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闇は深い 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか②

 昨日は牧野信一の『闘戦勝仏』に激しい天皇批判があり、マゾヒズムがあり、見られたい願望があり、それが江戸時代から研究されていたものであることを確認した。まあなんというか、リンクは慎重に、という話だ。

 貞観の十三年、玄奘法師の一行は、朱紫といふ世にも稀な美しい国に着いて、この城に宿ることになつた。この国は不思議な国なのであつた。白い川、緑の山、年中晴れ渡つた青い空……囀る小鳥の赤い翼、水底の青い砂に踊る小魚の白い腹……、で朱紫国は、これは又奇怪の国々のみを遍歴して大概のものに驚かされることの無い玄奘の一行だつたが、
「夢だ、夢だ、夢でなけりやこんな麗はしい可憐な国のあらう筈が無い。」と呆然として、計らずもその滞留を永引かせてしまつたのであつた。
 更にまた驚く可き事には、此国の人々は凡て、男と女の区別が決して出来ない程美しく優しく何れも夢の国の人々の如くに色が白くて小胆なのである。だから孫悟空、猪八戒、沙悟浄等の恐ろしく怪しげな旅人を見ては、子供のやうに戦き目を伏せぬ者は一人もなかつた。道端に立ち並んだ巴旦杏樹の蔭に慄へてゐる女のやうな男や、朱欄の階楼に蒼然として立竦んで居る美しい戦士などが、丁度祭礼か何かで街を飾り付けた人形のやうに其処にも此処にも見られた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 はい。ジェンダーレス社会。

 そういうのとも少しは違うな。もう少し倒錯的な世界観だ。朱紫国そのものは『西遊記』に「朱紫国唐僧論前世 孫行者施為三折肱」として出てくるものの、この設定は牧野独自のもので、美しい玄奘法師の「顔を拝してゐられることだけが私の唯一の快楽」と悟空に言わせるのも、犬のように従いたいと言わせるのも、牧野信一のセクシュアリティの反映と見做すことも可能であろう。

 なぜならそれは四年間も隠されていたのだから。

 ただし男と女の区別が決して出来ない美しい世界とは言いながら、どうもここで描かれている美しさとは玄奘法師も含めて、まさに夏目雅子的な、女菩薩のような、中性的というよりは女性的な美しさのようである。「朱欄の階楼に蒼然として立竦んで居る美しい戦士」も「飾り付けた人形のやうに」と言われるからには、所謂女性美人戦士兵士、美少女戦士で、「たくましさ」や「あらあらしさ」と言った男性的要素を含まないものなのであろう。

 しかし男と女の区別なく美しくしてしまっているところが味噌で、これは歌舞伎の女形や宝塚歌劇団的なものではなく、やはりついているついていないに関係ない美の世界で、むしろ悟空自身の「見苦しい姿体と顔貌の所有者」たることへの自己嫌悪の投射と言い換えてもいいかもしれない。

 八戒と悟浄は是等の意久地の無い人達を見て、その驚くのを反つて痛快がつて凄い顔をして脅やかした。それだのに悟空だけは日頃の豪胆にも似ず、どうしたことか、(余りその変りやうが甚だしいので、傍の者には彼の心中が解らなかつた。)悲しいげに、さうして羨しげに、街の人々の様子を眺めてゐるばかりだつた。……「俺の力が強ければ強い程、俺はこの国の人々には敵はないのだ。」溜息と共に胸で呟いたのだつたが、知らぬ間にその言葉が口に洩れたのだらう。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 近代ゴリラと呼ばれた三島由紀夫にしてみれば、やはり美輪明宏のような顔に生まれ変わりたかったのであろうし、この悟空の気持ちがよく理解できたのではなかろうか。

 まあ悟空は猿そのものでゴリラとはより近い親戚でもあるわけで、これが人間の毛がない美しさに憧れているのであるから、現代で言えばあそこをつるつるにする全身脱毛にも興味があったのかもしれない。

 しかしそんな悟空の「美」への思いは沙悟浄や猪八戒には理解できない。この理解されないセクシュアリティというところもまた三島由紀夫には美味しいものであったろう。

「何を云つてるのだ。こんな面白い処が何処にあるものか。景色は絵よりも綺麗だし、其処に済む人々がまた人形より小心で美しいし、ね、全くさうぢやないか、――そら/\見給へ/\、また彼処で、そら、お前の強さうな顔を見て立竦んでる兵隊が、まあどうだらう三四十人もゐるぢやないか、えゝ。」と云ふ八戒の声がしたので、悟空は何か秘密でも洩してしまつたやうにハッと思つたが、こんな場合普段なら直ぐに好い加減な冗談に紛らせてしまつたが、この時は、然し、冗談に紛らさうと努めなければならぬ程八戒は悟空の腹の底を悟つたのではなかつたが、悟空はもうそんな小さな意地立などを考へる勇気すら無くなつて、
「頼むから俺の顔が強さうだなどと云ふのは止めて呉れ。俺は強ひて弱さうに見せかけてゐるのだが、それでも彼等は俺を一番怖ろしいがつてゐるのだ。」と顔を顰めて八戒の言葉を避けた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 弱弱しく見られたい。

 これが責められたいとまで進むと立派なマゾヒズムなのだが、ここでも男女の区別がないことの意味合いが面白い。多くはどちらかに偏るものだが、悟空はここでやはりどちらにという区別をしていない。

 同時に八戒達が如何にも淡々として決して人の気持などを邪推することなく易々と会話を運んで行くのを、己が身に引きくらべて悲しんだ。――それだのに自分は彼等から常に洒脱と軽妙と才智と豪放とを讚へられてゐる、お前程さつぱりした者はない、と云はれてゐる、「決して俺はそんなのぢやないのだ。全く俺は嘘はついた事はない、が結果はいつも俺の心と反対なものとなつて他人に響いてゐるらしい。と云ふと何か俺には腹にたくらみでもあるやうにも見ゆるけれど、それはない、自分の思つてゐるだけの事は常に他人に白状してゐる、誤解されたと思つた事も一つもない。それだのに俺は常に悲しい孤独ばかりを感じてゐる。理由はそれも明かなのだ。つまり俺は僕自身に考ふべき一つの謎をも持つてゐない事をも嘆いてゐるのだ。嗚呼、何故俺は山猿でゐなかつたのだらう。何故俺は「妖術」だの「考へる事」などの自由を知つてしまつたのだらう。」悟空は近頃になつて、ともすればこんなやうなことを思つて、思ふそばから思ふことを悲しむやうなことが多かつた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 この「つまり俺は僕自身に考ふべき一つの謎をも持つてゐない事をも嘆いてゐるのだ」という告白は、昨日指摘したおおよそ中身というものがない天皇批判にも通じている。批判しているが政治性がまるでない。言わば、言葉はあるものの「説く力」はないのだ。
 ここにはある意味正直な、怠け者でナンセンスな牧野自身も重ねられていよう。「考ふべき一つの謎をも持つてゐない」にも拘らず現に小説を書こうとして書いている自分自身が、何か嘘をついているような後ろめたさというものがあったのではなかろうか。近代ゴリラになれない悟空。三島由紀夫になれない牧野信一がいる。


「悟空は全く偉いよ。」と八戒が云つた。「弱い者は飽くまでも救はうとしてゐる。それでこそ法師の供だ。」
「――」悟空は答へる言葉を知らなかつた、今が今思つてゐる事は余り馬鹿々々しい事で堪らなかつた。

「如何程景色の勝れた美しい国だからとて、さう長くもゐられまい。それもいゝが、愚図々々してゐる間に吾々までが此処の人々のやうに女々しくなつてしまつては大変だから。」
 玄奘は三人の従者を顧みて促した。八戒と悟浄は立処に出発を申し出たが、悟空は朱紫国から離れ度くなかつた。「此処の人々のやうに女々しくなつては大変だ。」と玄奘が云つたが、悟空はその言葉が嬉しくて堪らなかつた。「矢張り師の考へてゐる事は俺達とは違ふ。」と悟空はつくづくと感心した。朱紫国の人々のやうになる事が出来たらどんなに嬉しい事だらう、此処の人々のやうになる、などといふ事は俺は悪寐にも考へなかつた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 ごく平たい意味で「美しくなりたい」とは誰しもが願うことであろう。しかしその美の基準は個々人によって異なり、ここで示されている美は明らかに「女々しく」と表現されている通り、女性的な美なのである。つまり悟空は全身脱毛だけではなく、肉体改造でさえ拒まないのではなかろうか。その如意棒は永遠に失われても悔いることがないのではなかろうか。

 しかしその言いようは「自分の思つてゐるだけの事は常に他人に白状してゐる」というとおり、ボロボロとセクシュアリティをさらけ出し過ぎているように見える。

 先の日に一行は或る女国に立寄つた事があつた。その時も玄奘は「女国に入つたら何よりも謹む可きは色だ、色に溺れぬ事だ、女からの誘ひに決して陥つてはならぬ。」と云つた、その時悟空は「人並に俺のやうな者でも女の誘惑に遇ふやうに見ゆるのかしら、瞞されると解つてゐても関はないから、若しも俺を笑顔で迎へてくれる女があつたら、まあ俺はどんなに喜ぶだらう、屹度再び師の傍へなど帰る事はなからうな。」などと、反つて玄奘の言葉から自惚れを起して、「御懸念には及びません。」とは云ひながらも得々として女国へ入つた。(今ふとその時と同じやうな悦びに打れた。)女国では案の条、悟空が一番持てなかつた。その時悟空は玄奘に憎みさへ感じたものだつた。仕方が無く他の二人よりも先に帰つて来ると、玄奘は悟空を大変に潔しとした。八戒と悟浄はどんなに叱られる事だらう、とせめてもそれを楽しみに悟空は朝までまんじりともしなかつたが、明方頃二人の者がきまりが悪さうにコソコソと帰つて来た、玄奘はたつた一言「それは仕方がない、心だけ奪はれねばそれでいい、だが大切な道に進まうとしてゐるのだから以後は謹むがよい。」と云つた切りだつた。その時蔭の方で溜息をついた時の心持は、いつまで経つても悟空は忘れられなかつた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 一般に性的不能者とはいざことに及ぼうとしたときに役に立たないという肉体面のみに関して言われるが、ここで牧野信一は悟空を「社会的性的不能者」として取り扱っていないだろうか。このことを「悟空が一番持てなかつた」と牧野は一旦さらりと書いてしまうが、「蔭の方で溜息をついた時の心持」として捉えたものはもう少し生々しいものであるように思う。この時悟空の性的嗜好は明らかに女に向けられていて色に溺れることを期待していた。それが「先の日」であり、その失恋体験のようなものを経ての朱紫国での倒錯なので闇は深い。

 怖れらるゝ自分は何よりも悲しいことだが、他人の異様な顔貌を怖れるやうな美しい臆病な身分の人達が、更に羨ましく恋しく、醜い自分の面相を曝物にして置いても、悟空は、どうしても朱紫国に止つてゐたかつた。
「然し私が思ひますには、早吾々が城に止ること数十日の長きに渡りましたが、吾々は未だ一度も国王に拝謁しないではありませんか。この儘去つては礼の儀に外れるかと存ぜられますが。」悟空は早速の思ひつきで師になじると、(自分ですらその早業に驚いた程だつた。)玄奘もこの言葉には従はざるを得なかつた。
「国王は目下難病の由で如何なる名医名薬も効めなく、何人にも謁しないさうではありませんか。」悟浄は、予てその由を聞き知つてゐたので、王の平癒の日の解らぬのを案じて、此儘出発しようとすすめた。
「礼の道は破ることは出来ない。」と玄奘は決然と云ひはしたが、目当のないことで、思へば愁へずにはゐられなかつた。
「その御心配は御無用。」悟空は常の如き元気に立戻つて、「拙者は神仙に授かつた秘薬を存じて居ります。それを用ふれば如何なる難病も立処に癒ること請合ひでございます。」と頓智よく、軽々と云つた。 

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 と、ここでようやく牧野は『西遊記』本来の筋に絡めてくる。「朱紫国唐僧論前世 孫行者施為三折肱」は確かにそのような方向性の話なのだ。しかしそのまま『西遊記』本来の筋の通りに事が運ぶのか、悟空が全身脱毛の施術を受けるのか、それはまだ誰にも解らない。何故ならまだこの先を読んでいないからだ。


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