![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/134737268/rectangle_large_type_2_76bb4e8f53c2b0770607a7bfe2d50c04.png?width=800)
何となく蜜柑も今や師走かな 夏目漱石の俳句をどう読むか70
![](https://assets.st-note.com/img/1711095356061-wy0E10Wkgl.png)
市中は人様々の師走かな
子規の評点「〇」。とてもざっくりした句で、具体的には何も示していないのだが、そうした具体を放棄してみるという賺しが少しだけ褒められたというところであろうか。
鰤でも鮭でも何か一つの師走らしさを捉えようとしても、行きかう人々に様々な師走があり、焦点が絞れないという感じがまさに忙しない師走の句になっている。
何となく寒いと我は思ふのみ
この句には「三冬氷雪の時什麼と問はれて」と添えられている。なんとなく禅問答を仕掛けられてひねるのは馬鹿らしいとそのまま返したような句である。冬が寒いのは当たり前。それを「何となく」「我は」ととぼけている。そんなもん冬はみんな寒いわいと思わせる狙いであろう。
何も問われないでこの句があったらおかしいが、問いの答えとしてはとぼけていて面白い。
我脊戸の蜜柑も今や神無月
脊戸は家の裏口のこと。普通は背戸と書く。家の裏口の蜜柑も今や神無月だよ、というさしたる工夫の見えない句に思えるが子規の評点は「◎」。
![](https://assets.st-note.com/img/1711097077179-mOwkqVnJxZ.png?width=800)
高浜虚子は正岡子規の
我背戸は二百十日の茄子かな
という句に対して、「わびしい村居の模樣が想像せられるのである」と褒めている。漱石の句は茄子に対して蜜柑、二百十日に対して神無月を返したので「蜜柑も」なのであろう。この掛け合いは二人にしかわからなかったのではなかろうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1711097773256-ScDCzPQ2lC.png)
[余談]
はあ?前期高齢者さん、なに舐めたこと言ってんの?
— 那須優子 (@nasuyuko) March 22, 2024
今は年収400万円で社会保険料120万円ですけど。しかも65歳以上の老人が子育てしてきた頃の育児控除も廃止。
その分所得税と住民税も上がってる
年収800万円で社会保険料たった80万円しか取られてなかった世代がガタガタ抜かすな
これだから老害は。… https://t.co/b0BNC2zFhX
結論。
お金のために働くのはやめましょう。
人生は一度きり。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?