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芥川龍之介の『舞踏会』をどう読むか③ そこには落とし穴がある

 森鴎外は乃木大将の殉死に「感動」して、立て続けに殉死小説を書いたのだと本気で考えている人がいる。そんな馬鹿なと思うが、本当にいるのだ。そんな人は一生そんな思い込みが捨てられないで死んでいく。

 あるいは『舞踏会』の明子はアイスクリームを食べるので知覚過敏ではないことが解る。しかしそう気が付かない人もいる。

 あるいは『舞踏会』は『たね子の憂鬱』『糸女覚え書き』『おぎん』『おしの』『奇怪な再会』『南京の基督』といった比較的少ない女性を主役に据えた作品の一つである。そしてアメリカ人とイギリス人が出てこない。

 此処には燕尾服や白い肩がしつきりなく去来する中に、銀や硝子の食器類に蔽れた幾つかの食卓が、或は肉と松露との山を盛り上げたり、或はサンドウイツチとアイスクリイムとの塔を聳てたり、或は又柘榴と無花果との三角塔を築いたりしてゐた。殊に菊の花が埋め残した、部屋の一方の壁上には、巧な人工の葡萄蔓が青々とからみついてゐる、美しい金色の格子があつた。さうしてその葡萄の葉の間には、蜂の巣のやうな葡萄の房が、累々と紫に下つてゐた。明子はその金色の格子の前に、頭の禿げた彼女の父親が、同年輩の紳士と並んで、葉巻を啣へてゐるのに遇つた。父親は明子の姿を見ると、満足さうにちよいと頷いたが、それぎり連れの方を向いて、又葉巻を燻らせ始めた。

(芥川龍之介『舞踏会』)

 そして魚と柑橘類と野菜と飲み物がない。これでは喉が渇いて仕方ない。しかしおそらくこの『舞踏会』という作品に飲み物が出てこない意味を近代文学1.0は論じてこなかっただろう。
 未成年の飲酒が禁止されるのは大正十一年。鹿鳴館時代に十七歳の明子が酒を飲んでも何の問題もない。

 何の問題もない?

 いやむしろ芸者が動員されるような舞踏会に出すために十七歳の明子にフランス語とダンスを教育した頭の禿げた親爺の魂胆に問題があるのではなかろうか。

 青年は「その後、したんですか?」とは尋ねない。しかし大いにそういうことはあっただろう。
 

 ワツトオの画の中の御姫様のやうですから、といわれる「ワツトオ」とは、アントワーヌ・ヴァトーのことだろうか。

 しかしWatteauは仏蘭西人の発音では濁る。芥川はフランス語が出来たはずだが……。

 このように「はかなさ」を主題として捉える画一的な読みの問題としては、こうした些細な引っ掛かりどころが無視されているところにある。

 例えば舞踏会が世界中どこでも同じであるという意味が「はかなさ」と結びつくなら、なぜわざわざこの海軍将校は日本くんだりに来てまで舞踏会に参加し、自ら明子をダンスに誘うのか。任務で仕方なく来たのなら、オッサンたちと談笑していればいいものを。

 飲み物がないのは何故か。飲み物も花火のように一瞬で消えてしまうから……では答えになるまい。明子の人生は舞踏会の夜に終わってはいない。フランス人の海軍将校としたかどうかは解らない。しかしH氏とはエッチしただろう。その晩も明子の人生の一日だ。

 人生なんて振り返るとあっという間だが、うんこが漏れそうなときの電車の停車時間は永遠のように長い。


[余談]


 明子という名は「明治」から名付けられたものか。それで明治政府の手先のように鹿鳴館に媚びを売る禿げ親爺が描かれるわけか。

 そういうことなのか、禿げ親爺。 

 

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