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夏目漱石『坊っちゃん』と『行人』の時間

『坊っちゃん』の現在

 夏目漱石の『行人』は『坊っちゃん』や『こころ』と同じような物語構造を持っている。基本的に回想の形で過去の出来事が語られながら、現在がそっと挟み込まれる。

 例えば『坊っちゃん』において、

此三円は何に使つたか忘れて仕舞つた。今に帰すよと云つたぎり、帰さない。今となつては十倍にして帰してやりたくても帰せない。

(夏目漱石『坊っちゃん』一章)

 この「今となつては」が清の死後にあることはまず読み誤ることはなかろう。しかし案外見落とされているのが、

おやぢは些ともおれを可愛がつて呉れなかつた。母は兄許り贔負にして居た。此兄はやに色が白くつて、芝居の真似をして女形になるのが好きだつた。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやぢが云つた。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云つた。成程碌なものにはならない。御覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。只懲役に行かないで生きて居る許りである。

(夏目漱石『坊っちゃん』一章)

 この「只懲役に行かないで生きて居る許りである」という現在が街鉄の技士としての生活だという点や、

引き受けた以上は赴任せねばならぬ。此三年間は四畳半に蟄居して小言は只の一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であつた。

(夏目漱石『坊っちゃん』一章)

 この物理学校の三年間に比べれば、街鉄の技士としての生活は呑気でもないことが仄めかされていることは見逃されがちのようだ。


『行人』の現在

 多くの批評家によって『行人』は読み誤られてきた。その物語構造を捉えきれない者たちが「分裂」と言い出すのは他人事ながら少々、いやかなり気恥ずかしい。自分なら舌噛んで死にたくなるだろう。『行人』の現在がHさんの手紙の後にあることを理解できなければ、たとえどんなペンネームを用いようとも『行人』を読んだことにはならない。

 作中六回現れる「今の自分」のうち、五回はあくまで「当時の自分」に置き換え可能である。しかしどうも一つだけ「当時の自分」という「現時点から見て過去の自分」に置き換えが利かず、文字通りHさんの手紙を読み終わった後の「現在の自分」としか読めないものがある。

「どこへ」
「あてて御覧なさい」
 今の自分は兄のいる前で嫂からこう気易きやすく話しかけられるのが、兄に対して何とも申し訳がないようであった。のみならず、兄の眼から見れば、彼女が故意ことさらに自分にだけ親しみを表わしているとしか解釈ができまいと考えて誰にも打ち明けられない苦痛を感じた。

(夏目漱石『行人』「友達」二十二章)


 これは「当時の自分」と交換可能な「今の自分」である。

「そんなに冷かしちゃいけません。本当に真面目な事なんだから」
「だから早くおっしゃいな」
 自分はいよいよ改まって忠告がましい事を云うのが厭になった。そうして彼女の前へ出た今の自分が何だか彼女から一段低く見縊られているような気がしてならなかった。それだのにそこに一種の親しみを感じずにはまたいられなかった。

(夏目漱石『行人』「友達」三十章)

 これはまさに語られている過去におけるその時の自分である。

 その晩三沢の二階に案内された自分は、気楽そうに胡坐をかいた彼の姿を見て羨しい心持がした。彼の室は明るい電灯と、暖かい火鉢で、初冬の寒さから全然隔離されているように見えた。自分は彼の痼疾が秋風の吹き募るに従って、漸々好い方へ向いて来た事を、かねてから彼の色にも姿にも知った。けれども今の自分と比較して、彼がこうゆったり構えていようとは思えなかった。高くて暑い空を、恐る恐る仰いで暮らした大阪の病院を憶い起すと、当時の彼と今の自分とは、ほとんど地を換えたと一般であった。

(夏目漱石『行人』「帰ってから」三十章)

 この二つの「今の自分」は「友達」の章で病院に三沢を見舞う自分の未来にはあるが、Hさんの手紙の後にいる自分ではない。

 自分は天気の好い折々室の障子を明け放って往来を眺めた。また廂の先に横たわる蒼空を下から透かすように望んだ。そうしてどこか遠くへ行きたいと願った。学校にいた時分ならもう春休みを利用して旅へ出る支度をするはずなのだけれども、事務所へ通うようになった今の自分には、そんな自由はとても望めなかった。偶の日曜ですら寝起きの悪い顔を一日下宿に持ち扱って、散歩にさえ出ない事があった。

(夏目漱石『行人』「塵労」一章)

 これもシンプルに当時の私でHさんの手紙の前にある。

「そう云うつもりでなければ、つもりでないようにもっと詳しく話したら好いじゃないか」
 兄は苦り切って団扇の絵を見つめていた。自分は兄に顔を見られないのを幸いに、暗に彼の様子を窺がった。自分からこういうと兄を軽蔑するようではなはだすまないが、彼の表情のどこかには、というよりも、彼の態度のどこかには、少し大人気げを欠いた稚気さえ現われていた。今の自分はこの純粋な一本調子に対して、相応の尊敬を払う見地を具えているつもりである。けれども人格のできていなかった当時の自分には、ただ向むこうの隙を見て事をするのが賢いのだという利害の念が、こんな問題にまでつけ纏わっていた。

(夏目漱石『行人』「友達」四十三章)

 ここで「当時の自分」と比較される「今の自分」は現在の自分である。比較されなければ曖昧なところ、「当時の自分」を出してきたのでもう交換できなくなる。ここでHさんの手紙を読んで兄に対する尊敬を取り戻した現在の自分が現れる。


帰してやりたくても帰せない


 先生が死んだかどうかわからないという人はもう少し読む力を身に着けるべきであろう。清が死んでいないという人はあるまい。では一郎の死に関してはどうか?

 自分はこの時の自分の心理状態を解剖して、今から顧みると、兄に調戯うというほどでもないが、多少彼を焦らす気味でいたのはたしかであると自白せざるを得ない。もっとも自分がなぜそれほど兄に対して大胆になり得たかは、我ながら解らない。恐らく嫂の態度が知らぬ間に自分に乗り移っていたものだろう。自分は今になって、取り返す事も償う事もできないこの態度を深く懺悔したいと思う。

(夏目漱石『行人』「友達」四十二章)

 一郎が生きているのであれば償いもできよう。ここにもこっそり現れる現在は、Hさんの手紙の後にあり、一郎の死後にある二郎の現在である。「おれ」が清に三円を返せないのと同じ理屈で、二郎は一郎に償いが出来ない。

 こうして整理してみると案外単純なことのようだが、こんなことが案外できていない。出来ていないで適当に読み散らかして、適当に書き散らかしていたのが近代文学1.0の世界だ。

 物語構造が理解できていなくても部分の読みだけで内容を語ることができるということがあろうか?

 私にはそういうものが単に間違いとしか読めない。

 物凄くシンプルに言えば物語構造とは、

 ここにあるのは水とはちみつとレモンだけれど、はちみつは太るし、レモンは酸っぱいから飲むとしたら水だな、と書いてあるのに、明治の知識人共通の問題として水を飲むかはちみつを飲むかレモンを飲むかという三択があると言い張るのではなく、「飲むとしたら水」と読むということだ。

 しかし案外こんなことができない。

 できないなら黙っていればいいものを好きなことを書き散らしている。それではいけない。少しは真面目にやらなくてはならない。

 そういう人は私の本を買って勉強しなくてはならない。



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