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予測できたはずなのに 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか③

 結局人間の感情などというものは言葉で捉えたつもりでもそこから少しずつずれているものだ。純粋な怒り、純粋な喜びというものはなかなか得られない。昨日私はサンシャイン60の噴水広場に行って、無料配布のアイスクリームを貰おうとした。木曜日の午後一時から配布予定、行ってみると物凄い人数が集まっていて、係員が「今並んでも並んだとはみなさない。一時十分から並び直しを開始する」と訳の分からないことを叫んでいた。「要領が悪いよ」と文句でも言って帰ろうかと思ったが、よく考えたら全然アイスクリームを食べたくなかったので殆ど腹が立っていなかったのでそのまま帰ってきた。じゃあ何故そこに行ったのかと言えば、「遊び」としか言えない。そして無理に腹を立てようとしたら立てられたなとも思った。兎に角これから二度とサンシャイン60には行かないし、生涯アイスクリームは買わないことに決めた。

 ――予期に反した不満などゝいふものよりも、彼は「しほらしい道子よ。」とある安心を感ぜずには居られなかつた。「ほんと?」
「今頃になつて――戯談じやないわよ。」
「あゝさうさう、資生堂行きといふ一日があつた事を忘れてゐたよ。プログラムの定つてゐる日は到底拙者などお伴の栄には預れないので……うつかりしてゐた。」――案外にも、といふ気が彼はした――極めて空虚な悦びを感じたから。
「ふざけちや嫌よ、みつともない。」と云つても道子の眼は先のものにばかり輝いてゐるらしく彼の言葉で更に新しい緊張を感じた如くソワソワとして、
「さうさう、でもちよいと寄つて見ませう、何かまた……」と、その日銀座に来た目的を決して忘れず、パタパタと草履の音をたてて駆け込むだ。彼は通りで煙草に火を点けて、それから店に入つた。
「また煙草……お止しよ、みつともない。」道子は小さな声でさゝやいだ。彼はその言葉に取り合はない事に非常な快感を覚えた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 この「安心」「空虚な悦び」「新しい緊張」「非常な快感」の理由を試験に出したら何人が正解を得られるだろうか。と言うよりも出題者は何を正解とするだろうか。

 まず「安心」、これは糖質の高いアイスクリームを道端で食べなくて済むという安心であった。昨日は涼しかった。

 そして「空虚な悦び」、これは別にアイスクリームを食べたくもないのにわざわざ無料配布のイベントに駆け付け、そこで普段とは違う体験を(それがどんなことでも)やってみようとしていたところを見事にくじかれてさえ、たいしてがっくりもしないというまさに欲望のなさを確かめることの悦びであった。

 それから「新しい緊張」とは明らかに少し腹を立ててもいいところで、たいして腹が立たないことで生まれた、敢えて少し怒ってみようかと、自分の怒りの逆コントロールを試そうとするところから生まれた緊張であった。 

 さらに「非常な快感」とはここに集まったすべての人々の「むくわれなさ」というものが自分にはほとんどないという発見に対する快感であった。

 ……いや、それは関係ないか。

 しほらしい道子に安心、これはまあ、妹が自分の恋に完全には気がついていないのだという「獲物をした探偵のやうな」と見做したところからの反動による安心というところか。

 極めて「空虚な悦び」は案外なものである。恋をしている妹を資生堂に伴うこと、それはお買い物デートと呼んでいいものであろうか。しかし相手は妹で嫁入り前で自分は兄である。それが空虚であることは案外でもなんでもない。案外なのはなんだ?

 それは「財布を一つ買ふのにも実用と虚栄とを目安にした問をうるさく掛けるので、……道子の一挙動までに悉く憤懣を感じた」にも拘らず再び買い物を一つ増やすこと、を無駄だなあと感じつつ喜ぶこと。この自分の気持ちの捉え難いところの案外さというところではなかろうか。

 道子の「新しい緊張」とは資生堂と言いう新しいプログラムに関する緊張ということだろう。何か一つ用事を増やすごとに緊張することがある。歯医者、散髪、外食、何でもそうだが普段しないことをすると緊張する。

 ところで「非常な快感」が難しい。妹の言葉を無視する快感。なんじゃそりゃというところだ。妹にささやかせるために店内で煙草を点けたわけだ。そうして妹をコントロールする快感。いや取り合わないことで、妹に自分の行動に注視させる、煙草で気を引きつけることの快感、道子に意識されているところの快感なのか。

 妹なのに?

 道子が彼方此方あつちこつちとウロウロしてゐるのを、彼は見ない振をして、傍の飾り箱に見入つてゐた。その中には剃刀とか小さな鏡や美爪具などがならべてあつた。
「何かいゝものがあつて?」と、いつの間にか道子は彼の傍へ来てゐた。
 お前のものなんか探してゐるのぢやないよ、と彼は云ひたかつたが――ふと妙案が浮むで、道子の言葉には耳も借せずに、番頭を呼んで、「これを出して呉れ給へ。」と、その瞬間まで心にもなかつた顔剃用の凸面鏡を指して云つた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 本当にこれだよな。行動と意味の関係は。

 三島由紀夫の生首の額に巻かれた七生報国の鉢巻きは直前に用意されたものだった。三島由紀夫はそれが無理な考えだとわかっていた。しかしとりあえず行動としてはそういうものが選ばれた。

 顔剃用の凸面鏡。

 それはたまたま選び取られたものではあるが、結果としては冒頭の場面、

君は一度も恋の悦びを経験した事がないのだね。

(牧野信一『凸面鏡』)

 こんな気障な台詞を言う友人を凸面鏡に捉えて顔を変形させている。まあその前に自分が「鼻でか」になっている可能性が高いのだが。


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