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吉本隆明の『日本近代文学の名作』をどう読むか① 漱石は金の話ばかり書いていたのに

 吉本隆明の『日本近代文学の名作』で最初に取り上げられているのが夏目漱石の『こころ』である。この選択そのものはとても素晴らしい。

 明治以降の近代文学の中で、夏目漱石と森鴎外は飛びぬけた、超一流の文学者という感じがする。資質も作品の傾向も違うが、世紀に一度とか二度しか出てこない作家だ。

(吉本隆明『日本近代文学の名作』毎日新聞社 2001年)

 二人出たんだから「一度」では済まないだろう。しかしまあ言わんとしていることは解る。吉本はまず漱石に『猫』から『明暗』まで一度も停滞がないと驚いて見せる。
 これは本当にそうだが、病気で中断した『行人』の凄まじさに気がつけば、またさらに驚くことだろう。(もう遅いけど。)

 でさて夏目漱石の『こころ』の話になると途端に吉本の解釈は凡庸を極める。「単純な筋」「主人公の先生」「自分の親友と同時に下宿先の娘を好きになって」と少々プロの読み手としてはだらしない。

 『こころ』がそうであるように、漱石の小説は三角関係(不倫)が主な主題だ。どうしてそれに固執したのか、漱石の生涯に自伝的な痕跡があるのかと考えてみるが、どうしてもそれらしい事実はない

(吉本隆明『日本近代文学の名作』毎日新聞社 2001年)

 うむ。

 だらしないばかりか間違っている。考えないで調べた方がいいのではないか。

 小坂晋の『漱石の愛と文学』が出たのは1974年である。漱石の私生活を論じるものの中で、江藤淳と小坂晋の説を参照しないものは寧ろ稀ではないか。吉本は「考えてみる」と書いていて「徹底的に調べてみたが」とは書いていない。考える前に調べてみるべきではなかったか。

 そして例によって「先生同性愛説」を「裏の解釈」として持ち出す。

 この「先生同性愛説」を持ち出す人というのは単に集中して読んでいないか、記憶力の乏しい人なのではないかと私は疑っている。

 だから、下宿の娘はごく普通の平凡な女性というだけで性格などについては書かれていない。

(吉本隆明『日本近代文学の名作』毎日新聞社 2001年)

 うむ。

 両方に問題がある。

 私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。

(夏目漱石『こころ』)

 お嬢さんは先生を花とへたくそな琴でもてなす心優しい、そして感情移入しやすい性格だと描写されている。そして何よりも美しい。

 お嬢さんは大層着飾っていました。地体が色の白いくせに、白粉を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。

(夏目漱石『こころ』)

 お嬢さんは色白の美人なのだ。先に「私」からは美しいと言われている。それはとても平凡なこととは言えない。

 漱石と鴎外は乃木の殉死に親和感を持ち

(吉本隆明『日本近代文学の名作』毎日新聞社 2001年)

 それは真逆だ。

 それにしても石原千秋にしてもどうして漱石が金の話ばかり書き続けてきたことに無関心なのであろうか。
 例えば『こころ』は間違いなく財産の話であるし、

 まさか『それから』が金の話ではないとは思うまい。今この瞬間に「言われてみれば」とあれやこれやが結びついたはずだ。『坊っちゃん』は「月給が下がる話」で、『野分』は「貧乏文学士の原稿が売れる話」、『虞美人草』は相続の話、『草枕』も三等列車が哀れな話。『三四郎』も結局羽振りのよさそうな男と美禰󠄀子が結婚する話で、『門』の宗助は貧乏で……。

 こうやって論ってみると『趣味の遺伝』や『夢十夜』なんかが例外で、あとはかなり金の話だったと気がつくはずだ。特に『こころ』は「先生」を中心に見た場合は「親の遺産を叔父にくすねられた恨みから金に関してはがめつくなり、奥さんが財産目当てでお嬢さんと自分をひっつけようとしているのではないかと疑心暗鬼で出遅れたために友人をトラブルに巻き込み、結局奥さんの財産を友達に奪われることを避けるために、お嬢さんを貰うことに決め、無一文の友人を追い詰めて殺してしまう話」とも読めるわけだ。

 一方「私」中心に読めば「遺産相続ではもめそうな話」でもある。

 これは吉本隆明だけの問題ではないが、普段はたった百円をケチって有料記事を読まないくらい金のことしか考えていない皆さんが、案外「漱石は金の話ばかり書いているな」という当たり前のことには何故か気がつけないという妙な現象がある。

 花は野菜をほとんど食べない処女である。

 このくらいシンプルに読んでみたらどうだろう。
 


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