある。蕪村に、はるみづやま〓〓なが春の水山なき國を流れけりあるひこもといますこいしやうくはといふのがあるが、或は此の句に本づいて今少しく立匠を加へたものかとれ、もつとみかはるも思ふ。尤も、「ところ〓〓に見ゆる」といふのは、今、春になりつゝあるあらぶそんはるしよきところちがといふ〓とを現はしてゐて、蕪村のよりも春の初期であるといふ所が異ふ。あるひこといふのがあるが、れ、もつとも思ふ。尤も、あらといふ〓とを現はしてゐて、くちはつはなたまつきま口ベにの初花ゆかし玉椿貫句のたまつはきつはきはなめけいようとな玉椿は椿の花を愛でもし形容もした稱へである。つばきはつはなひとくち椿の初花が人の口べに
          さごとあかさいところを差した如くほんのりと赤く咲き出でた所は、まことおも誠にゆかしく思はれるとい248釋評と話俳ふので。たんあかみひとくちひさらふかはな單に赤味を人の口ベにと比したばかりでなく、それより更に深くこの花ひとごとおもはつはなひとどしわかおとめらを人の如く思ひやつて、初花といへば、人もまだ年若き少女の頃だ。そのとしわかおとめおもむきにべつだんなが年若き少女のべに附けた趣に似てゐて、また別段の眺めに入るといつたのすなはれいぎじんはふかすかもちで、即ち例の擬人法を微に用ゐたものである。そので、ミみうれころもがへ戀のない身には嬉しや更衣いまきせつころもかふるころもnすあたち今、季節であるから衣を更へた。舊き衣を脫ぎ捨てゝ新しくなつたのはきもちうれおもみこひ氣持もよくて嬉しく思はれる。これもわが身には戀がないからで、若しもふひとなしたともしせんうつがのこnす戀があれば、その人と慣れ親しむと共に自然に移り香も殘つて、脫ぎ捨てをところたあたるには惜しい所もあらう。ゆくわいかんそれがないから貝だ新らしい愉快のみを感するしやだつしやうがいかるうたのであるといふ酒脫なる生涯を輕く歌つた句である。すかぜみたがみ▲涼風やあちらむきたる亂れ髮モひとすわこしかとかく其處に人が坐つてか腰懸けてか、ふうむ19兎に角つんとすねた風に、うしろ向いモなつ1.かぜふモたモてゐる。其處を夏の涼しい風が吹いて、ひとかみふみだ其の爲めに其の人の髪が吹き亂されてゐる。じよしぜんモひとあんたかみかう叙したまでヾあるが、ふみた自然に其の人は女で、髪の吹き亂されてゐるすがたこゝろにくおもおもむきかほみ姿が心憎くも思はれるといふ趣がある。あひにくみその顔も見たいけれど、生憎見みこゝろにくなつえもせねばまた見せもせぬ。さても心憎く懐かしいことであると、いひつろひさまつもなほそれに心を惹かされて、しゆこゝろす.その樣が一種心に涼しくもある。つまり、鬼貫の句いひつ249つまり、
          じとおもそこヽろよなつあつこひめんつれなる人と思ひつもなは其の心に依つて夏の老ちも幾の心も一面ところみむ所があるといつたやうな意味である。かおさねんいすしとかくくモこと兎 角この句などは、其處解き方は少し念が入り過ぎたかも知れぬが、けしきがんぜんうかきりやうふうぢんかみみだかるおもむきぶんみの景色が眼前に浮んで來て、涼風一陣に髪の亂るゝ輕き趣が十分に見えるのである。釋評と話俳ロたしあきねざめかなどう寢ても確かな秋の寢覺哉あきよねめさどこのやかんむ秋の夜、寢て目覺めたが、何處かに冷やかな感じがする、あちら向いてねむねかん寢てもこちら向いて寢ても、どうしても此の感があるといふので。なつあつなきふすまさだうすあるひこれまで夏の署うに慣れたから看た姿も定めて奮かつたであらう、或はきしところあききあきねざめ着ずにゐたかも知れぬ。所が秋が來た。秋となつたので、かやうな寢覺をむあちら向いてかん感ずるのであるといふので。おとりめんど:あきせいがい表はこれだけであるが、さび裏面には何處か秋になつてわが牛涯の淋しみをかんあるひこひ、くわんけいひとねさびかん感じ、おもむき或は戀する關係もなくて、み獨り寢の淋しみを感するといふ趣も見え。る。あきそらにやま▲によつぼりと秋の空なる富士の山あきムじながおもむモさま秋の富士を眺めた趣きで、其の樣がによつぽりとしてゐるといふのであたきこうこあきそらふじかはおもむきながる。他の氣候よりも此の秋の空の富士は變つた趣に眺められて、それがかかんなんいつくのごとき感じであるといふのだが、この「によつぼり」は何と譯してよいわれこまかやうけいようしおんよモいみあらやら吾も困る、斯樣な形容詞は音に依つて其の意味を現はしてゐるのだかたれことはそあぢはら、誰しも「によつぽり」といふ言葉其のものをよく味つて見たならば、「秋みあきる。貫 ら、
          そらふじゆきおもだきわからの空なる富士の山」の趣が分る筈である。しかいしやくほどこそらすわたいさゝさびおけれども、强ひて解釋を施せば、空の澄み渡つてまた聊か淋しみを帶びところ六ようわとしうゐむとんぢやくたかひとそびた所に、かの芙蓉のごとき山が、周圍には無頓着に高く獨りぼツちに聳えたいますこあぢっけいようおもはせを立つてゐるといふことに、今少し味を附けた形容であらうと思ふ。芭蕉の話 併と釋評けれども、ところ六ようた所に、た立つてゐるといふことに、句の、うめかひでやまぢかな梅が香にのつと日の出る山路哉かいしやくできけいしよくもつとかなの「のつと」も解釋が出來ぬが、この句の景色には「のつと」が最もよく叶つどうやうでゐると同樣である。ぜんたいあますぐおもさて、この句は全體として餘り勝れてゐるとも思へぬが、「によつぼり」ことばしんしやくつかところひととくしよくあらおもなどいい言葉を稱的なく使つた所がふふんの特色を渠はしてゐるとけいしよくもつとかなこの句の景色には「のつと」が最もよく叶つさて、むかしかいあきくれ▲昔やら今やらうつゝ秋の暮あきくれさびしやうがいたよかん秋の暮は淋しい、わが生涯もそれに連れて便りなく感じられる。で、わみいかしよせけんひとが身は如何なる世に處してゐるのであるか、この世間の人であるか、なほだいひとみづかわかたばうぜん古代の人であるか、それも自ら分らない唯た茫然としてゐるといつたのモおもむきで、其の趣を「うつゝ」といつたのである。ぐわんらいゆめたいさげんざい元來この「うつゝ」は、夢に對して、それが覺めた現在をいふのであるときところてんが時として「うつゝな」といふ所から轉じて、「うつゝ」といつたやけでもたはんぜんろもちつかおむしいま何か判然とせぬ心持に使ふこともある。わかそこで此處へは昔やら今やら分らところことにもちはいくぞくしふまぬといふ所へ此の言葉を用ゐてあるので、これらの俳句の俗習は先づ〓〓ゆっつおも許してもよいと思ふ。わ鬼貫の句253
          とかく兎に角、あじやうかいいく或る情懷を言ひおほせた句である。釋評と話俳251かせそらゆふゆはたん▲ひゆう〓〓と風は空行く冬牡丹ふゆそらはげかぜおとたふ冬のことであるから、空は烈しい風がひゆう〓〓と音立てゝ吹いてゐるはたんうつくさかぜすことんぢやくかぜかつてけれども、牡丹は美しく咲いてゐて風には少しも頓者がない風には勝手そらムゆすなはかぜかぜぼたんはたんかくけいしよくていに空を吹き行かせてゐて、即ち風は風、牡丹は牡丹で、各景色を呈してゐどはたん古のたんさびなかさびるといふのであるが、なは何處かに牡丹ながらも冬牡丹は淋しき中に淋しさいみあらく咲いてゐるといふ意味も現はれてゐるのである。ものたつかな▲つく〓〓と物のはじまる火燒哉南きこたつひら冬が來て火燒を開いた。あたさむわすともそれに當つて寒さを忘れると共に、しづ靜かにわがみカル身のことも考へて、なつたといふので。よちんこゝろうか世の浮沈も心に浮び、つく〓〓と思ひつゞけるやうにたつひらころおこけんかやうなこともこの火燒を開いた頃から起ることで、これまでは世間にたちまじみはたらこゝろしづがこたつも立交はり身も働いてゐたから、心も沈み勝ちにはならなかつたが、火燵まもこたつはじを守るやうになつてから、いつもかやうになる。それを火縫から始まるどむぎょり()おもものうたいつたのは聊か理窟つぼくなつたやうに思はれるが、「物のはじまる」と歌ところこひととくしよくおもつた所などはやはり此の人の特色だと思ふ。けんこれまでは世間にこたつ火燵鬼貫の旬いじやうまおほせいこうとかくしゆとくしよく以上は、先づ多くは成功した句であるが、兎に角一種の特色があつて、はせずれかもんじんたいおとをけいとうだんりんは芭蕉以下の門人に對してもさほど劣つて居らぬ。また系統は談林派であるそはこうきみぎくほとみモすなはいたみが、其の派の口氣は右の句などには殆んと見えてのない。其處が即ち伊丹
          はたいかところおも派の大家たる所であらうかと思ふ。256釋評と話俳夏と句作の快味こどもじだいちついやつ五ふだんおなべんきやうまたわれの子供時代は、夏と云つても、矢張り平生と同じやうに勉强し、又きはかいリものみぎどうやうふだんかはきんむ少し許り役に就いてゐる者でも、右と同樣、平生と異らない勤務はせなけなついけつへいぜいことなせいくわつればならず、これが夏だと云つて、決して平常と異つた生活はしなかつなつあつあつかん六だんおなた。いふまでもなく夏は暑い、暑いとは感じるが、たゞ平生と同じやうにがくもんきもけたはるあき〓ひ學問なり勤務なりしてゐたもので、これを他の春ヽ秋冬に比すれば、いくぶんがくもんきんむうくらゐそたべつなにかは幾分か學問、勤務に倦んだ位のもので、其の他別に何も變つたことはなかつた。また又ミうちしミシたのうこうしやうことなもつとこつ殊に、ぶせいわれの家は士族であつたから、他の農工商と異り、最も武骨の生くわついかえんてんひけつかさもち活をしたものである。えん如何に炎天の日でも、決して笠など用ゐられず、炎じつあたまいたゞいさゝさこしつねおもだいせうほん日を頭に戴き、聊かこれを避くるものはなく、腰には常に重い大小を二本はさぶげいミまたねぢめんくゐきちよつと挾んでゐたもので、武藝の如きも亦、屋根のない地面の一區域に一寸したさくまうそぜんしんやえんねつあしやうけんめいけんじゆつ柵を設け、其處で全身に燒くやうな炎熱を浴びながら、一生懸命劍術のけいこ稽古をしたものである。ころがくもんものきんむものつうついたちそれから、その頃は學問する者も、勤務する者も、通じて、一日、十五にちにちこかとくべつアテびかせうねん日、二十八日の此の三日が特別の休み日であつたが斯る日は、少年からさうねんひとせつしやうとなおほうみかはうをとい壯年までの人が殺生〓秘〓。〓くる〓川に孫を取りに往つたものあつねせうねんたいじんかならはかまはがくもんじぶきんむしよゆ常には、少年も大人も必ず袴を穿かねば學間所へも、勤務所へも往かれなこせつしやうときかぎたうだたづさかつたものであるが、此の殺生の時に限つて、一刀丈けを携へるばかり、味快の作句と夏257
          こしはしをわらじはかこ腰を端折り、草鞋を履き、魚籠を持ち、ときまつたふだんものがたぶし時は全く、平生の物堅い武士ではなく、ことかさっこ殊に笠が着けられたもので、此のこしやくわいだつたの此の社會を脫した樂しみをしたもこ此の話 俳と釋評のである。このせつしやうたんものみゆさんもくてきかはうみみ号しかし、此殺生とて單に物見遊山の目的ではなく、川や、海に身を投じ、ふねまたせうじうかたやまれふときいづこれ船を漕ぎ、又は小銃を肩にして山に獵をする時などもあつたが、何れも此らきんこつねたけついかときものヽふかからたのから等は筋骨を練る爲めで、決して如何なる時でも武士は徒らに樂しまず、身だきたたなついへど體を鍛へる爲めにやつたものである。だから、われなどは夏と雖も、やはえんじつさらとほぶけいみぎせつしやうきんこつnり炎日に曝され、此の通り武藝や、右の殺生をして、筋骨を練つたものでやはある。また又、にんじつけんこれはわれ一人の實驗ではないが、たのうこうしやういへども他の農工商と雖、さむらひことな武士と異らことのうにんこかきもつとねたらむぎかず、殊に農人などは此の夏季に最も働かねばならず、と麥を刈り取つてそれしあなへしろそださなへしよううゑつを仕上げる。苗代が育てばそれを早苗と稱して植付けする。また、これがおたゆごと1)たみづなかはいざつさう生ひ立てば湯の如く湧き立つ水の中に入つて、とたみづ雜草を取る。その他水が不そくみづさうろんはじまいふうなつもつといそがつね足すれば、水の爭論が始ると云ふ風で、夏は最も忙しい常よりもなほ一そうらうどう層勞働しなければならぬものである。またこうげふレ缶ものたしうゐすべあんいつむやじ又、工業に從ふ者も、他の周圍が總て安逸を貪つてゐないから、やはりおなはたら·じやうかたおいせまうちなかえんねつくる同じやうに働き、城下その他に於ても、狹い家の中で炎熱に苦しみながらはたらともこうげふいぐわいまたしやうばいことしやうこうごと働くと共に、工業以外に又商賣などもしたものである。殊に商工の如きは、ないじついうふくぐわいめんちひおほかをくつく內實は有福であつても、外面は小さくして、大きい家屋などは造らなかつころわじやうかかいだかをくさらたもので、その頃我が雄下には二階建ての家屋なとは更になかつたものでくんこうい、ひらやさむらひいへかいだてうち君公の家ですら平家であつたから、はや武士の家に二階建の家のありよう筈な味快の作句と夏259
          ままちゞうこうしやううちこみちせまちいうちく况して、町中の工商の家などは、極く道路の狭い、小さな平家の中にあつしの.在つて、暑さを凌いでゐたものである。わくににしうみひかひなしやませおゆふかぜさらそれに我が國は、西に海を控へ、東に山を脊負つてゐるから、夕風は更ふいよゆふなぎばんとなくらゐひるゆふかたに吹かない。伊豫の夕凪と一般に稱へられてゐた位で、晝よりむしろ夕方はうあつよるろく〓〓ねむおのきよたくさの方が暑いので、夜と云つても碌々眠られない。だが、己れの居宅を去なふれうくんこういへどふだんことなせいくわつつて、納涼などするやうなことはなく、君公と雖も、平常と異らず生活しをしみんどうやうおの〓〓つとおこたて居られたので、士民とて同樣、各々勤めを怠らずやつてゐたものであけつわはんはかたうじたはんおいおなる。これは決して我が藩許りでなく、當時他の藩に於てもやはりこれと同さゝぞうじことだと想像する。こみちせま極く道路の狭い、ちいうち小さな平家の中にくぁ在つて、260と語偉釋評はいはんごとうきやううつむつい廢藩後われが東京に移つてからの夏季と云つても、ゐなかやはり田舎そして、せいくわつときさらことなしよかうかひかずの生活の時と更に異らない。旅行と云つてもこれまでやつと二日の日數でえしまかまくらけんぶつあるかにつくわうみある江ノ島、鎌倉を見物して歩いたのと、それから三日がゝりで日光を觀て步ぜんごくわいきやうりまつやまいわづひかずくわいいたのが前後二回と、〓里松山に往つたことが僅かの日數で三回、これがおかきりよかうこんにちねんかんたかきわれのこれまでに於ける夏季の旅行で、今日まで三十年間、その他に夏季りょかういなにこんにちじいううところの旅行と云つて、何もしたことはない。今日は自由さへ得れば、凉しい處しよかうかったー;おもしろちそなつすごひとかぎへ旅行し、身體を休め、面白い遊びをして夏を過す人もあるが、われに限こんにちほうけんじだいなつすこかはつて、今日も封建時代の夏と少しも異りはない。ころちがありがたかつこほりたゞ、その頃と異つて難有いのは、夏も氷があり、ラムネあり、サイダのゑんばうゆじぶんあしあるでんしやーが飮まれ、遠方に行くにしても、自分の足でコツ〓〓歩かずとも、電車?し いふうまつたぶんめいたまものたたつ汽車があると云ふ風で、これは全く文明の賜物である。この爲め、夏もそころよほどしのの比よりは餘程凌ぎよい。つて、味快の作句と夏
          ぐわんらいしゆぎめいちねんそれで、われには元來主義などはない。明治二十四年までは吏としてやゐぶんいそがせいくわつこはいじんせいくわつこんにちいたはいじん隨分忙しい生活にあつたが、その後俳人生活に入り、今日に至つた。俳人せいくわつかずみさいきんねんいぜんひかくてき生活に入つてから忙しいのは最近十年ばかりのことで、その以前は比較的ひまびんばうむかしさらかはしたらこんにちど間暇であつたが、何日になつても貧乏は昔と更に異らず、從つて今日は何ゆゆきやうぐうてんたかき處へなり往けば往かれる境遇にありながら、やはり此の一點の爲め、夏季いへどもうちとゞまべんきやうたひと、ことしうみと雖家に止つて勉强してゐる。たゞ、われは他の人が、今年は海へ往つをんせんあるひやまのばいはなしきうらやまたとか、温泉へ社つたとか或は山へ登つたとか云ふ話を聞いて、それを羨おもくらゐとゞましく思つてゐる位に止る。しかさいははいくつくこはいくもつとしやだっういつたんばくと然し、われは幸ひ俳句を作る。此の俳句は最も酒脫、飄逸淡泊に富んはるかにんげんてうぜつしさういひあらすべだもので、遙に人間を超絶した思想で言顯はすものである。つまり、總てしやくわいだいこのをかわらぶんがくたのの社會を築二者として、可笑しぐみふやうな文學であるから、これ俳話と評釋ときでゐる時は、まつたきようみおばこゝろかたむなつ全くいふにいはれぬ興味を覺え、それに心を傾けてゐれば夏しぜんみかけまはちうてんたかとまはおも自然に此の身は驅り廻つて、宙天を高く飛び廻つてゐるの思と云つても、がある。ゆゑひとしよさたT.ところゆふねくるまの故に、人は暑を避ける爲めに涼しい處へ往き、船、車に乘つても、われこじ.ぶんゐまぎいじやうおもしろみかんゆくわいなつすごは此の自分の居間に於て、より以上の面白味を感じ、愉快に夏が過されるいたたひと〓〓もつとてがるやゐいきき、ひしたのである。玆に至ると、他の人々より最も手輕で、隨意氣儘の避暑をしていびんばうものまけをししゐられると云つてよからう。しかし、これは貧乏の者の負惜みか知らないとかくさしんこはいくたゆくわいなつすごが、兎に角われは然う信じて、此の俳句の爲め愉快に夏を過してゐる。われのである。が、味快の作句と夏
          話 俳と釋評俳味と實業ちかいぜんまでいはいくほつくとなゐたま〓〓まさをかしきわれ〓〓近き以前迄は、今の俳句は發句と唱へて居たが、偶々正岡子規が我々のこんにちとはいくとなさいはいくめいしようべつはじ今日執りつゝある俳句を唱へた際に、俳句といふ名稱を別に創めたのであもつとはいくもんじまへこんにちごとふる。尤も俳句といふ文字は、よほど前よりあつたものだが、今日の如く普3)もちめいぢわれ〓〓なかましやうだうよ通に用ゐるやうになつたのは明治になつて、我々の仲間が唱導したに依るのである。はいくすなはほつくあしかゞすゑはじとよとみとくがはまつなが此の俳句即ち發句は足利の末より始まり、豐臣を經て德川となり、松永ていとくでころはいかいれんかさかteたんほつくえい貞德の出た頃、俳諧連歌の盛んになつたと共に、單に發句のみを咏ずるもさかそのもんじんしだい産つひおの〓〓かたらのも盛んにして、其門人も次第に多くなり、遂に各々一家を立つる樣になしかそのたうじべつきぢくだにしやまそういんつたのである。然るに其當時いさゝか別機軸を出したものに西山宗因といべつじふうひていとくはたいだんりんはとなゐふがあつて、別に一時を風靡し、貞德派に對して談林派と唱へて居た。しかえいしゆみみはいかいずなはこつけいことしゆゐ而して、その咏する趣味を見るに伊諸即も滑稽といふ事が主となつて居ことさいしよそうかんはいくひわいこつけいながていて、殊に最初の宗鑑などの俳句は卑猥なる滑稽に流れて居た。それから貞とくはり(1)はうめんかたむしゆちてきこつけいらうっ)德派となつては、理窟の方面に傾き、主として智的の滑稽を弄する樣になだんりんはいたさらべんくちあひしやれてきこつけいおもおつつた。談林派に至るや、更に一變して口合酒落的の滑稽に重きを置く樣にえういづこつけいせんもんそのこつけいてうえついうをんがなつた。要するに何れも滑稽專門であつて、其滑稽が超越、優美溫雅、ゆうげんとうてんほとんぜつむたゞもんじくわんつうぞくてきいうぎす幽玄等の點は殆ど絕無にして、唯文字に關する通俗的遊戯に過ぎないといほどしかにせをいたそのふうさつしんもつとうてもよい程であつた。然るに芭蕉の出づるに至り其風を刷新した。尤もさいしよいぜんちまなまぬかてうおほいさとところじ最初はまだ以前の風を學ぶを免れなかつたが、一朝大に悟る所あるや、自きやうおくしんしゆみはつきすなはいまぶんがくてきはいふうしやうくう己の胸腔より新種味を發揮し即ちないふ文學的の俳風を唱むしたのそつた。と味俳業實そ
          すなはわれ〓〓こんにちすゐたいいじゆんところはいくれが即ち我々の今日推戴し依遠する所の俳句である。しかぶんがくてきしゆみこつけいそのえうけんあまひわいまた併し文學的の趣味にも滑稽は其一要件ではあるが、餘りに卑猥にして又りくつかたむあるひだじやれはことぶんがくかちすくこれ理窟に傾き、或は駄酒落のみを吐く事は、文學としては價値が少ない。之にはんはせをえいところはいふうみてうえついうびをんがゆうげんとうてん反して芭蕉の咏ずる所の俳風を觀るに、超越、優美、溫雅、幽玄等の點をもつばえいゐおほいおもむちがふうすなはわれ〓〓つねしたが專ら咏じて居るから大に趣きが違ふのである。此の風は即ち我々が常に從ところまたヽとひはせをはいくぐわんそあながそのきくひつゝある處であつて、又假令芭蕉は俳句の元祖なればとて、强ち其規矩こしゆヲことこんにちこんにちじせいじやうたいのみを固守しなければならぬといふ樣な事はなく、今日は今日の時勢情態したがいかやうつくじてきぶんがくはせをさうかいに隨つて如何樣に作るもよいが、十七字的文學が芭蕉によりて創開されたたせうへんかうマはりわれ〓〓はせをもんりうことたうものとせば、多少の變更はあらうとも矢張吾々は色憑の門流たる事は、到ていまぬかかくのごとくはせをはいふうぶんがくしゆみかなじひじやう底免れないのである。如此芭蕉の俳風は文學の趣味に合ひ一時は非常なせいりよくもつぜんこくふうひそことおほこくみんがくる勢力を以て、全國を風靡したものであるが、其の頃の多くの國民の、學話 俳ど釋評266もんちしきていどはなはひくなか〓〓6ひとこぶんがくしゆみ問智識の程度がまだ甚だ低くつて、中々それ等の人には此の文學の趣味をかいことできそれゆゑはせをばつご、もんじんらだん〓〓もんこかまもんてい解する事が出來ぬ。夫故芭蕉歿後門人等が段々門戶を構へて、ひろく門弟あつおの〓〓かふうたつこといきほおほひとか.しゆみを集め各々そ○家風を立る事となつては、勢ひ多くの人に解せらるる趣味さいようおじひとがくもんちきていどあゆひつえうかんを採用し、多くの人の爭問智識の程度に附き合つて行く必要を成じたのでしからおほひとまへてうえついうびをんがある。然るにそれ等多くの人には、前にいつたやうな超越、優美、溫雅、ゆうげんとうしゆみてきらんてぢかじんじうがまたつうぞくてきき幽玄等の趣味は適せずして、專ら手近な人事の穿ちとか、又は通俗的の喜とあいらくあるひかく·わんけしきちんぷへいにんえ、こと怒哀樂とか、或は客觀の景色ても陳腐斗凡のもののみを味する事となり、はせをたうじしらゆふかところぜん〓〓うしな書芭蕉當時の趣味の深い處は、漸々と失はれてしまつたのである。たいせいすでさはいくしなにびとそのふうくわ大勢が已に然うであるから、俳句の師たるものは何人も其風に化せられ、これらはいくさうたうてんふかふおつはんいうれつさだ々此等の俳句にむかつて相當の點を附して、甲乙を判し、優劣を定むるの止いたけだなにびといへどめしくはいくはかできむなきに至つたのである。蓋し何人と雖も飯を食はずに俳句計り出來るも
          せいくわつじやうえうきうしぜんたいせいおしせしたがのでないから、ところ生活上の要求からも、自然大勢の趨く處に從はんければなやうはあひためせつかくばせをぶんがくらぬ樣な場合となり、ゐき爲に折角芭蕉によつて文學の域に入りしものを、たた再きだケいつPひきだうたどび軟道を逸して野卑の軟道を迫るべく餘儀なくせしめた。よぎもつとマひはい尤も野卑なる俳うつたぶんがく句といへばとて、けつきよくかうしやう全く文學でないともいはれまいが、結局高尙にあらずやひぶんがくしまして野卑なる文學となつて仕舞つたのである。こゝにおいてはいくほとんふたはせをい於此俳句は殆ど再び芭蕉以せんふうぎやくてんこと前の風に逆轉したといふ事になつた。しかそのごかんとすなはてんめいころぶそんらすうはいじやうたい然るに其後百年後、こ即ち天明の頃蕪村等の數輩が此の狀態を默視するにもくししのはせをたうじかうしやうひ忍びずとなし、もど芭蕉當時の高尙なるものに引き戾さんとして、たてう此に再ひ超えついうびをんがゆうげんとうえいだ越すなはてんめい優美、溫雅、ちうこう幽玄等のものを咏じ出したのが、しよう即ち天明の中興と稱すこいきほふうひじモきしきじゆん此の勢ひに風靡されて、ことるので、一時其の旗幟の下に歸順したものも少なしかぐわんらいがくもんちしきはつたつじくなかつた。併し元來學開智說の援送せざる時代役、所謂穿は桑にだいゆゑいはゆるくわしうてき俳話と釋評268るので、ぜんこくそのふうふきふいたぶそんはじ80·ひと〓〓ほっ全國に其風を普及するに至らずして、蕪村始め其他の人々が歿したので、つひちうこうはいふうふたとんざほとんせうめついたかごと遂に中興の俳風も再び頓挫し宛と消滅するに至つたのである。斯くの如くつうぞくてきはいくそのいきほひまいよ〓〓さかぶんせいてんばうそのりうせいにして、通俗的俳句は其勢を增して、愈々盛んになり、文政天保は其隆盛ぜつちやうたつめいぢはじいたよういしたけやうみの絕頂に達し、明治の始めに至つても、容易に下火の模樣は見えなかつたひとたびかいこくともせいやうぶんぶつゆにふわがくにこいうぶんがくふくこうが、一度開國と共に西洋の文物が輸入され、また我邦固有の文學も復興しけつくわすゐたいはいふうそのまゝゐことゆるしんめんばくひらた結果として、衰頽した俳風もまた其儘に居る事は許さぬ。新面目を開くじきところたま〓〓まさをかしえうきうおうつひこんにちべき時機となつた處へ、偶々正岡子規が、それの要求に應じて、遂に今日われ〓〓つくはいふうとなかみげんろくてんめいしゆみさかのはそのき我々の作りつゝある俳風を唱へたのだ。上は元祿天明の趣味に溯つて其規とさらせいやうぶんがくさんしやくてんげがうれいこんにちたいせいを取り更に西洋文學を參酌して、天下に號令したのが、つひに今日の大勢ナ:せうがくもんわう〓〓こもてあそもてあそまでかちとなつて、多少の學問あるものは、往々之れを玩び、玩ばん迄も價値のあことみたすでこんにちないちまたほくかいたうりうきうだいわんもちろんとほる事を認めるやうになつた。已に今日は内地又北海道琉球茎灣は勿論、遠併味實となつて、ことみたる事を認めるやうになつた。
          べいこくまんかんちはういやしくにほんじんぢうところわれ、〓くは米國滿韓地方苟も日本人の住する處は、はいくもてあそ〓我々の俳句を玩んで居る。われ〓〓はいくしゆみじやうらいミ我々の俳句趣味は上來の如くであるが、ばんこくみんがくもちんしきなほ一般國民の學問智識はまだぶんはつたつはりばせをはつご十分に發達したといふではないから、ごとていどものすくな矢張芭蕉歿後の如き程度の者も少くいなたすうしたんこれらひと〓〓われ〓〓ないまだ〓〓多數である。はいくしゆみ否れう從つて此等の人々は我々の俳句趣味を了かいこと、よほどこんなんことおも解する事は、しぜんこれ餘程困難の事だと思ふ。となそれであるから自然是まで唱へられつうぞくてきはいくもてあそやうじやうせいた通俗的俳句を玩ばんければならぬ樣な狀勢である。きえ是れ固より止むを得すべじぶつそのじゆようしやきようきふことざるによるもので、ごと總ての事物は其需要者によつて供給の異なるが如く、どうはいくいへどそのじゆようしやもとところ同一俳句と雖も、しゆみこと其需要者によつて求むる處の趣味も異なり、かくじまた各自のぶんおうたの分に應じて樂しむのだから、一つの鑄型に入れやうとするのは無理であるいがたなりれるわれ〓〓つうぞくてきはいくあそことできそのそんざいと思ふ。我々は通俗的俳句に遊ぶ事は出來ないが、ニラ其存在は實によろこばことしき事である。と話俳釋評すなはげんこんはいくたいべつかうしやうはいくしゆみつうぞくはいくしゅう即ち、現今の俳句を大別せば、高尙の俳句趣味、通俗の俳句趣味といふことできしかかうしやうはうしたまつうぞくはいくとあるした事が出來る。而して高尙の方を慕ふものは稀れで、通俗の俳句趣味を慕ふたすうものが多數である。なほはす.はいくしゆみついげんわれ〓〓しゆみせんえつそこで尙一步進めて、俳句の趣味に就て一言せば、我々の趣味は僭越なかうしやうしゆみしようこたいてきがら、高尙の趣味といはなければならぬ。その證據は具體的にいろ〓〓のはいくくわつげんゐもつとくはげんろくいらいてんめいめいぢさくひんついぎん俳句に活現して居る。尤も悉しくは元祿以來、天明や明治の作品に就て吟みわかとかくつうぞくてきすうとうぬで味せんければ解らんが、兎に角通俗的よりもたしかに數等投け出たものでしんゐこのさゐたはいくかおんがくかうしやうあると信じて居る。此差違は啻に俳句のみでない、彼の音樂にしても高尙ばんじんわかそのたくわいぐわてうこくなにかぎぶんげいひんなものは一般人には解らない。其他繪畫なり彫刻なり何に限らず文藝品のほどせうすうじんくわんげいたすうひとらつうぞくてきしゆよきもの程少數人に歡迎されて、多數の人の好むものは、通俗的にして趣みくだことじづつあきらしめところい味の下つたものであるといふ事は、事實の明かに示す處である。つうぞくはいくしゅう通俗の俳句趣味といふつうぞくはいくとあるした通俗の俳句趣味を慕ふ味俳と業實
          はいくこかしぜんたすうり俳句のみが此の例に漏るゝものでない、ひとわれ〓〓しゆみかい自然多數の人は我々の趣味を解ラことなか〓〓かたことおりはいくとくせいたとひかうしやうし得る事は、中々難い事と思ふ。けれども俳句の特性として假令高尙であまたつうぞくてきともしゆしやだつデしかれ、又は通俗的であれ、たんばく共に一種酒脱の風があつて而してどこか淡泊なるてんたせうかぎもゐなん點は多少に限らず持つて居る。しかしけいそれは何によつて然るかといふに、詩形がはきかんたんじ極めて簡單なる十七字であるゆゑ、あかんさううた此れによつて或る感想を歌はんとすれそのひとあたまたいかんがしu.ば、よぎ其人の頭に大した考へはなくとも、し詩形に餘儀なくされて知らず〓〓しやだつたんばくかんさうこうせいきた酒脫にして淡泊なる感想を構成し來るのである。けだかんたんごうちふくざつたりやうがんちくよじゃう蓋し簡單なる語の中には、複雜なる語よりは、多量の含蓄餘情を持つて〓いはゆるごおほしなすくなたとへごと所謂語多ければ品少しといふ譬の如く、なが居る。長くなればいろ〓〓しつツまたいっみことくかんたんこく、ねばくるしく又厭味な事もまじつて來るのである。が、簡單なものおそごとはいくしゆはいくにはそれの恐れがない。しゆみかくの如く俳句には一種の俳句趣味ともいはるゝ話俳釋評と272こく、できゐしぜんこんにちしやくわいせいくわつゐものが出來て居て、それは自然に今口の社會に生活して居ながらも、どこにんげんしやくわいだつりにんげんせいくわつはんもん〓しやことまたかんせつかに人間社會を脫離して、人間生活の煩悶を慰籍する事ともなり、又間接だせうひんせいしうやうじやうくふうに多少品性修養上の工夫ともなるのである。かくのごとくときたはいくじんせいうへいかくわんけいこと如此說き來れば、俳句が人生の上に如何なる關係を持つてゐるか、殊に、はいくじつげふくわんけいほすゐてい俳句と實業との關係はどうであるかといふことも、略々推定さるゝであらまじつげふそのけいしきさま〓〓えうけいざいてきせいくわつものう。先づ實業といへば其形式には樣々あるが、要は經濟的生活にして物のそんえきしゆつねせいそんきやうさうぶたいたゐげんかねほ損益を主とし、常に生存競爭の舞臺に立つて居るもので、一言せば金が欲きかねにぎかおもぞんぶんにぎ思ふ存分に握れるかしいといふに歸する。その金を握るには如何にせば、ことしゞうはんもんなんもとですくえきおほきくわいよといふ事に始終煩悶し、何でも元手少なにして益を多くしたい、機會好くおこにぎししnてあはにぎやうかんがうまば濡れ手で粟でも握りたい樣な考へを起し、旨く握ればかう爲ようあゝ爲ねんほかなにもつとこれしぜんニンハしやくわいためいはゆるようとの一念の外何もない尤も是が自然に國家社會の爲にもなり、所謂どこき味 俳業實と
          しよくさんこうげこくきやうへいもとゐこきやうさうじんるゐこんにちせいくわつ殖產與業富國强兵の基にもなるので、此の競爭によつて人類は今日の生活しやくわいこくかまたそんざいゐひはうめんねつちうしぜんせいをし、社會國家も亦存在して居る。日々此の方面にのみ熱中せば自然に勢りよくひらうゆゑとき〓〓なぐさはうはふと力を疲勞する故、時々それを慰むる方法を取らんければならぬ。帶ことかげふむじうじゐとくいはかとき殊に斯る業務に從事して居るものは、いつも得意許りの時あるものでなときあるひといきやうぐうあいぐわいゆきちがたはんもんくつうぎやくく、時に或は失意の境遇に會うて、意外なる行違ひの爲め、煩悶苦痛の逆きやうあわ、ことかぎまでゆてうせきいふまんぞく境に陷る事がないとも限らぬ。そこ迄行かすとも朝夕に不平とか不滿足とこととぬかことできじやうたいかときあたたかんいふ事は、いつも免るゝ事の出來ない狀態である。斯る時に當つて他に感じやうてん男そんくきやうだつスたせう情を一轉し餘裕を存せば、ふCC玆に苦境を脫し得ざるまでも、多少その不平不まん〓のぞことできふい·まんのぞ12.しゆ〓〓滿を除く事が出來る。しゆしよくがういう此の不平不滿を除くの法は種々あつて、酒色に豪遊こゝろくわいじとこしやうぎいけはなしよぐわを試みて快を一時に取るものもあるだらうし、こつ基、將棋、生花、書畫、骨とたおとまたしばゐすまふおんきよくとう心董などを娛むものもあらう。又芝居、角力、音曲等に耽るものもあらう。話 俳と釋評274く、いじやうおもしかねじかんおほつひふしやそんもうことおほひんけれども以上は極ね金と時間とを多く衰やし當者にも担耗する申多貧しやたうていできことすくしかい·まんびやうたいぢりやう者には到底出來る事が少ない。然るに此に一つの不平不滿病を退治する良やくはいくはいくおいた〇九六3こらくはく藥がある、それは俳句である。俳句を措て他に貧富を通じて娯楽を博し慰これうはうはふおもよなかみわたはいくおぼし藉を得る方法はないと思ふ。ひろき世の中を見渡すに、俳句に溺れて死んひとはいくしんだいかざひといなもとたいだ人もなければ、俳句によつて身代限りをした人もない、否固より大したひようはずまたじぐらゐたとえいげふ費用などのかゝる筈なく、又十七字位をひねるのであるから、例へば營業かせはみちくわいしやしやうてんわうふくかたま家の忙しいものでも、道をあるきながら、會社や商店へ往復の傍ら、それかんがやゐぶんできおひ〓〓しゆみなじつゆくわいすなはを考へれば隨分出來る。追々趣味に慣るれば實に愉快なものである。即ちばんふできかみいうふへいふまんびやうたいぢこと一本の筆、一枚の紙さへあれば優に不平不滿病が退治せらるゝ事となるのせじやうまたこやすりやうやくおももつとかだから、世上又此れより安き良藥はなからうと思ふ。尤も斯ういつたならそのしゝやうたしんばいどば、其師匠などはどうするかといふに、それとて大した心配はいらぬ、何ユアば、
          こせんばいはいじんひとりたのあへかんしつくうかんがく處かで先輩の俳人を一人頼めばそれでよいので、敢て漢詩を作る樣に漢學モやうえうわけまたわぶんうあつこくがくけんきうひつえうの素養を要するてなく、又和文を作る樣に敢て國學の研究が必要でない。はいじんこんにちふつうげんごわかそのうへき俳人たらんには今日普通の言語が解ればそれでよいので、其上に聞きかぢよがげんかハニまじさらそうりつぱりでも好いかららよいくしく雖ごて淡語とを交へたる更に一肩立無できこんにちしんぶんざつしよひへすくが出來る。今日は新聞や雜誌の讀めぬ人は少なからうによつて、それだけじちしきたいていできはいくじつげふかゆ.の文字の智識があれば大抵出來るのである。されば、俳句は實業家の唯一ゐしやぶつことできおもたしかへいがいてんかぴんゐしやの慰藉物といふ事が出來るだらうと思ふ。慥に弊害のない天下一品の慰藉ぶつ〓レoしぜんいはゆるせいしんわっとさらまたすゝもくてき物である。此の慰藉が自然に所謂精神の養ひともなり、更に又進んで目的ヒげふじうじえいしんことできしんしかそのの事案に從事して愛進する事も田來るだらうと信するのである。而して其けつくわじゆんきやうとくいはあひたつしてたちゆゑはいくじつげふ結果は順埴得意の場合に達する下地ともなるのである。故に俳句は實業とちよくせつくわんけいもてあそかうくわかんせつじつげふじやうきはひつえうは直接の關係はないが、それを玩ぶ効果は、間接には實業上極めて必要の話 俳と釋評276おもものであると思ふのである。なほことじつげふもくてきすでかねうひじやうだいじんぶつほか尙いふべき事は、實業の目的が既に金なる上は、非常なる大人物の外にんげんほんらいめんもくほつきやくりんしよくやひざんこくは動もすると人間本來の面目を沒却して、吝〓とか、野卑とか殘酷とか、けうあいふにんじやうはうめんむらいしまかたむもつと狹隘とか、不人情とかいふ方面に知らず〓〓陷つて仕舞ふ傾きがある。尤せんてんてきぜんりやうひとかくのごときことおほじつげふかけいかうこくわも先天的善良なる人は、如此事はないが、多くの實業家の傾向は、此の過しつまったかじつげふかりえきもくてき失を免れないのである。が如何に實業家は利益を目的とするものなればかくごとはなはげんしやうそのげふむじやうもくてきたつとて、此の如きは甚だよろこばしき現象でなく、其業務上の目的を達するうへおいめんよゆうをんがひんせいしうやうひんせい上に於ても、一面に餘裕あり温雅なる品性を修養せねばならぬ。此の品性おのじやうりうしやくわいしんどうとうひとかうさいゑんかつあつてこそ、己れよりも上流の社會に信せられ、同等の人の交際も圓滑にまたはいかなづゆしかそのひんせいいかなり、又配下のものをも懐けて行かるゝのである。然らば其、品性は如何はうはふもつしうやうしうけうだうとくなる方法を以て修養すべきかといふに、それには宗〓とか道德とかいふも味 俳と
          ぱんにんこと〓〓萬人悉く實行の出來ぱんにんこと〓〓のがあらうけれども、彼等はあまりに嚴正にして、萬人悉く實行の出來またじつげ·「かよう筈はない、又實業家には隨分窮屈であらう。此の點より推せば俳句は;實に適當のものと思ふ。なぜといふに俳句には宗〓の樣に別段むづかしいた神や、佛があるでもなく、また面倒なる修行の必要もなく、唯、花鳥風月其ミ他をずしてるへ居れば自然に面白味を感じて詞にも云で如く多少のい裕を生じ來るのである。其結果は人生上に多大の影響を與へて、吝嗇、野た卑、殘酷、狹隘、不人情といふ樣な人性の惡的方面が、多少救はるゝ事がう出來樣と思ふ。されば如何に俳句の實業上に効益あるかは想像に餘りあると信ずるのである。かそこで俳句は斯る効益あるものゆゑ、何人が之れを弄するも決して何等の差支なきと共に、俳句の風の雅俗高卑も固より間ふ處でない。これ等は話 俳よう筈はない、釋評狹隘、何人が之れを弄するも決して何等俳句の風の雅俗高卑も固より間ふ處でない。これ等はこれ等は其弄せらるゝものに任せて、其人の性に適へばよいのである。それ故俳句は、は、人間として一種の人間を離れた觀察を遂げて、え、うかしく咏するのである。假令人事の上に於ても花、それをおもしろく、を鳥風月等の天然に對すると同じく、それを利害得失以外に眺めて諷咏するのである。何と罪のない遊びであるまいか。おの〓〓じやねんに對して各々邪念なく感受せらるゝもので、假令、うあらうとも、其間人間に有する如き黨派的の區別は持たぬ。そして此等の人事風景といふものは、一般の人假令、高尙と通俗との區別はあらうとも、從つて此等を弄ぶ上に於て、人間の黨派に拘束せらるゝ事はない。如何なる人間の黨味 俳と實業派も、此の俳句によつて人事風景の感受が、總て平等的であると同時に、一席に團欒して樂しむ事が出來る。こゝに於て乎、常に敵味方の念や惡感情を持つたものでも、此の俳句を弄する下に立つた瞬間には、確かにそれ
          らくわんねんにうきやくそのけつくわこくみんた等の觀念を忘却して、こくみんたいはあひまた其結果は一國民として他國民に對する場合、ミ又一國みんとうううへあるひじつげふかけふりよく民としての統一を得る上、をりそのたせいぢけういく或は實業家の協力をなす折、其他政治〓育あらはうめんたいゆうわたすゆる方面に對して融和の助けとなるものである。もつとかんいたんばくにんげんおいけつばんのう尤も、簡易淡泊のみが人間に於て決して萬能とは云へぬ、いめんのうかう一面には濃厚さいみつねんつよあまでわことな細密にして一念强く、としよじねつしんしうたう飽く迄も我が事を成し遂げんとして諸事熱心周到なきうまたもかんえうたゞわがこくみんだいたいせいじやうる氣風も亦持つことが肝要である。たんばくしやだつ只我國民大體の性情が淡泊酒脫であるじつげふかミげきむわうしやうげふむか롤から、實業家の如き劇務に鞅掌するものは、よこのしやだつ業務の餘暇時に此酒脫にしてよゆうじろうしん〓〓ともさうくわい入しやくわい餘裕ある十七字を弄せば、こくか心身共に壯快を得て、う面ん社會や國家の上に、一だいかうえきい大なる効益があると云ふのである。ミろんきたじつげふはいくくわんけいかくの如くに論じ來れば、た實業と俳句との關係のみでなく、その他あらじげふじうじこはいくくわんけいまたおもゆる事業に從事するものと、なかすか此の俳句の關係も亦思ひ半ばに過ぎん。返すと話俳釋評280がへよあ、はいくはんのうしゆぎとな返すも余は敢て俳句萬能主義を唱へるではない、とほすれば此の通りといふに過ぎぬのである。たゞはいくがはかうえきあ唯俳句の側の効益を擧ぐ作句上の思考法おなぶんげいじやうさくひんながしリ.いうしかうはうはふ同じく文藝上の作品でも、長い詩形を有するものなら、思考の方法といはいくわづじたんしけい(ふやうなものもあらうが、俳句は僅かに十七字の短詩形で、これを作るにおほそくきようあまおほしかうえうも多くは即興でやるのだから、餘りに多く思考を要せないやうだ。といつだけとくべつしかうもちろんぜん〓〓しかうえうしけいみぢかだけて勿論全然思考を要せないことはない。詩形の短い丈それ丈特別な思考をえうもつとあたまなかをはやたし要することもある。尤も頭腦の中ではやつて居る筈だが、それが慥かにあいしきはいくつくあしようかうしようと意識してやつて居るのではないから、俳句を作るに法考思の上旬作281
          は斯ういふ思考の方法があるのだと明言する事は出來ぬ、しかうはうはふめいげんことできしかう思考はあるとしおそはうはふなしても、恐らくはその方法といふものでは無いかも知らぬ。いしかうなかおもむきそなよはいく雨はやでたらめに思考して、その中に趣を備へたものが貢い俳句とおもむきなまづはいく趣の無かつたものは拙い俳句となるのだ。はうじゆつひじやうしんぼもくてきぶつちよくせつみゐかんせつ砲術などは非常に進歩して、きよ目的物を直接に見て居すとも間接にその距クはかうだつつはづまでいたゐ離を測つて打ち出し、そして決して外れぬ迄に至つて居るさうたが、も若しはいくはうはふたまな俳句にもそんな方法があれば、まなえ誰れでもそれを學ぶだらう。學び得てそのはうはふゆつねよスわけもちろん方法でさへ行けば、常に宜い句が得られる譯だ。ことはずが勿論その事のあらう筈いまさらしまのないのは、なに今更いふまでもあるまい、というて了つたのでは、何もおはことで俳句をつくうへあたまなしにならん事になる。ふ頭腦を使ふことに就て、じぶん作る上に、自分けいけんしやがくしやちういすこみの經驗やら初學者の注意やらを少しく述べて見よう。しかう思考はあるとし話 併と釋評282はいくまな±はいくしゆみかいたいにほんじん俳句を學ぶには、先づ俳句の趣味を解さなければならぬ。一體日本人のjissしゆたんばくことにほんはいくやう趣味といふのは主として淡泊である。これが殊に日本に俳句の樣なものがはつたつゆゑんほかわぶんげいさくひんだいぶぐわいこくじんしゆみか發達した所以であらう。外の我が文藝の作品は、大分外國人にも趣味を解ゐっはいくかはいくしされて居る樣だが、俳句となるとそれがまだ解されない、つまり俳句の詩けいあまちひいづ〓〓りげんかくげん形が餘りに小さいからであらう。が、何れの國にも俚言とが格言とかいふばんはあひながぎろんぶんそうするどいんしやうものがある。そして一般の場合には、長い議論文よりも、一層銳い印象をどくしやあたことじづつ11しゆみさうゐ讀者に與へつゝある事は事實だ。とすれば、理窟と趣味との相違こそあれ、ぐわいこくじんみぢかはいくかいことげんちかごろ外國人にも、短い俳句が解されない事もなからう。現に近頃はちよい〓〓ぐわいこくじんはいくけんきうをやうきをき外國人にも俳句の研究をやつて居るものがある樣に避いて居る。これは少もんだいぐわいはしとかいはいくまなさいしよかんえうことし問題外に走つたが、兎に角、俳句を學ぶものにとつて最初に肝要な事はしゆみかいしゆみかいまたjiミ趣味を解するのだ。けれどもこの趣味を解するといふが又、容易の事ては法考思の上旬作283
          ないので、初學者は先輩の句集や評 釋書か何かに依つて味ふ樣にするの話 併釋評とが得策だらうと思ふ。着想上の思考늘詩の中でも殊に詩形が小さくて修辭の窮屈30 ?.即ち僅に十七字を以て綴らねばならぬのだから、俳句は、(といふと語弊があるが)なものだ。從つてこれを作る材料の選擇又着想上に十分注意しなければならぬ。勿論詩である以上、ある以上、何を歌ひ、何を詠じても差支はない譯であるがらう〓〓えい來つても十七字中に收めて、朗々詠すべきことを得る樣になるまでには、餘程の修養をつまねばならぬ。何を歌ひ、何ものを捉へ來つても十七字中に收めて、そこで俳句に相應はしい想を捉へて來るのだ。が、それはどういふ想が宜き要するに前に云つた趣味を解いのかと聞かれては殆んと返答にこまるが、だん〓〓すれば段々と想を選擇する見識も出來るし、すれば段々と想を選擇する見識も出來るし、從て材料の取捨も自由に出來〓るものだと心得て置くが可いけれども、着想に就て殊に注意して置かねsiすs)ばならぬ事は、初學者は什麼しても理窟に流れ易い。一體詩は決して理窟でないのだからこの點は、大いに戒めねばならぬ。大いに戒めねばならぬ。修辭上の思考,俳句は短い詩形である丈、着想が出來れば、4.辭が殊に六ヶ敷い。次に來るものは修辭だ。修法考思の上句作是もいかにといふ思考の方法はなからう、われはどうして居るかと聽かれると、矢張り無意識にして居るのだといふ外はない。初學者は殊更に奇拔な修辭をしようとして、下らぬ頭が注意すべき事は、下らぬ頭
          士つかことえきことしかいらうしゆしぜん腦を使ふ事をする。これは益もない事だ。斯界の老手とでもなれば、自然きばつおもしろしうじでことさらきばつのぞやうおもむく奇拔な面白い修辭が出て來るのて、殊更に奇拔を望む樣では趣きある句はえかへつしつばいとしよがくしやたやすめいくえ得られない。却て失敗を取るのである。初學者は容易く名句を得られぬ、またえたうぜんこといたづだいのぞとかくじこ又得られぬのが當然の事なのだから、徒らに大を望まず、兎に角に、自己ちやくさうくわんぜんいあらことしかうそはうよの若想を完全に言ひ現はす事に思考を注いだ方が宣からう。beことことかんがさうてうわ修辭の事で殊に考ふべきは、想との調和である、トンチンカンになつてさうやさやささうゆうちやうゆうちやうさうけいはつはいかぬ想の優しいものは優しく、想の悠長なものは悠長に、想の勁拔けいばつつねりやうしやてうわことしかうは勁拔に、常に兩者の調和といふ事を思考せねばならぬ。話 併釋評と286はうじやうちう模倣上の注意いづげいじゆついかなベ何れの藝術に入るものでも必らず一度は踏み入る可き階段がある、どふかいだんそれじんせんばいはうあきやうたつしうやうマスは古人先輩の模倣で、或る境に達するまでの修養としては止むを得ない、いなかへつとベところ否却つて力む可き所であらう。ちういはうあきやうたつまでが茲に注意すべきは、この摸倣も、或る境に達する迄で、いつまでも〓〓、はうしうちやくいはゆるさうかうなむしま模倣に執着して、所謂稍糠を悉るものとなつて仕舞つてはならぬことである。たんしじ.わすなか短詩形を忘るる勿れき、い前にも謂うたが、たんしけい-短詩形である。き、いはいくじかぎときはかく前にも謂うたが、俳句は十七字に限られた-時としては破格もあるがたんしけいくさくときつねたんしけいことみお-短詩形である。で句作する時には常にこの「短詩形」といふ事を心に置しよしんひといいいてかゝらねばならぬ。。初心の人には、あれも言はうこれも入れようとするあまたんしけいハさはじあひだざつぜん餘り、短貯形には相應しからぬものが十十字の間に縱然として陳知され、法考思の上旬作
          い、何等の趣もないものになつて了ふ弊がある。丁度俳句は一升だきの釜の樣u.なもので、外の長い詩形のものは五升だき八升だきであらう。一升だきの釜に一升五合も二升も入れては、*美味い飯の出來ようは筈がない。俳句に用ゐる辭もさうだ、無暗といろ〓〓の辭を集めてはよしや十七字の中に入れられたとしても、れ、混亂撞着たるものになつて仕舞ふ。短詩形に大らふさはしい、精練な、又要領を得た辭を撰まねばならぬ、それには是非注意しなければならぬのは、歌はんとする想の要點を捉へた一二の言語だ。こと〓〓俳句は短計形であるが故に、起の悉くを言ひ盡るるとといふ事は出そこが俳句の俳句たる生命のある處で、之即ち餘情餘韻を含めるのである。餘情餘韻とい。もものがなかつたなら、ん俳句の生命の殆んど大部分を失ふであらう、初學者は想を悉く言はんとするので、こと〓〓此餘情餘韻を殺ぐものが多話俳288釋評短詩形にい、こゝもよく思考せねばならぬ。句作と興何れの藝術作品でも、何れの藝術作品でも、作者の興の乘つて居らぬものに好いものは無いといつても宜からう。が俳句は殊にさうだ。先きにも言つたやうに、思考としゆ〓〓いふよりは即興が主となつて居る位であるから、興の乘つた時には、種々大な苦心をせずとも、想も好いものを得られ、辭も好いものを捉へ得るが、この興の去つた時にはどれ程苦心しても、うまいものが出來ない。うまいものゝ出來ぬはまだしも、何も出て來ない事が多い。われは斯ういふ時にいつても宜からう。いつても宜からう。が俳句は殊にさうだ。先きにも言つたやうに、思考としゆ〓〓いふよりは即興が主となつて居る位であるから、興の乘つた時には、種々大な苦心をせずとも、想も好いものを得られ、辭も好いものを捉へ得るが、この興の去つた時にはどれ程苦心しても、うまいものが出來ない。うまいものゝ出來ぬはまだしも、何も出て來ない事が多い。われは斯ういふ時にPは、氣を轉じて一時それをやめて居るのが常だ、何事を考へるにせよ、澁滯しては名案の立つものであるまいと思ふ。うまい法考思の上旬作われは斯ういふ時には、何事を考へるにせよ、澁289
          じぶんさけのきようわすゐきようたうぜんそれから、自分は酒を飮むと興が湧いて來る。とき醉興陶然たる時には、ほとばし。やうでくことときが迸る樣に出て來る事がある。ひかくてきいやうさういふ時の句は比較的好い樣だが、これきけんゑときしには危險なこどがある。ごくうまおもといふのは醉うた時に至極巧いものと思うて人にひどしめくのちみ示した句が、さめて後から見ると愚にもつかないものである事なとは往々ことわう〓〓しつぱいある失敗の一つだ。俳と話釋評句290〓俳句の詩形に就てはいくしu.きわうぞくことしやうらいど俳句の付形の際往に應する事よ將來は何うであらうかといふ事に就ことこ、はなし話をする。はいくまを俳句は申すまでもなく、じてうしう)なたじてうし十七字の五七五といふ調子を以て成り立つて居う)なたたれしごとれんぱいほつくひまる.これは誰もが如き如く、達俳の愛句を引きはなして來たものであつれんばいれかでき.ぎたれんかほつくわきく)連俳は連歌から出て來たもので、又連歌の發句と脇句等は、かの三十一文じわかきこといまヽをわかすでかみ字の和歌から來たのである事は、今申すまでもない。それで和歌は既に神よじかずてうしていゐ代からあつたものであるが、それは字數や調子なども一定して居ないで、しけいだいせうじマちやうだんさま〓〓かすさのをのみことえい詩形の大小、字句の長短など樣々であつたが彼の素盞鳴尊の詠じられたったヤくもた6じできしu.てうしといひ傳へられる「八雲立つ」の三十一文字が出來てから、その詩形や調子たさまところそのゝちほとんばんかたちが他よりも勝る所があつたものか、其後は殆ど一般にこの五七五七七の形もちのちしけいながいづてうを用ゐるやうになつた。その後も詩形には、長いのがあつたが、何れも調しいじやうおいおほへんくわでき子は七五とか五七とかのものとなつて、その以上に於ては多く變化が出來けつきぶくじもつとせいりよくえます〓〓ひとくちゐ、きない結局三十一文字が、最も勢力を得て、益々人の口と耳になじんで來て就に形詩の句偉292たのである。
          されば七五又五七といふ調子は、我が國民が、神代以來、漸次口に言ひ釋評と話併なれ、なれ、それを聞けば自然に感覺も深く又思想も述べ易く、吾れ人ともに一〓種の趣味を感じるやうになつて居るので、我が國民が、我が國の言語に一●の調子をつけて言ふ時には、知らず識らずこの七五又は五七といふ調子にそれを聞けば自然に感覺も深く又思想も述べ易く、我が國民が、の調子をつけて言ふ時には、なる。例へば赤んぼあがりの子供が、何か節をつけて、出放題の歌を唄ふん今にも、多く七五の調子に自然となつて居る。といふ風に國民の總てが、日では先天的にこの調子に面白味を感じるやうになつて居る。それといふ·のは、祖先幾代となくこの調子を言ひなれ聞きなれて來だからであらう。しで、わが俳句も、この調子を承けて形成せられて居る以上、國民的の詩ヒ一つとしては、この五七五の十七字形云は水く保存されなりればなそれといふのは、で、わが俳句も、又保存さるゝであらうと信ずる。然しながら、既往に於ても和歌などに他し俳句にも今日の詩形調子に一時性のの變調のものがあつたのであるから、變化がないとはいはれぬ。けれども、それはほんの一時で、大勢大體に於ては、この五七五の調を捨てる事は出來ん。甞てこの俳句が談林風から、芭蕉の正風に改まるよでの間に、Bの調は五七五を亂して、芭蕉の正風に改まるよでの間に、虛栗調といふのが出來たことがある。こBしゆ〓〓の調は五七五を亂して、字數も多くし、種々のつゞり方をし、恰も五言七、言の深詩の一二句〓n半の訓をほとことてんんたの如き懇調のものこ字數も多くし、流石に新奇を好む人心には、多少珍らしがつて一時歡迎されて、芭蕉をはじめ其角嵐雪なども競つて遣つたものであつたが、() ...の口と耳とになじんで居ない、こんなものは本來國民て就に形詩の句俳又なじみ難い調子であつた爲めに、忽ちの)その後かゝる變間に消滅して了つて、正風の調子に統一されてしまつた。調のものもなかつたが、百年程も經てから、麥水といふ人が出て、又この
          俳話評釋虛栗調を始めて、虛栗調を始めて、その時には、有名な蕪村なども唱和した事であつたが、かた〓〓麥水といふ人が、芭蕉あたりの如き大家でなかつたので、旁々その勢力も微々たるもので終にいつとなく姿を失つてしまつた、『新虛栗集』といふ著書もあつたのだが、それすら今多く傳はつては居ないこんにちわれ〓〓だ輓近正岡子規が俳句の刷新をして、今日我々の俳風が起つた以後も、碧いきほひ、梧桐と虛子とが、〓里松山から出て來て年少氣銳の勢に任せて、何か變つた新らしい調を試みようと計つて、虛栗に似たやうな十七字以上の長いもしゆ〓〓のや、又十七字中で五七五の調を變して種々な事をやつても見たが、とき、この時に一八は五七五の調はもう開くも農腐て胸がわるいなぞといP -これとても暫らくにして自分から止めてしまつて、やはり今日のやうに五七五調に返つてしまつた。その時には、麥水といふ人が、む右等の例から推して將來を考へて見ても、やはり既往にあつた如き變調とき〓〓おこbのものが時々起るかも知れないが、俳句が我が國民の詩の一つであるからは、我國の言語が發更せざる限り、この詩形と調子は決して、變化すべきものでなく、換言すれば、五七五の調を用のて居る俳句の運命は、國家と共に永久であるといつてもいゝのだ。畢竟詩が、我れ人の思想を述べるものである以上、如何にしてその感想がよく誰にも發揮され、又人にも感通するかといふのが目的である以上、それには互に言ひなれ、聞きなれた調子を用ふるといふのが適當である。それであるのに、一時の好奇心より只形ばかりを見て、直ちに陣腐としてあたら·しまふといふのは大なる間違である。外形が如何に新しくとも、內容が陳腐なものでは駄目である。要するに內容の陳腐を避けて新しき思想を求む國家と共て就に形詩の句俳
          し.べんはんくわしゆみむじんどうれば詩は千變萬化して、あましんきもと趣味は無盡藏である。それを、餘りに新奇を求めきよくときしけ、かおもんとする極、時として詩形までをも越へなければならぬものと思ふのであつひらうテるけれども、それは終に勞して功なきにをはるのである。ところろんしやせかいひらくしたがかうつうひんばん所でかういふ論者がある、世界が開けて來るに從つて、交通も頻繁にながくもんしんぼゆひとしさうふくざつり、學問も進歩して行く、それにつれて人の思想もます〓〓複雜になつしかこれまであまかんたんかたちたうていふくざつしさうことで詩歌も從來のものでは、あらはき餘り簡單な形で、到底複雜な思想を表す事が出來てんあじゃへんくわゆもちろんうじない、その點から、或は變化して行くだらうと、これは勿論あり得べき事じつらたむしかちやうかほかこんにちしんたいし實である。がそれ等の爲めには、昔の長歌の外、今日では新體詩といふもできゐ3つふくざつしさうながのも出來て居るから、それを以て、いくら複雜な思想でも、いくら長い文: ?ゆしけいようぶん字でも綴つても行かれる。この詩形でその用には十分である、なにもこれはいくじbかへんかうようあまでの俳句や三十一文字の和歌を變更してまで、およその用に當てるには及ば話俳と釋評いかふくざつしさうすでしかうたいじやうない人ないのみならず、如何に複雜な思想でも、既に詩歌として詠ふ以上、互のかんさう3いじやうかへあえうぶせつじついみあらはあひかんたん感想を通ずる以上、反つて或る要部の切實な意味を表はす場合には、簡單しけい30にうまんげんつひひとかんどうな詩形を以てする方が、千萬言を費やしたものよりも、人をして感動せしばくとつちうじんことにみぢかくんかいべんしだんじやうたむることがある。一朴訥の老人の、言葉短な訓戒が、辯士が壇上に起つて、けんがべんふるひとしんそこかんどうごとれい懸河の辯を振ふよりも、人を眞庭から感動せしむるといふが如き例はいく3)みながしけいみぢかし.はうあはらもあるこれを以て見ても、永い詩形よりも、短い詩形の方が、或る場あいおほこうさうことわかまたトふくざつ合にはより多くの功を奏するといふ事が分らう。又世が複雜になればなるときかんにたんぱくしゆみもつきてんゐしやひつえうしやうほど、時としては簡易淡薄の趣味で以て氣を轉じて慰藉するの必要も生ずのうかういんしよくちやづけかかものもときんでんぎよくろうすゐひとる。濃厚の飮食のあとで茶漬に香の物を求め、金殿玉樓に住んで居る人がいからはうをくちくりめつけこのてんかんたんしけいてう田舍の芽屋竹籬を珍しがるのもその一例である。此點からも簡單な詩形調しちやうしけいcaりやうそんりがんちくよゐんよじやう子の長詩形と共に兩存すべき理がある。その含蓄とか餘韵餘情とかいふも
          のは短詩形の特長である。のは短詩形の特長である。さすれば如何に世が複雜になつても、長い詩形や變體の詩形が出來たりとも、俳句は俳句として存立するものであるとい長い詩形298釋評と話俳ふ事は毫も疑ひがない。又ある突飛な論者は、國民の今までの言語を捨てゝ英語にしろといふ論§が行はれて居るが、さうなれば俳句は不用なものになるであらう、といふい.かも知れぬ、然し十七字の如き短い詩形で詠ふ詩が、我が俳句の外にある3であらうか、どうか、世界を通じての文學史上、今日までの處には決してといふかも知れぬ、我が俳句の外にあるであらうか、どうか、今日までの處には決してないないそしてこの短い詩が、よく或る切實な感想を人に與ふるといふ事も3)人の心理上の事實で、世界に通じて其功を同じうすべきものである。さすうれば、萬が一つ國語が英語に變せられる事があるとしても、英語の上に於v.てもかゝる詩形が發見せられなければならぬ。これは詩歌ではないけれどそしてこの短い詩が、ハも.智識に属する管言などにはかなり短いものが何れの國にもあるからい三詩歌といへども作れぬことはなからう。つまり此の如き短詩形の今までなくに〓〓いのは彼等の國々の缺點であるのだ。も.〓况や我が國語が、そんな事になるべき筈はないし、國と共に永久存在すその國際と調和して感想の或るものを最もよく發表する所の俳句てふ〓〓きもはや喋々といふの要を認めない。これは少し話が違ふが、豊或る人が支那語の通辯を豐公は烈火の如く怒つて、今後は朝鮮であれる以上、の將來は、太閤が朝鮮から大明まで攻め込まうとした時に、或る人が支那語の通辯を伴れて行かうといつたのを、豐公は烈火の如く怒つて、今後は朝鮮であれ唐士であれ我國の言語を使はせて行く考へであるから、通辯などは無用の沙汰であると喝破したといふ話がある國民の意氣が常にかうであつたら、我が國語を以て世界の語として、現今英語の廣く用ひられて居るやうに、豐公は烈火の如く怒つて、で就に形詩の句俳我が國語を以て世界の語として、
          いたところもちつとはずなにひくつ至る所に用ゐられるやうにと務むべき筈である。何も卑屈に國語を英語にへんかうひつえうこくみんいきせかいゆゐいつ變更する必要はあるまいさすれば國民の意氣からいつて世界唯一のこのはいくしけいはいくてうしながそんばんざいうたわ俳句の詩形俳句の調子を永く存せしめて、萬歲を謳はねばならぬ譯ではな話 俳と釋評300いか世界に唯一なる俳句はいくなにもくてきいせけんしゆ〓〓せついづ俳句は何を目的とするかと云ふと世間に種々の說がある。何れも一理あいはいくこらくゐしやくだるものであるが、われをして言はしむれば俳句は娯樂慰藉である。碎いだうらくだうらくいなにいやことうきはくちて曰へば道樂である。道樂と云ふと何か卑しき事の樣に聞ゆるが、博奕やけいせいかひだうらくちがはいくだうらくかちたいだゝらくなん傾城買の道樂と違つて俳句の道樂には價値がある。一體道樂なるものは何おの〓〓くもんはいきやくためせいくわつよゆう〓ニらくであるかと云へば各々の苦悶を排却するが爲に生活の餘裕を作つて娛樂をせいしんゐしやひといしよくぢうせいくわつことできなし桶神を黑籍するのである。人は衣食性だしては生活する事が生いしよくぢうとこためつひいうけいてきむけいてきくもんできく衣食住を求じる分には終にはさまぐしの有形的無形的の苦問が出來くもんきせんひんぷさんひとわたみなきやうぐうおうじこる。苦悶は貴於貧富凡ての人に亘つて皆それそれの境過に應じて、自己のよくばうひかくニーこのくもんはいきやくことできしやくわいくわうどう慾望と比較して起つて來る。此苦圈を排却する事が出來れで社會に活動すよういそのごらくゐしいひとさばんべつまぶんるのは容易である。さて其娛樂慰藉も人によつて千差萬別である。先づ文がんそのぶんがくはいく〓たんしけいとつ學は其一つである。文學にもいろ〓〓あるが俳句の如き短詩形なものは咄さできそくざたのことできこのてんおいはいく=らくゐか嗟に出來るからして即座に樂しむ事が出來る。此點に於て俳句は娛樂慰藉もつとてきゐもつとごらくゐこンてきゐもつとくもんはいきやくに最も適して居るc最も娯樂慰藉に適して居るものは最も苦閣を排却するもっとくもんはいきやくもつとにんげんくわつどうによい。最も書國を排却するによいものは最も八面を活動させるものであはいくだうらくかちあにだいる。俳句道樂の價値豈大ならずやである。旬俳るな一唯に界世る。
          次に俳句の內容であるが、次に俳句の內容であるが、俳句は何をするのであるかと云ふと、美を歌さだ。ふのである。美的趣味を樂しむのである。玆で一つの問題が起る、今俳壇に於て盛んに云はれて居る事は陳腐し云ふ事と斬新と云ふ事である之に美を歌釋評ふのである。美的趣味を樂しむのである。之に就てわれの意見をお話しよう。よく人が云ふには是は陳腐である、此句は古くさい、と是がわれの甚だ解せぬ所である。既に俳句は美を歌ふのである。美である以上古何處かにありさうである。古くさい、何故古いのはいかぬのか。いからいかぬと云ふ譯はない、美不美と云ふ〓とと古い新しいといふこととは別である。古いのにも新しいのにも共に美がある。若し古いのをいかぬとすれば、作でなければならぬ。趣向さへ變つたら美を歌ふに何の差支もない、俳句は美の一部を失はねばならぬ。併し俳句は詩であるから創眞似をしたのではいかぬ。趣向を變へねばいかぬ。趣向を變へねばいかぬ。お中には此趣向は古いなどと云ふ人がある。云ふ人がある。然らばそれと同じ句がどこにあつたかと等ねて見るとそれがないのである。趣向の變化は古い内にも出來る。それを單に古いと云つ趣向の變化は古い内にも出來る。て排斥されては堪らぬ。次には斬新であるが、單に新らしくさへあれば何でもよいとするならばわれ大に攻擊せねばならん。古いと不美とは別である如く新しいと美も亦如何に新しい女房が好いと云つても融婦を要るものはないと同別である。じて、新しいと云ふは結構であるが美を伴はねばいかぬ。たち〓〓すゐい次に又斯んな說がある。世界は日々推移する。俳句も亦伴つて進まねばしやうらいじん〓〓今日以後の俳句は將來人心の趨く所を察して、獨り花鳥風月を歌とじん〓〓つたり酒脫淡泊な人事を詠ずるに止めず、更に深く人心の機微に立ち入つ句俳るな一唯に界世ならぬ。て大に人生に觸れねばいかぬ、と云ふ。是もわれには異論がある。前にも
          ごとはいくびうたじこたのし云ふ如く俳句は美を歌つて自己の樂みをするのである。くもんはいきやくそして苦悶を排却ヒこたのどうじじこひとものしめそのたのしみわかするのである。自己が楽しむと同時に自己と等しい者にも示して其樂を分すでじこたのいじやうせけんすゐいくわんつのである。既に自己が樂しむのである以上、世間がどう推移せうが關すところしやうらいもい三はいしゆみたのまたそのときひとなんる所でない。將來若し今の俳趣味が樂しくなくなつたら又其時の人が何とかするであらう。しかすはうめんかいたくおほいことす俳し句風の方面を開拓すると云ふことは大によろしい事で、くかいたく句風の開拓すなはびかいたくひはんゐむきやうこれかいたくゆいは即ち美の開拓である。美の範圍は無疆である。之を開拓して行くのは俳じんつこまたごらくゐしやうかうこと人の務めであつて、又娯樂慰藉の上に効のある事である。であるからしてしよくんごとわかげんきさかかたうかいたくじうじ議員の如きぎ若い元氣の止んな方はどしくく風鳳の困〓に從事なるしかかいたくけつこういいぜんくふうはうめんろしい併し開拓が結構であるからと云つて以前の句風の方面をいけないい人ていかいこんでんぢなやけざいらいでんぢものとは云はれぬ。田地で云つても開墾した田地ばかり耕して在來の田地俳話と釋評304つのである。ところる所でない。あものお世代かこのざいらいはうめんあまを荒らす者があつたら大馬鹿者である。であるから在來の方面に甘んじるかた〓〓方々もやはりなくてはならぬ。しかとくちういかいたくしたがかとくかいたくいじ併し玆に特に法意したいのは開拓に從ふものは系角開拓に算いでなかいたくためなんめづこといみぬ。どうも開拓しよう〓〓とあせる爲に、何でも珍らしい事を云つて見たたまこといみたまじぶんわけくて堪らぬ。むづかしい事を云つて見たくて堪らぬ。そこで自分でも譯のわかやうへんふうはじひとこれはなはよろしく分らぬ樣な幾てこな句風を始める人もあるやうであるが、是は甚だ宜敷なぐわんるいくふうかいたく을びくわくちやうことたゞかいたくい元來句風の開拓と云ふ事はつまり美の擴張といふ事である。唯開拓さびあまらんばうはなしあたでんぢかいこんへすれば美はどうでもよいとは餘り亂暴だ話である。恰かも田地を開墾すはあひかいこんいねできくわそだかまいごとる地合に開選さ、すれば相は出來まいが柔は書つまいが嫌はぬと云はなはかんぶくことつぎきうはつきなみいこうげきひと甚だ感服せぬ事である。次には舊派とか月並とか云つて攻擊する人がある。しきずゐぶんつきなみこうげきさかめいぢしんはいくすゐ子規なども隨分月並攻擊を盛んにやつたが、あれは明治の新俳句を鼓吹すざいらいはうめんあまであるから在來の方面に甘んじるぬ。い句俳るな一唯に界世305
          たぶつかいはゆるはうべんにちれんほつけひろたたてんる爲めの佛家に所謂方便である。日蓮が法華を弘める爲めに他の諸宗を天まこくぞくのヽしおなげんむかわがむらpresはうみなつきなみ魔國賊と罵つたと同じである。現にわれに向つて、我村は我地方は皆月並しんはいくあそじぶんひとりじぶんこれたつきなみれんめいぢしんある新俳句に養ぶは自力、人である自分は急の月業運送して网消のはいくひれるミせいゑんもらたつうしん俳句の光に浴せしめねばならぬ、どうか聲援して貰ひ度いなどゝ通信してくこんにちごとぜんこくめいぢしんはいくゆわたはあひなに來るものもあるが、今日の如く全國に明治柳俳句の行き渡つた場合に何もつきなみせbヤおよそのひとたちこらくゐしやこ月並のお世話を燒くには及ばぬ。其人達がそれで娛樂となり慰藉される事できけつこうこんにちごじんけつひとせんきづつうが出來るなら結構ではないか。今日の吾人は決してそんな人の症氣を頭痛およにやむには及ばぬのである。まへいはいくたんしけいことこれにほんひととくちやうはるせさて前にも云つたが俳句の短詩形なる事是は日本の人の特長の發揮されさんぶつたしよぐわいこくいづるゐいたいせいやうじんれきした產物であつて他の諸外國何れにも類がない事である。一體西洋人は歷史じやうごくのうこうねんちやくきふうことあらゐにほんじんこれ上にも極濃厚な粘着したねつい氣風である事が現はれて居る。日本人は之話 俳と釋評306はんじつたんばくしやだつてきとんごてきに反して實に流白である洒脫的である頓悟的であるから、せいやうじんひ西洋人に比するすみやかくもんはいきやくしまことできせいやうじんと速に苦悶を排却して仕舞ふ事が出來る。ごとねんちやくせいしつ西洋人の如き粘着した性質ではなか〓〓〓ういくもんはいきやくことできにほんじんとくちやうまつた中々容易に苦悶を排却する事は出來ない。このたんばくところ日本人の時長は全く此淡白な所しやだつてきところとんごてきとこるやまとだましひいタラひつきやうこのたんばく酒脫的な所頓悟的な所にある。ことしやだってき大和魂と云ふ樣な事も畢竟此淡白な酒脫的とんごてきところおこきみやまとだましひな頓悟的な所から起つて來たのだ。はいくすなはさんぶつして見れば俳句は即ち大和魂の產物でにほんろしやせんさうかはいくあつおちから日本が案西亞と戰争に勝つたのは仲句が與つて力ありし云つても直ある。よろしい。これえうはいくこらくゐしやたもんはいきやく之を要するに俳句は娯樂惠稱であつて爲めに苦閣を排却する。くしよくんこの諸君は此せかいゆゐいつこくもんはいきやくしやくわいくわつどう世界に唯一なる俳句によって苦固を排却し社會に済助せらるゐるでこれこつしよくんかうふくこのかうふく是は實に諸君の幸福と云はねばならぬ。はいくます〓〓かいたくどうぞ此幸福なる俳句を益々開拓ぜんたかいそのとくちやうはつきいたゞせられて全世界に其特長を發揮して頂きたい。
          釋評と話佛俳句の本領わくにはいく、ミたれつくしほか〓〓し我が國の俳句の如く誰にても作れる詩といよものは外の國にない。詩をつくたいがいしじんじつげふかがくしやそのたすべ作るとなれば大〓詩人と云ふものがあつて、實業家なり學者なり其他凡てひとしつくわけしなこのごろしつくくわんの人が詩を作つてゐる譯ではない。支那などでは此頃まで詩を作るのは官はうべんせいやうし2/ひととくべつがくに就く一つの方便のやうになつてゐたし、西洋でも詩を作る人は特別の學しやひとふつうたれつくいわけ者であつて、讀む人は普通にあるが誰でも作ると云ふ譯ではない、之れにひわがくにはいくごとひじやうさくしやはんゐひろがくしやもちろん比すると我國の俳句の如きは非常に作者の範圍が廣い學者は勿論のこと、せいぢかじつげふかのうふよはいくつくまたゞんし政治家なり、實業家なり、農夫なりが能く俳句を作つてゐる。又男子のみぢよし/ちうがくせうがくじだいせうねんつくでなく、女子も作れば、中學小學時代の少年も作る。之れにでなく、むかしへいあんてうじだいすべひとわかよ一人たヤじんあひだふきふ昔平安朝時代は總ての人が和歌を讀んで、田夫野人の間までも普及されそのわかはいくそうふきふ(ところものかうしやうてゐたが、其和歌よりも俳句は一層普及してゐる。作る所の者には高尙なひぞくあくんなにはわかとかくめい〓〓のもあれば卑俗なのもあり、或は何派などと別れてゐるが、兎に角銘々のしさうのかんじやうなぐさえうしから(思想を述べ感情を慰めてゐる。要するに詩は必ずしも作らずとも可いものつくできだれつくわかんじやうことばであるが、作ることが出來るなら誰でも作りたい。我が感情をたゞの言葉うたはうよくわんてつじぶんおもしろきはうゆで述べるよりも詩でふ方が能く貫徹して、自分にも面白く聽く方でも愉くわいまたよできおきしろうへやゐぶんめいよはく快なものである。又善く出來れば面白い上に隨分名譽を博することゝもなゆゑひろはんゐおいたつくるのである。故にならうことなら廣き範圍に於て誰れにも作らしたいものかにんげんしやくわいくわんいし(どとすこゆとりつである。且つ人間の社會觀から云つても詩を作れば何度か少しの楷収が付にんげんしやくわいきねみすなはしりぶらく人間の社會を機械に見れば即ち詩は油とでも云ふべきものであつてたそのしやくわいゑんまんくわつどうみはいくごとだれ爲めに其社會が圓滿に活動さるゝのである。して見れば俳句の如く誰にで領本の句俳く309
          〓しわがくにかうこくわくにいぐわいこくじんも作れる詩をもつ我國は幸福であつて、我が國以外の國人は不幸である。したがわれ〓〓たこくおほいほこわけ從つて吾々は他國に大に誇らねばならぬ譯ではないか。かいあるひじわづかじあらはかんじやうしゆみたかし斯う云ふと或は十七字の僅の文字で思した政信趣はは高の知れたもぶんがくうへみかちたこくほヽいで、文學の上から見れは億置がなく他國に誇るほどのものでないし云ふものちやうたんだいせうおの〓〓ようすんてつひところてきびうたも知れぬが、物には長短大小各々の用がある。寸鐵人を殺す的の美を歌ふうたれそくせきできちようはうしぶんがくちうくらゐが上に、誰にも即席に山來ると云ふやうな直翼な詩も文學中一つ位あつていなかならかにほんじんはいくも可からう、否、必ずなければならぬものである、且つ日本人は俳句のみつくせうせつつくかつくまたしんたいしつくを作つてゐるのではない。小說も作れば和歌も作り、又新體詩も作つてゐしかはいく(はいくた至わがくにはうして而して俳句を作つてゐるのである。俳句だけ他の國よりも我國の方に詩おほおほほこわけこんごかれらおいが多いのであるから、どこまでも大いに誇るべき譯で、今後は彼等に於てわれまなこはいくほんりやうまたこんにちおよしやうらいそんざいも我に學ぶべきものである。是れが俳句の本領で又今日及び將來に在在す310釋評と話俳で、せいめいところべき生命のある處である。俳句の將來はいくしやうらいはつてんとひとこのはつてん俳句は將來どう發展するものであるかと問ふ人があるが、此發展といふいみていはいくもくてきびうたさだ意味がまだ不定のやうである。われは俳句の目的は美を歌ふものと定めて〓びもつおもしろうたいはすでばんろく居る。で、美を最ともうまく、面白く歌ふと言ふことは、早や既に元祿のはせをらおいぶんゐことてんめうぶそんごとこのてんおいてん芭蕉等に於ても十分にやつて居る。殊に天明の蕪村の如きは此點に於て天さいほしいまめいぢしきはじこんにちたいかしよし明治になつても子規を始め今日大家諸子といはるゝ才を擅にして居る。ひとざうけいしめゐしたがつこのうへすぐびうた人はそれ〓〓に造詣を示して居る。從て此上それよりも勝れて美を歌ふ條ちおもびうたはつてんはいくしやうらいはつてん地はないと思ふ。で、かく美を歌ふのを發展とすれば、俳句は將來に發展來將の句俳で、
          ちあまの地を餘さないともいへる。しかおなびうたうひとふう併し同じく美を歌ふといふ上にも人にはそれ〓〓の風がある、それ〓〓けいかうこのてんさはんべつげんろくあらゐの傾向がある。此點は千差萬別であつて、元祿にもそれが現はれて居た。てんめうあらめいぢげんろくてんめうあら天明にも現はれた。明治には元祿にも天明にもなかつたものが現はれた。みけいかうおいあたらあらはうめんかづ〓〓これして見れば傾向に於ては新しく現はすべき方曲が數々あるであらう。之をゆはつてんはつてんよわけやつて行くのを發展といへば、發展の餘地はまだ〓〓ある譯である。さいげんはいくふかたくはつてんてんおいはつてんよち再言すると、俳句を深く、高く發展させるといふ點に於ては發展の餘地よこはゞひろはうめんおははつてんぶんはないが、橫幅を廣く、方面を多くするといふことを發展といへば、十分そのよらすなはひと〓〓くふうくてうすでくふう神ぢ其餘地がある。即ち人々の句風、句調がそれである。既に句風、句調といぜたひできかうていしんせんかうおついへば一を是とし他を非とすることが出來ない。高低深淺には甲乙が言はれてうふう句調には優劣を論せられない。いうれつろんぶんげいそのものつとめるが、句風、けれども文藝其物の務として話俳と釋評312るが、たゞひとまねはかゐできかぎおの〓〓じこめんぼく唯人の眞似許りをして居るべきものではなく、出來る限り各々自己の面目はつきそのためまではうめんみだあからたくまを發揮せねばならぬ。其爲にこれ迄にない方面を見出してそれに力を逞ししやうらいはつてんみちほかうすることが將來〓展すべき途に外ならぬ。このしんはうめんひらえうけつぐわんらいはいくしじいわらわじそこで此新方面を開くに一の要訣がある。元來俳句の詩形は僅に十七字こじじはたらいじやうはたらできであるから、此の十七字は十七字の働き以上に働くことの出來ないものでわかけおきまたはうたはいくあるといふことを考へて置くのである。又美を歌ふものは俳句のみではなま〇·ながけいしきしげん251さんぶんぶんしやうしかく其他にも長い形式を有つ詩もあり、千百言を費す散文の文章もある。而もくてきみなおなびうたながして目的は皆同じく美を歌ふといふことにあるのであつて、長いものにはながちやうしよみじかみじかちやうしよおの〓〓ぶん18そのちやうしよ長い長所があり、如いものには短い長所があるから、各ケ分を守つはつきびうたを發揮しつゝ美を歌はねばならぬ。ところはいくいぐわいしそのたぶんがくちやうしけいじすうおほリようべん處が俳句以外の詩や其他の文學が長詩形や、字數の多きを利用して千變であるから、來將の句併じすうおほリようべん字數の多きを利用して千變
          はんくわそのびうたこんにちマはいくつく萬化に其美を歌ひつゝある今日であるから、動もすると俳句を作るものも、ごぶつひそのまねじたんしv.ほんぶんわすそれに鼓舞されて、遂に其眞似がしたくなり、十七字の短詩形の本を忘いじやうびうたぐわんらいじはたらせいげんていてつひむりげんごもちきたけつミうたじぶんから、遂には無理な言語を用ゐ、木に竹繼いだやうな事を歌ひ、自分にのわかひとよわかにくけつきよくびうたみ解つて、人には讀みにくゝ解り難いものとなつて、結局美を歌はうとしからそのびすくなしやうげしやうわかねつじやうひと〓〓て却て其美に少からぬ障碍を生ずるやうになる。これは若い熱情の人々にがちあやまちすでじ30ぶんがくたのはあり勝の過である。けれども既に十七字を以て一の文學を樂しむといふさだなにさやうむどりよくひつえうしりぞことに意を定めたならば、何も左樣に無理な努力をする必要はない退いしづじしほんぶんまもそのちやうしよびうたしかて徐かに十七字詩の大分を守り、其長所たる美を歌へばよいのである。而なほよりよくじいぐわいちやうしけいさんぶんくわつどうして猶餘力あらば十七字詩以外の長詩形や散文に活動すればよいのであちやうたんおの〓〓そのところ大はじさくしやちあらゐかんたくまる。かくて長短各々其所を得て、始めて作者の力も遺憾なく退しうされ、話俳と釋評あナ大ぶんがくそれ〓〓うちたことできから價ある文學を夫々に打立てる事が出來るのであると思ふ。たとめしたおほがましようがふがふたちひさかま鮮へは飯を炊くには大釜もあれば、升や五合三合を炊く小い養ちあてきたうようたゐしかちひかまおほかまたくさんて、それ〓〓適當に用を達して居る。然るに小さな釜が、大きな釜で澤山こめたうらやちんぶんりやういじやうたけつきよくできそこなめしの米を炊くのを羨ましく思つて、分量以上を炊けば、結局出來損ひの飯とあぢおなiじたんしけいみだなつて味のまづいものとなる。これと同じ事で、十七字の短詩形が濫りにふくざつことPはふできまづ複雜な事をいはとうすれば、矢張り不出來な句となり拙いものとなつて、らうかうことこのほかじうらいふうくてうがいちんぶ勞して効ない事になるのである。此外、從來の句風、句調を一〓に陳腐とまなこんにちはいじんいなし、之れを學ぶは今日の俳人としてあるまじきことのやうに云ひ做すものまたおほいまちがげんろくてんめいいらいひらはいくでんぢいまもあるがこれ亦大なる間違ひで、元祿天明以來開かれた俳句の田地は今もなほはいじんつちかでんぢうしなえうこのところしん猶俳人の培ふべき田地たるを失はない。ただ要はそれ〓〓好む處に隨つてその〓しうくわくいたづたにたべつし其美を收穫すべきであつて、徒らに他を排し、他を蔑視するは俳人たるもし、
          がりやうたとへくふうくふうおのことなのゝ雅量でない。そび假令句風、句調は己れと異つてゐるものでも、其の美をうたてんまたおの〓〓ちやうしよぶんこれみとへんば歌ふ點又各 の長所は十分に之を認めて、ながしんきうこ偏頗に流るゝことなく、新舊古んあひともしやうらいはつてんき今相與に將來の發展を期したいものである。話 俳と釋評316俳趣味と家庭はいしゆみせけんわかゐううそのじつわか俳趣味といふことは世間で解つて居る樣で其實解つてゐない。て、これが定めいかくのあまみうえうはいく義を明確に述べたものも餘り見受けぬが、びうたぶんがく、要するに、俳句は美を歌ふ文學ぶそのもくてきにんげんゐしやごらくほかしかしの一部であつて其目的は人間の慰藉媒樂に外ならぬ。せ.而して、それが詩形ひっぜんやくそくおなぶんがくうへおいレラかたなきそのものゝ必然の約束として同じ文學の上に於ても一種の傾を有つて居ぴたいしゆくわんもしかくゝわんべうしやたぶんがくどうやうる。美に對する主觀若くは客觀の描寫であることは、他の文學と同樣であそのないようふくざつかんたんち30モはうのうかうるが、其内容が複雜ならずして簡單に、緻密ならずして疎放に、濃厚ならへいたんねつれつれいせいてんたしかはいくとくちやう〓烈ならずして冷靜であるといふ點は確に俳句の特長であ」ずして平淡に、じんせいはんもんうつう)めんだうさなるべくにんげんてうえつる。だから人生の煩閣を寫すといふ樣な面倒は避けて、可成人間を超越しだつりおもむきうつだぜん〓〓にんげんわすしまた、脫離した趣を寫し出す。さればといつて全然人間を忘れては了はぬ。にんげんどうじやうよじたかく·わんおさくしやだいしやくわんさつ人間に同情を寄せるが、自他を客觀に置き、作者が第三者となつて觀察しゐなにごとしや〓〓らく〓〓よゆうひじやうねつにんじやううたて居るから、何事にも洒々落々として餘裕がある。非常に〓した人情を歌ひとかんどうしやくわいどうじやうもとむしつて人を感動させたり、社會に同情を求めたりするよりも、寧ろこれによはんもんゐぎやくきやうしよぶくつろぎゐあんうてきつて煩悶を慰し、逆境に處して一部の寛容と惡妾とを得るに適したものがすなははいくしたがこれかていたかうりよくかした即ち俳句である。隨つて之を家庭に入れて多大の効力がある。如何に親しおやこきやうだいふうふあひだがらときかんじやうしやうとつまたははい觀子兄弟夫婦の間柄であつても時に感情の衝突は免れない。さういふ場あひこれすくしうけうだうとくまじBがくしや合之を救ふには宗〓だの道德だのがある。けれども其等は〓師とか學者とるが、る。廳家と味趣俳
          えういへ〓〓ひとごとのぜまたごらくせつびかを要することで家々人每には望まれない、又他に娛樂の設備をしようとかねところはいくちがいづい、いづすればそれだけの金がかゝる。處が俳句はそれらと違つて、何れの家、何ひともちかんじやうやはらしやかうあたできことわれの人にも用ゐられて、感情を和げ、社交を溫めることが出來る。殊に和かかんしぶんばふがげんかうそくすくなたれ〓や被誇のやうに文法たの雅言乃のに拘束されることが勘いから、誰にもたやす(とくそのしようこいにしへしのうこうしやうとくわいそんらくつ容易く作れるといふ一得がある。其證據には古から士農工商都會村落津々うら〓〓いたおこなすでわかだんぢよ浦々に至るまでも行はれてゐる。既にこれよりやゝむづかしい和歌が男女なかやはもものヽふこゝろなぐさきじんなの中を和らげ、猛き武士の心を慰め、鬼神さへも泣かしめたといふならば、こんにちはいくうさうかんくわかならおもこれうたないよう今日俳句の上にても左樣いふ感化は必ずあらうと思ふ。さて之を歌ふ内容がぞくくべついうれつこうせつことしついていへば、もとより雅俗の區別、優劣巧拙もある事であるが、これげいじゆんじやうかちさだはあひろんかていうへときは発術上から價値を定める場合に論すべきことで、家庭の上からいふ時はかならげいじゆつてきそのかそのひと〓〓このてきないよう必ずしも藝術的でなくてもよい。其一家其人々の好みに適したことを內容詰 俳釋評と318おもとしたらばよからうと思ふ。俳句と宗〓はいくしうけうくわんけいはなしヨしうけうことぎさだ俳句と宗〓との關係をお話するには、先づ宗〓と云ふ事の意義が定まらこんにちふつうしうけうとなゐひとおの〓〓おのれきかうはうかうねばならぬ。今日普通宗〓と稱へて居るのは、人各己が歸仰すべき方向さだむかやすこのよちくげんあんじんりうめいうを定め、それに向つて安らけく此世を送る、一言にして云へば安心立命を得いことしかそのきかうじやうかみすうはいうると云ふ事なのである。而して其歸仰上には神を崇拜するのもあれば、佛しぶつせつしんかうそのしくだいろ〓〓ぐうぞうきつねシテ若くは佛說を信仰するのもあり、其他下つて種々な偶像から狐とか蛇とかどうぶつそんすうそのくべつさ3)さま〓〓のやうな動物を尊崇するものもあつて、其區別差等は樣々あるけれども、えうひと〓〓あんじんりうめいたにんげんにんげんみちてんそくてきおこな要するに人々の安心立命の爲めで、人間の人間たる道を天則的に行はしむ旬俳と〓宗
          もくてきいたかはるやうにする目的に至つては變らぬ。ところはいくごとじんせいきんげんもんだいみた.處が俳句と云ふものゝ如きは、人生など云ふ謹厳なる問題より見れば唯そのせいくわつちうじけんこいちぐわいはふけんてきもちろんひとげんかっうくわんけい其生活中の一事件で、而も治外法權的のものである。勿論人の言行と關係べつこひとみちかたちおこなすぢ別に是れが人たる道とか、必ず行ふべき筋とか云ふと話俳釋評はしてをるけれども、べきものではない。にんげんよしよあひだたゞぎむてききんむ六、くつろ人間の世に處する間只義務的の勤務に服して孜々としての寛ぎもなけつせいしんしんたい〃モこれゐしたと云ふのみでは、決して精神も身體も續くものではない、其處で之を慰籍ひつえうしやうまつたにんげんきはんじゆんぜんびcするの必要が生じ、たの全く人間の職絆をはなれて、純然たる美を樂しむ、自いうじざ.びてんてこうしやうわれにんげんしんぶつあるひまたけもの由自在に美の天地に翊翔して、我は人間なのか、神佛なのか、或は又獸なさうもくらすべはうきやくしまはなはだわれのか草木なのか、それ等の總てを忘却して了つて、甚しきは我なるものをいしき人が此世界に入ればひとこのせかいけんそかいさへ意識しないと云ふことになる。もはや現世界のもかたちけんよかいしんれいとにうるおもしろべつせかい形は現世界にあつても心靈は遠く美はしい面白い別世界のもののでなく、である。はいくつくあたわにんげんことわひとくわんけい·されば俳句を作るに當つても、我れの人間たる事、我れと人との關係せぞくじゞやうわすしまゆゑひとひとあんじんりうあらゆる世俗の事情を忘れて了はねばならぬ。故に人を人としての安心立めいうんぬんしうけうさいくわんけいらうまつたえん命を云々する宗〓などとは一切關係を有せず、全く緣のはなれたものであじゆんぜんぶんがくけいとうはいくたのときあたどくりつじざいぞくじなんる。純然たる文學系統の俳句を樂しむ時に當つては、獨立自在俗事には何らこりよところあるひてんちほかみおかえう等の顧慮する處なく、或ほ天地の外にも身を置いて歌謠するのである。もくぜんれいもついかそうぐわいはなさくらはなみりつばうつく目前の例を以て云へば、彼の窓外の桃の花や櫻の花を見てあゝ立派た美そのびしゆんかんみづかにんげんけものにしいと、其美にうたれた瞬間は、もはや自ら人間なのか、獸なのか、將たいかきんむみことまつたわすしま如何なる熟移をすべき身であるしか。そんな事は季〓忘れててふのしかしゆえいうないきこのばうきやくけつくわ而して一首詠じようとか、一句唸らうとか云ふ氣になるのも此忘却の結果る。句俳ど〓宗
          なのだ。釋評と話俳はいくつくあたこんぱんめしことさかだいはらさいかく若しも俳句を作るに當つて、今晩の飯の事とか、酒代を拂ふ才覺とか、そのたことおんかbedゐじおもしろニ. ?.其他の事を一々考へ煩うて居たなら、とても十七字は面白く綴れぬ。綴れぶんだぞくじあくせくこゝろどうくわうこつむても十分に伸びぬ。第一俗事に齷配してる心であつては、什麼して恍惚無がきやうたことでき我の境に立つ事が出來よう。すでわれわすしまぶんがくてんたぜんあくそくはくう既に我を忘れて了ふべき文學の天地には、善とか惡とかそんな束縛を受だうりあったれていぜんこてふまごともりとりなごとひとくべき道理はない、恰も庭前の胡蝶が舞ふ如く、森の鳥が鳴く如く、人はびせかいまうたはいくはいくかぎわかかんししゆ〓〓美の世界に舞ひ、歌ふのが俳句。俳句のみに限らず和歌とか漢詩とか種々じゆんぶんがくあらな純文學となつて現はれるのである。じゆんぶんがくけいとうはいくみぎのとほたおうよう純文學業統の併りは右に述べた通りであるが、若し之れを他に應用じんしんおさこくかたあるしゆぎしゆちやうまたじぶんしん人心を修めやう、國家の爲めに或主義を主張しようとか、又自分が信ずるしうけうひろにあひいろ〓〓けいかうはいくでき宗〓を擴めようとかする場合には、種々の傾向した俳句が出來る。がこれぶんがくいはんゐはなすくなじゆんぶんがくいは文學と云ふ範囲を離れたもので、少くとも純文學と云ふものではない。らくわう〓〓はいくぜんみふくゐしうけうおうかゐ古來住々にして俳句に禪映が含まれて居るとか宗教を講歌して居るりんりだうとくしゆぎおもつくこヽろえゐか、倫理道德の主義を重んじて作らねばならぬとか心得て居るものもあほんらいもくてきゐきやくじおうようまなことやうだけれども、此れは本來の目的を遺却し、一時の應用に眼を取られたがこれか、ものである。しかトゆんぶんがくはいくしうけうかいじけんさいよ然らは純文學の佛句には宗教界などの事件は一切訴ふ込まれぬかとけついにしへちごくごくらくてんだうあくましうけうに、決してさうではない。古より地獄、極樂、天道、惡魔とあらゆる宗〓ことすくなたゞびざいれうもちの事を詠みこんであるものは少くない。がこれは唯美をうたふ材料に用ゐはいくよなかんたらばんしやうなにごとえいなにものとらたばかりで、俳句は世の中の森羅萬象、何事を詠じようが、何物を捉へよいこたそくはく3しうげうかいじけんざいれうとうが、聊かも他の束縛を受けないのだから、宗〓界などの事件を材料に取句俳と〓宗うが、
          ル東つたからとて決しで不思議はない。總てが其美を謳ふと云ふ目的に外なら324釋評ぬのである。な俳句に於ては美化し世道人心の如何を云々すべきも材料はよし宗〓であらうがて了つて、本來ならば、道德倫理であらうが善惡正邪を論じ、のも、唯美を見るばかりである。此に於て倫理も倫理でない宗〓も宗〓でない乃至政事も法律も皆然りである。き斯く云ふと又俳句なるものは世道人心を亂じ、國家社會のおめ危險極まとの問題が起りさうであるがよく考へると決しるものではなからうか。てそんな事はある筈がない。第一一、俳句を作る時は、第一一、俳句を作る時は、束縛も受けないにしても、さへづじ鳥の軸りや蝶の舞ふ時の如く唯だ自由に何等の人と云ふものは生れて社會の一員となり、互にみだじんしん世道を亂し人心を害する樣な事を美若し感ずるとすれば、それは既に人間たる頭腦を失つ助け合うて生活する動物なる以上は、と感ずる筈がないたもので即ち人面獸心なのだ。他の例を以て云へば、糞は唯見れば穢い。而して直ちに之れを繪に現は굴句に捉へたとて不快感を起させるばかりで、到底美を味はせる事は出しゆ〓〓はいがふされど此れに種々配合の妙を盡し幾を誅み込んで携〓云エ事を忘し、來ない。れるせる程の子段を總だならば本來の礦いものも美となるのである〓〓忌はしき蛇恐ろしき妖怪、此等を唯寫した丈では、忌はしい、其他〓〓忌はしき蛇恐ろしき妖怪、此等を唯寫した丈では、外には何等の趣味も美もないが、或る工夫を凝らせば、妖怪の恐しさも打消されて、美趣を得る事が出來る。え.惡人とか善人とかを詠じたにしろ、恐ろしき妖怪、忌はしい、〓ハ蛇の忌はしきも、恐しいの旬俳〓宗と外には何等の趣味も美もないが、若し讀者をしてあゝ是れは惡が詠ま
          ぜんゑがそれきづかれてをるとか、善が描かれてをるとか其のみ氣付かれるやうでは不可ぬ。かいしかはゑもんくすのきまさしげうたはあひいしかはあくにん、くすのき假りに石川五右衞門と楠正成を謳うた場合にしても、石川は惡人だ、楠はちうしんかんおこことかれらかうどうまたかれらたくわんけいじやうあく忠臣だとの感じを起させる事よりも、彼等が行動又彼等と他との關係上惡ぜんかびてきかんしかのちぶんがくのうじをはにまれ、善にまれ如何にも美的であると感じきせて然る後文學の能小が終58ぜんなくかんどくしやあたぎりやうたるので、奮惡の感をのみ釀者に與へるやうではまだく〓技術が足らぬと云はねばならぬ。みぎしだいはいくすべぶんがくそのものせだうじんしんさまた右の次第であるから俳句のみならず、凡て文學其物には世道人心に妨げだうりいわかある道理はないと云ふことも分るであらう。しかのみならずはいくもとつしv.かんたんうへあまふくざつじんじえい加之、俳句は最も詩形の簡單なものであるが上に、餘り複雜な人事を詠このてんおいセだうがいおよことすくなじないから、此點に於ても世道に害を及ぼす事は少いわかかんししんたいしせうせつけいしきしだいながそのうち和歌、漢詩、新體詩、小說と形式が次第に長くなるにつれ、其內にうた話 俳と評釋326にまれ、58るので、そのうち其內にうたじんじしだいよくざつびかんあたもくてきあくにんはるゝ人事も次第に複雜になつて、美感を與ふべき目的のものも、惡人をうつところあくにんどうじやうざんここといんわいことどうくわな寫せる處では惡人に同情し、慘酷の事淫猥の事にもそれ〓〓同化を爲すとごとあんぐわいせだうじんしんがいおよはあひこもちろん云ふが如く、案外にも世道人心に害を及ぼす場合がある。此れ勿論それのもくてきざりやういたおこそのせめさくしやマはらじ目的ではないけれど、技倆の到らぬから起るので、其責は作者が矢張負はながこのへいがいともながべつせうねばならぬ。長くなればそれだけ此弊害も伴ひ勝ちであるから、別して小せつちよさくじぶんしゆわんかへりかなぜんなくそのた說の著作などはよく〓〓自分の手腕を顧みて、必らず善惡其他あらゆるもびくわのうじじとくのちはじふでとさのを美化するの能事を自得し、後初めて筆を執らねばならぬ。左もないとこくかみだしやくわいがいたいぞくいせんかたわけきんらい國家を亂し社會を害する大賊と云はれても詮方ない譯た。それにつけ近來あるはせうせつこのてんおい13あやまきけんきはおも或一派の小説だとは此點に於二二誤誤ると氣陰極まるものでるると〓宗と句俳
          釋評と話俳俳句と新文藝きんらいはいくPひとせうせつしやせいぶんとかくさんぶんはうてんゆ近來俳句を遣る人が、小說とか寫生文とが、兎角散文の方へ轉じて行く。はいくしぜんおよじんじあるひらたじかん是れは、俳句と云ふものが、自然及び人事、或はそれ等に對する自己の感じやうはつべうまんぞくせいしきたあろひはいくけいしき情を發表するに、不滿足な形式であるが爲めか、或は、俳句の形式に於て、らさいぶんはつべうえつ、それ等の一切を半分に發表し得られるものであるか-とむに就てわくわんさつべつかはすべT:がくもおの〓〓觀察は、別にたいして變つたこともない總て他の學問なり業務なり各こじんてんぴんさかのういさらしかうい個人の天品、才能と云ふものがあり、更にまた嗜好と云ふものもあつて、かたことなゐさま〓〓しごとじうじゆそれが各自に異つて居るところより、樣々な仕事に從事して行くのであるはいく(ゐひとさんぶんてたアはから、是れまで俳句を作つて居た人が、散文に手を出すと云ふのも、矢張ひとてんぴんさやうはうめんかはやすおむねもゐあんかはいくその人の次品が左樣に方面の殘り易い但きを持つて居たので、强ち俳句のけいしきしぜんじんじあるひらたここかんじやうはつぺうじいう形式が自然、人事或ばそれ等に對する自己の戯情を發表するに不自由でその詩形に不滿足があるとか云ふ爲めではないと思ふ。しまんぞくいたやっあるとか、俳句はわづかじせうせつしやせいぶんなんじなんじさまたこか僅に十七字、小說や寫生文は何百字何千字でも妨げない。此れと彼れとをひじかんじやうはつぺうりやうさうゐさいしよし〓比して自己の殿情を發表する最の相以あることは最初より知れ切つしきゐなははいく?、はいくよいくしゆる。知れ切つて居て猶俳句を作るのは、おのづから俳句は、俳句で、一 〓とくべつしゆみせうせつしやせいぶんきみできちやうしょそん特別の趣味があつて、小說や寫生文に於ては見ることの出來ぬ長所が存しゐしかこのちやうしよいこのちやうしよて居るからである。俳し此長所があるからと云つて、いつまでも此長所のまもゐおよすなはかはいくつくいみを守つて居るにも及ばぬ。即ち甞つて俳句を作つたからと云つて、何時はいくつくゆいやくそくあはあひまでも、俳句を作つて行かなければならぬと云ふ約束もない。或る場合に。はいくヤさんぶんつくひとでまたはいくつくは俳句を止めて散文を作る人も出て來るであらうし、又俳句を作りながらさんぶんかひとはんいまさんぶんかゐ散文を書く人もあるであらうし、これに反して、今まで散文を書いて居た藝文新と何俳
          ひと八六、ひとはいくはうてだかつつか八六、俳句の方へ手を出して來ることもあらう、嘗て一つのものを遣つたたことなてだできやから、他の異つたものに手を出すことが出來ぬ、二つのものは遣られないゆらいぶんがくじいうてんちさいのうむと云ふものではない。由來文學は自由の天地であるから、その才能が向き、しかうてんぴんそなはゐなにやかうさしつか嗜好があり、天品が備つて居れば、何を遣つても一向差支へないことであむしじこてんぴんとうよじうらいやゐる。のみならず、寧ろ、自己の天品等に依つては、從來遣つて居たことをすたさらじぶんてきはうめん1.ゆ捨てゝ、他のそれよりも更に自分に適した方面に進んで行くことは、そのひとととくさくかぶんがくかいおいよろこおも人に取つて得策でもあるし、且つ文學界に於ても惠ぶべきことであると思ゆゑはいくつくゐひとしやせいぶんせうせつてだ3.0故に俳句を作つて戶た人が常生支や小説に子を出したと云ふこともまつたこわけなにふしゴ全く此の譯で何も不思議はない。なくはわれ〓〓わづまどゐもてあそ〓うち尙ほ悉しく云へば、さいしよはいく吾々は、最初俳句のみを僅かの圓藥で弄んで居る中どうかうしぜんこくひろまたかいぐわいマイカいに、同好の士がだん〓〓と全國に擴がり、又海外にまで增加して行つたか話 併と釋評330から、に、ともます〓〓はいくつくはいくけんきうゐら、それ等と共に益々俳句を作り、俳句を〓究して居たのである。ところはいくひとおほしたがひと〓〓しかうさいのうはいくが俳句を遣る人が多くなるに從つて、それ等の人々の嗜好や、才能が俳句かぎゐものわかつくだひとまたばかりに限られて居ない者もあつたから、和歌を作り出す人もあれば、又しやせいぶんはじひとなざいらいせうせつてだひとでき寫生文を創める人もあり、尙は在來の小說に手を出す人も出て來た。けれひほさいのうしかうよあへあやしベどもそれはその人の才能嗜好に依ることで、敢て怪む可きことではない。はいくいくわいし かうさいのうをものいぜんはいくじうじ俳句以外に嗜好才能を持つて居らぬ者は、依然として俳句にのみ從事してゐげんごとひやうしやくぎあんぶんか居る。現にわれの如きは、くだらぬ評釋や議論文のやうなものは書くけねんニラごとはいくこはいかぼ〓しだいれども、十年一日の如く俳句に止まつて、俳家顏をして居る次第である。ひつきやうはいくいぐわいしゆみさいのうとばほかマ是れは畢竟するに、俳句以外のことに趣味才能が乏しく、外のことを遣るできことが出來ないからである。とらあきいついじうらいはいかいしゆみいとなそこで尙ほ趣味と云ふことに就て言ふと、從來俳諧趣味と云ふことが唱けれ■文新と句俳じうらいはいかいしゆみいとな從來俳諧趣味と云ふことが唱
          俳と話評釋へられて居る。へられて居る。是れも實に漠然たることで、凡ての文學の中で、へられて居る。是れも實に漠然たることで、具體的には十分に云ひ難い。凡ての文學の中で、或る傾きを持つて居ると云ふ位の名稱で、その極端のち〓ちかものとなれば、他と區別を明かに立てることが出來るが、だん〓〓相近づくに從つては、割然とした區別を立てることは出來ない。されど此の俳諧し趣味と云ふものは、主として俳句の十七字の詩形よりその傾きを生じて來ジるので、詩形が簡單ながら、その詩形で言ひおほせられ、その詩形に最もが適當した長所を持つ有き或る地味が自然的にそれへ恋したものであ又、誰れも知る如く、世界の文學に於て三十一文字の和歌と云ふものが、し實に他に類のない短い詩形である。ところが俳句は尙ほそれよりも短い詩リ.か.イ、形であるから、その詩形に適つた趣味は、世界の他の國に於て、多く解せ1ヘられて居ない故に俳諧趣味と云ふのは、我が國に特有の趣味と誇つてもその極端のち〓ちかだん〓〓相近づものとなれば、るので、た此の趣味は、支那の古代にも現はれて居て、好いやうになつて居る。勿論、日本にもだん〓〓と傳はつて居るが、特たことは古今未だ曾つてないと云つて好い。今日の俳句の如く、著じく發揮され是れが芭蕉以來二百年此の方の現象である。だから是れまで俳句を弄んだ者が、前に云つた如く、その嗜好才能に依つて、他の文學に手を出すに至つても、矢張り弄び慣れ、そして能く解した趣味であるからして、らも現はれて、して能く解した趣味であるからして、自然に俳諧趣味が、他の文學の上にらも現はれて、是れが又一種の特色を成して居る。現に俳句を遣つたことのある人の手に成つた寫生文なり、小說なりは、それ以外の人に見ることの他の文學の上に小說なりは、それ以外の人に見ることのと句俳藝文新出來ぬ趣味の表現がその觀察なり思想なり描寫なりに於て存して居ることが、一目して分からう。固より俳句のみに限つて現はれ得られで、此の俳諧趣味と云ふものは、
          いしゆみると云ふ趣味ではなく、はいかくしゆみに俳諧趣味と云つても、いしゆみたぶんがくぶんあらえたんると云ふ趣味ではなく、他の文學にも十分現はれ得られる趣味である。單はいかくしゆみひろかいいぶんがくあはけいかうに俳諧趣味と云つても、之れを廣く解して云へば文學の或る一派の傾向とわれ〓〓なんだせうせつかたえ云つて好いのである。だから吾々の仲間が、小說を書くにしても、他の文がくちがていくわいしゆぎなんしゆ〓〓な30せけん學と違つて、低徊主義とか、何とか種々の名を以て世間からも呼ばれつゝしだいある次第である。しかはいかいしゆみはいくじしけいもつとてきたう然しながら俳諧趣味は、よ俳句の十七字の詩形に最も適當し、是れに由つおほうたこし.けいだつきやくたながけいしきて多く歌はるべきものであるから、此の詩形より脫却して、他の長い形式、あまたしようできしやせいぶんせうせつつくなに數多の文字の使用することの出來る第生支や小酸を作ることになれ何しゆみとゞまひろいぐわっしゆみべうしやも此の趣味にのみ止ることはない。廣くそれ以外の趣味をも描寫することしぜんいきほひげんあものしやせいぶんごとせうせつごとになるは自然の勢である。現に或る者の寫生文の如き小說の如き、それにあらゐしゆみほとんム),じよじしよじやうはいかいしゆみみ現はれて居る趣味は、殆ど普通の叙事抒情で、俳諧趣味はどこにあるか見話俳釋評と334た出せないものもある。なたともついはいくしu.はいかいしゆみうた尙ほ之れを譬へを以て言へば、俳句の詩形で俳諧趣味を歌ふと云ふことでふはんすきまつちやたおかすべかんいは、四疊半の數寄屋で抹茶を立てると同じことである。總てのことが簡易たんばくしつぼく29でふざしきおえんくわい淡泊質朴である。ところが、二十疊、三十疊の座敷に於ける宴會となり、なでふでふたいくわいさうおうさうくよくよきよう尙ほも百疊、二百疊の大會となれば、それ相應に裝飾もあれば、餘興もあたしゆこうたりやうでたいしゆきやくとうさでふはんり、その他酒肴も多量のものが出て、それに對する主客の動作も、四疊半ちひところさじやときたいどことなくもちろんひろの小さい所で茶事を追る時の態度とはだん〓〓異つて來る。勿論、廣い座しきたすうひと〓〓えんくわいさじみできいう敷で多數の人々の宴會も、茶事見たやうに出來ぬことはない。さう云ふ風Pしかたすうおほたおむかたむに遣ることもあらう。然し、多數となれば、多くは他の趣きに傾くことにかんがはいかいしゆみぶんがくラおたちばたいていなる。是れから考へたならば、俳諧趣味の文學の上に於ける立場も、大抵わかおもまたにんげんいつさじさびおと分るだらうと思ふ。又、人間は何時も茶事ばかりをして淋しく樂むことは
          できたすうひと〓あつまおほやうきおんがくぶたうさわたひ出來ない、多數の人々と集つて大陽氣に音樂舞蹈と騷き立て、美人相手にあおなはいくやひと〓〓ひとからかひ合ふこともある。それと同じく、俳句を遣る人々でも、その人にイよそたぶんがくゅたすうえんくわいかぶ依つて其の他の文學にも行くのである。けれども、多數の宴會や、歌舞のさう〓〓このひとねんぢうしづそばくさじたのまどゐの騷々しいことを好まぬ人は、年中靜かにして素朴な茶事のみを樂ゐはいくたぶんがくうつひとまたはいくとゞましんで居るのもある。俳句から他の文學に遷る人と、又俳句のみに止つゐひとあひだせうそくよわかて居る人と、その間の消息は是れに依つても分ることである。はいくさきごとたるゐちひけれども、俳句と云ふものは、先にも云ふ如く、他に類のないくらゐ小しじ、したがしゆみたしゆみひかくくらさい詩形であるから、從つてその趣味も、他の趣味に比較して、比べものちひしやうらいたぶんかくともせいそんはつてんにならぬくらゐ小さく、將來他の文學と共に同じやうに生存し、發展してゆできおもひとココひじやう行くことは出來ぬと思ふ人もあるやうだが、決してさうでない。非常なるぞくぶつしすでしゆみかひとたすうあつまえんくわいしゆみかい俗物は知らず、既に趣味を解する人なれば、多數の集る宴會の趣味も解すと話俳釋 許どうじまたさじかんいしゆみかいはずまたたいくわいのうかうると同時に、又、茶事の簡易なる趣味も解する筈である。又、大會の濃厚しゆみあものとき〓〓さじたんばくしゆみゆびモたうりな趣味に飽いた者は、時々茶事のやうな漢泊な趣味にも指を染むべき道理またかんたんふくざつスちやうしよゐである。又、簡單なものは、複雜なものゝ持ち得ない長所を持つて居る。したがぶんがくはんゐます〓〓くわくちやうあかつきぜひともかくごととくちやうはいく従つく文學の從例が益を個張さるゝ暖は是非其此の如き付長ある仲とうやうぐうせかいぜんばんむかみとかつちんちやうゆ東洋の一隅より世界の全般に向つて認められ、且珍重されて行かねばならはやぬ筈である。はやはなしじうらいせいやうさじむかはいていゑん早い話が從來西洋にはなかつた茶事が、向ふにだんだん入つて、庭園できすきやできいまおひ〓〓りうかうすがたも出來、數寄屋も出來、今のところ追々流行の姿であると云ふことだ。そおなはいくしだいむかくわんげい;ちがむかれと同じく、伊句は次第に同ふへ〓迎される樣になるに遠ひない向ふのひと〓〓にほんごはいくうたtくに〓〓ことばおう人々が日本語で俳句を歌ふこともあるだらう。又た、その國々の言葉に應かんたいしけいはじうたことばしじて簡單な詩形を創めて歌ふこともあるであらう。言葉は外國語でも、詩
          けいしけいしぜんはいかいしゆみあらくさじどさ形が詩形だから自然と俳諧趣味が現はれて來る。茶事は何所へ行つても茶じしゆみことはいかいしゆみどいはいかいしゆみもつと事趣味であるが如く、俳諧趣味は何所へ行つても俳諧趣味である。尤も、にほんいぐわいぐわいこくじんたんばくせいじやうとばにほんじんこせいじやうと日本以外の外國人は、淡泊たる性情に乏しいが、日本人は此の性情に富ん〓めんはつきやまとだましひぶしだうで居て、之れが一面に發揮すると大和魂ともなり、武士道ともなるのであじうらいにほんかくにがら〓はいくごとたんばくしけいる。從來の日本は、斯う云ふ國柄で居たから、俳句の如き淡泊なる詩形もできしやうらいゝかやうゆはいくおよこれともなは出來たのである。されば將來如何樣になり行くとも、俳句及び之に伴ふ俳かいしゆみにほんほんけほこでき諸趣味は、日本がその本家として誇ることが出來るのである。きんらいいたぐわいこくすぐがくじゆつたくさんゆにふそのよいところが、近來に至つて外國の優れた學術が澤山輪入せられて、其餘弊ものちやうたんはうきやくなんかはくらいいいは物に長短あることを忘却し、何でも彼でも加來でなければ可けぬと云ふはいかいしゆみたおうべいしよこくおほみゆゑもつしゆきうところから、俳諧趣味が他の歐米諸國に多く見えない故を以て、一種の舊ごとかんがほんらいあたまかんうちけせいやう弊の如くに考へ、本來頭に感じのあつたものをも、打消し〓〓て、西洋の話 俳釋評と338ぶんがくしゅみどうくわものまたあ文學趣味にのみ同化しようとする者もあるやうである。はいじんちう又、或る俳人中におもわはいかいしゆみかいかくChr是れではならぬと思つて、つとせいやうは、我が俳諧趣味に改革を企て、務めて西洋のぶんがくしゆみあゆ9のふけんしき文學趣味に合はして行かうとする者もある。是れは如何にも不見識なことあたかでふはんすきなかせいやうえんくわいぎしきせつちうで、恰も四疊半の數寄屋の中へ、西洋の宴會の儀式を折衷しようとするやたかんずみふっがふしきゐ誰れが考へて見ても不都合なことは知れ切つて居るが、ようなもので、世のなかふうてうめうやくきさんせいずゐぶん中の風潮は妙なもので、ひとそれに躍起となつて賛成する人も隨分あるのは、はなはこまおも甚だ困つたことだとふ。在存の學文的美美的文學の存在諸所の新聞や雜誌の上に、しんぶんざつしうへしぜんしゆぎんんん自然主義に關して、しゆ〓〓ぎろんゐ種々の議論が數々出て居
          るやうであるが、るやうであるが、われの仕事が極く多忙なので、從つてそれ等の議論も熟讀する暇がない。こゝにはほんの又聞きをしたり、或る一事から推定したiあひて、事に就いて、それを相手として我が美的文學の事をお話しよう。な〓〓〓文學と云ふものが發達して自然主義となり、其自然主義が非常な勢力を得て、今日文壇の覇を握り、從來の文學は色を失つて、萎靡頗る振われの仕事が極く多忙なので、と話俳釋評讀する暇がない。i事に就いて、な〓〓〓〓〓〓文學と云ふものが發達して自然主義となり、其自然主義が非常な勢力を得て、今日文壇の覇を握り、從來の文學は色を失つて、萎靡頗る振とはず、文壇の邊隅に漸く其影を止めて居ると云ふ事が、われには大なる疑問である。萎靡頗る振はず、われには大なる疑文學には定義が數あるであらう。文學には定義が數あるであらう。自分には西洋の書物は讀めず、間が無いから、能く知らぬが、自然主義は文學に如何なる定義があつて、今日文壇に覇を握つて居るのか、其理由を知るのに苦む、で人間に必要なる文學の定義とは、深い學間が無いから、能く知らぬが、自分の知る範圍人間の美感を叙寫し、美感を引き起し、美に同化せしめ美を奔んで自他を無盡寝獄すきし云ふのが目的であ此の文學に依つて美感を引き起し、美と同化し、美と同化し、美を弄んで娛樂慰藉さ人間のあらん限り必要なことで、永久亡びるべきものれると云ふことは、でない。でない。人間には衣食住の苦痛から、進んでは社會のあらゆる事業に從事する苦しみと云ふものがある。人間が此の世の中に生活して行かうとするいろ〓〓には、然うした種々の苔勞があつて、絕えず精力をつかつて居る。其生活人間には衣食住の苦痛から、には、絕えず精力をつかつて居る。其生活して行くと云ふ事の中に、それは樂みも慰めも幾らかはあるであらうが、る生活の上に多く、る生活の上に多く、其努力の爲めに多大の精力を動かすことの出來ぬ事實である。限りある人間の精なか〓〓此の限りなき生活の努力に堪へると云ふことは中々の難事でめ縱し堪へ得るとしても、必らず一面に疲勞を來す。のみならず人間に先づ苦痛なことが比較的、消費すると云ふのは、在存の學文的美力を以て、る。
          こ時とすると自己の事業に失敗し、は單に生活の努力のみではない、又思は話俳と釋評342ぬ難事に遭遇し、失望し落膽する事が多い、3,痛切に苦痛を感ずる。其時に於て人間は、煩悶し、懊惱し、それが極端になると、う悲慘な事實となる、或は發狂するとか、自殺するとか云ふやうな、是れは特に自分が云ふまでもなく、新聞の三面記事を見れば、明らかに知ることが出來る。その生活の努力、それに伴ふ疲勞を癒し、苦痛をまぎらす爲めに、人間はどうしても何等かの方法を以て氣を他に轉じ、き失の關係が一切ないものを弄んで、慰めを求め、Pしたに再び新らしい精力を養つて、うふ上に於ける根本義である。自分の生活と直接利害得慰めを求め、疲勞を休め、そして、更生活に努力することは、人間の生きると云で、人間に衣食住の苦しみあり、生活の爲めに苦痛が絕えないとしたなりらば、どうしても、生江口と云ふものゝ利害得失の關係を離れて、或るものにじ娛樂慰藉を求めると云ふ事は必要である。自分の生活と利害關係のある事或るものに娛樂慰藉を求めると云ふ事は必要である。では、決して眞の娯樂慰藉とはならぬ。例へば勝負事の如きは其一例である。で、生活と利害關係のないものに娛樂慰藉を求めるとすれば、此の美其中でも文學が最も適してを弄ぶと云ふ事が、先づ第一の適當なことで、居る。そして、人間が文學に依つて美を弄ぶと云ふことは、われ〓〓の先天的に持つて居る所の必然性であつて、人間の生存する限り此の美的文學は存在する。然し、昔の仙人とか云ふ者のやうに、山中に遁れて、妻子在存の學文的美なく、生活なき人は此の限りでない。即ち、仙人に非ざる限りは、文學に依つて美を弄ぶ事は、30以上述べた所を以て、最も必要であり、又、人間の本性でもある。われは美を弄び、美を謳ひ、己の感ずる美に他を
          とうくわものぶんがくていぎしかこていけ3)あら同化せしめるのを以て文學の定義とする。然し此の定義を以て文學に非す、いましぜんしゆぎいごとびもてあそぶんがくいつはしんあら今の自然主義の云ふ如く、美を弄ぶは文學の僞りであつて、眞を表はすもつぶんがくていぎいじうらいぶんがくを以て文學の定義と云ふなら、從來の文學はどうなるのであるか。それはほろびどうけい。びもてあそいこにんげんひつぜんせいいか滅びるとしても美に憧憬し、美を弄ぶと云ふ此の人間の必然性は如何にすまなぶんがく30びもてあそいつはひりぞるか之れをも曲げて、尙は文學を以て美を弄ぶを僞りなりと退けること話俳と釋評まなぶんがく30びもてあそいつはひりぞるか之れをも曲げて、尙は文學を以て美を弄ぶを僞りなりと退けることできは出來まいい三しぜんしゆぎぶんがくみりさうさつげんじつっもつぱじつかんじつじやうてき今の自然主議の文學を見ると、理想を去て現實に就き。專ら實感声情的にこじんしげきしかあものしぜんしゆぎぶんがくさしげきよ吾人を刺戟するやうだ。而して或る者は自然主義文學の然うした刺戟に依こらくゐしやできしまたあものにんげんせいくわつもつとひつえうつて娯樂慰藉が出來るかも知らないが、又或る者は、人間生活に最も必要=らくゐしやうかんじこせうせつちうひとそらなる娯樂慰藉を受けるどころでなく、却つて自己も小說中の人となり、其たそうつうはんもんしやうのすなはしぜんしゆぎぶんがくばん爲め一層の苦痛煩悶を生ずる者もある。即ち自然主義文學にては、一般のひと〓〓なぐさむらしいことできなぐさもとス人々を慰め、樂ますと云ふ事が出來ない。若し慰めを求め得られるとしてびてきぶんがくよもと〓あんごとにんげんりがいはなわるも.美的文學に依つて求むる慰安の如く、人間の利害を放れて-惡く言どもごとよりがいてうえつなぐさあんしん=らくゐへば子供の如く、善く言へば、利害を超越して、慰められる安心な娛樂慰しやあらきはきけん=ちくゐンニ藉に非ずして、極めて危險なる娛樂慰藉である。こびもてあそびたのせいくわつく3なぐさぶんがく此の美を弄び、美を樂しんで、生活の苦痛を慰めると云ふのは、文學にかぎおんがくくわいぐわぶんがくよもてあそびおんがく·わいぐわ限らず、音樂、繪〓などにもあるが、文學に依つて弄ぶ美は、音樂繪〓によもてあそvばんてきふへんてきなにびともとう依つて弄ぶ美よりも、-般的、普遍的であつて、何人も求めることを得、か、うごらくゐしや解することを得る娛樂慰藉である、にんげんかぎびてきぶんがくかくごとひつえうぶんがく人間のあらん限り、美的文學が此の如く必要であるとしたなら、文學とししぜんしゆぎいかはとなそのばうかなびてきぶんがくそんざいて自然主義が如何に覇を稱へようとも、其一方には必らず美的文學も存在おなびてきぶんがくせいやうじんじおほもと同じ美的文學と云つても、ひせねばならぬ。西洋では人事に多く美を求めても.
          居る。わ.和漢、美寧の書など見ても、人半美と云ふ事が盛んに說いてあるやうだが釋評と話俳殊に日本では人事美も謳ふが、自然に美を求め、自然美を謳つた方が多い人事美を謳ふにしても、た.斯うした例は、傍觀的態度を以て、殆んど自然の如く謳あつても極めて稀れである。其3.0殆んど西洋にはない。所で、美的文學が、人間の煩悶逆境を慰さめる其用に供せらるゝと云ふ事を考へたなら、自然美、人事美、=て謳つた方が娯樂患籍の目的に適する筈である。び.總て、美と云ふものには、自然美、人事美、いづれを謳ふにしても傍觀的態度を以總て、利害得失の關係はないが、自然の如く美を謳ふ上には、より以上、其關係がなくなる。其所で、從來日本で謳ひ來つた美の謳ひ方は最も好い。人間の生活が複雜になりつゝある際には、殊に此の日本の美的文學を盛んにする必要がある。一方〓んに火の燃えて居る時にはそれを鎭めるやうにすることが必要である。一方濃厚なる生活の半面には、淡泊と云ふことが必要である。斯くの如き必要上から、如何に自然主義文學が盛んになつても、美的文學は存在せねばならず、殊に日本流の美的文學を盛んならしめると云ふ事は必要である。日本人には祖先傳來より、西洋にはない、苦痛を慰め、煩問を洗ふ文學があるにも關らず、何を苦しんでか他の物質文明の如く、文學までも西洋を模倣して自然主義のみに赴き、同じ美的文學でも西洋の人事美趣味にのみ赴き、は夜は甚だ解し難いことゝ思ふ。日本の適當な文われ〓〓我々は、學を忘れんとしつゝあるのであらう。在存の學文的美言はゞ此の日本固有の文學と、西洋の文學を併せ弄び、西洋では二つを併せずして、其中の一に重きを置いて弄んで居た。其幸不幸は自づから明らかなる理である。その二つを併せ寿べる幸福を捨てゝ西洋趣味の一つに赴西洋では二つを併せずして、其幸不幸は自づから明ら
          しだくと云ふのは、誠に不幸の至りである。西洋でも次第に自然を謳ふことが〓盛んになつて來たと云ふことを聞くが、古來より此の特色を持つて居た日本では、却つて其一つに赴きつゝあるのは、誠に〓はしいことである。此の所を能く考へて貰ひたいものだ。あ、われは、敢て自然主義を非難するのではない。立派に自然主義と云ふものを存在せしめて置いて、他の一方の美的文學の存在の理由を明らかにしたのである。くと云ふのは、と話俳釋評3t8此われは、立派に自然主義と云ふも他の一方の美的文學の存在の理由を明らかにし俳句を難ずる者に『文章百話』に『俳句と短歌』といふ說があつた。たわれにはそれに對してき少しく異つた意見があるから、れ一つそれを述べて見たいと思ふ。う、短歌と俳句とを對照した上の區別長短等は、尤も始めの方の、〓ねわが意を得た所で、別段の異議もないが終りの方の俳句に對する意見については、一應辯明して置かねばならぬ必要を認めるのである。し先づ第一に俳句即ち十七音の詩形を用ひて、も異つたことを歌つたらよからう。これまで歌ひ來つた所よりこれまでの態度を改めて、現代の感情に觸れ且つそれに伴つて行くやうにしたらよならと論者は言ってゐいかにも尤もである。大にさうなることをわれも亦賛成するが、併し、いかにも尤もである。大にさうなることをわれも亦賛成するが、併し、そ論者に對して異論を唱へねばならぬことがある。ます〓〓はんゐ文藝もまた益々範圍が廣そに者るず難を句俳れと同時に、そも〓〓人間の社會が進步發達をすると共に、くなつて、さま〓〓の方面に涉り、さま〓〓の趣味を發揮して行かねばな
          またゆはずきわうおらぬ。又、行くことになるべき筈である。既往に於いて、文藝が狹い範圍おいはたらしやくわいはつたつレンドひろゆに於て働いてゐたとすれば、社會の發達に從つてだん〓〓と廣まつて行くはずしやくわいがはにんげんくわつどうはんゐひろべき筈である。社會の側では、人間の活動の範圍がます〓〓廣まつて行くかゝはぶんげいせばゆはずじんに拘らず、文藝そのものは狹まつて行くといふ筈はない。のみならず、人ちはつたつともしゆみたはうめんゆろん智が發送すると共に趣ははますく多方面になり行くものであるから論しやちうもん글はうめんおんしけいおうよう者が註文する如き方面に、この十七音の詩形を應用するこどにもとより異ろんむしおんしけいたもつとねが論はない。のみか、寧ろ十七音の詩形そのものゝ爲めにも最もはしいこ話俳と釋評350とである。しかかごとおひろばう併し、此くの如く押し擴める一方に、しかかごとおひろばういぜんとはうめんうちすし:併し、此くの如く押し擴める一方に、以前執つてゐた方面を打捨てゝ了かいたくきたふといふことはどうであらうか。これまで開拓し來つたことは、ます〓〓けんきうぐわんみうあたらはうめんかいたくしやくわいはつたつともな〓究し翫味して、その上に新しい方面を開拓してこそ、社會の發達と伴うぶんげいひろゆきわうずすこひろて文藝も廣がり行くことになれ、既往を捨てるならば少しも廣がることであはあひむしせばたとあたらでんぢか.はなくて、或る場合には寧る狹まることにもなる。醫へば新しい田地を開たくよるでんぢくさはまかおなん拓するからといつて、古い田地を草の生ふるに任せて置いては、何にもなふるあたらどうじこうゝんいしうくわくミるまい。古いのも新いしのも同時に耕耘して行つてこそ收穫も増すのであるまい。る。ろんしやはいじんきわうふるかたちとらあたらはうめんかんきやく論者は、俳人は既往の古い形に因はれて、新しい方面を閑却してゐるとなんろんしやとところあたらはうめんとらふるはうめんはたら難じてゐるが、論者の說く所は新しい方面に囚はれて、古い方面に働くをとばうもつはうかモひしいは止めるものである。暴を以て暴に易ふ、其の非を知らずと言ふのがこの場あしろんしやくだこじた合この論者にわれの下したい言葉である。せつもつろんしやとあたたしゆみかいたくおほいで、わが說を以てすると、論者の說く、新しい趣味を開拓することは大よろさかどうじきわうかいたくに宜しい、盛んにおやりなさい。けれども、それと同時に、既往に開拓さに者るす難を句俳けれども、
          うすゆれたものを打ち捨てるのはいけない。これはこれでます〓〓〓究して行かねばならぬといふのである。あるひあたらはうめんしゆちやうふるさいはうめんしまあたらはう或は新しい方面を主張する際に、古い方面を止めて了はねば、新しい方あんはつたつしぶんげいしやくわいしからおう面が發達せぬといふかも知らぬが、それでは文藝が社會の嗜好に應じて行あつせいてきぶんげいんゆきわうくのではなくて壓制的に文裁を變じて行くことになる。はいくもしも既往の俳句はんしかうあたぶんがくかいいしぜんせうめつが一般の嗜好に當らず、文學界に容れられぬならば、自然に消滅するであことさらしんしゆみはつたつらう。殊更にそれを止めねば新趣味が發達せぬといふことはあるまい。なすさしまかへしんしゆみよきたとこのふさまじひにそれを捨て去つて了つては、却つて新趣味の由つて來る所を塞ぐおもことゝならうと思ふ。さらほすはいしゆみうなはにんげんかいほかたにんげんかいもてあそ更に一步を進めていふと、俳趣味即ち人間界の外に立つて人間界を弄ぶすなはにんげんくさしゆみおそせかいゆゐといふやうな、即ち人間臭くない趣味といふものは、恐らく世界唯一のもと話俳評釋352らう。といふやうな、せいやうじんほとんかえしゆみむらたいそいやうのであつて西洋人などは殆と解し得ない趣味であらうと思ふ。一體西洋のぶんげいしゆみれきしてきみどこにんげんちうしんにんげんてきかんじやう文藝趣味は、歷史的に見ても、何處までも人間中心である。人間的の感情いじやうほすでをなにうたにんげんくさたといふ以上に一步も進み出て居らぬ。何を歌つても人間臭い。唯だそれがけいしき、もつあらさじゆつとうおうしせいこうさまざまの形式を以て現はされて、その技術において、實に驚くべき成功ゐモじよしやたくモしさうせいびちゐつをなして居るし、其の叙寫の巧みなること、其の思想の精微にして緻密なとうやうじんおよてんることは、とても東洋人などの及ぶべきものでないで、これらの點は今ことうやうじんおほいまなところどうじまたかれわれところ後東洋人の大に學ぶべき所であるが、同時に又彼になくして我にある所のとうやうとくいうぶんげいしゆみじかく東洋特有の文藝趣味をも自覺せねばならぬ。とうやうしゆみにんげんちうしんもとあまたにんげんうちうびやうどう東洋趣味には人間中心のものも固より有るが、又人間と宇宙とを平等にしゆしゆみにんげんいぐわい·どうしよくぶつたしんらばんしやうびやうどうしうたした一種の趣味、人間以外の動植物、その他の森羅萬象をも平等視して歌しゆみしかしゆみじつわれかれところふ趣朱をも有つてゐる。而して北の趣味は實に我にあつて彼にない所であに者るず難を句俳
          しやくわいはつたつぶんげいはんゐひろたうぜんこれらるから、社會が發達して、文藝の範圍が廣くなれば、當然此等東西兩洋のしゆみどうじそんざいゆはずぶんげいぎ趣味は、同時に存在して行かねばならぬ筈ではないか。よしんば文藝の技じゆついかせいさいしゆみばうおむねゐいじやうみくぞく術が如何に精細でも、趣味にして一方に傾いて居る以上、それのみを存續たしやくわいはつたつおなけいろせいやうぶんげいぎじゆつijせしむるは他の社會の發達と同じ徑路ではあるまい。西洋文藝の技術の巧めうおどろなんかせいやうおもせかいとく妙なのに驚いて、何でも彼でも西洋てなければならぬと思ひ、わが世界特いうからすしましやくわいはつたつたいどうちやく有の趣味を捨てゝ了はうとするのは、社會の發達に對して撞著したものであらう。こてんみはいくすなはとうやうしゆみもとたうたき此の點より見ても、俳句即ち東洋趣味の下に立つてこれまで歌つて來たすとうやうしゆみせいやうしゆみりやうてはなものを捨てることはならぬ。われはそれより東洋趣味西洋趣味を兩手の花ぶんげいうたひだてはななげうみぎてとして、すべての文藝を歌ひたい。左りの手の花を抛って右の手だけにすはなかったはならゑるのは、よしんばそれが良い花であつても、やつばり片手に花で、知惠の釋評と話併354として、るのは、なはなしへんくつかんがへ無い話である。偏屈なる考といはねばならぬ。ひと〓〓しかうモめんことなごとじつさばんべつまたにんそれに、人々の嗜好は其の面の異る如く、實に千差萬別である。又一人しゆみねんれいしたらくべつできあせいしつひとあたの趣味も年齡に從つて區別が出來る。或る性質の人はすべて新らしいことあまたちよくせつとろうたぶんげいこのたせいしつものところなつかを好み、又直接に吐露して歌ふ文藝を好むが、他の性質の者は古き所を懷まんこヽろたはうめんてんしばらにんげんかいわすみしく思ひ、心を他の方面に轉じて、暫くなりとも人間界を忘れて見たいとまたにんげんじせうさうときなにごとざんしん云ふものもある。又、人間一代でいつても、少壯の時には何事も斬新にしねつじやうむとしとはんたいむかしこしたたんぱくしゆみこのて熱情に向くが、年を取れば反對に昔を戀ひ慕ひ、淡泊なる趣味を好むやすでぶんげいにんげんたできだうになる。已に文藝にして人間の爲めに出來てゐるならば、一代のすべてじゆえうてきゆたんあにんげんあねんれいあはまの需要に適して行かねばならぬ。單に或る人間や或る年齡のみに當て候つそんちよういぐわいなこうへいきはたものを尊重し、その以外のものは無くてよいといふのは不公平極まるこに者るず難を句俳とである。
          さてきとしとわかときとしおv.われは既に六十二歲で年も取つてゐる。若い時も年老いた時もすべて經けんおほひとせつしぜんひとしかうへんせん驗してゐる。それに多くの人にも接してゐるから、自然に人の嗜好の變遷しひとしかうことなとうざいりやうやうくに〓〓も知つてゐるし、人に依つて嗜好の異ること、東西兩洋國々でさまざまにしゆみこしぶんげいしゆみひろ趣味を異にしてゐることなども知つてゐるから文藝の趣味もなるべうたきばう歌はれることを希望する。ほすはいくしゆみおひろとうやうなほ一步を進めていへば、これまでの俳句趣味、押し廣めていへば東洋しゆみこんこせいやうじんおほいまなわししゆみめんたんばくしや趣味は、今後西洋人にも大に學ばしめたいと思ふ。この趣味は一面淡泊酒だつこうへいむしけつくわうちうびやうどう脫にして、公平無私といふことにもなつて、その結果は宇宙をすべて平等しくらゐにんげんびやうどうしすなはにほんじんせいやうじんた視する位であるおら、人間はもとより平等視する。即ち日本人は西洋人に對ぶんげいもちろんしやくわいばんじかうつうこうへいむしたいどとせいしても、文藝は勿論社會の萬事を交通して、公平無私の態度を取るが、西やうじんはんにんげんしつしんしうちやくしんふかいろちがよばう洋人はこれに反して、人間の固執心執着心が深く、色の違ひに依つて一方話 俳と釋評356てきしにほんじんはつたつおそにくにほんじんせいやうじん〓を敵視したり、日本人の發達を恐れ憎んだり、とても日本人が西洋人を見ごとこうへいむしる如く公平無私でない。もちろんおの〓〓たちばまもひつえうたんぱくべんのうじをはわけ勿論各立場を守る必要があるから、淡泊一邊で能事終る譯ではないが、しかせうやうじんいますこたんばくしやだつこうへいむしたいどと併し西洋人には今少し淡泊池股は公平無私な態度を取らせたい。それにはとうやうしゆみiはいくきわうしゆみし.おもじおんたんばく東洋趣味殊には俳句の既往の趣味を知らしめたいと思ふ。十七字音の淡泊しけいせいやうばつたつ〓〓はつたつひつきやうこくみんせいな詩形が、西洋に發達せずして、わが國にのみ發達したのは、畢竟國民性さうゐゆらいの相違から由來したものであらう。てんはいしゆみまためんやまとだましひはつきしみきこの點より俳趣味は又一面に大和魂となつて發揮される。死を見る歸すごとくにたからのこうもうかるひたんばくるが如きも、國の爲めには命を鴻毛の輕きに比するも、すべてこの淡泊なせいじやうはつげんきのふてきたちまけふみかたてにぎる性情の發現であつて、昨日の敵は忽ち今日の味方となつて手を握るなどにほんこくみんたんぱくあたらちしきらわけも日本の國民のみである。すべて淡泊なればこそ新しき智識を好む譯にもにほんじんはつたつおそにく日本人の發達を恐れ憎んだり、にほんじんせいやうじん〓とても日本人が西洋人を見
          きん〓〓なるので、近々五十年間に古今更西に比無き發送をしたのも此の爲めである。西洋人なら恐らく數百年かゝるだらう。して見れば、大和魂そのもの〓かた〓〓もつも俳句趣味が多くの部分を占めてゐるといつてよからう。旁々以て既往の俳句趣味は價値があること疑ひない。それだのに、此の點を止めて、他になるので、話俳と釋評·358る。他に向へといふのは、われが論者に同意することが出來ない。われが論者に反對するのは實に文藝趣味の爲めに反對するのである。う又、俳人は先輩崇拜をするといはれてゐるが、これは事實を調べて上の又、俳人は先輩崇拜をするといはれてゐるが、ひと〓〓今日舊派といふ人々は、ことか芭蕉を神のごとく尊むし、且つ其の派其われ〓〓それが常を得ぬといふ所より我々の俳人仲間の派の先輩を尊んでゐるが、は出來だのである。子規なとは芭蕉をも臨分輕んしてゐしてもめるそわれ〓〓はいじんの他眼中古人なしといふ〓があつた。寧ろ我々俳人は先輩を崇拜せぬのがその他眼中古人なしといふ〓があつた。缺點であるまいかと恐れる位である。尤も蕪村は子規も大に推稱したが、3つこれ以て蕪村その人を崇拜したのではない。蕪村の作品が天才的で、とても及ぶべからざる點のあるのを嘆美して、其の價値を說いたのである。そわれ〓〓の他價値ある句を價値ありとして取つてゐることは、子規を始め我々とて3も同じことで、他の文學者が東西洋を通じて或る價値ある文學の作品を買賛すると何の異る所もあい。價値あるものを價値ありといふのが何の崇拜い·ぞ。崇拜の事實が何處にあるか。今一度よく觀察して貰ひたいものである。戀に關する難點についても一寸辯じて置かう。戀が人間の感情の重なるとてそも同じことで、賛すると何の異る所もあい。ぞ。戀に關する難點についても一寸辯じて置かう。戀が人間の感情の重なるものであつて、それを文藝上に述べるといふことはもとより異存はない。초併し詩形の異るにつれて、その戀の述べ方が自然に異るといふことを會得して貰ひたい。戀は本來一寸簡單なるもので述べるよりは、長く反覆してに者るず難を旬俳.ものであつて、長く反覆して
          のてきせうせつしながけいしき述べるに適したものだ。されば小說とか、詩でも長い形式をもつたものは、のおんしじ.ういそれをよく述べてゐるが、十七音詩形のごときものは、これを受け容れるてきたうしぜんたぶんがくことうたすなはおとしに不適當であるから、自然に他の文學の如く歌つてゐない。即ち十七音詩けいほんぶんしかごとうた形の本分を知つて此くの如くになつたのである。さればこそ、たま〓〓歌こひえんじ.てきたんばくしやだつゑらわかつてある戀も、十七音詩形に適した淡泊酒脫なるものを撰んでゐる。和歌ごといさ·しけいながきのうかうわたうたできの如きは融ル詩形が長いから、少しく濃厚に秒つて歌と〓とが出來したがこひかおほ從つて戀歌も多い。こひしゆみいへどもたんねつうたモぜんたいのみならず、戀の趣味と雖、單に熱したことのみを歌ふのが其の全體であるひこひしやたつとをかとまたしゆはうめんはなからう。或は戀を酒脱にも說き可笑しく說くも亦一種の方面である。はいくうたこひふまんぞくむしろんしやこひはうめんわたひろ俳句の歌へる戀に不滿足なといふのは、寧ろ論者が戀の方面に涉つて廣くおもろんしやねつこのしたんばくをかこひしないとも思はれる。論者は熟した豫のみを知つて淡泊な可笑しい戀を知ら話 俳釋評と360はいくとところこひもつせうぶんぬのであらう。われは俳句の說く所の戀を以て、もとより一小部分のものおもぶんモこひぜんめん(とは思ふが、この部分も添うて戀の全面は盡されるといひたい。はくいおんしけいぶんくわつようあたといつて、これまでの俳句が十七音詩形を十分に活用しはなかつたのいますこのうかうはうめんうたよろで、今少し濃厚の方面をも歌はねばならぬといふなら、いかにも宜しい。はたできうろんしやもちろんぎのひとおほいうたそれが果して出來得るものなら論者は勿論、その技能のある人は大に歌はしかどうじいまはうめんおよれるがよい。併しそれと同時に、今までの方面を止めろといふには及ぶませうぶんもとより一小部分のものい。えうろんしやねつしんあまばう要するに、論者は熱心の餘り、こちうこくおおもてんに御忠〓して置きたいと思ふ點である。ばうんん~、一方に偏する弊があるやうだ。こおは、此處は大に者るず難を句俳
          釋評と話俳現今の小說に現はれたる男女ふじんほんてマはりだんしあひておはなしさ婦人の話をするには矢張勇子を相手にせねば御話が出來ない。でたいぢよせい一體女性じたらだんせいがうぢよせいよはだんせいは柔かなもので、つよ男性は剛なるもの、女性は弱いもので、男性は强いものこにんげんたどうぶつおほむみ是れは人間のみならず、ところである。せんてんてき他動物にも〓ね見る所のもので、先天的さだしかだんぢよともにんげんまたあるに定められたものである。めんおい併し男女共に人間であるからは又或一面に於てきようつうそきようつうてんせつめいかづ〓〓いま共通のものもある。しゆ其の共通の點を說明すれば、數々あるが、今は主としくべつてんはなしてその區別ある點をお話しよう。ぜんじゆつごとだんぢよぐわいけいくべつしんりてきまたくべつ前述の如く、男女には外形に區別あるやうに、心理的にも亦區別がある。ぢよせいかんじやうあたゝあいいてんモちやうところ女性は感情の溫かい愛と云ふ點が其の長する所、そ今ものごと其の弊としては、物事にはんだんたかんじやうながけいかう判斷が立たないで、はんだんしせい感情に流るゝ傾向がある。り是れに反して、男子は理性362ちからつよぁ12あひほとんつめたくらゐモ其の代り如何なる苦痛も忍耐して己かはいかくつうにんたいおのの力强く、或る場合には殆ど冷い位、ごとさうゐだんぢよたがひたれの立場を守ると云ふ事になつてゐる。もじたまもことかくの如き相違ある男女が互に助しんをあしやくわいっがモしきせいそんゆわれは信じて居け合つて社會は都合よく組織され、生存して行くものと、る。あらじんぶつみめだんぢよともしかまぶんがくじやうわれの眼からは男女共然るに現今の文學上に表はれた人物を觀ると、しゆさうゐどうやうせいかくみもちろんぶんがくかんじやうけれど同樣の性格に見える。勿論文學は感情を主としたものに相違ない。たゞかんじやううごだんしにんげんおはじゞつじやうい男子はども人間多くの事實上から云ふと、只感情のみに動くものでない。じせいじ30ちからつよりせいかんじやうあていどせいこどこまでも自制自立の力强く、理性によつて感情を或る程度までに制しとひいますこをとこをとこをんなげんこんせうせつふで女う今少し男は男らしい、得べきものである。現今の小說に筆をとる人は、をんなせいかくかわたくしみところをんな女は先づ女らしく描まあんたか私の見る所では、は女らしい性格を書いたらどうかがうけんところあんたひとレオラいてもあらうが、男を書くのにはいかにも剛健な所がない。をとこか女と等しく徒女男るたれは現に說小の今現363
          じやうなかにんたいりよくこひなぎやくきやうなめらに情のみに流れ、忍耐力なく、戀に泣き、逆境に泣き、結局は女々しいわるさけもつゑがかだんぢよせいくべつざまの惡い叫びを以て描かれてゐる。こんなものを書いては男女性の區別みわことできを見分ける事が出來ない。ひとせいかくぢやうざできめい〓〓かはせいかくされど人の性格は定木のやうには出來ない。各自異つた性格をもつのでなんてぢよしせいかくむかしあるから男子でも女子のやうな性格をもつものもあらう。是れが昔であつぢよしだんしおほはづしやくわいひんせきたら、女子のやうな男子は大いに耻かしめちれ社會がら指斥せられたものしかげんこんめじやうながかつるさほどしやくわいである。然るに現今では女々しい情のみに流れた行爲をするも、左程社會せいさいうかへぶんがくてきさんびけいかうげんこんの制裁を受けない。却つて文學的であるなどゝ讃美する傾向だから、現今せうせつちうめをとこうまでおもぶんかくじやうの小說中にそんな女々しい男が生れ出るのであらうと思ふ。是れが文學上をへいしやくわいじじつにのみ止まつて居るからよいやうなものゝ、此の弊が社會の事實になつたにんげんしやくわいせいぞんㅊこのこくかどくりつ大らどうする。この人間社會が生存し得ようか。此國家が獨立し得ようか。こひなぎやくきやうなめ戀に泣き、逆境に泣き、結局は女々しいかだんぢよせいくべつこんなものを書いては男女性の區別と話俳釋評364らどうする。,たこくせんさうときへいえきじうじにほんだんしめに若し他國と戰爭せねばならぬ時、兵役に從事する日本男子が、女々しく遁だにほんこくにちこくみんあんぜんくらげ出すやうではどうする。此の日本國をどうする。一日も國民は安全に暮はずこくせいめいざいさんぁじやくしやきやうしやなまかどせない筈である。一國の生命財產を擧げて、弱者は强者の爲すに任し、奴かひせふぢよしひとさいまたは隷となり婢妾とならねばならぬやうになる。女子は人の妻又は母となるべじやうてきてんせい30じうじゆんはやきであるから、これは情的天性を以て從順のみでもまあよい筈であるが、なんとちよせいてきこくかおよにんげんしやくわいゆだいじ男子がかう玄性的になっては、國家及び人間社行の万々しミ大事でげんこんせうせつちうだんしく3さけはんもんうつたもつだんしそれだのに現今小說中の男子が、苦痛を叫び、煩悶を訴ふるを以て男子のうじをはごとなんことだんぢよきようつうてんあていどの能事終れりとする如きは、何たる事か。たとへ男女共通の點が或る程度だんぢよほんぶんそれ〓〓ことなたしむたしほんぶんまではあるにもせよ男女の本分は夫々異なつてゐる。男子は男子の本分、ぢよしぢよしほんぶんともまもまたまもをおほに女子は女子の本分、是れは共にずるべきもので又守つて居るのが多くの場あひじうついませうせつあらじんぶつきはまれはあひだん合の事實である。どうも今の小說に現はれる人物は、極めて稀な場合の男女男るたれは現に謂小の今現
          せいおも性のやうに思はれる。またふじんむたしか、じいくじおるすニキ又婦人が男子のやうでもよくない。家事育兒が御留守になつては困る。もつとなかとくしゆものおそじんごうくわうごうともえはんがくいぢよせい尤も中には特種の者もある。恐れながら神功皇后や巴、、板額など云ふ女性もまたごとミたみけんきぢよしかあれば、又ジヤンダークの如く一國の爲めに身を献じた奇女もある。併しぜんたいをんなことできじてき之れを全體の女にあてる事は出來ない。とくしゆてき一時的のものである特種的のもをんなをんなふじんほんぶんまもなにおむのである。女は女らしく婦人の本分を守らねばならぬ。と云つて何も昔のけいちうおしこしゆぎをいじだいじゆえうともなぢよまゝの圍中に押込み主義で居れと云ふのではない。時代の需要に伴つた女せいふじんどくしんかじいくによーかものまたあせい性にならねばならぬ。婦人で、獨身や、家事育兒に餘暇ある者、又或る生くわつじゞやうものさうたうしよくしやくわいくわつどうしか活の事情ある者などは、相當の職をとつて社會に活動してもよからう。併だんぢよくべつだんぢよどうやうけいかうしそれにも男女の區別はあつてほしい。ともすると男女同樣になる傾向がいまおしこみしゆぎはんどうまただんしあまめある。是れは今までの押込主義の反動でもあらうし、又は男子に餘り女々話 俳と釋評366ある。ものはんたいほんぶんだいりレハだんぢよもとしい者があるから、反對にその本分を代理するのであらう。然し男女共にてきやえいゑんほんぶんつくBo一時的の變態は已めて、水遠に各自先天的の本分を盡して貰ひたいものだ。じへんたいだんぢよりやうせいたゞれんあいまんぞくあもつふうふつとめい男女兩性が負意愛を德足し合ふばかりを以て、夫婦の移だとは云はしそんえいきうはんしよくふうふおほいつとめむかしだんぢよしぜんしそん子孫を永久に繁殖するのが夫婦の大なる務である。昔から男女は自然子孫あいゝく"みわすモたはかをモてんにほんじんを愛育し我が身を忘れて其の爲めを計つて居る。其の點から云ふと日木人ことかんしんせいやうふうふあ.ほんゐこどもは殊に感心なものである。西洋では夫婦の愛を本位とするから、子供にはかまかねもちふうふあそあるどもうはあづばな構はない。金持などは夫婦は遊んで步いて、子供は乳母に預けつ放しにすさっ.かものしそんなおしいれいおふうふてたづさる。其以下の者でも子孫の泣くのを押入に入れて置いて、夫婦は手を携へぐわいしゆつつねふうこどもせいちやうおやて外出することが常だと云ふ。そんな風だから、その子供も成長して、親おんかんおやびやうきゐさんかんびやうむじやうの恩を感せず、親が病氣になれば、遺產がほしさに看病すると云ふ無情なはなしにほんごとてんまことすくなおやこくわんけいじつじやうふか話わが日本の如きはかゝる點は誠に少い。親子の關係は實に情が深い。
          せ、ううおやこくわんけいきはあひけんゑんおやこおとを西洋では親子の關係に於では、ある場合は、犬猿の親子にも劣つて居るとしば〓〓きこほんじんミ此の劣つてる惡習慣、でを日あくしふくわんにまねけい云ふ事を屢々聞く。本人が眞似ようとする傾かうちかごろできなんこともちろんがくじゆつミとう向が近頃出來かけた。何たるあさましい事であらう。勿論學術の如きは東うせいやうしんなんせいやうい洋より西洋が進步してゐよう。が何でもかでも西洋ばかりよいとは云はれすなはおっしあいじやうごとそれなすべせいぶつみわたもと〓〓どうない即ち親子の愛情の如きは夫だ。尙ほ總ての生物を見渡すに、元々同しゆぞくけいぞくはんしよく1:しゆうひんばできをおも種族の繼續繁殖の爲めに、雌雄牝牡と云ふものは出來て居るものと思はれモかうとうどうぶつにんげんものしそんことつぎだんぢよこひる。夫れに高等動物たる八間ともあらう者が子拜の事を次にしてゐ女のふけもとわすゑおわけたどうぶつにんげんのみに耽つては、本を忘れて末を追ふ譯ぢやないか。他の動物にも人間がか、おとこひしんせいしそんあい却つて劣ることゝなる。戀を神聖だとか云ふけれども、子孫の愛はそれよしんせいせいぶつほんぎかなだうりしんりも神聖てなければ、生物たるの本義に適はぬ道理であるよわれはもつとわかときぜんごむちうこひくるだうり尤も若い時は前後夢中に戀にのみ狂ふこともあらう。が、道理はどこまで話 併と·釋評368る。が、しやくわいうへあらせい〓〓ちういもこゝにあるとして精々注意するのと、せぬのとでは社會の上に現はれるけつくわおほさうゐしかこのてんりせいつよだんせいまおけず結果に大いなる相違がある。而して此點は理性に强い男性が先づ考へて、ヒーラよわぢよせいけうぜいゆおいだんぢよりやうせいほんぶんいよ情に弱い女性を矯正して行かねばならぬ。こゝに於て男女兩性の本分は愈いよはつきわけ愈發揮せなければならぬ譯ではないか。藤野古白の最期こはくどうきやうまをどうにんちはういうそのひと古白と同〓とは申すものゝ、われは同人の父の朋友であるから、其人とさほどちがまさをかしきかなにことしんせきまたねんぱいなりや何やの事は、親戚ではあるし又平輩も左程遼はない正國(子規)の書はうよわかまさをかこはくじぶんもつきやうさうしやいたものゝ方が能く解るであらう。正岡は古白が自分を以て競爭者としてせんばううらやうかたいしきこはくさうゐ美望し恨んだ樣なことを書いてあるが、一體子規と古白とは人物に相違が期最の白古野藤
          ともぶんがくこゝろよしきりせいかんじやう共に文學に心を寄せたものゝ、ある。子規は能く理性と感情とが並行してそのてうわえしんたいきよじやくぶんがくせんもんう其調和も得て、身體は虛弱であつたから、文學專門といふ風になつたが、しんたいぢやうぶせいぢもしじy.若しさうでなく身體が丈夫であつたら、はうめんて政治若くは事業といふ方面に手をわか之に反して古白の方は感情の最も烈しい質で、これはんはうかんじやうもつとはげだしたかも解らなかつた。たちえうせうときなどひじやうかんしやくおこことたび〓〓幼少の時抔は非常に疳瓶を起した事も度々あつて、極く疳癖の强い子供で、かんべきつよどもいはゆるしんけいしつたいかくしんけいくわびんくわびんどすごくわびん所謂神經質の體格で神經は過敏も過敏、度を過して過敏であつた、だからけんきうたとへじぶんこのものん研究といふとも假令するにしても自分の好む物のみに偏して、きらひ嫌なものはみむきしありさまところしきけんきうなんけんきう見向も爲ないといふ有樣であつた、所が子規は〓究となれば何でも〓究すずヨシくべつじつこはくてんさいはだもつとはげる好き嫌ひの區別はなかつた。實に古白は天才肌の最も烈しいものと言よおもかれはいくところしきつきなみてうけんきうつても宣からうと思ふ。彼の伊旬しした所が子規は目並調多〓究しあげくしんてうあんしゆつこれおしくうはくてんさい新調を案出したが、之に就いイ〓を受けた古白は直に天才の鉾先を現はし、たゞちほこさきあら話.俳釋評370るしきはやしんてうふうえをふうあるひ子規よりは早く新調の風を得て居つた。かういふ風であつたから-或はねんれいくわんけいがくもんう、しきはうまさを年齡の關係もあつたらうが、學問といふ上から言へば子規の方が勝つて居ことかんがくてんおいひじやうじやうたつをしかせんてんてきのうりよくつて殊に漢學の點に於ては非常に上達して居つた。併し先天的の能力は古はくはうけいとゐ白の方が餘計に富んで居た。ふうてんさいはだこはくいまわせだだいがくそのころとうきやうせんもんがくかうにふかういふ風の天才肌の古白が今の早稻田大學、其頃の東京專門學校に入がくけんきふがくしふたいどいたふしぎおもひとあさ學して、〓充學習の俵度を取るに至つたのは不思議に思はれて人の怪むとおそかおもてんころであるが、恐らくは此うではあるまいかと思へる點がある。それは古はくしたふじんしかまときわかかみぶん白が戀ひ慕つた婦人があつた。併し未だ年は若し一家を持つといふ身分にしりつたつをたうていそこひと達しては居らず、到底其の戀を遂ぐべくもなかつたので、私立とはいひなくわんりつひそんしよくがくかうそつげふしようしよにぎそきばうたつがら賞女に止して適信なき學校の卒業證書ても損つたら其の希望がおもれるだらうといふのであつたらうと思はれる。期最の白古野藤
          せんもんがくかうにふがくいたいはくきばうだいぶんがくしやそこで專門學校に入學したが、一體古白の希望は大文學者かさもなくばだいてつがくしやむろんぶくがくゝわにふがくところてんさい大哲學者であつたから、ためり無論文學科に入學した。所が天才のあつた爲か理さうひじやうたかあるひくうさうはしふうづのううちひじやう想は非常に高く或は空想までに走る風があつて、はつたつ頭腦の裡は非常に發達せか、しゆわんともなつつねはんもんはんもんかさをるに拘らず、手腕はこれに伴はず、たい常に煩惱に煩惱を重ねて居つて、一體さくもつごとかかほどしんぼ作物の如き書けば書く程進歩するものであるのに、つねかんがを常に考へて居るのみでよういてくだおなづのうないゐがくかうそつけふ容易に手を下さず、これ空しく頭腦ばかりを惱まして居たが、之が學校卒業のときそうはげそつげふろんぶんごとふつうか時は一層烈しくなつて、よなか卒業論文の如き普通のものを書けば宜いのに、何だいてつりじんみはつだいしんりあらか大哲理-古人未發の大眞理を現はさんとして、くうさうふけをか空想に耽つて居つて書できたゞあせあせくるはかつひせいしんいじやうきたうくことは出來ず、唯焦り焦つて苦しむ許りで遂に精神に異狀を來す樣にないたいどひとむかいかたことたゞつた。否、一體何うするのかうするのと人に向つて言つて語つた事なく唯じぶんのうりおも〓こはくこのときばかりだいろんぶんか自分の腦裡に思ひ込んで居る古白が、だいしん此時許は大論文を書くとか、一大眞話 俳と釋評372りはつべうこうぐわいみすでこのときせいしんいじやうていを聖を發表するとか白外しのあを見れば区に此時精神に衆狀を呈しておものではないかと思はれる。せいしんいじやうきたまきやうりかへれうやう精神に異狀を來したから一〓先づ邂出に歸つて殘養することになつきゝやうちうくわいふくしつぴつひとばしらつきしまゆらいきやくほんか此の歸〓中恢復執筆したのであらう。『人柱築島山來』といふ脚本を書いたふたヽじやうきやうときこれおしへうつほうちはくしもとだモしゆので、再び上京した時、之を〓を受けた坪内博士の許に出して、其の主かいわせだぶんがくけいさい宰の『早稻田文學』に揭載さるゝことになつた。きやくほんだのちじさつとこのきやくほんせけんけつさくこの脚本を出した後自殺を遂げたのだが、此れは此脚本が世間に傑作とみとためやいきどほためその認められなかつた爲に其れを否に精んで憤つた爲であるといふよも其じはくみづかきやくほんしゆじんこうおのれりさうどほなとさつこ脚本の主人公が己の理想通りのことを爲し遂げて自殺したのは、古白自らそのしゆじんこうぎスタジオこのきやくほんおほやけㅊ30じさつ其主人公に擬してあつて、自ら此脚本を公にするを得たのを以て、自殺おもすなはこのきやくほんこはくじさつりゆうしめををしたのではなからうかと思ふ。即ち此脚本は古白自殺の理由を示して居ので、かい宰の
          れるるのではないかと思ふ。しんじさつりいうわかはくふたゝじやうきやうときぜんで、眞の自殺の理由は解らないが、古白の再び上京した時は以前とはむつきかはいたちんうつふうしかひじやうえんせいすがた樣子が變つて、至つて沈欝の風であつた、而して非常に厭世の姿で、われうちまゐちかごろこのうきよいやししかじぶんなの家に參つて、近頃此浮世が嫌になつて死にたい、併し自分が歿くなつたあかつきふはなげきおもまたていまいゆくすゑしんばいあ曉父母の嘆も思ひやられるし又弟殊などの行木も心配でならぬ。此二しさうつねた·かをはんもんをおえんせいねんりよの思想が當に聞ひ居つて煩圈して居るなどといつて居たが、厭世の念慮はほどつよみしほつねんはううちかつみじさつと餘程强かつたと見え、死を欲するの念の方が打勝たと見えて、自殺を遂げしまて仕舞つたのである。たいふぢのけかぞくふくざつこはくま·ざいきやうちうかぞくこと〓〓かちう一體藤野家の家族は複雜であつて、古白が前の在京中は家族盡く一家中すゐどめときそのぶぎりそどおはともをに住んで居たが、二度目の時は其一部-義理ある祖性〓母と共に居つたそじさつまへせいしんくるやうすはのである。其の自殺する前より、精神が狂つてゐた樣子であつたから、刄と話俳釋評374われのである。ものきようきるゐさいそばおやうおおくやいうじんたづ物兒器の類は一切側に置かない樣にして置いたのだが、或日友人を訪ねてそのいしゆくはくひと〓〓ねしづまさぐだひそか其家に宿泊して、人々の寢靜まるのを待つて搜り出したのであらう。窃にたんじうふところきたくかへかじんすきうかゞたんじうだあたまちやう短銃を懷にして歸宅した。歸つて家人の隙を伺ひ、短銃を出して、頭の頂じやうだんぐわんのうちううちこはづだんぐわんこうとうひふ上より彈丸を腦中に打込まうとしたが、これは外れて、彈丸は後頭の皮膚かすえりじやうぶとふたさうやくこたんじうれんばつじうを掠つて襟の上部に留まつた、そこで、再び裝藥して(此の短銃は連發銃なつヽぐちぜんがくあこたびだんぐやんぜんがくところでは無かつた)筒口を前額に當てゝ打つた。此の度は彈丸は前額の處に三のこりぶんしゝんけいしやうところいかぞくそのものおとき分の一、殘の三分の二は視神經床の處に入つた。家族は其物音を聞き付けあわそのへやいはじんじふせいじやうたいしきりSofをして憶てゝ其至に行つたが早や人非不省の狀態で蝦に問いて居つて、醫師のはところひとだところ380よやうこといとき所に人を出す、われの處に使を寄起すといふ樣な事でわれの行つた時は早いしきはうたいほどこゐときだいがくびやうゐんおくや醫師が來て繃帶を施して居る時であつた、それから大學の病院に送つていぶのうみぎはんぶんきづみさしゆあぜんがくあ行つたが、腦の右半分に傷ついたと見え、左手を擧げて前額に當てようと
          したり、したり、頻に左より右に向て身體を轉がし、非常に苦悶して、遂に永眠することになつた。此時古白は湯島に、われは眞砂町に居つた。古白の自殺した時のことは此んな事で、死なうと思つて直に死んだので3なく、短銃の事でも解るが、餘程以前より覺悟したので、遺書も七八通、事細かに認めてあつた。これを見ると、殊に弟妹の事を氣にして居つたのが解る。一體態野家は土族としては有嚼の方で別に生意に差支へるといふと〓にかつたが、何ういふものか弟妹のことを心配して居た。尤も母は繼母であつたが、世間の所謂繼母とは違つて、至つて家族間は平和で、殊に古白がほんにん·一度精神病に罹つた以來は、本復した後も及ぶだけ本人の氣に逆らはぬ樣ぞくこと〓〓に家族盡く努めて居たから、一家の事情より自殺するといふとはありよ、非常に苦悶して、遂に永眠す話俳釋評と死なうと思つて直に死んだので3餘程以前より覺悟したので、遺書も七八通、なく、これを見ると、殊に弟妹の事を氣にして居つたのつたが、じ全く自分の抱負は大きく理想は高尙に過ぎて、う筈なく、假令之れを遂げ之に達するには順序方法はあつても、れに之に到れるものと思つて、それが天才肌の男であつたから、直れに之に到れるものと思つて、行はうとしても手腕は之れに伴はなかつたのラぶえで、煩問に煩問を重ねて居る上に、曩に自分の戀ひ慕つた婦人は再度上京した時は、既に婚嫁して、最早其感をも斷念しなければならない事になり、で、した時は、既に婚嫁して、最早其感をも斷念しなければならない事になり、内はれ自分の抱負和想に對する煩悶に失戀といふことが加つて、愍むべき死を遂げるに到つたのだらうと思ふ。先に申した『人柱築島由來』を坪内博士が先に申した『人柱築島由來』を坪内博士が之れでも公けに爲てやCoff行く〓〓は有望の作家になられるだらうと先に申したCoff博士は同人に望を置かれて、公けにセられたのも、期最の白古野藤つたら、お思つて、本人の氣も鎭靜して、いろ〓〓せ種々世話を盡されたのだが、其の甲斐もなく遂に自ら此世を去る樣なことをしたのであつた。
          釋評と話俳雪鳴俳話と評釋終發兌元明治四十二年十一月、日 日行明治四十二年十一月廿四日印刷振替貯金口座東京二四〇番東京市日本橋區本町三丁目著印刷所印刷者發行者者東京市小石川區久東京市日本橋區本町三丁目八番地博東京市小石川區久堅町百八番地市大內文橋川藤館堅町百八番地新印七鳴太刷郞雪所作博-〔〔零等体話と評報〕-定價金參拾八錢文館
          二鳴雪雪俳話好評三版卷頭著者骨像其他寫眞版四頁挿入全一册洋裝四六判紙數二百四十六頁正價金貳拾八錢郵稅金六錢俳句と散文名月の句俳句を作る者に告ぐ東京市小石川區西江送信局小春の句作句の要訣二三鳥の年の句汚ない句選句談の句月並の句と月並の正岡子規の人物つかった句意義五月の句女子と俳句暑さと涼しさ山崎宗鑑の句着想のさまぐ其主義の句Politique.秋の滑稽の句小金なつの おはよう!俳句の修辭に就いて俳話元兌發丁三町本區橋本日市京東番〇四二京東座口金貯替振目博文館內鳴藤著君雪容內書本全一册洋裝中判紙數三百頁正價金卅五錢郵稅金六錢俳句作法全四册、洋裝中判角田竹卷頭寫眞版挿入一芭蕉句集講義正價一册金卅八錢冷君著郵稅一册金六錢春の卷夏の卷既刊秋の卷冬の卷近刊俳壇空前の良書出たり之を芭蕉旬集講蕉翁一代の俳句千餘義となす實に本書は句しに對一々通釋へをて與餘蘊なしいの非分析なにあるのはね乃至次傳になる場を有するもの之を座右に備へすして可ならんや角田竹一芭蕉句集講義冷君著元兌發町本京東全一册洋裝中判美本紙數三頁二百十正金參拾五錢價郵稅金六錢天生目社南君著評傳蕉芭博趣味の向上を促し、擾々の俳壇を統一し、殁後二百餘年、尙兒童走卒に其名當時の社を知らるゝ芭蕉は詩人と稱せんよりは寧ろ偉人たり、著者は往事を追想して會狀態よ彼が經歷、行動、性格2日日生生2迄至治薄52材料の下に縱横論評ひ偉人芭蕉を極む蓋し芭蕉傳の翹楚にして他に類なし文館三
          四全一册菊半截裝釘蕭酒紙數二百五十頁正金參拾錢郵稅價六錢版再古今滑稽俳句集花の春こんな親父ぢやなかつたに錢湯に裸同士の御慶かな鳴く猫に赤ン目をして手鞠哉逃げまはる跛の聟や水祝ひ祖父の目に鳶をほめけり風おれとしてにらみくらする蛙哉風呂敷へ落ちよつゝまむ舞雲雀足と鍬三本洗ふ田打かな大江丸茶鳴一子乙二惟也然一此等の句を讀んで感興を起さゞる人は讀むべからず此等の句を讀みて趣味を感ずる人は必ず讀むべし俳士といはず文人といはず凡上枕頭必ず此書なかるべからず今井柏浦君雪一規乙茶惟有全一册袖珍携帶最便價正金七拾五錢郵稅金八錢版再俳諧例句俳諧新撰歲事記價正例句郵稅金どう言ふ時に歲事記が必要なるか俳句の題を求むる時、其題が四季何れに屬するか分らぬ時又其題が天文に屬するか地理に入るべきかの疑義ある時又其名詞がわかつてゐても其意義形狀等のわからぬ時又其題の文字がわかつて居ても其音訓の讀み方を知らぬ時俳句を作るときに題の說明と古人の句を對照して參考とする時此一卷さへあれば俳句は何んの苦もなく出來る全一册中判橫綴裝幀雅〓明治一萬句紙數四百四十頁價正金卅五錢郵稅六錢全一册中判橫緩裝幀雅麗新撰一萬句紙數五百二十頁正金四十五錢お知價六錢全一册中判橫綴裝幀雅麗最新二萬句紙數七百十四頁金金金拾拾錢郵稅八錢著類書 諸俳九版明治一萬句五版.新撰一萬句版再最新二萬句博文館發行五
          目書部全】文序君波小谷巖句題翁雪鳴藤内〓挿君洲松藤齋君明素城結編君之蕩風田有第十二編▲蕪村曉臺全集第十一編第第九編第十編▲第八編▲支第七編第第四編第三編▲第二編▲芭蕉以前俳諸集上卷第一編六五編▲許編▲嵐元祿名家句集也蕉門十哲集其芭蕉以前俳諧集下卷一茶大江丸全集芭考角雪有六蕉全全全全全全集集(减價)集(減價)集(減價)集集(減價) 0校諸名家訂版再再▼=大陽曆に節物を配したれども陰曆即ら舊曆を便とするものゝ爲めに苺歲事記に據れ▼=題名に傍訓を配して初心者に讀み易からしめし事▼=題名をいろは順に排列して索引に便ならしめし事▼=師物時令を新曆十二ヶ月に分配し其所屬を明にしたる事=紙數多くして代價の低廉なる事=日本派と言はす秋聲會と言はず句の優秀精美なるものは總べて是れを採りて一方に=新題並に多く用ゐられざる題は成るべく之を收容し不便を避けしむるに努めたる事偏せざる事る分屬を題名下に註したる事分月特色なきものは平凡也本書は左の特色を備ふ新派旬選郵價正紙數五百九十頁表紙羅紗紙石版刷全一册洋装中判橫綴金五拾錢稅金八錢發兌元俳新諧-第廿四編▲俳諧紀行全集(減價)第廿三編第廿二編▲俳諧類題句集前編第廿一編▲附合作法全集第二十編△俳諧逸話全集第十八編第十七編▲蓼第十九編第十六編▲俳諧句合全集第十五編第十四編▲第十三編▲俳▲續俳諧論集俳諧類題句集後編俳諧俳諧珍本集太素堂鬼貫全集諧文全論集集集派東京市日本橋區本町三丁目振替貯金口座東京二四○番文旬庫博郵價正紙數五百九十頁表紙羅紗紙石版刷全一册洋装中判橫綴金五拾錢稅金八錢全部廿四册洋各編寫眞版挿入紙數一册二百五十頁裝菊判美本博發七郵稅一册金八錢廿册以上十册以上五册以上九分引一一件冊振替所金日座東京二四〇番東京市日本橋四本町三丁减價分定文兌一割五分引一割二分引金貳拾錢金參拾錢價館元文六館
          7類書諧俳行發館文博中川霞城君著峰靑嵐君編竹村秋竹君編伊藤松字君校訂三宅靑軒君著老鼠堂永機君編五乳人釣雪君著雪中庵校閱明俳俳俳俳句資料解釋編新蕪村几董附合集俗語平言俳治諧諧諧諧美俳獨自提學句學在要全)紙數二百五十頁册洋裝菊判全一册洋裝中判紙數百九十八頁紙數三百四十頁全一册洋裝小判紙數五全一册洋裝小判百頁紙數二百五十六頁全一册洋裝菊判紙數千二百三十頁全一册洋裝袖珍紙數三百五十五頁全一册和裝中判八郵稅金正價金參拾錢六錢郵稅金正價金參拾五錢錢郵稅金正價金參拾六錢錢郵稅金正價金參拾錢六錢正價金貳拾五錢郵稅金錢正價金小包料金八錢壹圓正價金五郵稅金八錢拾錢
          博文館蔵版36
          26,

72 368 087648-000-5 72-368鳴雪俳話と評釈内藤鳴雪/著M42 DBE-1086

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?