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芥川龍之介の『明治文芸に就いて』をどう読むか① 斎藤緑雨を推すか

 東京の悪戯っ児斎藤緑雨は右に森先生の西洋の学を借り、左に幸田先生の和漢の学を借りたものの、畢に批評家の域にはいつてゐない。(しかし僕は随筆以外に何も完成しなかつた斎藤緑雨にいつも同情を感じてゐる。緑雨は少くとも文章家だつた。)けれどもそれは余論である。……

(芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』)

 この時はまだ、毒は斎藤緑雨にのみ向けられている。しかし『明治文芸に就いて』ではありきたりな明治文学史に噛みつき、幸田露伴を引きずり降ろそうとする。

 明治の文章家として紅葉、一葉を推すは何びとも異存なかるべし。次いでは誰を推さんとする乎。僕は先ず斎藤緑雨に屈せんとす。批評家緑雨は読むに足らず。小説家斎藤緑雨は一笑にして已むべし。俳人緑雨は俳人たるか非俳人たるかを詳らかにせず。唯文章家緑雨に至つては必ずしも軽蔑すべかざるに似たり。

(芥川龍之介『明治文芸に就いて』)

 ここで坪内逍遥、二葉亭四迷、徳富蘆花、国木田独歩、北村透谷が出てこないことに、引っかからない人であっても、明らかに芥川が幸田露伴をあからさまに無視していることは解るだろう。力道山亡き後のプロレス界の二大巨頭と云えば、ジャイアント馬場と大木金太郎であろう、次いではグレート小鹿であると書いているようなものだ。

 確かに芥川は斎藤緑雨を意識してきた。

 中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」や樗牛の「平家雑感」や小島烏水氏の「日本山水論」を愛読した。同時に、夏目さんの「猫」や鏡花氏の「風流線」や緑雨の「あられ酒」を愛読した。 

(芥川龍之介『愛読書の印象』)

 しかしどうもここでは緑雨はだしに使われている。芥川の攻撃ターゲットは幸田露伴だ。

 紅露を明治の両大家と做すは誤れるも亦甚しと言ふべし。露伴は唯古今の書を読み、和漢の事に通ぜるのみ。紅葉の才に及ぶべからず。文章亦遥かに紅葉の下にあり。大作「ひげ男」の庸劣なるに至つては畢に巻を擲たざる能はず。

(芥川龍之介『明治文芸に就いて』)

 少し極端な感じもなくはないが、既に坪内逍遥が紅葉山人の次、と芥川の文章を認めていることから、全く頓珍漢な話ともいえない。確かに幸田露伴の知識はものすごい。しかし文章の妙は、……。確かに紅葉が上か。

 確認してみよう。


夏偉〓

和高め市そ高房
此一篇はとくにも成るべき筈なりしに、こは改めではあるべからずと思ひつきたるありしより、よろづの心搆へをあたとして、二の一より多くを綴りかへしかば、かくまで後るゝに至りたり。おもひ得たることありてこそ筆をも走らて得べけれ、その思ひ得たるところを打棄てゝ、而も既に設し出したる前後の情景に能く應ずべきことを、別途におもひ浮め得んとするに臨みては、如何にあせりもだゆれど、氣も餒ゑがちにて心も惑ひ、したがひて此筆千釣の重きものとなり、挽けども推せども寸も動かず尺も進まず、ほとて得べけれ、而も既に序ほと
〓〓困じはてけるが、からくも今わづかに稿を卒へぬ。さて成りたるものは如何あらん。喻へば、あやまちて床柱を短くきり過ごしたる屋だくみの、さらに床柱たるべき材を得るに道なくて困じ果てたる如く我はまことに困じはてしが、今また我は、其屋だくみが、家を成し得て後、主人より如何なる叱りをや受けんと心づかふ如く、讀者より如何なる叱りをや受けんと心づかへり。cさばれ、かゝる委細のことは、我一人の室中の語たるべくして、卷のはじめに於て公に言ふべきものにあらぬこと勿論なり、たゞ出版者の自序豫〓せし期よりも此篇の出づることの、いだく後れしため、幾干か出版者の世の信用にもかゝはらんには、我が上の事の我が上にのみ止まらで、他にまで響をおよぼずことなればと、云はでもあるべき自家の醜を、いさゝかこゝにしるすものなり。申の十一月露伴自露伴
次目男失に出でたる劣れものまで、近場との光は見る可くもあらず、愁と私情との爭ひ絕ゆる間なく、有り難き聖元龜と云ひ天正と云ひし其頃は、景色は事無き日に異らず、し塵すら動かす、十萬の我が兵は千里の外に雄威を輝かし大切を立てゝも、とこと な〓其ぶ代には引替へ、5 CEC柳の門に狗安く眠り茅が檐媼に鶏ゆるく歌ひて、一きD sc男は皆おそろしく女は皆あさましく成り果て指を届へて溯り數ふれば僅に三百餘年の前、ch我も人も各自の薬を樂み暮らせる此の明治のら丈高く生れついたる優れものより才独く世じた五月闇の暗くも暗くして、日本六十四州蒲萱の亂れに亂れて、お〓〓こ35 1/ so " (元皇國の中には公義と公道に各省五〇〇ミ私ひ戰爭につきて靄護精舍雜筆ひげげ目一男男次露明治二十七年筆明治二十五年筆明治二十九年筆伴著
ニおやしちとせいやくあきことをとこならひchaて、親を質に取らねば繁納も敢て質とせざること男の常例にて、すみ衣を墨そせつさうしひやぶきんせけうに染めてる節採を起て渡らるゝこと女に希有ならぬほどなれば、よろづ萬般のゐり:おしはかあままつたちうじよみちIoすc狀態も推測るに餘りあり、ひおしへひと100されば全く忠恕の道は時に棄てられ、たれひとりひそか一九七一めい慈悲の〓も人に顧みられぬものから、き誰一人密に天理の命ずるところに聽き、めうほうきたまたたゞしよISうつこヽろ冥報の來らんところを畏みて、正きに據り菩に選らんと心がくるものもなちちからちからしろc無く、智あるは智により、力あるは力により、城を有ち國を有、ちたるは、しろcetよkmかためむちびうぢくらゐうな城の便の好きにより國の固の堅により、5たつと氏を有ち位を有ちたるは氏の尊Gyくらゐたかいまはひkなになき光により位の高き勢により、さうもう一身のほか何一つ有つものも無き草莽のじやくな考ごうとうぼんうでこんをとこ〓士は三尺無反の剛刀一本腕二本、ぐわんと語즈これでも男は千貫萬貫、取る機を得ばとみみたくわだいせうちがひ増ぶ取つて見すべし見せいでやと、6たの多寡大小の差違こそあれ孰も自己等が侍こうめいふつきつかときそあはげるむところによりて功名富貴をば、よ攫み取らんと競ひ合ひ勵み合ふほか餘ねんなじや よくひニかこ念も無く、燃ゆる邪慾の火の前には恐るゝ神もあらばこそ、凝つたる妄う1) GieむかふえうなCELたじんせいねんやぶ執の劍の前面には要無き佛も立たせばこそ、ことたヾ人生の五六十年、事敗ひげ男ひとやさいはひえかなれなば他に與るまで、あつばれをとこかたはゑみえいぐはぁ幸にして運に叶はや天晴男兒が片頰笑、いのちかさうとうするばかりなる榮華に飽かんと、まいまことしゆらけうがいまのあたりみ生命を賭けての爭鬪三味、たれつちかいと眞實に修羅の境界を目前に見るごとくなりしが、さくらみだよ뚱はなひもとひとみほころ雖培養はねど櫻は絲と亂れたる世の春にもおつてわ在の細解きて人の見ずとて続ふるいと美しき我が邦なれば、cc a diころ頃の際にも、きはせな花はづかしき麗しの心の痕を後に遺して、うるはこヽろあとのちのこ沖七七然る凄しききよ芳しくもまた〓らかに、そじろ床しを行爲なせし男も女も少からで、ゆかふるまひをとこをんなぎんくろくもつゝれきしうちPLかゞやcbsよろこたこと黑雲包める歷史の中に星と輝き燦けるは、なか喜ぶに足る事といふべし。ときい中にもこゝに說出だこでうものがたりいまひとさんとする此の一條の物語は、しむとこ2こと今まで人に知られざりし男の上の事にはあれと、聞かば聞くべき與はあらん、けふおときこことなあるひモveじか彼の時此の事無かりしとて、たま或は其の時かゝる情のありしならんと聞き玉へかし、きれきしことからとわらもとより歴史の事實を說かんとするは我が意ならねば、其二
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十たたけだせいビなのたくみしきたとへ唯勇益なる武田勢を造制れたる者の功に指揮せば似今股數電說の形かつよりシほうしやうたん今はれとみかたそんニひきあしはやひきと一旦は破を取るといへども味方も損ずべきが上に、引足疾く引取られなたがはとかんわれろうやっうCateは徳川はももあれたるあれ我は數せるはるの飜を得ること悉く難かかたおもなやいかミッ:へんじいははやちしと思ひ惱めど如何にかすべき、德川への返辭も今は既遲々すべくもあときせまか1ときのぞこちらず時逼りぬ、立よし〓〓彼の設けを時に臨みて用ふることゝして何はあしゆつぐんさだきうしよたいれいベーしよしう6かもよはれ出軍するに定めくれんと、急に諸隊へ令を下し諸州の兵を驅り催し、かく各兵此度の職には一人每に柵木一本細一足を準備せよと命を傳つてへいこかびたからにんごとさくぼくぽんなはたいよういめいつたいこのたびへうこごとこうしいuしやほふいで此度は弱處の如き甲州實者を一時に居り臭れんずと意象いとゐんき湯かつせんしやうりSESこもんじBARまつたかたけたぐなさつきのぶなかま戰勝利の祝を籠めて連歌を催し、松高く竹類ひ無き五月かなと信長先づたけだくびなたちよはつせきあんしろ武田甘無しとの意を得せて教句をすれば今産といふもの白ふは見え<みうはなかきわきっ3)みこをあやとおにやまがたの花の垣と腸を付けて四郞は見えぬと言葉を絞取り、エ鬼と呼ばれし山縣おせうはいるつきふまらけも滅びよかしに紹巴といふもの、はだい入月も山がた薄く消え果てゝと第三をなせば信長再び、のぶながふたゝをたさかみあるかゆわすんおaユのぶもり小田は盛りと見ゆる秋風とつけて、密に佐久間信盛がひげ男はかりごともちかつよりしんなが25てうかんいつはりをいよ〓〓謀を用ひ、勝賴が臣長坂釣開に僞計をかけ置き、のぶたヾ愈〓五月十三日、信忠のぶをいおよけうめいcafしばたかついつ信雄は云ふに及ばず騎名を轟かせし柴田勝家、aくニのぶもりたきかはかづます佐久間信盛、瀧川一八、あけち明智光秀、みつひでに丹羽長秀、〓ながひでいけたのぶてるはしばひでよしかなもりながちかがまふうちこ: theよしコ흡usまへだとしいへ池田信輝、6たの羽柴秀吉、しよしやう金森長近、かぞつく蒲生氏郷、森長可、佐々成政、前田利家等頗み切つたる講將の數を盡して山發したる總しゆつばつさうぐんまことあまりまんはらねなかたいこおと軍實は五萬餘十一萬とば蝶の音高く太鼓の音の勇ましく、いまえいわうをはり曳旺〓〓尾張路にかゝりぬ、其其四かうしうぜいながあせrestきう甲州勢の長篠を攻むること十日よりして漸く急に、ひ十一十二十三十四と日ちうやわたい6りひつ書にく~査家を分方ず息をもつかせず是非に雖少演さんと吸ひかくれじやうしやうろうさだ まさわおところわさいと行ご地將九人既自員は者が弟とも按く恐るれ有が事字をも傍く殺された등cm4 'sかくだSナじやうへいscあるに如何で降りも屈しも爲べき、ゆる城兵もまた降ればとて赦とるまじくしいかてつかあるあしおなじしろ知れたるに如何で手を東ねて自ら死すべき、しまくらこ同く死なば城を枕に、必殺人四一十
やいピかなあお左お〇上かたごこれたにしやうねく見の勉味を憂えて彼mの凾り種に獨さんと性根を据めて不敵になすふてきひつしほうせんようゐぶさせみ必死となりて防戰すれば、りやうまいとも容易に落つべき狀は見えず、されと糧米乏しほことながこまたとりすねゑなりて實は暑く文へ難くなりしかは鳥井興有都門と云へとを便としゐもんいごてき敵中を拔け、ちうぬおかざきしろこのとさだまさまをだいじ岡崎の城へ此由を貞昌申し入れしめけるに、すねこ大剛の强右衛ん門十五日に岡崎に到りて家康井に恰もにちおかざきいつやす ならびあだかいまつのぶながち今着きたるばかりの信長にも調すゑぶんしゆはた五うんつたかることを得て十分に使命を果すことは得しが、ろてきしゆジ歸路に運拙く敵手に落ちたる其公復命を仕果すと頓てに荒海原にて礫にせられ、そのためふくめいしおふやがあらうみはらはりつけ〓めい美名をとゞめてをはしまつoとあたひいまikus 5終りし始末は詳しく說くべき價値あれど、こと今は姑く云はざるべし、扨ものぶながにちをかざきちやくとういへやすたいめんしやうぎ信長は十五日岡崎に着到し、のちとちうしくぼ家康に對面して商議せし後十六日牛座十七いるのたおんとにちひとやながしのきんぼうちみ日野田に陣取り、りたゞちヲはんぢんながしのT.ミ十八日人を迫りて長條近傍の地理を相せしめ直に進んひだりてひらゐむらしもやつるぎみやまゑしたらがうSで本陳を長篠の手前、as左手なる平井村下八劍の宮の前、設樂の〓の極樂cやままふのぶたヾ"ベむらてんじんやまじんのふを寺山といふに設け、みとうやまじん信忠を欠部村天神山に陣せしめ信雄を御堂山に陣せはしばnはなつがは김かみtexちやうすやまじ.そのよしやうらしめ、羽染丹羽瀧川を川上村の茶臼山に陣せしめ、えんな其餘の將等三遠の銳二十ひげ男へいあはたんひじ く〓そなかたいかあ合せて十三段に導々を他へ固め加何に甲州のえの継くて良神に解かうじういつよ8じん폴はたらようごか〓いきはひさかかまきすとも容易には氣り得させまじく成勢盛んに搆へたり、いへやすとうたかひあるじことかつまたぜんじつらいいきどほ家康は當の戰爭の主人の事なり、とふかうら且は又前日來の憤りもあり、このせんさんとしごろひごろほねしんげんい信玄以來武田とは結んきざらいたけた等で解けざる深き恨みも此一戰に散ぜではと年頃日頃骨に刻みて忘れざるわすしんゐねんあらたたのぼこヽち膜達の念も新にこゝに機を立ち上る心地して小勢なれども勢廷に、こぜいいきほひもうおほくa.たヾよおなじくたゞすけまつだいらたヾつぐxた大久保忠世、同忠佐、まつたいらさねのりまつだいらこれたゞ松平忠次三軍を一隊とし、ておなじたいすがぬまさだかたまつだいらきよおねほんだ松平實乘、松平伊忠二手を同く一隊となし菅沼定賢、ひろたつててとりゐ松平〓宗、ごたゞうしくEとうたいおほすガやすたか本多廣孝三手を一手とし、ほんだ鳥居元忠牛久保黨を一隊となし、しげつぐたいうゑむらいへまないとう품しゆぜんくん大須賀康高、ほんだたヾかつさかきばらやす本多重次を一隊となし、植村家政内藤正成を、まさおの〓〓ぐんから前軍となし、本多忠勝榊原康政に各一軍を領せしめ、ひとやすみづからのぶながなんナていあか家既自は信長ガ師より迎んで感に近き竹庭の正懇音高松山といふに聞たけひろしやうじくじたかまつやまなんのぶやすまつをやまぢんこのたゝかけつてしるし康は松尾山に陣し、て此戰ひ决して敵の首をあげんなどいふ手ぬるき義はぎおよたうちなすになはず唯ひた副に割つて討つて討於にすべしと令を傳へ、うううちすてれいつたくろくも黑雲もむんとうたじふぶんたゝかひ陣頭より立たんばかり充分に戰を持つて控へぬ、もかつCHながしゆつぢん信長出陣のそも〓〓よ其四三十
かねi :ジこヽろだくみしよぐんり棒て必び設け置きしととろの心功なれば武東を合して智香日が持れいきたさくぼく滋賀県なわかくぢんぜんめんこ導おといりし柵木井に綱をもて各陣前面に柵を結び、ちうちうヽしろたか山手へかけて二重三重後高ミうへたいごてぶなくすきまな5に柵をしつらひし上隊伍手岡へ無きやう組み、くばけんところこら°ぶおごそつた隙間無く兵を配り置き三十間に一應づゝ虎目を後け置くべしと嚴かに傳ふをむ心得たりと素こゝろゑしよぐんれい志ミムたいぐんことつかあたか令のまに〓〓杭を打ち柵を振るに、てうじやう大軍の事なれば束の間に恰も長城を築きしごとく、っ古屋つれこばしはなた法ははしおほみやへんえん 〓〓河路連子橋より濱田まで、又樋の橋より大宮邊まで蜿蜒Parkいのちしとして聯りたれば、生命知らずの猛者なればとて、此を駈け破るべしとこおやぶみぐんやうシカうごやまごとたいぜんじゞやくも見えず、軍容いよ〓〓盛んにして動かざること山の如く、泰然自若とショトル靜に待ちて、まてき敵來りなは矢ざろに寄せて唯一時に擊發さんと備「たり。シゃ上たときうちつくそな四十ひげ男其五いへやす家康は或は打て出づべし、あるひうつうちい現のぞ〓む.えんか打出で來らば望むところ、有無の一戰を掛け吳れんと待設けたるに、まち1いへやすこぶよわごしのぶなかない家康のみか來じと思ひたる弱腰の信長めまで大ぐんきよほきた軍を催してこゝに來りしとな、isたつしやさもあらばあれ口のみ達者に骨細生れのはねぼそうまかみがたぜいふらなに上方勢、듣踏み散して吳れんに何ほどの事のあるべきや、、、うなにかra carのぶなが注した父亡せてより何につけ彼につけ我を侮る信長、ぐんりよ元はなかみがたよわたいめうらむかそせ賢き軍慮立てに鼻うごめかすとも、それは上方の弱大名等に對ひてこそは甲要もあれ、かひhむかなれな조.このたびきやつcar我に對ひて何をか爲し得ん、此處とては彼奴が銀のあげまきをけて笑つて奥さゝかをなくばみわらニまつは首を刎ね吳れん、ちゝしんげんのでてんかかたならな父信玄を除きては天下に肩を駢ぶるもの無き輝信さへけんしんとしなほわかわれあしじづる年猶若くてありし我に一歩譲りて去りし例もあるに、aならにおのれそのけんしんくつちりはらことはち自己は其謙信の書の確述はほばかりの事をするをも地せせぬ分際にて此處まで採山ふんざいこおしたきたごろかたか音やつりしこと愚にもまた亢慢たる奴、2ほとこのろうあなどうあなどゑ左程此四郞を侮り得べきか、侮り得べかみしきものならぬ歟を身に浸みるほど知らせ吳れんと、しくの ながさくらくじつよくじつ翌日、かつより勝賴は一族諸將を集めて、てしよしやううおの〓〓すでし信長極樂寺に着きししたらはらおしたきたながしのさ各自既に知るごとく敵は設樂の原にまで押出し來りて長篠を援はんとする意をあらはせり、いのぶながいへやすれうしやうおう信長家康兩將の首たいきたなるを揃へて來りしは思ふに增したる此方の僥倖、こなたながしのじやう...た長篠一城は云ふに足らね其五
へうごのぶざねおろうさいぐさかいめいひを8し五んなわむりのすけば、兵庫僧實を將として三枝勘解由、飯尾彌四右衛門、名和無理之介、み.よ3.4ゑさしそとびのすひさまやまつけしろおこにたうち五味與三兵衛を指添へて鳶巢八間山の附墟に置き、まか小荷駄をこれに打任おわたらながしのごはかうさかけんろうをやまだびつちうもろがにうとうあいきせ置く傍ら長篠を壓へさせ、高阪源五郞、小山田備中、諸我入道、相木どう十まこいづみゆんじろうらよにんもつばらながしのごぶわれみづかたき市兵衛、小泉源大郎等二千餘人に専兵條を壓へさせ置き、我は自ら瀧川さるばしうisぼんばし1わたむかふはらよてうおしいだきよゐたの猿橋鵜の口に一本橋を設けて渡り、向の原へ三十餘町押出し〓井田がreほん なんすたき瀧川の末岩代川を越えて柳田、か〓すゑ1/3こやなぎだたけひろかはぢしもみやわき原に本陣を居へ、竹廣、川路、下宮脇、ナ須澤、p淺木、るき大海、おはうみ荒海原の邊に島の翼を張りし如く掃ふべき諸隊と護る。うみはら〓iaつぱさ〓ことかきしよたいきろ=カいガせて〓むかしやむてきsらと聲朗々、共に大河を背にして敵に對ひ、遮に無に敵を斬り崩さん、といさわやあよゆうゐをあげて說き示せば、しめさうながさかてうかんあとと夾かに、溢るゝばかりの勇威坐右の長阪釣閑跡べ注aれうにんかんたおもヽちことビいだきんぜんはやたヽか部大炊の兩人は、感に堪へたる面地して言葉こそ出さね欣然と、既戰ふて勝ちたるかのやうに肘を張り肩を怒らし眉尻〓げて得々たれど、かひぢロかたいかじりあたゆう勇に:しりよたこのウィンぶかたいしやうことば佐賀しよしやう任せて思慮足らず、好んで危きを胃すといふべき大時の言に列居る諸將らもくぜんis aしんちうやすワ〓えん台だで等默然として口も開かず、いづれも心中安からで、こは理不盡なる計畫ひげ男まゆねしわさちしづ1.かなと眉根を皺め打靜まつて、§ひかなかヨはやないとうしう死せるが如く控へたる中に氣早の内藤修理、りかうやう甲陽の四將と唱へられたる中にも勝れて心潔しく達慮知らずの一後しやうとななかさこヽろはげえんりよしてつ武者、+そのばとき内部せいじつむつはもの其塲も時も顧みざる誠實無二の强者なれば、たとひしゆしやうめいかxむリたおでたていかしんお假令主將の命なればとて如是無理なる戰鬪の手段に如何で從ふべぎや、よじんとこないとうつゆうけがらこthいろ餘人は兎もあれ此の內藤は露背はしと思ひ込んだる選へぬ色を回にあらはし、ぶKgりいつあをみれつざおのく〓ことばなぢり〓〓と膝行出でゝ屹と仰ぎ見、わきみおふせこと列坐の各位言葉無きは、吾が君の仰なればとて、取の勝敗を餘所にして盲受に御受申されんとの卑劣思案にあよしあしたゝかひしやうはいよそ事の可否、12うけまをきたなさしあん〆とうせんぎおごそかごとうけらせらるゝか、さよわ武道の詮議嚴安なる御當家には然る弱き思案は嫌ひ申さしあん:ほを〓ぞんぢなさいことたがるゝこと御存知無きや、モりやくがたえんまえあたあいまいむごん些細の事とは違ひたり、ごしんていみぐるないとう粗略になり難き一戰の前に當りて醫味なる無言は御心底且苦しと此の內感は存ずるなり、こぞんだいおの〓〓りとうぜんドありていまを第.各位運の常然と也はるゝところを育林に申し山でもれざるは兩機旗いめんじうふくぎミしやうぎやうわ堺ちう卑しき所行けん吾が君への不忠にはこれあらざるや、らそこ意見のほどの底をはさしでニそれがしぞんつヽたきて業出がましけれど先つ小生より過な包まず中し出つれば、ぐまをいおの〓〓各位も其五
おんやかたまた少しなりとも御屋形のため味aかたえきでおんな上方のため益ある御存知寄を申さるべしまをきくゐしよはんロ日 1と默し居たる諸人を睨め廻せし後、のちすこすわいひきみしばこくきこ召されよ、め唯今何世出されし有無の一戰を決せんとの烈しき御意はさるたゞいまあふいだうむ少し首を低くして、せんけつ吾が君少時聞しはげぎょいこわきみぎよい在ことながら、おんあやまち此は吾が君の御意とも覺えぬ御過失に候べし、かも時のならひ、5サヨゆうじやゆうほんい蒐るも退くたじに血氣の勇に急るは勇の本意には候はず、すでこほつせうゐんでんかととゆうじとだと既に故法性院殿下の如き弓矢取つては恐らく自本の百今獨光の御大將にて從にほんこヽんどつぼおんたいしやうわた空玉ひしが猶時により戰を避け玉ひしこと、なほときたゝかひさたまそれがしはじたれみなめみおほをおと小生初め誰も皆眼に視て覺え居ることなり、こだいてきうしろこれ恐れながら御一代敵に背面を見せ玉はず、たたちむぎじ戰へば必す芝居をふせかならのつとたま踏まへ、い〓攻むれば必ず染取り玉ひし所以かと愚者いたし候、ぐかうこうほんいモこまことた勇の本意る其處にてこそ異に立つたれと申すべき、まをしかたヾいまわきみすれるてききら然るに唯今我が君のぎよいゆう達かに敵を切り崩さんとの御意は勇あるやうにはわれど、まこというはんいかないぶ かし眞の勇の本意には叶ひ申すべきや、未審く候、こおんやかた由をいへやすゆみとり故御屋形も若手には家康よろしき弓取にて、ふんべつたゆうゐて0つね〓〓と分別も長け男威もありと敵ながら常く御貸業の御軒利ありしを我しやうびごへうばんわ八十ひげ男きみしろが君にも知しめされぬことはあるまじ、そのい(やすあなどたきだいshこおんやかたごへうばん百三かろみすご其家康を侮り玉ふは、第一我が君には故障局來の御評判をも餘り極く見過し玉ふと中すものにて、たままをごようじんたぞんいへやすにん御用心足らぬかに存ぜらる、めんびたか高の知れたる小身者、しせうしんものれたとさりとて家康ふんこつさいしんいた一人ならば、うちみしや三面六臂なればとてたやす我等粉骨碎身致さば打挫がんこと容易けれど、こたびのぶたがしゆつばおよみかたぜいばいたい ぐん此度は信長出馬に及びて、かなたゆうしまつそのうへきへんおほのぶながすきま味方に三倍四倍の大軍、かぞわるかしこたいしやう彼方に勇士も少からず、其上機變多き信長、ゆうとり隙間數への好猾き大將なれば、か勇のみにては取苐らしかことむんぜんむうんこと然るべからず、ミひき与こgおの特に陣前に二三重の柵を引結び逆黄木を搆へ、から自れ、ひたすらてきかやぶまし己は進まずもに管感にぬけ愈られざる用意のみを厳しく爲せさい是きびなこれみかたがうゆうおそことには味方の剛勇を怖るゝよりの事にはあれど、みかたとうへなびんぎあたいてき味方に取りては上無き不そのうへ便宜を與へられたることゝ云ふべく、たいぐんあんたしろしてるごとどうり敵は大軍の其上に恰も城に籠りしせいてきせいすう如き道理なれば、ごいきほひ我が勢敵に二倍の數を有ちても互角の勢に過ぎぬ位のかくすくらゐことneぶんみかたおしか更なさと敵の四分一にての味方をもつて押癒らんこと得失如何僕べとくしついか.ちしやしロッ智者ならずとも知れたることなり、わきみ おほめお願ふは我が君思し召し返させられて其五九十
こまづいへやすのぶながぶゴビブ此處は一先家康信長が思ふ圖を外させられんことにされ度し、たゝx考ごとうけぐんぱうひみつかくあそびじゆつおこな如是時には御當家の軍法穂密の隱れののをを行はせられ然るべし、しか其六ビどのやまがたどのさしおそれがしまをじゃ地族館山郡望をぶ置き小生申し出さんこと鳥ずには但たれて大切のンこにだいじビるねぎえんりよこのたび赤井聊か遠慮あるべからず、ワ先づ此度は戰ふに利のありとも思はれぬことな:こてばやみかたおさかうしうれば此處は平早く味方を收めて甲州に入り優はんにみは梱もも確之てきこむすぶんンくひつひつでう怯れたる事ゆゑ喰付きて追はぬは必定、かつ1すてがまり且はまた追はんとなさば捨伏兵ぶいくらてきしはつはなひしてだてを優くなを何程も敵に關付けるを挫ぐ丁度は無きにあらざるべし、なさ然あてきぐんてこしひきかみかたへいいだてきりて敵軍手を空く引返さば味方兵を出し、きたらひひ敵また來らば兵を引き、引か曲でば引き、ひば出で、さすくわいおよてきたいいかくと左すること敷回に及びなば敵は大兵なり客土の戰れ、おそのつかつまるはやみかたせいなり其疲るゝこと必ず早かるべく、ことりまはよほんとふち味方は小勢の取廻し好く本土にも近しゆつぼつcざいはたらなれれば山線に自在の働きを爲すごくと思て於と此くの得久の相違は조かれこれしつさうゐぜい十二ゝx考如是時にひげ男ばいとあきらてきa三倍に止まらぬこと明かなり、sかたかくあをびFBラ敵若し味方の隠れ避の術にかゝりて氣をまいらそうぐんちやうくごとショックルすち總軍〓暇する如き恐のことをなすならば其は我が願ふところのそわロ·山野シしンびそのとき地廻も知れざるところ一歸引きて其端ころは十分に于澁く戰ひく信ぶんていたむらいのぶながひ、やす、かれら康彼等が素首刎ね飛ばさんに手間暇そつとて=ひまかれわれいきほひぎやくがいかかいらぬことなるべし、これ彼我の勢を逆にして利害を換へ、ときてん勝つべからざるの時を轉じて勝つべきの地をつかち60はかりごとくるの時となすの策略には候はずや、なにとぞわきみあやふちかよセンばん ぜんはかりごとと〓たじん何卒我が君危きに近寄り玉はずして萬全の計策を取り玉はり度く、よしまごとよいつハン餘人は知らず昌豊は勇にのみ任せ玉ふきみおんだいじみたてまつならば君の御大事と見奉るものから建つて御諫め申す、こちおいさまをまさとよ記号いさまをごけんさつくだお昌豐は遮つて御諫め申す、このたびせんあはれ御實空下し置かれて此座の一戰は制思有止まり玉ふ義ぶぼしめしとヾ左랑ねがぞんたてまつとう〓〓べんぞつを願はしう存じ奉る、するどのたですがと活々として辯否銳く源べ立てたるは流石に日頃ごろけうちうnむたんはとみてんぶ助中の教れ固りし稅メ見え天賦の剛如本直にして飾り無きあしさるがうぎそつちよくかざなうつくあらはけんSえ威權に屈せず自信を抂げぬ天瞻凍々しき男振り、ヨあつばれりて、などこぶPとしよし5かんたあないとうとの聞き居し諸士等も感に堪へて、いいた鳴呼內臟臓いみにくも云ひ出されたり云はれたりと思はざら."其六
いくばくなビ〓みのかみのふふさないとうここはをみそるもの幾干も無し、馬塲美漫守信房は內藤が言葉の尾につきて、恐れなわれらぞんいはとないとうしゆりじらいけんとほさうゐがし携帯各尊の釋を內廉修理嚴意見の通り相達とれなければ幾重にいくゑないとうとのいけん〓6 ISCH品そんたてまつうや〓〓かうへ應驗意夏を御採用とれあるやり願はしヲ存じ來をと兼じくぬを地にちいんぎんいさやまがたろうべ〓ことばなおなじis pr.と愚悉に辞計るに川縣三郎兵衛り骨取は無けれど同く共に頭を下げないとういけんこじここのていみcほと藤が意見の用ひられんことを乞ひぬ、ふくわいいろ此躰を見て先の程より不快の色はあらるぶほろうこうビやまがたしゆくしやうにん とろ現はし居けれて愛すある老幼め民務自評まで宿將二人權ひも輝ひてそろこちやうすわれいさたゞちむけけに擧脚に我を豫むることなれば直に無下にも云ひ消ちかねて、こヽろこと心の底にいきとはかつよりてうかんみ있そのいしおと憤りつゝ勝賴は釣閑を見返れば、てうかんかたゅ其意を汲みで知るに賢き釣閑肩を播りナいさしためみ12ないとうとのながら進み出でゝ一坐を下眼に見廻し、いいさて〓〓云はれざる內藤殿の意けんだてこうころうふがてんだいてりてうとたた見立、つや〓〓以て此の老父には合點まゐらず、年もつとぐんぢんい第一敵の長を說きて味み方の氣もは酒ますること最も軍陣に尽むことなるを知られざるにはなが〓〓てきあみかたcmことばざもべきに長々と敵を揭げ味方を抑へて言是を盡されしと片腹痛し(かたせらいたみを〓vs定かねみたてなみしおぢけ美濃尾頭の兵は多くとも豫て味方の手並は知のたり、怖氣ついたるへろ二十二ひげ男れしやなんはたらきなうてきへろ武者何の働をば爲し得べき、てきとくがはぜい敵らしき敵は德川勢のみ、こぜいしけついのちしはたらこれはた小勢なれば死を决して生命如らアに働くとも怖らゝには足もぬ者なるおそたのゆうめいひごろとヾろないとうどのこたび勇名日頃釋きたる內藤殿が此煖に限りて、かぎことたいぐん〓〓てき二言めには大軍〓〓と敵を重:く見ての軍議は如何に、みぐんぎいかにあはごしやうしんスうふしやういたふく似合しからぬ御小心、がたないとうとのえ流ら〓향ぞんヨを老夫は承服致し難く、內藤殿の御爲にも口惜しき義に存じ申す、しやうはいへいたせうかぎさだ勝敗は兵の多少に限るものとはしかそのたびこのまゝ定まるこ〓とあるべからず、5ほんこくひきあ然るを此度此儘にして兵を本國に引揚げんになるほどやいばBあんぜんぶは成物力を移へぬととゆる安全無事には相違なからつけれで世出はcさうゐせらなんまをたねんてきへいわかうやうぐんゐかまとん冬季飯笑の義が甲陽の軍威を發み見ては引去るを見原れしのぞみpさみ6あざわらぎこのときび33と冷笑ひしに、えんしやうそつら舗いるは此時にありと尾淚津三の將卒等甲州勢こそ見崩かうしうぜいみらゑびらてうれしたれと筋をたゝき子を拍つて嘲り笑はずにあるべきや、あざげわらしかchたちからそん然る時には戰はずして兵を損ぜぬはよまに似たれど却て常御能の威先を塗し、にゆうとうおんやかたるカリきとこおほとのいらいンめいよゆゞやprec故大殿已來武名を四方に輝かせしも漸く光を失ひて、ひかりうしなたけだいへおんはたかひよびしやうそつかぞすくない武田の家の御旗蔭に憑らんと思ふ將卒の數も少くなり行く可し、またこぎやくしんそれのみならず又此所に逆心其六三十二
はた時させとうけたてっrisおくだいらふしの旗を調してて當家に梅を突きたる所の奥牛多了に存を持たする送はなもとうりも當りて、あたa味方一同引上げし後、かたミリひきあのちみかはえんしうせんぼうしうおくだいらみまねひきつや三河遠州の先方衆興平を見眞似に引續てきこゝろよたけだいまおそたさきみいて敵に心を寄せ、武田も今は恐るゝに足らずと先を見越して離心せんこkには、〓由々敷大事と申すべし、しなたいじまをたわいのイランやぶらそんこれ戰はずして自ら敗り兵を損せずしてみづかきづヽareせつさくそうらかつおんやかたききしやう自ら傷く大なる拙策には候はずや、たいてきろcas且は御舘御氣性として大敵に逢ひ背みひきとゆうこ)しやうだいちぢよくふかおを見せ引取らんとは美錘の將だるものゝ大趣辱と承くる思し召し入めいたまふ〓ななれば、たとひないとうとのおことばあたなにもむよく假令內藤殿御言葉の當れるにもせよ何として、その耻辱をbたまいなろんおよ크ば忍び給ふべき、きみみにょうされば否やの論にばす、したらかばね曲げても君の御心に從ひ屍ながしのしのはらcoことほんいうむせんおよを長値の緯原に服さん事を本意として有無の一戰に及ばんととの外はかなんなヒみちこれあいまさらまを何の爲すべきことも取るべき途も之有りと今更中すべきや、おほゐのすけどのなに何とか覺す、留ろうふかんがへこれらいまおよかみち大炊助殿はぞん老夫の考は之より外に今に及んで取るべき道もあらずと存そうろふかた 〓〓またかならしかおほたまベまんじ候なり、たとへしかさば方々も亦必ず然覺し給ふ可きが、萬一にも、假令然らずと覺まゆわがきみことばしたがたましんほんぶんぞんすにもせよ抂て我君の御言葉に從ひ給ふこそ臣たるものゝ本分なれと存四十二ひげ男th "おいちうぎだてじ申すと主の意を迎ふる忠義立、のべた述立てたり、ひおすことばあや非を理に飾る言葉の絞、さかいと賢しげに其其七長阪釣開が言葉の終るを待ちて少しく坐を進みし跡部大炊も釣開に劣らなかさかてうかんたちはをはニすこさすあとべ在てうかんつゐしやうシこさむらひてうかんろうあふせぬ追從の鳴滸武士なれば、さいとゆるところ釣閉老の仰こそ誠に動がぬ所なれと某も亦存それがしまたぞんcarかつ1/5かたうちむかだってじて候HEと勝賴が方に打向ひて頭を下げつゝ諛へば、、さにんもやおポこゝろさえかつ1/5ことばなはい二人が我意を迎へたるに稍心牙てか勝賴は、さ言葉こそ猶出ださざれ、よばかようばうざみわた能ぞ言ひたると云はぬりの容貌なして一坐を見渡し、ふたるけんた再び異見を立つるものなかれと心にこゝろねがてい願ひて坐たるに、みLりよふかはみのかみのぶささこの躰を見て思慮深き局塲美濃守信房は帶しく日を開うや〓〓(3 :いてうかんろうならびあとペとのきて云ふやう、ゆんことばjo釣閉老正に跡部殿の御言葉は一應理あるに似たれど再應にさいおうあんじよろなはまをところ考ふれば宜しとは猶申し惡き所あり、こたびたヽかひだい〓〓ないとうさのみ日立ちとほ此度の戰の大體は內藤殿見極の通がうさうると一の一発も相変ああまじけれは兎にも用にも間農於大事御家大事とかく乃みやかただいじおんいへだいじシ七(
ニむほうしよぎやうようしやいくえ上には無謀の所行は用捨幾重にもあるべき義なり、ぎいまなほぼうこについゆうきてきたちいざんねんひつでうはいぐん今猶暴虎馮河の勇に諮りて敵と戰はんには殘念ながら必定敗軍、たい千に一ッも得あるべからず、thかへたんちtheにちじよく長を返すは一旦の雄厚に囚たれて血壓を忍ぶを勇無き事とは随か云bゆうなこたれ5はいぐんそのあかつきてきうしろみき、敗軍なしたる其暁きたなく敵に背を見せ、あし足もしどろに退かんよりしやうはいすうあらかじみみかたまいねーは、勝敗の數を預め見て、たい13なシーふるましんりよまを味方を全ふし歸らんこそ、わがきみこ大功を成す人の振舞、深慮あるものと申すべけれ、せひゆたしあはれ我君此所は是非に、まをところあるすみやかほんとひきとたま我等が申す所に從ひ、速に本土に引取り給へ、さふんしゆつじんなんてis左はさりながら今度の出陣何の手柄も敵に見せず、てきみすこ少しの得も味方に得ず、たみかた五はろ〓〓へい遙々兵を出せし後、いだのちて手を空しくむなして歸る事、かへことてき敵の嘲あざけりみ味方の失望、かたしつほうisンごたま는まつたこうことわりむ口惜しと覺し給ふ事は全く以て理無からず、てうかんろういSみらき、ご釣閑老の云はるゝ如く、いみかたミラこのうへふじやう見崩れしたり、聞怖したりと、云はれん〓とも味方に取て此上の不祥なきとなれば、たこ)おさそのヽちほんとひきといるわしゆつじんろうで威を立て功を收めて其後本なうベはかりごと土に引取り、聊か我が出陣の勞に報ふべきとを爲し得可き計あり、ことお大野にめさながしのがやめ事無益には似たれども、I/Sなときうち目指したる長條の城を我攻にして唯一時に打破り、やぶ六十二ひげ男おくだいらろうしるじたけだそお奥平九八郞が首級をあげ、てきいきよかつま武田に背きて敵に心を寄せし報は面の當り、あたかくごとい낭たベほど斯の如しと云ふことを示すに足る可き程を見せ、み루ひき とこちthe上みにじこ)扨しづ〓〓と引取らんには、小城なりとも城一の路蹂りたる功はあり、ぎやくいのちうごとうけい〓いべs'上逆意の者を誅したるに御當家の威も立つと云ふ可く、いのぶながごづめ志に岐阜より出できし信長が後詰の主意も、いへやすこたいぐんさまいこしゆいた家康如殊に大軍の助を請ひし主念も立たせで小氣味よし、こgみさつさく:00守るとも、なが長篠一城何程の事か有るべき、toじやうなにほどことろくはほうゆさきころ察するに能はせりあひするてうソベ.a火砲の數は先頃よりの爭鬪により猜するに五百挺には過ぐ可からず、かたじめんすきまどつさけとりつてきひつじ味方一時に四面より隙間もあらせず叩と叫んで取付かんには敵は必死と有る他の總線に難りく切ルあほどてつぼうょ上せそのときてきたヨみなあだわがへいししやう其時〓の彈丸は皆、セラル空なしとするも我兵の死傷は僅五百なり、むけ〓ふみこいきなはわがへいふた五百の骸を踏越えて息も吐かせず猶我兵再び喊いてかゝるならば、おつじやうちうほたせいうもいナモ流布しか考城中も亦一齊に打出だして防ぎ戰はん、またにんみかたしおかつ然る時には又五百人、の のおさだゆうしきやうそつきはあみかた味方に死傷ある者と假に定むるものにせよ、いかてるうだ勇士强卒競ひ合ふ味力は如何で敵にのみ擊せて何いつむね法を時まであるべきや、ばんのり酸を踏越え〓〓て一番乘をなすものあるべく、?續い其七七十二
ばんまたばんてんくわうせきくばきりいじやうへいいて二番又三番電光石火と切入らんには城兵加何で支ふ可を、かこベcmし降るか死すおにがみこもゐたいらるか二つに一つ、兒神籠り居たればとて実げ吳れんに手間暇入らず、くて〓ひといみかたじんしおろあるたされば味方に千人の死傷はあるとも、のぶながいへやすはなもつとよきかた我威は立ち信長家康が鼻は明くべし、のこれ尤も好き策にはあらねど、はかりごとなてきれ斯して退かんは計無く敵に蒐つて無益のか久しfnとなほましpier敗を取らんより猶有益なるべし、ついさきこほどと道理を盡くして諫めしは聞えし程のしぬくしやうn度いことさすがわか病患の練れたる服より由でし言とて流石むき主の緩き心を惡め和むしゆうたけにちactなごじやうそなたい くわしやうじすニぐんき125も具へつ、大過を小事にして濟ませし上、めいせいおと軍氣を振ひ、名聲をも壓させしんたいようしやぎかねすぢまじとの進退用拾の義をも兼たる筋なれど、かつよりもちぜひひとたびおもひたことあとSeごうじやうが勝賴用ふべくもあらず、是非に一度恩立ちし事は後へは戻さざる随情我慢の氣質なれば、まんき15なほうけぬ色を示すに、いろ납てうかん釣閑はまた我のみ知れる秘密の魂勝を有てるものから。われひみつこんたん猶諾がはいよ〓〓すれ社ㅂどのゆえ十ジ愈進みて我は顏に、あやう馬塲殿の仰こそ一應は理有る樣なれど再考ふれば、りさいおうかんがふくがたたい てきおみかた50せんにん服し難し、ころうへ嘉ぐんご大敵に向ひ味力の兵一千人を殺せし上空しく軍を收むることそも〓〓なんえき抑何の益かあるべき、如かじ、それより勝敗を當の敵なる家康信長二將しやうはいとうてきいへやすのぶながわしら八十二ひげ男むんか、けつの、陣に蒐りて决せんには、ゆうし受人いづれい勇士の本意は那方にありや、しceないとうとの云はでも知れたることなるべし、おの〓〓とも先より內藤殿をはじめ、このおちら各位共に此戰ひ必ず利なきリ樣にのみ言做さるれど応にわやうジンニルすでめぐはかりごとが既に運らせる計もあり、cぜんとむいまなを事前に說かんは無益しければ今は申さゞるも時に臨んで必ず思ひ當ること有るべき筈なときのぞおたしふわあたあせづわがきみしたヽかひのぞればご看にも原て肥を愛ませぬふにて唯も利なきのみの街に承更進たまあながりセブことさらすヽたいかきことおのはんとせらるゝ如き事にはあらず、おねのぶながしんさのぶきりと己が胸には信長の臣佐久間信盛がく모いつはりてれてのつゆおゝ詳傷の丁段に乗るとは悉思はずたヾに信達上を務みて文筆の即表切のぶもりしゆううるかうせんみぎりうらぎことひつでうあさはかふかんゆゑ16る事必定と淺墓にも深く信ぜる故、またかろうなづぜないとうくちこわ口硬く、いきはひ勢を含んで云ひ爭へば、さくいあらが勝かつ賴も亦輕く點頭き、Bさうらいまてうかん馬塲內藤も聞き候へ、いS haなんでうみきはめなしやむたいてきむち今釣閑の云ひし如く我とて何俺目球も無く遂に無に大感を悸んして否電なしつ肢膜平正と恣む味ふんせんこヽうしゆそくたのみかたさんごとおろかごき失ふ如き愚なることを悅ぶべきや、こゝろひかたなかpreうain心に秘めたることのありて、難きが中に安を得る空のあればこそ竝れと云ふなれ、かいみな〓〓こヽろきりくづびのうさんゑんあは皆々心を一にして切崩さんに及須多達併せて十萬の兵はありとも考急を新るに等しから可しいちがやかをたい大其七
おそことこけついこしゑ軍なりとて恐るゝ事かは、虎穴に入らずんば虎子を得ずとは唐人さへもからびとすで既に云はずや、いめせんぎせたのところはいひき女々しき詮義は爲ずもあれや、と恃む所あり氣に云切りぬ、十三ひ其八こしんげんこうゆんときL.むしみなみきたちにんそうつ政信を公御前より西に東京南ル北に馳聖者よの功を積みて幾に一度くこう30とさんh覺を取らず、とこしやうびしやうもんかぞおけしよしうちofわ御賞美の證文も數多く持ち、諸士の中にても取分けて〓〓え目出度、めでたたまいとしふゆそのよくとしぐんぎへうでうときビやまがたかうさかないとう毎年冬に其翌年の軍議の評定ある際も、馬塲山縣高阪内藤こかならきみつあづかなきたの四人だけは必ず機密に與らぬといふこと無く、てきなれな北の敵をば何と爲す、みなみてきなになごくひぎひはんisそ南の敏には何と爲すとの極他の議にも推刻の日を透ゆることを呼さゆるきたりしに、なにことしやかたてうかんほかしなみつじゐ何事かは知らず御屋形と前國の外知ること無き空中の有りと云くちおことじかりごとみつたつとはれしこそかへす〓〓も口惜しけれ、われ殊に計は密なるを貴ぶとならば吾ひとなところ語たまつげしたましか等三人を人無き所に相き給えて告知らせ給ふとも然るべきを、われらかた我等に語げ男たまそのことわれら(sり給はんには、其事我等が口よりして漏れんと氣遣ひ給ひてか知らせ給きづかたなしたまごきやくしんじんうらはぬ御隔心は、34御恨めしと申すにはあらねど、こいろぐるさたなにとがさまでわれらいまさらうとたま心苦しき沙汰なり、何各ありて左迄には我等を今更疎み給ふか、なにあやまちわれらいひが何過失ありて我等をば云甲斐なひみな空てうかんかれなんしに見做し給ふか、ものしんげんこうみ釣開彼け何たる者ぞや、よシcasもしことあすt)信玄公御世には御各を禁りし事も有りしものにて、Dひろひくび諏訪の一揆に指首級せしばかりの僅の手抦に依わりのて第よりて辛くも再び召出からめしいだほど8 のおんやかたされし程の者なるに、れらてうかんだのみな空かれ御屋形には我等をば釣閑にも劣りし者と見做し給ひてか、うち あなつわれ彼には打明け給へることをば我等には知ららしたまむいひあせ絡はざる悲しさよと云合はさねと内藤も山縣も心に且(るか、ないとうやまがたこヽろぶぜんて官たcat憮然と手を拱み頭を垂れて語なかりしが、のぶふさおsかたごんだいじこのときいかなじんさだ信房は、御屋形の御大事此時なり、云はでは叶はじと心を定めて、ユきうながしのぬわがきみ然らば先づ急に長篠を拔き、モnに入給ひ、いりたまごぞくそのたこと〓〓しろうしろたか吾君は其城御一族其他は盡く塚の後の萬みに聞取り地勢の利をは充分占ぢんとちせいじうぶんしわたなまわれらないとうとのめて渡らせ給へ、やまがたとのて我等内藤殿山縣殿と三手の兵を引率して、じいんぞつカセわたて〓たいたヽかひさ河をば渡り敵に對し、てきか、なるべく戰を避けつゝも、せんじてい敵蒐りなば一戰を辭せざる躰にて其八
ひわたてききないみのあふみをはりぐんそつおほx日を彌らば、敵は五畿内美濃近江尾張の軍卒多きを占むれば、こ.た小荷駄のうんさうわづらかやまあひながぢんろう.ひつでう運送煩はしく、斯る山間の長陣に勞を來たすは必定なり、のぶながきばやから信長氣早の將しばしこゝろしこうおこたりしやうなれば、うみつか少時は心も締むべけれ、やがては心に怠生じて倦勞るゝことしベそのときわれらBくわいみようちあるひあ〓sゃおそ知りぬ可し、其時我等機會を見て夜恐或は朝がけに取扱る者なるば恐らうわへい3)しうたかゑんりよくは利あることを得べし、かな寡兵を以て衆と戰ふに遠慮なくては叶ふまじ、わがきみさきないとうま〓こうたままたそれかしセッしの모드ようたま吾君先に內藤の申せし言をも用ひ給はず、又小生が長篠を屠て退き給へとの畿にも悉ひ齢ふことを物憂く覺きは計はいよくしめなるにあらぎえんおたまものう毎はかりごとめうこのふんべつたまたび80g〓ところもせめては此分別につき給はるべし、と三度其議を變じても、歸する所あやまちばしよそんほかは過失をなるべく少からせんとの所存の外に由づることなく、いうよきよくせつ紆餘曲折して只管に、ひたすらわほうたゝかひ:oとことなぐんさ、〓つくきつとごとてうかんしうね無課の職を以ひ止まり事無く單を返さしめんとの辯を整く、いばとのいよ〓〓をかことないひいせど狐の如き釣閑執念く進み出でゝ、馬塲殿念可笑しき事を重ねて云出で給ふものかな、たまひ日頃にも似ず、ごろに貴殿並に內藤殿も云はれし如き良將のきでんならびないとうどのいごとりやうしやうのぶながいかみかたまむなニて信長如何で味方の策にかゝりて空しく日を奪さんや、Cさき三手の兵の眼前にひげ男あニうちせらせんななに在るを先づ打拂はんと一戰に及ばゝ何とさるべきで、いのぶふさすこも動ぜず、らさればに候、てうかんろうそののぞかつしと云ふに信房少したちはかはう釣開老、其期に臨まば必死にして戰ふより外法なこたさいひながゑも無しと答へ凉しく云流すを、つけいあや日、まみらばさのき得たりと附入りて怪しく頰に笑を浮べつその時戰ふも御屋形の14ににきき戰ふも同じ事にときたヽか〃、馬塲殿聞かれよ、ばぜんたちだミとりいvけんたはあらざるや、さらは取出で眞見を立てゝ實如をば合されんより吾君のかしこがはなわかきみG添造サイあくまで仰に從ひ玉ひて然るべきにはあらずや、しう〓まいぜと飽迄主に諛ひ三昧、ひむ はしゆくしやうらいけんむのした是に非に保らが宿雅等の意見をも無にして己が育の滑なるに任せつゝ、なめらかまあたんかつ1/3こいちふるまいひつのやまがたない單に勝賴が心のまゝ振舞はせんと云募れば、とうばヾはじせいちうむにね(かくまでゆ?がいとことば山縣內藤馬塲を始め、精忠無二の面々は、斯迄理を盡し利害を說き、ろ書いなほ言葉の有らん限を出だして猶も用ひららうなさけなこヽろひそかたんれぬは情無しと心密に歎ずるもあり、さかてうかんめたべんした然るにても彼の釣四奴が多辯の舌先こそ御屋形を、誤る者なれと恨むもあれば怒るもあり、;々かたあやま10 20いかめとかなのまゆみいきとほてうかん眼を閉ぢ悲しむ者あれば、; KC眉を〓げ慣りて釣開が面を睨み詰むるもあり、3とはて一坐白けて果〇ゴがたみしつかず、あとべおはる何とも收まり難く見ゆれば、しよろういけんなをり跡部大炊は、く諸老の意見如是折其八
るごぐんぎか生2ひきしりぞ合はでは、重ねての軍藥こそ然るべけれ今は一先づ引退きて産將にも爲しよしやうさふんべついいづせひbe遠云ふに何れも是非なく退きけるが退くに臨みて猶もと分別あるべしと、のぞGHみ美濃は、のわが吾君幾重にも制思慮の程隻はしフ存じ率ると旨来を殘し心を種きみいくモこし呈ほどこひねがぞんヨラことばのここヽろのこBiぷるたちさして物思はしげに立去りぬ、四十三ひ其九あ5ふくまでつらぬたくおもひながらも勝賴は、ないとうば我意を飽迄貫き度は思よrabしめくしやうゆうし内藤馬塲を首として宿將勇士たのハわがいへくつしめん〓〓いづわがいECと賴み思へる吾家屈指の面々何れも、み3丁吾意に就かざる樣子を見て流石にこヽろひきこたらな心引戾さるゝ傾き無きにもあらざれば、しあんあまみな 〓〓あと思案に餘りて皆々の去りたる後のこ名に殘り居たる大炊に向つてヽむかろうしんらみなたゝかひむよういわれだん思ふ、ぶわれ我と老臣等と料簡違ひて、ろうしんられうけんちが老臣等は皆戰を無用と云ひ我は一戰せんといまぐんぎなんぎごよなんななにふん今の軍議も難儀に及べり、汝何とか分だつたブのぶとこヽろよわがんぜんさい別ありやと尋ぬるに、はたらとしゆじん信元も心弱くて眼前の才のみ働く者なれば、主人を諫めん心は無く、いまにちなたいむかばかあいさつわがきみこゝろじはたません只意を迎ふる計りの挨拶、吾君心を決め給ひて一戰げ男と石たましんかみシ交けんと員し輪ふに巨下の身として御念を固みたり飼育集をなどおみこヽろ只たてまつおんことばたてまつせん くんごんときることあるべからず、たれひとよ先君の御時に候はい唯一人能く口をたゝき申きん。ミッまをわがきみいまおんとしわかしよしやうらくわうだい吾君未だ御齡若くましませば、ごとれごしんしやくつけあがさかけ諸將等にも廣大の御度量をもて御斟酌あsなにるものから、いけんた付上りて賢し氣に思ひ〓〓何とか異見を立つるなるべし、しやうぶしうくわよせん くんすで勝負は衆寡に依らずとは先君も既にのたまへり、きみかけつだんたまゆん;れい(だたまろうしんらいさ君固く决斷し給ふて服重に令を下し給はば、なほいさげんでるちん老臣等も諫むることあるべからず、おもひかへぎそれにても猶諫めなば、千言萬時縷陳するとも思返す儀あるべからずと、ごとうけさだ御當家に定せいごんたまいかかれらまりたる誓言をたて給はんには、なほくちかしこまをベひるいだいごちやうきまんたろうよしいへこうおんはたしんら如何で彼等猶口賢く申す可き、ろうよしみつ御累代の前正義八純太郎義家公の御歳新羅一郎発元八の如無の煙をかけ絵こうたてなしはっちたまごせいごんやまさうみかは御誓言おらんには山渕け液高くことはあもとも復得する事あるべかふたヽびへんことでうほうビやまがた(およそうそつる定法は、ところゆゑ馬塲山縣は申すに及はず雜卒までも知る所故、レひつでうごんせつそこやも〓詔い必定言說は其所に止むべしと智慧あり顏に云ひ出でたり、いたんこゝろぜひむと一旦心は是非利害の二途に歩生またわまいあちら岐れて迷ひしも、モのぶもとことばごうじやうら復書が念に力を送ゆる信元が音素に就拗の我意の燃えが其九五十三
たとしわか分別鍊れざる勝賴は、かつよりこう3일かた立てば年若きだけよことハ心を忽ち固くして、好き事思ひ五いとくいゑみおもて得たちかなと云はねばかりの信念の英を間上にあるはして打點如をうちうなづさ然ピしよしやうらたちらエめいらば馬塲はじめ諸將等を直に興べと命したり、しよしやうらめしいねはんちんかつよりことば舊將等ふだゝび有出るれて本陣にわつまれは勝賴音差かなくしく、さき前ぐんぎけつじゆくかううへけつだんぜひせんに軍議は决せざりしが熱考の上决斷せり、と当是非に一戰を遂ぐるなり、今こちにめいうとかくいはういけんぢうめいくだ改めて命ずる上は兎角を云はず用意せよと、ご9嚴重に命を下したり、前刻くちそろいさめに一人ならず二人三人、あるひぶかへ三人まで口を揃へて練しからは或は思ひ返へしたまわれれこしたらたきMEのcay玉はりて我等が言に從ひ締はる事もやめると一純の國をたけ肩たるるゐがたないとうらいおよみかみそのたしよしいまこのことばかね内藤等は五ふに及はず美濃守其他の請士まで今此言葉に、ご豫て期せぬに.5.いまさらおどろかなひごろおやまがたはあらざれどァ"と計り今更驚き悲しみしが、ミいたくゑまえ日頃無口の山縣もこゝに至ナいおほがねなごと들.りて默し得ず、わがきみつか〓〓と前に進み出で、洪鐘の鳴る如き聲して、吾君caなないとうばヾふたりまをかいな物にや狂はせ給ふ、ご内藤昌塲の兩人のものゝ申せしことを御理解無きや、ごxてん12はさごがぞんた御合點まゐらぬことは御坐さじ、然るを一圖に御我存を立てんとせらる六十三ひげ男しんげんこうせつかくのこ2たまは信玄及より折角差し世ま締ひたる汝老を一文年銕の假償なまも必ころうもんばんせんね§左たまたとへきとよのぶふさらとたや覺し給ふ、假令は昌豊信房等取るに足らざる者にもせよ、·ペたま:ぬぐんノばあひだとし矢玉の間をくいり援けて千軍萬馬の間に年を經、ぐんぽういくじやうぁたそはそおほえさつわものおぼえとた軍法の幾條も編み出し得し程經驗をまめし晴おめての從殿をも取るに見らざるものと足るは網議失なだおんあやとちかんげんいっみさかりやうやくいっが諫言何時も耳に件ひ良獲何時も口に苦き愼に候へは、し、isせないこしんげんこう、いさめもうあやまたまことなごわ故信玄公も、諫を用ひで過ち給ひし事も無きには御坐さしりしが、たびひ20、あかつきだしいろやっぱ一度その非を悟り給ひしその曉には吝む色なく、すたゞちせんうなまごいちたいたい くわたchつゐ前非を捨てゝ直に善に遷り給ひしかば、御一代に大通なくして大功をは彼に成し遂げ繪ひつるなり、なと空われまったか〓つよにじつたじやく我から己に文を得ぬは剛きに因たれる實は情頭と中すものかと農景は此離の今まをまさおこのとしいま覺えて候、おぼみ、耳に聞好き言葉を取り音に心好き味をのみ貪り給はいその禍きヽよことばと七ヶこゝろよあぢはひむさばたまわざわひだぞはかがた:すひ恐らくは測り難からん、とい君を勸めて非を遂げしむるやうなる者は何時ものつきみぎよいめりみごんため君の御念には君すべきが君の師爲まことは理しきものゝ頂上なり、あてうじやうkまとなエこんどご說惑はされ給ふ可からず、いつせんしかベなにもの今度の御一戰然る可しとはそも何者のきは申せし、まを其九
そづつへつらさおもふに其奴は諛ひものか、いくささきa然らずば軍事に眼先の見えぬ三歲見同樣のめみつごどうきたはけ白痴なるべし、まさ昌景其奴と對論せん、がげそやつたいろんまさかけひわいさづ昌景非ならば首を授けん、そのものひきわきみ1たてまつてきないつうとうぜん其者非なるに決まらば、むか君を達はし奉る敵に內通同然の覺悟の好物、しれ:こまさおもなたけつこせんご此の昌景が其塲は立たせじ、む〓む决して御一戰御無用なり、ごきご〓ようごじき)ごうきやうな御無用に候、いや、御無用に候、ゑ御無用でござさと副題の名を得たる愚景が飯き語氣は比るが如まさかけするとごしかごとおもてぶがうかんかつく面を犯して强諫すれば、よりぼつぜんいろ〓空まさ吉らき七三ちやうきはたよろひ勝賴勃然と色を變じて、默れ、昌景、云ふな、聞かぬは、ぜひせん當家の重器旗銀をかけて是に非に一戰と、かっよりけつるぞ、諸將も今更諫め立一しよしやういさきらいさきてかうむやうちか假令敗るればとて勝賴こゝに决したやぶ向無用なり、誓ひしぞよ、までしやうはいしゆうくわよそれ迄なり、せん くんすでわめうじんごから一ましてや勝敗は衆寡に依らずと先君も既にのたまへり。諏まんだいぼ訪明神の御實護もあり八幡大菩薩の御加護もあり、さつごかごしんめいとくかとろたけだいへたためぎるいかしやうりゑ神明の威徳衰へずば、武田の家の大事の戰の如何で勝利を得ぬとあるべき、BB cep努〓〓疑ふ〓となくしよぐんこヽろちわがめいして諸軍心を一致なし、いきはひものすごたヾ吾命を聞き候へ、Bと威猛高になつて大昔に、たけだかたいおんおこ告ぐる勢物凄く、ひごとまなこひか12面はさながら火の如く、ごんい眼の光り燭々として二言と云八十三ひげ男はゞ馬塲にもあれ山縣にもあれ內臟にもあれ一乃の下に雨斷すべき意もばきがたないとうれうたんこちみかうこみ見えたる形相にて、こヽろふるかみ見るものもそゝろに心戰ひて髮さへ適立つを覺ゆる3枚ごはまでなり、其其十やまがたろベゑまさかげわがしゆあさ山軽三郞長濱島景はさ主が溪ましき有機にれて何と思ひしか如たざありさまAなに六レわっくぎもくねんハ"と首を下げし眼り歐然たること良久しかりし後、さひさのちさいきはひこたたちまちかないろうかおににらつよ左しも勢込みたりし面に忽悲しみの色を浮べ、みはめさん鬼をも睨み潰す可く呼りたりし眼に涙を港へたて、そこむからくもりなゑわがきみかくまでニらなに底力ある曇聲に、さらまを吾君斯迄のたまふ上は、とかなはじめみさ立んた今更何をか申す可き、兎ても角ても始より身を捧げたる我等なれば、ぜんなくりがいいまおんことば商店いづ善惡利害はさもあらばあれ、今は御音茶につき候て仰の儘に何れの手へも立向ひ、てたちじゅふんせん いたベビとのないとうとのECいづおまかくご奮戰致し候可し、馬塲殿內應殿を首め何れる同じ覺悟なるべし、らかかた〓〓なに最ふりかへりみねつるゐあけ如何に方々何とか覺すと刷勝れは然淚はばらりと散りて朱の鈕の袖に霰と子選りたり、こうりそであられたばしばみ馬塲美濃十
ないとうしゆりのしやうまさとよおななんだInしやうぜんただこの信房も內觀候理正昌豊を同じく派を他しつゝ情然として流れる如うごやまがた との5シみ〓われら動きもせでありけるが、山縣殿の云はるゝ如く、身は惜しからぬ我等なわがきみおんはたおんよろひせいごんし左このごおよなにるれば、言君胸筋両銀をかけて警言仕玉ひだる此助に及んで何か育るべる。おやかたぎよいしたらのぶながいへやすなにいしてつ御屋形の御意に從ひて信長家康何とあるとも、石にもあるまじ鐵にもあたちはparコほときつきつきりまくてつぼうほまたうるまじ、太刀の刄金の續く程切て切て切捲り、鐵砲の筒の裂くる迄も打ううちすくしよせんひつしからきばかはらつゆみちに打つて打盛め、所詮は必死の覺〓と決めて河原の舅と身をなすべくいるごはんろんひやうぎいまaことひほろてうかん思ひ定めんに論も評議も今更あるべき事にはあらず、卑怯のやうに釣閑とのおもまことひきやうまたたゝかひ〓ミまをみ殿に思はれしも眞實卑怯なりしか、又戰を御止め申しはしたれども、身いとのちしいかなかさかとのあとを厭ひてにあらざりしかは後に知らるゝことあるべし、如何に長阪殿跡とのそくこ6し旨2°やかたたゝかひ.はいぐんおよ部殿、足下等頻りに御呈形に戰を勸められはしたれど、若し敗軍に及びそこらなにㄸたまたゝかひいひはやふそのたゝかひなば、足下等は何とか爲し給ふや、よも戰を言張りて其戰に敗れたらんあかつきいのちんじTeたしみかうしうにけいるすしよしその曉は命を惜みて、おめ〓〓敵に背を見せ、甲州に逃入り留守の諸士いきづらみたまわれ'たゝかひふかい等に生面を見られんとは爲給はざるべし、我等は戰を不可とは云ひしが十四ひげ男いふたはうばいかうさかだんじやうそのたcこたび生きて再び朋輩の高阪彈正其他の者の此度の出陣に與からざる人等に面しゆつなんあづったいpicみゆめ.comないを見せんとは愛此も厚ひ候はずと內風一句民取一句云ひ續をく·心とう(ビこうのしゆつぢんういおよおの〓〓ざべて、さらば出陣の用意に及ばんと各自坐をは退きぬ、detみはたたてなしごはんいひい御機如無とかけての唇と云山だされし事なれは最みに及はず各自著とせひおよおの〓〓みなしゆつぢんよういビソaのかみのぶぶさの用意にとりかゝり、あなきませいせつじゃうえ馬塲美濃守信房、もんのじやうのぶたつさなだげんたさゑもんのぶつなおとヽとうめうへうぶしやういふまさてる穴山梅雪、一條右衛門尉信龍、眞田源太左衛門信綱、つちや弟同苗兵部少輔昌輝、さうぞうまさつね酒その其兵八百、へいおほみやまへさ=はしばあけちじん1/3むか土屋總藏昌恒、たけだ併せて五隊大宮前の佐久間羽柴明智が陣に打向ひ、しやうえふけんのぶつらないとうしゆりのしやうまさとよはらたねながわたさ〓もんのじやう武田逍遙軒信連、內藤修理正昌豊、原胤長、和田左衛門尉ながねうたすけまつもと:あんなかさこんら永根雅樂之助、松本兵部、安中よ5やなぎだまゑ六就等四千六百位兵は柳田の前に控へたる油生足二郎氏瘤升病氏次ひかがまふちうろううちさとにはうぢつぐかひ、たけださますけのぶとよハヨがたろ표.まさかけ武田左馬介信豊、山縣三郞兵衛昌景、をばたかづさのすけのぶざねながさはらのぶみねまつをかみかはのかみをやまだ〃〓のぶしげ小幡上總介信實、小笠原信嶺、松岡三河守、ごとベおほろのすけ のぶ小山田右兵衛信茂、もとら跡部大炊助信元等四千五百餘兵、エ5しやうらくcまゑたけひろいいへやすかべつたい正樂寺前付廣に出でゝ家康が壓下の別隊大久保忠世仝忠佐、gおほくぼたヾよおなじくたゞすけまつたいらたヾつぐらぢんむかかつよりじしんいちつきう松平忠次等が陣に向ひぬ、こんよしかつぜん ぐんな勝賴自身は翼月右近義勝を前軍と公し武田左衡門介を後軍とたけださゑもんのすけこうぐん其十
きよゐたはら3いいへやすgし、〓井田原に打て出で、かむかさうせいすべ家康が歴下に向はんとし、決だい大膽にも亦無法にも、たんまたむほふたいぐんうへしりよふくこでゆだいじ總勢都て十三隊、大軍の上思慮深く柵迄結ひて大事を取れる信長家とのぶながいへやすせいむか康が勢に向ひたり、二十四ひ其十一5かねらこのニこゝろ如何に諫めても用ひられず、しけつかうやうゆうし此上はとて心を死に决せし甲陽勇士の面々、めんくる明くれば五月廿日、ぐわつにちうちつたみやうとちせんぢやうそ打連れ立ちて明日の戰塲たるべき其邊等の地理を考こらちかんがジときのぞかけ 08ふかくなのこへ置き、時に匹みて如引に不覺の名をは残するとと馬塲山群を言としてばやまがたtab内藤土屋小幡河西其他の人々諸共に岩代川の岸を俸ひ、ないとうつちやをばたかはにしそのたひと〓〓もろともいはしろきしつたふなつき〓ひだりみて足塲の善惡、きじよしあし坂の勾配道幅の廣狹らこう思みちはヾくわうけうめたちに岩船着山を左に見リひとりだたかBにハとたとへかばねむな目標たるべき一簇の森、獨立ちの高樹なんどを心に留め、くェたちをは假令屍は空しく朽つとも能く戰ひて終りたりと法はミこヽろがまへの好るばありも止めんての心得に勉翼せしが大旗その事務りし頃溶じゆんらんこきことをはころきよゐたからいいたむま〓た村と云ふに到り、しやうぎ는を飛せて少時休息したり、もた馬より下り立ち床凡に腰きうそくげ男まんしやうけむり:むせなまぐさしんく焔焼の煙の謂に咽び、ちあめいくたびぬ腥き眞紅の血の用に幾度か濡れて世を經たる覺のよご飯をくつはミのふてきゆうしさすがゐナ强者不敵の勇士も、い流石に明日は千に一つる生きるとなく閣魔の廳へ驅ゑんとCEこおもひい込みなんと思入りたることなれば、ころ$59そらあたゝかとき時を得顏に舉をゑ頃は五月の天暖く、みどりまそらはびこ飾りて空に瀰蔓る樹々の若葉の色なつかしく香へるも、3わかビいろ$35 Dateかるくもまかもろとりころうつく陽氣に乘りて翼輕く雲間に翔ける諸島の聲美しく鳴き渡るも、なあたおきびめD.Oみたのしからず、こだかところながめ思ある眼思ある耳には樂小商き地のことなれば既毀なきにはあらズれど悲債の或に聯らかんう繼取出でゝ面白き眺望かなと云ふ者も無く、たれとりいながめを擊たれて、いのなかしここしうちあすきわがみ彼所の小笹の茂れる內に明日は五尺の我身をや横ふ、ichこ此所の老木の時を忘れで新緑やぶきとりみとりBごはごとえたはさしく絹蓋を張れるが如く枝葉を交へし蔭を畢竟の住家とや賴むべきとまたかげついすみかたのいかたないけみなこヽろハまえあ言はず暗らず互に皆心に思ふを免れぬは、自然と言葉もおのづさ,はな左右なくは放つひとかぞものさへあらずして、あいしものすごまでものしづか人數こそは少からざれ、てふ:ひげ〓をとこHubそでcほと物凄き迄物靜に、蝶も鬼鬚生ひたる男の鎧の袖に狎れん程なり、すろBすヽきCBBペたまあめ鎖は秋野の苦と困う矢玉は申や震と散ろ中に立ちても悠然として、あられちなかtゆうぜんだんしやう談笑其十一三十四だんしやう談笑
Cit〓な·その面に敵一つよせず、むちと何骨〓〓一つかけ申さん試みに解き候へと一人がひと5ひとりまたいいか云へば、一人は又、いしくも云はれたり、かた4ぞか如何なる難き何曾にもあれ彼てききつ二こおんみなぞとまを流亡しの歌切て應すと其に御身の何甘る解きままんとふれ含ひしむもありあこ超ないとうしゆりばみのきはひとの内藤修理と馬塲美濃とは、こヽあさえかゝる際にも一人は心冴〓〓しく一人は脇つねさかはのゆたかなれば、ていなしゆりカリ平生とも差して異れる態無く、てうしかろ修理は顧みて調子も輕inどのなんぶさつきなかばはやすはなく、美濃殿何と思はるゝ、こそそふ:五月も中を既過ぎて花は無けれど梢吹く風はかんばみふこのごろ5かた薰しき今日此頃、うらゝかなりとは云ひ難ければ曇れるでも無き天の遠なcaやう정ひひかり様折々洩るゝ日の光を、ぶあたゝかこのじあらずもがなに思ふほどはか〓〓暖き此時候かう胸に念も何と無く、ちぃなになみよろひなかぶとなとみんぶんざい身に錢も無く害も無き土民の分原にてあらんには、わたぬgえりDねほくら綿脫友の樣をくつろげて木の根を枕に草を直に、5 upあしふゆう(のとかひるねすせんしやうごふつぼ足踏み伸ばして悠々と長閑な晝睡でも爲べきものを、かわれさて前生の葉の抽いゆゑでもあろう歟吾ふぜいかぜまつおんがく等風情は、ゑしづか酒セたのしみ鳳がからかり松が校の音樂ひとつ譯にはふ樂さへも得取らいゑとで、膳柳の芽ざす春から雪の野山め품ゆる空うづよすゑ弓なり矢なり鐵砲ャてのぼうを埋める多の末まで、四十四ひげ男文京流行のpなり、楯なり太刀なり薙刀なり、たてたちなぎなた〆ひつき武具いぢりにのみ日も月る暮して仕舞L또はなたになこreひ、花なら皺の名の小櫻に、2ぜいそれかとばかりの風情を忍び、しのつき生けいろかよ〓こいェ月なら駒の毛の色に通ふ名のみに思を寄せて、つるおもしろ遂にひとたび面白くゆたかに花をもはなヨハa〓月をも見ず、てきたま〓〓見るは見ながらも、きよじつうかゞ6のみ敵の虛實を觀ふ斥候に一騎耻9ゅはそやまみちgかやこゝろをけ行く細山徑、花たん木にも萱にも心置きて、けむりしてきうたがなかみはなやかひしらくもエ畑燒く煙も若や敵かと疑ふ中にて見る花は、レ山の献より白雲を假令見ゆるにせよ何が長閑き、なにのだけあなどがたてきるこゝ侮り難きt〓に寒ひて心もしまる釋の夜に夜討て來るとぼりもせで見悉と陣のよようちきたねむみ品むんまへうしろあきかぜひやわごふきか放題冷かたでが死の以次へしに常つて身匠極み入る折期極める松無あた, Lいをりからまつかゞりけむりうちなかceちいさナ經の中より中天に小く歪める影を仰いで石庭の選に見る月は、惣はほeはてみつきせいくわうてかなしみC〓光よしや千里を照らすも、〓ゆみやたゞ悲愴の感の增すのみ、とみくわゆつそむはかとりいいまい弓矢取る身の花月にまでおく黒發なさを取由でゝ今夏云ふにはああぬでも此の世の粗少靴きさらこよたのがたジこたの思ふにつけて、なつはじめてんち此の樂しげなる夏の初の天地の間に包まれながら、あひだなんisじ何のこ禽かは知らざれど、むんsひいぁあれ御覽ぜよ雲に坤る彼の禽はどの身の安さをも得isみやすそ其十一
むしやこみあはれきぬ老式者の此の身はさても可夢のものよと思ふも無理には候はじとりtゆかほどひとニおくえ年若かりし程こそは、みほかしよろう人に負くまじ後るまじの一心のみに身を任せ、初老およこみんやかたてんがしづたまとたいしになんでは故御屋形の一大下鎖も玉はんとの聊天成に分をる心をもみこゝろりだたてまつつかこのよかぎ、しいまいた奉つて仕へつれ、ぎそたうxかたたっ.だけ.老いて此世の限りも知らるゝ今に至つて恐ろしき當御おそこなびごとたおのぞ屋形を頭に戴き、ごれん恐ろしき此度の如き戰塲に隨むかと思へは未錄ながら、み〓かつちうつモひ御笑ひあるな、しのをきけふ甲胃を着け初めし日より忍びの〓を斷る今日が日までのながゆめCめほわいじんせいまんにちあま長き夢が一時に眼の前に湧き出でゝ、ひさとハ人生二萬日餘りの非を諭すやう思そゞろきこりやましづとしやうがいうらやはるゝまゝ、なに何とて弓矢取る身にとa坐に椎夫山賤の賤き生涯が羨ましく、うまきたあたはまれなたるけ노ひたすらわは生れ來りて證年の六害に近うつ父ひつ今日まで經しかと貝徒撰如みはわれらisしよもつみ漸づるなるが、よofなにバゴこれご我等に比べては音物も讀それし美濃殿は何と思はるゝととそうぜんかたかみ末は變さへ少し曇りて愉然として語り掛くれば、いさヽかかなしいろ美濃も些少悲みの色をねこうかしゆりどりいたれおねごそわ面に浮べながら、修理殿の云はるゝところは誰の胸にも恐らくは湧けるないおぼひいミひがしかた:あかところの想にもやと覺ゆるなり、み日の沒る前に東の方の山の明るく見ゆ六十四ひげ男ごとナ3かたながゆめいまこゝろ30いる如く、過ぎ來し方の長き夢の今の心に映りて出づるも、ナせまいのちh 2明日に遁れる生命をもてる我等が上なれば怪しうもあらず、らけおんみたんそくみなもつとも貴卿の歎息も一々皆道理さうゐなisらなるには相違無く、そのこヽろも口にこそ云はゐ其意持たざるものも少かるべし。すくなさなにさとこいたれど何事も此處に至つて云はんは聊嫌無からず、いさヽかきらひなたくち あしたゞ返す〓〓も口惜きは、たけだ武田の御家に天運惠まず、ひつてんうんめぐたたしおちびなばたすエい.ごと我輩の忠義も猶足らずてか明日の一戰に及ばんことなり、"かCゆう云はるゝ如く盡に翔ける禽ほどの自由も身に覺えず、み〓またふかぜみまかぶな又吹く屈に分を存せて思ひも無げに飛ぶ輝の如く良朗に一日にてもとてふごとのとかミことなわれらこゆめまぼろししやういまみな てんたる事無き我等が此の夢幻のきこりやましづけうがいけ一生は、ふうらや今更悲しからぬにもあらねど是もさらかなこれ皆天なり、權夫山賤の境界も今日こそ談ましきものに思へ、せん くんS先君の如き御殿明の御方に逢ひ奉れば、ごげんめいあヨラをとこうまかひきみび上あはれ男兒と生れし甲斐にはかゝる君の贖ゅ尾に附してなりと千里を行きて功を立て名を成さんものをと、心勇みて、こ)たななこいろいさじやうぶつうけがしいとあそ成佛も肯はず死も厭はず、ちうもゑごほうこうせあらずや、おんみまたやまがたとの血の汗かきても打奚みて御率公をば爲しにはそのたしよし真卿にせよ叉山縣殿其他の諸士にせよ吾輩にせよ、かわれ5いづれも其十一七十四
にいはねちひやと2な肉に件を包み血に久を宿せる上からは爲すとと無くして死ぬ凸同士Lミニレなてふとりまなか〓〓〓禽なんでをは學びてあるべきものにはあらず、しめりとのされば修理殿もみわれ5 h 5ららふこうこヽろよし思ひ見られよ、我輩にはまた我輩相應、き武道にかけて快き思ひも爲て來しものにはあらずや、はて世間の面白きは那の道にせよ我知らず我からあなか·しろとみちわれしわれはゑロ、ゑみととみちせ微笑むばかりのこと、その微笑を一度にても那の道にてか爲しことあらば我が身ぐらゐは其の逆に捨てゝモみすやおたみぶ遣るとも惜むに足らず、美濃が思ふには人と生れて何の道にもたづさはらで眞實徹底の微笑の一つもせずしてど2なにみちまことてつていゑみをはピゴみあんいつい〓終らんこそ悔しくもまた差かしけれ、決定に身の安逸は云ふに足らず、吾輩はしけふナふだうしせんぎをの〓〓ういづれも武士となりて今日まで過ごし、武道の至極の詮義にも各自得るそのおの〓〓ロ、ゑみむくひとだなべりかたないのちところありしなれば、あたすはづみ其各自が微笑の翻として角ても兎ても槍刀に生命てふとりきこりやましづうらやcerは與へで濟まぬ筈の身、しゆりとの蝶禽樵夫山賤は淡みたうても羨まれず、修理殿ぶんみこどばごとしさいあし貴卿の言葉の如きは仔細ありてにあらざれど聞くもの惡く取做さは君をきとりなこち2.怨むる言とやいおわれ'われち로およ云ふべき、返す〓〓も我輩はたゞ我輩の苦慮の及ばずして八十四ひげ男ばんやかたよしなおんふるまひせまつ御屋形に山無き御振舞を爲させ奉るを〓くべきのみ、なげかやわれ5みみづcacろくわうだい數にもいらぬ吾輩が身は見られよ朝上の彼の廣大さる天ビ早上の此の際進知らぬ地とそらやくかこはてしつちあひだちいさらとりいらなの小き塵、取出で云ふべきことも無ければ、しゆりとのたるしこたるしュむつしでハ修理殿笑ふて仕舞ふ笑ふて仕舞ふて腔まじく死山の山路の一番二番、て、やまぢじんばんプかはさきかちだcmかうべたてならむどうてつ三途の河の佐々木梶原、もんない駒の首を立其べて地獄の鍵の内內に棄入るはかりの事ちやまで、3いことウファハらフアハハハハフウうちわやーきミないとうあやまとと打笑ふに、氣作の內藤は我が過ちを遂げんとおな5もせず同じく笑ひて、いかみのとのいとほさうゐなかにどちうむ:われ"ことば如何にも美濃殿の云はるゝ通りに相違は斯種忠義を勵む吾輩の百葉は賜かれず釣則つれの云ふことのみを無し、きてうかん5らうなんやかたおんふるまひなさけな用ひらるゝ御屋形の御振舞を情無く思ひし餘り、·sあまらんかうこゝろよふとぐむいだ此時候の快さに不圖愚痴めいたることを蒸し出されて、くうたまさとよしやう支えをは口に出せしは昌豊一生の過ちの終りでがなあろう、たとてうかんぎつねさりながら假令釣閑狐め等吾が言を聞きて何らわcetハヽハヽきなにこんとかれらおとといふとも今度は彼等の賢い口る此の員量が不在を見舞はう、isこさまとよxすみユ六九七い彼等がことは云はずもよし、かさくちおしみとのおんみいたヾ重ね〓〓口惜きは美濃殿貴卿の云其十一木代
ごとの比にまことわがきみつうばあひいたこtoせんかはるゝ如く、吾輩の誠の吾君に通ぜでかゝる塲合に至り、故殿に泉下にゆんざんようわさもたかなことて見沙しまゐちするにりなま得を漸ししまゐちすることの昨はぬ事ぜん ねんぐんぎ:きなかさかわあやまちかれらり、それにつけても前年の軍隊の折期長坂を農のたる我が違失は、彼等いやましわがきみあれたあひだしたセcaまさ〓Iをして意増に書君と否輩との間を隔てしむるやう爲せし毒と、昌豊は取わおの 〓〓くわいこんじやうえたまをれつとうざあひたがらおの〓〓別け各位よりも悔恨の情に得堪へ申さぬ、一列同坐の間抦なれども各位ちうぎむまをひつきやうわしりよふかてうかんはの忠義をも無にさせ申すは、早竟吾が思慮深からで釣閑を激させしよりここのよおいあいみはやながこんにちいまの事とおもへば、現世に於て相見ることも飯長かるまじき今日たい今。まさとよつヽしおのく〓わそこうわいBitおの〓〓ゆるたま:昌豊謹んで各位に吾が疎忽をば詫び入り申す、!各位赦し玉はらば思ひ置3人なまさとよこヽろよしう.まをみな〓〓か わd:くこと全く無く、昌豊快く死に得ると申すものにて候と一同に對ひ首をaかくなこゝろそこひ法律 言こsな下げしは包するの無き心の席の無邪氣に優しきほども、見えて、小見も馴2せいa 9〓〓ねんやまがたつきしやうぎはなるべき風情なり、先刻より默然たりし山縣、突と身を起し將凡を離れて(0 =てうごきうないとうばい治らとの わび口よりも先づ手を動かし、急に內藤を制しながら、修理殿謝罪ることもたれおんみうらかうみなてんめいみとのさうござらぬ、誰も貴卿を怨みはせず、斯樣なることも皆天命、美濃殿左樣十五ひげ男かいのぶふさうなではござらぬ歟と云へは信房も點頭て、コき:5gとのわだかまなたらをのれt修理殿が蟠り無き心より自己をい實むることあるのみと我が云ひしをは身に取りて、みとてうかんのしさ釣閑を罵りしを悔いくかひらるゝは然ることながら、なたれこのうちしゆり悔いて甲斐無し、とのs誰か此中に修理殿を怨まうあれもみなせんなんものゝあるべきや、あひだたす書等はいづれも皆戰陣の間に助けつ助けられつしてたすけふいたそこそこしぬ今日までに至りしもの、どうし底の底まで知り扱いたる同士なれば相互の過失あひたがひあやまちろゆずは有りしにもせよ、忘るべき間なり、かことあなが法國とのあしまして彼の事は强ちに修理殿が惡きやくいあいかりしにもあらぬを、つしゆりとのすか隔意がましき挨拶は管理殿拾てられて然るべし、さてンのぶふさまをなあすせんおの〓〓それは扨置き信房が申すまでも無く明日の一戰は諸君必死に决められしひつし3Mのぶふさぶことなるべきが信房も後れはせじと思ふなり、たけたおんいへかたむとききた武田の御家傾くべき時來りしや依人等の言のみ用ひられて吾等が言は兎の毫の端ほども用ひられねいじんらもちわれ〃든けさきこちち〓ず、はいかん1/2はかりごとた血を吐くまでに肺肝を碎きて課計を立つるとも、中央社はがねgずはさきをふんせん刀の刄金の絕るゝまで鎗の穂先の折るゝまで奮戰するとも、いかi5なえきなういのちおしごじつ如何でかは功を成し益を成し得べき、きいながら生命を惜み後日を期して生き長ふるる世に有る例なれでも生き上あためしい其十-一十五
おんいへほろみしのいさぎようちじにて御家の亡びんを見んは忍びぬことなり、にこゝろこゝに潔く戰死して二無き心の程をもあらはし、ほときみ君に報ずる微志を遂げんと、ほうびしとからかた〓〓rec몸思へば方々と語を交へてこかはむつこんじやうはやけふかぎたいへいふ手を取り交して睦みあふも今生は既今日限りなり。cよなかわれ ひと〓あしゐはせpegひかしたてつ太平無事の世の中にぼうたま我他とも生れ合はさヾる幸福には、xなか劔の光りの下、鐵砲の丸の響く間にいきしにがまじは与たいにこゝろがうおくきごゝろはたらて生死掛けの交りを結べるなれば、かた互に心の剛憶より氣意の働き方までしロcoまことと知り抜いて、あ露いつはりもいつはられもせめ眞の朋友を持も公ひたるが、さんくわいけふ部このよおろかみ%よろひそでつ6 is參會も今日と限りたれば、此世は愚未來まで鎧の袖を聯ね行くよく〓ふかえんかそのまにいる<しゆえんcafera深き緣に惕らむ其具情を汲みあみて画書をなりと惟したけれど、このときこの此時此ちなにやうのこりおほいくものた地何とすべき樣もあらねば殘多く聊か物足らぬ心地するなり、こヽち3位み幸ひ、見られよ、な村のおにらふをき治水のとくくくと此處に沸き居るは我等が及なゴ重しみづこふをおれしくヨもふにこしみづなぞもまむを待ち設けつゝあるにも似たり、c此の〓水を汲み酒に擬へ、こゝにいさヽかせいやんわかれおしかれしここいろおなみちゆ聊生前の別を惜み、に兼てはまた、死後までも一つ心もて同じ道行き同じちかせんくんだととちかひいかないとうどのく即下に先君の御許を訪ひまるちする觀ともせんは加何にぜや、內藤殿、二十五ひげ男やまがたとのつちやどの(34)とのかさるとのよかた〓〓山縣殿、土屋殿、眞田殿、なにおばいい笠井殿條の方々も何とか思すと云ひ出づるに、ないとうやまがたしゆくせんㅂじゆつくわい内藤山縣は肅然として馬塲が述懷を聞き居けるが、きゐいのかみとのたれいろこといしくも云はれたり美濃守殿、れ誰云ひ合はせし事にはあらねど、がかれしかれおもれしたがひしあをとこどうし我が思ひは彼も知り彼が思ひは我も知り、かんたんあいてらものゝふ互に知り合へる男見同士、なかたいみなハラかくご:こまとるナ肝膽相照す武士の交情は違はず皆一樣の覺悟决めし此の〓欒、(ロンにんちにごよどなしみづくこふさは〓み透りたる心とひとしき漫りも澱みも無き溶水を淡まんは酒より相應しかるべし、caなみたかたここたと堪へぬ淚片手に答へぬ、少し下りて控へたる土屋直村、〓ひかつちやなほ むらつちやひぜんさなだまさてるかご〓たかとこかはくぼびんごをやなだもりたかそのたしよしやうら土屋備前、げんぜん眞田昌輝、笠井高利、川窪備後、かつべ小日田麻高其他の落事等も注然として首を脩しつゝ咽び居しか、ムむせゐビビどのないとうどのやまがたとのはじめおの〓〓馬塲殿內藤殿、ながとしつきこにい山縣嚴を甘として各位にも永3年月の間御懇意を得たる我うちごxわれ等今日、け上よして掴にはあらずとも消水を汲んでり頃の情を盡さんこと一こしみづくひごろじやう(ご期の本懷至極、ほんくわいしこいうれぞんたいをとこしゐがほ如しく存に候なりと大の男見が强てつくる笑顔も中々あたなか〓〓はれなり、ビ馬塲が從者に意得て槍稀に水を汲み來れば、じうしやこゝろえひおけみづ(きた〓のかみしづかこ美濃守徐に腰にさみづのみしやくぬいたcyと差したる水呑杓を拙き出して時に取つての盃とし、さかづきほはここな一杯干して言葉も無其十一
ないとうわたないとうむににやまがたごやまがたいか〇米く内臟に渡せば内藤も同く干して山縣に擬す、さなた山縣より以下土屋眞田としだいくをはのふふさたちあがこち上むね次第〓〓に酌みかはして、終れば信房上立りて、あら心地快や胸すゞしたきみづさけのむかししはねしいこのひや瀧の水をは酒と飲みし徃於は知らず當にも認み入る此冷かなる眞油ヨしや、みづのんどくだもろともAうちけぶよそのあくたび喉を下ると諸共に身内に通も居たる世の其非次は消やし去られ、きさ水の、きんこつしくみなこはりごとすきむからだ而官節々すべて實水の如く澄み切つたる無垢の身幹となりし心地、こヽちこいろひ心引はやてんこのよなまよひのこむなこのうへかるゝことゝては既一點も此世に無く、迷の殘る念も無し、いで此上はろすたゝかひ%でこぶんや、かたおんめがねかなかうしうふしさい明日の戰一期の思ひ出に故御屋形の、御鑑識に叶ひたる甲州武士が最ごさまみおほほねみしやどとしつたい당ねつけつ期の態を見覺えよと、骨は縷拆げて絲と飛ぶまで、叱咤の氣息には熱血3ムあゐいへやすのぶなかsぎの霧を噴くまで荒れに荒れて、家康信長め等が膽を落させ吳れんず、あこちよ唐さKSOてきぢんかたに"りんぜんさこゝろよら心種快や胸液しをと施に敵師の方を呼眼みて操然としつ然モ快でせうそのおもてしんさいあふとしなみよしわみこヽろブ笑を洩せし其面は、神釆溢れて年波の寄せし態をも見るものに心付かせやまがたないとうそのたもの=たちあがいまかたながやぬばかりなり、山縣内藤其他の者も共に立上つて敵の方を眺め進りつゝ。(九九九)みのどのぞハ、ンEないさぎよあ〓吾等とても美濃殿に劣りはせじ、思ひ置くこと更に無ければ、潔く明日四十五ひげ男けつせん。ちとおもしろものがたりことしいだは血戰して、のちそのみやけばなし些面白き譚になるほどの事を爲出したる後其土產話を携なづさせん くんたづヘねるて先君を尋ねまゐらせん、ないとうそのたかわらこっとわらひアハヽと笑ふ內藤の其高笑ひは全くの笑cateきpreはつなれども敵若し聞かは頭を削らるゝ思ひすべく、ぷしゆりどのことばおもしろwしやまがたまさかげのペがね修理殿の言葉の面白や、我もたゞ死ねぬ山縣昌景、こんじやうぼねいきた一條錄のやうな根性骨を氣息の絕ゆるまで續マかせて、こゝろよsしあかおによ供く狂つて死んで吳れうと赤見と呼ばれし三郎兵衛が撤出したろ&なげだごんみかたあすうな一言は來力が聞きてる一明日の狂感さてやとあるはれて物まにいきほひヽのすさまつまるかはくぼさなだかさaめん〓〓たがひ土屋川窪眞田笠井の四々も互に顏を見合かほみあはせて胸中の無限の感を淋しnむゆんかんかいゑかたほむらびかたろすき片類の笑に語り、ん。8めがとするとみわたいで〓〓明日はと思ひ决めし眼稜銳く見を渡り、なれいしゆくさつこ53者何とも云一ぬ肅殺の氣の此の一塲を藏へる折しも、3tこつぜんうしろかたはたおさなごこちヨ忽然として背後の方に、追ふかすつかの幼見の心に年かせぬことありて父とも好きも塩からち、は中ないおほごろき出でしごとくの大聲あげて、なこゑすばやないとうきつかへりだい おんわあつとばかりに號く聲す、敏捷き內藤大音あげて啼き玉ふは誰殿にて御坐すぞ、なたまたれどの屹と顧み、はこゝろえおの〓〓うち心得ず、各位の中さなださのおんみうしろにはあらぬよな、はなかんばロそれ眞田殿貴卿の背後の花香しき村の木〓の小篠戰ぎこかゆをす、そよ其十一
ひとみもん産いぶかぢんせんかたてあゆて人ありと見ゆ、よ撿め玉へと不審れば、なにもの陣扇片手に歩み寄りて、何者とまさ昌輝詰り問ふに、てるなたとこのとりこざじんみおここなたあゆきたしうじん此時小値の間より身を起して此方へ歩み來り、衆人のめあつがぶすわおの〓〓さわ眼の蒐まる中に怯れげもなくどつかと坐りて、たまかさかだんじやうてたねんしたがかいづあまたあるとき各位騒ぎ玉ふにおよばず、これは高坂弾正が子に多年從ひて流御に在り夕敢時は通後時に姿をえちごサすがたかくをみレたまかたこのとなる居りしゆゑ見知り玉はざる方もあらんが、てをかさ〓頃日叔父が手につき居る笠井ないどう めうたいろうたかひでまをの肥後が甥にて候同田大六郞高英と申すものにて候なり、をとこと云ひつゝ男たらるしこひゆxなつめSあかむちは頭を搔け、2mm黑深の如き報聲生ひたる大棗の如く紅き同をあげて日ら明あかしたり、ピやまがたほしあ名しひと〓〓かごゐとの局助山縣を書として躍て知りたる人4は等井殿なりしか大六あいどのうちとえがほゑしやくこのごろおもてみ殿なりしかと打解けて笑顔に會釋すれど、レ頃日而を見知りたるはかりのないとう內藤を首として、いさ、かはじめ在なかまだ言葉さへ交したること無かりし眞田川淫等はいづことはさなだへうぶなisなさなだかは くぼられも聊けヾん顏、す、エかおまじ中にも眞田兵部少は、つか〓〓と進み寄つて我も同じこミうさLはじぎょいうく小草の上に坐を占めつ、ごでんき初めて御意得る、それがしことは御存知もあかげんたさゑもんのぶつなおとへうぶせういふさなたまTheらん彼の澳太左衛門信賴が第にて兵部が転眞田眞輝と中すもの、まな,でん貴殿が六十五ひげ男かねほくこくひさいこ〓ㄸ豫て北國に久しく入り込みて御坐せし由、논みつ〓〓しやうちいたかさみどのをひごだいどきやうご密々承知致したりし笠井殿が甥御の大六殿よな、ごこんじやうたのまたと向後御懇情賴み申すと解けかねながら挨拶すれば、あいさつまをぞせつしやかはくぼびんご申し後れし拙者ことは川謹備後、をやまだそれがしことは小山田盛高、:たをばたびぜんわほりむて小幡備前は我がことなり、스もんやつがれし堀無手右衛門は小生なりと知らざりしものでもは皆様みなつゞBri (さうゐげんざんいて同く草に坐し初日九參の口誼をせしが其事終りて昌輝は高英に打對ひ、こうぎそのことをはまさてるたかひでうちむかいや笠井殿、かさるとの9でんたいまものかけないおんcat賃殿は只今物陰にありて大言に打泣かれしやう存ずるが、そんなにゆゑなcまいわれら何故ありて泣かれしぞ、こゝろえがたLほい愚昧の我等心得難し、きたまとみない仔細あらば聞かせ玉はずやと問ひかゝるを皆まで云はせも果てず、は〓〓ひこのかみたかとしつちいはやまをはねあな叔父の肥後守高利は土なき岩の山の如く骨のみ荒れたる老の面になをにめて大六を睨め、おもていかりうかだいねだいろうその其方は、:うつけ白痴とも思はざりしに何と致せし、ショなにいたハみぶんちやい大六郞ばとの低き身分をも顧みず馬塲殿れき〓〓たいしん3じらはにめ嚴々の大身がたの打攝さて居玉一る後降に滯テ居たさそれさたまものかげひそゐきに、おほごゑた大聲立てゝ憚りも無く何をか泣しぞ、はヾかななにほえないとうどのご上えんいさなだとのと空內藤殿さへ御不審あり、云一、奥田殿が問ひ玉ふに、ゑゝ、ゑゝ、み見たくも無くぼろり〓〓と其のなモ其十一
あかCSふほつぶきれんあつたなかたいしはい紅い面に大粒の涙を傳はらせてまだ泣きくさるか、語れ、云へ、仔細を云へ、い云はねか、い云へぬか、いゑい、大六郞、だいでつおのえ汝は心でも狂ふたか、こちくるうつけ白痴ぐあすねぎごそになつたか、愚になつたか、よもやとはおもへど明日の戰が恐ろしうなおくれいのちあやふそのなみだこたで당ためつて怯氣がついて生命危さより其淚か、答へが出來ずばこゝを立て、女めふかくモほえづらみなたすさwえん々しい不覺の其の泣面、見たく無い、立て、退れ、行け、緣につながる164ごあナしけふおらんしやうしロ此肥後の明日死ぬ今日になつて汝は、一生知らざりし愚にもつかぬ差かき·8われらんしんたえりがみにつひきのしき思を我にさすよな、亂心ものめが、立たずばと領を製み引退けんと80t÷coだいろうなみだひ生こまぶまたすれば其手を振拂つて大六郞は涙の間より聲をり、き叔父貴、待つしやさわンくれこちくんたいなほもとだいれ、騒がるゝな、怯氣もつかず、心も狂はず、大六は猶元の大六、もとうつけいまさらなこいろみだみだより愚痴には候へば今更なるべきやうも無し、かこのほうおの〓〓と心が亂れしか氣が亂れしぶぎやくそのた歟とは此方よりして各位に、問ひたきまでにこそ思ひつれ、逆に其方よそおふこうなさけなさなだとの"たづねこのりの其の仰せはいよ〓〓以て情無し、眞田殿の御尋問もありたれば、此ごおよやくなぐぞんまをまをなみた期に及んでは益無きなれども、愚存のあらましを申さんか、申すも淚、八十五ひげ男いるちゃんたいことばよぎこたいしんおんまへおそ思ふも淚、云はむ言葉も能くは覺えず、くわごん御大身の御前恐らくは過言あらはかないとうどのごふしんニんも測られねど、おうまを內藤慶すら御不審とある上は一應申すべし、だいこんてうひいあさぎりこいちひとりたちい大六今朝日まモル出でず弱發西方を得むる頃より一人立由でゝ效陣の模様をてきかんやううかゞかまたあすじんぜかあしばみさだ且は又明日の人民の願けでころの足塲も見定め置かんるのと、をくもよこはし雲橫走りのぼごろあちこちめぐ日のさし上る頃までホ西を巡りあるきて歸りて見れば叔父は在らず、かへみエかおのく〓もろどもちせいみだほで聞けば各位と諸共に地勢の見覺えにとて出しとのこと、われたびみめぐ我は一度見巡りしくりかへそんなンあとゴしょく女れども銃窓して損無きまと然を追つて處る発ぬし末此處に來りてすそこきたおの〓〓まとゐたまみうわれピとのさの團坐し玉ふを見受けしが、おの〓〓じんみおぼ我は馬塲殿を首めとして各位にも御見受えなしやうしんものふんざいあるか無きかの、こいい が小身者の分際なれば、こと〓〓しく差出でんも如何とぞん存じ、あれなる樹蔭に控へ居しに、こかけひかムおぼろけするざじたいごと事ならず、こいかジョまよ髄氣ながら猜せらる一坐の事態たヾ。ぼとのやま是はそも如何にと思ひ述ひし折しも異塲殿山縣廣内勝慶等ががたどのないとうとのらたちあがてきぢんかたうちおかにんいことば立上りて敵陣の方に打向ひ、はし〓〓き心よげに云はれたる言葉の端々、洩れ聞けまろすぜひしきはなば亞しく明日は是非とも死にまめられしに選ひ無しと令新したる增jpgがつてん%かな其十一
ぞいますこはやこのば당あはしさ、之ト後れたり今少し早く此塲に來合せなは、みぶんちが身分の差違はあるにし7.しんせんそのかくごきはせよ思慮の淺深はあるにせよ、たまのそそおと其覺悟决め玉はざるに臨んで、こいかなかうやうちうせきば其處に跳り出で叶はぬまでも、そのやまかたとのたいとうとのおめ甲陽の柱石たる馬塲殿山縣殿内藤殿其他の各位にふの〓〓うちむかぐぞんまをのあしいさ·おいとけつしん打向ひて愚存を申し述べ爭ひ諫めて、と其御决心を遏めんとなすべかりしくるれしぶんやかたごユ於今てきうんに、あら口惜や、御屋形の御不祥か敵の利運か、ときすい時ははや過ぎて、言はかあすむなおんやかたとここうむに甲斐なく、いさうがい明日は空しく御屋形に取り股肱と云はんか爪牙と云はんかうしんつはものにはたの。たのおの〓〓お甲信の長工が置とも塩分府とを頼れ各位を憎き〓めきに委ねんかぐてきてゆだぶだいだい台こほりなつめa思へば思へば大六が胸には氷の張り詰めて、ゆくてのぞみ眼に瞻し前途の希望の燈も墨磨り流す黑雲に全くすみすながくろ〓ことに鎖され果し心地、せてこヽちむねんしんぐわいいことば無念とも心外とも云ふべき言葉を存じ申さず、ぞんまををんな婦女貧難の愚痴には似たれで高坂殿のあはれ此の陣中にわらペぐちにかうごかどのこぢんちうおはおの〓〓ごふんべん坐きは各位をしてかゝる御分別はあらしめいで、すたま濟まさせ玉はんものを〓かんたくわうこうじやくはいそれがしごとまをと遺憾に堪へず、なこひたすらし黄口若輩の小生如きが中さんは島濟なれど一向に死をのぞおの〓〓どいけんしんもつだいがてんのみ夏まるゝ各位の御意見は神以て六六つや〓〓合動まゐらず、けなはらん甚た御十六ひげ男うらぞんまをやわたぶんふるなひひ恨めしう存じ申す、つき屋形の御振舞日に月に、かた産たまてうかんおほゐことばよからぬ方にのみ傾き玉ひて釣開大炊づれが言を用ゐ、らつみartちうぎLかんげん七海とセット元/五みいは耳に忤ふ忠義の士が諫旨は露取りあげ玉はず、ごとけ偏に天魔に魅られて御坐すが如き今日比頃、2このごろけいつみ〃たまおの〓〓v.しゆうかもはや百計盡きたりと見限り玉ひて各位が、くつがか生きて主家の覆へるを見んよりはと思し立たれし左たさなにゆゑおうさいは然ることながら、おうニかレ協何故一應再三應思ひ返しは仕玉はざるや、うけたまごぜんじつぐんむ관きぶ承はり及ぶ前日の軍議の席にての一部始終、古老の御三方が血を吐くはかりの御しらころうかたちはごくかんむけ漫ながさあとベ苦諫も無下に斥けられ、つゐしやうおんやかた%長坂跡部が追從のみを御屋形には御取り用ゐにとらかな100おしおのくなりしことの悲しさ口惜さ、いよ〓〓こうよハす空各位の愈此の憂き世を思ひ捨て玉ひて強指はたさし100みじおんりゑ物によく見る文字の原離機土欣求淨土ととごんぐじやうときは决められしは斯申す大六とてもはをだいむリぞんまを無理なりとはなか〓〓さ存じ申さねど、すゐまをなおじなみださそいや、然もあるべしと推し申して同じ思の涙さへ調はれぬでは無きなれど、なをとこ〓9けこ、こゝが男見と生れ來て弓づか弼太刀〓握〓る身の踏み世一たちづかいぎみこたせだいねばならぬ瀨かと此の大六は存じ申す、こぞんなを空きゆみやとみちらよも過りには候まじ、ゆみやとみさ弓矢取る身の辛きことは弓矢取る身の避くべきならず、其十一
いきみしれいききみ%·ためくる生きてはもとより君のため、死して属鬼となつてまでも君の御爲に狂はたんをとこしうじうちぎりな2はいせいちうむおんこそ一旦男兒が主從の製を爲せし上は本意なれ、さるを精忠無二の各おのゴこのよナたまひぎまをニッご位一國に此世を捨て玉はんとは、是非なき義とは申しながら、口惜くも思び限り玉ひしよ、5たま生ごぞんしんげんこうなほございせと中さずとても御存じあらんが僧玄公預御在世の時、えいろくほうじやうぜめせつごとたいうふりつみかさまごごかはかは永祿十二の北條攻の節と覺えしが、大雨降續ひて水量增り、酒勾の川のこがたみ層ロじかのでんそもんさのせぶみてせいよはん越え難く見えたる砌に、初鹿野傳右衛門殿瀨踏ありて、手の勢二百餘人を下知し、けわれこの我此川の先陣ぞ、かはせん なんつヾ續けや者共猶豫ふな、ものどもためらうま馬の頭を川上に向け、かしとかはかみむsあとわこゴ3さがのためがた¥たづなしばかち較の跡輪を越して三途に乗下り、箆撓形に遊がせて手綱絞るな、步卒はててとりく;えINEちが産團つて渡れと、しんまつさきうまおよ手に手を取組みて、鎗の柄取交へ自身眞先に馬を游がせす進まれしに、ぎ노みづけむさかまく逆卷波は馬背を洗ひ、なみうちピたせいあらみよろひ鐙の總角水面に躍つて、いさまあげまきみのうちこにだヾ唯指物の將さしものそのおりしんげんよう棋の駒のみ水煙の中に立つて見え、さも勇しく打越されしが、其折信玄こうせうえふけんどのぇ〓じかのメゆうすぐよほうぼobこゝろつよ公は道遙軒殿に、彼の初鹿野は武勇勝れ好きものなれど朋輩を凌ぐ心强われ、しやうぎこまきやうしやこれかれそのければ我愛せず、とき將状の駒に香車といふ字をあらはせしは是渠が其騎の二十六ひげ男ミ,けつdet如く進んでは决して退かじといふ念をは寄せしならんが、にち上なしよゐおんものがたよし無き所爲なりと御物語りありし由、小生は耳に覺聞えぬ、としそれがし!! .おの〓〓めみたまらん、〓七四四どのしんゆんこうまことご各位は眼にや見玉ひつ利處曆殿を信を公の民實御當認無きはでならは如何で御暇のあるれんみんないかふんうわさゆんことばさだこいうくんべきや、せんくんご御言葉は即ち御〓訓にて、だいおんしよげうきやうしや先君御一代の御所行に香車の駒の指こまさしSoは〓しよゐおんことば物を由無き所爲との御言葉を照らし考ふれば、てあんおわれひとハえあまること、しやかせつぼふかたはらいた後我も他も思ひ得て餘りあ釋迦に說法片圓痛しと思すかは知らざれと御聞あれ、しこんきこ100でんこどのきやうしやよしなあふ故殿は傳右殿の香車をさへ由無しと仰せられしにあらずや、しかわれ ひとかうやうりうわうりうまたの然るに自他とも甲陽の龍王龍馬とも賴みきつたる古老の馬塲殿、こあう世とのないとうどのやまがたどのないしおの〓〓てきぢん、か〓內藤殿、山縣殿乃至各位が、たゞ敵陣に突蒐りて、けつたまcうん果てんと决し玉ひしは、てんうんぞん時運か天運か存ぜざれど、武田の御家もこれ限りかと思はれて堪へんにも堪へかぬる悲痛を覺え候たけたおジョce ceひつうおほぞや、はしらいしぞゑおの〓〓ほんと柱とも磯ともいふ各位が皆亡せたまはじ、あの〓〓あとのこおんやかたらか各位はよかるべきが後に遺る御屋形は如何になり玉はんか、12バなおのくモおの〓〓それをば思ひ玉はざる各位にはあらざるべきが其の各位が此の决心を爲し玉ふにも至りしかと、こけつしんなたまいたハハ思へば思其十一
30あげこ、ちだいこcまを〓〃へば膓が扯斷らるゝ心地して、この大六は堪へ申さぬ、泣きたるが無理なおの〓〓むぎゅうからこと差にて候や、泣かざる各位が無理なりや、かくまで愚なる繰言を申しのべおのくうちいいき の院人々かたよても各位の中、生きらるゝだけは生延びて御屋形のため世にあるべしと、〓か店おん かたひとりンわひとリ思ひ飜し玉はる御方は、たゞの一人も御坐さゞるや、たツ、たゞの一人はまんだいぼさつすビめうじんいひがひかみはも御坐さヾるや、あゝツ、八幡大菩薩諏訪明神も云甲斐なき神にて御坐しんらながすへおんいへみせなたませいちうすかな、もはや新羅の流れの末の御家を見放し玉ひしか、もとより精忠むもゴひと〓〓その出やみかみ〓〓すこしBy無二にて御坐す人々のことなれば、其胸の闇に神々の、些少の光をさへな盗たゞちふるふたゝ5ゆっしおんいへはたらねげ玉はんには直に對つて再び描ける男士となり御家の方も働かれなさけなくちみしみわたさあくきこだゆうしゑゝ情無し、口惜し、見渡す一生は惡鬼すら恐るべき勇士のみなれど、じやくねんいしごとのいたまそのふぜいかたちなけまつたし寂然として石の如く物も云ひ玉はぬ其風情は形骸こそ猶完けれ死したるひとごとみごはしそのかけうすきと人の如く見ゆ、將に死せんとするものは其影薄しと聞きつるも、取るにたむたごとぐすけムかげうすひとみ足らざる冗語と思ひ捨て居しに今日はじめて、影薄き人を見る忌はしさ、かた〓〓いかかた〓〓てん店舗たまくさきはなみ得各位よ、如何に各位よ、天の日は猶墜ち玉はず、草木の花には實を結びひげ男と:とよ.人の念は遂げらるゝ世ぞ、よか、なきしぐれ復び世に返り玉はずやと、すはそら我々:ごとなみたあと時雨過ぎたる晴れ空に類き學あり如如を始め後の場々たる眼をは噂りて大會に講炎はらん〓〓めみにだいおんたかひだひとりいよこのときひさらおに意氣まき喚べと、pかうやうゆこん此時日頃は免をも控ぐ甲陽の勇士何十人如何なる思になんにんいかおはレブあめつゆさく沈みてか、しんしやうりきしたヾ雨露に古されたる神將力士の像の如く、ぞうごとみうごばた身動きもせず言葉も出さず、めとまんたれいづれも眼を眠ち首を垂て呼吸さ一爲るか爲ぬかの能なり、いナせていだいさといか大六これに眼を忽らし齒咬をなして坐を進め、はがみさナいひがなひと〓〓たい生まをせゑゝ云甲斐無き人々かな、大六が今申せしことに是非の沙汰さへ爲し玉ふ方は一人も倒生さぬひさたなたまかたひとり〓はごすよか、思ひ於てたち世にはわれど今一反立遊りて臨かんと思ひ玉はる方はいたびたちかBritchこんなニかたなミたれNoうか、かくまで市せど難感も有無の一言さ一發し玉はね御心強さの恨めし!?きんはつたまなんこゝろづよ20いかこうもたひとりい如何に此の中に唯の一人る生きたる方は御坐さぬよな、さよ、かた〓〓い活きんと仕玉ふ方は無きか、しかたわまをあやまみこゝろさく我が申せしこと過ちありや、うけたま御心夾しと承はりたる内艦隊は如何にか聞きふふ15品いかたまだいまをでうもつとも左大六が申し狀道理とは覺さずや山縣殿、こがた とのさなたどめなにごつちやどのかはくぼとのおの〓〓眞田殿何と覺しめす、なに土屋殿川窪殿各位も何とか聞き玉ふ、シなをむむ叔父貴も無理其十一
ぶだいこと元らにとは思はれまいに、ゑゝ、ゑゝ、大六たヾ一人、かくまで悶え訴ふれど、つれなむごん空ビとのやまがたとのcleとのよ情無くも無言にてあしらひ玉ふよ、馬塲殿、山縣殿、土屋殿と呼べともSukこたばとのビとのビとのこゑこゑこゑシニ全く答ふるものなし、馬塲殿、馬塲殿、馬塲殿と聲は一ト聲一ト聲に漸たか2たかやおとなつのうごみひく高く呼び立つれど、風さ一言なき夏の野に動くは雲の影ばかり、日によろひむしやすそショウィンうすぞみいろかげいまひくるかいやける鈍武者の祝より絵に乳まで滿星にに刷り行きて、淋しく光の亡するのみ、いまこe ceたかひでみごみぶんちが今は堪へに堪へかねたる高英やをら身を起して、身分の差達も忘れしや中央の床机に端然たる馬塲が側に膝行り寄り、ひちうわうしやうぎたんねんば広ゐざよ悲憤の思にひよんおもひっはしこゑすさふる一つるしならい連れて迸る聲法まじくも震頗を帶びて、かくても遂に死に玉ふか、生きな玉はねか、み美濃殿よ、めsoと云ひつゝ兩手を肩にかけて、いもろてかた盤石なんどを動かばんじやくうごきとゅきのふふさ80tはブたちあがだいす如くに搖り動かせば、信房ゆたかに其手をは脫しながらに立上りて大みかいたモ6÷あをさびごろふとられたけだおんいへわ六が身を掻き抱き、天空振仰ぎて錆聲太く、嬉しくも武田の御家に、和とのごとなはいgリしごくたれあらぞまを殿の如きが猶ありしよ、云はるゝところも義理至極せり、誰か否と申すわれ6とききたガレsきたし人は、さりながら我等は時來りロ、老いたり、死すべき時來れり、死す六十六ひげ男ばあひのぞがそんべき機會にも臨めり、し我存のみにて死なんとならば和殿が意見にも就くわとのいけんっときことばあひべけれど、てんめい時なり事情なり機會なり天命なれば是非反及ばず、ぜひおよわsoぃけんつ和殿が意じあま見にも就くことならで死を甘んずる我等が料簡、ちによれうせんすゐれうないとのみのきやうべん推量あれや大六殿、美このとき濃が强辯には候はず、このこヽろまんだいぼさつすわめうじん此時此心八幡大苦隘調訪明神も服覽あり天翔り玉せうこんそらかけなにせん くんみなきふ先君の御魂も知し召すべし、とうめてんめいせひおよおそ天命なれば是非に及ばず、わとのなはいまし一たまふし恐らくは和殿の猶未だ知り玉はざき節もあり思ひ割り玉はぬところもあるべし、いたたまなれわとのい空何はあれ、和殿は生き玉ひてあらるべきなれど死するよりほか忠節のしがしちうせついたかたはやなみむた既無き身となりたる我等が心の中推量あれ、こゝろうもすゐりやうひと たれわつ あきみさかたないちユみ人誰か我が仕ふる君の榮え玉ふを生命ある間に見んことを冀はざるべき、こひねが白まし〓のちh 5あはそれを我等は死して後我等を憐れと我が君の思さば非を改め玉はんかとの果取無き顧みのみを胸わきみおぼあらたはかななるしけついたにして死せんと决するに至りし悲しさ、なみなてんめいあきらされどこれ皆天命と諦れれ是是ゅひかみヽない非に貸すべき耳も無し、やませ非と云はるゝとも疚しとせざれば、らなにうれ是と云はるゝとも何嬉じからん、たゞこれまでなり、わどのごとこヽろよこれまでなり、和殿の如き快其十一
Peしえけふわとのかんたんusけんyえき男兒を初めて知り得し今日、ゐナたちましやばわこんかた和殿が肝膽を披いての其苦百にも酬い得=けふ:くわんせうもよはひまなで明日は忽ち姿婆の別れ、心を語つて共に興ずる一席の獸笑も催す暇無ゆうめいあいへたないふたヽげん ぎんいたみたよ'く、曲明相隔たりて永く再び見裂せざるに至らんこと亂れたる世に生れふしやういいとほい"らとたまだいとのわとの上あはせし不祥とは云へ最本意無し、惡くな取り玉ひそ大六殿、和殿は好らのこたまよいゐすたヽかひすのるいめおたにう生きて殘り玉へ、好う生きて明日の戰濟みたる後を生きたる眼にて、必よみ、たまのぶふさきつとシたのまを%あのまをひでたかどのずともに好う見玉はれ、信房屹度御賴み申す、御賴み申したるぞ英高殿、aやつぱりしBTゆんざんおそこれぎりいをはれうがんくわつ美濃は矢張死に申す哩、見參も恐らく是限ならんと云ひ終つて兩眼制とみusきびたいてとムけcatむと睜開き、緊しく大六が手を執りしまゝ、俯してつく〓〓と漿髯漢が面をうちまもだいぶか、ろうゆうしu aむ3·3ひ(まるいまこと打護れば大六も、思ひ說さぬ老男士が胸臆の無量の悲苦を推して今は可ばいだえあを〓むちじばしみっまじろきし荒も出し得ず仰いで美援が面をしつと少時は見節めて日的もせず、死すいおいわからふたりゆうしふみめあをみどうこうたがひると生くるこ老と壯を二人の勇士が傍して見る限と仰等見る眼き臨あいてたちしやうじ〓Keむゆんまいあたかはをりすがたに相成らして隣け生死の外の國に無限の爲を贈り交す折しもあれやいぞこたいたヾよ( 20なす4ほとヽぎすcaこ)み那處、空に漂ふ雲の裏に、か、啼きて過ざ行く杜服の一、二二二度いと領く耳ひげ男〓きたこつぜんわらかに落を來るに愈然として我に面りし如く信房の首を圓ふして撰仰げごとの〓;わ.やナリ로つゆいくしづくはげらうと異の趣學は次よりる深しく熟したる大六が面に水より猶於かねつやまちこほりなはひやヽぶらいでゐ老店零ち散りたり、いつより出居し涙なりけん、其其十二同じ空吹く風なれと梅散る里には風情淋しく、そらふかぜうめちまふかいこやなぎまかと立いのどかジャ世あめぎよふまゆ柳舞ふ門には眺め長開な言もせで降る者の雨も漁夫は屆をは織めて喞ち最夫は額に子を加へり、しわだC÷Rickて6よろこscoて悅ぶ習なれば、てなら一つ日の照らし玉ふところながら此處は武田方とは打こたけだ言うつかはないしんおそれいだて變つて、たいぐん内心恐怖を抱かぬならねど大軍といふを恃みにして外邊は免たのうはべとに角整々堂々、かくせい〓〓とう〓〓ものともちてはたしるしはやしごとたない其隊其隊の旗幟は林の如く立も列びて遙に員の高嘶きのEXINうまたかいなゝこゑきこいさまぷたかたほんなんいきはひやうき聲聞ゆるも勇しき織田方の本陣の勢の陽氣さ、すりまかぞたいしやうなたぬけめなのぶながレ隙間數への大將と名に立つたるだけ拔目も無き信長の指揮に、きぢよさい、なくしりよこまかいへやすかいぞへおそわてりなンひ如才無して思慮密き家康が介添な捕て加へて微はおに買ふ走くこと知らずの甲州武者といふ〓ろしきり、しかうしうむしやごそ十
れうけんなしそつすゑかたまりわがうたちに、白然各自の料簡も無く土本の木まで一回課となつて和合せるは戰ひ勝つべき瑞相と云はヾ云ひつべし、かざゐ: 5いされども美濃勢より出したる斥候のみのせいいだのみととたちかうぐんなんえいげんぢうもの二度まで三度まで立蹴りては、なか〓〓ちかよ甲軍の陣營嚴重にして容易近寄るこかなおかがたみつしよしやういろうしなさすがのぶながと叶はず犯し難く見えて候と〓げゝれば諸將色を失ひ、ま流石の信長も少cjたけひろいへやすらよp.どううちより大な: usのし困じて、竹廣より家康等を喚び迎へ、、一同打寄て軍議の席を開き、斥みいかくごとたれらぷる〓候の云ふところ是の如し、誰かある、別に思ふところあるもの無きか、しばた柴田瀧川何たきとか思ふ、佐久間羽柴は何と思へると上座より信長眼を配りさ=せレなとジ。じやうさのぶながめ心ざしよしやうなよといづれくいだて一坐の諸將の名を呼びかけつ問へど新も駅々として言葉を出すものもなはるかふひかいへやすとんさかゐ.中つぐB遙に下つて控へたる家康臣臣酒酒の酒井忠次物言ひたげなる面地せるハら無し、のながみ50さiなほこて語そこひかを信長見るより瞋を含める面を直して小手招きしつ、其處に控へたるはとく百とのまかきこされゐあかよ、ここい徳川殿の麾下に聞えたる酒井よな、か近う寄れ、進め、此處へ來よ、如何たつぐてきけいせいむんびなんみはやそのこたへしきとに忠次、敵の形勢、汝は何と見たるぞ、聞かむ、と旣其答を知れるが如せきこてうしかこゑろう〓〓몽とおそいろな、いく急込みたりし調子を樹へて聲明々と緩く問ひぬ、恐るゝ色無く進み出ひげ男たゞつぐれいわっておそでたる忠次一禮して首をあげ、たヾつぐぞんむねごんもかchaまつた全く違へり、たがそれがしかんてふううかゞ恐れながら忠次存ずる旨とは御斥候の言かつろゆめものみ小生則課を以て窺はせもし且は目ら斥候もしたるに、てきみかたなかばたヒー33mこのだいが敵は味方の半に足らず、うしろとぢん特に自ら好んで大河を後に取つて即せること笑ふにたるたむぼうふるまひしか堪へたる無謀の振舞、ぞうおんたいしやうおんはかりごとよかく〓これ然しながら惣御大將の、はままたしかめうにち御謀計に深々と、陷りたると申して然るべきか、せんうたがなみかたしやうり明日の一戰疑ひも無く味力の勝利に定まつさだたり、拂を打つ樓は外るゝとも忠次が申す旨は遊ふまじく覺るて優と符ちつち99たヾつぐまをむねたい能こたのぶながにつこうちゑみおうふれば信長莞爾と打笑て、應左もあるべし左もあるべし、ささおくべうものめみおくびやうものisいだことば臆病者の眼にて見て臆病者の日より出せし言葉は全く取るに足らず、まつたとたかいじのなんぢみきはうへこのたゝかしやうり海道一の剛の者の汝が見决めたる上は此戰ひ勝利疑ひあらんや、うたがてきけこるかうしんとやがそのいきほひくわんとうおうしうきりなびけ敵を蹴散し甲信を取〓ては其勢に關東奧州新虎けんこと今尋に取つて說るが如し、り、いまてとみごときんぜんて·ヨ·たいはいとと欣然として手近にありたる大盃を把りあげ、カラルニこヽろよあをたゞつぐつかう自ら先づいと快げに仰ぎ飮み、忠次、遣はす、受け候へ、そのさかづきちやくしのぶたゞさのぶながして其盃これなる嫡子信忠に振せ、こまらあつばれなんちぶいつ信長が子を海道一の天晴汝が武勇にあやからせん辭退すな、じたいくわぶんほうびめんぼくと過分の褒美に面目其十二
ほどこたつぐこヽろよのをはどそのぶたゞさぬかめぶながかさを施して患次も快く飲み終り恐る〓〓信忠に獣して額づくに、信長重ねゑたつぐなむぢぶ〓少こつのまひゑびて笑ましげに、志次汝は武邊はかりの無骨者ならで舞きへ舞ふよし。撈すくひまひまひじまんいた:よしのぶながぞんをしよ順家の斜とそらいふ外を日後致して斜ふ由を信じよつく存じ居らも所;)たゞつぐユどうな합또とうみた望ちや忠次一、さし舞ふて一同にひとしは飢氣を增させよ、一同も見度かのぶながみしよもうゑびすくひみうちとめいらん信長も見たい、所望ぢや、撈鰕兒を舞ふて見せよ、と打解けての命いななにごとぞんしに接觸兒の御所望は恐れ入り奉るaしよもうごそらたてまつに辭みもならず、ハ何事かと存ぜすでたゞつぐこよしごしやうちうへめかくたてほかる、るりながら既に忠次めの舞ふ由御承知ある上は文々しく躍し立も重なみやこて〓みななエふんめわらはづり成らず、花落の子振りを見慣れ玉へる側唄の笑ひも豊かしけれど、是ひおよ=ますこすさたちあが非に及ばず舞ひ申さんと少し退りて立上りおとゅみづさはるそこ會もせでゆる〓ととくくくににす寒の日かげのやちらかに壓ますみあそこZびみづこけなぶこモで透きて見せにけり、藻がくれ遊ぶ小蝦見めを、小苔嬲る小鍜たくろぞこご覧兒めを、田の畔添ひの小流に、」め片山みこざわゑびてん眼をとめて靜に見れば、あら、小賣しの蝦兒のすがたよ、天よひげ男てん天よクpeみまたつがしらり受けし武具をひし〓〓と身に鏝はふて、うたがおのづわら龍頭かと疑はす自然なる兜被て、かぶときその鍬形にかたどるか二"もと小鬚張り出して、くは がたこひげはだき餘立川ひげやりなぎなたcoる二つの長髯を鉛薙刀と閃めかす、たびまたなかし可笑の蝦見め、五"いで捉ろうよと、とを下り立つ男は丈高く、あらこざかしの蝦見の姿よ、」·たをとこたけたか日かげみづるしばしやつふなみゆらめく水は淺し、ゑび少時俯みて覗ふに、波しづまれば蝦もまた、あそやすみづごけなぶやす藻がくれ遊びて安げなり、水苔勝りて安げなり、」いかはせみ〓ごとはやわざとすは今こそと翡翠の沒るが如き提業に、捉らんとすればついとにぶまたぞろ、nエ迯ぐ、逐へば又候ついと迯ぐ、くる〓〓〓〓と追ひまはせばつにくちおしてひしばしみい〓〓〓〓のついと迯ぐ、こは口惜やと手を退きて少時見つむみづる水の面、sなみ波しづまれば頓てまた、Sあのふふふみゑびがらとうよろひきひげなぎなたかつ武者振りを見よかしに、海老然胴の鎧被て髯の薙刀ひらめかす奴、そこにもひよろり、こゝにもひよろり、ひとひよろりひよろ〓〓、ひよろ〓〓〓〓、人をいかPはこたかいでめふ瞋るか人に誇るか高く出たる眼をむいて、うはにらいきほひ示す上睨み、」其十二
やがたこまかりそめのわざくれながら己み難く、う此度こそはと大男、鵜のとりめはしゆろはてと島ほどに眼を購りて機欄の葉はどに掌をひろげ、捉らんとすれにヱまたにばついと迯ぐ、追へば又候ついと迯ぐ、ンくる〓〓くると追ひまにのはせばつい〓〓ついのついと迯く、逃がさじものとあせるまゝ、〇〇なこなにんみづこつあれたにしぶきと財までも無き小流の水は騒ぎて肩越せど、せラ飛沫は飛んで背を摸てふとゑてど、手に觸るゝのみ捉りは得ず、」大男、おはおとこた身長ならばもろこしの、けはたけ圃に立ちて首もかくれず、たなちからつきうすもろであかほあおほをこと努力なら搗臼を、双手に搔げて顏も紅めぬ大漢子の、こん〓〓こゑびにおろかみたちすがたはな小蝦見に逃げられて愚魯に見えぬ立委、かぶはるかゆびん花の香送る春風は髯のたきひばりたことかたたほつれをからかふて、なゅ天に雲雀の能が事を語り立てゝか鳴きて行く、」あめひぬれすがたひとみはゴわそでみる雨ふらぬ日に濡姿、人の見るめも差かしく、我が袖見もおぞましゝ、あら口惜とおもへども詮術なくて歸りし夜、くちおしせんすべやよまつ松のしで燒た四十七ひげ男にはかづくあばりく火のかげに、にはか!めいた急速造りの綱針もて、あさ急速造りの目板もて、麻いとかへるまたふめみたまあみ絲むすぶ鋆股、また悔むべき目は見たと玉網一"すきなしつ、CEF柳えだ'9 aだけさほぇろすの枝に綠つくり、さハnゆめたの苦竹の竿に柄つくりて、ひぢまくらねむ明日はこれもて撈はんと思ひ寐の夢樂しくも肘を枕に睡りけり、」はるよそらそめぬわらがらす春の夜あけてあからひく空を染拔く拜鶏、こゑなわた聲ほがらかに鳴き渡あみみちしばつゆ노れば、ををかたけて道芝の電點みしだき昨日見し流れのるとにすきのふみながたちよあそこゑびみづさけなぶ藻がくれ遊ぶ小蝦兒めは、こ〓び寄るに、こヽろやす水苔嬲る小蝦兒めは、心安けふわかよたのふるまげに今日もまた、我世樂しと振舞へり、」いま120あみうかゞ今は逃がさじ赦さじと網持をとばめて覗ひ寄り、よさたやすくusひきとモさつと撈へば容易も三尾四尾捉り得たり、またきあらおもしろやと又さつと撈へばひふたゝび三四尾、日aとゑおとろまたさつ〓〓とすくへば四五尾、ゑびこそもいかさわあるは五六尾捉り得たり、驚く蝦見は是は抑如何にと、騒ぎはすれと蜘蛛てうごとあみやぶありたなの圍に蝶のかゝりし如くにて、せおと網を破らん力も無く、跋ねて躍其十二
六十七ひとわらひりて、あがきてもがけど、よろひかぶとみはこ人の笑となるばかり、鎧兜の身を誇やりなぎなたeきのふゆめり、鈴薙刀を閃めかせしも昨日の夢とぞなりにける、」ELEぢんせんゆる모のちなぎなたと初は陣屋をもて較く與伊集は雄力をもて悔〓に癒と一つ烈しくみすくひあみなぞはげ田その로けふみvs其能をかしく與ありければ觀るもの思はず笑壹に入り、〓つぼいえびらたてうはやなしばし箙を叩き掌を拍ち囃して鳴りどよむこと少時は止まず、やのふなかきけんさやしろ信長いよ〓〓機嫌〓かに、耐白し配白しろし、Nとよまひたゞつぐみ時に取つての好き舞なりし、ないかかつよゑび忠次も聞け衆人も聞け、如何になんとくがはとの勝賴めは蝦見ならずや、さバかれみ何と德川殿も然は思はれずや、ふうごかいましばしじた彼めが髯を振り搖すも今少時の間にとゞまること、われらすくひゐみさ、と吾等が持つたる撈網にて撈ひて取らとほかつ15ゑびんは遠かるまじ、こゑ〓こヽろもちアハヽ勝賴めは蝦兒ぢや小蝦見ぢや、よことしやうしBたいげんさうといへ子いや心持の快い事かなと、え將士を勵ます大言壯語、あふSこゑびひとかつよりらすこゴるほこ家康もまた笑ましげに、仰せの如く小蝦見に等しき勝顏等少しの武威に誇るも、けやりなぎなたひらめむな鬚髯の鎗薙刀を閃かして空Samたしうし衆士の中には甲軍を稍忍るゝもあらん歟なれど、うちかうぐんしく自ら驕るのみ、おそかむかししんげんいまかつ놉ひじた昔は信玄なり今は勝賴なり、かたなんでううたが日を同うして語るべからず、何條疑ふところひげ男みかたぜんしやうさだろナおの〓〓すこ治かうかあらん味方の全勝に定まつたり、たゞ〓〓明日は各位が少しも多く甲ijゑびさのであひづちうひと〓〓みなかたcakまけゐ用の敬見を揚ばんことを望むみみと相細打ては人々警消を變かし府ぁすかうぐんひしぎいさみいきごげ、いで〓〓明日は甲軍を一、挫にして吳れんずと、勇をなして意氣込みたヾつぐ忠次は先に敵の形勢を覗ひて大繊推測りさきてきけいせい34えはかりひとあん四〇、得たりければ一つの計を案いだゐウいいよ量わしゆじんいへ子そばじ出し居けるが、今こそ云ひ出でんに好き機なれと吾が主人の家康が傍ちかエむね口上千のまそおゝしろくわたてちg近く寄りて思ふ旨を密に陳ベ申すに、其は面白き畫策なり、遲疑するこ〓たsoとその〓まをいめいこいいやすさつそくゆるとかは、橘田服に装く其旨を申し出でゝ命をなふべしと家康早速許しけこいろぶんdecさのぶながまえすおそさうおんたいしやうれば、心に十分の悅びを含みて信長が前に進み、恐れながら總御大將の御聽を煩はしたき事の候、Sauことよこたびかつせんてきみかたなかば餘の儀にも候はず此度の合戰、敵は味方の半たみかたすでじしやうはいすでさだにもやらざるのみか推の利るで味方にほに占められたれは勝敗は既なほこのうへてきはいもうはやナベろまりだるものにて候へで病此上にも數の股亡をあからしむる術こをせんたヾつくぐまみかかくまうをこしましく存じ候へ、忠次愚昧の身をもつて彼に角申さんは鳥手なれど知つまを上ちうぞんいさかぐぞんヨをてきたいしやうかつよりsて申さやるは不忠と有じ、聊か愚存を申すべきか、敵は大將勝賴はじめ屈其十二
レかたちかおしよそのこんぼんこ出の者共隊ガ近く權寄せまあり候一で其根本は比處にはあるで即ちすなはながしのざかたきんとをうたがなこんぽんうごの奧の力に陣取り居るに疑ひ無し、つし초さすれば根本を衝き動かさんに枝葉まつたこんやわぐんないやみまずよしかはわたの全かるべきやうなし、まつやまごえ今夜吾が軍一二隊闇に紛れて吉川を渡り松山越けんろてきしユたびのすやまひさまやまおしのぼてきつきじろの險路を經て政知らぬ間に意集山久間山に押上り、ひ敵の附城に火をかけて急に攻擊ち、39若ちまたなが又長篠の〓營も燒き乘本村に斬り入らば、しの5えいやのりもとおら9いてきだん9敵は二段に砍なうしろたちきこにたとかな唐り做されて、後を絕切られ小荷駄を取られ、I'こは叶はじと必ずともに周じやうろうばいでうおりぬその造みとほんぐんほ章狼狽すべきは定、きび其圖を扱かさず其機を見留めて本單より滋しく厭しうちただまかつよりらたとへこゝろいらたいせいなにすく打立て玉はんには府廳卷假お心は熱つとも大勢を何とも爲る由無よしなsみかたラブひひばん〓〓うたがな上しやうcas崩るゝ味方の渦に引かれて退かんは萬々疑ひ無し、たゞ不肖なれども忠次路じちよつくぞんゆんけゑかんとうたひき4ぷ次の地の理は熟存じて候、ぞんおんゆるしあはれ御下知を得て間道より一隊を率ゐ馳せ〓ぬからをは向はんと存じ候、こゝろうち飼育容を眼はりたく候と讀づきて云ひ終りしが心の中よきをたヾつくなんなCoffまかいバるには、好く申したり忠次汝が翌に任すと云はるゝならんと氣ひ居たるにぶまつたseのふなか뜨ぜんめんしよくかだまたつぐい思ひしことは全く外れて、信長勃然として面色を變へ、獸れ忠次云ふなひげ男いむゑきごやつさらちそう云ふな無益の顎をたゝく奴かな、バつたな汝は智略あるものと思ひたりしに描きませたいへい いいさてことを賢ら立ちて云ふものよ、ひやくおほせんおもふに平生四百五百多くて干か二千かじあつかたいぐんばかりのあそ扱ひつらんなれば大事を以て大戰を爲す伴法をは知らたいせんなさほふしるべし、ろ南韓のことを云ひ出でゝ衆の心を迷はすべからず、ら)いいしうこゝろ差しやうぐんしやうせんニちくららこたびかつ小軍小戰の上にこそ汝が策も用ふべけれ、せんなにてきかうしんせいへうみかたみ3えんたいぐん此度の合戰を何とかおもふ、敵は甲信の精兵なり、味方は尾濃遠三の大軍ならずや、なん女☆いさんやさうぞくてきそれに何ぞや汝の云ふは山こ野の草賊を敵としてあしらふととき小細工なり、ざいく工는きつぼうしやうに8〓だいじやうおちは婦人の譎謀小見の機變くさ超かほたいじゆ大丈夫は用ふるを斷づるところど、9えこばいくいかたいぐんら草苅鎌は大樹を砍り得ず、小細工如セ定けんさくき何で大軍に用ふるところあるべきや、み、すさを無益の獻策聞く耳持たず、退り居そのこゑらいごとこたヾつぐめん はくれと共聖宿の如くに属り憑らされて忠次は回目を失ひゆみを失り如こんのぞうしなかほあかdeぐんぎはいへやすたけひろめて退きける、かくて軍議も単てけれは家康も竹廣の自己が營に觸り諸〓えいかしよじ33將もそれ〓〓自己が陣に引退りけるに、おのれてんひきさがやがのぶなかいんちうきんじゆしさかaときたしゆくんめたま頓て信長が陣中より近習の士ひそかに酒井が許に來りて主君の召し玉ふといふ、こヽろゑらんxいな心得難くは思へど辭む其十二
たマつぐともなほんじんいたさ8 .けしきひきかのべくもあらねば忠次伴はれて本陣に到るに、先刻の景色には引代へて信ながだこゆかこそうちひそちかよたゞつぐよざせんうちあはび長莞爾に聲打潜め、近う寄れ忠次と呼びかけつ、座前にありたる打〓をとたとみづかあたたヾづぐうらさき·七七七つ取つて忠次に自ら與へ、ハヽ忠次恨みなせそ、先に汝が告げしところ二五めうさくうたがなはかりごと洋食店なみつは上無き妙策に疑ひ無し、されど謀計は漏るれば詮無く、成るまでは密せんなんぢししよしやうこと〓〓さろたいくわいなるを專とすること汝も知れることならむ、諸將悉く座に在りたる大會せきじやうなんぢことたゞちちらかてきはかの施上放第ゴを夜に用ひんには知何なることより發に強れんも計らいつはのヽしなんぢこヽろヒふたふんはかことばば僞りて罵りしまでなるぞ、汝心に滯むるなかれと復び案の外なる言葉たゞつぐとかくからなたいへいふくおんしやのぶなかほんぞくに、患次兎角の返辭も無く唯平伏して恩を謝すれば、信長もまた滿足しコつぐみわひざうしのSOいまなんなあたて、忠次見よかし、これはこれ我が秘〓する忍びの轡なるが〓汝に與ふうこちかたもりながあさとうざゑん1BBやまえんるなり、受けて用ひよ、金森長近いづこにある、佐藤六左衛門靑山新七かとういちざゑんよたはやめい丸しこ)めん 〓〓¥6-加藤本を御門ス呼び立つもに似命を指て伺候せる而々あつと答(ついかなもりながちかたいてうさとうのりさざ あをやまゆきたゞかとうかけcoめらはれ出づ、金森長近は隊長たるべし、佐藤則定靑山幸忠加藤景村は目ロそうへいてつばうモたつぐなむちむよせいと付たるべし、總兵四千鐵砲五百を副へて、忠次汝が助勢たらしむ、疾く十八ひげ男ようゐあやまちなてもうじろつら準備して過失無く敵の後面を衝き崩せ、よをめいれいげん ちういさたかな能くせよかし一同、過つなと命令きはめて殿重なれば、; 6ほんのあ、いな勇み立つたる金森等、おさしづ酒井殿隔意無く御指揮あるべし、われひと日他ともに期するところの大功を立てゝ我が君の御感に預らんきたいこうたわきみぎはかん339えんりよたてことさに遠慮立は事に取てしんとうたいはたも得あることならず、raふしやくたゞつぐゑ じやく一心同躰の働きこそ願はしう候へと會得すれは忠次もまた會釋し返して貫念御尤に承はり候、か、gぃご もつともうけたまあふせごとちたがひらならこた仰の如く一致して御互に功を成し候はむと靜に答へつ、あらたのぶながうちおか改めて信長に打向ひ、さそれがしふかみぞかたはらたけがやつながらばこれより小生は深溝形原竹谷、ざはまつるまつたいららしゆじんいへやすかり受けて、うあめこよひたヾ長澤松井の松平等を主人家康より借よじ雨にやなるべき今宵直をに任地大風雨とならばなれ風雨は込だいふううようふしのゆ、くつきやううんむわまつぶに却つて屈竟、やまごえてきCal 3 七變霧を分けて松山越より〓の後を發ひ申さん、まをあすながのそんなけむ明日長篠の奥にあたつて煙りあがらば小生等が、それがしらissとびのすひさまやまてきえいき店めうばふところ首尾よく鳶巢久間山の敵營を砍りしと覺し召せ、姥が懷、やまなかやまきみふしとてきとりでおもてやた山中山、君が伏床の敵の砦も必ず焼き立てきたこなたたゝかひおこさきミツ捲り立てゝ、かつより此方の散起らぬ前に先勝賴めが肝を煎らせ必ず類倒させ中言らかならてんどうまをみこゝろやすおほたまおくだいらさだよしなさん、御心安く思し玉はれ、ぐらのぶみつすがぬまさだみつらめ奥平貞能名倉信光菅沼定盈等、眼なしにな其十二
みちよみまよこれたきやうとうよろうちいたうあすたゝかひわれらしそんまをは夜も明けぬ中に到るを得べく候はむ、明日の戰我等さへ仕損じ申さぬきみごしやうりcomなことしせいしこのくわたてほどならば、君の御勝利は疑ひも無き事に候へば、死生は知らず此計畫あくきこのたゞつぐひつでうはたまをおんたいしやうみこヽろすf〓鬼となりても此忠次必定果し申すべし、御大將は御心しづかに巢を焚Noうろたへてわらつみにくさまごもんかまをたてかれたる禽となつて狼狽廻る四郞めが訓き能を御覽あれ、斯く申す忠次このことばくわうげんつかまつあナながしのつくる모.けむりが此言葉たヾ廣言には仕らず、明日長條の背にあたつて舞ひのぼる煙をごこんと담33よういたはやおんいとませをゐふつりんく御覽あるべし、時刻移らんには準備足らじ、既御暇申すなりと威風凛々のをはばいのぶながよろこうちうなづいさこヽちよ述べ終つて一拜すれば、信長悅びて打頭點き、おゝ勇ましゝ心地快し、らかあすわれとろあはてざまよみおほおことすのちなんぢ如何にも明日は我四郎め奴〓損他と能く辻矣之世まて事發かたる後るさいかたきsoあつあしや委細語り聞かして共に笑はん、アハヽと笑を漏らしぬ、ひげ男其十三たヽつぐおのむんしよかへしゆつぱつよういこと〓〓Ko忠次自己が陣所に歸りて出發の準備悉く整へ、山ニ〓暮るゝを今やと待ち居けこつぜんジかそつみなをとこ愈然として部下の一卒の見馴れ血選子を伴なひつゝ我が前指してるが、ofoわまへさいきためみこぐそう入り來るに、しare眼をあげて見れば小具足のみ仕て、いちつや〓〓けんしをかいときたひがねいしろあ翠の色の澤こしき絹絲の如き變をも厭はず鎌鐵入りたる白の麻布の好みきりゝと引起びてaはちまきひきむすかひいでたちしやうねんおもていと甲斐〓〓しく扮裝せる少年の、n 1/3だあをx面は眞白にて稍靑みを帶びたるまでなるが、此カを打見て懷うちみなつみいろかわきぜさなぎなたかし氣なる色を浮め、シントちお置き、せ急がず忙てず武者振り作りて、あわむしやタハいんぎんびざま脇挾みたる薙刀を徐に地にゑしやくそのおもいでたちにわかかはふるまひ慇懃に跪づき會釋するは、其思ひがけぬ扮裝と低に變りし罪動とに一度は眼さ一遂はとれづれ、とめ11うたがなゆめわすばうゆうやなぎさだはるこわおと疑ひも無く夢にも忘れぬ亡友柳貞春が孤の、ひごろみなねんないと量憐める宗春なれば、むねは乙われし我が弟とも日頃見做して二念無く最しやうきたこた我知らずつか〓〓と將凡を立ちて、ろうおゝ、小太郞なぶりしか、思ひがけざりし、なん況はままつあぶひ居たるに、何時の間に御扈從して來りしか、い.つxなんと、何として此處へは來りしぞ、フォむし濱松に在りと思われし크毫も我は知らざりし、先こかはレゐひおうちづ此の皮を敷きて居よ、みよからだたいせつ冷えては病後の身に好くあるまい、かとてぢちあ身躰は大切服之て異れと子近に在りたそ耕皮を自らして與へし於日巳る復び秩しきがはみづかとつあたのちおのれふたしやうぎ其十三
か함atくびちが〓〓さしのこのはるろyをりえつき、身を届め背を低くして首近々と差伸ばし、此春會ひし限り機を得あいみ"ひこしすこやかよりたがMAで相見ることも無かりしが、日增に健康になり行くと聞きしに違はず思なかほま날みなにわれうれひ做しでか顏も少しは肉づいて見え、何より我は嬉しく思ふ、さりながなほねぼそそなたからだよろづこいろこまかちよら地躰が骨細の汝の躰なれば萬般につけて心を小に用ゐ吳れよ、世はさわことしけそこたreとならきc 3t智あそただれち騒がしく事繁ければ、汝と共に騎を列べ雉子兎など狩して遊ぶ唯一日のよななそなた三ロう15いま好きねにても着えんずものをと彼が島を御ひ得をやうなりし頭よりハたんとをそれかなて증か:0がたゐに思ひ貯へ居れど其も叶はず、手を取交はしてしみ〓〓と物語り合ふここんけふいまおよいかかたピあひまたみをとさへ稀に今日の今までに及びしが、如何なる難き塲合にも又身の危きだいじときせんじやうへいじわかなこのたゝつぐこ〓Rの大事の時にも、戰塲平時の別ち無く此忠次は、此塲を能くして遣つて退こふこらceおほそのことそのときすそばのちそなたレじふものがたけ此時を蹈み堪へて堪へ果せて、其事其時濟み了りし後汝に始終を物語りて我が爲しことを可とする次の言葉の一句二句と、わせとそなたわまん我が爲しことに淵そそなたおもてはヽえみBみSい足し異きゝ汝の而上の徴災とと聞きもし足もしせんものをと想ひ出たびわむnうちゆうきふしぎうしほごとnたたいSat度に、我が心窩の中よりはの氣不思議にも潮の如く湧き立ちて五躰に哉ひげ男しみまたこより四肢に充ち、ことあと又此塲を能くせず此時に堪へずは後にて我が振あの彼にわふるまひそなたしそのあかつきさきわれかひなかわれたる其際に苦は我を甲斐無しとやズはん故はだを尊めやせんいそなたまめひそmmめぐひとしまんめんひひ廻らすごとに、こちヒプ人こそ知らぬ、満面火となる心地して羞かしさ云ふばいかり無く、なみづかざんぶん五三ふるたそれより自ら〓憤の餘りに奮ひ立つが常にて死生の際にも我つねしせいきはこいちそなたゑがわとところが心は汝を描きて共が懐中に緊乎と納めはくはどなれば、しつかニンけふけふいさヽかわこうめうなにん今日も今日とて聊我が功名の成るべき任を受けしにつけても、窓このたゝかはのちそなたあせんじやうがへみやげわ軈て此戰ひの果てし後、法に逢ふて戰塲歸りの土産に我が爲し事の始終を、せことしじふつよさかたその、ときらかわれうれ委曲に語らん其時は如何ばかり我嬉しからんと、したよろこよろこzをり下悅びに悅び居たる折なりし、わたくしもとより私はたらのためにのみ働くといふにはあらざれど、わはたらはげこんそなたあ我が働きに勵みあるは全く汝なんたみの有ればこそなれ、わならたまたからがた汝の身は我が爲には玉も實も比べ難きものなれば心(60こいみづかこさせんわれして自ら愛み吳れよ、いのちいのもなほ汝ありて我は生命のほかに生命を包む猶一つの生いのち命を有ち、そなたわれゆうきニゆうきおこ立汝ありて我は勇氣の上に男氣を發す猶また一つの弟氣を懷けゆうきいだこヽちそなたもなわあはれる心地す、いたい汝若し無くば我が懲然さは如何なるべき、やまひがちみ病勝なる身をもち其十三
ceじめジひる〓ceそれ、ぼつ〓〓と雨の零つる、て其扮裝は恨めし、晝より催ほせし空のけ늘(これ9みさむふううついこみはだうす景色、雲の堤も切れしと見ゆる、寒さも風雨に踵て來んに、見れば肌薄そのふうていおぼえつはものよらあさかけいsていもつとなる其風躰、輕驗ある兵士が夜幾湧蒐なんどに出づる時の態としては最ふさせしそなたすいでたちみおしけんごからたも相應かるべけれど、汝の爲べき扮裝ならず、身を愛みて健固なる身躰り39すCEのユこヽろがけへいぜいとなたおみにも三里の灸を据ゆる。といふは眞の武士の心掛なり、平生汝は自己が身かよわいるとほ20いやうみ22あつぱれどの孱弱きを憤り恨めるならずや、されば彌が上にも身を厭ふて天暗の丈こすゑたのようじやうこゝろがかなb s夫とならんものと末を賴かに姿生を心掛けでは協ふまじ、我が君にも自ぜんそなじたうそうなやだまふじんくしたまな然後をは刀新の鳴り矢評の兩る間に硬化し玉ふことも無かるべけれかみわがきみみこちつぎのゆくすへおもシンカルこのたヾつぐ上は我君の御意を汲み、次には自己が前途を思ひ、下は愚なる此忠次がそなたよいつはりまことさめととつわら汝に寄する僞ならぬ誠實を汲みて、少しは女々しと朋友同輩に笑はるゝふくいんしよくみづかにきつこのたヽかひはしばらくきうそくひまうまでも衣服飮食自ら意を注け吳れよ、此戰果てなば暫時は休息の間も得させんすこやか産みれいシヤサさかふ旨"うをはやべければ汝が健康なる顏を見て例の老大の佐治平に幾を裏、魚を轟さしちたもろきくかはのつしよちやしほうちまめこいろしづわめめ、知多の諸白にても汲み交せし後、澁茶に鹽打豆、心靜かに我が眼にひげ男うつてきみかたけなげふるまひこゝちよはたらもの がた映りし〓味方の健氣なる振舞、そのいち心地快き働きにても物語りて、其一日をたの樂しく暮さん、ceけふわこヽろせうらかたあ今日は我が心急くことあり、ひま憾めしけれど語り合ふ暇さヘ多くは有たざれば後日の參會をくれ〓〓も心にかけて望むなりと、ごにちさんくわいにんのでゆうしまことこまややさいidおしうら勇士の眞情の濃かに、きめうちうるつゆ優しく云ふを日惜く聞く恨みの眼の中やゝ濕みて園をよほしてた.たおもてモ、しばし下りと夜の星と雇れるを忠次が何上にはざしまゝ少府はなつと配肩みゐしが、きつろういふりあをなさけなうけたまいつ屹と自ら振仰ぎて、こは情無きことをのみ承はるものかな、何日こた:ひとひとりまゑことなvoまで小太郎を人一人前の事の成るまじきものとか思ひ玉一る、또こいでたち此の扮裝に御眼留まりて、ばんめと經驗ある兵士が後共卽童なんどに出づる風躰なりと見ンぼえつはものよきあさがけはうていみ盗なれまたあつばれこたらうそなたいまおのわらぢ玉はんには何として又、すせん天晴小太郞汝も今は汝が草鞋に血を吸はせて戰じやうあしふいぶたでか노塲に足踏み入れんと思ひ立ちしか出來したり、coたしゆせう善くぞ思ひ立ちし、殊勝と日頃の御好證には御褒美の御言葉の一つも掛け下し玉はらざるひごろおんおしみごほうびビかんでななり、たゞなつかぞん法·はさんくわいとちんちうじんたづぞや、唯怪しう存ずろのひに要無きむ會を遂げんとて即中に御載ぬ申しまをごもきはかくごけふこのところまゐみはせず、思ひ决めたる覺悟して今日は此處に參りたり、たいせつ身を大切にせよ其十三
おんさとしたまごはうしあさうれぞんかしとの御〓諭のみ賜はるは、御芳志まことに淺からず嬉しくは存じ候むれんピかく?をとこみそのやうぶんことばものゝ、屬は島革に惠ますべき男兄の身として其權なる御言葉はかりをジなるisおしかなおん きとisな受くるかと思へば口惜くもまた悲しく、御許を恨みんやうは無けれど、よいきがひわれ2やさS.P.たまか、おねいた袋世にも生甲斐なき我恨めしく、優しく言ひ玉はるだけ却つて心痛く覺ゆすこする在らつまおんとも現すこしわれしるを少しは推し玉はりだし、何時の間に御属從して來りしか毫も我は知のたまたま御許の知り玉はざりしも道理なり、としことこんにちこまゐらざりしと宣ひしが、今日此處に參こたろうおんと、おほしたたれびとてっなわたくし또りたる小太郞は御扈從の命も得ず、誰人の隊に屬けるにも無く、私に一まぎいこにだづきざつそつ20ひとめろやうやこ人紛れ入りて、小荷味付の雜ななんどの如く人目には見せつ漸く此處ましのきたおそおんたいしやうほんあやなぎちんちうあで忍び來りしなれば、恐らくは御大將を首として柳が陣中に在らんとははうばいしうこゝろづさおころたまさ를ほかばんもと朋輩衆も心付かじ、さ、さ然驚き玉ふは然る事ながら、他ならぬ御許なこた. ;こ、ろ部ろBILな生れば小太郎が真博のあらん限りを靑りのまゝに申さんほどに閉ま玉ひごろおんかたこたもうaわねがひ日頃の御請らひいつはりならず小太郞あはれと思しめとば、我が情願をゆるこたびかうしうやいひやまごえはままつちかをかも許させたまへ、此度甲州勢の平山越して濱松近く犯し入りたるそもひげ男いまおんたいしやううついたまご〓〓より、今にも御大將の打て出で玉はんには、みぶん うまgoモたてまつたとへわがちからとき數まへられぬ身なれども御馬脇にも添ひ奉り、ヤ假令我力乏しきにせよせめては矢の一枝も散にすき暗aかごゑあ射掛け、みかたいさ慶塲ぐるばかりのことにせよ味方を男むる足ともなりて、たしにくぷたけだいベをもてたちニ憎しと思ふ武田が兵の矢前に立はだかつたる上、どれはときびよおにがみSらはやセイチさげすみ何程の嚴しさ以つて世には鬼神の如く云ひ囃さるゝか私に下墨して吳れんと思ひ樂みしは空となりふるたのしあだわこたろうめしつべうしんて、吾が君は小太郞を召連れられず、かるなにバ病身と思ひ居玉へはぞと思ひまゐごきゆん20とき〓〓みづからすれば、.やまひ御機嫌の麗はしき時々目ら進みて、このきろをかけな成り候、シ膂力も出で候、ちからいばんをみ身も肥え候、がはこなんiFeはねこ酒井殿より貰ひ受けたる馬にて疾〓との病病にも頃日は犯されずこううまか願も遂ひならび二三間の小川も難なく就越すほどに乗り得るやう修,しゆげう致して候、いたくわうげんおぼはブうちものわざ廣言と思されんはゐめしく候へを打物染キ習ひ浮めて無下になら2.ねゆひとヨなそれなは人にも負けまじく成り候、せんぢんおんとも在と其とは無く戰陣の御供仰せつけらるゝやaならぼは云みう申し做せと、うか店Gerlようじやうるがた何時も御微笑を浮め玉ふばかりにて、わがこゝろすには、てき猶善く養生せよとの有り難くはあれど我心濟まぬ仰のみ、ながあしろニこづめみ敵は長篠の城を卷きて後詰に味其十
ユみあるわがまゝ部(たんち〓方の出づるを待ち、見るに餘る我體の限りを盡せば一旦は遲疑したまひxたこうはたいわがきみれうせたかつよりうしかどいよ〓〓織田公の旗も出で、我君と兩旗にて勝賴を討ちたまふにさだこんとしゆつじんほうゆうとうはいれとししたおん定まりし今度の出陣にも、朋友同輩、さては我より齡弱なるものまで御とも店めくぎたけあこたたちかたなふこゝろゆみつる扈從を仰せつかり、目釘竹を撿めて太刀刀揮り試むるもあれば、弓に弦かからびきかろしてうしよにつこなりなとばのこたのし極け之寄嗣り任て調子の好とに共爾としつゝ鳴るの敵に造るを察なひと 〓〓ょうれいさたこゝろよよるまわれおんとで人々は世に嬉しげに勇み立ちて快げに振舞ふを、我は御扈從の數に洩れむなわきみ〓〓どとしうそまをあたかひこんどて空しく傍に觀る憾めしさ、二度三度愁訴申し上げしも、戰鬪は今度にかぎにんゆるなはようじやうかよわみまのあたりゃ限るべからず心を寛うして猶養生せよと、孱弱き身なればとて現在は病をなさけなべうにんとうやうみなたまおんなさけみても居らぬものを情無くも病人同樣に見做し玉ひてか、御仁慈らしきいくらさんたことば8°五九花のむせふあと口惜き御言葉、るどかんに戻きがたければ涙を呑みて咽び伏しつゝ後にのこうつてきがうてきたれかれ26いあと殘りしが、恨みある敵なり、剛敵なりといふに誰も彼も奮つて出でし後をとこをとこみたんなんやせせかれものダはだむしやわがには男兒らしき男兒も見えず、二男三男の痩悴者まで素肌武者ながら我おみおんだいじたゝかひはたらをとここのたゝかひヨ君御大事の戰に一ト働きなさでやは、男兒として此戰に洩れ外れてはと十九ひげ男さきあらそじまわうクもの がた先を爭ひ出立つたれば、きせめては我が憂さ辛さ物語りて、co聞いて貰はんバひとらわさんめふないかひぁかなたと思ふ人等の影さへ全く眼に觸れず、お土ちぎ戰の有らんは彼方ぞと、風吹き斷ちぎ:日第またとヾゆるうごはじるニ斷れ者の述からず又怨まらず擬くをく厚度して見るとる無しに見みなみやわみウラみ:こ",かきあがる我が身は或なれで魂魄は縣ぎて虚姦にも就りじらんと腕き集漲ムもゐ々よ夜いねれんかんたかさいけつわれみはねおしば〓〓は寐難きに癇の高ぶり、多を蹴て我を忘れ跳起きること數次なりしが、こあながちわりなおん とといけしし是は張に理無しとのみ御前も云ひ消は仕たまはざるべし、ちさだ じるいいた父貞春は那處の戰に戰死せしか、vacうちcmいづれTどくしゆまたわきみいついくさたれ那の敵の毒手にかゝりしか、又我が君は何日の戰誰てきあらそ、くちおしめみたまかへむを敵としての爭ひに口惜き目を見玉ひしか、ねんみ返す〓〓も無念なりしは味かたceたヽかひわがきみとわがなきちゝけどほね方が原の戰にて、とほ我君に取りても吾亡父のためにも怕さの骨に徹るは、うでぶしすねぶしたつしやかうしうのきみ腕節騰節そせ違者なる甲州漢にはあらざるや、むか時、し現在、いニとISふかかくいきとほヤ君のため、がたそのあだかたき父のため、みづか徃兎しても恨み深く、きた角しても憤り休み難き其仇敵の自ら來つおっうかよわがきみこれしのぎけづて首を賣らんか買はんかと呼び、ちかつばわ我君はまた之に對ひて、鎬削られ鐔割5やつうらるゝとも斬らでは巳まじ衝かでは已また、xしなな擊ちてし巳まむと仕玉ふと其十三
こえがたまたあがたどきのぞたゝかひひと6ないふ此の得難く又會ひ難き時に臨みて戰に洩れ、あんかん人がましくも無く安閑として、ひる晝は現の超ちつ居つ夜は夢路の斷を續き、...た〓2/8ゆめちたつ百年千年同じことなねんねん おなnうちなつきひぐいのちㄸをすゐりやうる價値無き光陰の送りやうと壽命あればとて爲し居られうや、たをxもとれお口あひかはおもとわかなこのみ左推量し玉カニへよ御許と我と假に相代りて御許我が悲しき此身となりたりと思し玉はらば明かなるべし、あきら御許我ならば何とか仕玉ふ、エもとわれなにしたまげき御思ひ遣り深くも御眼やふかばんめこうBABた在あかたじけなひごろの中に淚を堪へ玉はるか、嗚呼忝し、かたじけなし、日頃のあだならぬおんなさけあちたみしうれ,なかいんやさシめいゐ御情も新に身に浸みていと嬉しく、憂きが中にも御優しさ肝に銘じて有がたり難し、かく御フー淚を濃き玉はる上からは卽許も我ならば唯其儘にはありたまうニもとかれたヾそのま〓得玉はじ、たまわたくししゆつむんわが きみごん いかこのこたされは私の出陣には我君の御愈りもあらんかなれで、此小太郞は、:)ふしやうだ思ひ决めて候ぞや、〓ねんなかばれうやうふつく〓〓思ふに腑甲斐無く生れつきたるが身このさまぷるながよがひなうまみい花をの不祥こうめう一年に半は療養三味、此前途長く生きればとて、しき功名なかよわみとうㄸなわがじみも成るまじを磨對き身の取ることを得るものは耻辱のみなるべし、我君すこしこう好たえふhaもてなしたまは父の些少の功を忘れさせ玉はでか要なき。をば厚く待遇玉はれど、あつto父ひげ男ち、われわれごこうおんあまは父なり我は我なり、御厚恩に甘へてあるべきならずと辭し申したるにcまをたまなほそのミめしつかたま聽き玉はず、でおん猶其儘に召使ひ玉はれるが、さいはたら生きて御恩に酬いんほどの働とても女そのうへやきは到底成るべきならぬに、く〓ㄸ其上病み朽ちて爲すことも無く死にもせんしまつたるぬすおはたにはこれ全く縣を盗みて終れるものなり、こもうちから上ちよてき·ゆみやとかじおよ小太郞膂力は婦女にも敵せず、弓矢取る〓とは案山子にだに及ばざる身とは云へ耻辱は知れば、みいは甘しと君の恩を貪り、きみえんきさいあたゝかくすりにけむりむせのめ〓〓暖きものに包まれて繋煎る煙に咽びながら腐れて死な( LハよBretいなにごとこうㄸむこと思ひも寄らず、しべん同くは生きて何事の功無くとも死して一片の心をこんCiとさだあらはしたし、みいづれ病に奪らるゝに定まりたる身を、いおしだて何時まで惜み立しんきうやくむみれんこして針灸藥治の未練を盡せし未腐れ死せんよりは、すゑくさじにほうていこヽろよたはふんカラリきは."かはこしがたなうん鋒鏑に快く斃るゝ分と自ら决めて血に『ける腰刀に運よくは熱きものを吸はせん其を此世のあつナそれこのよおも思ひ出に修羅の巷に駈け出でん、ごしゆらちまたかやまひしたゝかひしぜん病に死なんよりは戰に死に、しころ自然に殺みづかころyされんよりは目ら殺して、;きみちふかあたかたきこんは一は九牛の一毛ながら、ばつたと君のため父のため、深き讎敵の、し一〓をも剝ぎ一髪をも務り取り、ごな一は自己が死後の名のた其十三
ひとよはこゝろさすが뚱ひ店形體こそ人なみならず弱かりつれ、心は流石に柳宗春孱弱にはあらめ、おによほそかたごにちこんとかめくわうせんざりしよと謠はれんと、覺悟の臍を堅めたれば、後日の御各も黃泉まであぷるきhoつきくろ1/8さびときちはかこれこんはよも有るまじと思ひ切つて顧みず、月黑く夜淋しき時父が墓には是今c5まるおさぶんいとまごひおん おく3.あねうちあ生の參り納めと御暇乞して御奥に事へまゐらする一人の姊に、打明けざょそめなんだみみやそれなしたんつりしは外所〓〓しけれど、女々しき淚見んも無益と其とは無しに別を告みseあとしヽペ2すたかくpげ、見苦しからぬやう後をなして、家隷をも振り捨て唯一人、斯の如くはしよぞんよしあしことかひおんもとなにごたまにて馳せまゐりしが、所存の善惡事の可否、御許は何とか思し給はる、かようじやういんさとうはい安さゝるに養生せよとばかりの御議しを受けし本意なさ悲しさ、左ほどにもなわらむたちえふなあそびboとおさなげニBB無きことに笑ひ傾き、要無き遊戯して面白しとし、稚氣に任せたる常平ごろこたこうみあなどたまたしわふんべつあろたけ生の小太郞とは見侮り給ふなよ、足らぬかは知らねど我が分別の有文をねねかたやなぎむねはるをとこひとりミ鍊りに鍊り堅めて、柳宗春、男兒一人前となつたるつもり、よし、それこたらううなゴきないまそとcurでこそ小太郞なれと點頭たまふことは成らずや、今しも外面にて覗へばじんやうすごゆきかつまたけふこゝろせたまことば陣の樣子といひ人の往徠といひ、且又今日は心急くと告げ給ひたる言葉ひげ男と云ひ、いよてしニどてこよひしゆつじんていこた:しよぞんあやま餘の隊は知らず御許の隊は今宵にも出陣あるべき態、ばんもとい〓小太郞が所存過らずば、ハこいや、御許は云ふまでも無く、こた;よしそんなさけな屋いなたまかくまで思ひ込める小太部が所存を情無くも遺つたりとは云ひ儀し給はるまじきなれば、〓おんよろひそでしたわれたまひきったまほんと願ふは御鎧の袖下になり我をつけ給ひて引連れ給し〓にんご働きは諸人に劣るとも、ほねこみよしんば骨の粉になるまで、Sふるまひおんもとなきゴヽまさかに見苦しき擧動をなし御許の名は傷けまじ、大久保殿本多殿石川殿榊原殿成瀨殿、ardぼどのほんだとのいしかわとのやなぎはるどのなるせとの其他御歷々那位を見てもそのたごれき〓〓いづれみよsgわれやさ↓たまなわぎ父の餘方にて我とは優しく仕締目以は無けれて罰心の御許可無ま此きみおんゐるしなこのわれせんじやうつたまたのおんもと戰塲に連れ給へと賴みまゐらすべきは御許はかり。たのたの賴みまゐらす、賴みまゐらす、かほどまを戸こたへなわれあやまふんべつおほゑゝ、斯程市すに御答無きは我を追つたる分別せりと思し給たまふか、こゝろゑ心得ず、わいのちうしなふびん%たまさば、おんなさけさては我が命失はせんこと愍然と思ひ給ひてか、あまあさsaまを然あらば却つて御愛情の餘りに淺しと恨み申さん、あさ〓〓ばん もとさる淺々しき御許には御座はでみれんおんなさけあまなさけなさゞりしに御未練ならば、간にちわがきみジ12mm御愛情餘りて情無し、後日我君の御谷めあらはヾかたまこさすがゴールな とんを博り締ひての事かとは就不に思はぬを何として物も言ひたまはのい其十三
三十其男げひ得ふる貳道の上より健策なミ法が存ぎをあ次は心以て投ばしくあふた々しく悅ぶのみにはあらず、になつて吳れしぞ、受けたるにも增して我が胸には云ひも悉せぬ怡悅滿てり、うしく思ひ玉ふらん、る。や嬉しや、こつきて、小太郞、なにもかけざりし、も矢張左樣思ふよの、いふにはあらねど今まで見ぬ光りは眸の中に湧き、何とやら改まつてこれも可笑い、うれた稀有の功を立て、ハ、:)はりさ〃ときふそうたまときんこれ汝は何時か思ひのほかにも天晴大丈夫になつて臭れしな、う医實法がこれはどまでに成つて有らうとは今の今まで忠次思ひまことそなた亡せたまひたる貞春殿も泉下より見玉ふて如何ばかりか欣ばハニ=いたつみ見朝れし眼のしは聞馴染みたる感當の急に無くなりしとななけなゆ摩利支等天も照覧あれ因線に率かれ私情に泥みて女ニわ平生兄顏して物言ひ文せし我が面目も今日そ立つたひバばつぐん拔群の働きして、ごろさらば從前通り小太郞、じむねあにみわおかしそんてんはさだ はるそなたみはたら身を殺しても意地を活し淚の中にも微笑をひかいまヽでとほいどのころぞんねんせうの:なよびな稱呼なんぞは何樣でも可ろう、みんむちょぃせんかなあつぱれおじこたゞつぐきみ君の御感に預かり衆人の羨望をかはうもぁたいいんねんと;なよろこびみごみこわしんもつかんわたまこわねと慮外と思ふて吳るゝなよりよぐわいいひうあづめんぼくこえ聲には無かりし幅のかさたみたしかいきうぶいま1Bヾやうしううち能くも大丈夫よけななじんふ=なブたゞつぐ三を26たムみよるこやみうれと嬉し、バめこそなた汝ちくんこゝる動せば、眼も閉ぢたまへる、よ寄り、いだ板挾みに、いたばさ抱き寄せて、れも忍びざるところあり、あま餘りといへば、か、ユび難しと、間に汝が斯樣も心異けて天附丈大差かしき丈夫となりしとは思ひもす濟まぬ、心は通へど面は見ず、ず、かにそなたか〓しのそれも忍びず、よからじ聊爾なる物の云ひざませしは我が粗忽、む眞老揚り變ひ遭勢張りたろ初にも但ず之次に手を從とかけて捨りみやましやふ先刻より獨り我が最愛の小太郞さ過つたか、bむしのき流石分別逞しき平生にも似ず、まともさすが眞向の返辭も與うものゆる赦しやれ、airこヽろたみこゝろなふんべつたくま心無しであつた赦して吳れかし、いひれたひとこゝろな左衛門殿、さ意をば儘〓抑ふるまでも身をば全うせしめんか、き氣にも障ろう、ゑわせいばわづか二タ月三月ばかり、あたもんとのあつ小太郞、こたいよさい如何にか爲さん如何にか答へん、ひ言ばれをとこへ得で面さへ横向けたるまゝ、かしあいろうえごろゆるおさ左衞門殿、ニたんあ:こはづつきま、てた5になもんとの云ひ改めう、ろうまづ赦しやれ小太郞、モつるあらたが意を貫し遣りて身を。ことはせん드きれい兄上、あにうへcom思慮に餘れる意氣地と情との안しいをとこ모かみたゆる赦して吳れ小太郞、つぐあにうへ兄上と思ひ逼りて進みあま今度の事の前よりしてこんと百日足らず會はざりしわる赦し玉へ宗春殿、まつたここたヤてたまにちたたいそつxoここと;) Dみ緊と小太郞をおね." pせまあニたな彼此共に忍かれこれともはるどの: %o忠次が言はてこCakたじらあゝ又ことばい、よ:えゝまたしのこ
だいあふいお、こなたはむね25むこみと天仰ぎつゝ云ひさして、やをら首を此方へ廻し、ぢつと宗春が面を視まこヽろかげころaかBHかはとでうし護りありけるが、心の影の聲に射して〓前には變る沈み調子に、さりなこたろうなはおうわれめんし:プいのちかろがら小太郞猶一應我に免じて思慮して吳れかし、一圖に生命を輕んじてし고かぎきよじやくみうとせんじやうほこりうち多死ぬるばかりが好きにも限らず、虛弱の身を疎みて戰塲の座埃の中に埋ナぶたさぜひさだめ拾てんと思ひ立ちしは然ることながら、是非の定まりたることにはあわかきみおんおぼしめしそむきはわわたくししたゞつぐせらず、我君の師意君にも待き戻りて我が私に死なんこと忠次は是なりとハかときんとぐいかたまたそのためひにちも思ひ兼ぬる、汝を具して出でんことは雖くもあらず又其爲に、後日のかんとかめわがこうかまをしどそなたいましはい御各ありとても我功に代へて申解くべけれど、汝を今死なせんは本意無:よかんがみくさんミニンたまわ.きみおんこヽろく思ふ、能く考へて見て吳れよ、汝を止め置き王ひたる我が君の御意はべうしんそなたやくたみたまのこちうこう病身なる汝を役立たずと見玉ひて殘されしにはよもあらじ、忠功ありしさだはるひらひとりをとことしなほわかみよわいまもち貞春が家の一人の男子にはあり、齡は猶若し、身は弱し、今用ゐずとものちうみたまひごろつなたyeわやさきてな後に用うるときあるべしと見玉へばこそ頃もを取分けて優しく待遇ここたびおんとも庄わきみおんなさけぶし此度もまた御供仰せつけられざるなれ、されば我が君の御仁慈を思ひひげ男しうすえおんなさけぎたてまつた知らとは本かけて叫む急に關い奉そに足るほどの忠功を立つべしとちうこうたこヽろながみづかきすはづわみわに自ら期さでは濟まぬ筈にて、我が身とは云へ我が、にはなか〓〓輕〓ヨかる〓まかがたみいいしく任せ難き身なりとも云はし云ふべきならずや、われわれみかぎかひなうまれi.いるとはこちながいのちそれを我から我を見甲状無き天貴を依ひ憤ら心より長かふべり生命を我子に短ラせん限り、わがてみちかバたちいさまひといぜんつくとの思ひ立勇しゝとは人も云ふべし、いとほそなたふんべつ善盡せりとは最愛しき汝が分別なたゞつぐえいかんがへわたがら忠次は得云はじ、かんがへわかまだ思慮が若いやうな、まだ思慮が若いやうな、そのかほみつらよさ、かくさ、ご其顏を見るが辛さに、はたそなたdei一も二も汝の云ふなり次第、(4)そなたみいしだいあつ天晴氣味のばれきみ快い憂悟よのと變め稱へて汝の隊ぶ他を見たきは山〓なれど、やま〓〓まことあさえんたんバいかじヽろうそなたにがなと眞實淺からず汝を思へば如何に心憂くとも汝に苦き顏さするを厭ふては居難き塲いゐがたばあひおよことば合、耳には快からぬ言葉なりとも、よまただよてきにつくたけだ一七六み聞いて吳れよ能く、そのごと又思ふて吳れよ能く、ととうせい敵は憎き武田なり、もかごと汝が身は其如くなり、朋友同輩は彼の如くなほうほうるさまつはげとしゆ三方四方の情能に衝き激まされては歐だかぬ汝が其〓く濁り無う和'、そなたその1 Wなやわらかき胸の波狂ひて、なみ くるa 118たまちころろをはよし巖に碎くるとも球と散りて快く終らんと思ひじ其十三
よぁがたこゝろざしむしあん立ちしは、世にも有り難き志にてさら〓〓無理にはあらざれど、思案のことよよかんが"oきわこといさぎよBにの要るはこゝの事なり、能く、能く、考へて思ひ决めよ、事快活には似わわたくしcarしt.わがきえおんおぼしめしむすきあたたれども我が私に汝の死なんは、第一我君の御思召を無にする筋には當荒なんさだはるとのそんたりつぱせいじんながわかきみちうぎらずや、また泉下にて貞春殿も、汝が立派に成人して長く我君に忠義をBくんこうたのぞるたまaなヒ勵み動功を建てんをこそ望みて居玉はんなれ、實の成るほどの齡にもな∴はなおやっ+そなたかのきしみたまふいかゞらで風に堪へぬ花と落ちたる若武者の汝を彼岸こにて見玉はん憾みは如何たのたゞつぐなぜこたこ)ふんべつたたやあるべき、賴もしからぬ忠次よの、何故小太郞が分別足らずば足して與をとこおふたくなげたまらつでうりても大人となるまで生し立てゝは吳れざりしぞと歎き玉はんは必定なたゞつぐいひがひそさた노かうり、さては忠次の云甲影なきものとならんはさもあらばあれ、汝は不孝こヒたヾバたそなたふんべつきみたいの兒となり果つべし、但し死なんと思ひ立てる汝が分別も、君に對してしんあとこしやうなきちうぎ4一心の跡を表はさんとの正直なる忠美のはかにはあるべからず、また亡いちなけがかうの道には外れぬながら、みちいしき父の名を潰さじとの孝生かば生くべきを死しちうこうららニョいちうシリまことチとこての忠孝、生きんに生き辛きを生きての忠孝、いづれか眞實の大丈夫たひげ男こひねがとみちこのあひだらんと冀ふものゝ取るべき路ぞ、しんせんしやうばうけむめus此間に深淺正傍の區別の些少ならず在かみのさとそなたりはせずや、はやがつてん物の理に敏き汝のことゆゑ、くそ〓〓=さんあまわれこと既合點はなりつらんか、館.しう云ふも誠意の餘り、われなはた我が言葉を我は猶足らずやと氣づかふばかりにりいやせいましみて云ひ止まむ瀨は今も知らず、たいそなたよわぶんほか一躰汝は身の弱くて思ふに任せぬを日頃ごろふか2はその あまかぶより薄く嵌み細つる其優り如是夏ひ諦めたる思奈をもなせしならんくつ1.ゐん今まんきびぶだうB自ら嚴しうするばかりが武道の勵みといふにもあらず、3つゆる自ら寛うする工よう夫もまた無くては大功ちぢなたいかたわ3店しと我が君も仰せありしことあり、けふそのこヽろうしなみづかゆるとしつき今日の其心を亡はずに自ら寫うして年月の練磨を其言に加へて見れなは心れんまそのみcmくこヽろだしか.なとこあつばれわきみおんためなる大丈夫となりて天崎我が君の師おたも無一の負う士たるべきにむよのさたつぐいおよさだはるとの然ものは必次は云ふに渡めて貞方殿を見下にて如何はかりが僅足に風ばんぶいかほんぞく六&ぐわいLbしんをも度外に志て、きよくたんりよ强て死なんとは曲なきことぞよ、isなたんきそんけせわいい短慮は功を成さず短氣は損とも下世話に云ふ、しといひ、つなないそお든たヾつぐしんもつきよごん死は何時にても成ることなり、左まで急ぐは僻事ならん、いそなた忠次神以て虛言も云はねば、るし汝のために惡かる其十三
いわがきみなんでうちうしんとのべきことをも云ふことあるべからず、我君も何條忠臣の貞春殿の遺孤なそなたそそ〓たまこしのがたきみる汝を麁略に見玉ふべき、さすれば此處は忍び難くもあるべけれど君のおんめおよたまおとことばいつはなすゐりやう御眼の及ばせ玉ふところを畏み、また我が言の僞り無きをも推量して、そのおもひたちとヽかたもくぜんこゝろよにちごむたるよこた其思立止まる方、目前には快からずとも日後には必ず好かるべし、小太あうこた33さうふcいろa크ことば郞小太郞、いやな樣不快の色のみ見せず枉げて我が言葉に就き臭れずぷるみ安心大みとふためこのたヾつぐなんヤ忘ふてる見よ〓の身に取り不利益のとを此忠次が何で云はうや、さ、いやニユこゝろよ%oかかほどいさ、厭でもあるべきが枉げて、枉げて、快く思ひ返して吳れ、斯程云ふなほふてんその:ら5むづよすさ·日本あまても猶不合點か、其面色は意地强をに過ぎて然りとは聞き分無く、餘りつれなこ官さたヾつぐたのといへば情無いことぞよ、さ、此のやうに頭を下げて忠次が賴む、聞きいこたらうきいいくたびいし入れ吳れ、これよ小太郞聞き入れ吳れ、幾度となく云へるごとく、死はいつしぜんいかをのぞわがきみおんたみ何時にても成ることならずや、自然如何なる機會にか臨みて我君の御爲こたもうそなたいのもナreいでこひとりそなたLこまたしミ小太郞汝が生命を捨つる時も出來ば、一人汝を死なさうや、駒の頭を共Eよろひそでうちかはとうざんけんじゆあひだかたへばなしを聯べて記の補り打交せしきゝ力山動物の間にもあれ傍離れず元せひげ男このたヾでさんみまで此忠次の愚へるを知らざる汝にもあらざるに、かたしやうりさだ味方勝利と定まつたこのたゝかひニサしにいそ2.るしる此戰に違つて死急ぎをせんとは恨めしゝ、いあし惡きことは云はず、惡くはたさいけんつぎおん あいすなあざなせず、忠次が意見に就いて乳れよと義理最愛の二肋を組ふ言葉の縮のレことばをヒニわかたかはかはたゝごとこいろおうたなやかに、控き止むれを若鷹の廻りて捜きする如く心急なる小太郎宗孝ころうむねはるつみひのかまめおほ突と身を退きて屹と搆へ、よしなおんさと女ゝしきことを仰せあるな、由無き御諭しはうけたましんぐわいたんこいろちかgかまさらいかおんさと承はるも心外候、一且心に誓つたる義を〓如如に御諭しの候へばとて30t此小太郞、たもうへんがいいたなるぜん なくじやしやうザキ變改も致すべしと思はるゝや、善惡邪正の詮義によつてならしがいそんとくふんべつひとば知らぬとと判害指得の分別につけて人こそ知らぬ自ら營ひし旨ひしろうあちかちかやぶにちとなにこたよらば心に間はれて何とか答へん、よか好くもあれ、また好からずもあれ、斯たはたひるがへくちおし種を現ひ立つたることを集きで思ひ醜せとは目惜き例せなり、Lいっせくりかへシさしし死は何時にても成ることぞと繰返しての御諭しなれど、5つな死は何時にても成ること御情濃やかなる御許の御おんなるけこまやとゴことばこなりや、こたろうぞん言葉を戾くにはあらされど、小太郞存:)いっセしバしじ寄にては何時にても成るべき死とは思はず、たゞこのたゝかひこのひ死すべきは唯此戰の此日其十三
ときつよしつ·まをいつひしよだん此時ばかりとこそ强くも執し思ひ申せ、何の日死しても好しとは存ぜず、kししうらみじん死すべを貼に元受ざれば死にまるる恨かに身を賜ゆることもあらべロなと〓さいすでハわがおきひとほたま耻辱も取るべし、委細は既に申し盡しぬ、枉げても我念を徹させ玉へ、こんじやうおんなさけすぁあたぞんいかいかゆる今生の御仁愛これには過きずと有り難く存ずべし、如何で、如何で許さたま;さこうるひたいろべにさせませ玉はずすと面に少し心の次の嫌ま立つ色の江瀬して遠るもいともgたゞつぐかうべふじぶめんわけならしゝ。されどいつかな甘かぬ息次頭を掉つて澁回つくり、はて聞分無いとしわかたん びさうたふんべつきことを云ふよの、年若くとも一旦氣をのみ左樣は出さぬものぞ、分別しかバシはわがねがひゆる。立つ仕替へよ、といふ、いや思ひ飜しは致すまじ、柱げて我願許し玉へ、とこたこ) BMわことば50たゞつぐしかごとい小太郞はいふ、何とあつても我が言葉用ゐぬかと忠次叱る如くに云へばほどまをてんて斯程申しても御隊には入れ玉はざるかと宗春詰る如くにいふ、たまなじSそなたあま汝は餘り方形は〓こなただおん もとつnにおんなさけなかなに片意地なりと此方が喞てば、御許はさりとは平生に似ず御情無しと彼たえんひとりわかむTheどんかくごきはこきたひとり方は怨ず、一人は者。者者の必死の覺悟を決めて此地に來れるなり、一人ぜかぞこうしや〓みこむ15かたミは幾穀もがけたる功者の先を起施して無用なきと良く片むることなひげ男かれらこれゆづあらそは彼も屈せず此も讓らず、えうち爭ひ果つべくも見えざる中、と·Sisせまるに、".忠次心も心ならず、つぐこヽろこいPこと くわがてんゆ時刻は漸く逼りく常の日ならば事委しく合點行くまで說き諭しとさとこゝろよ·たなほそのひまなだいじて快く念を立て直させんに、3りすんのががたいどうぜいうちそち其間も無き大事の前、機は一寸も逃し難し今にもあれ同參打麺つて此處を行立を松山越の餘頭にかゝり押むかこうちたまつやまごえけんそおしゆハペallいまかこ思へる矢先なれば意に任せず、われつゆ乞ひをゆるして我連れ行かば、店つ胸衝くばかりの山路に岩根木根の足を嚙むそれさへ服へぬ闇の夜の暗きが中を無やまみちいはねこのねあしかやみよesなかむむな〓〓かな二無三に辿り明かさせでは叶はず、くつきやうをとこおみどゐぶんようゐ屈强の男の覺えある身にても、隨分こたろう容易にはあらざるを、ひと なみ 〓〓およみ小太郞が人普通に及ばぬ身をもて、こヽろたけいかこたう心ばかりはよしや猛くも如何で堪へ得ることならんや、ヨさ3 iteくろこよひ100,よやうかづら立て况して五月の天黑く、今宵は强雨も降るべき摸樣、そばよゅ藤葛に賴り岨を攀ぢて、ceときときひたとびのす: Tえいので行く〓〓二時三時四時も濡れ浸らば、うちきよじやく鳶巢山の敵營を望まに中に虛弱の身躰、·中·五いかししよせんわて如何なることにならんも知れず、つがたいまいちとて所詮我が隊には屬け難し、づよとみ今一度手强く止めて見んと、せんげんぱんご(かへこ千貫多語錄リ返せはとて小太郞法が天ふところに忠次同意は與へ難たろうとなたらたヾつぐどういあたれ其十三
たヽかこんとたかひみかたリ2〓かぎにが山でゝ職はねにせと今度の戰闘味をに利運の無しといふにり限なんぢひつした〓しやうぶたいせいうごかみかたは、彼が必死と戰へは勝負の大勢を動かして勝クベからざる味方のことこんとせんみかたしやうさん れき〓〓勝つといふにもあらざるのみならず、特に今度の一戰は味方の勝算歷々ひみスルナムおなわがきみごなんぎみ磨として火を視るごとく明かなるに、同じくば我君御難儀と見ゆる砌にこナみおしなこんにちこのけつしかくごさだそ捨てもすべき身をば、惜むこと無くて今日好んで、決死の覺悟を定めむよういたしたいそぶはんんこと無用の至りといふべからずや、死急ぎをするばかりをば武士の本いハそのとしなむふんべつこ-12ろうや局意のやう思はんは、其齡でも無いに無分別な、小太郞、矢張それはまだおさなぎわれジョよおれみわかわか稚氣といふものかと我は思ふぞよ、能く考へ見よ、稚かろうぞ、まづ稚しあんなほしゐそなたがあせいかたかろうぞ、思案し直して吳るゝがよし、强て汝が悶躁き焦りて如何に忠つぐせまわてついおもしわれい次に逼ればとて、我が隊に属けて連れ行かんとは必ず我は云ふまじきぞ、むきta 2 unわれいまそいひと酷しと我を恨まんには酷からぬつもりの我なれど、今こゝに其を辨解かなんこれあいこつそなたあたへんじんともせじ、何とあつても如是までの挨拶よりほかに汝に與ふる返辭はたヾつぐあに%われめん끄バかっおほやけ持たぬ忠次なれば、兄とも思はい我に免じて枉げても思ひ號してよ、公ひげ男の義理、ぎわたくし私の情、じやう煮ても煎じてもこれ限り、にせんかぎそなたねがゆるがたこいち汝の願ひは許し難し、と心いはなこたろたヾつぐウィみい强くも云ひ放てば、た小太郞しみ〓〓忠次が面に視入りてありけるが、亢かかんなみうこゑ1/3ひきはそたちそそ奮ぶる神經に浪打つ聲の震ふ響きの細く銳く、ごはんしんばことばなとはうべんごんさと其、其は御本心よりの御ひ55ごけうくん言葉か、さな但しは御方便の御諭しか、平生の御〓訓は然は無かりしやうに覺えて候ひしに、aこんにちいのちおしごんおしたろううけたま今日になりて生命惜めどやうの御〓へは、こ小太郞承はこうがびかへらでもあるべきか、おんことばつや〓〓以て合點まゐらず、思ひ飜せよとの御言葉をなか〓〓酷しとは存ぜねど、にぞんとんやさあまふわじシじ御優しさの餘りに深くて、若くは一時のごはうべん·ラこのわれはかなだ御方面を以てまでも此我を勝し物めんとせらふゝにけあるずやと也グいたいさヽかくちおしかほとハきはれば聊口惜く、こちへんがい斯程までに思ひ究めてまゐりしものを、脆くも變改するみたまかあかきろしんぐわいいたゃとこ(ニがものかのやうに見玉へば歟、すロ通近頃心外の至りなり、矢は飛んで虛空に届男見は償つて世を傍眼ふらずの一途に走る、いきどほよわきめづはし曲らぬ一條を描き、やじりまと鐵の的%いのちこゝろざしにえうんに碎くるか、生命が志の犠牲となるかは、運なりとすればそれまでのこたんいきどははつしcえやをとこㅂと、一且傾りを發きしからは死にも公得いで已まんこを見見の儒フベヨ其十
い23ことなれと、彼の何時ぞやのことなりし、京より下りし老法師に昔事を上へいけ店ことな話るせて夜你させし其時事家を倒さんとして事成とざりし成熟等加うけたまおん もとcびへうばんし評判仕玉ひしを、身にしみ〓〓と承はりて、御許が當時の眉目のさまさくざいまめへ歴々として今瞭る如く我が眼には猶遺り居れるに、御許は忘れ玉ひしバか、Coffeeたぶはやか、思ひ辭せよとはふとも世を傍覗ふらずの唯一途にまらんと思ひと改はしみ山100〓此處まで走り出でたる身の今更重ねて何をか顧みん。煮ても煎じてもとの全け〓け2御許は切なることを宣へど、今日が前、今日が後、死するも、生くるも、せんなCBB在놀今生後世、考へても案じてもこれ限りの所存、貫かせ玉はりても可には在のまを産およだんあらずや、かくても猶我が中すところを納れ玉はずは是非に及ばず、御と2.なりよりよくつよ許を恨みんやうも無し、今少し筋骨逞しく膂力强く生れつきたらんには、sikeゅ39假令私に參りたりとて、伴ひ行かじとも云ひ玉ふまじきなれば、云甲斐n 2.ぶ無く生れつきたる我を恨まんばかりのこと、如何に我が成らんとや思ひこたひ五ふ、後にて御覽ぜらるべきぞ、さるにても御許は小太郞をこそ日頃い八百ひげ男たつくしみ玉はりしなりつれ、よ小太郎が有つたる四五尺ばかりの兜立錐掛ぶみをば重くは親玉はざりしならんと思ひまゐらせしに、"今日の御情誼には、小太郎をよしや取りでころ無きものにして終らするとも、た七·〇まつた小太郞が身躰んとの御思召にや、を世に全うせしめよも然には御坐さじ、〓必ずともに然は思さじ、たたら:50さらば小太郎を小太郎が急に任して果てさするも强ち不可といふべくもあらぬことには候はずや、ふ、此時人の建音して、ときひと抂げても連れ行き玉へかしと云ゆふべまぢかなか頓て物影黑み有く夕間近き薄暗さの中にも知るこくめんsひかゝ短髪黑面、眼のみ怪しく大く光れる猪頸の男突と入り來れば、たつぐそなた寝on忠次其方に面を向け、おゝ名倉殿、諸手の樣子は、654と問ふに、じろ〓〓柳を脱〓かなたをはめ居し彼方は問ひも終らせず、cenじふぶんかな きり品急込調子の語もそゝろに、もはや那の隊も準備は充分、金森殿等は今までの陣地を既に引拂ひて徐に山寄りへとき動き玉へば、な%み御手記りの如く喜八郎は美濃勢が中に屬き申さん、止みつくつきやう降りつの雨はあり、となた屈强の天氣屈强の時刻此方にも既助かるべし、さら其十三九百
いをはなたちさレじうでば明日こそと云ひ終つて一禮なしつ立去りぬ、始終を耳にして心愈躍るこたろうむね180とせまものがたひつ生なばかりの小太郞宗春、時刻は逼りぬ物語るべき間さへ今は無くなりたるこのこたあういかきせさゑもんたずつぐこれひとに此小太郞を如何にかせんと氣のみ急かるゝ左衡門忠次、此も他人もどかれひとたいハからまか店いことばかしく、彼も他人もどかしく、互に思ふに任せぬに胸のみ煎れて言葉るせま·電車つがた促り、はて聞分無きことをいふものかな、連れ行き難からぬものならばいま正6/3ナなんたの てねつごうていとはたいごと今まで何とて口を酸くして汝の望みを抑へんとはせん、到底汝が云ふ如かなたつぐいなさけなおふくにせんことは叶はずと忠次は云ふ、さりとは情無きことを仰せらるゝ、われひとりいかEあしてまとさともなな立二出我一人如何程の足手細ひとなればにや左までに。件ひ玉ふを厭ひ玉ふと宗はるぃとしわかひとこゝろすゐほどそなたのぞ春は云ふ、年弱ければとて他の情を推し吳れぬにも程こそあれ、汝が望ゆる行までい吉田てんそのやうわれSeみを許さの國はわれ遠に云ひたるに預分點しれれて其様に我を苦むたぶきたあさ〓〓と〓20やと喞つ、これまでに思ひつめて來りしものを淺々しく取り玉ふやと恨なと200たまこうけが喬む、成るまじき〓ぞぞと止む、許させ玉へと乞ふ、肯はじとすると從はじた〓もんさうふりいあめらもいっとすると、推つ推されつの問答に、また降出だせし、雨の中、日は何時ひげ男しいはひとかはさだか知らず沒り果てゝ、その人顔定かならずはなりしが其ものとしに其と知らそれしるゝ名倉喜八郞ふたゝびズり來て、なsろうgなにしをさかゐとの何を仕て居らるゝ酒井殿は、さうぐんめうちやうす總軍をあづかりながら悠長過ぎずや、とのぞあはミの事に臨みて慌てぬは聞えたることなれど、けんたい物になまぬるきは倦怠ならずやと金森はは生生聞聞がしに獨語かれてかなもりそのそれがしつぶやこうにおんこと候ぞ、日頃にも似ぬ御事、とあ疾く〓〓出でられて然るべしと不快氣に云ひュくわいげいこたへ154捨てゝ、せ返答は書より退ひかけて爲よと云はぬばかりに立まれば、たちさいカこゝろえたゞちい如何にも心得たり直に出でんと云ひ〓〓床見を離れて立ち、いしやうぎはなた9よろひうは おびゅいし正きつと着たる鎧の上帶を一ト搖り搖つて締め直し、こたろ)かたおか屹度小太郞が方に向ひ、われはやそなたかたひまごうけつわいけん我既汝と語る暇なし心ままして我が管見に從ほ災れよと言葉に力のあらん限りヲ認めしたんくことばあたた部こいはやふ、云ふより早く、いゝや、C仰なれと從ひ申さじ、したがまをこんじやうたおんねがひとこゝろようけひ今生に唯一つの御願なるを公く快く承評きて今直召遊行王へよとすも動か血若承の一徳いますぐめしつたますんうごわかぎてつといいきほひ止まらすべくもなき勢狀なり、たゞつぐ〓ぜんてん忠次これに悔然として天を仰ぎつ語を絕せあふごせつたちまちしてうこどりしが、つか忠務養島の小禽なんどを變むが如く小太郎をは左子に引地へて可ごとこたカラゆんでひんだかかた其十三
どうじめてちよこた당뇨たひろごついにするを同時に右手には述に横はれる后実力を拾ひて外問に実と山609 ,ちうはぬはるかへたとみながまごだいふむんはしらごはんけは篠安く用中を颶せ扱けて進隔りし富永孫太夫が陣に走り入り。言葉も嶮まひたいふとのたのあたらわかものしにいとわたくしうゐぢんそちらてしく、孫太夫殿、賴む、可惜若者、死急ぎする、私の初陣、其方の隊にてがらさいaたビかぞかしにいそ屬けて、功名は慾の沙汰、たい塲數一つ懸けさせて吳れ、死急ぎする、たヽかひしさだなるこたのせんじやうなこミ勝つ戰ちや死なせいで、貞春が子ぞ、賴む、といへば、戰塲馴れし武士めはなしのさとはやうすの眼づかひのみにて談話もするまで物の悟りの早きことゝて、ム薄( Cこがてんころたのじいわれがねごみ〓知つた柳の子かよ、合點した、殺すまいぞ、賴まれた哩、と破鐘聲ろろこわつここゝろけこたろうはいな地に下されて初めて此處に我が連れ込まれし思を解せし小太郞本意無きちものいたヾをむらわがて面色して物云ひたげなるを忠次は笑ひに顧みていとやさしく、我手には第このてっていっみすきほしにふそ??ようつ敵といふものゝ面、屬け難く、此隊に屬くる、明日覺えよ、死急ぎ無用おことかさい5とモ、我が言聽け、たゞ不覺すな、慾をすな、と云ひながら抱りあひたるてシはなこゑおもてしつぶう手をば緊しく、締めて、放ちて、さらばと一ト聲、面も見せず、疾風のごといぼあみおさ如く駈け出でしが、四五十步にして願りロれば、風のためにや左しものひげ男あめやヽおとろな:雨の、漸衰へて名殘までに、なか霧ともまがふしょ〓〓降の中にぼい一やり脩か。うご000うこなたお火動く夫を受けて此方に向へる小太郎が面はくつきりと浮き山でしたろ) CitういSE눔みと著く見え、そのうしろ追ひかけんとせしを止めたりや其苛後に引然ひて肩に子をかひつそかたてみきごだいふたかけたりと見ゆる孫太夫の丈めいハいと高きも眼に入るに、こゑとみなが富永殿、とのもつとたのひたのわ思はず聲をあげて、屹度賴んだぞ、と叫べば、あん賴まれた哩、たんこゑふたのふたヽこ案ずるな、と應ふる聲す、確と賴んだぞと再び叫べば、こゑこたへあとくどい哩、わみ未練な、れん:聞苦しい、ぐると叱るしかやうな聲の答の後に、たかたやみよアハヽヽハヽとの高笑ひ、teなみシ闇夜の空に濤なして響其十其十四てきたいぐんわれこやいてきたかき敵は大軍なり我は小勢なり、みわれひくおしかヽ敵は高處に在りて我は低きより押姑るなり、でしけんごきよわれたて敵は堅固の柵に據りて我は干となるものも無き廣塲を進むなり。なひろば,かたたじやうげちこなたしやうそつ彼方は上下一致して此方は將卒おもひ〓〓に、かなたはかりごとみなよ彼方の謀略は一二ならず皆能く四
こなたまつたてきいつはりこれら口はれたるに此方は全く歌の許計にかゝりしのみなる此等のゆるはしやうせいいきほひはやさだショてきてこnたとにても勝敗の勢は既定まりたるを、思ひもかけず敵の手に小荷默を奪らねよやどころつらたかひたヾがむワれ根とせし據處を衝き潰されしかば、戰鬪は唯我のみとなりて、無理むたいはたらきこうおさうなこをとここんじやうぽね無躰なる運動の功を收め利を發べきやうも無く、小男なれど根性骨はしふとようたやまがたおほくぼたゞよてむかた生たゝかに太しと世に謠はれし山縣は、大久保忠世が隊に向ひて、彈丸をいたそだいだん(6)ほへわはつてしたうしろ受くること二十に至り、其の第二十の一彈に鞍の前輪より拂手下を背後うちとううちじにつちやなほむららんぐんうち〓のこヽろあらはしまで擊透されて戰死し、土屋直村も亂軍の中に自己が心を表して死し、ないとうしうりかつよりのきぐちゆうせん〃あたのちかうべあさゐなベたろうさづ內壓修運は膨如が如目に消戦して大に中りし教育を耐夫奈彌太郎にビ〓みのかみこのにちとせりあひofへいわづかよにんしりよ民域美濃けは此一日九度の集合に七百の手長僅八千餘人となりてもしんたいわがしゆ:かつ6たいもんじはたうしどらもんBoomさある進退に我主を護りて、やがて勝賴が大文字の旗丑寅の間に逸に去りみこたいところのぼちSかぎ;つとみぶわかしを見るより、小高き處に上り、千鳥鍮の鉛を杖つきて見送りしが、我きみいまさろはしす佐生こヽろのこかた=のある&よさん〓〓七ヶ君今は萩橋を過を下へり心凌さんカも無しと自らるを呼び依々が戰すこゆうぜんそはとさなだのぶつなさなだまcomかはくぼぴんごをばたびぜん未悠然として終りを取り、眞田信綱眞田昌輝、川窪備後、小幡備前、ひげ男をやまだ)たかもちづきよしゆっそのほかなゆうしやうら等數多く敵の手に體れ、小山田盛高、望月義勝、其他名ある勇將てきて佐さん〓〓たけだぜいはうらいじめぶい散々になつて武田勢は風來寺を目どし落ち行きける。店おほよそごこう豫て大〓は期したるながら此樣までとは思はざりし笠井人六、ジかさる。だいいまaむねんかたいかんかたな今更無念やる方なけれどまた如何ともせん方無ければ、おんやかたおんうしろやすたてまつおなこゝろをとこひとりこせめては御屋形の御後安からせ奉らんと同じ意の男一入と、ひくみぞおひまつえたまばらみきふと小戾りなしつ、こ道路より少し引離れみすこひきはなたる低地に生へる老松の枝疎に幹太きを栃として、たてジて8へいゃだねかぎいためみ追ひすがる敵兵ござんなれ、ヤ矢種あらん限りは痛き日見せんと注失速に対立つるほどに、つぎばやいたyあしいまみたx tat折しも步さへ今はやゝ亂して追ひ來る三河武士、くほんなたゞかってへいまつくろおしきた5たちましやうぎだほ本多忠勝が一隊の兵眞黑になつて押來りしが、射られて忽ち將焚倒しに四五人倒るれば色めく雜にんゝほいろすそつ卒、てきゆだんさけエなまとおほ敵あり油断すなと叫ぶ間も無く、あだやなしせうつゞ的の多きに空矢無ければ死傷續きにんたちんてまた五六人、f03いかこれはと驚くもあれば赫と怒るもあり、なかs ,きたたもんでんろうはちすひこすけ中にも先がけて進み來りし多門傳十郞蜂須賀彥助、かおぼえさいづれも經驗ある猛者なれば、:な、みどるは生おたboはいへいにん騒ぐ見苦し、關はず押せ、れれたしと多寡が敗兵の三四人、くさ我等を喰ひ留めんと橫さん〓〓散々に其十四
なにほさ'ナ〓)な矢射ればとて何程の事のあるべきや、斬り捨てゝ通らん、と冷笑つて大な〓われま五いごはんうしろだいかけご五たか;我は右を射ん汝は左をと大六は友に悪壓しつ刀を振翳し馳せかゝるに、つるおと たかきはなひこすけ出いた:らぶかンるゝ數な高く切つて於ては意助映權を正面に刻られて歸家に矢を自ひたはふりむとたんへうした·めんもんのぞときペと倒れぬ、これに振向く途端の拍子、多門が面門を望みて飛び來し矢はうしろけづはるかたゆぱいまげきとでんろうひてう兜の後面を射削つて、逸に逸れ行けば、い一倍增して激怒せる傳十郞飛鳥のきとみヒレあかみゆみナみすさうり如く身をそばめて走り近づくよと見えたるが、弓を捨て身を退らして打ものとらactおだしえいなあひだすこたお疲れげん物取んとする男を片手なぐりに曳と斬る、間は少し隔てたれど大刀の寸みぎかひならっおとあまひとりてきのいきはひたけだいめがの延びたれば右の腕を打落しぬ、餘るは一人と敵を呑む勢猛く大六目掛あしすさただいたかひでたけ斬りかゝれば、一步退つて、すつくと立つたる大六高英、ハツタと多02 ce풀らちみづこあくたんSむちごしつこくひけ門を睨まゆる眼は秋の水を凝らして、渥丹の如く面に輝き、漆黑の鬚髯、じ(4たけせっ2たかふうとう〓〓xしやうみわた一字の口、身幹扱群に高くして威風堂々一軍の將たるべくも見を渡りぬ、ニていのがいさか〓えやきゑたきたたち好き敵、逃すまじと勇みて竝る多門は矢聲立てゝ切り立つるを、大刀さぬヤ)あしとじざいよはとかなほてへ抜かで遣り違はす步取り自在にあしらひしが、好き程と見て猶手に持ひげ男ゆみきひつばらぶあまがうてりし弓もて横に引拂ふに、きうこだにすぐたもんこらたほふだた六分餘りの强弓なり、力はいたく優れたり、多円地へず倒れ伏すを越しき立てナ二ツ三ヲ續はるまに打つて其儘〓そのまゝうちすおのれらかヽら切らんともせず打棄てつ、れあしはやこんさはし汝等に開ふ我ならずと云はぬばかりに足疾く北を指してぞ走りける。其其十五天魔鬼神も揺ぐべき狂將勇士の數の中に包み圍まれて意氣盛んに誇りた〓えんひしもうしやうゆうしかかれっだいふはこきのうゆめいまみむかkcりしは昨日の夢となりて、はじかのでんう즈今は身近く從ふは初鹿野傳右衛門土屋惣藏笠もんのちやさうざうかさゐひこらしざつへうすこし井肥後等の四五の士と雜兵少許はかりとなり、むねんきばかかつよりちわらなほうゅうんきせつ無念の牙を咬みつゝも勝〓力無く風來寺さして行くに、たかながまけいくさしゆじうひろうせなはた温氣の時節なり、戰鬪は長し、ことさら敗軍なれば主從とも〓〓疲勞甚しく、こちたけみほかこ)はとつご0しに心は猛きも身は任せず、ほと〓〓内し果てゝは亞て恋して切り迷せんと空に思ふも一度二度にはあらロレルぶととにたけめん〓〓せいちうむしが、從ふ間々が精忠を無にもならねば其もならず、それぜい三何数の後より。馬あとのン十五
ふかぜ2り想ふ呼クやよびく風の中に送まれて一つにざわ〓とと聞こゆるにつぶ"ひごろいくさがみやさほこだいもんじはたてミしんを潰し氣を呑みて、日頃軍神る宿れるやう誇りし大文字の旗の手前も心ぐわいしごくこんげつこんにちシIsあとわて8〓むかことに外至極ながら、今月今日、はじめて馬の被の後輪を敵の葉武者の眼にまみisおきはらたゞしぜんがうてきみちふさろうかつよりので見せさらす口惜さ順立しさ、自然剛敵の路を塞がんには四郞勝賴が好すいのちひろざんぶんあまいかへしんで拾つる生命を拾はせ吳れんものを、と〓憤の餘り今は却つて死をだいさぎよあゆこ〓あしのふ春のぞみぎに潔しとすれば、步まする駒の足もゆたかに、伸び上つては左を望み右とのぞかせきたまたはのはあもうくわ조ごりひとしこを望み、原本ちは復餘妃を掲げん猛火の名残の燒のおべかに鎭まれる如あやとことひつじさがひあ金かどやまあひせつしちかははらなき怪しの眼に、未刻下りの日を浴びたる山角山峽、折矢散りばふ川原川ニなみすころくはこの限を撫づるがことく見て温ぐる意中を汲みてか汲まずてか、初鹿野ふりはやちかょ今少し御騎を早めさせエへへ、なんこまたまあひへだおんうしろかへりて近く寄り、間距たりて御背後をてんきうとのにた生んえすたら(4)〓せいくば與底殿の抑へ王へばとて五十人には過ぎ王はねば、敵の多勢に咬ひつなんぎおよまをグ〓こうしやをとこことばしななかれては難儀に及び申さんに、と武邊にかけては功者男も言葉は品無くゴこつこういらかつよりきかくぜんたま武骨なり、さらでも心の焦れに焦れたる勝顧聞くより赫然として、欺れ、ひげ男はじかのふかたのりよぐわい初廉野、いうつけ不覺者め、てき慮外のことを云ふ呆漢の、(なになん儀ぞ、"疾駈を逐ふて退く我とおもふや、かけンのわれうしろて敵に咬ひつかれて何が難3しなのぶながごとしわれ背後の手薄きは知らぬで無い、かほとのきぐち信長如きは知らぬこと我は斯程の退日なりとも、ぢみちxのかサえco地道のほかは得乘るま駈は利運の時のものぞ、うんい、疾かう運つたなくして斯樣なつたる上は、ニ2 ,てきゆるり〓〓と馬を打たして〓を飽まで假り辱しめ臭れうずに、あくあなとはうのなんのきぐちいそつねにいそれを何ぞや退口に"急げとは、けんきヽぐるし常にも似ぬ意見聞苦い、かくして打たるれば打たるゝうたとへうかひろうまで、假令打たるゝとも甲華の四郞は最期まで局を地道に乖りしと屍のさいごうまおみちおおお.. ceyことにけふにちの上に噂されん、ほは特さら烈しく今日一日乘り廻したれば我が其駒の如何にわこのこまいかつかああし:疲れしか、み擡ぐる足の重氣には見えざるや、ちくしやういあかぎちからすで(むちうこのうへ畜生とは云へ有らん限りの力を既に竭したるを、たほさせい鞭つて此上に乘り倒さんこと情あるものゝ所爲なしよゐかな三三いのちらんや、詞ひ馴らせし民の生命さへ乘り縮めて退きしと陰言を、ち.のかげごといらわれ〃たことつ云はれても活きたき我ならず、三:無益言吐くな、ひとなごがうじやがまんごほうではじかの控と馬には優しく人には酷き强情我慢の恐ろしき暴晤に初鹿野は獸りしが、ろうc)かさゐひでゆつひそハ老功の笠井肥後屹と密かに思其十五
ひミしみひかりうすみことえみふところありてや、目の前の籍かど見るて光潮き老の眼に笑を見せつゝ、いかこじやうめいたつかがちあしもとあやふいましはしみ如何にも御乘馬は甚く疲れて、躓き勝の足元危く、今少時ほどに見え候、そにがしまきらあさなはこるおそ老生かのは牧を出でゝの日の淺ければ猶よく堪へ中すべし、恐れあれど、おんはたらめたまご노かくおんうまそれがしたま御働きのなるまじきに召し玉はんは御不覺なるべし、御馬を老生に賜はそれかしめか産せひめ盜こんかけ:りて、老生がのに召し替へさせ玉へ、是非に召しかへさせ玉へ、御進退めおんなさけとおんかくご=まるなるまじきるのに言されんは神情は染まれ師晃役は乏しと申すべいおういひごさいうれ云ひ出づれば、應よく言ひたり肥後、左まで云ひ吳るゝが嬉しければわうまくなんなうまかさうざうおんなとしわかひごうま店我が馬吳れん、汝が馬借らん、物藏、汝は年若ければ、肥後が馬倒れしときなんじとしよりかペgげんひごと時は汝がのを老人に貸し遣れと機嫌よし。肥後はひらりと飛び下りつ、23かつ1/8みかつ놈すニ三またやがて我が馬に勝賴の乘れるを見て、おのれも勝賴が乘り捨てし馬に跨おかはぜいき8ゴきたむらくamがりしが、折しも三河勢の十闘二十騎追ひ來れるもの漸く多くなりて、れらともだのこヽろづよてんりうてたち20おとかすかいく彼等共賴みの心强くヽ典底が隊にかゝりしとおぼしく、大刀打の音微に幾ヒあらをとこをたけこゑきこよしはバおんいとま干の荒男が男叫びの聲に揉まれて聞ゆれば、好き機とや思ひけん、御暇ひげ男또わかみごし賜はるべし、いのちかつ若からぬ身の惜からぬ生命、あまつかまつはあんじやうこゝろふかれい返し合はせて一ト防ぎ仕るべしと云ひも果てず數上に心深く一體して南方に向ひ取つて起し、みなみむかとかへつか〓馬に一角くれて、かくかさゐ笠井殿、との肥後殿と人々の呼ぶを聞き捨に走り去りぬ。ひむNoひと〓〓疲れしすてにさかはがたにんかうしうがたにんあま三河方四五十人に甲州方三十人餘り、シかあらそなからかさゐひひたゞひとりかひ追ひつ返しつ爭ふ中へ乘り入りたる笠井肥後唯一人、こた法かた〓〓枯れたる老の聲を絞りて、のたなあひてとたま上きて百かご〓わた方々、退き玉へ、對手に取り玉ひては不足ある敵、ひご吳れんと云ひながら、くらず鎗を。閃かして突いてかゝれば、じんち笠井に渡されよ、肥後一人にて、あひしらひつのぶとよみちかひつそひつしはたらあをきを:いきはひ信豊が身近く引添ひて必死と働ける靑木尾張、ミかてわこれに勢まさりて前なる一人を堅割りになおむだれよこねるかたきし、返す刀に橫なる一人を脇より万一と抄ひ切りに切り倒しつ、합B店かさゐ20おんこゝろざしくわぶんぞんいまみ空SOL笠井殿、御芳志過分に存ず、こジわにちむちくふん ぜん今見玉へ、此奴等、押しかたづけんと、つか疲れし身にみ我が心の鞭を吳れて稱然と切り立つるに、9たはひつかうしうむいねいきごみはげきかへいろひる勵みの付いたる甲州勢、我も〓〓と意氣込烈しく捲り返して、かは いいたんぶ色葢みたる三河勢を一段ばかり追ひもわしゆ〓じどしぬ、B.ひされで我が主を無事に護りて遲かんばかりを詮とせる尾張は好せんを:よ其十五
beジすしそつレゴ〓〓のふとよひきそかたきほどに敵を追ひ捨て、士卒をまとめて徐々と信豊に引添ひ鳳來寺の方こゝろざひきかレおのれちかひでなにいさ がみへと志すには引替へて、死を自己から誓ひたる肥後、何を生甲斐に身をおしじうぶんいきほひのコ〓〓とはさん惜まんと、充分に勢に乘りて追ひかけしが、敵の遠く去りて隔たりしを〓ゐるおんにわかすぎさなみたうちなにくわんぜう見て、路の傍なる若き杉のはら〓〓と少し列立てる中に、何を勸請せしひつさやつきしうSafeみやひたんしnoなか提ぐれば提げも仕得べき小なる宮あり、御手洗に取做したりと見ゆるいさヽかながそのそばみかはのさむすみづ,は些の流れも其傍に見えたるに、渴きたる咽喉には掬ぶはどの水も欲しきたちよみあんごとそこすなすながありがたあまり、立寄りて見れば案の如く底の沙さへ透く流れなり、こは有難きめぐよおうきつこうくばうまとンなが神の恵みと四方へ一應能と心を配りて墨よりひらりと飛び下り、流れのしニ3くりひだりてひらくび3Cあ下方に先づ馬の口をつけさせて、左手に平首かい撫でつゝ、噫、おのれせいつちからおはやいくばくよあなはひ22みも精盡き力脫ちて、最早幾于も世の味を甞むべくもあらず見ゆるかな、ごじやうめぜひなもきら御乘馬となりしからは是非も無けれど、あゝあはれのもの、諦め吳れようまかたわわれかたしひとりごけムにちめしたと、馬に語るか我が我に語るか知らず獨語ちつゝ、今日一日に眼の下あ日いたcarしゆくんあいばさ모みたんそくし日したもの常とは無く表へたふ主者が変鳥の金從と近て敬点することよひげ男ノーモるたりさみ:再び四圍を篤と見し後、のるて、ちガひやみづゆびにつこえまびきく鎗を地に置き、冷水の指もちぎるゝばかりなるを莞爾と笑みつゝ馬〓抄あらぬば掌に掬びて、てむすいくたびisたさりCジニあしおとけだん なろう幾度か口を嗽ぐ折しも、步みよる人の是音す、cj、、うとはや油斷無き老功の耳踈からず、みづム;てとたんるごゑ疾くも水を噴きて鎗を手にする途端に、すると叫び聲いと銳く、か、くななの左みものゝぐあざやか突き掛り來るは名こそ名乘らぬ愛をあるものと見えて武具も難にみ替もゐく侮り難き好次なればた〓たかあなどがたをとこてきでてこゝろなふむ敵ながら卑まん心も無くて、て七か120ひと振り向きざまに敵の鈴を拂ふと齊しく身搆へみ二五あしどいとおごそたちむかしばし足取り最嚴かに立向ひつ、ねろヒンぜなやゝ少時睨め合ひて言葉も無くありしが、Lわかここ年こえ若きだけ堪へかねしや、ついたてき一ト壓あらためて突き出す敵の笹種の鉛の光、さヽぼらひかりはなSじょういなづまごととは鼻の頭に閃いて電光の如く疾し、しゆれんつ卷き落さんものと手鍊積みたる肥後もひごおなやりかれず同じく鎗を以てあらそふ、彼も鎗なり、これやりおほみさヽぼちがひこれ、つかれはらかなた此も鎗なり、大身と笹穂の差違はあれど、此より突けば彼は拂ひ、っこなたはらたかひ彼方の突くを此方は拂ふ、おとまさしゆれんしゆれんたち互に劣らず勝らずの手鍊と手鍊の烈しき鬪ひ、ていらじやcotあひほとごと:いましゆうわか空に二條の蛇の爭ひて相纏ふ如く、良久しく雌雄も分らざりしが、にふるがうまなこあきら〓心は剛に眼は明かなりといへと、老いた其十五
かつつかてあし〓かなひごしたご且は疲れたり、手足は思ふほどに叶はず、やうやく肥後は下鈴となり、すさあひにくすさこぞゑひくかげいかりて、退り〓〓つ受けかねしに、生憎退りて樹末低き蔭に入りしかば返:いしづきいまえださまつたあわき ばらてきやはsす銷の石突今や枝に支へられ、全く明きたる脇腹にあはや敵の鎗の穂先上せつないはさしさりんぼく÷するどく觸れんとしたる一利那、岩も裂くべき獅子吼一聲、林木に震ひこisたいたう3ぎんくわうえいりちけぶたてきたはあとて起ると共に人刀」無の線季您家に血通りはつと立つて敵の倒るゝしゆがんみちやうぜんさん 〓〓かゆふなをとこより朱顏ぬつと見えて、長署變々と風に吹かせし大の好漢のあらはれただいx甘9〓ぼあひみり、大六なりしか、いかにも叔父貴、と一句と一句に一步と一步、相見わ,かいのちさいくわいたがひあゆよひざりしは少時間ながら生命あつての再會なつかしく、互に歩み寄れば肥こヨたてとアルト06じレこしかすでこのよらち後は先つ大六が子を取りながら傍の平めなる石に腰掛け、既に此世の埓ゐそなたせわまたしばしおしみらの明くところなりしに、汝が世話にかゝりて又少時借からぬ身を生き延びてがらいとて いうんなをとこにがわらひきうることよ、あ名させて惜からぬ敵なりしに運無き男なりしと苦笑す、急ピあひいきづらみきりすぜひいまちとむなの接合に生面もれで斬給てたさは尼非なかりしが今になりては些能そんていしにかばねめないくせうしやうにも存ず、と敵の伏屍を眼にしつゝ大六もまた苦笑せしが、それひげ男、2なんにしても叔父上は何となさるゝ、aてたまじんやかた(3)ンそれがし差したる傷を負ひ玉ひたりとも見えねは御屋形の後を追ひて小生と共に行き玉はずや、koゅたまむやくてきなレンバルぞんこ無益の敵に關らんも愚なることゝ存ずるに、いつことㄸ此邊に居たまふて今の如く名も無きものに危く功な·てごさづレたまあま名を授けんと仕玉ふは餘りに御心無しなり、おんこヽろなたたまごしよぞんなにうごたまいざ立ち玉へ、はて御所存あつてか、ンな何として動き玉はぬ、きよゐたちかひと叔父が清井田の誓約のことを忘れしみたヽかひはやをはにはあらねど、こうやういま〓せん戰國も既終りし同樣の今更詮なき死を成るべくば遂げさじなとこヽろことばかろせまじの情より言葉を輕くして勸むるに、すひこおういろなンおまかン肥後は應ずる色も無く、老いたるは老いたるに任せ置け、わかそなたふんべつかいせ若き汝が外別貸さうは要らぬ世話ぢやへ、わだまだいひこてうかん默れ大六、なね肥後に釣開が眞似せいとか、みざのしゆりどのまな즈いわかうつけめ、美濃殿修理殿を學べとも得云はぬかい、ことばごうしやこんじやうぼね若いものゝ言葉巧者なは、うすでみたのなかねご根性骨が薄手に見えて賴もしく無い、け上はいぐんてみ豫て期したりしが今日の敗軍、これまでになつてのめ〓〓いのちたすと偽も負はねばとて生命助かり甲州の地に足が載せられうか、かうしうつちうのこ6をむやく此邊に居るは無益で無い、じんやかたあとした一斷二讀でも御屋形の後落ふ〓を食ひ止むるは御後をupとみんうしろ其十五
やす安くするに當る道理、あた2000む無益で無いは、定ないま今のやうにして我が死のうに、われしわれ我こゝろざしとてきchとこゝろなことなんわうまよりよくは志を遂ぐる、敵は功を獲る、心無しの事が何であらうず、我が馬餘力かたかたひばまたこひつかへきありたれば御屋形に捧げて御屋形が疲馬におんやさ跨がり此處まで引返し來しもなんでうこのこヽろ3·3たいわがニあんししにぞこなのを、何條此心に自ら違はん、我上は案ずるな、死ぬるばかりぞ、死損즈すたゞわこゝろそなたいきそこなサあんひは得こそ爲まい、唯我が心のひかるゝは、汝が生担ひを爲まいかと案ことなだいきよゐたかESばとのれき〓〓ずるばかりの事ぢや哩、やい大六、〓井田河原にて馬塲殿はじめ歷々にちりよぐわいまをおのよいきそこなすこのおやむこんじやうおきみやけ對ひて慮外を申せし故は生担ひは爲まいがの、此老夫が今生の置土産に、そなたこかふんべつなんまいおんやかた汝に無くば貸さうかい分別を、これ、おのれは何と今云ふた、御屋形のあと〓ゆらおんやかたあとンたはけ後を追ふて行くと云ふたな、たゞ御屋形の後を追ふとか、た、た、白痴こゝろないきそこなめ、うつけめ、心無しめ、そ、それが生損ひではあるまいかやい、これ、赤カ모はちわすしじゃたちらめどら〓戰ひ負けて耻を完れ仕出さうことの弥な日的の行るでも無いでぬくいいきぞこないかうしあきらと生きる、生損ひとはそれを云ふぞ、斯樣とは知れたることながら諦めても諦め兼ぬる今日の狀態、あきらかけふありさな·前代未聞の我慢の戰ひ、ぜんだいみもんかまんたわ御家未曾有の大瑕おんいへみぞ〃じかひげ男瑾、きんくちはヾひろかみがたぜいるゐなてがら口軀廣き上方勢に類無き功名させしなれば、わわほこりがたけだいまやなに輪に輪をかけて誇顏に、い武田も今は既何かあらんと云ひ觸らさんは眼に賭る如く、ふめ分ごとそのisどんかんにんいぜひ其面憎さは堪忍ならぬど、なまづくちおし云はれても是非の無いが先口惜く、け上いたそのうへろ立いんげん今日の痛みの其上を有るとを無いことのは言に倍増し三倍増し味方の酸は袋がれ改めが夢ばいまばいまみかたゐを(〓いきほびつバこれくちむしわだいかんと思へば是も口惜い哩、かくなほ大六、たゞぼやおのれは如是ても猶、かたおんあとニ只御屋形の御よが、後を追ひさへすれば可いかと思ふや、ことのこのかたきたきたa故殿以來鍛ひに鍛ひ鍊りに鍊りて1)つゐたけなおんいへぶ築き上げし武田の御家の、めい〓〓つろン武名一朝に土と崩れて、このはかたなひつでうみ此儘にせんには形も無くならんは必定と見えたる此日、このひし死するものは知らぬこと、〓^のこなすべな生きて殘るものが爲す術無しとは、このひこゑいぐ此肥後は得言はすまい、ろうな其なたヾいいおんこれ大六郞、爲す術無くて唯生きると云ふでは汝はあるまいの、vごいひごなピsやまがたどの肥後が甥ぢや、肥後が甥ぢおのれは馬地股にも山縣慶にも日頃親まれた肥後が甥おや哩、や、ひごろしたしひこおひわいいきぞこなきつとすひつでうな生損ナベひは屹度爲まい、い必定爲さう術あればこそ生きて殘らうとも仕つれ、のこしなんわけ4ぶん、やそれに伺つや譯も無けに創農形の然を過けんとは此反文を該るに足らかたあとニこの"ヨかたた其十五
しれぞこなx BいきぞこなSPLㄸしてか、死損ひする叔父ではないが、生損ひする汝でも無いの、ハヽハ、てうかんおほいあとおんなうといごろこと釣因天炊が後についてのめ〓〓と退く汝でも無いの、卯の刻頃の事なりたかみゐてきみかたやうすみるたビとのなほかたニしが、高處に在りて敵味方の動勢を見居玉ひし馬塲殿が、と猶語り續けなかいづくわceへい比しいよれきか、んとする最十(號座より湧ましが歌丘四石主り由でゝ達に切つて取うじむしだいかつせいだいたう"くさか29たちまだいりぬ、蛆蟲めらと大喝一聲、大刀の向ふところ草苅る如くに忽ち大六はみたりBたばひこつとCEのをわつた三人まで欲り倒せは肥後も一人を突き留めしが、敵の喉輪かけて突き立,リそのまゝつえそのときばとのみかたうちしろこばたaびしそてたる鎗を其儘杖にして、其時馬塲殿が味方の中に白の小顔に井愛を染さしものはたらたれみなけなげみしやうびことばめたる将物して働くは誰なりや見劇れおなから他銀に此めると貸美めんぼくおひだいかさわしるしミ面目あることに候、あれこそは甥の大六にて候へ、笠は我が印に用ゐたムびしう ハこたおひごれば井菱を付けさせて候と、嬉しと思ひて我が答ふれば、さては甥御なきのふことばぶあにんたんょいのこいりしか、昨日の言葉も思ひ合はさるゝ働き振りよの、生きて殘らんと云きっといきぞこなあつぱれおひごわとのごまん ぞくはれしが、屹度生損ひはなさるまい、天晴朗御を持たれた和殿、御滿足ろみさらがただいいまきなんなるべしと笑を含みて物語られしぞ、大六、おのれは今聞いて何とかおひげ男われいきぞこなこ!!我は生担ひの一ト語る耳にせし暗は奔雷頭上に落ちかゝししひもふ、¥ほんらいづじやうユバして、てきみかたとラえんこゑてつぼう敵隊方が明〓の磷数砲の音も少時は全く聞えざりし、おとしぼらくまんまこおひみゐpot甥ながら見上げた汝なれば、いまなにロ.ちからかくなりての今何とかする、よはにんよも只生きて生損じはすたゞいいきそんまいやい、一人の力は弱くとも一人の意は天にも徹す、こヽろてんていはたらゆうしがんちう生きて働かん勇さな士が眼中、てんうん定まつたる天運なんどいふ生〓しき痴物を容るべきや、또くたわけものいてんうんこくつがへてん うん天運定まらば覆すべし、さだわ天運定まらずば我が丁に造らん、てつくしのでしいさ死に臨みては知らこゝろぬこと、生きて念の指す前には悍かるべき天も無ければ、ヨ年てんななにおそBEろやまして、何畏るべき人の有ろうや、遣つて退くるところまでは遣りつけう、やいといふがだいじやうぶエ生きやうずる大丈夫の踏まへ處とは汝も思はん、ところ3.8.4 {5끈こけ上たヽかひのふながにちゑ口惜き此の今日の戰鬪、僧長づらに心を得させて、らかなんせんしぱa如何なる難戰にも仕塲居を蹈まへ、上ことのこのかたらっおたちめんぼくた故殿以來何時にても必テ面目を保を來りし味力が云ひ甲型無く引揚げたるにいたみかたいがひなひきあいおのれ生きやうずといふ汝はただに、いい生きんがために生くるかい、いきそこなら生損ひせうために生くるかい、おんいへとち15御家が取りたる耻辱の耻辱、ちじよく,こ〓う死なで堪へ得る其十五
をとこ好漢の好漢の、をとこおのれ汝が、Son汝が生損ひせう筈も無い、いきぞこなせづなたゞ此儘に甲州方は上このきがたかみつらゝをはぞなひつでうしやうはいロがたもの方者にそられて候でぬつくりと面上げ居らう筈も無い、必定勝敗を捩ぢかた.しやうはいふたつむあんな28c汝の生い飜すか、但しは勝敗を兩方ともに無にするほどの案じの無くて、はづなだい208としたぶんハンきやうずる筈が無い、ゑい、やい、大六、汝は年も足らず、分も低し、じんや御屋形の御覺えの深きでも無し、かたおん おぼふかなこのなヽ此戰爭の後を御家の爲、かひあとみんいへためおのれの力に·3·8 :なハヽ然すれば汝が御屋形の御後を徒にさおのれおんやかたおん あとた.て何とすることの成らうぞ、しにぞこな追はんとは此肥後を鈍く見て云ひしことの、わいこのひごごてみらか〓いきそこな肥後は肥後ぢや、ごおもへば馬塲殿が昨ビかま關ふな、ニの の死損はぬ哩、おのれはおのれ、關はぬ、生損ふな、ュ日汝に、うんよ好う生きて殘り玉へと染〓と云はれしも、らのこたましみ〓〓いあぢはひ味ありし言葉なりしことばジミじんぱおとこたびかもRyたいよ、オヽ、また聞え來る人馬の音、今度は十二十の數ならず確に一隊百あまいScaとこさあれ見よ、みみ味方と敵かたTO餘りなるべし、生きむとする汝は疾く此處を去れ、とを判つて知るかや賜はりし御乘馬の、わかしたまとじやうめとほ遠くも去らで流れの對岸に草をながおかひこ口食みつゝ此方へ寄り來る、こち.エ彼駒もろともに快く我は敵刄に世の埒明けむ、nこヽろよわれイミこんよらちあひげ男いぃ云はんと思ひしことも云ふたり、ない노すてつた大六、さらばじや、好う生きよ、いと云" ;かひ捨に突と起つや鎗を反して、もっながむかひと地に突く、流れの對岸に飛ぶ、ばヒーおつとら逸げたる駒を追捉へて、スパルしづかこなたひらりと跨り徐に此方へ步ませしは、ふンつかばかぞものさすがまみあつか老いても疲れても塲數者の流石に輕き身の扱ひ、ぁわしCBD急かず周章てず死に赴く心の盡り現はれにきかをるみめ12にて觀ヨ眼さびしき復頭にも人の肌を奪立たしむべき麥倍の氣をならひと長人た〓〓せふそうきあふだいとうてもくねん大刀を手にやしまゝ歐然たりし大六は収父を通り過ごして玆起を熟''たなやすうしろかひ5と見居たりしが、み3 BDバ〓能と思ひ得たるところありしや大音あげて、だいおんゲ〓ううけたまだいいきぞこな叔父上、たしかに承はりたり、つままつおむら大六生損ひは仕らず、오いとほきかごくろきぼつじやうたいのぼ必ず好う生きて生き徹し申さん、地獄に在りと聞く愛卿喜に上つて此世を御覽なれ、このよごらんだいこん どち3kgせい3,大六今日の勝敗を捻ち潰して吳れいでは濟ませ申さず、すエキこヽろよじはぢg快く斬り死せられい叔父貴、でいまかすり傷一つも今は負ひたからぬ大六、だいすてごろわジぢvゑゝい、捨殺しにする哩、叔父ごめん貴を、御免なれ、いこゑこだまuこなたさらば〓〓と言ふ聲木魂に響かして此方は水の高きをみづたかごとみれんなよこ辭する如くに未練無く橫に逸れて、モきうはしさかなた店急に走り去れば彼方はまた、ン潮と推其十五
くToユなかつぶてとEいし來る敵の貝中に礫と飛んで走り入り、うつ388みぢかあひだと現の境ほど短き間に遂げにける。4るよながわか彌勒の世までの永き別れを夢と二十三百ひ其十六さかるたのみガてんこたろうおねはるあづとみながまごだいふぼくとつ溫井が依賴を合點して小太郎家春を招かりたる富永珠太夫は、たヾ朴訥ぶしこヽろいたふかせいじつまいまけなこたろうなだの武士なれば心至りこそ深からね、誠實三昧の飾り氣無く小太郞を宕めceけつこ)いたたかひ〓このたび〓す和げて、决して功を急がずに戰國を覗るといふだけにて此店は在けて温水等てうろうことわざとはそくとびなにごとめかごされよ、沙彌から長老との俚諺通り、一足飛には何事もならず、眼學るんc)つジタへんしやなからだこヽろがけひ問だけなと功を積みて追ひ〓〓武邊者にもなり玉へ、身躰も心掛には率つよでうゆめ〓〓しにいそしたまセラきゐられて强くなり行かんが定なれば務々死急ぎなど仕玉ふな、長き前途いかやうばつくんてがらたたニごんみしかならろうまおしに如何様なる按解の功名を建て玉ふべき御身か知れねば、必ず自ら愛みたま:さとみそのしんせつとはかつ聞く身の耳にも其親切のき玉へと、と優しく諭せば、通らぬにはあらず且また あにたのた。つくわれこのひとたてたちは又見せる絹める處大が我を此人に托したる意の汲めねにもあらざげ男2にんちさとごとわれ うら他の心の曉らるれば暖らるゝにつけ我恨めしく、ひと〓〓ふガひかくまで人〓に腑甲斐なむねん2無く思はるゝかと無念さ增して、るしこゝろひと〓〓かなさら〓〓〓き情もて人この如是爲し吳(ロBreばんあきこわれるゝ譯にはあらずと千も諦め萬も諦め、わこゝろごまた上せたび五やなかゆ我と我が心を抑ふる下より、蹈めとも消えぬ焚き火の餘,りの山風を得て復ばつと燃え立つ如く胸の火焔ゑまたたごとほのふたみよまごだのむら〓〓と起つては身も世もあられず、いふことばmしおこぱんぶつショウチだんぎわれminuた孫太夫が言葉も我を知らざる烏滸の凡物が愚の談義、我を辱しむるに足るばかりのものゝやうにも聞な3'させんき做され、しつみな義理知らずとも人云はレ云一死せんには評る無かるべきに、まごたいふめみ(ぬいいで孫太太が眼の見四限より授け出でゝ思ふまゝに働かんか、ミはたらさかゐどのばやいづくしことのぞたがは酒井殿は既那方か知らず、うぜひ事と望みと違ひ果てゝ、かくなる上は是も非もなし、ひごたかうしうぜいかいなんな獨り立ちて甲州勢に駈け入らんに、とかっなさだみいのち何の成らぬといふことあるべき、はゞか兎てる所とる無うに定めし分なり生きなれば憚るところも忌むとこるいま20はしぬら更あるべからず、おはやとと走らんか拔け出でんか、と思ひ逸るも一度二度にはあらざりしが、たのニゆだんまごたいふめカナがた頼まれし上はと油断せざる孫夫夫が眼も掠め難く、一つは其十六
センこうち〓なほしめそのよ其夜は流ぞに獨つては他の心を無にせんも酒忍びかぬるところあるに、シあクじやうこくれうぐん8こあひせま思ひ止まりたり、されと明けての日の卯の上刻より、兩軍の旗皷相逼りうまたてがみふるたがいなヽまなじりたかたいかごけんげきて、馬は發を振つて高く嘶き、人は眦を立てゝ肩怒らすると頓て劔戦はいな三シネーてつぼうおとも2/8およボルトきかみこヽろはや電光と輝き錄砲の言は雷と震ふに及びては、我知らず氣は上つり心逸り、たからたけなはreおのゴわいはたよしはいわれ戰闘やうやく酣なる時、自然と我が意を果すに好き機會の出でしに我かかんはい上ぞんまつたなまた〓ぎたゞつぐじやうあひバら我を制せん所存全く無くなり、孫太夫への義理、忠次への情合も想ひ2.いときなひたすらてさにほんかとみながてばな浮むる隙無く、只管敵をもとめ北ぐるを追ひて、遙に富永か隊を離れぬ。ふ〓たのみかつてんとみながしいふそこたろ)しんちうりうぶんみと個共が依願を合斷したる首ぶけ注意きする小太郎が心中を充分に見にちつ〓さすがかかものたヾつぐいりて、おろそかならず意を注け居しが、流石の若者も忠次が言へるとこさこちひるがへみろ我が諭したるところに服したるやうにて、意を飜したるらしく見えたみミstyいた、かひわがてせわbyるに、有認らん氣のゆるみたる折ソ云ひ戰闘の我隊にも仕しかりし折なめおよこゝろミやなぎみついしたかひりければ、眼も及ばず心も屆かで、柳が見えずなりしを露知らず、戰闘ゆるかれこヽろoはやこたろカかひこま〓てヽ裁やかになりて彼はとぜつまたさ時は阪小太郎が窓も無く愛るひげ男すしンはやけなのガこは濟まぬこと仕たり、ひな公のことにはあらざれど賴まれ甲斐無きものにわれあんかんみなり心にけやゑなりて我安閑とあるべくもあらず、たづさりとて妄に柳が行衛を尋ねんとしうごいかゞし星て動くべきにもあらず、ゑプかさせはやこゝろきよにん如何はせんと思慮せしが、なるたづこいなやむを得ず部下の眼疾く心利きたるもの十餘人を擇みて浮ぬ索めに出せしに、かうないづれも効無かーに?。におみく歸り來りて、遂に似たる影のそれぞとおもはるゝも見ずといふ。カ.か戰闘だいかたへをはつこ若くは事無く宗春を吾が卒の將て歸ことな뚬わちの次第〓〓に一方より終るに連れ、るか、のでうすせっいまくなみたるやとの望みの薄らぎ行くに連れ、忌々しさのみ胸に充ち來て、立つもき+0子ヽのおもルシ:0正わひごろ安からず坐るも安からぬ物思ひに悶ふる中にも、め猶一人我が日頃より眼〓ce温か、こすちのぞみつなをかけ冊ける男の未だ歸り來ざるに一種の以みを中く驚きて、からかれもしよ彼若好きtheたんここヽろまち=こかきた報を齎すこともやと心待に待ちたりしが、xとき121ねきたヨ侍てども待てども歸り來らず、かみてほほ一時二時あまり極と漸く歸り來れるに待ち兼ねし昇のずまあげ相きよ法のき在いかて、其云ふところを聞けば、仰せを受けしより、如何にもして彼の柳殿かやなぎとのみいた石座須長信樂八束穂の山寄りより河添ひの東岸西岸とも〓すながしがらき〃つかぼやまよかはぞとうがんせいがんを見出さんと、其十六
(みほ心かゆなてむなば殘る隈無く見廻りたれど、それぞと覺しき影も無きに、手を空しく歸らこいろなぞんなほとほあらうみおほうみくわしたづめぐあ。うみんも心無しと存を猶言く有海大漁あたりを穿く尋ね遜りしところ、有海ひろばつかぼかたをみちかたはらンしゐたいばくとの廣塲より八束穗の方へと折るゝ路の傍に、老いたる椎の大木の一本にえたしけはCamかけこミそのねかたごはるなぎなたよこたて枝繁く葉の濃に蔭さへ小暗きほどなるありて、其根方に小き薙刀の、横まなこひ古墳みこたろうどのいかてもうちとはりあるに眼惹かれ、立寄り見れば小太郞殿の、如何なる敵に打取られたまたたつきころたまむくろいでなさけなくちおしみ玉ひしや唯一刀に斬り殺され玉ひし屍骸に出あひぬ、情無く口惜くは見sだてきろひなおんなぎなたおんしるしまゐらせたれど、時後れて敵にも會はぬば是非無くも、御難刀御首級をたづさずついろかはたまたまごようぼうことみおほ携へて歸り候、色變り玉へど萬人にすぐれ玉ひし御容說、特に見覺えあなぎなたみああまいたぞんうたる薙刀もありしことなれば、よも見過ちは致すまじど存じ候が疑がはしもとゞりなはごらん くだちからなこたらききは髫の切りあるばかり、猶御覽下さるべしと力無げに答へて持て來たしるしせんばうそで群どかなぎなだみりし首級を包める戰袍の袖の結びめ解かんとすれば、彼の薙刀を見しばはやふさまごだいふたおこそむたゞつぐかりに胸既塞がりし孫-夫堪へずやありけん面を背向けて、たツ忠次とのい約束はしxなんいのツx殿に云ひ譯無い、ゑ、モ、仕舞ふたは、何とせうず、と云ひさま突と立ひげ男ろかち上りぬ。其十七ながしのたかひまつたすxたミック甘かちさだ長篠の戰爭全く濟みて織田徳川の勝と定まり、かうしうがたゆうめなn.をごとたちまつくろな甲州方が勇武の名も氷柱の折れし如く忽ちにして繕ひやう無くなりし後、のちいへやすみeゆ家康は美濃に行き、あまたまたしろゆめひきつヾせははたらるは又二俣の城攻するなど、引續きて忙しく働きしが、くすゑこうらうくこの55ざいじやう五月も暮れて六月の末のことなり、ぎ子:わす日頃の勞苦も此四五日の在城の氣安さに稍忘れて、yニたのしよくごかゆあちしぶかたびら賤にも同じく、おくでん樂みは浴後の風の味、はしゐ澁帷子たゞ一つ着て奧殿の端居につきやまあなたいヨこヽろあてなにけな第山の彼方より出つづき月の心當を何無無く停女の四五人相手に見ヒちよあひてみペ·シ折しも、じんねがひするさかゐマ죠.えんじやうおんめみえねがたよし御願の節ありて潤井左衛門の尉卸日見願ひ成き山を申し出でらまをいるねぎひかをいとりばかられ、先刻より表に控へ居られまするが、か、まをこれ如何取計ひ申しませうやと、是ゆうしうちこにあとのここぼとしわづかもおある君士が雖死したる後に漁りし見と眞しを準備に十二三ばかまをはたヾつぐいまとろよよるが申せば、忠次が今頃にか、であ何なむゝ好し、予が出て會ふまでも無い、其十七
かろこたをんな6ゑんりよナベやがこわらは此處へ呼べとの輕き答へ、侍女等が遠慮して退り出づると軈てに小値にまつまきたはすかさが는たんへいふくたヾいた誘はれて入り來りし忠次、遙距りて室の一端に平伏す。おゝ忠次かうちこの뜹れいゆるはし おかかぜくつろげよ、予も此姿ぢや、無禮は許す、端近に來よ、好い風を與るは、へたてなことばまんめんえみそやさつねしゆくんわと隔無き言葉に滿面の笑まで添へて、優しきは常の主君ながら分けて今よけん〓らchcぶんすゐさんおそ宵は機嫌よげに見ゆれば、云はゞ今こそと先づ悅びて、夜分の推參恐れたてまつおんめとほいるaこんげんことば入リ幸るに阿目通りを許させ玉ふのみならず御題の師言更育り如くおんふたなにきと〓のちと恩を謝しつ、して子に賴まむとは何事かとの問を得て後、さればに候、ミ그5おんしかおろせか達申し上げなは不增なりとの酌叱りを蒙らんも測り線く僂へを何本底ごんめるしきをCcpニCamくは御許可を得たく、有り躰に申し述べ候は、柳が上より連りての義、でむねばるわたくししゆつぢんとうちじにいたニそれがしごんとがかうむ既に宗春が私の由聞を遂げ戰死致せし上につきては、小生は御咎めを被かんとみながまごだいふとのご2おもゑなんをはそれで却つて當示邦大夫殿師不見を發りしに御起斷は絞りたもとは申せがしCafeぼしめしたいつみ かろきやうくつかまつを生き家に師勢るに選ひたも罪輕からずと恐懼仕り居らぬにもあらずいまヽたかやうモしやうまをCHEめん びだい今又箇樣の御訴訟申し上げ候はんは、甚だ面皮厚きを我から賣むる次第ひげ男boごん ねが:に候が、忍ぶに忍びかねて御賴ひ申し候、なながしのたほかにもこれ無く、長篠の戰おセチさうぐんおんかちごきL xあけちどのくちうちこ爭濟みて總軍御勝関の式ありし時、たから明智殿組內に紛れ込み居て織田殿にことなめしとるだいのぶながこう切つて掛りしも事成らで石捕られたる笠井大六を、しんどる3つみなあけちonうたい信長公の御震怒の餘りの御僧しみは罪無き明智殿の上にまで及びて事態妙ならずなりし而、cめうみぎりかうしうながをかのちしやうしなるせまを甲州には長くなりて彼地の將士の美和を知れる成願と申する我が巨しんかかた〓〓もつぎんみとりたゞたよりし:うしざきはあり方良て呼除取れしの使をあれば產刑の總態を半裂く後の率とのちこと預け玉へ如何なる所存如何なる手段よりかゝる事爲しか詳しく糺して參しよぞんいてだてことなヾまるのぶながこう店こなたひきとなおのたらすべしと信長公に仰せありて此方へ引取り玉ひしが、ごんしら其後御調べはたisつぐかやつ〓レ二二度ありしばかりにて口を整める微如の〓地盤こに垂及〓しきの運びにも至らず、説いたしかおんなさけふかおよかぼしめし式青春なじやうぐわい然るに御仁慈深き御覺召より、はうくわうじごしぶけいごそれよりは詮議も捨て置き玉ひて、御城外の方廣寺に差置かせられ、警護のものこそ付けさゆたかおんもてなしこちたうけつきみせらるれ優渥なる御待遇にて、ゆつ心をあらため當家に仕へよと我君みづかおんさとOnすうとおよらの御諭し一度、成瀨殿が御意を傳へしは數度に及びたれど、それにも其十七
かたくなひげをとここのすへなにお頑固にて今に應ぜす、心憎き彼の鬚男、此未何とか仕玉はん御覺召のほきやうさつがたたうけねがいじやうども恐察し難くは候へと、御當家に從はんことを願はざる以上は、何日9 g 0くごまで彼の如くあらせも仕玉ふまじく存ず、如何に器量を惜み玉へばとてはなぞんしよせん13おんてミさい放ち遣りも、仕玉ふまじく存ず、所詮は織田公への御手前、此方にて美をは佐かなたしく終らせ玉ふか、彼方にて慘らしく終らせ玉ふか、二つの中を出でずぞんねがはたゞつぐらこうみやうと存じ候に、あはれ願くは忠次に彼男をば賜はり候はずや、此後の功名以の御褒美に代へても、持ちたる御或の御證文に代へても若許し玉はるべe Cab左ふんねがひまをくば、此願ひ平に貫かせ玉はり度、深く恩ひ入つて御願申すにて候、此いとまCcpはか四五日の身の閑暇に、柳が墓に參りての後、成瀬殿を訪ひて快よくさまものがたりいたはうくわうじニBLE cうけたま〓〓の物語致せし折柄、圖らず方廣寺なる四人の上の談を詳しく永はりだい10しやうたう候ところ、召し捕られし當時大六は、手にせし大刀の其他に二口の小刀ことおはせ〓を腰にせし由を聞き、然れば取糺しの命を受けられしにより笠井が持物をない22. 100産等も預かり居らるべきに、內との一覽を許し玉へと强ひ乞ひて一覽いたひげ男京森林むめいわざ ものせしに耳一ト猶ひは中等とて無罪の乗務なれ體協も色無ま品なるに:あかぎんア;この·&赤木の列り鞘、白檀の欄、一つは異樣の好みの品、はて珍らしきもめづこのなるが北しことあるそうの心壇するこそ不寒けれと取りつ置きううちうちおとろぶ中打驚きしは、ニ、やなぎこた思ひも寄らざりしが思へば是は柳小太郎が嘗て我に唯一た.ハ、っか度示せしことのありし品、は當時此拵ヘ面白けれど柄に手がゝり無きは〓;わがことちょぁぁくて砌好ましかもズヨベレと〓へし我言を道理と閉まして其必ありまたxあやすぎはあはせし時、彼小刀の柄には刻鐘深く終形を彫り線には中程だけ溪日をほなかほどきさめいたあらはし我ながら面白く致したり、ハと云ひしことありしも想ひ出さるゝ2.あやこたやつ今眼前の柄の絞杉鞘の標目、さては小太郞を彼奴の打つて、此の小刀のまだ眼につきたるまゝ剝き取のて偏びたるに定まつたりと、こた20むねおこ향상SO悟ると同時に堪へぬ恨みの胸を衝いて起れば、たちず成瀨殿に暇〓ぐるもそこ〓〓、立歸つてつく〓〓かんがchおか熟ゝ考へしが、私に手を下しもならず、申さば上を算るに似て恐れ多けごはひつきやう一 だまたれど畢竟ずるに御處刑あるべきことならば、願ふても彼を賜はりて忠次其十七一十四百
ぞんぶんいたたてばんゆる(%ひとりたマつぐこ〓ろまをおよ御許し下さらば獨忠次のみならで、小太郞は申すに及が存分に致し度、かれちさたはるせんからかかたぞん1)ばず彼が父の貞春までも、泉下にて如何ばかりか有り難く存ずべし、衆cxうちかくごとわがまBじんしかなあまむな人の中にて是の如き我儘を願はんは御叱りの無きまでも餘り辨へ無きににさしびかごやいんか( 24,たてまつなにとぞおんきヽとゞ似たりと差扣へ候て、恐れながら夜陰に如是伺ひ奉り候が、何卒御聞屆%いくゑ〓たてまつまごヽろこうつたいへやすおきてき:oけ下されたく幾重にも願ひ奉る、と誠心籠めて訴ふるに家康面を少し皺たのすなよこヽろえよのしかたヾつぐそなためて、賴みの筋は能く心得た、餘の者ならば叱りもせんが、忠次、汝がこいたよことよこな此のやうなこと云ひ出して予を困らしては、予もたヾ困るのみでは無いなをレをか、理解して居ろうがの、知つて居ろうがの、あのしたゝかのいたづらそなたぞん ぶんあけちぞんぶんものを、汝が存分にさするほどならは、明智が存分にもさせねばならず、ガだとのぞん ぶんなはことセブわハナめるか織田殿が存分には猶の事させねばならめ筈ちや唖、思ひ捨てえ、許し兼そのかはそなたせこいろそのしやうとうそなたぬる、其代り及が責めてもの心ゆかしに其小刀とてらをは汝に吳るゝ、·158 tめいニこばめいたうり明日は成瀬に命じ置かう、それにて堪へよ、との本意なき命なり。道理しゆくんことかつおしかへも無きにあらぬ主君の言なり、且はやさしく云ひ玉はるものを、押返しひげ男しㄸくちおめはなて强ひんやうは無けれど、あひだこ.たようさりとては口惜し、眼と鼻との間に小太郞がたうあるユあん みんせんかtnおおなたの當の仇を置きながら、安穩にあらせんこと、泉下にて我を云甲斐無く賴がひなひごろあにかほてミヒゴみ甲斐無しと思ふべし、おう怪このまゝぁ日頃兄顏せし手前も羞かしきに、じのかたいかピな一應の仰せなればとて此錢に在らんこと忍び難し、ショふんご如何にもして、放し打なり、踏込ふん ゆるゑふた(6ゐんで斬るなりの御許しを得んと再び口を開かんとせしだ、ちうちよcomき躊躇の間に機2みきつとこなたにちは奪はれたり、ひこわねのつと身を伸して能度此方を睨まへながら低き雲音に、たゞつぐむそなたいた:しゆくんことばのう、忠次、無理は汝も云ひ度かるまい、と壓へかけての主君が語に、とみ:らなしばらくたゆたゆるせ頓には戾き云ふべくも無く、ひまたも少時躊躇ふところへ、許せぬ、是非すかさびたん がんしやくよかた無い、思ひ棄てえ、と重ねて殿しく云ひ切られて、斷岸千尺攀ぢ難く、とな取り付くべきところも無くなりぬ。其十八其十八きくけい おくニほたるちからなながほうくわうじにはエ15行徑與違うして量力無く流るゝ方廣寺の臣の夜の靜かと、つなはい月の猶出でぬ
まいる。ale !!こぞみこのほしぞらすこゐか因はれの身には樹槽黒くて星空少し明るきも中sに風情こそ見はれね、かんおほながわすわすながしのせんごセことやうに感多き跳めなるべし、忘れんとして忘られぬ長篠の戰後に爲し事敗れモnここみよろづあしらあして、其時より此處に籠め置かるゝ身、萬般ゆたかに接待はるゝは惡くもまり1/2なるせ33かづかうえす、こヽろおんぎあらねど、折節は成瀬正一をもて降參を勸めらるゝに心よからず、恩義かせこのわれようけんいへやすcぶんがつてさいくうるさ1モの細をかけて此我を壓大にせん家康めが自分膨子の細土の五月麵き到/mわれつ。さつゆるむながひきいたき屋降るべき我ならねは於には自我を許しもするか我は引山して祈るいナいくさへぎしに、なまじ生かし置かるゝが忌々し、如是なればとて遮つて死にたしとなか〓〓おもすきのいたかてんじん능かうしうは中る意はあみみか區あらは述れ出てヽ真天識あたりの極に入るがれ=·といのちかぎていたはたらなるうちゆるやか領へ舞ひ戻りて生命あらん限り手痛き働きせんと思へで、內を寛にするかそとまもしそつにちやかうたいすんは森ゆんちうてくばには引着一斗の禮りは土本日夜に交谷して一寸の陳無ヲ屋東の丁配のがみつばさなてゑものなかがたのそんこのてらはな逃れんにも身に翼無く手に兵器無ければ叶ひ難く、逃れ損じて此寺を離표ざつそつららんだうとしちばんう上ぎねるゝか離れざるに、雜卒等が亂刀の下に死なんには、屍の上に不覺悟なそしりきたまたisひとみたんりとの職を來すべく、復ふたゝび捕へられんには、人がましからぬ未鍊ひげ男のらじよしな者との評は辭するに由無からんを、みこみなかろ〓〓coしぜんころ見込無きに輕々しく躁ぐべくもあらさだず、自然殺さるゝに定まらば、せそれまでなり、さいはうじやうさのぞこヽろしづきた是非あるべからず、西方淨土も望みにあらねば、むかわがくに心靜がに北に向つて吾邦に辭し、cはらかつさばをは腹掻割いて終て'ろみらんのみ、ほとけおんまへそれまでは寺院に在りて御佛の御前に起き臥しするこそ幸なジふさいはひこおんやかたまをおよいさぎよれ、うち故御屋形は申すに及ばず、cmわx潔く戰死したりと聞く我が叔父はじめ馬Bビどのつちやとのやまがたとのないとうどのちしよしやうし馬廄上屋殿山縣政白彦殿等能期十の修羅の者を除き聊にても證書撰Ch. (のいさヽかしやうぼでえんおんきやうどくじゆなんなるんため師稱語師ををすべしを思ひ定めてか電夜大店の續經ショ元ちうやとききやうらいさんよねんなかさゐ々いいまにようせとうじんそくのう餘念無き笠井大六、しんげによたうい、ごぃぼん15をは今しも如是等人、こづくごをなほ則能信解、汝當爲說、せつ妙法華經というほうけきやう營諭品を誦し終りて、きやうくわんぬか小机に置き直したる經卷に額づくところへ離僧山こざういごじやうちうごとぜんで來て、cate御城中より、とみながまごだ御徒然を惡めまゐらせんとて富永孫太夫殿師一人いふとのおひとりによせうsoみごしゆかうおんもからの女性と共に見えられ候、かきご御酒者も御齋しあり候へば直に御披露申すべらうまをヨたんし、いset先づ御會ひあるべしと云ひて退く。いよ〓〓わこヽろGか たさては愈我が心の奪ひ難きに詮んないかと無くて知何にするかは知れぞれて那の道近々に死に歎めしむる其あみちちか〓〓しつゃのためこと其十八
つかひしゆかうやささこみ慰めの使なんどに酒肴を持たせて、優しくも差し越したりと見えたり、rectた、ガことここゝろよスタジル胸に疊める彼の事をももとより期したるところなれば快く自ら慰みて、いここのちしっふちよつこいへやす云ひ遺せし後死に就かん、さるにても婦女なんどを連れ來させしは家康こちはまひさかなバが意いとをかし、酒に一トさしの舞なりとも下物とせよかしの思はくなへいけきんたちしぜん々よしぜつたいびxるるか、平家の公達にもあらぬものを、死前の一夜縱絕代の美人に逢へばこのだいなにわらたかくごとて此大六は何とかせん、ハ笑ふに堪へたるかなと、覺悟あればいまさらaじんうごたかひでわらひよく=をなつしよ今更微塵も動かぬ高英笑を含むで待てば、のしり〓〓と音させて納所をさもたいくさいみのたけなみほねふと法がんでうづく先立て入り來る男、身長は静常なれど骨太にして横ひろがりの岩穀作り、あごははなあをいろくろみにくいってがらシリうみぎ羽滑り具仰いて色思ければなゞき一醜きを何時の功さの折にか受けめニまゆきづあとじんぴんゆうしみっいの眼の上に眉かけての疵の痕、人品あがらねど勇士とは見ゆ。次いで入いろしろ1そんなめみよみり來しは二十四五の色白く〓らなる女とは一ト眼に見しが、能くも見ぬうちをとこ1)まへちかさしをんななヽめ1thとうだいおすわ中男はむづと我が前近く坐を占むれば、女は斜に距たりて燈臺の影に坐〓eせいめいつうしよたいめんこうぎをのちまごないふおうだいムりたり。更に姓名を通じ初翻面の日証を終へて後孫太夫は一應大大が不ひげ男え運を慰め、cafe cかれC putたけだけこれも一時彼も一時、とりこやがてまた我等が武田家に俘となりていま※でんSし今の貫取の如くならんも知らべからずなぞゝ云ふ間に縦博正の漕者いはこざうともileかうここいまごだゆふまさんこヽろび出づれは孫太夫先づ一盞を試みて、たいはいぎかさる笠井殿、とのなんごんこちさて大六に大盃を屬しつゝ、たまごろうついや何獻なりと心のまに〓〓まゐり玉へ、ひたうごはせこよひさけすごたまきやしな日頃欝陶しく御座すべきに、責めて今宵は酒なりと過し玉ひて氣を養はれよ、こゝろよすわれ6はんぞくいた快く過ごされなばふつヽか80我等も滿足の至りなり、ばんあひてじふぶんつかまつ不束なる者ともながら、御相手は充分仕らん、と云ふ傍より女もまた、いむだろ、をんなわらはおん おくふかをたまえまいたとみなおとのここんことふC〓妾は御奥に任へ居る玉枝と申すものに候、いん富永殿は御覽の如く武骨一遍の仁なれば、こおよせcまを作り飾りの世辭とか申すことこそに左ジ〓まんうらおもてなぶしかたぎこなた拙く御座せ、ばんみうち御胸に裏表無き武士氣質、かぞなこヽろすゞ此方の御身內にも數無き心涼しき方なれば、かた御話敵には却つてなるべし、おんはなしがたきか、ちかころまたとほミニいくさものがたりおんこうめうしなつヱSがた近き頃又は遠き前の戰物語、御功名の次第なんどにても御物語りありて打寛ぎつ、うちくつろにんちめしあがなごんあひてさいはひわらはおもしろ心ゆくやうにして召上り玉へ、おんものがたりうけたま御相手をなせる幸には妾も面白き御物語を承はり置きて心シこいちながカン·まをしゆしんにとめ長く語りつぎ申したし、いにと朱唇を洩れて出づるには似氣なきほど其十八
ンビひたすらけうだものうわすの夜なる言葉をるつて貝客に異を發きせ物養さと忘れしめんとするやつふくま즈だいうビはせつかくたまたり。笑ひを含みて聞き居し大六、受けたる一盃を飮み乾して、折角賜cたいしたゝかてうたいこしかうぶつらうはりしものなれば、辭退せで充分に頂戴せん、酒は至極の好物なり、失れいこと1つそん いんムゆうしびこんごくわいじ禮なる中し條ながら韋前の二位は勇士なり美人なり、一期の快事これにすとみながとのたまえのことだいみいかは過ぎず、さりながら富永殿、玉枝殿、とてもの事に大六が身の如何にさだなにゆゑうちあつたましふうせらるべく定まりしかを、何故打明けては〓げ玉はざるや、知らざる風catたまごじんたいにるたなになあたまを粧ひ玉ふは御人躰には似合はず候、大事無きことなれば明かし玉へ、いまいまこのかうべめかくごそれがし今が今此頭顱召さるゝとても、もとより覺悟の小生なれば、まさかに酒あちはな〓〓がたままを味ふことの成らずなるまで怯れもすまじ、いゝや隱し玉ふな、猜してけ上それがしおつませんぎさだぞんゆゑこと候、今日小生が生命の詮議の定まりたることゝ存ずるなり、それ故特によおもひでLhかうばんふたかたてたな3)るなに世の思出にせよかしの酒肴を御二方して下し弱はりしに和選あらた何あナ9したまおほわなかまなとて明日は斬らるべしとか死を贈はるべしとか仰すられぬも、蟠り無くあおとろさわもちろんかへそれと明かして聞かせられんには、驚き騒がざるは勿論のこと、却つてひげ男こゝろよのほ生なか〓〓快く飮みて、われはづみ酒の興も一トしほ我から機變を打たせ、クかねれ たvoかたつこみ豫て語らんと思へることも語り遺して、〓このよよ小氣味よく此夜を醉はんものを、らかわすゐりやうたがえんりよ如何に我が推量は違ひ候はじ、えふわたまら遠慮は要なし、だごすゐりやう防水じ明かし玉へ、と云ふを抑へて、御推量は御身の自由ながら、ゆうモまつたわれらし其は全く我等が知らぬところ、しなと3かき知らば包まむまでも無し、兎まれ先づ〓〓重ね玉へ、こヽろよけふかたバかたのこいまいして快く興じ玉ひて、語らんと思へることも語り遺してと、たまそらいか今云ひ玉ひしが、かた:たまし抑如何なることを語ちんと思ひ玉へるか知らざれど、なれごとかたたまて何事にもあれ語り玉へ、われらなまをだい聞き人には我等が成り申さん、にはをと云へば大六また一杯を發し終へしまゝ少時傷然と醫をしばしタぜんひげなあ撫でつ、いづくまでも明かさじとせらるゝや、およまじきに、いたちまちゑがほかさほど包まるゝには及ぶと云ひかけしが忽地顔顏に復り、とみながとのをかしおぼとに そ富永殿、さだめて可笑く覺されつらむ、しさね疾かれ遲かれ死に定まれるに、わニくど〓〓とウラル我が上をのみ諄々問ひしは愚なることにて候ひし、あすだいめしやばハヽハヽヽいよ〓〓明日は大六が眼に娑婆の嘆うつきわりきはまうたがひなおもひる終の日に决定つたるに疑無し、こよ念の殘るべき世にもあらず、こヽろひ心の惹か其十八
つまなこよひやがさゆめあしヨこのきしろ今宵は頓て醒めむ夢の一ト步前なる此岸なるべし、明るゝ妻子も無し、ナよはやかのきしあしたか つみおんみらん日の夜は既彼岸に一ト步かけて立つならんが、ふり反り觀ば貴卿等と藍にやうちてきみかたとう36 roもうみごco (このありさましやうし着の中に敵隊る、疑の先とnに用あて一味の個をみに渡む此光其のヨ. sみづうレニティうかいかいまこんたまを界ふ雲か水かの上に遙に、浮びて如何にをかしかるらん、今一献賜はじんしやくなこ、ちさけゐなこほりなほぬるり候へ、御かたじけ無く候、あら心地よき酒の味かな、氷猶温きまでひて、レがゆるいごと在CBきち〓すみさけ冷かにして齒牙動ぎ出づる如くぞ覺ゆる、噂に聞きし智多の〓酒とかにじゆとやすら"みづ¥たしやう候ならん、おもへば一樹の下に休息ひ、一河の水をひとしく掬ぶも他生えんうけたまりんとうまなじりこゑぶnあのヽしあの緣と承はるに、陣頭には皆をさき、聲を怒らせ、睨め合ひ罵り合ひしなかひと沼ことおんゐらおんふたかたかくまみゐcぜんせ中にて、人も多きに特に貴卿等御二方と如是見ゆるは、淺からぬ前世のえんなになおんふ&ぎニちいた綠あればにや、何と無く御なつかしく、不思議の心地の致し候、と眼にみころSicたんいゆ3 isき見ゆるまで実情をば面にあらはして歎して三ふを、實に道理と聞きてかいろうごまごだいふかけふきのふおんみちれゆる聞かでか色も動かさぬ孫太夫は、如何にも、今日の昨日は貴卿も我を容かたきいまのちhおんみあんおんンてきさず逃がさゞりし敵なりし、今の後また我が貴卿を安穩には置かぬ散とひげ男いましならんも未だ知るべからざることなれど、たいほやいばてnくだモにx現在だけは刄を手にして睨め下しあふといふにもあらず、aおんみいのこ其は先づ措きて先刻に貴卿が云ひ遺さんこいいかかこととあるやうに云はれしは如何の事なりや、ゆみやとみる けたがひおんみいのちろす弓矢取る身は相み互、貴卿が生命の明日に參きんといふにはあらぬで聞き置きてなふ〓き筋ならゴおよすきちからいさヽかいたおもあひだかたンたまも聊我すべく思ふ間語り但き玉ふて然るべし、ふまたおんみたブこたびたこかひ口はじをはりおんみいかさて又貴卿に尋ねたきは此度の戰鬪の始より終まで貨卿は如何なることを爲して、ないかしよせんンたこうちみつひdie如何なる所存より織田ゐが血を見んと急には企てられしかといふことの一部効後ジしゞうたかひしようはいせい〓〓だう〓〓れうぢんあひあた戰鬪の勝敗は必ク堂ク南陣和當つて力を般ハ皆と內べて决すべおにちから〓ち:けつさだあけちとのざつcmみやつつたるに、とちどきしじおこな明智殿が雜卒と身を扮して、きはこつ ぜんお〓どの=し沿このごろ勝関の式行はるゝ際に忽然織田殿に斬つてかゝりは仕玉ひしや、ごしよさうけたまいままたげんざんごんふるまひみおんものがたりうかゞ頃日の御所作を承はり今又こゝに見參して御擧動をも見、いいや御物語をも伺ふに、こつがらxぶしつけつゆぞんなになか〓〓忌み賤しむべき骨抦の仁とは無躾ながら露存せぬが、おんみ:〓のムしさんぞくなはひきやうてだてと何とて貴卿ほどの武夫の、野武士山賊も爲すことを斷づる卑性の手段を取られしど、せん らん上ならかんばふとくけい戰亂の世の習ひ、奸謀毒計其十八
てんかこんにち三まをていからみな爲さヾることなきが一天下の今日の狀とは申せ、敵の一卒と身を做してひとみたとわきまSおそき)た고いおそ人の身に譬へば脇腹の如きところに潜み、急に立つて不意を襲はんとは、おとなはよとうはひとい36のエむしはなはだ「無無く進び寄りて尋牙をは入の肉の十を選さんとする鎮続よりむひきやうい5ひといみにくとならずや、卑怯とや云はん、きたなしとや云はん、醜しとも醜きことてうじやうをとこほと〓タし&の頂上、男兒らしからざるにも程のあり、耻辱を知らざるにも度のあるかうしうさふるまひはをとこijべきに、甲州にては然る擧動を耻辱とも男見らしからずとも、せざる風ぎ立てたんたがてんおうこのぎうかゞなじきと儀にて候や、何とも我等には合點ゆかず、一應此儀も伺ひたしと詰る如きびいこた5かうちほもめvつかとたくに嚴しく云ひて、答へ如何にと打譲る眼には何時しか稜角を立てたり。ひきやうのヽし5んもたいぜんまつ卑怯と罵られ、きたなしと云ひ下されても泰然として肩もあげざりしが、いまきつBすてがたかうしうは大六今は屹として、こは聞き捨になり難し、甲州にては漸づべき〓とをもは〓いひとicロラル!みこみ耻辱とせざるかのやう云はれしが、人の國を辱しめんとの御意よりか、さごちゃぶんことばかみかゝとンこらツ、らずば愚なる御言葉に候、髪の腫に生ふる國もあるまじきに、·那處にかおなにんげんせひまつたてんどうひきやうみれんねニぃい同じ人間の是非の全く頓倒せん、卑怯とも未鍊とも我が上を云はト云ひひげ男玉我一人の故をもて甲州全躰を歟に斯と決沙せられんは心外なり、ゆゑかうしうぜんたいヘ、かか(たしんぐわいしよゐわみいん、つくもとより我が所爲、びこ我が視ても善盡し美靈せりとはせざることなり、さひとおの〓〓りきりやうおよおよれども人各々力量の及ぶところあり及はざるところあり、わりきりやうぶよぶんうちなきみ?我が力量の及ぶ分の、なん中に於て君のために盡さんに、いひれついcいこのこヽろ何の忌むべきところのあらん、卑劣とも云へ愚とも云へ、ニ.せんせんへんうい此心だに鄙しからずば、たsた他の是非善惡は烈火せひぜん あくれつ くわの上の繊塵片羽なり、云ふに足らんや、こたびたかひぃそも〓〓此度の戰爭は云はうやう爲き味方の敗軍、なみかたはいぐんしやうはいてんいい勝敗は天なりと云はば云ふべきも、あきるあきらがたむざんし합ろうしやううゅうそつう諦めんに諦め難き無殘の仕誼にて、たけだ老將を打たせ勇卒を打たせ、おんいへいいまかつさ上かく武田の御家あつて以來未だ甘て取らざりし不覺をば一時に取りし口惜さ、とくちおしてきしたさきこわのよなが敵は舌頭硬き信長なり、二倍三倍に仕て誘らんは定なり、じぜいしごうちやうほうなんはたじつゆつBedうすさては重寳の御旅の日月の光も薄しんらいんすゑちンしんげんこうくなりて、新羅の御末の威徳も地に墜ち、ごだいごしん信玄公が御一代御苦心ありてくつたたま、よこと〓〓せんあやまち第き立て玉かし好きこと多く一戰の温突より崩れ得れて不府此上無らやぶㅗしやうこのうへないるvoむねんはねとゝならんかと思へば、こうしぷ思へば無念さ骨に徹し、し死なじと思ふに死にも其十八
しいのここゝわ遂げたく、死なんとおもふに生きも殘りたく、心の割るゝものならば二とこいいきたほそれがしたうじHうちいかゞつになつて飛びもすべく問へ憤りし小生が當時の胸の中、如何なりしかとすゐりやうれたたかわはやなかばすむは御推量に難からざることに候はん、戰鬪は既半過ぎて日に蒸されたるのかンとふなまあたヽかかにあをにはなかかうべかいたゝさ血の香の、合もせで吹く生暖き風に煽られ旬ふ中に頭を回して付みつ、KALのぞさんみ元赤ばねよこめちゃーてきぐんはた逸に望めは三々五々と算を亂きし死尻の模たニ野末に〓軍の、旗あざやなほのこつかはめいばおひつちひとかたきひとかに猶殘れるが疲れ果てたる眼を射る塲合、土の人形にもあらず木の人がたいじやうだいおのれはいぐんそつよななCatけれう.com形にもあらぬ以上は、大六自己を敗軍の一卒能く爲す無き男ゼと假令思びるなクぃみづかにへばとて、念ひる無くたゞあり得べきや、云はヾ自ら是とするに似たれてきreみかたたにんおんみことばわむねひヾど、敵にも友あり味方にも他人あり、貴卿の言葉我が胸に響けるところおんみてyらっxこのこヽろこかたあれば、貴卿を敵の中の友として、此心を此處に語らんず、なみ〓〓とばいたましぜんいさ、かこゝろよかたショさけの一盃賜はり候へ、死前に聊快く談る、かゝる折にこそ酒は飮め、、、よひかうれひけあざたまbしよゐひきようい〓醉を借りて憂を消すと嘲み玉ふな、我が所爲を卑怯と云ひ玉ひしよの、いかわしよぎやうをてわしよゐいたま如何にも我が所行は卑かりし、我か所爲をきたなしと云ひ玉ひしよの、ひげ男いかわしよゐ如何にも我が所爲はきたなかりし、ひきよういいたくわしことばさりながら、卑怯と云ふもきたなしと云ふも、ひとした多寡の知れたる言葉のあや、うご人の舌のへら〓〓と動くぢやまこのや、かきたうきよで、此耳假さぬ、aたをとこふた聽くに足らぬ、あしさ浮世の沙汰が男兒の踏み出す足を障ふ(ちからおぼつかるに蜘蛛の圍だけの力もあるか覺束なしと、はじめるしいがてん初より惡く云はるゝを合點cぶんじぶんせバはヾかして自分は自分が爲んと思ふところを憚りなく遣つてだけしに、ややそん遣り損そのはてこのていこのすがたそのンことばじての其果が此態、此姿、其御言葉、ハヽヽをかしいほどの事に候、ことみゐごとふかでつもりても見たまへ、ゞかうぐん彼の如く深傷負ひたる我が甲軍の一人として年若t.とし わかみぶんひくらのこく身分低き大六が生きて殘りたればとて、なに559男たすへいつよ何の術あつてか君を助け兵を强くして、のぶながいへやすしんげんこうばんと日ミふたゝび信長家康を債交公御時の如くならしむるを得ん、こみづか自かへりみとらせいきほひhくわたてたたいら願るに寒いて勢を變ずるの計畫立てん大才は我に無きところ、さいわれなひとおと人に劣Noひつぶこヽろざしゆうらじと思ふものは匹夫の志たうろうさいせひれううでちからしんたんナまん蟷螂の勇なり、さばれ賴に兩腕の力一身の膽あり、Dてんうんうば進んでは萬が一に機を轉じ運を奪ふことの成らざらんや、女明々くはくくながしのしばるのぶながふ白々に長篠の仕塲居は信長に踏み取られ、とかこしろ끄しやうし圍みし城は卷きほぐし、將士其十八
うひき あてきみかたしやうはいれうせんかひあまた打たせて引揚げたる敵味方の勝敗は瞭然たれど、此戰鬪の勝敗をエあBしたのかうさかとのはやせながゆるいけはのこ世に明らかに知らせては、賴もしき高坂慶の早瀬の流れに動がぬ巌と遺ゐばんいへかうごよろづ.o.いてぁり居たまへばとて、御家の向後萬般のことも計らひ難くなりぬべし、阿しゆらひつかえん ふこくびやくたちまちほろわれひぢの修羅が日を攫めば闇浮の黑白、忽地そこに亡ぶなり、い、で我臂を伸べての〓ながいのちつかくだしやうはいとゝけみモこなます信長めが生命を攫み碎かうず、勝敗其に揉み消さうず、身は當下に膾とさうおうシは々いばあぜareなゐらいくとタひごるならばなれ、相應に多く刄の味も味ふて參り候と地獄で取父の肥後に過つめんばハさだしかてんはヾ告げんもなか〓〓面晴れなり、と思ひ定めて候ひしなり、然るに天うんよてミい運といふものゝ世にあることにも候や、十が九までは手の中に入れたりあのぶながほとんえのわてたちつばもとハし彼の信長を、殆と發んとして逸せしのみか、我が手の刀の鍔元より思をBにしz당じにし:えひもかけず折れたるより、斬り死も仕得ず砍られ死も仕得いで、おめお店すゑかくいきづらおんみ&おんせわめと細にかゝりし末、如是生面をさらし、貴卿等にも御世話かくることニいをははやほさかづきまごだゆうたくまごた差かしく候、と云ひ終りて既干したりし酒盃を孫太大に屬すれば、孫太ゆたゞちだいSは夫は少し受けて、直にまた大六に擬しつ例の如く木にても彫りたらんやうされひげ男かほぱんなほたちごぞんいおほよそがてんいたの顔して、御思し立の御存意は大〓合點致し候、いかあけちとのむんちうまきいたまさてまた、それより如何にして明智殿の陣中には紛れ入り玉ひしぞ、おんみとかは-)遅てなかてききたみ貴卿に取りては川の緣も林の中も敵のみなりしなるべきに、ぜいかはぜいはなか五十五ゆと北へ〓〓と美濃勢三河勢の趨せし間ちうさだいくなりを、よくも南へ行かれしことかな、とが途中定めし幾人か各めしものを斬り日すしたま捨てなんど仕玉ひしならんに、ことかたたまとてもの事なれば語り玉へ、いか〓上とといふ。如さつseこと〓〓何にも御不審は御送理なり、いをころナ其森事々しく云はんは烏滸なれど、明日は既無みおんたづねモこかるべき身なり、これ御尋問につけて其處に一つ、いゴ死に定まらば云ひ置かんかねハいま今御車に吹と豫て思ひしこともあれば、しちかゞ日入れ置かん、死を蓄ひたる叔父の肥後に訣れたる後のことなりし、ひこわかのちひとりせんじやう3로みいままをこいろ獨戰塲の光景を見つ今申せしごとく心:ニたなんちうまいこヽろざを決めて、織田が陣中に紛れ入らんと志しはせしが、たぜいそでじるしかさかたしるしえききやうかみがたぜい織田勢の袖印あるは笠肩の黴章を得んとせしに、らるで卑怯なる上方勢は柵の中を餘り出ざるにないであたしかや追ひ來るもの無し、たれてしニ三人四人に出過はゝ慥に誰が隊と知りし上、nころしるしクわみおもか斬り殺して微號を奪ひ、ひおと我か身につけんと思ひし甲斐もなきに樂まず、三河其十八
うしろぬおがたせいほんむんめるbうみほよわ其ガ本國の音後を授はセ上方為が本陣目がけんと言流より山圓を塗3つかぼみちとちなしく折しも、ナニ八束穂への路かと云はるゝか、詳しく土地の名は知らねあらうみPacあたやまnがたちかょとうざいみちなんぼくみちとも有海の原より東に當り、山の根方に近く寄り、東西の路に南北の路つあたしゆもくをゅときたいぼくもる〇の支を黨すて櫃木になりたるところを折れて行く時大木の脳よりしらわかむしやによBみさかれ出でたる若武者一人、逃ぐるなと呼んで斬つてかゝる、見れば賢しげなぎなたふるほせまたちたちあてきとしわかにいでたちて薙刀を揮ひ烈しく遁る、二タ刀三刀合はせしが、敵は齡若ていたたupかれ: =おとかれなはくつこしく力も足らねば、疾くも彼の兵器をば捲き落したるに、彼猶屈せず、腰かた〓ぬめんどうたみここヽろなわれすa刀を拔きてふたゝびかゝる、面倒なりと、鬭ひを戀ふ心無き我は棄て去しうねジせひ〓かへあんたんうちらんとすれば、執念く追ひかくる、是非無く返しあはせて刀をもまた打だいもろでひろけなげたうさすか.うち落せしに、兩手を擴げて組みつく健氣さ、一刀に斬らんも流石なれば打のすhnちからろうてづよ物棄てゝ我も組みしが、るとより我が力を勞するほどの手强きものといくなtaマぶるすばはほんとふにはあらず、されば苦も無く捻ぢ伏せしに、思ひのほかの捷敏き働き、したしようたうわれっいますこきなこおそのとわしたさ下より小刀をもて我を突きたり、今少し眼遲くば喉輪下を、刺さるべきひげ男をさ〓を危くも避け得はしたれど、みごとてひたり;てそのときわ上かあと見たまふ如く此の頸の左方に一條負ひたるなん傷は當時の我が不覺の痕跡なり、たブそれがしおとろとうじてきてとシテ何とせしと尋ねらるゝか、さぞさればなり小生驚く同時に、ひつし〓ふ敵の手を捉らへて左足に引敷き、おceはなしようたうはなcanけ彼が拳を踏み開きて、放さじとする小刀をこじ離しさま遙に〓退け、いceと、云ふ時二の句つ품のべまsいはを續がせもあへず、さとゑしぼ春の野に立つ山雄の岩も裂くべき聲ふり絞り、そのしようたうゐびやくだんつかあかぎ1.み塩其小刀はこゝに在り、급白檀の棚、赤木の鞘、見覺えあるべしと叫びさまに、とうかをんなふん ぜんふところふかしめだ燈下の女奮然として懷中深く恐ばせし小刀抽き出す。しようたうぬさやなマせいたおとみづい(Cytだいみ鞘投げ付くる。青蛇雖つて水を出でたる熟の先を大六が石間に近く這つて視す。けんちかせまubグラム思ひもかさすがたびおとろけざりしことなれば、ゆうしこゑためなきつみかへ流石一度は愕きしが、かたひざたをんなはげ勇士のならひか聲も立てず、眼を張つて屹と睨返せば、むふふか:かみゆ片膝立てたる女は烈しく武者ぶるひして旬ひかつおる深き千筋の髪も搖らがせつ、てごちんあした10 2/4おもてinなゐうごひヨおそけなあらは月下の露と照る眸、曉の梨花と白き而を紅そなた光動く燈の前に怖れ氣も無く露して、をはとおと26汝がために終りを取りし第が恨みニやいばさだみしの籠れる刄、33mわミかた定めしそれと見知りつらん、そなた自ら妾が前に語りたりし汝が其十八
こなたうらやなぎこたろうむねばるた。ひとりあねたまえわ柳小太郞宗春が唯一人の姉の玉枝とは、妾がことな功名は此方の恨み、しおと、かたきガこのしようたうたいこよひこりと知らざるや、弟の仇敵、たヾは置かじ、此小刀を贈らんとて此宵此きたこのやいばそなたみづかcarおつまち在いや處には來りしぞ、さあ此刄に汝自ら汝が命を縮めうか、但し厭とならばせひおよひどひとりなみまいちからをんなおも比ごとそなた是非に及ばず、人一人並の念の力は女の腕にも寓らいでや、さあ、汝の&ちちぬしし&au頸の血を暈つて吳れうか、さあ死なせうか、死なうか汝、いづれなりととたいとかくごへんとういをまごだいふあしも疾く擇み、疾く覺悟して返答せよ、と云ふ尾について孫太夫も一ト足ふた〓あひここのよなごりBたいさかるたヾつぐBやなぎこ踏み出す居合腰、此世の名殘に聞けや大六、酒井忠次に預けられし柳小〓ニ)おのれうぶんたこのまごだいふわがおみおんいかりふ太郞を汝に打たせて一分立たぬ此孫太夫、我君の御怒には觸るゝとも、冷セたれうけんこよひきうのが、Pow Contはなした身を投げ出すと料簡して、今宵來し上は免さぬ汝、汝が談話を釣り出さバつぼわれ〃C級さいごかたおのれてんめいつとっと思ひし是に我から落そて柳が見期を誇りしは彼が天寺書つくさないりがひな28tそのいのちモちころ、然無くとも生甲斐は無き汝ぢや、さあ其生命其方から吳るゝか、此ちさか〓おのれな生そんねん〓Cameたのし造方から貰はうか、酒井は汝を賜はらんとの存念を得貫かいで樂まず、玉えとのccいちたなげなかたを枝殿は柳が家の血のこゝに斷えんを哭かるゝ、中に立つてたゞは居られひげ男ぬ此孫太夫、このまごだいふPot汝に深き憎みは無けれど、ふかどなこつにくしんickたくこぎ骨肉の親を亡ひしと、托孤の義あだなげつくみめみちにをば空にせしとの、こつさわれxeはら歎きと恨とを眼に見ては、汝を引裂いて我も共に腹やぶしほどceぜひおのれらちそのしようたうかき破り死にたき程、いたあのこたろうむご知ずば是非なきも汝が持し其小刀より、てかな30元しぜ傷い氣な彼小太郞を、ひあん おん酷らしくも手に掛しを汝と知つては、sa是に非に安穩には居がたとかくこのまごだいふひとりいるがたせ難し、兎にも角にも此孫太大が一人あればとて容し難き汝、Senたままして玉えanぞん ねんとてもこよひすごおのれわれ枝殿が存念もあり、しまたこのまご到底今宵は過させじ、汝が我から死なうや又、此孫た¥てなてきなコレコわてまづ太夫が手に掛うや、あら敵對せうなら差詰め我が手で先荒こなしを仕て臭う、しnとらばれてなおのれころ俘虜なればとて手無き汝を殺さんとはせじ、しこの금死にたからずば此一ト振のむんたうおのれかみさい陣刀汝に貸して吳れうに、いみまきだいふ見ん事生きたくば生きて見よ、〃孫太夫を打ついみなんちくへんたうて生きて見よ、のヽしさあ何とした、つたちあがざさいおきりんたう怯れたか、あしげけ返答せよと罵りながら、とたんおのれ突と立上りて、座側に置たる陣刀一つを足蹠に蹴つくる、て途端に自己は手にあれたこひぐちはやめんじやうのぞけたせし刀の鯉口早くもくつろぐる。ちいきほひもうと面上望んで蹴られし大刀の勢猛に飛びさ모ゆんでの來るを避くる間あらねば弓手を伸ばして、こ(しり〃だいむんたう虛空に丁と受くる大六。陣刀其十八
てみはやたまえおととき手にせしを見るよりさてはと、逸りに逸りし玉枝は曜つて、本懷此時と:たちrec geさぎはいたかみからこヽろ切かくる。太刀の鐺をかへして拂ふ。驚にむかへる德の身は輕けれど心たけ上こただいばんじやくざゆる猛く踏み込み〓〓切り立つる。大盤石と坐したるまゝ動ぎもせいであひねんは;するとかたさきはつしき55せつなしらふ。一念の鋒刄いを銳く肩先發矢と斬り削りしが、斬らせし刹那にうでくびしつかとだいだいりきひきふちからなしやりんあざむするえよかけ腕首緊乎と執る大六が大力に引伏せられて力無く、車輪を欺く翠葉の陰た日しろされんげごとかたなもてひざ九に一朶の雪白く咲きし蓮花のくねるが如くに刀持つ手を膝の下へとあはたちまちひつしこのときかのときとおそうしはおめれ忽地司裁かれし此貼發賠安し干延しや野牛の吼めるはかりに號いよこなぎな.まごだいふだいたうかぜうなかさるCBBあたかのぞだい横旗に獲く採太大が大刀風に降りつゝ笠井が雖に恰も配めは、大六かつひだりたちフミニやうち30うご크しと左手に持つたる大刀の欄もて受け止め、こと堂屋も震ひ動く聲して、待さこぬわれ〓ふかくものてむかて、ゑい、奴よん拔いたか、tr乃公が、かは見い、ムしあわてものめ、ほま不覺者め、い手向ひせぬをも遮に無に斬るが、三河の武士には譽れとなるか、云ふこととみながか〓だいだとたちふあり、聞け、やい富永、笠井大六が恐ろしくば太刀振りかぶつてなりと"たわけなきいましたこのをんなて모ひまふ聞け、但し〓も無く斬つてかゝらば腫の下なる此女子間隙いらきず踏みひげ男ころ殺さうか、노踏み殺させて汝は濟まうか、ころperすたち.ひンころなん太刀ひけ、ひかぬか、さあ引かぬか、壓し殺さうか、さあ、ミ何とした、部まご孫太夫殿、たいふ50おんなしちここうしばらくのがアツハヽハいやなに富永女を質にして虎口を少時述れんとする如き大六でもない、ことだいラさわいろたへまい騒ぐまいと云ふまでぢや、にぎだいこういらよ逃げも隠れもせぬ大六、殺すにしても言ふだけのことを言はせて可からずや、わのがたなるわれしたれおんみんこたろう我が物語り半にして我死なば離か貴卿等が惜しと思ふ小太郞加上を能く知らん、うよじかいわため如、是言はんとするが我が爲にすることにてもあればこそ、な2かたおバ亡き人のために語り置かむと思たまとのふばかりのことなるに、えBしフしばし합たま玉枝殿とやらんも氣を靜めて少時聞き玉へと云いまたいふおほよそがてんやうすひかけて、み採太夫が大板合點せし樣子を見るより味の下なる工校を援けひざんたたヨえたすござまな起し座につかしめ、なはするとおの〓〓やいば二人が眼ざし猶観くて各自自刄をそばめ持てるを心こゝろはやごとやんちにも既かけざる如く、らせたまみまづ〓〓貴卿等急き玉ふな、これいしゆ層いまひこちさう身を動かさいで飮みし冷德が卽の舞の御馳定にて一時にほつかりと發してまみつた。cはつだいジこいろきちひさ〓〓しやばそとはるかゆあゝ大分よい心持、+久々にて安婆の外の春風を吸ふやうな此快さ、このこヽろよいまどりや今一其十入
たまこけニ空あがたひとりあをつ賜はろうか、酒を蹴返し玉はざりしはハ有り難しと獨酌みて獨で仰ほうじやくぶじんたニいまるのがたエキことそれがしか中曽哲しやぐ傍若無人、さて聞き玉へ、今物語り申せし如くに、小生は彼の若武者たんとごえものすでと?あからおそを、一旦取つて抑へはせしが、兵器は既に奪り盡しぬ、膂力は畏るゝにたはお、もツろかたてせいあま足らぬほどなり、隊ね返さんと腕き暴るゝを從腕に制して餘りあれば、こヽろゆたかよろひさほひぬいま&やいばのんと心寛に我が都びなる通通しを引き極きて今や首かゝんと及を咽喉にほふときちか〓できよみいこしらたまと〓〓觸るゝべかりし時、近々と敵を熟く視れば、湯に洗はれし白玉のrearきニfrろせおもてあくきよしろ解散ぬことく氣の勵みに添えれてしつとり書行を持つ面間まで夢らひきおすくちびるせなくれなるまゆうちけむにほふかむねんく引結びたる唇の花燃ゆるほど鮮紅に、眉打煙りて匂ひ深く、無念とみはめうちひ·やさみづててあつさわいた睜る眼の中の光り優しく水照りして、あはれ手暴く觸らんも痛はしきほびせうはんてきみたたなうらみまことなかとの美少年なり、敵味方といふ名こそあれ、怨恨も實は無きものを、如くゆCatどいのちわてち.なさけなえん是いたい運な天しき人の生命をむご〓〓と其が手に縮めんも情無し女なふさは中上のみたかひのぞ子にしても相應しかるべきかゝる孱弱き身をもちて、戰塲に臨むさへあわごとこさいとか、かあいとしるに、我が如き荒くれ男にも取つて蒐りししほらしさ、可愛や齡もまだ四十六百ひげ男たすゑたのふてきしやうね辛足らぬに末賴もしき不敵の性根、Lさいななに助けたりとて仔細無きを、むごさにいBはた60〃何として酷くも刄をは雪なす肌に加ふるを得べき、てと、突かまくなせし手をとゝめて、如何に若者、いかわかもの204としなはわかpとしゆせう汝が齡の猶若くて膽の太きが殊勝さに、てのうちの生命ながら、いのちゆる赦して吳るゝは、isちからぶよあきら取るべき掌中·九わミn %さきながえう殺さぬは、力及ばずと歸めて復び我が前に立たんとすな、ころふびん生ひ先長きを要も無く殺さんが懲然にて如是云ふなかわてがらこのば:22ごにちれば、かカ我が動石にして此塲の砂を後日に圓り出づるやうのことも無かるいなべき間我名も云はじ、あひだわがな.5おこなわれSonみ汝が名もまた聞かんとせじ、我は汝を見しことな汝は我を見しこと無き分にして號るればこれまでなり、く、284 hみなぶんなthるがきたみなみゅかた搆へて我に抗抵ふな、とじゆう北なり南なり行きたき方一疾く日出に去れと云ひかけしが、さいみのをはりせいまぜいのぶなが龙度尾張の勢に紛れ入りて信長めを理たんといふ意を懷けるなればうこちいだじこのわかのかみがたぜい若たす此若者の上方勢にてあらんには助けぬかた却つて好かるべし、か、よあはれぜひないまい可憫にはことばあれど是非も無し、いまほごしめらだうなら今云ひたる言葉を今反古にすとも修羅道の習ひ已むやあたまたにやぶみせ能はず、しな殺して大事の破れを防ぐに若くこと無しと心付きて、こヽろづて手にせし其十八
よろひとほしなほすおんかみがためいしうせいこn ,さりながら汝は上方勢か三州勢か此點だけ聞かん、刺刀は猶捨てず、とことばたそのofしようねんこたりつばいまおもたこヽちよ言葉を足せば、其時の少年の答への立派さ、今思ひ出しても心地の好いしピあひちとだこゑたかいほ〓〓たわ ことほど、九死の塲合にありながら、些も怯れぬ聲高く、やあ忌々しき痴言つとつときしえんりよ聞かすな、突かば疾く突け、斬らば疾く斬れ、組んで敷いたるに遠慮のいだうしなてるなさけいみれんむねん要ろうや、元は連ふとも敵の仁甚に活きやうとする未練は持たず、無念ちからおよかしういのちPonで'なれて力及はずして如是租み兼かれし上は生命はもとより汝の現るやあひみぶん相見ぬ分にして別れうごとき卑法の振舞を誰かする、きやう÷まひたれみれて遣る、我が瞻おはぞらおよんaひらてんちたいはづXしのをとこいる大空、汝が瞰る地、天地に對して盡かしき思ひを忍びて男見が活かう女なめすめいとみやげガタルなきや、名も聞かじとは無禮過ぎたり、冥土の土産に汝が名も聞いて吳れうㄸあかつらとわれっこんをとこず、名乘れ、赤顏奴、疾く我を突け、殺せ漢子、聞かさうず、聞け、三かはしやなぎさたはるひとりごこたろうむねはるこのつき河にさるものありたりしと知られし柳貞春が一人子の小太郞宗春、此月このひうちじにせげさけくわんねんめけなげわる此日戰死するなりと烈しく叫んで觀念の眼を閉ぢたる健氣さ、惡びれざニかつはヽゑをとこるにいぢらしさも一トしほ增して、且はそゞろに微笑まるゝまで男兒にひげ男ばんこいろいあきらなわれだま嬉しき心入れ、いさぎよものいひ明かに名を聞かされては我も歌りてあるべくもなく、わㄸなお潔き言かな、我が名聞きたくば名乘つて吳れん、がうしうひとかむ甲州には人の數にかさゐなたかひでも入らねと笠井大六高英とぞいふ、なかなそなたころいまことば名は如是名乘つたれど汝は殺さじ、今の言葉が胸に響いて、p. nわいchいいあつばれよをとこ嬉しかつた哩、嬉しい哩、天晴好い男になりややがそのときおもてこのくびやそのくびもらろうず、頓て其時而をあはさば此首遣ろうか其首費はうか、こヽちあうたしやうぶ心地よく新に勝負せう、さらばぢや、よ好う生立つて面に我が、如鬚髯おひにわごとくひこれまでぢや、めつきひニ)つ.りつぱおとこ生ふるまで月日の功を積んで吳れい、よそnこのよろなし立派な好漢となるが好い、わがみ其時まで此世を在るか無きかもとより知れずる我身なから、〓そなたうはさき÷15わしあのよみ生きて汝の噂聞かんも面白かるべく、我まづ死して彼世より見んもいよ〓〓をかしかるべし、ひと人の見ば疑ひ各めん、みうためとわれわaゅそなたをむたいざ我は我が指すかたへ行かんに汝は汝が思ハゅいつはりしんにんちを示して引起さんとすれば、おこふところへ行けと僞ならぬ心かくごまなこ覺悟の眼をじusわジこみっつと開きて我が面をしけ〓〓見詰めしが、ここわてco起さんとする我がエ丁を拂ひ、:優しき御言葉を承はるかな、おんことばうけたまわ我が私の出陣を論し止められし懷しの人のわたくししゆつちんさととさる。ひと其十八
ことばしりらこいろ(4ちおんみis言葉を聞くおもひして、修羅の心も碎け散り、貴卿を恨みのかたわれのてきcこヽち〓さきさけみめ敵とも覺えぬ心地ぞする、さもあらばあれ刄先に情を見る眼も持たぬにさだゑものゑものたんまじわけなゆるにつなまたゆるほう定まりたるお察と其發とと一旦文へて際無く純すめも無く又敬ささむちおんみいわれいおんみゑらじにもなし、我輩たれなば其卿生きん我生きは貢卿を得こてゆるさに、兩死neいしよせんしfgわかとはありとも共に生くることはなか〓〓あるべからず、所詮死活の分ち取か(たすかはごバしんぐわいり、如是なりても助からんと三河のものが、思ふかと思すかや心外なり、しさだわれいはと死に定めたる我なれば、こう生かして耻辱を取らせんとせで、とく〓〓心よし즈立三ちからおよくみしいしたこほまれおんみき死を得させ玉へ、力及ばず組敷かれし今、死は唯一つの譽なり、貴卿さづはいむいかうたにきいへに授くるは燃やせば灰となるほどのものゝ頭一つ、代へて得るは柳が家るゐだいぜんじんはづかしなわほんくわいまんぞくcatなんでう累代の前人を辱めざる名なり、すかれとち1/3まひる、はた我が本懷滿足の悅びなり、やんちしトすたま何條これわれを棄て彼を取る卑性の振舞を敢てせん、貴卿强てゆるし棄て玉は〓我はなぎなたおんみンげんざんすふたヽが遮刀とつて其卿をめるそじと違ひかけ見命せでは濟ますまとわかうべめ空m/てきてしおんみS 25てに、疾く我が頭召し玉へ、同じく敵の手に死するにも貴卿の如き人の手ひげ男ンcheのこみうちにかゝるは特に悅ばし、s殘る血族もあるなれど、やなぎこ.たらううちじに願ふは柳小太郞といふもの戰死なしたりとはなりを三河にがにも知らなたまはんそのみなかはは30しこいろひこれよりほかに心も惹かれず、わかうべめたまなてつ, sほどひまいざ我が頭召し玉へ、と思ひつめたる一徹氣、とかう云ひ解かんに暇もあらねば、いひとおこつきはな兎角を云はず引起して突放しさま我われみなみさはしなぎなたは南を指して走りしに、ひろといづくまた薙刀を拾ひ取りて、ゅかさゐだいみなみはしなにわめいまさ6のが那處にか行く笠井大六、南へ走りて何とする、我が眼を今更逃れうとや、ひてうごとおPRまことわれゆる右わと飛鳥の如く追ひ來りて眞實に我を放さぬ顏つき、ふかへみ我が振り顧りしを見るよりも、がんぜんToわれなほいみのいさぎよ眼前の敵をおめ〓〓と我猶生きて見逃さうや、しやうぶのヽしわれ1し潔く勝負せよと罵つて、みす〓〓我には久ばざるを知りつゝ死を决めて打て蒐る。しなは3かたんハ一旦ゆるさんと思ひしもしんぐわい上のを斬らんも心外と、たあ好きほどにあしらふて、ナみひなけお9やがて戰ひ捨てんと身を退けば、またしばし猶追ひかけて斬りかくる。つの又少時あしらふて突と退けば、いジた氣息なほゆるも絕え〓〓になりながら酒も放さず追ひかくる。ジすこゝろo wひきとヾ斬つて捨てんは心に忍びず。15す行かんとすれば控ルめらる。わため時を過ごさんは我が利益ならぬに閑に其十八
こ) sむxへ困ずる折も折、端武者ながらも物具あざやかに、上方勢と一ト目に知gるゝが三人ばかり來かゝりて、逃げまどひせし甲州者よ、膾にして吳れやりかたなhはひ、、にう、と叫きわひつゝ銘刀もて一斉に我を目がけて〓しくてるる今は逃まげもならず別れもならず、立木を背後の楯に取りて嚴しく防ぎ鬪ひしが、〓せはなか多人を相手のことなれば、たゞさへ眼も忙しく手も忙しきを、中にも傷わかものン遊べてわれけじ殺さじどちもふ若者は眞先立つて人一倍手痛く我に當るに、我が働ふい) Scきの不自由さ。手は意に任せず意は手に任せず、幾度か敢なく敵の刄にあやふみたCatっ。ミ·サンクバかゝらんとせしが危くも身を保ちて爭ふ中、前なる一人を一刀にと思ひたんめたいて斜に薙ぎたる途端、それと日ざせしは躰を退きたるに刀は空を斬りてこたら) n〓はや生憎も身を側めて進みたる小太郞を、ハツと思ふも早遲く、我がものなわがかたなきれ あなか、is : )さしisおしがら我刀の切味却つて恨めしきまで切下げたり、ゑい仕損じたるか口惜psこxし、今は何をか憚らんと擧れに暴れて立處に二人を倒し、殘る一人の逃〓海セむただからげ行くを背より割りつけて仕舞ひしが、血の瀝る刀を手にして立戾り見十七百ひげ男むえCatれば、無然にも我が描きより可信助けんと思ひたりしゑはかりか心も花あたらたすso durとよかしやうねんことも匂ひ深かりし少年を、かな地に横へて見る悲しさ、たす者〓かくまで潔き性質ならずば、我が助けんと云ひし時、助かりて生命ながらふべきに、るみがこみ飽まで磨きし武士の、意氣地の冴に身を果して、なさけかげ품きたなくも敵の情の蔭に生きつ復び世の春に會はんともせまりしは平こそ若けれ大人差かしき心理わかおとなこヽろがけみかたceたゝかひのちダだうRELほ味方が原の戰の後、かい武道に異の勵み强きは海道にては三河ものそ敵ながらみこやまがたとの3g〓堪(ある振舞すと山縣廳の吟されし出を聞きたるととありしが、とg 345しや三河の士は、ねさむらひねむな羨ま額に角の入るか入らぬに如是潔き料節立つる少年を、おいさぎよれうけんたしやうねんシャト、子として弟としてカハ朋友として持つ〓とか、このしやうねんこいろがけなかばかうしうそれがしらあはれ此少年の心掛の半分なりとも我が甲期の某々等が有をて延といふものを知り况れんには、日このたゝかひ〃此戰も斯樣はならで濟みしならんに、65おとこいのち口のみ賢くてまさかの時には生命を借おししよぞんゆゑcけまむ所存の故に大事をも盛つて人日の如くなりしかと思へば情無し上ミぶなさけな嗚てき呼、これにつけ、みかれにつけ、こもた敵と味方との二つの名は抑誰が設けし無호其十八
みかたaかたさだてきにくは殘のものぞや、味方が味方にも定まればこそ、敵が憎きにも决定まればてきみかたむな%げんめいこほりさんやこそ、さるに敵味方といふばかりの慘說き石が上す盛命は氷の山野を包はくさきタうごかつSにんにんちじゆうまつたとざみ早くゝ草木に一分の動きとも許ろ迫処く一人の心の自由をそく藝みかた목かふちかつらたほか;なみ味方といへば松を枯らす藤營をも猶芝らず、敵と名のつけは見ところもなったみれんじやくふいいやじりむすこ無き蔦の實に來る連雀の風情あるにも鏃を向けでは濟ませぬに定まれるうわれたすぶたゞてきみかたなこのしやうねんことぞ憂き、我は助けんと思ひしも唯敵といひ味方といふ名が此少年とわれあひだたかたくさりあほうそせい我との間に斷つこと難き鏈となりて在りしより、一方は特に生をすてゝぼマしる。ぼうおなこヽろとむこがうくわの一步も去らず死を肯てしつ、一方は空しく心に負く、定まれる業果の免またこれ6おしいまさらかひなかれ難きといふは是等のことならんが、惜みて今更甲斐も無く、悔みてかわかちいくさみぎりこのしやうねんけなへることにもあらねと、同しくは我が勝軍の砌、にもあらば、此少年の健けあはれをとこしじうそのゆるがいれいおくと氣にも可憐男らしかりし始終を述へて其選挙を超をもてむり届けるわれひとなつむしあやふビのぞハ8やさききが、我は火を取る夏蟲の、それより危き塲に望まんと思へる矢先なれかなろつばれわかものこのまゝてきみかたしは、それも叶はず、さりながち天晴者者を此儘にして敵味方も知れざるひげ男ゃSeほねあめうかかよ野外の骨となし、ふ〓な兩打ち風吹くに委せ置きて名を埋まんも心無し、うプこゝろないかこヽろまよしばし七嗚呼如何にせんと心迷ひて少時は其處をより得ざりしが、こさ五はかしあん〓しやうたうとこン圖らず思案し得たりければ小刀を取りて腰に帶び、もとヾりきりとしやうねんg醫を切取つて少年が着たりし戰袍の袖したぎそでわふところヒこさそのときゑに包み、我が懷にして其處を去り、かみかたびそでじるし其時得たる上方勢の袖印なんどに敵て ゑいほいたよりで營へ紛れ入る便宜の出來しかば、0まぎいミヘいよ〓〓紛れ入らんとする前に、ンる。ましせいめいふでかしたぎしる事の大〓妊名とも一ト筆彼の戰袍に記し置きて、ンわれうnなきあらたやなぎこたむな はる我打たるゝとも我が遺骸を改むるものあらば柳小太郎來春といふもの如意くくにして怒りたりこうかをばおのづからしンふこと自然知るゝやうになし置きて、そあけちきんそのらこといなみうち〓扨明智が陣には入りたりしなり、其後の事は云ふまでも無し、BOO血族も無きにあらざれば灰になりと小太郞こた:レ死せしと、かこのみつたしやうねん三河の者の耳に傳へてよと少年が云ひしを依にせぬ我だ志。いあだ)こヽろざしとらはれとうけときたゞちこのし捕虜となりて當家へ來し時、にい...いみううらみからか直に此仔細を云はじ云ふべきなりしなるが、ひと身に受くべき格を輕くして三河の入と悅ばすこと云ふやつにも當りよろこいあたしはかしからねば、旨ゐいよ〓〓死に決められし時、にれたxo委細を語らんと思ひ居しな其十八
こんやおんみPそのこたらうためしnしかるに今夜眞卿等二人の來りしは其小太郞が爲とは知らず、我はり、わいのちせまぶかたいバㅉたまよどの我が生命迄りしと思ふばかりに語り出でしに、思ひがけ無く玉枝殿とやわてしやうねん君はしやうたうはやていらんは我が手にかけたりし少年が姊にて御坐せしよ、小刀は既手に入れたまみなてるはつしたぎそで玉ひぬ、これ見玉へ、これこそ我が手にかゝりし人の進髮を戰兎の袖にわをとたしないつはりな三えめ包みて我が持ち居れるものなれ、と取り出す品は僞ならず。玉枝が眼におぼえと て安心せさそさすかをんなあんぜんこ〓たえは記臆ある袖もなか〓〓淚を誘へば、流石女の黯然として言葉も出し得せせだいめかたゐにかたず咽ばんとす。大六これには眼もかけず、語らんとせし委細は語りぬ、しうらみしみさだこよひおんみはや死するとも憾なし、とてもかくても死すべき身と定まらば、今宵卿〓たてしか しおほやけてらCHさづ等に頭を授けんも一ト入をかし、織田が手に死なで三河に死し、公の手しおんみらいのちあたやくそくごと?がうきいくとてんはいに死なで貫卿等に生命與ふるも約束事か、作りし業の報を取らす天の配ほあちはひわれをはこつ空はってき劑も味あり、いで我終らん、騒ぎ玉ふな、ハ酒も盡きたり、一一なこのはいちうほんらいくうわれいまかへcせつとうら一七七のこねんなも無し、此盃中の本來空に我も今歸る時節到來、天地に遺す念も無く、よおモどうやうおんきやうどくじゆ; !!へんさいみぐわらりと夜明けの天空同樣、御經讀誦の功力により無邊際なる身となひげ男かたなつるぎ一「な刀劔と名のつくばかりの一尺二尺の鐘の歓片がたト一片の雲にらんに、늘눈かねかけらべん:ひとけえありがぎた等しき假現の此身を二タ段三段になさんとするをは何か拒まん。ぎたなにヒたまえとのうたまことにかたきういざ玉枝殿擊ち玉へ、たま弟御の敵擊ち玉へ、こゝろよさせうまをによしやう快く刄を受け申さん、ておかひえふなこのまゝ女性に對抗け要も無し、うとたヾ此儘に擊たれんに疾く〓〓やいばもなたいぜんうなじしさい刄を加へ玉へと泰然として頸を伸ばせは、じょなま仔細を聞きしに心も鍾りて遲疑する王枝は百葉も無し。ちぎたよえことばなこのていとみなが此態を見ていらだつ富永、たまえどのなれはヾがはま玉枝殿何をか憚り玉ふ、ねものがたりか、かがんやんおとヽご得知れぬ物語に耳假したまふな、かたきン眼前弟御の仇を置きて脚源ひ玉ふ法やある、たゆたたまほうわれがねごゑはたこいろいざなと破鐘聲して吼え立つるに、た心院はれてまた燃え立つ玉枝は我知らず立上りさま弟の仇たまえたんしたちあがカニかたき上と呼びかけて、っふかぶあはや实かまく振り冠れる逆子に把りし小刀の舞輝く過さかてとしやうたうきつさきかゞやはづれめはcみおろより目を張つて敵を見下せば、こやまごとだいをことけ小山の如き大の男の毛ほども動がず自若いつじじやくいまあふかくごとして聊か仰げる覺悟の態、ていCさあかご面は〓えてみつ〓〓と赤子の如く紅色に、Sくれなゐまつ学じくうもとしま能と結べる一字の日元緊りたれども憎氣ならず、にくげけねになしまなら(はじ胸に濁りの無きも知らるゝ眼のすゞしさ額の明るさ、あかゑみさくみ笑も含めるかと見ゆるばかりの頰の邊よロあたり其十八
あきひけうるは2 5あつばれりつばをとこロ&那處に惡まこはくり如かけて證畧美しう生ひ出でたる天晴立派の大丈夫振り、な)のひとわこたこ)ていいとほしごんところも無きに、まことや此人我が小太郞を敵ながら可憐と優しくも思ひて吳れしやらんと思ひ浮めば、% %oシなに何とは無しに醉へるが如く、ㄸよごとぼうぜん茫然とわれら) :わめはieしびあかめまばゆセうしろして我を失し、急に我が眼の前なりし燈火明きが眼に眩きを畳えて後方けなすさてゑヽのとりおとここるしり是ヘ一ト步二タ步、理山無く退りて手に持もし兵器もぼろり取落しぬ。は怪しからず、けたまえ玉枝殿、との怯れ玉ひしか云甲斐無し、ごたまいひがひなとみなが富永孫太夫これにあまごたゆふだうとたヨにとみながたいせいせいす造り、腔せず撃つて取り玉はアやと刷ます言ホが大慶を制して坐につく玉えしづかざくおんなさけなこと、あだうちおかをんなふく枝は靜に、怯れたりやとは御情無し、弟の仇に打對ひて女なればとて怯あはとなむねはやかさゐとの2こいろな〓思へば笠かされうことの有る筈は無けれど姿は既、笠井殿を怨まん心無し、〓との〓うらなさけあこ小太郞が仇と取るべくこたとうあだと井殿はなか〓〓に怨まうにも怨まれぬ情有る仁、シントせんかうらけふからおんこヽろいゆなつもなし、第も魚下に怨みはせで今日の今までの例心入れを却つて懐かしう思ひても居らめ、バをわが我君より御生命召し玉ふとも、きみおんいのちめたま今は一度は遮つて申いまたびさへぎまとし宥めんとまで思ふ笠井殿をば、な乃ニかさゐとのおきやけ公の御沙汰も測りがたきに私に擧たんおんさたはかわたくしうひげ男sよだて、かななどゝは思ひも寄らず、〓のこヽろはたうちじに弟は悲しくも自己が心を果して戰死なしたるに(CCFごうらみて柳の家には遺憾なれと、しいひとみひと死ぬるも生くるも人の身は人の心の爲すなこいちなかみしせさらで神の知ろしめして爲せたまふか、(七七こいろうかゞがたㅗ拙き心には窺ひ難く、しギかう〓〓てんうんはたでうかつよひとり不思議の神々しき天運か將定命か、いんねんつゆわれひと世に因緣といふものかの露より脆き自他らかう〓Pおぼろけの血の上に見ェア開きず雕刻ながらなるやうなるをおに要えて、あみ在こゝろそこに寒氣立ち、さむけたかなやらっあんたほか心の底哀しき口惜しき憾めしもの涙の外の名の無き涙が何かは知ななひだなにCaこarrおそらず催さるゝ、てんうんあゝ此の大なる長ろしき天運とやらいふものゝ下に力無したちからなたせかなatひとそのあむだく立つ敢果無き人と人との其間に、かたみこいろかにみこゑなおきひこことど昭れば見えぬ心も通ひ見れば聲無きそのゐひだ思も知らるゝ此の人と人との其間に、2.ひとあながたきまことあ怨みも憎みも仇敵も眞實在るものかさゐとのにて候べきかや、いまやすおんみ笠井殿よ今は安くおぼせ、うんわらはぎるカナ貴卿を擊たんとの思ひは妾わがおと、思ひ忘れて候なり、在おんきやうどくじゆたも我弟あはれと思して御經讀誦の砌にも弟が後世みぎりジェイごせごだいこ즈からしやうたいの苦辺のため飾廻向の唱題なと爲さを王はと發しく存し候べし、せなうれぞんごん〓〓ほことおんなんンケこれハをはと言々眞實の淚に沈む聲さへ重く云ひ終るを、5모모かまごたいん待ちに待ち兼ねし孫太夫、やあ其十八
なたまえとのれよしやうュ2%じんおとヽらニ云ひ甲斐無き玉校殿かな、さすがは女性の、婦人の仁、弟を擊たせ置きなんなさけたえうなわざおむらかんゆんこ〃て何たることぞや、ゑせ仁慈立て要無き業、敵の甘言に載せられて小太らうさなばるcoなとはLふるまひにがく〓にがくみco郞貞春が姉らしくも無き弱腰の振舞苦々しい、ゑゝ苦々しい見苦しい、モこのたまのたまおんみひげつらす其處退き玉へ、退き玉へ、よし〓〓御身は髯面めを、めるし棄つるともわれゆるこのロ、わぶんださいばひながひげひつつかSouくびふ我は許さず、此儘には我が一分立たず、幸の長髯引攫んで汝が首を逆にひつささかゐどのみがつてんたいたちあかしやうぶおは提げ、酒井殿に見せいでは合點ならぬは、大六立上つて勝負せよ、と躍るあしふなだいBCL 6g ue Sわかとけすやつこり上つて足踏み鳴らす。大六眼を刮と開きて、はて物解りせぬ土下司奴たまえとのうるすしヨハふるめ、玉枝殿にこそ擊たれもすべけれ、それさへ明日は死に定まりしと思こう〓いまたまえとのことばころさだひ込みたりし上の事、今の玉枝殿が言葉により殺さるゝに定まりしにもしふくいぷだいおのれらごといのちくあらずと知りては、飽まで生きやうずと思ふ大六、汝等如きに生命吳れたうお好きあん〓自己が友への義理立てばかりに、れぎリたうや、當の敵が我をゆるすに、しやしでわれうになやつさやり出て我を打たんとか、フヽ、フヽフヽ憎くは無い奴ながら左うしやうぶだいくびおのれ樣ほざかれては、勝負せぬとも云はれまい、さあ大六が首ほしくば汝がひげ男てceとみまりしやう手抦に取つて見よ、このたうはあなため哩と、わきらり引拔いて片膝立つ。ひきぬ殊勝に持て來し此かたひざたなに一刀の刄味の試しとならぬがよいかつやま〓〓〓いきほひするとごう下す。制めんとせし玉枝は後れて、ミニたまえおく何をと喝して山をも劈く勢銳にやめまゑゆうしゆうしゆるく切りの既眼の前には勇士と勇士が免さず退かず切り結ぶ劍光線亂れて風の曉にわけたかぜごはんたけ〃ユみづしもあさひゆみSわいすきまな竹の葉落つる水縮の朝日に射られつ輝く如く、割つて入らんに隙間も無ければ、よこヽろあれよ〓〓と弱き心のあだceそともたうさうふに揉まるゝばかりなる時、なおとおびたゞとあしおと室外に刀槍觸れて鳴る音、夥しき人の足音しあかひきうさみやがて明るき次の急に射し來ると見る間にがらり〓〓と、くて、いたとひきのcafeいカロけいごつ板戶引退けて現れ出でしは様て醫談に付けられし得はふたる武士二三十名、さしcmてたいまつovあきしう手にせし炬火の光にそれと、さきたさかゐたゞつぐこゑたかろうぜきミとみなが明らかに知るゝ眞先立ちし酒井忠次聲高く、かさゐだいかたないさやあ狼籍なり、止まれ富永、わitはげけガ笠井大六も刀收めよ、ぜんごさゆうそれ分け隔てよ、ものども、と烈しき下知にばら〓〓と前後左右より二人にかゝれば、ふたりないひとびとㄸおれだ大六は人々の爲すがまゝに刀を引きしが肯かぬ富永、きとみながおのれらじや크のモこのne汝等邪魔すな、退けや其處こみるさかゐかたらほどり退け默つてすつ込んで見て居よ酒井、ちみとがうこゑ必ず彼奴が血を見んと怒號の聲を其十八
たヾつぐまごカゆうかいなとからせいきヽわな猶絕たず。忠次みづから孫太火が腕を捉つて辛くも制しつ、聞分け無しとみながたれおんみかさゐたのおほやけrはれわたくしにんじゃうわが第富永、誰か貴卿に笠井を擊てと賴みしぞや、公の浮虜に私の刄傷、我君なゝ5ユこよひけいことうにんたもんでんらうらなりかさに對し不埒なり、といふ間に今宵の警護の頭人多門傳十郞等折重なりてやうやとうてうばしいしさかほ·〓漸く刀を手より奪ひ、强て鎭まらすれば、膨れ顏して、どつかと坐りつなほだいかたにい〓かしば猶大六が方を睨みてきり〓〓と齒を咬み絞りぬ。ひ其十九げzかう〓たん けいひまたヽほうじやうしつミまゆしろた沈香かすかに蓋にて短藥の燈のしづかに瞬く方丈の室中、眉白く垂れてなか.ろうとうちやてんうちかたかさゐないミンゐたでとみなが膏の屈まりたる老僧に茶を點ぜしめて打暗らう空九大六個井忠次、富永まひたゆふやなぎたまえわらりいまン( :25ありさまさんうつことば孫太夫柳玉枝、た〓僅に今一刻前の有樣には全く打てかへて、言葉さへいと長閑なる中にも忠次湖面に笑を浮めて笠井に對ひ、のとかセカたつぐまんめんゑみっかさゐ出お如是打解けて御うちとなんものがたいたらまをそれがしこゝろそこおんみこた物語り致す上は包まず申すべし、まことは小生も心の底には貴卿を小太ろうさかはるあだレはひかそのほゝる旨たるわが3ヶ郞真在が仇と知りこより眼近きとこゐに其船在らすが胸尊くて、我君へ男わしちモしやうまをおんみゑら窃に訴訟申し、おんなさけシテわがま貴卿を得んと欲せしが、ceはれ〓御仁慈深き我君は俘虜を得んなこうはかみけLおんゆるどとは以ての外と御氣色あしくて御許し無く候ひし、4こゝろぶんみニNoはななゑさりとて心に貴卿の上を思ひ放しは爲し得ざれば、ろうそうたのおこれなる老僧に賴み置きて日々貴下のにち〓〓おんみやうすたにすこし樣子を告げしめ、おんみニまた何なりと少にても貴下の上に事あらば急ぎて使をこといそPB〓われし.いおした廊井我に知らせよとズひ世まし下の心は世瀬若し此地を逃れんをどこゝろおんみこのしたまよしはこたらうcak〓はレ好き機會として小太郎が恨を露らさんと拵へしなり。かまこよとみながうなによしやうおんみさればこそ今雷も勇尔氏く女性一人との貸下を妨ひしといふことを早く知り得しとはやし之とみながうちこた:いままをごと富永氏は小太郎につき今申せし如き事情あれば、わけまかつまたによしやうたまえとのさてはと猜するとろあり、且又一人の女性といふも、玉校證ならんと猪せしまゝ、10こよモしやたいかやう드わし是は余處に仕難し、如何樣の事の湧かんも知るべからず、さつくさ〓こ寺に來て後、こきのつにうけたまそれがしたまえと早速に馳せつけしに、とのとう此委細を承はりては小生とても玉枝勵圓樣露いさゝか貫卿をやうつゆおんみう。こゝろな造ラルぞん怨まん心無く、なか〓〓とみながその生せやべつい懷しく存ずるなり、まったなをもてたいとかく富永殿も今は既別意全く無く表立つて云はヾ兎に角のこと、リ)ちうひと たれみなとみ室中の人誰も皆朋友を視ろごとくに其十九
こヽろバを中心五se Lいき貴卿をば心には思ひ居るに、あはれ笠井殿、願はくは貴卿みづから聊かユ方 はごなうらおもてないわれらとた枉げて三河の人となり玉ひ、裏表とも長く我等が朋友となりては玉はらただんしゆじんしよれうまったよupなほ なこゝろまめずや、我等が主人は所領も少く世に幅も猶無きものながら、心老實にして胸ひろく、店ぶ思ひ遣り深くして下を位ふに苟にも暴威をもつてせず、やふかbつ.かりぼうるかつ且とみうとつかこいろをのしろ180いこあは人を觀ること疎からねば、仕ふるに心樂みの有る主なり、國を擧げておんみあたてのひらちいさちほうろくおんみこゝろ貴卿に與ふるとも掌ほどの小き地なれば、俸祿をもては貴卿が意を引かとなSatおほよそしたましゆじんalんこと固より成るまじけれど、噂にも大〓は知り給はん、主人が人となこいろレたいkc3 (cmンだうよこヽろざしTelいさヽかり、心ざま、士に對しての情の濃さ、武道に寄する志の誠さなんどは聊たをとこよふえいこきうつうおんみあいう貴卿か愛を得るに足るものなしとせんや、男見の世に經る榮枯究通いづよかなしゆそのひとめしひめいぐわれにしても不可は無けれど、主其人にあらざれば、盲者に名〓のあつかつんほむらふえすなタこわはSはれ聾に笙、笛のあつかはれて、棄てられざれば嬲り破され果てんが如こヽろいろみふたきよnたときなぐに、心の色も人に見られず、吹かれなば出さん清き音も立つる時無くをは終らんこと、たれ誰か惜むに足らずといふべき、れし〓三河の人となり玉はヾ我等かはなたれたひげ男およおんみ及はざきものどもながら眞卿と長く暖まじく丹心をもて相交はり。ながなつユごヽろあひまじたがひたすたがひきそいまあさごとみゆ互に助け互に競ひて、けんた。てと今麻の如く亂れたる天下に手を執り淺掛けあふて面白こたかしろわうぎやうウルトく橫行もせんものと思ふに、ヒいかぶ三んとも思はれずや、ハそれ小生も愚なれど邪意は持たず、がしかあああ貴卿は其を如何に思ひ給ふや、じやいをかしから6とみながとのみごとたけわうつにねぇくぼ富永殿も見らるゝ如く竹を破つたる氣質の仁なり、大久保、ほんだはじめなるせすがぬとおはすかそ:われらほうばいかは:0ちた本多を首として成漸菅沼大須賀小栗、ロ我等か朋輩三河の者は、たおぼえ智慮の足る足らず經驗の有る有らぬこそろるひとりceたいはあれ一人として腹きたなく厭はしま好入る無けれは日頃管交際変ねちけものなごろみななからるおかたすおんみく、樂しく語らひて過ごし候が、な貴卿三河にとゞまりたまはい、かみわしゆじんさいまを上我が主人の悅びはもとより中すまでも無し、ㄸtわれらとうよと〓ふかようこまたいかわことば下は我等一同良き朋友得たるを深く悅び申さんに、つ如何で我が言葉には就きたまはずや、깊あたらきれう空しく可惜しかかたにま器其をいれまて日落の若の塩本のみの成も單の由無き自とれんとうもれぎなはてよしなめみめうおんみるゝは妙ならず、くちおしぞん貴卿のために口惜きことゝ存じて候、c33ユとだいと情をも理をも交ぜて說けば、うちわらおんさと大六から〓〓と打笑ひて、ぁがたぞん御驗しは有り難く存じ候、さ其十九さ
おんみごんさとそれがしッおんみラムチしゆニななら良神の卽釀しに小生が就かは其師は其のたもに券由の上つちくれモこつなそれがしそれがしchたいなにに土壤を添ふるの功を成したまふならん、小生は小生の主に對して何をなあたkぶ丘なぞんない爲したるに當り候はん、一身の利害は仰せまでも無く存じて候が、大六がいゆめうちいたかゆぞんむんことがたは利害を夢の中の痛き痒さほどにも存ぜねば、御喩しには就き難く候、りナしたましさるこxo明日にも死を賜はらば死せんばかり、左なくば飽までながらへて、時をニこのいたかひかへぢんたうおんみ俟ち此處を逃れ出で、唯一人にても甲斐へ歸りて、やがて陣頭に貴卿等しゆじんいへやすたちみもしそのときとみが主人家康の面を見んのみ、ハ若さることも候はヾ其時こそは富ながとのこゝろよおんみひやつけ上あしらちあさかゐとのそのとき永殿、快く貴卿と戰ひて今日の爭ひの埒明けん、まさかに酒井殿も其時ビとめいたかわらは老爲くるう得だてもなられまいほどにと云ひさしてまた商く栄ひひげ男其二十そのゝちたけだかいいかつよりたかてんじんごpb soなはころ其後武田勢また出でゝ勝顧高天神の後詰せし時、猶殺されでありたりしおちもだいいか七しばんそつてn3笠井大六、如何にして其を知りたりしや、番卒あまたに傷を負はせて方くわうじのいひと〓〓などろ廣寺を逃れ出でしかば、そのしまついぶかしといへやすらんだいじ大事無い、に、家康も少時打案ぜしが、ないへやすしばし甲斐の見等は追付け皆此家康が手ちゃに足ちやに、かひうちあんこともらち人々輩きて其始末の不審き由を家康に訴へけるたちま忽ち笑ひを面に浮めて、みなこのいへやすねるおもてうかよ好いは、ナ捨て置け、ぶてあしいをはつねごとと云ひ終つて常の如くなりし。其十五十八百
ひげ男ひげ男終靄護精舍雜筆靄其一護つちや々はちやすちかのちにうたうとううほりものめうえ土屋彌八安親後入道して東雨といふ、そうみんならせう要工に妙を得て宗〓と雙び稱さる、59 t sexあたまたねんはこたしゆわんいうた實に一世に冠たること能はざるも亦百年に誇るに足るの手腕を有せる英れいていかんそのあるひとあたしよちういは靈底の漢たり、其或人に與ふるの書中に曰くなに ごとわよよいたたくそうら何事も枝備を好く致し唐候はゝ心のむさき事なきやうに見第一なりこれたいさいくにんしやうひんこゝろえこいろ細工人は一生貧なるものと心得、そろつねに心のよごれぬやうにいたしたく候ろことうとうゆえんと、鳴呼是れ東雨が東雨たる所以のものにあらずや、ひんくふうきとう貧苦も富貴も東雨てうとうISきようくわくウダあたが鐵桶の如き胸郭を穿つ能はず鑽るあたはず、きふそのてつとうちうよたくは而して其鐵桶中に能く蓄精舍雜筆一
たゞんびじゆつこくりc) 2と家うそのくにはな(これしものは唯眞に美術國益に住せる人のみ保り釀し得つき其國みつとみはつこヽろならにちみちの蜜のみ。富を欲するも心のむさきなり名を欲するも心のむさきなり道に協はむ善に異せんと欲するも亦心のむさきなり、かなせん(ほつまたこゝろさる人の胸郭は海綿ひときようくわくかいめんSあな おほなにものよしんぜんとうくわかはけつもつとエの如くれるくして何者をる能く受漸逐過せしむる代りはは决して最か。いたきものを醸し出すとあたはざらむ。靄護精其二びじゆつかひとゆゑびじゆつかゆゑらつそのひとはういつねさんゆる美術家も人なり、故に美術家たるの故を以て其人の放逸無断を免すあたもちもんにんげんいつふくとんげんはざるは勿論なり。ざる如く美術家の一としては飽まで美術家たらざるべからず、ごとびじゆつかされど人間の一としては飽まで人間たらざるべからそびじゆつかさるに美uじゆつかぃついうかくごにんけんいうかくごちんにふ術家の一として有すべき覺花にすで人間の一として有すべき発格をざつきよあるひうちかくごxそとかくごかはロッせしめ難居せしめ或は內の爰花と趣して外の樣情に代らしゆんと欲のはいぜんへんんん15 inし者あり。かゝる輩は全と片とをみぜず統と偏とを知らざるものなれども、舍雜筆にんげんばんみきながにその人間一般の上より見れば毎を施さゝをに似て其實美術界に未甚しきじつびじゆつかいはなはだおく貽るものなり、いはんをかさはらりゆうれいしき3)まさむねさだ ねね况や區々たる小笠原流のごとき體式を以て正宗貞宗が腺かざりつうん~けいーたんけいあた之律し運農港度が居ずまひを糺さんとするに於てをや。をいぁsこうsこう3Mかてぶつしぶつしすわたとひかみ鳴呼冶工は冶工の膝の立やう佛師は佛師の坐りやうあり、なへはとけかたはらいた假令神の前佛の傍に至るともそのつちとそののみなあたもろはだぬおほあぐら其範を把り其愛と持するに當つては諸崩投り入領至かきて何の如かなん年ころかあらむ。しxごとあたきりすとをしとんも暗人の如きは能ふべくんは基督にも〓へ開邊にも效ふべ五らたこきよきものならむ彼等が畦煮を捧げて不死の神丹這裏にありと受賣する千金tしんたんこのうちうけクせんきんたんうりこぜんはいをし丹の賣子然たる輩に〓へらるべきものにはあらず、靄護精舍雜其三リはくじに2 5のちくわんおん李伯時初めは馬を書きて後は觀音を描く、かこれ23はくちかん然るに之を賞する白痴漢ありかなかなうまゑが考くわんおんゑが悲しい哉者あひかくぜんぎせつ髙を書きたる時と觀音を描きたる時と相談し前の技拙にしてのちgrたくみたるたまへ後の技巧ならば賞すべし、ちくしやう番のちほさつゑが唯だ前には畜生を書き後には苦離を書きたる筆
ぐわたいそのの ひかうせうだいいきこのむいへんあるひはううま高麗其者の卑武小大の故を以て或はほし感は番とは異を結成したると書薩を鐫成したる黄金と同じ黄金なるを知らで一を眞餘といやしみ一ビらちうせいわうこんわうごんししんちうを眞金と尊む見女の分別に均しかるべし。しんきんたつとじちよふんべつひと今の多數の批評家は李伯時にいまたすうひヽやうかりはくじはさつゑが品かなすゝめて菩薩を描かしめんとするの人なる哉、識護其四こちこ)ひにはつすうけいゆきEりがいあひまさんし こヽろあかSいよ心は一陰の次に似て愛は數ずの雪の如し利種相擊般しむなくして災しろぜんなはひとたちまなかうろかくこのしなんこうしよき〓らせつしよ白し再々歳暮の人忽ち爲る行路の客と、此詩何の巧處奇處なく却て拙處ぼんしよ桜しか上このしあいしかなんゆゑしぎ凡處あるを覺ゆ、技を以て論ずれば索より價なし穏を以て論ずるも亦異なし、99ろん、然れども予此詩を愛す、とあたひそうこつろん而して何の故なるかを知らず。遠征にさるに唯だたまんぜんこれあいひつきやうえいじある2みなあるひとみわら漫然として之を遂するは異き更見の職入を見ては泣ま或入を見てはことふしまかんかきようちうりやうよさつけまたしはたよ如如き不思議の感に我が胸中を領せらるゝに因るか或は又語果してかしえいげんいで歟。詩は溶元に出たり精舍雜筆其五なんぢこたうぜうぶつわれこいじやうぶつほ汝は是れ當成佛、さつかいきやうと我は是れ已成佛と苦薩戒經に說かれたり、ろはんこれたうじやうぶつ(どんこれいじやうぶつちはんこれ露伴は是當成佛、瞿曇は是己成佛、たうじやうせいじんこうしこれいじやうせいじんはん露伴は是當成聖人、ろこたうじやうしxさをうぎようてこれい孔子は是己成聖人、露伴は是れ當成詩人、じやうしじんあ6かなたマ沙翁額悅は是巳成詩人、めいじんにんゑつよのうちによぜはふBぶつ鳴呼快なる哉、唯明人忍慧强く能持如農法にして初めて佛ともなるべく他人とも時人ともなるべしせいじんしじん20ろはん どん ゑよわ上ちぼ上のはふかつこむらくは露伴忍懸弱く不持如是法、これいじやうちくしやうろばんこれたうじやうちくじやう羊は是己成畜生、露伴は是當成畜生、ほぐこれいじやうがきろごんこれたうじやうが炎口は是已成餓鬼露伴は是當成俄鬼なることを。きだいちやうぶまんこうちじゆんりうぎやくりう逆流、はんじゆんはんぎやくりうないしうつたいふりうくわいれつへいひ大丈夫滿腔の血、順流半順半逆流、このくわいこん乃至欝滯不流濃裂〓飛すべきところは此状恨二宇打·たはぐわんり成一丸裏にあり。靄護精舍雜筆其六かはかごすりあるひムしうそのたしよ〓〓さんけよ皮織祠或は七部集其他に所々散見するたつといへる者の句あり、の の(よかつ予が曾
ぶんちうらぎななこれバよて作りし文中に用ひし女の名は是より思ひ寄せたるなり、みうす。まひ見るも憂しひとり住居のたまゝつりなかみあをたかなあの中へまろびて見たき靑田哉みな おなひとよpoしろかんさるは句の面白きよしろ皆同じ人の句にして予の面自しと感ぜるものなり、さくくトンふうりうをんせきかうじんぶつさうく〓おもしろはは旬者を風流油氣の好人物ならむと恐慌して面白がるなりけり靄護精其七遙てふinはな戯ふるゝ蝶の重さよけしの花尾谷てふおのハし蝶も自が重みを知らむけしの花を第楓おなけはなてふとあ昭てよと百同じく瞿栗の花を題として同じく蠅を取り合はせ、し同じく蝶を取り合せその"きはかろけじはなきはぴきはよわ〓〓て同じく其極めて輕きところより瞿栗の花の極めて美に極めて弱々しくなんいよむものうかゞさとByかうとうしゆ何とも云へぬところを讀者に何はしめ悟らしめんとす、同巧同趣にしてぜんごあひことよひといよし前後相異なり、嗚呼いづれを好しと人は云ふらむ、予は知らず舍雜筆其八ぶcこつさひCit出なみときぐうぜんそうぐわいてうせい無事兀坐、身に炯なく胸に涙なき時個然意外に風聲を聞けは其何の島たそのなんとりときはあい塩おのづかはがんびせうるを問はず極めて愛すべきを覺え、このリおうりたづとりひとよろこ自ら破顏微笑するをまぬかれず。こゝろな這裏の道運を電話そに爲も人に查はるゝに急急くして歌ひ人も鳥に聞うたひと〓Bこゝろなたるよんビあひひと意無くして笑ふ貯交まだかゝる塲合よりしてんに寛ばもゝことありよろことんびれいがんしんそなセンたいていじ審美の經頃を疑に見へたる人にあらざるよりは大坂日己の形を極上のこかけ(きじやうし%ゆゑゐびやうしやあまあい推すのみ、Sいうやてんめんち故に胃病者の甘るを愛するが如く游治郎は親絶病情の元其を:)じやうくわうけいうつさんねつかん送料寫せるものを讃し、ごとムへいか然あるものゝ鹼を苦しとする如く不平家は和樂融々わらくゆう〓〓くわうけいうつれいしさうしちあいたる光景を寫せるものを冷視す、ふちよ安七あいひつきやうじふぶんしやううあしんけつしんるゐ壯士が血を愛し婦女が淚を愛するも畢みとあい見は簡脈女党の要に在る眞血具次を認めて愛するにはゐじで自己のcこあくけつちるいもつクえんしぶん左しかたま〓〓ひとよろこ痴涙を以て有樣の時文を掩ひ然して偶々獨り〓ぶのみ。とくしやあつすなは讀者に在ては即ち適意の文字を得、てきいもんじたさくしやろつまたふとうしようさんゆうによぜじゆんきやう作者に在ては即ち不當の稱議を發むる如是の順堰は謂護精舍雜筆
てんまたどくしやふてきいきんちいととうビひろう可なり、若し一轉すれは即ち讀者不適意の文字を壓ひ件者不當の黒部をうぎやくりやうあくるしひかな受くる逆境たり、鳴呼苦哉、八靄其九ビせをさいぜんごterぜせをさいかくまたほとんとしかこれぶとうせい芭蕉は四十歲前後にして漸く芭蕉たり西鶴もが殆然り、之を思へば當世きしやぶとたとさいことの作者の〓して取るに足らざるも無理ならず。四十歲よりさきの事かなここと四十歲よりさきの事かな護精舍其十80 ssにちまうぜん.80たことgしや53た.なこや(土十一月二十九日経然として思ひ立つ宇あり兵車に兼じて直もにじゃとしこえきかあんとうおはしよかんみみなこきようがしんねんゆうびんはに到り歲を超て歸家す、案類多くの書簡を見る皆是れ恭賀新年の郵便端きやうちうおほめいしみうちゴ書、ぎ義は則ち盡て情の更に掬すべきものなし、すなはつきじやうさら、き筐中多くの名刺を見る中びれいものあたかゆいしや105 Sに物色文藏を施したる極めて美麗の者。恰も校書輩の用ふるものゝ如きあさい:雜筆れいすでたなばさいこれてらときたま〓〓もんり、禮は既に足りて尙才を之に街ふのみ。た、きやく時に適門を敵くの客あり、一がうしゆききたはうだんさいわへいじつこと臺の相短なくして來り最〓細菌平日と異ならず相顧みて快と呼ぶあひかへりdょ其十一ことしごろおほぶん?おくしよよ今歲二月頃より多く文を作らず多く書を讀まず、ひとろとき古庄はな家に在る時は即ち花をCamなせんあるひすまひたはむれcofよはん養ひ付を洗し或は角龍の歲をなし或は樹を擧ちて、9らうじんまなばんcどうごとほかるtctみだした一半は老人を學び一半は兒童の如くし、こみたしんち外に在れば即ち浪りに舌を數し浪りに新知己を求めとしば〓〓えんあんせきしば〓〓たかんじ數々宴安の席につらなり數々他の閑事に自己を役し、じこえきだい くさらんはいこつじき大工左官の輩乞食ひんみんとしたせんぱつけつばつわざ貧民の徒に親しみ剪結髮を業とせる男女等が瑣談を聞き雇人請宿酩酒たんなよらさだんやとひにんうけやどめいしめ店不潔なる割熟店などにも入り込みしが、けつかつぼうてんらこSSいニくわうくわん七月に入りてより復た黄卷をとつつとこれしたあたみうつまたかつ把て勸めて之に親しむに當り身の佐み優れざるを霊と、しえ又甞て知り得ざしゆみこじんし〓ぶんしやうちうようしゆつきたりし臨味の古人が調陋文傘中より桃山し來つて我を建シが如きと争われおそごとおほ其十二一靄護精舍雜筆
COぜんにんゆんにんゆ五3つあい孩兒は番人に似たりといへども蕃人にはあらず、故に孩兒は僅に愛するたけいたほたとまな〓しかりよりあひだしように足るのみ敬するに足らず又素より學ふに足らず、然るに閭里の間に稱ぜんにんじつおほがいじむちしむじ1せらるゝ善人なるもの實は多くは孩見のみ、無知識なるのみ、無思慮なこ、コンちしきしりよでかんわらおるのみ、是を以て知識あり思慮ある想漢の笑ふとこるとなり輕んずるところとなる。十議護精其十三かついんしなにがしとかんだんときうつしゆかれごわれ、かざはゞか甞て隱士某を訪ふて開談時を移せしが、主の彼も客の我も飾らず憚らずぷんミたがういなちくらむるあるひたんはんせんちやこんや豆上層を百ひに打ち山して飛は父ひ或は歎ずるほとに事裁の其一番ふわになはあじはひごはせうしつくうていこうみつふくけんと〓ひ菓も甚だ味あるを覺えて、小室空庭もまた、口密腹劍の徒が立つて跛すさgしかしおしバcotれいびるなく坐して隻するなく然も知つて〓へず思ふて爵さず。禮に美にしてじやうともかうさいかうたうくわうゑんおはいcheかん情に乏しき交際をなすところの高感廣圍より大に真ふべきを感じなちなみせんリ:)ごかくていしゆにちかな因にいふ、千の利休が語に、容亭主たがひの心にかなはふよし協ひたが舍雜筆るはあしゝ、又さび發たるはよし渡させたるはあし風流ならざるところ却さび、ふうりうらふうりうとふうりうふうりうて風流求めて風流なるは風流ならざるなり、さけかだうそうしやうとあるは流石に一道の宗匠ほどありて面白き言といふべし。5靄護其十四かふじんおつじんぎぎぎ甲人乙人を議す、議せらるゝものは議せられしによつて一種をも增とずしユがうゆんたヾあばれむすなはひとぞうゆんしやうか一毫をも减ぜざるなり、あた唯憐む議するものは即ち人を增減上下する能はばじこかくもんげんしなしんせんかうていはうふきんくわいだいずして却つて自己の學問見證の深淺高低、せうくわんけふろ〓抱負襟懷の大小寛狭を露出ししかまたへいじんぎていち而して又丙人の議するところとなることを、あひんなほ喰鼎を扛げて贖をたつ尙かぎ)5しようはな はた可なり、日を議して盲を證す、また太甚しからずや精舍雜筆其十五ごおほねづみか我が家に多きものは鼠と蚊とのみ、一十ざう上deぜんわんさらこばちすくなぐわふく藏書も少く膳椀皿小鉢も少く〓幅の
へきかんごとたむかそはうせいしつざうしよ壁間にかくべきものゝ如きは唯一二あるのみ、まつうれ도+たC然りといへども粗放の性た安んじらんしゆんじつ質藏書の少きを憂へず什器の足らざるを苦しまず、唯寒時も熱時も春日おいつねなば のぶけんすざうたいこヽろたのしおぼも秋後も常に尙信加親子の像に對するにいたつては心擧まざるある등かきとわふくかとはつなけいえ、時に好〓福を勝ひ求めんと欲することの無きにはあらざりしが、頃じつたま〓〓ぼうらうじんきうこたうあんねんかんつねつきこゑらはないれ日偶然某老人が、利休の子遺安け五六年開常を鶴の一聲と云へる花人にはないつひたびぢくものかたのち花を活けて終に一定も物物かけたることなかりしとしょろを開きてまたあへたんゆうおうきよめうぐわしひとたしこいろや、やす復敢て探歯腦擧の妙〓を強て求めんともせず、足ることを知つて心稍安んじぬ。護護精舍雜其十六2れきぐわついちよてじま5ちわれこゝろしづきよコー陰層八月十三日の夜、寺島よりの歸路我たト一人心靜かに消らかなる月書あばくていあゆ〓わたかぎけいしよくいつもよかの光を浴びつゝ墨堤を歩みしに、見渡す限りの景色平常よりはあはれ深かうすゐいるながこゅ言ろせいこのかなめ3岸を浸す滿々たる江水緩く流れて漕き行く舟の風も物慈しひたく眼に映り、筆みづかん えんひらかうじゆほつリはくいしく、水は寒煙を引て江樹を漢すと李白が云ひしもかゝる眺めかと標第ながたむあつしとほのぞ5ぎん堂待乳あたりを遠く望みながら、うただむか草がくれに吟ずる蟲の歌に送られ迎へらゆう〓〓ひどりゆひるあめこきcheきれ融々として獨行けば、童の雨に洗はれし樹々の稍より平はら〓〓と折まふしにちジわそで擔うすきぬびうんとき節の風に散り零ちて我が袖を濡し、つきごは薄組のやうなる微雲時に月を掩ふてわこちいたまなに何とは知らざる感の脇に湧きて仰いでは觀俯してしcomあふ我が心を傷しむるに、みふたんほここんaのちらいしやみてんちゆうくforは欺じ、前に古人を見ず後に來者を見ず、天地の悠々たるを念ふて獨愴ひとりさうぜんなんたくだこしハいたか爲として郷下るといへる言語を想ひ出でしまゝ高らかに面するととしようすうくわいしゆくさつくわうりやう一扁殺荒凉の秋氣を感じて、0.5元神殆と氷りの如くなり茫然として我吾を忘るしうきかんしん く〓ほとんこはごとぱうぜんひさゝこと久しかりき靄護精舍雜筆其十七よ夜ふけて〓坐すれば與。味極めて多し、さきようみきわけだねんうちかぜひやつきす蓋し一年の中風冷やかに月〓むのせつもつとらつ節最も妙、しううちあめしゴはおひもつとめうはちうちひとさだヱ三秋の中雨靜かに葉落つるの日最も妙、一日の中人定まり蟲
ときもつとめうもひとさだむしぎんISすゐせい吟ずるの時最も妙、しほうくうし若しそれ人定まり患吟ずるの時にあたつては薛は國ぐわんけんびやうしだくふせいひんに若かず傷は寒に其かず即使なさは微差あるに着かア海吉ならむはしせい()びやうひんわれこれめうなはひそかジェならむに若かじ、醒空、病、貧我之を四妙となす、而して尙私に謂ふBaめう人を屠り火を放ちし罪を抱くあるあるあらむには愈々益々もつて妙ならひとほふひはないたこれかうせつさまた上坂けたいかんたいぞくさつじんほうは臨飽健富は是れ人天の交接を、妨げ親和を碍するの大好大賊、ほうけんふむ、殺人放boつみほてんじにんあひだたえいこうしゆくせいくうべうひんまきこかんばせい次の第は母天子人の間に立つの編者おなり國孝満員は正に見れ桓揚ききやうけいべんするの職糧なり刑鞭なり靄護精舍其十八われこのごろやまひ之ひつけんとたじゆんじつすじよくちうきさときちんとうしよ我頃日病を得て筆視と親まざる旬日に過ぐ、蓐中危坐して時に枕頭の書よしんきすゐもうはるかせいりよくへいぜいおよたんまぬを讀むに、腓氣發性遠に精力の平生に及ばざるを欲ずるを免かれずといよくおとろいしあいゆゑこゝろぢんきやう〓おもいらんぶんレブへども、また敬意へ意勢なるが改に心六座の堰に馳せず旦一先の女に沈さいわひみけんぎけんしゆつみたきようえきたほうみて季に未見の交を見山し本得の翼を得來ることさをにしもあらず寳雜筆くわうめうきやうけんのだい光明經卷第二中の、ちうたいじやうぶもうりいしやうほつしんちからにんちうしゆごと大丈大猛利の意を生ぜは發心の力人中の主の如くなごむ〓けうけいしんはつきかえきやうまんみなきしやらむといへる語、無邊の恭散心を發起せは我人の犠優音菜拾せんといへこにやくとくほつしんふたい:ひcこんりげんくわうめうにやくとくこんりげんくわうめうる語、若得發心不退力、ひじやうおんりでち16にやくきおんりあくち1L彼以根利現光明、シラとうぐはうほうせんゆう若得根利現光明、ご彼常遠離惡知識、若巳遠離惡知識、ちよくせつきんせつわれ應當求法訪善友といへる語などの直接緊切に我はげわあくn,あたわぜんとしヒの のみいだを勵まし我が悪僻に中り我が前述を指示する者を見出して、ふん ぜん奮然としてたたんぜん〓かつぜん浮ところえとう起を那然として恥お爺然としてをんずる所を制し等みな見れぬ中のこびやうちうさくわいじまた一快字を叫ぶに足るといふべし。靄護精舍雜其十九永夜抛人何處去、絕來音、香問掩、眉歛月將沈、爭忍不相尋、怨孤衾、こけい換我心爲〓心、そちうじやうたいしけつまつわ始知相憶深、といへる顧負が訴衷情躰の詞の結末、我がいちか一七七百こきなあひおもふか心を換へて僕の心と爲きばはじめて相傷あの深きを知らむとの一句1ちきわ53きわしかわうさうせうちようさんたいしうけいし極め情を極む、然るに注藻が小重山躰秋閨の詞、月下潮生紅蓼汀、殘霞筆
都歛盡、四山靑、柳梢風急墮流螢、隨波去、點々亂寒星○別語記丁寧、けつき如今能間隔、幾長亭、夜來秋氣入銀屏、梧桐雨、還恨不同聽、の結末二ちしかよc35きはたいていじやうたがちた句は痴ならずして而して能く情を極む、大抵情を描かんとすれば痴に堕ちだつRKたしちすなはじちじやうすなはちし痴を脫せんとすれば凡に堕す、知らず痂即ち情なるか情即ち痴なるかけだちたいゑがなほめすじやうしゆほがばんだつらやす至し無修を無くことは何良く情趣を描まて凡を將せんことは質に馬ひつきやうちばん もといたたゞしんaずにいても單秀するに気ル固より病とするに尺らず唯異ならざるをへむのみ。靄護精舍其二十らんさうまたことこちきふらさわたんうんまいや··やこし辦又一刻、胡思亂想一心は急風に騒ぐの斷雲となり思は野火に燒かるゝくわうさうにEssうれひせんはくごはうつもんたしんし審思講考ていかうの荒草に似たり、漸く愁の煎迫するを覺えて、鬱悶に堪へず、の力衰へ憎々蒙々の境に沈みまるを免れ難く、ちからおとろまくるくきやうとうさcep読む强て謔語し敢て爛醉し以しいぎやくごあこんするニて纏に我を慰め我を瞞せんとするも、わづかわれackわnまんせうせい笑聲は無心の虛空に沒して却つてびしんこ(ノぼつか、雜筆とりなやませ日〓〓くわうけいきたたしうじんとちゃうい10ざんげなみだ鳥啼き山寂々の光景を來し、酒は愁人の肚膓に入りて化して懺悔の淚とぐわいらいえんしんちCB等しんじゆしゝなややすなり、なまじたに外來の我なきため心池水を結び身樹額に衞み易し、斯またしうかんれいごとうつひかはつくすること復一周間例の如く一も得るなくして、0ごぜんたふ品はつごこ노づコしんぱし遂に歸家せんと欲し、で午前に患の澤を發レ午後に國府津を去り日暮れて新機に有しろ、くこんてうあん今朝晏0 ISやくぼうくわいれつ起時をあやまりたるがために約あるの其會に刻するあたはざるやう2§やとかいセットところさすがさんしよくせいなはしを恨みながら車を働ふて家に嚮ふ途中、18流石に山色水聲猶とゞまつてがんていじりおはじんぱふんくねつたうしがいつうくわしんちう眼底耳裏にあるがごときを覺え、人馬紛々の熱關市街を通過するも心中いくぶん幾分の快味を帶びしが、くわいみxみち路の次に某書肆を訪ふて偶然蝶芝の蕉翁傳三卷ついでほうしよしとぐうぜんてうもせうをうでん·えんえきよねんばせをしやうたづかうときせきすゐせんねんかうこのしよを得たり、去年色葉の一生を尋ね校せし時積寧の句書年考と此書とのみえaかんねんかうsexばういうらぶんしを得ざるを遺憾とせしに·考九卷は亡友羅文子の周旋によつて借魂するしうせんしやくらんえいまこのしよaおよはかこれえことを得しも未だ此書を見るには及ばざりしが、圖らず此を得しなれば、上ことまたCよたそんなこの書は思ひしほどのものにはあらざるも事は亦一快を呼ぶに足り、今夜此しよせいどくふうりうへういつミめん きくbかつがんていじさんすゐおも雷を即護して風流讓逐の弟が回目を想ひずり互は限底耳塞の山水を靄護精舍雜筆七十
ねむつゆめせいふうめいゆつちあそこんまつするて眠りに於かは尊さる充帝風明月の地に避び速き花酸み換すぼおもむわするわいほつる趣きにあくがれんと竊によろこびて、ものぐさき我が庵に着きしに、あるてうろせきでん上さま(9°Cわ嗚呼、嗚呼、朝露夕電とはかねて知りたる世の態ながら、王子にある吾あにじわつしゆつゆうのちすうじつゆめごとう〓たが兄の次子は我が告けどして出題びし然敵目にして浮の如く亡せ果びべんけふこときよげつばつばうふううわあんやぶと毘一片の烟り痕なくなりぬ。去月末の暴風雨にあたり我が庵破れ飛ばさおくじやうGeふせinくわくしやくくわいくわつりんかれんとせしとき屋上になりてそを防ぎ異たきはズ弱終検法なりし陸ろうおうわのちこつえんとんしをはかうくせうせいふた〓老翁も我が出でし後忽焉。として〓死してり、哈々たる笑聲を復たび聞くてらじまニコるいへきよかわうじこいぶつじによしなくなりぬ。加ふるに寺島に住せる兄が家は衆家王子の家の佛事さんすきとううかヾひさおつかいムざいあにかへわうじに參せる隙を盗に覗はれぬ。久しく航海して不在なりし兄は歸り。王子かつゆしニすであかばねうつさあんとうきんほうさとうすうしゆしよの一家は露知らざりし間に既に赤羽に移り去り。案頭金鳳釵等數種の書こわがあにたづさかへわれざうよへいせんしこあり是れ吾兄の携へ歸りて我に朋與せられしものなり、平泉志あり是れおうしうゆうじんことらさうそんとくをうでんこくなしか반ひ6奥州の友人の殊に寄送せるなり。尊德翁傳の刻成りて而して是非とも加めい"だつコはくぶんしやいんさつぶつかうせいふべしと命じ置きたるはしがぎを脫し去りあり、博聞社は印刷物の校正靄護精舍雜筆われせまだんせいぼうしぶんたんしや落ちて上を我に逼り。よわぶんもとお召仙臺の某氏文撿社の某民は書を寄せて我が文を需め、債鬼とくごかくこうゆうこんきよたなほしるかた安んじわれは常陸を追りあり好友は恒調を寄せあり他に何配し就を舞事の根にどんたやんとわれわらいおもとるもの二あり厭ふに堪へたる修事の我を煩はすもの四五にとじまるよろこむらたん悲むべきこと喜ぶべきこと、またじしんへん驚くべきこと歎ずべきこと都て一時に身邊1きたまたざんきまたあうなうまたきうまたこんに蝟集し來りて、こうくわいばうえんろかんしやくばうわ又〓愧又懊惱又窮又恨、後悔一方に生じ癇癪一方に湧しばしあきあるかつあんうユそのしよやすき、少時は呆れに呆れけるが一喝案を拍ち、しよ先づ其處し易きものより處きふきふためいたんなし急にすべきものを急にし、しんつ他は明旦をまつて爲さんと寢に就きしが、ねむかつねむㄸがたなんさんしよくすゐせい部長ば睡らんと欲して睡り成り難く、サラおう何の山色水聲の眼耳にあるなく芭蕉翁はいぐわいさきんほうしやおなちんべんこうしん千里以外に去りて金鳳叙は空しく优邊に委し、心は眞に六窓堂裏の一編さうとうりびこうごとさわじやくまくしやうじやしゆじんかうてんしゆせうげ彼の如く騒ぎて猥爽たる相金の主人公一點の殊勝氣なし、まよおよちやとせうとうすでねむろちうとうくわつひ酒を呼ばんにも及はす茶を需めんにも小値既に睡り爐中豆火もなし、やゑ終に已むを得すふんぱつtyヒえよめいたしんつかおよ舊發して修慈分を讀むに眼痛み神疲るゝに及んで、かくCEしゆじやうしんけん是の如き衆生身見とへんけんゆゑがさうt,ゑやくモこのけんげんぢよ恐見とあるともつての故に親起あり若し有意の慾を消は此見を被除と靄護精舍雜筆
うがさうまたしたがつしそくこゆゑわれかSEじおさ有の我想外隠て止思す是の故に乳まさに是の如く惑を修むづしといくわんなげうもくしやヽひさのところに至り、卷を抛つて默思良久し。靄其二十一eいまたしたい.せひchs .ぜひひとしやうひがあひあらそ酒入れば舌出づ、舌出づれば是非生ず、是非一たび生ずれば彼我相爭ひかふおつたがひそむこヽろたひらあたわれすなはしゆらたうたかんふか甲乙互に朕きて心また平かなる能はず、我即ち修羅道に墮す矣。感深けよくおとろよくおとろいんしよくげんいんしとくきふげんいうくこも〓〓いたふzれば慾衰ふ、慾衰ふれば飮〓减ず、飮〓急に减ずれば憂苦交〓到り怖畏おのづかわこヽろざしかたわれすな対がきだうたほかんがいひ自ら湧きて志堅きあたはず、我即ち餓鬼道に墮す矣。酒の感慨を惹くはせきじやうひろうだつゆきたごとひさけかんがいつゆかんがい石上に火を弄して却つて露を來すが如し、さけひひんしやかんたねつたう火は酒なり感慨は露なり、さくか、かんがい感愼の酒を惹くは負者の渡に御へずして熱湯に浴するがごとし、寒は感慨ねつたう6たたん上さたにすゐくわしんやタかんねつなり熱湯は酒なり、若し夫れ歎して醉ひ醒めて悲まば水火神を傷り寒然みころわれすなはながBといたあたいじやうぶこのそ身を殺し、我即ち長く地獄に墮せん矣。嗚呼大丈夫いづくんぞ此三足のていちうn鼎中に煑らるべけんや。護精舍雜筆其二十二じんじchaみなかならじんゐおむしうろ人事悉とく皆必ずしも人爲にあらじ、とRTレにsc is is le Le悲むべく恨むべきものを把り來つはんぶくして仔細に觀ずること一回二回三回四回、かうナCま飜覆思考する數十百回すれば漸かなしみほねかwaひつう;)うすうらみちはとんこほくせの骨貝つ浮けんとするの悲痛中に荷らを恨の血殆デ水らんとすこん くちうとかなし恨苦中に解け、君を怒まんとするに悲むべきものなく他を恨まんとするおむした20うaごいいはゆるてんいそんに恨むべきものなきを覺ゆ、こゝに於て所謂天意なるものゝ存するなきやを疑ふを免れず、うたがisonしご靜かに周易を味ひ、しうえきあぢは更に泰否師比の徃來變化の理をcoたい ひtわつへん くわたづばく〓〓バう〓〓われこヽろしごとわがみ55ごと署ねるに選々渺々として我心死するが如く我身亡するが如し。護護精舍雜筆其二十三にんじやうわれいかにんじやうわれしかてんりかれか人情我を活かしむる乎人情我を死せしむる乎、てんりわれ天理我を育するか天理我を毒する乎、くか仁は恩を生し恩は桎梏を人に被らしむる乎、xおんおうおんてつかうごcos g空しやう義は法を生じ一十二
ほう法は榜蒲をして世に行はれしむる乎、ちよば上ごくか責は剝を招き剝は文を奪ふ乎、ひほ信ドぶんうばかな大さうしんきたしんきづところまぬかかきいせいほう13ゑん壯は晋を來し晋は傷つく所あるを免れざる乎、生は生を亡する所以なるかあいあいころゅ해んんまたげんごんぜつおよしりやうはるかとほこれ乎愛は愛を殺す所以なる乎、玄の又玄、言說及ばず思量適に遠し、せうえう3てんたてんこたし당かうりよかんを著天に質せば天答て曰く、知らずと、去つて巷閭の間を道遙すれば、たま〓〓一童子あり、とうじ手に風車を持して芫爾として笑つて之を視る、てかざぐるまかくわんじわらこれみその其じやうたいぜんち狀大善知識の如し、しきCE然れども我得るなきなり、bたらゐ嗚呼々々古人什麼を說けこじんなれとるや。靄護精舍其二十四ろくわすでっちやきつからうシニ人静まつて感愈々多く、しづ爐火既に盡きて菜を喫せんと欲するも得るあたかつちなみibえふたぶけたぐわいよくしかはざる。」四に甞て思ひ得たることを復び思ふ、蓋し外慾に二種あり、渴して喉を潤さんことを欲し〓て肚を實せんことを欲し、のなきうるはほつ2はちじつハラなん乃至寒には身を掩かん〓おはBあめみBるゐこんほんよくはんことを欲し雨には身を躱さんことを欲するの類これを根本慾とす、雜筆いんびみ49まかせん飮の美味すらんことを欲し食の律師ならんことを欲し熱情を避い模口きんせうほとろうかくをかつるゐえほんよくしやうじん居らんと欲する類これを依本慾とす、つねxほんしやうよく,たい小人は常に依本の小慾に驅られ大こときこんぱんたいよくだんえほん人は時あつて根本の大慾をも断ず、きこうぬすたうぞくこんほんきおんうるはまたえはん依本の慾は心を倫むの盜賊にして根本の慾は恩を賣るの惡魔なり、きく9 688びむよこん又依本の慾は氣を和ぐるの美女にして根ほんとみなるちうしんこらいヽくた本の慾は身を保つの忠臣なり、いんどんしやSたいていおん古來幾多の隱避者の如きは大抵恩を賣るうの悪魔の奴たるに過ぎず、:とすいやしないよくしゆえほんよくはまたいせけんや生とうB鄙といふべし、內慾にも二種あり、依本慾は即ち對世間にして名譽等を欲するこれなり、합じゆつせいはつ技術の精ならんことを欲しがくもんだうとくまほつ20ひたいせけん學問道徳の進んことを欲する類は非到世間にして根本遂なり、こんほんよくしやうじんつねこのゑほんしやうよくたいじんしこのこんぽんよく小人は常に此依本の小港に驅られ大人は死ずとも此根本慾を拾てず、ナないえはんよくぐわいえほんよくじはいぐわいこんほんよくないこんほんよく內依本慾は外依本慾と姉妹たり外根本慾は內根本慾と弟兄たり、ていけいたゞだいかん ゆうきばつこふひどりまんぞくえだい但大好雄は四慾に吸恩して而も獨滯足を得んとするの大意慾を抱き、さいるたいせいじんさせんたつ大聖人は四慾を蟬脫ふあまねまんぞくえして而も吾く滿足を得せしめんとするの大意慾を抱く、だいきいだあなんわさせうあなんわさんせう嗚呼何ぞ我が慾の小なるや鳴呼何ぞ我が慾の小なるや。講護精舍雜筆
其二十五はくふうりんれつひといとあにどたみつうんあんたん北風の凛列たる人これを厭ふ、これ豈厭ふに足らむや、密雲の暗澹たる22どあに25たん10じよらいじよふんじよしじよき도人これを厭ふ、これ豈厭ふに足らむや、間の突如來如焚如死如棄如としとらワひと22あにとたけいて生ずる離の九四の如き人これを厭ふ、これ豈厭ふに足らむや、係するききそうきよくエさいえかんにおりごとけんしよに繼續を以つてし砂球に始かる二兼得ざるといよ旅の上六の如ま隆ンドいとゐにいとたかぜはつしくらいきようする人これを厭ふ、これ豈厭ふに足らむや、風の發止し雲の來去する有いごとむいごとリしか25きふごと意の如く無意の如く達の然らしれるが如く權の然らしむるが如し、これどよそのしんたつもんうつけんなんこつしやうぜんを厭ふものは能く其頃に達せざるところあればなり、悶欝險難の忽生漸しやうこつめつぜんめつうい20むらごと55ホごとめい生忍漂激澤するもまた有心の如く無金の如く情の然らしむるが如くホごといとよそのきよく的は然らしむるが如し、これを服ふものは能く其極を究めざるところあればけだたつつヽしぎめいしなるべし、蓋し理に達すれば數むことあつて畏るゝことなく命を知れはやすうらくんじけつふく安んずるところあつて恨むところなからむ、こゝをもつて君子は夬に復靄護精舍雜筆とんたいさういちはひクいちはひはつしりぞミa上みなよに毒に大壮に彩を得るに對を發すをに退いて守るに動いて届るゝにかつほしいまゝcうば당いん3cmたからざるなく、剛にして放にせす柔にして奪はれず穀然として自ら保ちおんこだせつりあいめいたのしクかあ〓かなしいかなb温乎として他に接し、理を愛し命を樂むを得る乎、鳴呼々々悲夫、我があいめいたのしえわれせうじんを理を愛し命を樂むことを得さるや、我それついに小人にして終はるべきか乎。靄護精其二十六そんえきみち13こんみちおそやすきぞ284損は益の道なり升は困の道なり、懼るゝものは安し、傷つくものは慰めなやすなはきつみつすなはかこうまづさいはひにんにくらる、艱むは則ち吉滿るは則ち〓く、心の貧しきものは多福なり、忍辱たりきひ.るきんじゆんなんだいだた5.うんしやうは多力なり、火に逢はざれば金純ならす、涕を出す沱若たらずんば運祥けふくかいかたみかんgさかんたいじやうぶならず、境苦ならざれは學固からず、身閉なれば氣壯ならず、大丈夫はなんさいっがいじfおそまたしたしがいしうきかうかんすなは難を辟けず易に就かず默見は藥を恐れ寿を親む、鎧袖一揮すれば好漢輙てき経ら 七このゆゑろなりつふるみち.、ち敵の多からざらんことを恐るゝのみ、此故に阿那律の奮つて道に進む舍雜筆
りやうがんしつかへりしんくわういかはふこび9るうらみ千雨取を失するを顧みず辭劣の慣つて〓とポむなや一骨を切つて敢るわれこえはひあいこん3しよくじんビりとせず、嗚呼我古人に愧づることあり、悲や哀や恨や痛や屏や悶や罵骨えんきひがうsきたByいよ〓〓きたきたわれせわかういんや怨惡や一切業果や來るものは來れ愈々來れ、來つて我を責め我が業因せうをして消せしめよ、靄護其二十七しうとめでこたつはいくゐひといはぢ姑の出たあとぬくき炬體かなといへる俳句あり、或人曰く一應はおもしろし再應はおもしろからずと、忌ら一應は然るべき人情、おうしかにんじやういつはり無きとこなしかせんじやうろなれども、よくおもへば然あるべからざる人情、あやまりあるところなればなるべし。よめしうとこち15しゆんぱうわれおう嫁姑まるき心や初なすびといへるは春望が旬なり、予おもへらく、一一さいおうつくはおもしろくして再應はおもしろからずと。一見は美しけれどよくおもるすまたねしやいだとへば、秋茄子を嫁に食はすなといへることを種子にして作者が出せる品精舍雜筆たま玉なればなり、ちや邪はあし〓正はよし、せいしせいしぜんにや强ひて正ならんとするは自然に邪しかはいかいからなるよりは請歌俳諧の道にて取らざるところなるべし、といつはりはおもげんじゆつこうなにぶしろからぬ幻術なり、ようふよさわ巧なりとて何かあらむ。老大都あるをきかしき遠さかなといへる販癒の句ほまことにもかし〓さいくきらはざくわいろれどわか藍は入れ歯処に校適の離となりておき頃の痴跡も奇氣も夢のやうなり、ころちわりんきゆめなんじふねんきやうせいのちよさむになりし何十年の共棲の後、達きみわある夜の寒さにわが衾を君こそ着ませ、,ふとんしたがおと我が新聞ををなたこそ數けと互ひに膿じうかたらひ合ひし未、あすゑたにん他人としなセサなんず04上ねらぬ仲なれば、むかししのた〓〓何の造作もなく一所に寐たるに、昔時を忍びて互におか2ぜいしがりもおかしがられも仕たらむ風情、いやはうまことに卑しき方にはおちずしあいじやうかんきいて愛情をかけたる寒氣の云ひあらはしやう、てはたら手ぎはよき働きなり。靄護精舍雜筆其二十八しのざきとうかいとうかいだん篠崎東海が東海談に、七十二ひつきやうししやうやまな畢竟師匠どりをする故學ぶものせまくなるなりと
えころうそうしやうしいへるはよくいひ得たるものなるべし、固陋の宗匠などを師とたのみてとぶ見たはいくみおなこち多く書をも讀まず思ひをも鍛はざる人の俳句なとは、よいつ見ても同じ埓なかおさいだくわごてがきの中を跳り出さず、さしたる過誤のなきかはりには手柄もさらになし、びわえうとうはいかいいわかしせうせつびわえうとう枇杷葉湯俳諧とにても云ふべきにや、和歌にも詩にも小說にも枇杷葉湯の多からむには其道やがてほろぷべし。そのみち八十二靄護精其二十九れうたよまつつヨ蓼太が、さみだれやある夜ひそかに松の月といへる句はこがらしやあるよゆはなきくごさい〓夜ひそかに雲の夜といへる劑直が知をあのが才にて變じたるなるべおもひじいきおひ想のめぐらしかたをも字のくばりかたをも、句の勢といふものをも、こうばさみたれまつつきるちこがちゆきと〓〓く奪ひたりといふべく、五月雨に松の月を用ゐたるは木枯しに雪はなこうやようんの徒を用ゐたとより巧みなるはもとよりなれどある夜ひそかにの七たSせつ당このきてからきくご大切の經といふものなれは此標をととへたる子揭は効位にあるべま舍雜筆らろんかく云はゞ蓼太をおとしむるやうにて雪門の人などは腹立られうた勿論ならむ、ar E x盜さざいしゆしやち玉はむが左にはあらず、まなこたかじゆ わんたか材の取拾に眼高きは手腕の高きをいたす一ついんれう.たさいもちろんなんだんの因にして認人の眼は勿論何十段も朝仮に超えたることうたがひなきくごこくわんけいいるし二旬の關係をいひ出せるは祭蘇夫と名を愛したる男なり。そ.た〃しよKei靄護其三十ゆふたちちゑばくりん白雨や智慧さま〓〓のかぶりものといへる麥林の句はいとおかし、ある友の許にて此句意を蕪村が番けるを見て、灣をこのくいぶそん込がみがそんなんこのくあなをさとりぬ、25人こゝろみに、なつゆふぐれ蕪村が何と此句を味はひしかふきたおほ あめ店(b)なあるひせんぢかめゐと夏の夕暮さつと降り來る大雨に通り町あたりを想ひやり或は千住龜井戶あたりを想ひやり見よ、ドみ(ん くわむげんらがひひかはなまたあをまたべにごと變化無限螺貝の光りを放つ又靑又紅なるが如き句とはかゝるをやいふべき、しえ强ゐてはもとめがたき吟なり。くおびやま는雲の細やめふたちをはく山の腰とい一るごとき句ぶりはあまりに、くいと厭は精舍雜筆いと厭は
ゆふたちたぶつ、しからずや、夕立のたちを太刀にかけたる一句の品玉はをかしからぬにxながあらねど、品玉なれば一寸の間こそおもしろけれ長くはおもしろからず、25むるる句をたちに厭はしとおもそことわながたに知輝ははあらざるべDoやいかゞ、たゞわれは嫌ふといふてのけむ。十三靄護其三十一:おちとかぜうづみびよわ〓〓最の落幕のかるこそと宿を飛ばナ風にさゝやま病の地穴も端々しくこづくゑむか47上ひと行く頃、ひとり小机に對ひて静かに世の然のをかしきこと人のふるまひかおろかぶのあやしきこと、さては我が心の甲斐なくも昭愚なることなどを思ひめますやまか上mm 6こほりさくぐらす折抦、かねて好ける山家集をとりて讀み下せば、ある時は氷を含ごとまたとき: ceにもうれむ如き心地し又ある時は雲を捉へたらむやうなる心地のして、嬉しともかなことばさいぎやううた悲しとも云ふべき言葉なきまでおもしろくおもはる、まことや西行の歌よロかねさびみしeつめは液半の鐘のゆうないを淋しくて育にで授むと人の曰ひしが罸いつ精舍雜筆我が耳に入りてユ心に響きしならず聞ゆれば、にいちなうたハほどの歌をぬきがきして思ふしひ寄りたるとと一ト飾ふたふしクヽ配し極へたるを夜子の續と共ましるモよはかねそのなづけぬ一月二十三日の夜- (一)とき〓〓まどおとあけあらしのみ時々窓に言づれて明ぬる空の各殘をど思ふなよおと一 夜嵐のみの音づれて明たる空や如何ならむ、る けそやこいろちりはらたび んん心の塵も吹き拂はれて三度吟ずれば我が朧すゞしきを覺ゆ派(二) :こよひつる雲にたい今宵の月をまかせてん脈ふととしも晴ね物故いとはれもの ゆらBこんち30ふぜい よくしか月をめづる心は恨みの風情に含まれて然も雲をば憎まざるさまのやさ:3にくうきことちしさよ、あはれ世の憂事に逢ひても此の如くありたけれごと(三)靄護精舍雜筆一十三
ちうハ曇りなき鏡の上に居る座を眼にたてゝ見る世と思はややth上世をさきものとあきらめて我をかへうみれば世は恨むつまにもあらおそろしき人の眼は我が銳の應を抑ひくるゝものなるベレ四四.50cだ捨やらで命を終る人はみな父のこがねをもて歸るなり范蠡が長男の心をよめるなり、鋭き心を起して小き慾を捨ずばむかしの愚昧ものゝ黃金を惜たると何か異ならむ五ㄸ雲者立つ荒野に生るひめゆのの何につくとも無き心哉う心悸ろだまらずして長を世を短き夢とすごす魂が上人の上をや假うよみたりけん、議のきまも饅にやさしくあはれ深くして靜かに十度もと吟しかへさば如何なる人にても涙こぼるべし(六)二十三靄護精舍雜筆青れはとて〓えれぬ取明日はまた昨日と今日の云はるべければ無常迅速利那々々の轉變をよくも云ひたるものかな七おほ あみ渚ちかく引き寄せらるゝ大網にいくせのものゝ命こもれりおほ あみまことに大槻の中モ一つの世なるべしかゝるをかしを歌は西行なら之は歐み得じあぬれをかしき歌かなとかしき際かな確加大編の中の魚coらざるべき(〓)能霞しく波の初花をりかけてさくら鯛つる沖のあまふぬ官ニよき俳諧躰の歌なり、和歌としいへばいつも定まりたる詩材を用ふるものゝ如くにていとかたはらいたまに上人のみは條の獸よみのやうせ狹きこゝろを有たれさればさくら鰤をも杭とし、てりうそ、こがらめをも村とし島員査員をも村とし頭をいいつにア博とかくさずみ分出靄襲精舍雜筆三十三
るゝこそおもしろけれ、ある人歌よみを嘲りて詠よみは戾者なり孔雀for名さニ見つけてるがす粗白鳥と笑ひし於上人口反者の歌よみにはあらりけり四十三靄〓同くばかきをぞさしてほしもすべきはまぐりよりは名もたよりあり-〓西合の歐德爲はさすがにそかしさかな證號るこれほどなるはあしかずよき狂歌なるべしさ心から心に物をおもはせて身をくるしむる我身なりけりかゝることもまことにありいつはりならぬ歌といふべし(十一) SO·sいくほどるながらふまじき世の中に物を思はでふるよしもかなp.我のみぞ我が心をはいとおしむあはれむ人の無につけても護精舍雜筆こともに戀の歌なれざもよを述懷の歌ともいはるべし六恨みはかゝるぞ憐れ深き、荒磯の岩にくだくる濾なれやつれなき人にP Sか(ゑ心はといへる如きはよき歌なるべけれどあるましくてまととse恨みにはあらざるやうきこゆ(十二)言世の中をそなくたよりやなからまし憂き折ふしに名があはずば正3m若し人曠り有たゞは何をもて思厚を修めむといへるを上くる〓みたかなあもへは憂きことにあふはめでたきことに達ふよりもめでたし(十三)よゝふとも竹の柱の柱の一すどにたてたるふしはかはらざらなんsoおもしろし西行われにかゝる疎百をあたへしと思へば(十四) : cか月すめば谷にぞ雲はしづむめる混ふき拂ふ風にしかれて靄護精舍雜筆五十三
돈この うた山中に住みたる事なくば此歌のよき事を知らじ(十五) reあらし吹く塩の本葉に友なひて何地うかるゝ心なるらん;巨雙虛空に躍る(十六)玉あがく靄ぞ枕に散りかゝる夢ちでろかす竹のあらしに増田2.夢に富士が嶺の雪を咀みて明石の浦に足や濯ぎし(十七)육ませにさく花に臆れて飛ぶ雛の浦山しきもはかなかりけりS s2 2m何事を觀じたるでと導ひ見ばあやまりならべたたかかるるみなりさ능景色なりおもしろし(十八) 1/3わづらはで月には夜も選ひけりとなりへつたふ畔の細道六十三靄護精舍雜筆夕されや檜原の嶺を越行けばすごくきこゆる山鳩の聲를となりへつたふあせ道もをかしければすさくきこゆる山鳩もをかし行はあれ腹の如何なるものをも暖むやうに如何なるものにも感をよかけりあらをかし、すしのまがき苅田のひつぢなんどは第もちて殿上にかしこ顏せる人達の詠み出んことおぼつかなかるべしあれ鼠なれは猫い でを捨しも道理あり(十九)夕露を拂へば袖に玉消えて道分けかぬる小野の栽原情をもつて景を寫せるなり、これのみならず上人の歌にはかゝる類いieとおほし(二十)なか〓〓中々に心つくすもくるしきに曇らば沒りぬ秋の夜の月〓前に出せし厭ふとてしも晴ぬもの故といへるは雲につきて想を起したミぎ靄護精舍雜筆
うら(めるつきぐちれば恨みながらも雲を容赦し、これはまた月をめづるあまりの愚痴なつみうらみンじやうにんはんどうてきつよれば卵なきものにも恨を負はせたるをかし、たゞし上人は反動的に强じやうはたらなエかたこのうたこちむたじく情の働き玉ひし方にやありけむ此歌の金とみなじやうなる傾きをうたしゆぎやうCH品いたちたる歌おほし、修行して遣くまかりけるをり人のおもひ隔てたるやン25一うなる事のはべりければとて、よしさらば幾重ともなく山こえてやがS ceそひ:おモても人にへだてられなむといはれし如きは、爭靜の態こそあらね恐ろ53うごceしき情の動きかたは明かにあらはれたりといふべし(二十一)きよみがたbしらなみ350あきエ清見潟沖の岩こす白浪にぐわちううたこのうたうち光をかはす秋の夜のつきぐわ〓ここのうたそし〓中の歌なり此歌の中に〓はなし、〓の如しといはば此歌を識るなるべしなか〓〓とき〓〓くもつき中々に時々雲のかゝろこそ月をもてなすかざりなりけりこと(0わしやうめめうた"ンニ童子の口より和尙の導をかたらせたるごとき歌なり、雲をり〓〓人を謂護精舍雜筆"ンニ雲をり〓〓人をつきみかなぜせをあんやすむる月見哉の芭蕉が句はこれより案じやいだしけむく(二十二) : ,なちたかロつき著雲消める那智の商嶺に月たけて尤をぬける瀧のしらいとたちくもはるあらしまつつき雲晴る農のおとは松にあれや月もみどりの色にはへつゝいろこのしゆまゑめうのちcだいdsg此二首前のは妙なり後のは時代の臭ありあきかぜは.むゑ なみかるかやしたばむしみだ秋風に種未波よる苅蓋の下葉に蟲のこゑ亂るなりあきむしこゑg秋ふかみよわるは蟲の屢のかか醜くわれとても賴みやは有たのあるほすごのちかな前のは凄し後のは悲し(二十三) tsさ含はうら かゆ衛訴えて汀ふけ行く浦風をおもひ知りげに鳴く千鳥かなしなちwさいぎやう名さいぎやううた西行の歌なり西行の歌なりとのほかにはいふべき言葉もなしことば風冴えて寄すればやがて氷りつゝ退る渡なき志の辛崎ゆゆさよかなみしがからgなみたくみかへる波なきといへる巧なり靄護精舍雜筆九十三
十四(二十四) is中つひとり住む片山蔭の友なれや嵐に晴るゝ多の夜の月かんげつめ月はいまだ如をおず週日妙なり六月いえなのならず最に順る多の夜つきめう高〃月妙なり嵐に晴る冬の月いまだ妙ならず、ただ臭氣ある人の少くて無"上三心の雲は彼を造り不断の緊愛は淡に在りといみはどなる山かけの庵ce荒寒决砲の衣夜の月をなとするにいたつて初めて妙なり画行の敵なわれそのふせい〓は佳ならざるも我たト其風情をおなひやりててゃろに心計かれ、あこ,はかぜ いかはれ早く獨も後しからぬほぐの男となりて疑時も感都る荒山中に我ニCE入らむと思ふをまぬかれず、深山の冬の景色はあらまし知りたれど籠#ふゆり居たることの無けれは冬の風情をはいまだ知らず、いかに悲しきものか知られねぞぶの提にも何なる都會の俗家よりはわびしからざるぶのとや古昔の人の思ひけむ、いとおもしろし、西行などの眼より見ばは80ぢ戰陽同居などいへるもたぐ念の入りたる獸の握なるべし靄護精舍雜筆(二十五)ゆめぶaあふことを勢なりけりと思ひわく心の今朝は恨めしき設c愚痴の極情の極を云ひ得たりつらくとも遅はずは何の慣例にか身の程知らず人を恨みん恨の極情の極なり法つれもなき人に見せばや櫻花厘に從ふ心よわさを36優にやさしく恨めるものかなわひとかたに亂るともなき我然キ風定まらぬ野邊のかるかやあやしくもおもひみだれしものかな- (二十六)の物あもふ心のくまをのごひすてゝくもらぬ月を見る由も哉よき述懷の歌なり、SCかやうおもひて世を過さば我人ともに靑空の如く美しう一生を終ることを得む、神秀禪師の僧の意にや靄護精舍雜-筆
なか〓〓バ(二十七)じ〓〓is中々に思ひ知るてふ言の葉はとはぬに過ぎて恨めしきかなしうらさあらばおもひ知られざることの恨めしからざるにや、めしかるべし、をかし20それもまた恨靄護其三十二々ねなんどのきたまみづしせるあめ屋根には何の育もせで群の天水にのみそれと知らそゝ春の兩しづかひとびいしひた44ときた四人大さう日、飛石に下駄の響きやさしく、訪ひ來りし女あり、はていぶかしや草あんをんなきやくきんもつたれひとたちシラみし庵に女容禁物なるに雖人かと立迎へ見れば、かねて知れるほとゝぎすとめいばうこうしすねのそのめちよにじだいありceむもとこのよいふ明眸皓齒の風流者、圖女千代尼を時代違ひで朋友にせぬ事のみ此番うとみおしろいはなじゆつくわいあうとうPINGくちびるえんりよけの根なりと口稱離れめした延候を極桃の電の層から直盛氣ななくすをんなめブぜんせいらいとほうな女、はてお珍らしや前世以來でござる、まゝ〓〓ずつとお通りといろうと各かつばぬきんさいち。天鵞絨襟うつくしき合。羽脫ぎすて頭巾かなぐりとつて坐につき、精舍雜筆ぶりぐわいうきよビなた二ヲ三ツ互ひに三千里外の浮世話しなどするところへ、また〓〓門あくぞこんなたれみせいし"がうけつをとこ〓たうしふしんいまる音のするに、今度は誰ぢやと見れば西子と名乘る豪傑男、武道執心今つよじやうざんそういんふうゞうしりそひとにはをかしき强がりなれです山宗田の風流も損斥けぬ人なり。これはおさんにんはなかなへn饀えもしろうなつてまゐつた、三人そろへは話しは鼎にじいわり熟えむ、かけどうふちやごはんごち() 2/8かたたま貴豆腐にお華の御飯です御馳ましましょうはどに夜までかけて勝りあるじじよさいあいこつsaはなしくやつうはさと亭主ぶつて如才ないつもりの挨拶する時、談話もたヾでは憎い奴の噂かわと뜯わたばつみのろけほんなうぞうちやう可愛い人の事などに渉つて、罵晋に卵をつくり惚氣に煩惱を增長さするためうめうあるじまつかうくさたとひこつやうなり自他とも妙の妙でなければ、なんと亭主は扶香臭ければ假令實とむはくじやう24 :ゆるにふたうそうたまわれこのまゝは色氣ありと白がまるとも守更突さじ入道して信となり玉へ我は比CHEさまやはりそのによしやうにんおもひねんヽの男ほとゝぎす樣は矢張其まゝ女性にて、おの〓〓はいくいいだ三人ともに想を一年十二クはなし月に馳せめぐらし、各々俳句一ツづゝ云ひ出して談話のかはりにせんはいかせいしせつせんたんものしプ(;)ふかことまを如何にとの西子が發言、それは一段物靜かにてあはれる自然と深い事申たなか〓〓かもしろどういレ出さるそうになり中々面白いでござりましよとはとゝきすが同意靄護精舍雜筆三十四
五十四筆雜舍精護靄筆雜舍精護靄いもうと妹のたもをもしろしと西子も我も服しけるぜなや先登第一は西子。是非なく苦笑ひに承知して、無理無時劇場本多の本のはし付のはしとされたるが內々不下ではわむひりひと むちすみぞり墨染の我も笑はむはなの春aほろ〓〓と椿落つるや大般若즈いもうとの袂さぐればつばきかな烏帽子きる世ともならばや花の春せんとうたい一鞭にその數知れずおち椿おそろしき殿御めでたし花の春aたいていはつしはが三二われわら一せんゐ月つばきおたもとかやし月たつとのよ月はとごしようち8せいじわれpug뚱はなてたけ手近の卷紙に銘々の句を認めにかゝるがいはなちかふくはるはるまきみめい〓〓した僧、男、僧、男、ほとゝぎすほとゝぎす把西把西へい月子月子御侮ひとり伸聞はづれになられたりとほとゝぎす笑ひぬ坐祝の句はほとゝぎす殿と同實の句なりと面子難じければざぜん3浮萍や出どこも知らず果もなし藻の花や小川に沈む鍋のつるちやう定を出た其あかつきやほとゝぎすほとゝぎす御目は朝起は妻にまけたりほとゝぎすあさめ眼の皮の華嚴にたるむ日永かない意久地無う坐禪くづるゝ日永かなうたゝねの針にさゝれる日永かなひよ〓〓と遠矢のゆるむ日永かな;おき浮でかは日で五なかまつま四なをそのけ哲月月ごんざ日とほやぜんレレゴさめて候歟とのなべ뜬ひとうながISひかながながながほとなんわる男、僧、ほとゝぎす男、ほとゝぎす僧、僧、男、西把西把把ほとゝぎす西子月子月月子僧、男、ほとゝぎす把西月子僧、男、ほとゝぎす把西月子男、ほとゝぎす西子月
3ぜんさうかつ信、浮くさや禪僧擔ぐすくひ把月六月xこなつあめ負ふた子のひとりぬれけり夏の雨ほとゝぎすcho또きたまゝで衣あらはむ夏のあめ僧、把月なか〓〓立つ中々にはだかいそがず夏のあめ男、西子ほとヽぎすみなわれほとヽぎすおんそうこれは暗鳥さまに旨まはたりと我い一は時らはまた御付のものぐさいにん おほあつはおよばずと云ひ三人大いに笑ひけり七月がうけつなナジ金か豪傑も茄子の御馬歟たまゝつり僧、把月ぎんいだじやけんむごあくこうと吟じ出すやいなや、また邪見をはじめられしか、さりとては酷き惡口ひじりさうなこちほとゝぎすわらわれなり、聖人は然樣は無きものをと轉げかゝりて時鳥笑ひ、我にあてつけせいしにが〓〓われたまゝつそうかうじたりやと西子は苦々しく笑ひければ、魂祭りは僧にとつての好時機、わしゆつけうらみへんぱうわれたれをは出家とせたる恨の返報おぼえたるかと我も笑ひける信、把月靄護精舍雜筆みかほ見た貌の三ツ四ツはありたまゝつり男、西子だんご86團子もむ皺手あさましたまゝつりほとゝぎすきふほとヽぎすしかへしどそをかしま急に時爲さまのおとなしくなられしは波報など恐れられしにで可愛し子からかいける八月慢ucふしなるこ砧より節むづかしき鳴子かな時鳥をやまだあきなる こ小山田に秋をひろげる鳴子かな男、西子こveゆゐしきしよげんなるこ小禽めが唯識所現の鳴子かな僧、把月ほとヽぎすさまふるくさせいしひろをやまだはとヽぎすわれさく時鳥樣のは古臭しと西子評し小山田にはしやられたりと時島も我も服ゆゐしきろんおたまごせつほふほとヽぎすはこわれわらしぬ、唯一論はやかましや置いて玉はれ御說汝と指易にも西子にも被笑なゴうまがうけつのいんぐわおうほうつたなではれければ、く痛子の民に豪傑を乘せたる因早願報にてかゝる拙き句の出きわ口五このむくいせ法にじ來たるなるべし、我が描きにはあらず物の報の所爲なりと嚴れける九月靄護精舍雜筆七十四
ないせうLoぎやもみぢかり大小の朱鞘はいやし紅葉狩男、西子まいお二三枚とつて重ねるもみぢかなほとゝぎすさいきやうやあもみぢ一切經のわすれもの僧、把月みなさいきやうのこらんおんきやううちもみぢことほぼら皆上しなれて一切起發らず御發になりて御趣の中に紅基のまなしとおくだんけだうはとヽぎすこられしにあらねは臆断の外道なるべしと時あに打を込まれ、さあそれは、ぶほさあ〓〓〓〓になつて大きにひるみ(ゐなかでe紅葉して車もきたり田舍寺僧。把月とあらためける十月らうにんeしぐれ浪人を一夜にふるす時雨かな男、西子つま또たじやうじしぐれ爪琴の下手を上手に時雨けりほとゝぎすモとロしぐれ四句の得の率都婆に三句時雨けり僧、把月超めうほこたがひに我句こそ妙なれと誇りあひ、またたがひに他の句をおもしろが八十四靄護精僧。把月舍雜筆りあひぬ十一月やま でらにわうふより山寺の仁王たぢろぐ吹雪かな僧。把月きば%野猪の牙ふりたてる吹雪かな男、西子あかゞりを吹き埋めたるふヾきかなふ多ほとゝぎす十二月せつぶんおやことしちか節分や母子の年の近うなるほとゝぎすせつぶんちがきかも節分やよむたび違ふ豆の數男、西子かたこれせつぶんや肩すぼめ行く行脚僧ねんをは僧、把月是にて一年も故りたればまづは一タづゝ平をとつだりめでたしくととしわ5ひあひて、よで第にはのら血快樂さに尙むつまじくかたりあひけるたのしなほ其三十三靄僧。把月男、西子ほとゝぎす護精舍雜筆九十四
ゐなたccたむおこわくにびとこいろふるた海一つ彼方の國との戰爭起りてより、我が國人の心の奮ひ立ちて、小說めゃれつれつほのほこぢん あひヒなんどいふものには眼も遣らずなり、烈々たる火炎の上に塵埃の留まるゆるごとさまいたいとUをりうを容よゝるが如き態あるに至りたるは、最も宜なり、かゝる折から浮きものかたりよみこの上おそわたくさひといたる物語文なんど好みて讀まむものは、恐らくは膓腐りたる人とや云はそあコ.こゝろなV. t現これ〃れむ、其を編み綴らんものはまた心無き人との誹りをで來るん。此も宜かれうべたゝなひうみあなたあバなり、彼も宜なり、さはさりながら職をは海の彼方にのみ在りと思はむもの わすあやまちはたまた.noあさあやまちのうふは物忘れしたる過失やあらん、將又思ひ淺き過失やあらん、それ農夫のつるぎ〓すきこうしやうはうりくじゆんじやうがくしやするらいぎよけい劔は鍬なり犁なり、工匠の砲は規矩なり準細なり、學者の水雷は魚形にきうじやうとうろしやうかもうとうほばしらなけたそろばんあらぬ球狀の頭顱なり、商家の艨艟は播無くて桁のみある算盤のほかあしゆしよくみンおのくすらつぱこゑてんうるべからず、百種の職に身を置くもの、各自進めの剛叭の聲を天より受そのみち〓〓とつくわんふんとうまことkeちからじやくゝわうごくらくせかいけて其道々に突貫奮闘なしてこそ、眞實に國も力つきて、寂光極樂世界せんりやういたかてきミンりけんしやうぐんうま%をば占領するにも至るべけれ、彼の敵國の俚諺にすら、將軍馬を下らずかくじぜんていはしいいはいうゐわこくみんたんせいしん各自前程を走るとさへ云るものを、况んや有爲の我が國民の單に精神の靄護精舍雜筆ちししよくぶんどくりつ一長といふことを知るのみにと職外の得立といふことを忘れ果てゝ等はかふんがくびじゆつせんさうえんとほなるべきや、ご·ん文學美術は戰爭とはやゝ綠遠きものながら、こ之れに自己のみ身を委ぬるもの、ゆだ如何に造化の使者なればとて如何に大塊の寵見なればいかざうくわしふいかたいくわいちようじおのれナこくとたいじあしにごとで、とて、自己が住める國土の大事を、なかげろふも蘆の葉音と耳に聞き做し陽炎燃ゆるめみなそのこくみんこつると眼に看做さんには、し其國民の一としては形はれざるの死の罪を加へ3m形とまたおらるべきこと固よりなるべけれど、しよくぶんどくりつさればとて又自己が職分の獨立といやすぶんがくびじゆつたいふとをしも、忘れたらんには、いそのこく文學美術に對しては云ふもさらなり其國みんのでしかくぶんじんぐわし民の一としても望ましからぬことなるべし、かくか15おの〓〓詩客文人〓師藥家等、各〓、coえとゆみちさだ守るべき分の度もあり、たとへせんさうだ行くべき道の定まりもあり、假令戰爭起ればとなんgれゐふて何の疑惑か畏怖かあらん、されど戰爭の影響として、せん ううえいきやうぶんがくび55はじよやろみいきはひ文學美術の少時は世に輕しめ見られんこと勢じまぬがた;あるひcauしやうに於て免かれ難きの數なれば、おそれいたど或はこれによりて感を生じ怖を抱く人もここれぶんがくびじゆつだい땅にしはいあらんかなれど、す此は是文學美術の第二義界を去記するに過ぎざる世のよ靄護精舍雜筆
うんしかくないしデンタとうこれうかなハこれ詩客乃至樂家等の之を憂し悲しと思へばとて之を運といふものなれば、じこれ2はなはあたぶんがくびじゆつそのものほんらい喞ち之を恨まんは甚だ當らざることなるべし、そは文學美術其者本來のせいしつせけんふうてうかんじやうとうこん:ぞうげんせうちやう性質は、世間の風潮感情等によりて一厘一斑も增減消量せらるべきものせんさうえいきやうしかくないし家か15てえはうすなはBせならざれば、戰爭の影響はたゞ詩容乃至樂家等の手より、依報即ち器世けんはうしうぞうげんせうちやうしやうはうすなはれいたいじやうはうしうぞう けんせうちやう間の報酬を增减消長するのみにて、正報即ち靈臺上の報酬をば增减消長ゆゑもよくたんいしヾんないしがくかとうてんとあたちはせざるが故なり、極端を云へば詩人乃至樂家等は、天も取る克はず地うばあたれいだいじやうはうしうあるああままんぞくたも奪ケ作はざる幾憂しの魚調のみにても自らけんじて確定すべきはかうそのえはうShk Camムかうあいうぜん幸なるものなれば、其依報をば全く失ふの不幸に遭へばとて、悠然としひとこはうたからぎんかかくごて得り抵達を立つて笑つて呼吸するの眞得なからべからさとものださいかんカラサひとこえはうそうゆんせうちやうたら3てんたうらうばいIh然るを如何を自ら平りして此の依頼の増減幅長に發き騒き類例須須あらたとしかべんしつを露はすべきものならんや、例へはこゝに一時客ありて一篇の詩を綴るそのしたいそのしマけんざいごき上ふでとふけいしとせんに、其詩客は其詩を綴るの現在に於て、机に飛り筆を執り俯仰思さくさんじしやうはうすなはじこしんちうむけんけsおもう索するの間に、討の正報即を自己心中無限の快樂を必ず受くることなる瓶議精舍雜筆べし、のちそのしおほやけそのしbyそのときじやうさて後其詩を公にせば、たんことくわがく6其詩の質と其時の狀との間に起る化學的さ1/3にリかふよあさ1)はじ作用に似たる離合與奔の作用によりて、えはうすなはせけんれいぐう初めて詩の依報即ち世間の冷遇あるくをんげいとうかくしゆけつくわ5kgしやうはう或は歡迎等の各種の結果を生ずべし、いつよいづくinしむもひといしやうしやうかゝれば止報は何時の世那方の國かぎにありても詩客其の人に異魚の生ぜざる限りは得らるべきものなれど、ええはうしthとき55あひふ依報はたをに得の夏と時の狀との相觸るゝ作用より得らるべきものさ1/3えゆゑだいじ次かうしへんろえはうきたが故に、大詩客の好時篇も惡しき依報を來すことあり、ぞくしだあくし〓よえ55きたこのりし俗詩客の惡詩篇も好き依報を來すことあり、よあしえはうかく此理を知らば、好きも惡きも依報は詩客をけいちようしへんけいちやうたうり極重せずまた時積をも較束せざる道通の電に明らかなると同時に、まことあきgotえはう依報の如何によつて左右せらるゝ詩客の心肝詩篇の價値も推し測られつべし、いかんさいうしかくいん2かちンはかえはうなんいたせんさうし依報は何ぞ云ふに足らん、いかしかくぶんじんぐわしおやす戰爭やそれ詩を如ん、no〓〓〓みちハナ詩客文人〓師樂家各々自己がたづさはれる道に盡して進むべきのみ、aと然ありてこそは日の本へいしはしかぶんじんびighの兵士に耻ぢぬ詩客なれ、かまた文人なれ美術家なれ、へいじせんじぶんがくびじゆつ平時にありても戰時にありてる文學美術にたづさはるものには、し强ひて靄護精舍雜筆し强ひて
つとまたしよな又强ふるといふに好き結果の成らん爲すべきといふ務めあることなし、ほん〓〓ことこのみちぶろうことこのゆゑことは高々一のはか將に期遺に於ては有り得べを事にはあらず、此故にぶんがくしやもしびじゆつかむかそのげんじせんさうとうせいさくひんいだ文學者者くは美哉ほに對つて其現場の職學等にのいての製作品を出しほんまたむちきはと强ふるものあらんには、これ非理の甚だしく又無知の極まれることなふかこくみんしよくぶんとくりつこくみんせいしんちあひ5るべし、然りとい一ども國民の職分の獨立と國民の結神の一致とは相空あひ..なうのぞれざるものにはあらで、相碍ふること無きを得べきものなれば、望ましぶんがくしやびじゆつかはくいざつもくてきいだそのげんじせんさうとうはな學者美濃深の殿建ならざる目的を後まて其重量の戦争等につせいミひんたゞちこみ心おい光はつ= cchsの製作品を直に若くは未來に於て出さんことを欲するの眞情あらんようごこくかあいちやうせいりとうゆうゐかうしやうせいしんだつりぢんまうけいこれなり、これ樣護國家愛重正理等の雄催高尙なる精神と、脫離塵網啓50てんきとうへうく〓いうけんしよくぶんしんなゑん ゆうのぞうちは絞天機等の隣海動をなる職身との税和圓隊を重分得べき地生さればぶんがくしやびじゆつかかせいさくざいそのよせいこうあかつきこくかけん文忠者美術家は如基して製作に於て其能く成功したる険には、國家の權りよくあ、おとけんりよくいうしてきえいりうぐわてきえいきうないし力にも敢て劣らざるの權力を有するものなれば、詩的永久〓的永久乃至七たぶんがくてきびじゆつてきえいきうちやうしやうげんぱつあたたと其の他の文學的美術的永久の重賞嚴罰を與ふるを得べきにより、例へば靄護精舍雜筆しか;ぐわしせいしんふんきkきようせつきをな一言書若くは一番師の粉神雷電して眞に異發し機載ろたるところよしこoみ志ちやうゑんくわうさいのこseげんせぜつたいらん詩若くは〓は、こう未來に長遠なる光彩を遺すと共に現世に絶大なる功せきたたとからつぱそつえいしいで績を樹つる〓とあるべし、例へば彼の關叭卒を詠じたる詩の出たりとせんそのしよらばそつびゆねんたばんこくQいたに、其詩に頗りて嘲叭不の参名の千年にれれあ國に響くに至るものとせば、すなは即ち其詩客は詩的永久の重賞を與へたるものにして、そのじかししてきえいきうちようしやうあたあた與へ能ふものあたじんしやくじえいナこいかけんりよぐひかいいかそのじゞんけんりよくをは入爵時劣に選きざる國家の雄力に比較して御何に其時人の權力のまたかわいしじんcoごとてきといへいじふgたることぞや、又後の吾が兵の死風に刄を加ふる如き〓國の兵士の不義ふうししいせうねつぱしいで+82てきを觀刺し若くは冷笑し然属したる時の出たりとせんに、其詩によりて敵ことへいじふWしうめいねんそんばんこくながいたその國の兵士の不義の競名の千年に各し萬國に流るゝに至るものとせは其しんあたしてきげんぱつこうくわこくかなあたと) 6まくんだい請人の類へたミ的的成國の功境は國家の若し能よ現来より或は大なぐわかてうこくしかぶんがくび153そのたぶんくわみなのあらんとす、〓も然り、彫刻も然り、文學美術の其他の分科もまた皆しかあせいきひんのぞので然り、鳴呼々々かゝる製件品の望ましくもまた頃ましきかな、さはさりむぎICこじゆくうしけつぶん、ばんきながら、麥は年を越えざれは熟せず牛は九ク月を經ざれば分娩せずと聞靄護精舍雜筆
m3 Sくに、興の足らざる詩の粃と、目的あやしき詩人の流産との如きは敢てそでんぱん聲ましからず、例へは剛叺卒の節樣の高きによりて其の詩の傳播し、豚66 9だ2尾兵の役酷の苦しきによりて其時の記勝せらるる如きものありとせえぶとこはこれ悲むべきことにて、依報に於ては兎に角に、詩の本來より云ふleざミ時は其時客は失敗耻辱を取りたるなるべし、〓もまた然り、彫刻もまたしか5c9ぶん くわ然り、文學美術の其他の分科もまた皆然り、かくては我が日の本の兵士ドには伴なひ得ざる專門家なれ、ろLB5のに "·ラニ要するに文學美術にたづきはる者は、平時に在りても戰時にありても最cらら のも自由を與へられ又最も自由を右すべきものなれば、特に平時にありてだも依報の如何に過念するが如きことなかるべきの覺指をおして、固く純さ粹なる目的を懷き、戰時に在りては能く國民の精神の一致せざるべからびざるを體し知ると同時に、職分の獨立せざるべからざるを思ひ虛りて、誌赤久の眞間を下し得る大權·刀者たる〓とを忘れず、心を飽まで自重して誠意事靄護精舍雜筆kmに從ふべきのみ、〓cえ今や我は自家に異種を生じて講國より引退せざるを付さらんかと首'にせんさうけんつゝある者なるに關らず、二三の士の戰爭についての我が意見を徵し問あ、しよし、はるゝにより、敢て所思を述ぶること是の如し。議護精舍雜筆七十五靄護精舍雜筆終
所版明治二十九年 其月十日日行行明治二十九年月十二日印刷十二著者有權發兌元印著東京市日本橋區本町三丁目印刷刷發行者所者者博幸無償局會愛大橋新太郎東京市京橋區四紺屋町二十六七番地東京市京橋區西紺屋町二十六七番地敬東京市日本橋區本町三丁目八番地田文英利成舘舍世行印印刷刷發行者所者幸田定價金三拾錢舘
さ明治二十九年収月十二日印刷明治二十九年丸月十脚日發行十二〓著者定價金三拾錢著者幸田成行發行者大橋新太郎東京市日本橋區本町三丁目八番地印刷者愛敬利世東京市京橋區西紺屋町二十六七番地印刷所株會訴秀英舍東京市京橋區西紺屋町二十六七番地東京市日本橋區本町三丁目發兌元博文舘幸田版所權有發行者印刷者印刷所舘二宮尊德翁小林永興密〓正價金拾二錢郵稅四錢山水秀靈の地、必子偉人な生す。と、相州巳に山水の勝あり、二宮尊徳先生此に生る。孤苦零丁具に艱難を極む。身一卑股より起りて、天下の大政を改革し、著書又數十卷、皆な經世實用の策、二宮金次郞の名、夙に天下に著はる。其艱苦困頓、家政を挽圓するの際、早く偉人の性行を顯はすの狀、活殺縱橫冷快稜骨なる露伴君が筆を以て之を描く。一個の快男子二宮金次郞躍々として紙上に在り、文固の美觀、稀世の勳衆是に於てい見るべし。兩書共非常の好評を得、何れも五版以上を發行したり作著君伴露田幸日蓮上人寺崎廣業密當正價金拾二錢郵稅四錢日蓮は非常の豪傑なり。其磊塊酵勃たる雄心發するに所なく、之を宗教世界に轉じて顎心一四、權實の奥秘を看破しし、別に一宗を創す、其の見地の高邁なると、一代の千艱萬難を蹈破したる、刻苦耐忍勇徃の氣象とは、皆千秋の偉人たるに餘あり。今又文界の奇人幸田露伴氏、能く其の心胸面目を露出せるものは、此の書なり。讀者必ず感奮興起する所あるべ
第壹編正價金參拾錢郵稅八後木版極彩色口繪·三島蕪窓取舵尾崎紅葉從軍人夫饗庭集村書記官·川上眉山露のより前 金庫前駅·花團女史目妻蘆新昭吾錦學君合花士怨山本家小 &幸田露伴運塜麗水試他流塚原藝洲涙ゆ雲葉女史の媒介條野採菊新袈裟物語·宮崎三味第貳編正價金卅五錢郵稅八錢本版極彩色口繪·武内桂舟浮世のさが···小金井きみ子子煩腦·大橋乙羽ル阿朝夜の女新顏鶴証 1個居士見水蔭依田學海心中幸堂得知浮世新聞嵯峨の屋狂言娘·廣津柳浪銀釵渡邊省亭稽〓道中双六南新二小陽太說目次次江見水蔭君著武内桂舟密斯四版出來水雷艇三重県警察署全一冊大判FINANCIAL征〓戰中、作家多く第を收むる間に於て、著者獨リ文壇の一方に立リ、海陸戦事に關して思を凝て想を鍊り、筆力を極めて幾多妙篇を得、是を集めて本書を公けにす著者ッ一種の詩取を備へ既に定評あり、本書の妙亦賛せずして可ならん、一種の靈腕を有するは世故を以て本書發兌後十日ならずして賣切れとなり、再版亦殘部僅少となれり江見水蔭君著水野年方密當三版出來速射砲全一冊大判取扱いた東京市議会軍小小說『水留艇』が、出版後十日ならざるに早く賣切れとなりしを見れば、其の傑作たること、多言を俟たずして知るべし、本書は水雷艇の地篇にして、日〓海陸戦の事蹟、彌々出て彌々奇、然を追ふに從て益々快に、益々趣あり。幸ひに『水雷艇』と併とて愛讀あらんとを請ふ益田克德君譯述若林甜藏君速記富岡永洗密〓夜朝全一冊洋裝と正價廿五錢郵稅六錢昨日まで榮華に暮しゝ身の今日は襤褸を纏うて、雨もる芽の軒端にやどり露とおきぬる人の命の、第と消えぬる月こそ有爲轉變の世のさまをうつし、悲哀の涙眼にとめかれて我知らず衣の釉をぬらし、しぼりあへぬ風情人の愚痴と笑ふらめ、の境界にたち至らずともよそ目に人の見たらんには、それ或はよし人の笑はゞ笑へかゝるさまをかけるもしそを笑ふ書をまのあたり見たらん人は、男も哀と思ひ、女も悲しと思ふなるべし。その悲哀をこめていとゞ忍ばるゝ書とはvに問ふ人あらば、我はこの「夜と朝」て行ばふ小說をして答へん。朝に夕に草深き秋の野邉なわけいかに袂や路けかるらむ條野採菊散人著水野年方密蘭痘痕傳七郎全一冊洋裝正價二拾錢郵稅四錢痘痕傳七郞とは何人ぞ、痘痕面に滿ちて醜さ言はん方なき人なりされども文武の才幹衆に秀で世に稀なるぺき人傑なり、沈魚瘡腫の美貌、而も威權赫々たる要路の貴顯の姫君に思はれて其婿となる、さて姫君は思確認さなりし酒田まふまんに売れしより千雄灰端の七
八井上世外伯題辭、高橋泥舟翁題字名人長二水野年方密〓全壹册大判正價金貳拾錢郵稅四錢是れ名匠長二の傳、作者は當代講談の名人圓朝丈なり、俳優の名人菊五郞丈言て之を新富座に演じて滿都の大喝采を得たりi其の妙いはずして知る山縣含雪侯題辭、未松文學博士序水野椿蝦夷なまり年方說密〓全一冊大判正價金廿五錢郵稅六錢能く笑ひ、能く泣き、人をして身其境に在るが如くならしむるもの、話說の巧手なり。我が三遊亭圓朝丈は講壇の秦斗、其說く所、巧に人情の微を穿ち優に社會の裏面に通上て、智者愚者の言々生けるが如し、此編子は尤も得意とする所、上下合せて百餘席、語々痛快宛然其聲を聽くが如けむ。八景隅田川水野年方密〓全壹册洋裝正價金貳拾錢郵稅四錢玆にさる物持に何某とふ人あり眞崎の邊にいと風流なる隱宅を搆へて住みたるが一人の娘をもてり此家に希代の强賊の入りけるがいかなる宿世にや有けむ此賊に懸想とりるより千變瓦化の奇談隅田川なりを生したる〓末を彼の有名なる三遊亭圓朝丈が例の得意の辨舌を揮ひて述べられしもの即この八景丈の辨舌意匠の巧は知る人ぞ知る世に画自きといふことを嫌ひたまにぬ方々は早く一本を求めて讀たまへかし三演講朝圓亭遊政談月の鏡年方水野密〓全壹冊洋裝正價金拾五錢郵稅四錢三遊亭壯朝丈一本の原子と一握の手巾を以て巧に人情の眞を寫し人をして喜笑怒罵禁ぜざらしむ元とより等常小說家の棄强的遺作の比にあらず本書は實層中依田豐後守曲淵甲斐守の二明奉行か江戶エ(三四)ゴリ(400-15)の と あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ い靑年小說冊大判全半寫眞木版極彩色口圓十郞(七變化)政岡長兵衛、皆華最〓、由村筆銅版新職の素顔と扮裝良の助、●松の内舊者の初出●茶の濁辨慶●福助の素顔と扮裝染五郞の素顏と扮裝●原の風俗改化銀杏泉鏡花良若殿小杉天外憐凡隨短緣百看菫仲無あ可兒三宅靑軒のする〓兆のり後藤宙外名草田山花袋風錄記日崖婦束左桐生愈唐の花太田玉茗尺護風葉小栗田中夕風柳川春葉感藥梨花悠々庵之俳沙.鷗生冊大判全閨秀小說全一冊大判患面大正價拾五錢郵稅二錢半木版極彩色口寫眞〓小瀬氷君金井喜美チ君賊子君島預●樋口一葉君●應筆銅版Than君●跡見花蹊君酒香松舟君小小●中国电信用卡跡見玉枝君●新鮮老●高林芳谷君●竹村耕認君杉浦玉舟君筆蹟や名刷手法片村暮黑十忘萩序文中島歌子桔られ雨秋鏡夜身梗花圃女史れ片若松賤子眼三薄氷女史一葉女史ゆく大塚楠緒子時簪花女史譽毛箱ろま夫彩のばぐゆかり女史稻舟女史夜人色內藤島雪子石榑わか子小金井 喜美子みなつ子目目次次々鷗九
井上世外伯題辭、高橋泥舟翁題字水野名人長二年方密〓全壹册大判正價金貳拾錢郵稅四錢是れ名匠長二の傳、作者は當代講談の名人圓朝丈なり、俳優の名人菊五郞丈曾て之を新富座に演じて滿都の大喝采を得たり、其の妙いはずして知る〓ho山縣合雪候題辭、末松文學博士序水野椿蝦夷なまり年方說密〓全一冊大判正價金廿五錢郵稅六錢能く笑ひい能く泣き、人をして身其境に在るが如くならしむるもの、話說の巧手なり。我が三遊亭圓朝丈は講壇の泰斗、其說く所、巧に人情の微を穿ち優に社會の裏面に通じて、智者、愚者の言々生けるが如し、此編子は尤も得意とする所、上下合せて百餘席、語々痛快宛然其聲を聽くが如けむ。八景隅田川密年水方野〓全壹册洋裝正價金貳拾錢郵稅四錢風流なる隱宅を搆へて住みたるが一人の娘をもし玆にさる物持に何某とふ人あリ眞崎の邊にいとり此家に希代の强賊の入りけるかかなる宿世にや有けむ此賊に懸想しけるより千變萬化の奇談を生したる顯末を彼の有名なる三遊亭圓朝丈か例の間にはあるて丈の辨舌意匠の巧は知る人ぞ知る世に面白きと一本を求めて讀たまへかしいふことを嫌ひたまはぬ方々は早く演講朝圓亭遊三政談月の鏡水野密年方〓全壹冊洋装正價金拾五錢郵稅四錢三遊亭廿朝丈一本の扇子と一握の手巾を以て巧に人情の眞を寫し人をして喜笑怒罵禁ぜざら!む元とより尋常小說家の棄强的池作の比にあらず本書は寶暦中依田四後守曲淵甲斐守の二明奉行、江戸に起りたる登殺事件の歳判にして圓割丈の口演を一言一句も改めす速記して美麗なる證本に仕立てたるなり全一冊大判木版極彩色口繪銅版寫眞靑年小說良の助新職の素顏と扮裝團十郞(七變化)政岡松の内藝者の初出●茶の湯●京の風俗熊谷辨慶●福助の案顔と扮裝染五郞の素顔と扮裝長兵衛、水華密〓數十入郵稅二錢半正價拾五錢質村景〓、由筆改化銀杏泉鏡花良若殿小杉天外凡隨短緣百看菫仲無あ可憐兒三宅靑軒のすさび水とのにつけるのもりのことを後藤宙外名草田山花袋日崖婦束左桐生愈膚の花·太田玉茗尺護小栗風葉柳川春葉田中夕風大阪府大阪市第二区梨花悠々庵沙鷗生銅版木版極彩色口繪寫贝北山浦永君●田澤松卅君●伊達管花君●石佛若一秀秀小說子君肖像〓三宅花圓君君●跡見花蹊君●野口小頸君●跡見玉枝君林芳谷君●竹村新雷君小金井喜美子君三若松賤子君●樋口一葉君●大塚楠緒君●藤島雪子島蕉五錢郵稅二錢牛全一册大判密〓數十入窓正價拾筆高杉浦玉舟君筆蹟序文中島歌子や名刷手〓片村暮黑十忘萩桔梗花圃女史れ片身若松賤子眼三られ雨秋鏡夜薄氷女史一葉女史ゆく大塚楠緒子時簪花女史譽毛箱ろま夫彩のばぐゆかり女史內·藤島雪子稻舟女史夜人色石樽わか子小金井受取下みなつ子目目次次々鷗九
「(、一、一、一、「「((一一福地櫻痴居士著武内桂丹密〓全壹冊大判櫻痴滑稽談紙數二百頁正價廿五錢郵稅六錢櫻痴先生は明治文壇の孫悟空なり。其縫横如意の健筆は、隱微を穿ら、舒せは上三十三天の神機を啓き。斯濁界幾千の電頭をして其潜むる處あらざ縮むれば下-六地獄のらしむ此書は先生が得意の裏面的觀察を以て所謂紳士紳商社會の實相を喝破し去りたる者にして。花頓悔には蕩盡するの顯末を叙し。の際どき生活の實况を寫眞して當時流行の花がるたな弄して二三の出來星紳士が家產を大和節には紳商者流が相糸渡りゼンマイ仕掛の細きからくりを覗かしむ。之を繙くもの一讀して人間生活の案外容易に滿悅し。外交易所 人民間探し大三讀し之を一部の小說として讀むも可なり種の處世的講義錄として誦するも可なり。世の櫻痂先生を知る人乞ふ連に一本を求めて其愉絕快絕なるに三驚せし。瘦々亭骨皮道人著全一冊洋裝骨皮滑稽談正價金拾錢郵稅四錢骨皮道人が得意なる、滞稽諾誠益のよりな人てしても同上を寫し、人情を穿ちたる珍設倒せしむる中に諷刺の意の含みたるものにして道人が得意談を集めたるは盖し本書を措ひて他にあらざるなリ幸堂得知翁著筒井年圣密〓全冊大判幸堂滑稽談紙數二百頁正價廿五錢郵稅六錢露の五郞兵衛畧傳●貧工夫初夢曾我●上方武目仕上軍法者●綠定め長し短し快々時々御新禧日向島景清再來●楠流々●酒落幸兵衛行水安賣●妙義山●昔々おいてけ堀由來●漁車白分免許風舩の飛下り●御衆議三番叟●東京年中次行事●獲釋●大切駄酒落揃ひ車●水の飮分●爲替手形●聲色遺ひ●假面の講●堀出しもの●媒入●明治藝者人力●東京日々新聞評得知翁の滑稽に長する世の許す所南翁新二逝きてより君獨り其塲を占しその輕妙の筆奇警の想に伴ひ一九三馬以外別に乾坤を聞く而して問々嘲世罵俗い慣言を交ふ一讀して三年の溜飲を害すべしやまと新聞評黄表紙の本家得知署が滑稽酒落なる其特性を疆つて交壇に踵轉するや久し當編亦講の五服兵衛。昔しを今に返り咲き花のいろ〓〓新玉の寶初めに因みて日出たき物語りを澤山に聚められしか輕快の筆珍妙の趣向湧くが如き姓味ありて一證布袋の如く腹を抱へて笑ふ門には福錄富し之は坑らぬと面を叩くに骨の折るゝを知らざるへし實に滑稽の上梁上品なる者と云ふべし●給入日報評一九三馬輩の酒落滑稽は既に古びたり然れは明治の世に新治稽作者の出てんこと夙に希ふ所、今此書を見るに幸堂が物したる一切の滑稽談を網羅したる者なれば一頸不覺一味を能さしむ亦其の妙なるを知るべし●都新聞評名の如く可笑しく興ある事どもな染めたる美しき本なり目自博文舘編輯局校訂〓星月夜鎌倉顯晦錄〓北條九代記全新正價五拾郵稅拾六錢錢博文舘編輯局後訂〓甲越軍記正價五拾錢博文舘編輯局校訂全一冊郵稅拾六錢〓通〓通俗俗吳漢越楚軍軍談談合壹冊正郵稅拾六價五拾錢錢博文舘編輯局校訂〓通俗十二朝軍談〓通俗武王軍談合壹冊正價五拾錢●通俗明〓軍談郵稅拾六錢博文舘編輯局校訂〓博文舘編輯局校訂楠廷尉秘鑑全一冊正價五拾郵稅拾六錢錢尾崎紅葉、〓風來山人傑作集大橋乙羽兩君校訂(本書ハ發賣ヲ禁止セラル)全一冊郵稅拾六正價五拾錢錢〓西鶴全集-冊五拾錢全二冊郵稅各拾六錢博文舘編輯局校訂大橋乙羽君校訂滑稽名作集全二冊郵稅各拾六冊五拾錢錢其磧自笑傑作集合一冊正價五拾郵稅拾六錢錢博文舘編輯局校訂〓人情本傑作集仝二冊郵稅各拾六冊五拾錢錢小說博文舘發行書類〓印洋裝上製·印洋裝並製○印和裝博文舘編輯局校訂〓眞書太閤記附朝鮮一冊五拾錢博文舘編輯局校訂軍記全四冊郵稅各拾六錢博文舘編輯局校訂○南總里見八犬傳全三冊郵稅各拾六錢-冊五拾錢〓源平盛衰記全一冊正價五拾郵稅拾六錢錢博文舘編輯局校訂奥羽、江ノ島東海、木曾道中膝栗毛合壹冊正價五拾郵稅拾六錢錢博文舘編輯局校訂博文舘編輯局校訂〓梅曆春〓鳥合壹冊郵稅拾六正價五拾錢錢博文舘編輯局校訂〓通俗三國志全一冊郵稅拾六正價五拾錢錢〓三馬傑作集全一冊正價五拾錢博文舘編輯局校訂郵稅拾六錢博文舘編輯局校訂〓胸部に發發證證動動記記田、加賀、伊達合壹冊正價五郵稅拾六拾錢錢博文舘編輯局校訂京傳傑作集仝一冊正價五拾郵稅拾六錢錢〓種彥傑作集正價五全一冊郵稅拾六拾錢錢全新正價五拾郵稅拾六錢錢正價五拾錢全一冊郵稅拾六錢合壹冊正郵稅拾六價五拾錢錢合壹冊正價五拾錢郵稅拾六錢十
殿谷漣山人編嚴本善治君序文巖谷漣山人編志賀重昂君序文〓谷 連山人編巖谷落合東郭君序文石橋思案君序文嚴谷漣山人編幸堂得知君序文巖谷 漣山人編幸田露伴君序文巖谷漣山人編依田學海君序文巖谷漣山人編川上眉山君序文●●●八文物瘤俵カ舌大頭漣山人編福臭ちの藤民形月耕密〓飯田武〓君唱歌鈴木華村密〓取切小中村〓短君唱歌梶田半古密〓黑川眞賴君唱歌山田敬中密〓物集高見君唱歌寺崎 廣業密〓本居豐額君唱歌藤島華僧密〓鳥居枕君唱歌江大茶太三島蕉應密〓福羽美靜君唱歌默川國松密〓中村秋香君唱歌釜郞蛇全一冊り山太雀山全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊郵正郵正郵正郵博文舘編輯局校訂博文舘編輯局校訂饗庭纂村翁校訂饗庭集村翁校訂博文舘編輯局校訂博文舘編輯局校訂幸堂得知翁校訂博文舘編輯局校訂博文舘編輯局校訂博文舘編輯局校訂博文舘編輯局校訂〓近松時代淨瑠璃○〓〓O〓近松世話淨瑠璃〓●O忠臣藏淨瑠璃集赤穂復讐全集俠大水珍氣佛〓各宗高僧實傳四客傳岡大本質許全政奇全全集談書傳集集全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全二冊全一冊全二冊全一冊仝三冊全一冊正價五拾正價五拾郵稅拾郵稅各拾郵稅拾六正價五拾郵稅郵稅拾六錢正價五拾郵稅各拾六郵稅拾正價郵稅拾六郵稅拾六正價五正價五拾郵稅各拾六郵稅拾一-ー正價五拾冊五拾冊五拾冊五拾六拾六六五拾六拾六錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢全一冊郵正全一冊郵正全一冊郵正全一冊正郵全一冊正郵全一冊正郵全一冊正郵全二冊仝三冊稅價稅價稅但稅價稅價稅價稅價稅價貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢巖谷巖谷漣山人編元良勇次郞君序文福地櫻痴君序文巖谷漣山人編巖谷●三宅雄次郞君序文●江見水隆君序文巖谷漣山人編德富猪一郞君序文●巖谷漣山人編高橋五郞君序文●巖谷 連山人編遲塚區水君序文●巖谷漣山人編宮崎三昧君序文金雲浦安猿羅兎漣山人編寸島漣山人編達と太雀生中江玉桂密〓建部綾子君唱歌永峯秀湖密〓物集高見君唱歌久保田金俚密〓奥筒井年峯小中村義象君唱獸と高橋松亭密〓小杉梱村君唱歌右太田原干秋子唱歌法小林 親親密〓水野鈔子君唱歌太小堀〓音密〓諏訪忠元君唱歌海ケ好義君唱歌田年英密〓師郞原月密〓郞全一冊山門月魚咢十三全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊.全一冊全一冊正郵郵正郵正郵正郵郵正正郵正郵正巖谷 連山人編森田思軒君序文巖谷漣山人編饗庭集村君序文巖谷 連山人編野口寧齊君題詩巖谷 連山人編尾崎紅葉君序文嚴谷漣山人編坪內雄藏君序文●博文舘編輯局校訂○博文舘編輯局校訂〓博文舘編輯局校訂〓博文舘編輯局校訂花松猿桃續仇淨瑠璃名作集玉馬蟹珍琴討太傑本小說咲山落合直文君唱歌戶川殘花君唱歌佐々木信綱君唱歌水野年方密〓湯淺吉郞君唱歌小林永興、〓〓武内桂舟密〓村田丹陵密〓の合富岡永洗密〓大和田建樹君唱歌全作鏡戰集集集爺井郞全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全二冊郵正正正價五拾郵正價五拾郵稅拾六正郵郵稅拾六郵稅各拾六郵郵正正郵稅拾六正價五拾一稅價稅價稅價稅價稅價冊五拾貳五貳五貳五貳五貳五錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢全一冊正郵全一冊郵正全一冊郵正全一冊郵正十二稅價稅價稅價稅價稅價稅價稅價稅價稅價稅價稅價稅價稅價貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五貳五錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢
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露國レヲ、高橋雄峯君譚述四斑牙セルバンテス氏原著亞弗利加探撿者スタンレー氏原著阪田霧山人著英國ヘスチングマルクハム氏原著山岸蔽鶯君譯細川風谷君著○海泉鏡花君著霊國レオ、トルストイ伯原著●〇 や○帆○小石橋思案君著D●空鈍機翁冐險譚大闇黑亞弗利加クルーソー"シールン"絶島漂流記めコサ戰兒トルストイ伯原著中ノ永峯秀湖密〓を密〓入ツ氷永峯秀湖密〓の前小林水興密〓四十八癖小林〓親密〓軍ラク餘内田不知庵譯述松居松葉君譯述兵海艦波船と田山花袋君譯マ全一冊全三冊全二冊全一冊全一冊幸田露伴君譯全六冊矢郡五洲君譯全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊正郵郵郵正郵稅郵郵稅各六郵正郵一一正價拾五ー正郵正郵正郵正價拾五稅冊拾五錢價拾五册拾五價貳拾稅冊拾五稅稅稅稅價稅價稅價稅價各六六六六各六六四拾四拾四拾四拾錢錢錢錢錢錢錢銭錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢●山田美妙齋君著作福地櫻痴居士〓作福地櫻痴居士著作福地櫻痴居士著作福地櫻痴居士著作福地櫻痴居士著作福地櫻痴居士著作福地櫻痴居十著作福地櫻痴居士著作獨逸アイヘンドルツフ男爵原著英國ライダー、●十二時會稽曾我●D 3櫻美尊村上義光錦旗風全一冊女大久保彦左衞門大東鑑拜賀開關ケ原譽凱歌日な談王痴平ま滑稽野蓮け寶ハツカード氏原著富岡伯々部兩氏密〓武內桂舟密〓次武内桂舟密〓富岡永洗密〓富岡永洗密〓富岡永洗密〓富岡永洗密〓武内桂舟密〓武内桂舟密〓8春談郞楠鏡獅子與記の窟全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊全一冊阪田霧山人譯述全二冊宮井安吉君認述十六郵正價貳拾五錢郵正價貳拾五錢郵郵正價拾五正郵正正郵郵正正價貳拾郵郵稅各六郵郵正正價拾五稅稅稅稅價拾五稅價稅價稅價稅稅價稅壹間拾五六六四四四四四八四.八四六八六錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢錢

095065-000-2 74-88ひげ男幸田露伴/著M29 DBQ-2665

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