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ふたばよりあぶらぎりたる菜種かな 芥川龍之介の俳句をどう読むか94

菜の花は雨によごれぬ育ちかな

[大正十二年四月十三日 下島勲宛]

 この句も地球人全体から「ふーん」されているようだ。

 雨に濡れない花はあるまい。


方百歩菜の花雨に白みけり


檜木笠 : 紀行文集 久保得二 著博文館 1901年

 そして土ぼこりをかぶらない花もあるまい。

菜の花や重たき足の土埃


句仏上人百詠 岡本米蔵 編培風館 1918年

 しかし油気の強い菜の花は雨をはじき凛と咲くか。

雨に暮るゝ日を菜の花の盛かな


発句類題全集 1-65 [16] [正岡子規] [編]正岡子規写 1889年


明治四大家俳句集 春夏


明治四大家俳句集 春夏

菜の花は雨によごれぬ育ちかな

 さてさてこの句の味わいは「雨に洗はる」ではなく「よごれぬ」として、「生まれ」ではなく「育ち」としたところであろう。菜種油が絞られるのは生まれ持っての性質である。本当に細かいことを言えば現在の雨はほとんど汚いもので、「雨によごれる」ということがないではないが、植物は普通雨に洗われるものでしょうに。雨に汚れるのは打ち捨てられたエロ本ぐらいなものだ。
 
 それにしても、このくらいひねくれてみても誰にもかまってもらえない芥川の孤独がしみじみと身に染みる句である。

〓6 8〓9 2 4 3 2 1 O 9 6 8〓9
是日月日〓興奉将
人生の幸福正宗白鳥著大正14 2.内交2
3 8-10隣あ梅人家る雨農村二日の出來事生目のの病の夫幸次婦室頃福一七三一四五·二七五三三
集曲戲人生の幸福正宗白鳥著
人生の幸福
人物安城豐次郞水島喜多雄(弟)かよ子(異母妹)寺島(學者)別莊番藤初夏の頃の夜明け前。芝生の庭園。その一端にある日本建ての別莊の雨戶はまだ鎖され豐次郞(四十近い風采のよろしき男。寢卷てゐる。庭園の一方は山の方へ接してゐる。豐次郞山を下りて、何か考へてゐる態で、の上に羽織を着てゐる)山を下りて、ステツキの先きで雨戶を叩きながら聲を掛ける。山を下りて、プラ〓〓庭へ入つて來る。やがて、返事がない。彼れは部屋の方人生の幸福
へ耳を留めて、再び山の方へ行かうとしてゐるところへ、喜多雄(三十餘歲で、兄よりも健康らしい。同じやうに羽織を着てゐる)が入つて來る。豐次郞は弟を見て、驚いた表情をして見詰める。喜多雄(努めて懷つこさうに)兄さんは朝が早いと聞いてゐたが、こんなに早いとは思はなかつた。豐次郞お前はいつ此方へ來たのだ? (詰問するやうに云ふ)喜多雄昨夕遲く來たのさ。あんまり遲かつたから此方へ知らせなかつたのだ。來ると直ぐに、一人でビール二本ばかり飮んで寢たら、〓睡したものだから、今朝は馬鹿に早く目が醒めてね。寢床でもぐ〓〓してゐても詰らないから、久振りに大磯の朝景色を見ようと思つて出て來たのだが、田舍はいゝね。豐次郎朝景色を見るにやまだ早過ぎらあ。あの通り月が照つてゐて、まだ夜のうちぢやないか。······お前は朝景色を見るよりおれの樣子を見に來たのだらう。おれが狂人にでもなつてゐるかと思つて。(三十餘歲で、兄よりこんなに早いとは思はなまだ夜のうちぢやなおれが狂人にでもな喜多雄いやさういふ譯ぢやないよ。(努めて何氣ない顏をして)今朝兄さんがこんなに早く起きてゐようとは思ひも染めなかつたんだからね。(雨戶の方を見て)かよ子はまだよく眠つてるんだらうな。豐次郞あゝ。朝早く目を醒ますのはおればかりだ。今朝はあいつに夜明け前の田舎の靜寂な景色を見せようと思つて、さつき聲を掛けたのだが、なか〓〓目を開けない。しかし、眠れるうちは眠らせといた方がいゝのだらうよ。喜多雄かよ子も此方へ來てから丈夫になつたんだらう。此間僕に寄越した手紙には、大變元氣のいゝ快活なことを書いてたよ。兄さんだつてこの前よりも血色がよくなつてゐるぢやないか。豐次郎血色なんぞどうだつていゝさ。······おれはお前にだけ話したいと思つたことがあるんだから丁度よかつた。家の者が起きるまで、此處で、夜明けの景色を見ながら話すことにしようか。豐次郞が芝生の上に無雜作に腰をおろすと、喜多雄も同じやうに腰をおろす。人生の幸福喜多雄も同じやうに腰をおろす。
喜多雄僕は煙草を持つて來ればよかつたのに、忘れたよ。兄さん持つてゐないのかい。豐次郞おれは一週間ばかり酒も煙草も止めてるんだ。コーヒーや茶も成べく飮まないことにしてゐる。飮食物や外界の刺戟なんかでおれの心を濁らされないやうに用心してるんだ。さうして、本當のおれの心を磨ぎ澄まして考へてることをお前に話すのだから、お前も煙草なぞを吸はないで聽いて吳れろよ。······おれが何を云はうと、眞面目に聽かなきやいけないぜ。喜多雄それは眞面目に聽くがね。(强いて笑ひを洩らして)しかし、膝の上に兩手を突いて畏つて聽くには及ぶまい。芝生の上に寢ころんでゐても、心が眞面目ならいゝだらう。(芝生の上へ足を伸して)さつき家を出た時にや頭がボンヤリしてたが、冷つこいスガ〓〓した空氣を吸つたゝめに、頭のドン底までハツキリして來たよ。かういふ時には何だかいゝ話が聞かされさうだね。豐次郞(暫く瞑想的な表情をしたあと)お前はかよ子のことをどう思ふ?喜多雄かよ子のこと?お前はかよ子のことをどう思ふ?豐次郞僕は花が咲いてゐた時分に此處へ來て、一ケ月あまりもかよ子と一しよに暮してゐるんだが、かよ子は今のうちに死んだ方が、當人のためにも幸福だし、社會のためにもいいと思はれるんだがね。お前はさうは思はないか。たしB喜多雄(吃驚して)出抜けにそんなことを云はれちや、僕も面喰つちまふ。かよがどうかしたのかい。脅かさないで、詳しく譯を聞かせてお吳れよ。豐次郎あいつは丙午の生れだからね。俗に丙午の女は男を喰ふといふぢやないか。喜多雄何だい。眞面目な話つてそんなことなのか。(安心したやうに)お母さんがかよにケチをつけるために、時々そんなことを云つてたが、そんな舊弊なケチのつけ方ぢや、われわれに反感を起させるばかりだからね。豐次郎そりや、母親はなよ子に難釋をつけるためのいゝ日實にさう公つたのだらうおれの云ふ丙午の意味はさうぢやないよ。······おれやお前は、かよ子がたとへ死んだ父親の罪惡の記念だつたにしても、たつた一人の妹として可愛がつて來たので、かよ子もおれだちを手賴りにしてゐるんだが、あの子はこの先生きてゐても幸福ぢやあるまいよ。人生の幸福かよがどうかし
喜多雄そんなことはないさ。容貌は惡かないし、人間も馬鹿ぢやないし、相當な家へ緣づかせれば、幸福に世が渡れるだらう。寺濱さんも、此間いゝ緣談の口があるやうなことを云つてゐたよ。僕だちは、一人の妹のために、理想的の男子を捜して花々しく結婚させるんだね。しかし、僕等が傍からおせつかいをするまでもない。かよ子は、ちやんとした當てがあるんぢやないかな。まだ子供だと思つてるうちに、案外なことがあるものだからね。······兄さんは此方へ來てから、何か勘付いたことがあつて、さつきのやうなことを云つたのぢやないか知らん。豐次郎お前はいつものやうに世間的のことを云つてる。百人のうち九十九人までが云ひさうなことを云つてる。女が年頃になりや結婚させる。結婚させれば幸福になる。それに、十九にもなつたら、自分の好きな男のことを考へてるかも知れないなんて。さういふ風に手輕く事を極めてしまつていゝのなら、おれも頭を痛めて物を考へたりなんかしないよ。·····かよ子の胸の中には、まだ戀の芽は少しも萠してゐないね。それはおれが斷言するよ。喜多雄いくら兄さんが烱眼でも、その點はどうだかな。僕には信じられないからね。しかし、かよの胸中が白紙のやうに純白で、まだ男子の影で汚れてゐないといふのなら結構ぢやないか。豊次郞今日の日までは、あれの胸の中が純白でも、明日の日何處で誰れを見つけて、俄かに戀の芽が萠えださんとも限らないのをおれは恐れてるが、おれの恐れてるのはそればかりぢやないんだ。かよ子は一人前の女になるとゝもに、おれやお前にも復讐しようとするのに違ひなひよ。生みの母親の靈魂があれの腹の中には完全に宿つてるんだが、それが今はまだ眠つてゐても、いつ目を醒ますかも知れない。いや、今目を醒ましかけてゐるやうにおれには思はれるんだ。喜多雄何のための復讐?死んだ親爺に對する怨みを僕等にむくいるだらうと云ふのかい。女つて執念深いから、かよの母親は死ぬる間際に、どんな恐ろしい遺言をしたかも知れないが、あの子は、怨みや憎みはどんな者だか、皆目分らないやうな女に生れついてるんだからね。時々お母さんに邪慳な仕打をされても、いつも無邪氣に受けてるぢやないか。(ふと氣づいたやうに調子を變へて)こんな下らない話はもう止さうよ。僕は久振りで此方へ人生の幸福まだ男子の影で汚れてゐないといふのなら結構ぢ
來たのだから今日は三人で愉快に遊ぶことにしやうぢやないか。僕はここで朝餐を御馳走になるから、飯を喰つたら三人で千疊敷へでも登つて見ようぢやないか。僕は土產に苺のいゝのを持つて來てるから、あとで屆けよう。豊次郞お前は悠長な顏をしておれに氣休めを云つてる。かよ子が手紙で何か云つてやつたために、お前はおれの身體を氣遣つて來たのに違ひない。隱さなくつてもいゝよ。······おれの頭は狂つてやしないから安心しろ。不斷よりも頭の中がハツキリしてる位だよ。たゞ、かよ子は早く死んだ方が、當人のためにも、傑の者のためにも幸福だと、おれが思つてるのを、あの子が多少勘付いて、お前にそんな手紙を送つたのだらう。喜多雄なに、かよが此間寄越した手紙には、無邪氣な事が書いてあつたゞけだよ。あんまり退屈だから、兄さんに五目並べを〓はつたとか、朝早く起きて、曳網を見に行つて、鰺を買つて來て、自分で料理をして食べたが、まだビク〓〓動いてる魚に庖丁を當てるのは氣味が惡いから、一度で懲り〓〓したとか、その時兄さんが鰒を一尾漁夫に貰つて來たけれど、食べずじまひで打遣つたとか、さういふやうなことが書いてあつたゞけだ。豐次郞それだよ。かよ子もいくらか勘付いてるんだな。(獨言のやうに云ふ)喜多雄はふと、兄に對して不安な感じを起して、思はず後退りをする。藤七(水島家の別莊番、五十歲ぐらゐ)が裏木戶の側へ現はれ、此方を覗く。夜は明けかゝる。豐次郞何のためにおれがかよ子を連れて曳網を見に行つたと思ふ?何のために鰒を貰つて來たと思ふ?喜多雄何のためだか、僕はそんなことまで〓究しやしないがね。(立上つて)さあ、もう家の中へ入らうぢやないか。東の方が薄明るくなつた。何處かで雨戶の開く音がしてる。豐次郎まあ、もつと其處にゐて、おれの話すことを聞け。まだ誰れも起きやしないよ。おれの眞面目な考へを打明けられるのはお前一人なんだから。······かよ子を生かして置けば、あれのためにもおれ達のためにも決してよくないんだよ。おれは長い間考へ拔いた揚句にさう思つてる。(重々しく云ふ)喜多雄(笑ひ〓〓)だつて殺す譯にや行かないでせう。二人は足音を聞きつけて、そちらへ目を向けると、藤七が入つて來る。豐次郞は吃驚す三人生の幸福藤七が入つて來る。三豐次郞は吃驚すから注意
る。喜多雄(怪訝な顏して)おれに急用でも出來たのかい。藤七いえ、別段用事があつて參つたのぢや御座いません。て、旦那樣はどちらへいらつしやつたのかと思ひまして。喜多雄氣にかゝることつて何だい。おれが家を出た時にや、だが、急に何か異つたことがあつたのかい。藤七戶倉さんの御別莊の裏で、若い女が殺されてゐるんで御座いますよ。隣りの婆さんが、御嶽さんへ朝詣りに出掛ける途中で見つけて、近所で大騒ぎになつてゐるんです。喉を締められたらしいんですが、女は土地の人ぢや御座いません。東京か濱の可成りに身分のいい人らしいんですよ。喜多雄それは大變だな。しかし、その人殺しがおれと關係がある譯ぢやあるまい。(口輕く云つたが不愉快を顏に現はす)藤七それは旦那樣の御存知のことぢや御座いませんが、······その婦人の方が男の人と一し少し氣にかゝることが出來ましお前はまだよく眠つてたやう(口輕く······その婦人の方が男の人と一しよに、昨夕夜汽車で東京の方から來たのを見たといふ者が御座いますから、若しも旦那樣もその人だちと同じ汽車にお乘りになつて、顏を知つてゐらつしやるのぢやないかと思ひまして。喜多雄知らないね。お前はいゝ加減なことを人に話しちやいけないよ。(叱るやうに云ふ)藤七はい。······私も久振りに死人の顏を見ましたが、死人なぞ見るものぢや御座いません怨めしさうな目をして、鼻汁を垂らして。旦那樣はあんな者を御覽にならない方がよろしう御座いますよ。喜多雄誰れが死人なぞ見に行くものか。······あゝさうだ。お前は、昨夕おれが持つて來た苺の箱を直ぐに此處へ屆けて吳れ。藤七承知いたしました。(會釋して出て行く)喜多雄あいつは、慾に掛けちやすばしこいくせに、人間が少し拔けてるから、馬鹿なことを云つていけないよ。豐次郎藤七はおれだちの話を立聞きしてゐたのだよ。油斷が出來ないよ。人生の幸福······あゝさうだ。お前は、昨夕おれが持つて來た人間が少し拔けてるから、馬鹿なこと油斷が出來ないよ。
喜多雄聞かれて惡いことを云つてやしなかつたから、それは關はないがね。豐次郞いや、さうでない。おれ達はこゝで、大切な祕密を話してゐたのだから。喜多雄(はじめの快活さを失つた人間らしく)兄さんは獨りでいやなことばかり考へて、それを僕に押付けるからいけないよ。僕には誰に對しても祕密なんかありやしない。豐次郎おれはこの頃、頭のなかが澄んでるから、いろんなことが分るんだ。かよ子の身に附纏つてる運命も、おれには分つてる。お前が藤七の云つた死人の話を氣に掛けてることも、おれにはちやんと分つてる。喜多雄僕は氣に掛けてやしないよ。僕が夜汽車で大磯へ來たことや、今朝早く山の方を散歩したといふことが、ちつとも死人と關係があるんぢやないからね。豐次郞それはさうさ。おれはお前よりももつと早くから山の方を散歩してゐたんだよ。御嶽さんの側の暗い森の中も確かに步いた筈だ。······しかし、喜多雄、お前は、ある女を殺さうと思つたことはなかつたか。(弟を見詰める)喜多雄ないねえ。男だつて女だつて、人間を殺さうなんてことは、僕は一度も思つたことそも、今朝早く山の方を散僕は一度も思つたことはないよ。そんな質問をされるのは今がはじめてだよ。兄さんは、なぜ、眞面目らしくそんな不愉快な事に拘はるんだね······(空を見上げて)僕は久振りに夜明けの景色を見るんだが、兄さんも詰らない考へに凝らないで、このよく澄んだ空でも見るといゝ。豐次郎お前に〓へられなくつたつて、澄んだ空なら、おれは每日よく見てるよ。日の出も日の入りも、此方へ來てからよく見てるよ。······だけど空を見たつて、朝日を見たつて、おれの考へが變る譯ぢやない。···お前は本當に、女でも男でも殺さうと思つたことはなかつたか。憎いから殺したくなるばかりぢやない、その人間の幸福のためにも殺したいと思つたことはなかつたのか。喜多雄ないよ。僕は蟲けらだつて殺すのは嫌ひだ。豐次郞臆病だねえ。······おれは藤七が知らせに來た女殺しが、お前の所爲だと極つても、そんなに驚きやしないよ。喜多雄(顏を蹙めて)馬鹿云つちやいけない。(兄の側を離れて)兎に角家の中へ入ることにしよう。お前の所爲だと極つても、兎に角家の中へ入ることに人生の幸福
豐次郞は庭から外へ出て喜多雄は雨戶の側へ寄つて、かよ子に聲を掛ける。その間に、豐次郞は庭から外へ出て行く。喜多雄ぢや、此方へ出ておいでよ。散步したきや一しよに散步してもいゝから。喜多雄は兄のゐないのに氣づいて、あたりを見廻す。そして、却つてそれをいゝこととしたやうな態度で、空を見上げたり口笛を吹いたりする。そこへ、かよ子(十九歲の可愛らしい女、不斷着のまゝ)が、横手から入つてくる。かよ子豐兄さんはゐないの? (不思議さうに見廻す)喜多雄あゝ。かよ子さつき、何だか、二人で面白さうな話をしてゐたわね。わたし、話聲を聞いて喜い兄さんにちがひないと思ふと、直ぐに出て來て、お話の仲間に入れて貰ひたかつたのだけど、髮が壞れてゐたから、大急きで直してゐたのよ。わたし、寢相が惡いから、每晩頭をぐちやぐちやにしてしまふの。喜多雄ぢや、お前はさつきから起きてゝ、おれだちの話を聞いてたのか。かよ子に聲を掛ける。その間に、おれだちの話を聞いてたのか。かよ子えゝ、よく聞取れなかつたけれど、今日は三人で箱根へ遊びに行かうつて、2、相談をしてゐたでせう。わたし昨夕の夢見がよかつたと喜んでゐたのよ。喜多雄(笑つて)うまいことを云つてらあ。眞顏でそんなことを云つて。かよもずるくなつたなあ。かよ子では、わたしの聞きちがひだつたか知ら。若し聞きちがひだつたと分つたら、わたし大變に失望してよ。喜多雄そりや、事によつたら、箱根へでも修善寺へでも連れてつてやらないこともないがね。お前は身體の加減はいゝのかい。かよ子えゝ。わたし東京にゐた時よりも太つたでせう。千疊敷くらゐなら一息で登れるわ。喜多雄えらいなあ。······此方へ來てからは、氣を使ふやうなことはないんだらうね。兄さんと仲よく暮してるんだらうね。かよ子えゝ、それは。······豐兄さんと喧嘩を一度したこともないわ。わたしの養生にもよく氣をつけて吳れるのよ。人生の幸福えゝ、そんな若し聞きちがひだつたと分つたら、わたわたしの養生にもよ
喜多雄さうか······(腑に落ちぬやうな態度をする。そしてあたりを顧みて)此間のお前の手紙に、兄さんは暗いうちに家を出て外を步廻つたり、六ケ敷顏して獨りで考込んだりしてゐると書いてあつたが、それだけのことで、兄さんの不斷の樣子に格別變つたところはないんだらうね。かよ子るヘニ(隊除た調子で管べて死んた殘姉さんのこととも思出してるわたしには思はれるんだけど、訊いて見たことないのよ。それで、兄さんが鬱いでる時には、わたし側へ寄付かないでソツとして置くのよ。····義姉さんがいくらいゝ人だつたにしても、死んだ人のことを考へるのは詰らないぢやないの。(はじめの無邪氣に似合はない皮肉な調子で云ふ)わたしも、豐兄さんの氣持が傳染したのか、此方へ來てからは、どうかすると、死んだ人のことが考へられたりするんですけど、それはいけないことだと思つて、成るべく忘れるやうにしてゐるのよ。喜多雄かよちやんも死人のことを思出すのかい。いやだねえ。お前のやうな、これから世の中の幸福ばかり味つて行ける女が、死人のことなぞ思出して、大切な純潔な心を濁らずつてことがあるものか。かよ子嘘にでもさう云つて、力をつけて貰へると、わたしうれしいわ。豐兄さんと喜い兄さんとは云ふことが反對なのね。喜多雄なあに、兄弟だから性分はよく似てるんだよ。上の方は違つてゐるやうに見えても、腹の底は同じことなんだよ。(感慨を籠めて云ふ)おれはね、他所の家の人間になつてゐて、お偶にしか會はないから、お前にもよく分らないのだらうが、おれは兄貴と同じやうに鬱ぎ込んでることもあるんだよ。かよ子いやなことねえ。···ぢや、喜い兄さんも死んだ人のことを考へてるの?でも、水島の義姉さんは丈夫で生きてゐるんだし、兄さんのお友だちで死んだ方もないやうだし、誰れのことを考出すのか知ら。喜多雄おれが物を考へて鬱ぎ込むと云つたつて、死人のことゝ極めなくつてもいゝよ。お前も今朝は少し變だ。(ふと嚴かな顏付をして、稍々聲を潜めて)それよりも、兄貴の精神狀態はどうも調子が外れてるやうだから、お前は氣をつけなきやいけないぜ。兄貴の云ふ人生の幸福わたしうれしいわ。豐兄さんと喜い兄
ことや擧動に變なところがあつたら、一々おれに知らせるやうにして吳れ。かよ子豐兄さんの精神狀態がどうかしてゐるの?今朝此處で會つた時の樣子が變だつたの? (物に驚いたやうに)それで、豐兄さんは今何處へ行つたんでせう。喜多雄御嶽さんの近くで、女が締殺されてるさうだから、それでも見に行つたのだらうよ。かよ子女が殺されてる?······嘘でせう。兄さんはわたしを脅かさうと思つて。喜多雄本當だよ。疑ふのなら見て來るといゝ。かよ子本當なら、わたし恐ろしい。(恐怖に震へながら空間を見て)······それは誰れが殺したんでせうか。殺した男は誰れだか分つたんでせうか。喜多雄加害者は誰れだかよく分らないだらうが、お前はなぜそんなに怖がるんだ。お前やおれに關係がある譯ぢやあるまいし。かよ子でも、わたし、急に恐ろしい氣がしてならないの。······殺された女の人の顏が見えるやうだわ。首を絞められるのはつらいでせうね。同じ殺されるにしても、首を絞められるのと、刄物で喉を突かれるのと、どちらが苦しいんでせう。······それは誰れが殺しお前や喜多雄おれはまだ殺された經驗がないから分らないよ。······そんな役にも立たないいやなことを考へる必要はないね。······あの車の音は牛乳屋だらう。おれの持つて來た苺に牛乳をかけて直ぐに食べることにしようぢやないか。·······穩かないゝ朝だ。喜多雄は努めて快活を裝つてさう云ひながらも、不安な思ひが、隱しきれないやうに徴a見えてゐる。藤七、風呂敷で包んだ苺の箱を提げて入つて來る。喜多雄御苦勞だつたな。そこへ置いて行けばいゝよ。藤七(苺の箱を下へ置く。そして、かよ子に目をつけて挨拶して)お孃樣は今度は一ぺんもぶ爺やの所へお遊びにいらつしやいませんね。此方の旦那樣も寄つて下さらないし、何かお氣に障つたことがあるのぢやないかと、爺やは心配してゐたので御座いますよ。かよ子(返事するのが懶いやうに)わたし、この頃は滅多に外へ出掛なかつたのよ。藤七爺やは此間、太田の御隱居樣が東京へお引上げになる時、緋鯉や金魚を頂いてお池へ放しときましたから、今日でも御一しよに見にいらつしやいまし。お氣に召したのがあつたら買つて頂きたいと思つてるので御座いますよ。人生の幸福
二四喜多雄金魚は食べられないから、賣つて金にして一杯やらうと思つてゐるのかい。かよちゃんは用心してゐないと、詰らない金魚を爺やから高く賣付けられるかも知れないよ。藤七へゝゝ。旦那樣は直ぐにわたくしの申上げることをケナしておしまひなさると思ひましたから、旦那樣にはお願ひしないで、お孃樣に高く買つて頂かうと思つてるんで御座います。あの金魚は、御覽になつたら、屹度お孃樣のお氣に召すだらうと思はれます。喜多雄爺やも商賣の時機が惡かつたよ。もつと早かつたら買つて貰へただらうが、かよちやんは、今は金魚なんぞ見たかあないんだ。藤七どうかなすつたので御座いますか。(かよ子を見詰めて)さう云へば、お顏の色もお惡いやうだ。かよ子(煩ささうに、顏を外して)わたし、どうもないのよ。そのうち爺やの金魚でも緋鯉でも見せて貰ふわ。藤七どうぞ御覽なすつて下さいまし。(歸りかけてまた後戾りして、喜多雄に向つて)さつきの女殺しの話で御座いますがね。伊豆屋の平吉が怪しい男を見たと云つて居ります。顏さう云へば、お顏の色もお惡顏を外して)わたし、どうもないのよ。そのうち爺やの金魚でも緋鯉はよく見なかつたけれど、變な男が御嶽さんの方から下りて來るのを見たさうで御座います。どうも譯がありさうに思はれたから、突立つてあとを見てると、も一人の男が同じ道を驅けて來たさうです。それで、殺し手は一人ぢやあるまい、二人でやつた仕事だらうと、平吉は申して居ります。物取りぢやあるまいし、意恨があつてやつたことで御座いませうが、若い女一人を、男が二人がかりで絞殺すなんてあんまりむご過ぎるやうに、わたくしは思はれます。喜多雄さうだね。(空々しく云ふ)······お前は早く歸つて庭をよく掃除しといて吳れ。今日はみんなを誘つて行くから。藤七は出て行く。かよ子爺やは何だつてあんないやなことをわたしだちに話して行くんでせう。喜多雄人殺しの話なんか、誰れでも話したがるものなんだよ。本當に、いゝ加減な想像なんだよ。平吉といふ男が見たつて云ふのも當てにやなりやしないさ。かよ子わたし、此間豐兄さんに誘はれて、御嶽さんの裏山へ登つたのだから、あの邊のこ人生の幸福今日あの邊のこ
とよく知つてるわ。山の上からは松原越しに海が見えて、そりや眺めがいゝのよ。······殺された人は、御嶽さんへ行くまでは、自分がどんな目に會はされるか、ちつとも知らなかつたでせうのに。わたし、殺された人が殺した人に隨いて何も知らないで、あの坂を上つてつた樣子が、今目の前に見えるやうなの。邪慳に絞殺されるくらゐなら、自分で海へ身を投げるとか、汽車の線路へ飛込むかして、早く死んぢやつた方がよかつたでせうのに、その女の人はなんにも氣がつかなかつたのね。喜多雄それは極つてるさ。殺されると知つて誰れが隨いて行くものか。(また不安な思ひに襲はれたやうに)折角暇をこしらへて保養に來たのに、朝から緣喜が惡いよ。兄貴ばかりぢやない、かよまでもどうかしてゐる。(雨戶の方を見て)おきよはまだ寢てるのか。もう起したらいゝぢやないか。早く雨戶でも開けたらいゝだらうに。いつまで庭に立つてても爲樣がないから、家の中へ入つて、氣分を變へて、その苺でも食べることにしようぢやないか。かよ子(兄に促されても家の中へ行かうとはしないで)此方にはお母さんがゐらつしやらな此方にはお母さんがゐらつしやらないから、下女も寢たいだけ寢かせるんです。喜多雄此方にはお母さんがゐないから、お前も氣が樂なんだらうね。(ふと柔しく云ふ)かよ子えゝ。(邪氣なく云つて)それは、時々は退屈して東京の戀しくなることもあるし、何かしら詰らない氣持のする時もあつたのだけど、大抵はスーツとしたやうな氣持で每日日を暮してゐたのだわ。······でも、それは今朝までのことなの。兄さんに呼ばれて此處へ出て來てから、わたしはじめて氣がついたの。今までわたし無智だつたのね。豐兄さんはえ死んだ義姉さんの事を考へて鬱いでるのだとばかり思つてゐたんですもの。喜多雄それは、兄貴の樣子はちよつと變なやうにおれには思はれるんだが、おれがさう云つたからつて、お前は兄貴を怖がらなくつてもいゝよ。おれが餘計なことを云つたために、お前に心配をさせて濟まなかつたね。かよ子いゝえ。餘計なことぢやないの。(あたりを見廻して)わたし默つてゐられないから思つたこと云つちまふわ。豐兄さんの知つてる女の人がこの土地にゐるらしいのよ。暗いうちに外へ出て行くのは、その人に會ふためなんでせう。それで、しよつちゆうわたしに人生の幸福
何か隱してるやうに氣兼ねをしてゐたのは、そのためだつたの。わたしに悟られやしないかと、豐兄さんがビク〓〓してゐる譯が今やうやく分つたんです。······だから、わたし怖くなつたの。爺やの話を聞いて、恐ろしいことが考へられてならないの。わたしの思違ひならいゝんだけれど。······喜い兄さんも、豐兄さんの精神狀態が今朝は變だつて、さつきさう云つたわね。喜多雄兄貴にそんな祕密があるつてことは、おれは今まで知らなかつた。(信じかねる風)二人は陰鬱な顏して、めい〓〓の思ひに沈む。やがて、喜多雄しかし、平吉が見たつていふ男は、兄貴ぢやあるまいよ。······おれも詰らない心配をしてゐた。······いくら兄貴の頭が變になつても、そんな馬鹿なことがあるものぢやない。かよ子男が二人通つたのを見たといつたわね。喜多雄偶然其處を通つたために嫌疑を受けちやたまらないね。豐次郞が入つて來る。二人に對して疑惑の目を放つ。喜多雄何處へ行つてゐたの?豐次郎戶倉の別莊の側まで行つて來た。死骸には薦が掛つてたから顏がよく見えなかつた。喜多雄何だつてそんな者を見に行つたのだい。かよは非常に心配してゐたよ。豐次郞お前が何か餘計なことを喋舌つたんぢやないか。(詰問するやうに)喜多雄僕は餘計なことなんぞ云やしないよ。(ドギマギしながら)豐次郞だつて、かよ子はあの通り震へてるぢやないか。あんなに熟睡してゐたものが、三日も眠らなかつた人間のやうな元氣のない顏をしてゐるのに、おれが氣がつかないと思つてゐるのか。(怒りを含んだ聲で云ふ)喜多雄それは僕の所爲ぢやないよ。豐次郎ぢや、おれがちよつと出て行つた間に、お前の外の誰れかゞやつて來て、かよ子に何か云つたのか。かよ子わたしどうもしてやしないの。兄さんこそ氣を鎭めて聢りしてゐて下さい。豐次郎おれこそどうもしてゐやしないよ。喜多雄が何か云つたか知らないが、誤解しちやいけない。人生の幸福お前の外の誰れかゞやつて來て、かよ子に
かよ子(外の方を氣にして)こんな所にいつまでも立つてゐちやいけないから、りませう。わたし、今雨戶を開けるわ。かよ子は顧み勝ちに、豐次郞の方を氣にかけながら出て行く。豐次郎(弟に向ひ顏を和らげて)お前は本當にかよ子に何も云はなかつたのか。おれはあの子の生きてるうちは、無駄な心配はさせまいと思つて、此方へ來てからも、おれの思つてゐることは微塵も外へ現はさないようにしてゐたのだ。それに、無邪氣な相が消えてしまつた。一日でも一刻でも時を延してゐるうちに、人間の心は不意に邪念が芽を吹いて來るものだが、一度芽を吹いたが最後、この頃の草や木のやうに、どし〓〓蔓つて繁つて行くのだ。昨日までは、苦しみの種から生れてゐながら、苦しみを感じなかつたかよ子も、今はそれを感じだしたのだ。あれの母親はおれだちの母親に虐殺されたやうなものだからな。喜多雄虐殺だなんて考へるのは、兄さんの頭がどうかしてるんだよ。親爺のしたくらゐなことは世間に有りがちのことなのだからね。······かよは兄さんが、死んだ義姉さんの事か何か考へて每日鬱いでると云つて心配してゐたのだ。かよ子家の中に入豐次郞おれはかよ子だけには、おまきのやうな苦勞をして死なせたくないよ。おれやお前の敵にしときたくはないよ······おれは今、氣にかゝつたから死人を見に行つたのだが、加害者は昨夕のおそい汽車で大磯へ來たのだと、みんなが噂をしてゐる。喜多雄それが僕にでも關係があるのかね。(反抗するやうに云ふ)豐次郞御嶽さんの邊は、人殺しをやるのにいゝ處だ。おれはさう思つて、每朝散歩してゐたのだ。喜多雄兄さんはどう思はうとも、僕はあすこが眺望がいゝから、行つて見たゞけだ。かよもさつきあそこは眺めがいゝと云つてゐたよ。······しかし、朝からこんないやな話しをしてゐても爲方がないから、僕は一先づ家に歸つて出直して來ることにしよう。喜多雄が行きかけると、豐次郞はふと手をのばして引留める。喜多雄はその手を振放して行かうとする。そのはずみに、二人は芝生の上にころぶ。每朝散歩してゐ人生の幸福
二三十分後。前の幕の別莊の一室。食卓を圍んで、兄妹三人が苺を食べてゐる。かよ子の居室らしく、鏡臺や簞笥などあり、西洋畫の額が掛つてゐるが、それは、觀客の目には見えない。かよ子この苺は隨分おいしい苺ね。(匙を持つたまゝ、喜多雄の方を見る)喜多雄(夢から醒めたやうに)むん。うまいだらう。和泉屋へ賴んで特別にいゝのを選擇させたんだ。豐次郞この土地にはろくな果物がないんでね。(平靜な態度で云つて、皿の苺を見てゐる)かよ子水島の義姉さんでもおたまちやんでも、誰れか東京から遊びに來てくれゝばいゝと、わたし此間うち獨言のやうに云つてゐたのよ。だから、今朝喜い兄さんの聲を聞くと、飛上るやうに悅しかつたのだけれど、だし拔けに脅かされちやつたので、スツカリ悄げたの。藤七がいけないのよ。いけ好かない爺やだわ。死人があらうと人殺しがあらうと、係合ひもないわたし達の所へ、朝つぱらから知らせに來なくつてもいゝぢやないかね。喜多雄さうだとも。あいつ他所へ行つても餘計なおしやべりをしてあるに違ひない。(を氣遣つてゐるらしく忌々しさうに云ふ)豐次郞藤七のおしやべりくらゐは構はないが、お前は後暗いことはないのか。(聲を稍々低めて)おれ達の前ではもう祕密にするには及ばないよ。さつき草原に轉んでた時に、おれはお前の心臟に觸つて、激しく鼓動してゐるのを知つたのだ。お前の胸の底には、何か異常な事を實行したあとのやうな震へが殘つてゐるのを、おれはちやんと感じてるのだ。お前はおれだけには隱せないよ。二人は幼い時から一しよに育つて來た人間だもの、おれにお前の心の中が讀めないでどうする?昨日までのかよ子になら、世間の者の恐ろしがるやうなことは決して聞かせたかないのだけれど、今はかよ子も、恐ろしいことが自分の廻りに起つてることを勘付いてるのだから、今更おれ達がかよ子の目に蓋をしてゐようとしたつてもう遲いんだ。だから、お前も、遠慮しないで正直に打明けて見ろ。おれは決してお前を非難しようとは思つてゐない。輕蔑もしない。都合によつたら、おれが責任を背負つてお前の身代りになつてやつてもいゝと思つてるのだ。喜多雄僕の身代りになると云つて、何のために身代りになるんだね。(自分の胸をおさへ人生の幸福
ながら)僕はさつき芝生に轉んでた時、柔かい草が身體に觸つていゝ氣持だつたよ。あの上をいつまでもコロ〓〓と轉んでゐたかつたくらゐだ。動悸も打つてやしないし、手も震へてやしないよ。豐次郞お前はまだおれのこの目を眩ましてゐようと思つてるんだな。(詰責する語調)ぢや、かよ子に訊いて見ろ。喜多雄(强ひて笑ひを浮べて)おれの顏付が不斷に比べてそんなに違つて見えるか。かよの目でよく見て、公平に判斷して吳れないか。かよ子(よく見て)さう云へば、喜い兄さんも今朝は變ね。目付が凄いぢやないの。かよ子は、喜多雄を見た目を轉じて豐次郞の方をぬすみ見して、それから、額を見上げて、ひそかにおびえる。豐次郎かよもいよ〓〓氣がついたのだな。お前があの親爺の肖像がよく出來てると云つて此處へ掛けた時から、おれは氣遣ひでならなかつたのだ。親爺は一生のうち二人も三人もの人間を殺してゐるのだよ。そのうちの一人は、西南戰爭で殺したので、親爺自身も自慢あのかよのをして人に話してゐたのだが、生物を殺したのは何のためだつて同じことだ。殺す生すは戰爭の時に限つたことはない。(嚴然として)喜多雄、お前は、戰爭でもない時に親爺と同じことをやつたな。他所の人間はどうか知らないが、親爺の一族は、一生に一度は親爺と同じことをやらなければ生きてゐられないと、おれは此間から考へてゐたよ。喜多雄親爺と同じことをやつたのならやつたでいゝから、兄さんは心を鎭めて下さい。豐次郞馬鹿、おれを狂人とでも思つてゐるのか。おれはこの通り落着いてゐるぢやないか。おれが狂人なら、親爺も狂人だつたのだ。お前も狂人だ。······かよ子でも喜多雄でも、おれに何事でも訊ねて見ろ。それで、おれの返答が間違つてゐるかゐないか試驗をして見ろ。この頃のやうに澄んでゐるおれの頭には、分り過ぎるぐらゐ何でも分つてるつもりだ。かよ子お父さんはいゝ方だつたのよ。だから、わたしもお父さんの肖像を此處に掛けてゐるんだわ。夜もお父さんに守つて貰つてるから、安心してよく眠られるやうにと思つて。豐次郎親爺の肖像が魔除けになると思つてゐたのか。人間にいろ〓〓な苦しみを與へた根本の神樣を、人間が崇拜してゐるやうに、かよ子は自分に苦しみの種を授けてくれた親爺人生の幸福
を有難い神様にして奉つてゐるのか。······馬鹿だなあ。豐次郎、ふと立つて、肖像畫を取おろす。そこへ、姿は見えないで、藤七の聲だけが、庭の方からら聞えて來る。藤七旦那樣、至急の御用がある方がいらつしやいました。此方へ御案內いたしましたが、此處へお通し申しませうか。旦那樣が直ぐにお家へお歸りになるでせうか。三人はふと目を見合はす。喜多雄は慌てゝ立上つて、「ぢや、ちよつと行つて來よう」と獨言のやうに云つて出て行く。豐次郎(肖像畫を下に置いて)彼奴はおれよりも先きに實行したのだ。(歎息する)かよ子喜い兄さんは何を實行したのよ。豐次郎何を實行したか、お前も分つてゐるだらう。この苺はおれのところへ手土產に持つて來て吳れたのか、外の者と一しよに食べた滓だか分らないのだ。かよ子ぢや、爺やの話してゐたことが喜い兄さんに關係があるつて云ふの。豐次郞あいつ今は、その事で調べられるのだが、言逃げるすべはあるまいよ。······あいつ、そこへ、姿は見えないで、藤七の聲だけが、(歎息する)おれよりも先きに實行したのだ。(次第にかよ子を見詰める)かよ子(おど〓〓しながら)だつて、喜い兄さんのやうな快活な面白い人が、そんな恐ろしいことをする譯はないと、わたしには思はれてよ。水島の家に入つてからは、今まで幸福な日を送つてゐるのぢやないの。豐次郎世間の出來事の譯が一々お前なぞに分つてたまるものか。筋の通つた道を踏んで人間は日を送つてゐるんぢやないぜ。·····お前は喜多雄のしたことを手はじめにこれから怖い世の中を見なければならないね。じかよ子わたし、兄さんが怖い。(座を立つて庭へ下りようとする)豐次郎いよ〓〓おれが怖くなつたのか。おれはお前を幸福にしてやらうと、いつも思つてゐたのだ。庭へ下りようとするかよ子を、豐次郞は手を伸して引留める。かよ子兄さんは、わたしをどうするの?······勘忍して頂戴。豐次郎お前はまだ誰れに對しても惡事をしたことのない女だ。あやまるには及ばないよ。人生の幸福いつも思つてあやまるには及ばないよ。
かよ子だから、兄さんは私を虐めないで下さい。豐次郞おれが虐めるものか。まあ、此處へ坐れよ。かよ子は手を執られてゐるので、逃げようとしても逃げられないで、おど〓〓しながら、肖像畫の側に坐る。かよ子わたしお父さんの側に坐つてゐてよ。豐次郞おれだち三人は、その親爺に生みつけられたのだからな。よくその肖像を見るといい。人間が神に似てるやうに、三人が親爺にどれだけよく似てゐるかを見るといゝ。かよ子わたし今から海へ行つて見たいのだけれど、兄さんは行きたくない? (隙間を見てゐるやうに目を左右に向ける)豐次郎まあ、も少し此處に坐つてゐろ。おれを恐れなくてもいゝよ。おれはたつた一人の妹の眞實の幸福を考へてゐるのだ。豐次郞はやさしくさう云ひながら、出拔けにかよ子を後から抱へて、喉を締めようとする。かよ子は微かに聲をたてゝ藻搔きながら抵抗する。豐次郞は女の苦しさうな顏面をおど〓〓しながら、おれを恐れなくてもいゝよ。おれはたつた一人の見ると、知らず〓〓手をゆるめる。すると、かよ子は猛烈な抵抗をはじめて、兄の手から脫出する否や、鬼女の如く兄の喉佛を壓へ付ける。豐次郎は脆くも氣絕する。かよ子はよろ〓〓と食卓に凭れて俯伏しになる。そこへ、喜多雄が入つて來る。二人の樣子を怪んで、かよ子の肩を叩いて、喜多雄おい、どうしたのだ?かよ子(目を見上げて)わたし、兄さんに殺されかけたの。何の罪もないのに兄さんに喉を締められかけたのです。わたしどうもしたのぢやないの。兄さんがどうなつてゐてもわたしの所爲ぢやないの。兄さんは氣が狂つてゐるんです。(昂奮した調子で、しかしあたりを憚つてゐるやうに云ふ)喜多雄お前はよくそれで無事だつたな。兄貴は頭が變だと、今朝から思つてゐたのだ。かよ子兄さんの氣の狂つてゐることを、あなたはよく知つてゐるんでせう。喜多雄は氣絕してゐる豐次郞の樣子を側へ寄つて薄氣味惡さうに見る。喜多雄兄さんは狂人だかどうだか、おれには分らない······。兎に角、早く醫者を呼んで來人生の幸福
なきやならないよ。かよ子若しも豐兄さんが息を吹返したら、わたしまたどんな目に會はされるか知れないから此處にゐられないわ。喜多雄だつて、おれ達が打遣つといて逃出す譯には行かないよ。かよ子ぢや、お醫者と一しよに藤七をも呼んで、豐兄さんがあばれだしたら、取鎭めて貰はなきや恐いわよ。それに、喜い兄さんは、豐兄さんの狂人だつてことを、よく證明して下さいね。喜多雄おれにはよく分らん。とに角直ぐに醫者を呼んで來させよう。こは〓〓喜多雄が出て行くと、かよ子は、怖々豐次郞の側へ寄つて、警戒しながら、兄が氣絕してゐるか否かを檢査する。そして、あたりを見廻しながら、兄の喉をおさへつける。脆くも息の根の絕えてゐるのを認めたあとで、鏡の前に寄つて、亂れた髮を直しにかゝる。喜多雄が入つて來る。喜多雄兄貴は寢てるんぢやないか。氣が變になつたからつて氣絕する譯はあるまいよ。わたしまたどんな目に會はされるか知れないか氣が變になつたからつて氣絕する譯はあるまいよ。かよ子さうかも知れないわ。兄さん、側へ寄つてよく見て御覽なさい。わたしは怖くつて寄りつけないわ。喜多雄(兄の側へ寄つて、その死相を注意して)變だなあ。〓奮して心臟痲痺でも起したのか知ら。かよ子さうかも知れないわね。(落着いた顏して振向いて)豐兄さんはもういやなことを考へてゐないで幸福ね。あんなことばかり考へて日を暮してるよりは、氣絕でもしてゐる方が幸福だつてことが、わたし今やうやく分つてよ。喜多雄お前はどうしてそんな呑氣なことが云つて居れる?かよ子さつき、急用があつて兄さんに會ひに來た人は誰だつたの?喜多雄おれはスツカリ忘れてゐた。お前も知つてゐる琴平の寺濱さんが、偶然此方へ來てゐておれを訪ねて來たのだ。兄貴の樣子があたりまへなら、此處へ通さうと思つて、外に待たしてゐるんだが、こんな風ぢや駄目だな。かよ子お通しゝたらいゝぢやないの。わたし、異つた人に會ひたくつてならないのよ。人生の幸福兄さん、側へ寄つてよく見て御覽なさい。わたしは怖くつてその死相を注意して)變だなあ。〓奮して心臟痲痺でも起したの異つた人に會ひたくつてならないのよ。
喜多雄かういふ時だ、寺濱さんの意見でも訊いて見るんだな。喜多雄が奧へ入つて行くと、かよ子は鏡面を見入つてクリームなどで顏の磨きに取り掛る。庭の方から藤七が入つて來て、「旦那樣」と聲を掛ける。かよ子、聞耳を立てて、不安な態度で座を立つ。外を覗いて、かよ子爺やだつたの?まあいゝ處へ來て吳れたわね。此方の旦那樣はさつき不意に目を廻してお倒れになつたのよ。上へ上つて御樣子を見ておくれな。藤七それは大變だ。お顏へ水でもぶつかけたら、息をぶつ返しなさるかも知れない。(上へ上つて、豐次郞の側へ寄つて)こりや、あたりまへの氣絕ぢやねえな。かよ子ただの氣絕ぢやないつて、(驚いたやうに云ふ)藤七お醫者樣に見て貰ふまでもない。わたくしが一目見てさへ分りまさあ。全體旦那樣はいつの間にこんなにおなんなさつたんでせう。お孃樣は御存知ないんで御座いますか。かよ子わたしはちつとも知らないわ。朝御飯の支度に臺所の方へ行つてる間に、兄さんはそんなになつたのよ。·····早くお醫者さんが來て下さればいゝのに。藤七晝間に外から人が入つて來て、御主人を絞殺して行くつてことはない譯だ。まさか、昨夕の女殺しぢやあるまいし(獨言のやうに云つて)お孃樣、こりや、お醫者樣を呼ぶさきに、警察へ屆けなきやなりますまいよ。かよ子爺やは自分で警察へ屆けに行かうつて云ふの? (答めるやうに云ふ)藤七わたくしの家の旦那樣のお差圖次第でどうにでもいたします。かよ子それで、御嶽さんの人殺しの殺し手は誰れだか分つたのかい。藤七いゝえ、まだハツキリ分らないやうですよ。殺された女を連れて停車場を下りた男があつたらしいので、警察では昨夕のおそい汽車で來たお客を調べると云つてゐます。殺した男が、いつまでも、この土地に愚圖々々してやしまいと云つてゐますが、御嶽さんの死人も絞殺されてゐるし、此方の旦那樣もこんなになつてゐらつしやるし、かよ子わたし、此處にゐるのが怖いわ。藤七爺やも気味が惡う御座いますよ。こりや、たゞ事ぢやない。かよ子喜い兄さんも氣が變になつてるやうだから、わたし怖いわ。人生の幸福
藤七わたくしも今朝此方へお伺ひした時からさう思つてゐました。(耳を澄まして)旦那樣の聲がする。不斷のお聲とはまるで違つてる。お孃樣も御用心なさいませ。藤七は事があつたら庭の方へ飛出せるやうに身構へをする。ある田舍町の街上。夜電柱につけられた街燈が暗い道をかすかに照らしてゐる。今樣の耳かくしに髮を結つて、派手な浴衣を着たかよ子が、一方から入つて來る。向うから寺濱某(四十餘歲、體格逞しき男)が入つて來る。行きちがひさま、寺濱かよ子さんぢやないか。かよ子あら。······先生が此方へ來てゐらつしやるとは、ちよつとも存じませんでした。二人は留つて、顏を向合つて立つ。しかし、かよ子の顏のみハツキリ電燈の光を受けて、寺濱の顏は光の外にあつて、絕えずボンヤリしてよく分らない。寺濱避暑をかねてあなたに會ひたいと思つて、夕方此方へ來たんです。明日の朝はお訪ね明日の朝はお訪ねしようと思つてゐたのだが、此處で會つてよかつた。どうです、身體の工合は?かよ子おかげで大變よくなりまして、この頃はお藥も頂かないので御座いますわ。寺濱それは何よりだ。かよ子先生は最近に兄にお會ひ下さいまして?寺濱それについてあなたをお訪ねしたいと思つてゐたのだ。兄さんはこの頃は精神狀態がよつぽどよくなつてゐますよ。もう大丈夫でせう。此間會ひに行つた時には、あの時のことを夢のやうに思出して話してゐましたよ。それから、あなたのことも云つてゐました。安城家の血統はかよ子一人に殘つてるんだから、結婚をさせるやうに骨を折つてくれと、わたしに賴んでゐました。わたしは以前、自分から緣談を持出したことがあるくらゐだから、お受合ひはして置きましたがね。かよ子わたしの結婚のことなぞ仰有らないやうにして下さいましな。二人の兄が一度期にあんな恐ろしいことになつたのですもの。寺濱しかし、あの時の記憶を消すためにも、あなたは結婚なすつた方がいゝでせう。わた人生の幸福二人の兄が一度期にあなたは結婚なすつた方がいゝでせう。わた
しのためにもいゝんですよ。わたしもあの時には關り合ひがあつたので、あの時の氣持が今でも頭の中に殘つてゝいけない。かよ子それで、若しも兄の精神狀態が完全に囘復しても、罪人になるやうなことはないので御座いませうか。寺濱そのことは心配なさらなくつてもいゝでせうがね。······わたしはあの後、心の落着いた時分に時々思出しては、不思議でならないんですね。あなたによくお訊ねしたいと思ふこともあるんですよ。かういふことをお訊ねしちや、あなたがいやに思ひなさるか知れないが·······わたしが門の外で會つた時には、不斷とそれほど變つてもゐなかつた喜多雄君が、その前から發狂してゐてあゝいふ恐ろしい犯罪をしたといふのも解らないことだし、ことに、御嶽さんの前の殺人が喜多雄君の所爲だと極つたのも、僕にはよく呑込めないんです、警官や檢事の訊問に對しては、わたくしは批評がましいことを口へ出すのは遠慮して、藤七の云つた通りに同意したのだつたが、警官や檢事の解決じた問題が、わたくしにはどうも得心の行くまでに解決されてゐないのです。あの時の氣持が罪人になるやうなことはないのかよ子ぢや、先生は、兄の罪は寃罪だと思つてゐらつしやるんでせうか。寺濱わたしは疑つてゐる。······人間以外に、魔物とか何とかいふやうな物があつて、豐次郞君に仇をして生命を取つて、御嶽さんの側でも女の生命を取つたのだと信じられれば、至極都合がいゝのだが、我々はさういふことを信じられなくなつたので、·都合が惡い。喜多雄君は、御嶽さんの側の殺人も自分のしたことだと思つてゐるやうだが、わたしには、どうしてもさう思はれませんな。かよ子でも、上の兄なぞは、上べは何ともないやうでも、精神に異狀があつたのですから。寺濱喜多雄君の精神が何かの刺戟で突然狂つたにしても、理由のないのに、兄さんの喉を締めにかゝつたのは、不思議でならない。二人は不斷仲のいゝ兄弟だつたのだから。それに、豐次郞君が抵抗もしないで、たやすく息を引取つたのも、わたしには理解の出來ない問題なのです。······喜多雄君自身は、精神が鎭まつて來ると、自分が續けて二度も殺人をしたつてことを認めてゐるやうな口を利くので、當人さへさう認めてゐることを、わたし一人が疑ふのは變だが、かよ子さんはどう思ひます?あなたはあの時側にゐたことだし、人生の幸福
ことにあなたのやうな無邪氣な女の方の觀察は參考に訊いて置きたいと、わたしは思つてゐるんです。これはわたしとあなただけの間の話にして、決して外に洩らすやうなことはしないから、腹藏なく聞かせて貰ひたいんですがね。かよ子それでは、兄は自分を罪人として認めるので御座いませうか。(氣色ばんで云ふ)寺濱さうです。喜多雄君のやうな不斷快活だつた靑年が、自分が犯したかどうか分らないやうな罪を自分で認めてゐるのが、わたしには、一層不憫に思はれるんです。むしろ狂人になり切つてる方が、兄さんのためには幸福なんでせう。なまなかに、ボンヤリした自意識があるのがみじめです。かよ子先生のやうな方がさう仰有れば、わたくしもさういふ氣がいたしますわ。死んだ兄は、兄弟に殺されたにしても、魔物とか何かの手で殺されたにしても、結局幸福なのぢや御座いますまいか。ですから兄は自分を手に掛けた者に逆らひはしなかつたので、恨んでもゐないのだらうと思はれますわ。寺濱ホウ、かよ子さんはあの事件をそんな風に考へてゐるんですか、(不愉快さうに云ふ)かよ子さう思つてゐちやいけないんで御座いませうか。寺濱いけないこともないだらうが、あなたは二人の兄さんのたつた一人の妹さんだ。兄さんがあんな死に方をしたのを幸福だといふのはあんまり無邪氣過ぎますね。かよ子わたし、先生にだけ、打明けてお話しいたしますわ。精神に異狀があつた兄さんが、わたしを幸福にしてやるつて、わたしの喉を絞めようとしましたから、わたし、怖くなつて逃出さうとして、思はず知らず、兄さんの喉を壓へつけてやつたのです。御嶽さんの女殺しは誰れの所爲か知りませんけれど、兄さんの死んだのは、喜多雄兄さんの所爲ぢやないんですわ。わたしのしたことです。寺濱かよ子さんはなぜそんなことを云ふんです?あなたがあんなことをする筈もないし、第一あなたのか細い手で、何で大の男の生命を取ることが出來るものですか。わたしが、心安立てゞ、出拔けに變な事を訊いたのがいけなかつたか知れないが、〓奮しないで心を落着けて下さい。かよ子檢事も巡査も、誰もわたしに疑ひをかけないから、何も知らなかつたと云つて、藤人生の幸福兄さ誰もわたしに疑ひをかけないから、何も知らなかつたと云つて、藤
종七の云ふ通りに、喜多雄兄さんの所爲にしてすましたのですけれど、本當はわたくしのこの手が兄の喉を壓へつけたのです。それを喜多雄兄さんは御自分の所爲のやうに、今思つてゐるのなら、わたし怖う御座いますわ。喜多雄兄さんが、無實の罪だつたことも知らないで靑い顏して、狂人らしい目をして御自分の手を兄殺しの手としてボンヤリ見てゐることを思ふと、わたしぢつとしてゐられなくなりました。(自分の手を出して電燈の光で見ながら物狂はしい態度をする)寺濱そんな華奢な手で人間の生命が取れるものですか。(かよ子の手を執つて)あなたは安城家のたつた一人の相續者なんだから自重しなければいけませんよ。·····わたしがこれからあなたの宿までお送りしませう。二三人の人間が薄暗いところを、影の如く通り過ぎる。一人の男、片端に立留つて此方を見てゐる。その男の顏は分らない。寺濱はかよ子の手を執つて歸りを促しても、かよ子は動かない。かよ子わたしはあの時豐次郞兄さんにおとなしく絞殺されてゐたら、却つて幸福だつたか却つて幸福だつたかも知れませんわ。逃げやうと思つたばつかりにあんな恐ろしいことをして······先生、しはこれからどうしたらよろしいのでせう。濱寺······あなたも兄さんのやうになつたんだな。(嘆息する)立つて見てゐた男、野卑な嘲笑を洩らして行く。寺濱驚いてその後姿を顧る。(20)然り傑作ハ4本四ちんり1 5 ~星果て桀作ふりや〓キ作手腕を疑ち正宗幺わた1ち人ともれたあなたまでろとしてつるるxしゅしい気の人生の幸福즈〓〓
野卑な潮朱を残らして行し人生はこに幸福あると言いてゐるのだ彼は虚無思契の表現裏に斯鍵利な裁所をうてい農村二日の出來事
農村二日の出來事路傍に荷車が置かれてゐる。梅雨時の霽れ間。子お寅仲小喜太よ人.き郞(四十近い歲)造(六十餘歲)吉(二十四歲くらゐ)烈しい午後の日が耀いてゐる。し(二十二歲くらゐ)作(二十六歲くらゐ)物(十三四歲) (六十歲くらゐ)荷車には刈られた麥が積まれてゐる。連山や、麥の〓した畝を背景として、作連山や、五五その側には、喜作と、
妻の小よしとが、辨當を食し終つて休息してゐる。小よしが食器や土瓶などを、空になつた飯櫃に入れて、風呂敷で包んで荷車にしばりつけたり、脚絆のゆるんだのを締直して足袋を穿直して、亂れかけた頭髪をちよつと氣にしたりなぞしてゐる間に、喜作は默つて汚れた手でバツトを吸ひながら、空か山か向うの方を見てゐる。喜作(ふと、小よしを顧みて)ぢや、おら今夜一つ走り行つて來べいか。小よし(夫の方を見て)さう慌てなくつてもいゝぢゃないか。五日や六日遲れたつて構はないだらうから、もつと暇な時にしなさい。それに手紙を見て直ぎ出掛けちや、いかにも此方がガツ〓〓してゐるやうに腹を見られて却つてよくねえだよ。喜作そんな遠慮は餘計なこんだ。おら達の爲めを思つて云つて來たのだから、おらの方でも腹の底を打ち明けて、先方のお情を受けた方がいゝと、おら思つてるだよ。幸ひ今日は仕事も早く片付きさうだから、今夜一つ走り行つてくべい。小よし(夫の側へ腰を却して)たつて今夜行きたいのなら行つてもいゝが當てにしない方おらの方で幸ひ今日は當てにしない方がいゝだよ。今までも當てごとは外れてばかりゐたでねえかな。死んだ父ちやんの云つたことだつて、お前やわしのためになることは一つとしてフントになつたことはねえだから。わしはもう、いゝ知らせなぞ聞きともねえだ。喜作おめえは量見が狭いからいけねえ。お互ひにまだ若いぢやないか。これからいゝ運がめぐつて來るに違えねえだ。おら確かにさう思つてるだよ。眞壁の伯父が急に大事な話があると云つて來たのも、おら達にいゝ事のある手はじめだぜ。おら今朝から默つてゐたが腹の中ぢやあ大抵察しがついてゐたゞよ。小よし察しがついたちうて、どう察しがついたちうだい。話して見ねえな。喜作おめえがケチをつけるだからいやだ。おら一人の腹のなかにしまつて置くべい。(樂しさうな顏をする) b小よし(微笑して)いつものやうに一人で蟲のいゝ事を考へてゐて、あとで泣つ面をするといゝや。喜作ホーレ。もうおらにケチをつけてやがる。おめえの惡いくせだ。お天氣ばかり續いたbあとで泣つ面をするといつものやうに一人で蟲のいゝ事を考へてゐて、もうおらにケチをつけてやがる。農村二日の出來事おめえの惡いくせだ。お天氣ばかり續いた
人間もたまにや泣つつてお目出度かあない、たまにや雨が降らざいけねえと同じ道理で、人間もたまにや泣つ面をするがいゝだ。小よしそれもたまにやいゝだか知んねえが、この頃の空のやうに、每日々々ジメ〓〓降つてゐちやたまんねえ。折角よく實が入つた麥だつて腐つちまふぢやないか。種を播き散らしたゞけで抛つといた譯ぢやねえ。寢てるうちに育つた麥ぢやねえだに、肝心な時に雨に責められて腐らされてたまつたものぢやない。それに滿足に取れたにしても、この頃のやうに値が安くつちや算盤に合はねえのだから、來年から桑でも植ゑた方がいゝだよ。喜作おめえがさういきり立つても駄目なこんだ。この畝に桑が育つものなら、これまで誰れが麥なんぞ播くものか。土地の柄にねえものは爲樣がねえ。お天道樣が雨ばかり降らすちうて怒つたつて効がねえと同じこんだ。小よし効があらうとなからうと、腹の立つた時にや怒らなけきやならねえだ。つ喜作それだからおらだつても、なさけない時にや泣つ面をするんだ。······だけど、今日のやうに久振りに日が照つて、朝つぱらからいゝ音信が來た時にや、泣つ面したくつても出たまにや雨が降らざいけねえと同じ道理で、來ねえだ。(空か山か、向うの方を見詰めながら獨言のやうに)眞壁の伯父も歲を取つて强慾の角が折れたらしいから、今だ一人の甥の貧乏をちつとは氣にして、どうかしてやりたいと思つてるのだ。親爺の臨終に頼まれたことを伯父も忘れてる譯ねえだから。小よしお前の蟲のいゝのはあきれたものだ。伯父さんは强慾の角を持つて棺桶の中へ入る氣でゐるんだよ。お前もいつも人のお情を手賴にしねえで、自分の腕一つで何かしでかす氣になれねえものかな。喜作だつておらこんなに働いてるでねえか。親爺が死んでからは、おら、二人前の仕事をしてるだよ。それで貧乏したとしたつておらの所爲ぢやあねえ。(稍々興奮して云ふ)小よしわしはこんなに細つこい身體してるのに、年中荒働きをさせられて。(不平らしく云ふ)喜作だから貧乏はおめえの所爲ぢやあねえや。お母あがあんなに長患ひをしたのがいけなかつたのかな。······おら、家の中に病人が出來るのは大きらひだ。親爺が病氣に取つゝかれた時から家の中にケチがつきだしたのだ。おらの家にや何處かに病氣が巢をくんでるん農村二日の出來事
ぢやなからうか。小よしわしも今年の夏は大病に取つかれさうな氣がしてならねえ。(顏を蹙めて胸を壓へながら)ホレ今も胸元がチクチクと針で突かれるやうに疼んでくる。喜作フントか。脅かすでねえ。今朝からいゝ氣持になつてゐたのに、脅かすでねえ。おらは病氣は大きらひだ(氣を變へて)さあ、もう一つ働きすべいか。喜作が鎌を持つて立上ると、小よしも隨いてゆく。彼等が舞臺から消えると、七造とその息子の仲吉とが刈つた麥束を背負つて出て來て、喜作夫婦の休んでゐたところに腰をおろして、汗を拭く。七造こりや喜サ公の車だな。(後を顧みて背伸びして)二人揃つて來てるわい。仲吉聲掛けるのは止して吳んな。(慌てゝ留めて)おら、あいつと會ふと仕事する氣になんねえから。七造あに云ふだ。仲吉何でもいゝだ。おら、あいつに會ふと仕事する氣になんねえ。お前が喜サ公と此處で脅かすでねえ。おらおら、あいつに會ふと仕事する氣になんねえ。お前が喜サ公と此處で話をしたけりや、おら、麥つ東も此處へ抛つぽり出して家へ歸るだ。七造あに云ふだよ。貴樣可笑しな奴だぞ。仲吉可笑しけや笑ふがいゝ。おら、あいつに會ふと仕事する氣になんねえ。七造貴樣は此の頃何とか文句をつけちや怠けようと思つてやがる。おらの年齡は今年いくちつだと思てゐる?荒仕事は貴樣にまかせて、おらは啣へ煙管で鷄の世話でもしてればいいと思つてるだに、貴樣はその若さで、この年寄りのおらに二人前も働かせようと思つてるのか、罰が當るぜ。仲吉おら、罰が當つてもいゝだよ。首へでも足へでも、だ(自棄に云つてうしろを顧みる)七造(考へて)さう云へば喜サ公はこの頃おらの家へ遊びに來ねえが、ひでもしたのか。仲吉七造喜サ公は人といさかひするやうな男ぢやねえが、ハテナ。首へでも足へでも、罰の當りたいところへ當りやがれ貴樣は喜作といさか喜サ公は人といさかひするやうな男ぢやねえが、ハテナ。農村二日の出來事······(ニヤリと笑つて)貴樣
はあれの嚊あが美ましいのか。あんなお多福面があにが羨ましいだか。貴樣の嫁には小よしよりも何層倍もの容色よしを連れて來てやらあ。仲吉(極り惡るさうに)そんな容色のいゝ女は何處にゐるだな。B七造この村には醜い面した女ばかりだけれどな。他所の土地には美しい女が數へ切れんくらゐゐらあ。貴樣も精出して稼いだら、おれが他所の土地からいゝ嫁を連れて來てやらあ。§おめえは喜サ公よりは何層倍もいゝ男だ。あんな者を義むにや當らねえ。(ひとりで興がつて云ふ)仲吉(眞面目に)お前の云ふことは嘘ぢやなからうな。七造あにが嘘なぞ吐くものかハヽヽさあソロ〓〓出掛べえ。(立上らうとする)仲吉おら、もつと休んで行かう。腰つ骨がだるいだから。七造これつばかりの荷を背負つて腰も足もだるいつてことがあるか。此間うちの雨でなまけ癖がついたのだな。今日のやうなたまのお天氣に、若い者が愚圖々々してゐちや冥利が盡きらあ。······さあ出掛けべい。(仲吉の背をつゝいて促す)そこへ、守つ子が背へ赤ん坊をしばりつけて出て來る。子守喜作さんはゐねえかの。七造あしこにゐらあ。(後を指差して)喜作に用があるのか。子守お客が來たから大急ぎで歸つて來いとあしこのお婆あに言傳つたのだ。七造どんなお客だ。子守どんなお客だか、わしや知んねえだ。(子守が奧へ入ると、七造父子はその後を見送る。)七造喜サ公はおらの方を見てらあ。·····あちらの路を驅けて行つた。(仲吉の方を見て)おいらも出掛けべえ。仲吉おら、もつと休んで後から歸らう。お前一人で先きへ行つといて吳んな。直ぐにあとから追付かう。七造氣儘な奴だな。早く歸らねえと、お八つの團子をおら一人で喰つちまふぞ。七造が麥束を背負つて歸つて行く。仲吉は暫く動かないで、後を顧みたり空を見上げたりする。ふと何かを見つけて石を投げたりする。農村二日の出來事お前一人で先きへ行つといて吳んな。直ぐにあと
そこへ子守が再び現はれる。仲吉オイ、此處で休んで行かねえか。いゝ話聞かせてやらあ。子守(背の子を綾しながら仲吉の前に立つて)お爺は家へ行つたのか。仲吉むん。おらお前を此處で待つて居たゞ。お前と一しよに歸らうと思つて。·····いやかい。子守わしと一しよに歸つてどうするだよ。仲吉お前にこの麥を背負つて行つて貰はうかと思つてるだ。子守この子を背負つてる上に麥が背負へるか背負へねえものか、考へて見るがいゝ。(せゝら笑つて)一人でそんなずるいことを考へてゐたのけえ。だから人がお前の事を利口者だつて云ふんだよ。仲吉背負つてる子が邪魔なら、そこの溝の中へでも抛込んだらよかつべえ。子守呆れたこんだ。この子はお前の子ぢやねえだよ。仲吉極つてらあな、おらの子ならそんな汚ねえ面して生れちや來ねえ。······お前もそんな·····いやか······お前もそんな汚ねえ面して、ギア〓〓泣きやがる餓鬼は小うるさくてたまんねえだらう。溝の中へでも抛げ込んでしまひねえ。子供が背中であばれてひとりでに落ちてくたばつたと云やあ言譯が出來らあ。おら手傳つてやるべいか。子守(思はず後退して)本氣でそんなことを云ふのけえ。おつかない人だよ。(子供を庇ふやうな身振をする)仲吉ハヽヽヽヽおら、そんなおつかねえ人間ぢやねえだ、おら、あいつを溝の中へ叩込んでやりたいと思つてもどういふものだか叩込めねえんだ。子守あいつと云つて誰のことだい。仲吉誰のこんでもねえ。おら一人でさう思つてるだよ。······お前はしよつちう背負つてるその餓鬼が背中から溝へでも谷へでも落つこちたら、身が輕くなつていゝだらうにと、たまに思ふこたねえのか。お前のやうな細つこけた身體に、そんな肥つた餓鬼を縛りつけてゐちや、重かんべえと思はれてなんねえが······子守この子は見かけよりや重いんだよ。それに一日々々重つたるくなるやうで、わしや難農村二日の出來事おつかない人だよ。(子供を庇ふやハヽヽヽヽおら、あいつを溝の中へ叩込わしや難
澁してるだよ。仲吉それ見ろ、その子さへなけりや、お前も子守なんぞしなくつてもいゝんだぜ。そんな身體の壓石は、早くとつちまひたいと、お前も思はねえことあるまい。子守この子を壓石だなんて云はうものなら、この子のお母さんにどやされるだよ。·····お前がそんな事を云つたから、この子が急に重くなつたゞ。(子供が泣き出す)うるせいよ。泣くでねえつたら。泣くと溝の中へ抛込むぞ。子守は邪慳に子供をあしらひながら入つて行く。仲吉オーイ。おらの麥背負つちや吳れねえんだな。さう叫んでから、首垂れて物を考へてゐたが、やがて立掛けると、そこへ、小よしが刈つた麥束を背負つて入つて來て、荷車に積まうとして、ふと、氣味の惡い目で此方を見てゐる仲吉を見る。小よし仲さん一人けえ。······お天氣が續くといゝがの。仲吉お天氣になつたから忙しいだらう。お前も一人かい。そんな·····お小よし喜作は急用で家へ行つたのだ。もう歸つて來るだらう。麥束を置いて行きかけると、仲吉が、「小よしさん」と聲を掛けて呼留める。小よしは足を留める。訝しげな目付で相手を見るので、仲吉はちよつと口が利けないやうである。小よし何かわしに用事があるのけえ。仲吉用事つてねえだけんど、おらお前に約束したことを思出したゞ、小よし(警戒するやうに)わし、お前に何も約束された覺えはねえだよ。仲吉お前は忘れつぽい女だな。おらが牛の子を牽張つて荒尾が原で草を喰はせるところへ、お前やお久がやつて來て、おらを揶揄つたことがあつたぢやないか。その時、おら牛を育てゝいゝ値で賣れたら、お前やお久に何でも欲しい者を買つてやると云つたのだ。さうすると、お前達二人は、帶だか衣服だか指環だか、欲しさうな者を喋舌くつて、口先だけで喜ばせといて、その時になつて知らん顏しつちや承知しねえつて、二人で云つてたぢやないか。おら、よく覺えてるのだよ。小よし(昔を思出して懷かしさうに)そんなこともあつたつけな。だけどそりや何年も前の農村二日の出來事だけどそりや何年も前の
古いこつちやないか。······今は牛の子も親も一匹もお前の家にやゐないぢやねえか。仲吉疾つくに賣飛ばして、牛の小屋は物置きになつてらあ。小よし(戯談らしく)お前が自分で約束したこと覺えてゐるんなら、牛を賣飛ばした時分に、なぜわしやお久さんに欲しい者買つて吳れなかつたのだい。仲吉牛はわしが育てたんだが、賣るとなると、わしの氣儘にやならねえのだ。それにな小よしさん。お前は知つてるかも知んねえが、家にや蔦屋に借金があつて、抵當になつてる田地を取られるのがいやなら、牛でもみんな賣つちまはにや片がつかなかつたんださうだよ。おら、田地なぞどうでもいゝから、牛は殘しといて吳んなと、父ちやんにさう云つたのだが駄目だ。先祖の田地は賣れねえつて老人が云やあがるんだ。おら爲樣がねえと諦めたが、その時から畝の仕事はいやでなんねえのだ。······あんだつて家に借金があるだか、借金のためにあんだつて田地を取られなきやならねえのか、おらには譯がよく呑込まれねえだよ。······おらはやつぱり知慧が足りねえんだな。小よしそれで、牛のかはりに鷄を飼つてるのけえ。よ。仲吉おら鷄の世話なぞしねえよ。小よし牛を飼ひたけりや、稼いでお金儲けに何匹でも買つたらいゝぢやないか。仲吉おらがどんな稼ぎをして金儲けするだね。年中野良で働いてゐたつて、牛の子一匹買へる錢は殘りやしねえ。お前に約束した者を買つて上げる當てもねえだよ。小よしお前は見掛けによらない義理堅い人だね、(笑つて)わしはそんなことを當てにしてやゐねえから安心してゐなさい。お久さんはお墓の中へ入つてるから、衣服も帶もなんにも入らないだらうし······(ふと感動したやうに)さう云へばお久さんは可哀さうなことしたでないかね。子供の時分には、わし誰れよりもあの人と仲よしだつたのに。仲吉お久が若くつて死んだのを、お前は可哀さうに思ふんかい。おら、さう思はねえだ。自分の思ふやうにならないぐれえなら、早くくたばつた方がいゝと、おら思つてるだ。おら、牛の子一匹飼ふことが出來ねえし、お前に約束した者を買つて上げることも出來ねえし、麥秋を濟ましたあとぢや、田植ゑだの田の草取りだのしなきやならねえと思ふと、お久のやうにコロリと早く死んぢやつた方がいゝと思ふだ。おら、こんな刈つた麥を背負農村二日の出來事
つて、畝から家へ行つたり來たりするために生きてゐたつて、ちよつとも面白かあねえ。小よしそれや誰れだつておんなじことだよ。わしだつて、細つこい身體してこんな荒仕事をしてゐちや長生したくつても出來ねえだらうよ。喜作だつて算盤の取れねえ畝作りばかりしてゐたつて面白かあるまいよ。誰れだつておんなじこんだけれど、お久のやうに若死はしたかあねえだよ。仲吉喜サ公はいゝだ。喜サ公とおらとは違ふだから。(愁然とする)小よし仲さんは今日は心配事でもあるのけえ。仲吉心配事はねえけんど、おら生きてゐたつて面白くねえだ。小よしお前のやうに身體が頑丈で獨身なら、東京へでも何處へでも稼ぎに行けるだらうからいゝだらうにな。喜作を見なさい、病身なお母あやわしが邪魔になつて、他所へ行きたくも行けねえのだよ。仲吉なあに喜サ公はいゝ。いつも悅しさうな顏してらあ。B小よしあの泣き面が悅しさうに見えるのけえ。(輕く云つて、荷車の側へ寄つて獨言のやう(愁然とする)に)早く來て吳れなきや困るのに。わしには車は牽いて行けないし。仲吉おら牽いてやるべい。仲吉は自分の麥束を荷車に載せて、車を持ち上げる。小よし止して吳んな。氣の毒だから。仲吉なに構はねえ。家へ歸る次手だから。仲吉は欣然として荷車を動かしだしたので、小よしは後を押しながら行きかけると、そこへ喜作が急足で入つて來て、仲吉の擧動を見て呆氣に取られる。仲吉も足を留めていやな顏をする。小よし仲さんも剽輕ぢやねえかな。人の車を牽かうて云ふんだもの。(何氣なく云ふ)喜作おらが來たからもういゝだよ。(無愛想に云ふ)仲吉おら、自分の分だけ持つて行くべい。仲吉は自分の麥束を荷車からおろして背負つて、詰らなさうにして出て行く。小よしあの人變な人だ。やつぱり人の云ふやうに、ちつとべい拔けてるのか知らん。農村二日の出來事わしには車は牽いて行けないし。車を持ち上げる。(何氣なく云ふ)詰らなさうにして出て行く。ちつとべい拔けてるのか知らん。
喜作あいつはお前にどんなことを云つたゞ。云つて見ろよ。小よし(氣に留めないで)それよりも、お客は誰れが來たのけえ。やあるまいな。5喜作來たのは伯父ぢやねえが、伯父が來たのも同樣だ。(泣きつ面をする)小よし(夫の顏に注意して)わし、ケチをつけるぢやないけれど、誰れもいゝことを知らせに來たのぢやあるまい。だから朝から當てにしない方がいゝと云つてたでねえか。(非難するやうに云ふ)喜作(怒りを含んだ口調で)おめえはおらにいやな思ひをさせて、自分でいゝ氣持がするのか。今日のお客はな、伯父が是非おめえとおらと二人連れで來いと言傳をしたつて、わざミわざ知らせに寄つて呉れたのだ。その言傳てをおめえに知らせて喜ばせべいと思つて急いで來たのに、おめえは聞かねえさきから、おらにケチをつけるだな。小よしお前こそ何をそんなに怒つてるだ。(怒りを含んだ口調)わしはな、眞壁の伯父さんに呼ばれたつても、お前に隨いて行く氣はねえだよ。まさか眞壁の伯父さんぢ喜作一しよに行く氣はねえだと。······伯父はな、歲を取つたので、一人の甥が可愛くなつて、どうせあの世へは持つてかれねえ身代を今のうちにおら達に配けて吳れようつて腹なんだ。それでおらとおめえと一一人を側へ呼んで、おら達が喜ぶ顏を見たがつてるんだ。それにちげえねえとおら思つてるのに、おめえは、伯父の側へ笑顏を見せに行きたくねえと云ふんだな。小よしわしは棚からボタ餅の落ちるやうなこと當てにしねえだから。······この頃の野良仕事だけで、手足は拔けさうにだるいのに、山坂越えて眞壁まで、どうして行く氣になれるものか。喜作分らねえ奴だ、勝手にしやあがれ。てめえがさういふ氣なら、今日から畝の仕事なんぞして貰はんでもいゝんだ。麥一本刈つて吳れなくつていゝんだ。······見ろ。かうして吳れべい。喜作は荷車の上の麥束を摑んでは投げ〓〓して、つひに荷車を溝の方へ倒す。小よしは呆氣に取られて見てゐたが、農村二日の出來事今日から畝の仕事なん······見ろ。かうして吳つひに荷車を溝の方へ倒す。小よしは
小よし氣が狂つたのけえ。歸つてお母あにさう云つたら、お母あが杖をついて拾ひに來るだらうよ。わしやお前の抛出したものを拾つて廻るのはいやだ。小よしは怒りと冷笑とを含んだ目で夫を一瞥してサツサと出て行く。喜作は一時の激しい興奮のための息苦しさを現はして出て行く。仲吉は再び現はれる。ニヤリ〓〓笑ひながら一一人の後を見送つてから、面白さうに荷車を元のやうに直して麥束を元のやうに車に積む。そこへ七造が入つて來る。七造馬鹿め、まだ此處にゐたのか。此處であにしてるだ。仲吉おら、さつきそこの麥畝の中へ隱れて面白いもの見てゐただよ。お前にも見せたかつたぐれえだ。喜サの野郞、何が氣に入らねえだか、麥つ束を取つちや投げ〓〓して大あばれにあばれてゐただよ。喜サは嚊あを好いてゐねえのかな。七造馬鹿め。貴樣は自分の仕事を抛つちらかしといて、他所の夫婦喧嘩の後始末をするのか。·····さあ來い。晩までにや刈つちまはにやならねえ。喜作は一時の激し面白さうに荷車七造が急立てるのを、仲吉は振切つて、荷車を曳出さうと身構へをする。仲吉喜サ公の家へ運んで行つたら、直ぐに歸つて來るよ。七造何だつてそんな馬鹿な眞似するだ。忌々しさうにざう云つたが、强ひて引留めようとはしないで、そこへ蹲んで、して煙草を吸ひながら、疲れてゐる風で呆然としてゐたが、一服吸ひ終ると、て眠りに就く。(株)煙管を出横になつ喜作の家の庭。藁葺きの粗末な納屋の前には莚が敷かれて、麥が干されてゐる。喜作の母親のおたきが埃だらけの顏して、ヨボ〓〓した足取りをして出て來る。納屋への途をつくるやうに、莚をどけてゐるところへ、仲吉が荷車を牽いて入つて來たので、吃驚する。仲吉(車をおろして)伯母さん、この頃は丈夫になつたのけえ。農村二日の出來事この頃は丈夫になつたのけえ。
おたき丈夫でもねえけんどな。(仲吉の方をじろ〓〓見て)仲さん其車はどうしたのだな。仲吉(汗を拭きながら)これはの······お前さんところの麥だから、納屋の中へしまつときなさい。車ごと途中に落ちとつたから、おらが拾つて來て上げたのだ。(あたりを見て)喜サ公はまだ歸つて來ねえんだな。おたき喜作はさつきお客に會つて話をして、直ぐに野良へ出掛けたのだ。お前に車の世話を賴む譯はねえと思はれるだが······仲吉おら別段喜サ公に賴まれた譯ぢやねえが、お前んとこの麥だと思つたから、自分の仕事を抛つちやらかしといて、わざ〓〓此處まで運んで來たのだ。お前とこで入らねえのなら、おらの家へでも持つて行くべえ。おたき仲さん何を云ふだ?お前いたづらをしたのだな。喜作が此方へ歸つてる間に、誰れにも斷らないでその車を牽いて來たんだな。さうとは知らないで喜作は心配して、車を捜してゐるだらう。仲さんも餘計なことをする人だ。(忌々しさうに云ふ)仲吉こんな暑い日に人の車を牽いて來てやつて怒られちや割に合はねえよ。直ぐに野良へ出掛けたのだ。お前に車の世話おたき勝手に惡ふざけをしといて、割に合ふも合はんもねえもんだ。お前、早く行つて喜作に知らせて吳んなよ。心配してゐるだらうに。仲吉おらいやだ、腰つ骨がだるくなつて、おら一足も歩くのがいやになつた。ちつとべい此處で休まして貰はう。(莚の端へ腰をおろして)おらは何だつて、賴まれもしねえのに、ジこんなものを引張つて來たゞか。腹が減つて腰つ骨がだるくなるばかりで、効のねえことだつた。おら、何が面白くつてこんな重い者を引張つて來たゞか。おたきお前もいゝ歲をして、性の惡い人困らせをするもんぢやない。餘計な口叩かねえで、早く行つて知らせて呉んなよ。仲吉だつて、おら一足も動く氣になれねえから爲樣がねえや。フントにおら、あにが面白くつて、自分の麥抛つちやらかして人の麥運んで來たゞか。おらにおらの量見が分んねえだ。おたき早く行かねえかよ。(怒を現はして、仲吉の背をつゝく)わしや足が丈夫なら、自分で行つて來るんだが。農村二日の出來お前、早く行つて喜餘計な口叩かねえで、仲吉の背をつゝく)わしや足が丈夫なら、自分
七八仲吉知らせに行きたけりや、お前行つて來ねえな。おら此處で留守番してゝ上げよう。腰つ骨がだるくつても、鷄を追拂ふことくらゐ出來らあな。おたきおのれ、わしを揶揄ふのかよ。この老人を摑まへて嬲り物にするんだな。仲吉糞面白くもねえ。皺くちや姿あを摑へて嬲つたつてあにが面白かんべい。おたきこの野郞、餘計な頰桁叩かねえで、サツサと歸つて行きやがれ。Cafe仲吉歸るなと云つたつて、いつまで此處にゐるものか。草臥れが癒つたら、お前に云はれなくつても歸つて行かあ。(落着いて云ふ)おたき(氣味の惡い目付で相手を睨んで、やゝ穩やかに)小よしが喜作の嫁になつたと云つて、逆恨みにおらの家を恨んでるんぢやあるまいな。仲吉恨んでるかも知んねえ。おら今日は、自分で自分の量見が分んねえだから。······自分喜サ公がの麥抛つちやらかして他人の麥運んで來て、あにが面白いだか。(獨言のやうに)腹を立てゝ麥つ束を抛つちらかしたのが、あんだつておらに面白かつただか。おたきおのれ、逆恨みに人を恨んで、こんないたづらをするんだな。腰お前に云はれ麥搔棒を振上げて脅す。仲吉は平氣な態度でその棒を奪取つて抛りだすとゝもに、ふと勢ひづいて來る。仲吉伯母さん見てゐなさい。喜サ公はこんな風にあばれてゐたゞよ。面白かつぺい。仲吉はさう云つて、麥束を取つては左右へ投げる。おたき憤怒の相をしてゐるのにも構はないで、やがて荷車を引くり返す。仲吉こんなことして面白いのか。おたき(憤怒から恐怖に變じて)仲さん、お前氣が狂つたのけえ。仲吉おら、喜サ公の眞似したゞけだ。だけどこんな眞似したつて面白かあねえ。······伯母さんは歲を取つてるから、人間は何したら面白いだか知つてるだらう。〓へて吳んなよ。おたきお前のやうな人を相手にしちやゐられねえだ。おつかねえ〓〓。(足を引摺つて出て行く)仲吉伯母さんどこへ行くだ。(と大聲で呼掛けたあとで獨言のやうに)誰れか呼んで來ておらを追拂はうと思つてるんだな。勝手にしろよ。農村二日の出來事仲吉は平氣な態度でその棒を奪取つて抛りだすとゝもに、ふと誰れか呼んで來てお
仲吉はそれを見つけて急おたきの出て行つた方とは違つた方から小よしが姿を現はす。にニコ〓〓した顏する。仲吉お前一人で歸つて來たのか。小よし(沈んだ顏して)わしはさつきから、お前のすることを見とつたのだ。お前も馬鹿な眞似するでねえか。仲吉それで喜サ公はどうしたゞよ。小よしどうしたゞか、わし知んねえけんど。仲さんは早く歸つて吳んなよ。お前が何時までも此處にゐちや、わしが困るだから。仲吉なぜ、おらがゐちやいけねえ。······おらがお前と話をしてゐたのが喜サ公の氣に入らねえのか。それなら、おらの方で云ふことがあるだ。(ふと高い聲を出す)小よし(慌てゝ相手の聲を止めるやうな手振りをして)靜かにしてお吳れ、後生だから。それで今日は早く歸つて吳んな。話があるなら、外の日にわしが聞いたげる。こんな處で愚圖々々してるとお前のためにもならねえだ。お前のすることを見とつたのだ。お前も馬鹿な仲さんは早く歸つて吳んなよ。お前が何時まそ仲吉仲吉おらあ、誰れをも恐れることねえけんど、おらがゐてお前が困るなら歸ることにしよう。畝へは行かないで家へ歸つてひとりで寝るとしべい。いくらお天氣がよくつても、おら今日は働く氣ちつともねえだ。······どりや出掛けべいか。仲吉は大儀さうに立上り、小よしが散らかつてゐる麥束を始末して納屋の中へ運ばうとしてゐるのを顧み〓〓行きかける。そこへ、喜作は魚籠を提げて歸つて來る。仲吉を見ると意外にも笑顏をして、喜作茶でも飮んで行きなよ。ちよつと話したいことがあるだ。仲吉(不思議さうに)おらに話があるんだと。仲吉は足を留める。小よしも不思議さうに二人の方を顧みる。喜作は莚の端へ腰をおろす。仲吉も側へ腰をおろしながら、魚籠をのぞく。仲吉泥鰌だな、お前が取つて來たのか。······ビチヤ〓〓跳てやがらあ。喜作幾造に貰つたんだが、おら料理するのがうるさいから欲しけりやお前にやらう。持つて行きな。農村二日の出來事喜作は莚の端へ腰をおろ持つ
仲吉貰つて行つてもいゝのけえ。吳れるのならおら遠慮はしねえだ。貰つて行くべい。喜作持つて行きねえ。······だが仲吉、おらはお前を惡く思つたことはねえだから、お前もおらを惡く思はねえやうにして吳れろよ。仲吉話したいことゝいふのはそんなことか。おらもすき好んで人を惡く思ひやしねえよ。だけど喜サ公。人を惡く思ふのも善く思ふのも自分の氣儘にならんものだと、おら思ふだよ(考込んだ目付きをして)お前もおらを嫌つてるやうだが、おら誰れに嫌はれてもいゝだ。喜作おらはお前を嫌つてやしねえよ。仲吉ぢや、おらと仲よしにでもなりねえな。······だけど、喜サ公、先つきお前が麥つ束を地べたへ叩きつけてるのを見て、おら小氣味のいゝ思ひしただよ。おら父ちやんに追立てられて、爲樣事なしに野良へ出るには出てるけんどな。おら野良の仕事なんぞしたかねえだ。麥を作つていくらになるだよ。田圃つくることおらには面白くねえだ。こんな物を作るために何時までも苦勞な思ひさせられると思ふと、おら、麥つ束を地べたへ叩きつけて踏んで〓〓踏躙つてやりたいと思ふだよ。お前さう思はねえか。喜作貴樣は呆れたことを云ふ。百姓が麥米を粗末にしてどうするだ。罰が當るだよ。仲吉だつて貴樣も麥つ束を地べたへ抛り出して車をひつくら返してゐたぢやねえか。罰が當つてもいゝのか。喜作(極りの惡さうに)あの時や魔が差したのだ。おら惡いことしたと後悔してるだよ。今日はお天氣はいゝし、いゝ音信が聞かれたのだから、晩まで一生懸命に働いてあしこの麥だけは刈つちまはうと思つてゐたのに間が惡くつてあんな狂人見たいな眞似をしたゝめに、氣が腐つて仕事する元氣もなくなつていけねえ。おらの身に罰が當つたのだよ。喜作はさう云つて、ふと小よしの方を顧みる。小よしは仕事の手を止めて、麥つ束の上に腰をおろして浮かぬ顏して、二人の方を見てゐる。仲吉いゝ音信つて何だな、金になることけえ。おらの所へは、昔からいゝ音信なんぞ來たことねえだよ。喜作お前は獨身だから、百姓がいやなら東京へでも何處へでも稼ぎに出掛けたらいゝぢやねえか。町へ行きやいゝ稼ぎが出來ると云ふでないか。農村二日の出來事罰が昔からいゝ音信なんぞ來た
仲吉先つき小よしさんも、おらに東京へ行けと云つとつた。二人でそんなことを勸めるのは、おらがこの土地を出て他所で暮すのが、お前達のために都合がいゝのか。(あたり前の口調で云ふ)喜作(ドギマギして)そんなことがあるものかよ。お前のためを思つて云ふんだ。仲吉おら、東京へも何處へも、町へ行つたことねえから分んねえけんど、他所の土地へ行くのはおつかねえだよ。喜作(笑つて)臆病だな貴樣も。今日の世に、日本中何處へ行かうとも、ぢやないか。まてに稼ぎさへすりや、誰れにも意地めらりやしねえや。仲吉(考へて)······お前に云はれたゝめぢやねえが、おら、そのうち他所の土地へ行く氣になるかも知んねえ。······だけどな喜サ公、おらこの村を出る時にや、一つ胸の晴れるやうなことをやらかして出て行きたいと思ふだよ。喜作どんなことしたら貴樣の胸が晴れるんだ。人に嫌はれることをすりやしめえな。仲吉どんなことしたら、おらの胸が晴れるだか、われとわが身で分らねえだ。おら、これおつかねえ譯ねえこれから家へ歸つて、この泥鰌を料理して酒を飮んでよく考へて見べいよ。(ふと氣がついたやうに)今から家へ歸つて酒なんぞ飮む譯にや行かねえ。おらの父ちやんは煩せいだからな。日の高いうちからおらに氣儘をさせときやしねえだよ。······だからよ、喜サ公、お前の家で飮まして吳れねえか。おらこれから料理をして自分で酒も買つて來るだ。久振りでお前と一しよに飮んでもいゝだよ。······お前んところにや親爺がゐねえからいゝ。喜作おらは今から酒なんぞ飮んぢやゐられねえ。喜作もいやな顏をする。小よしもいやな顏をする。仲吉(二人の顏付には氣を留めないで)お前がいやなら、おら一人で食つて一人で飮むだ。臺所だけ貸して吳んな。仲吉は魚籠を持つて納屋の横から入つて行く。小よしは稍々手足をのび〓〓させたやうな態度をする。小よしお前はあんな狂人染みた眞似したあとで何處へ行つてゐたゞよ。喜作おら、一人で眞壁の伯父んとこへ行かうと思つて、よつぽどそつちへ行きかけたのだ農村二日の出來事おら一人で食つて一人で飮むだ。
が、幾造に會つて話をしてるうちに、家の事が氣になつて戾つて來たんだ。小よし幾さんがなぜ泥鰌なんぞ吳れたのだい。喜作おらに賴みていことがあると云ふんだ。小よしあの娘を預つて吳れと云ふんだらう。子守にやつてもよく勤まらないさうだし、家に置いちや、繼母との折合が惡いだから、わしの家で使つてくれと云ふんだらう。それで、お前承知したのけえ。喜作ハツキリ承知した譯ぢやねえ。小よしなぜキツパリ斷らねえのだよ。そんな氣が弱いことでどうなるだ。······それに、折角貰つた泥鰌を仲さんに遣るつてことがあるものか。喜作おら仲吉を怒らせたくねえだから。小よし(嘲笑ふやうに)······お前のやうな甲斐性無しつたらありやしない。お前は仲さんの前で頭の上らねえ譯があるのけえ。喜作そんな譯はねえ。だけど、あんな男は成べく怒らせねえようにした方がいゝんだ。お······それに、折お前は仲さんのおら人と喧嘩すること大きらひだから。小よしそんなに氣の弱いくせに、よくあんな亂暴な眞似が出來たものだ。わしあのくらゐなことで脅かさりやしねえだよ。喜作(しをれて)おら、馬鹿な事をしたものだ。後悔してるだ。誰にも云はねえやうにして吳れろよ。小よし馬鹿らしくつて人に話せるものかい。(深く感じてゐるやうな口調で)わしはな、喜サさん。仲さんがさつき云つてゐたことが本當のやうに思はれてならねえのだよ。寒さ暑さにいぢめられて田圃作つたつて、苦勞の甲斐がねえと、仲さんの云つたことは嘘でねえと、わしには思はれるのだ。······人に勸めるばかりが能ぢやねえ。お前も、こんな麥つ束は泥溝へでも叩込んで、東京へでも行かうつて氣にならねえのけえ。喜作おら一人で東京へ行けつて云ふのか。小よし女を連れてつちゃ手足纏ひで、存分な稼ぎが出來ないだらうから、わしや老母は抛つといてお前一人で行つたらいゝぢやねえかな。農村二日の出來事わしあのくらゐ後悔してるだ。誰にも云はねえやうにしてわしや老母は抛
喜作行け〓〓とやたらに勸めても、當てのねえのに東京へ行つてどうするだ。(不機嫌さうに云ふ)それよりも眞壁の伯父の家へ、二三日うちに行かなきやなんねえだよ。小よし伯父さんなぞ何が當てになるものか。當てのない東京へ行くのが馬鹿なら、當てにならない伯父さんの家へ行くのは、なほの事馬鹿だ。喜作あにが馬鹿だ。(腹立たしくなるのを壓へながら)おらを他所の土地へ稼ぎに行かせてお前はあとで何して暮すつもりだ。ひとりで野良を稼ぐのか。小よし二人がゝりで稼いでも手おくれになるものが、女一人でどうして稼げるものかよ。それにわしは身體が弱いだもの。さつきから胸がチク〓〓疼んでならねえだ。喜作だからよ、身體の弱いお前や、歲を取つたお母あを置いといて、おら一人で他所へは行かれねえぢやないか。(立上つて)こんな無駄な話してるうちに日が暮れらあ。どりや一つ働きして來べいか。(つとめて元氣よく云つて、小よしを促すやうに)おらの家は仲公の家とはちがつてるで、何も苦にすることねえだから、餘計な事云つて迷ふには及ばねえだ。(奧へ向つて)おら達は野良へ行つて來るだよ。料理するのはいゝが、家のなかを汚さな當てにいやうにして吳れろよ。喜作は荷車に手を掛けて出掛けようとしたが、小よしは動かない。喜作おい、出掛けねえのか。小よし默つてゐる。喜作お前はおら一人を働きに出しといて、仲公と酒でも飮まうと思つてるのか。(聲を潜めながらも激して云ふ)小よしわしがいつ酒を飮んだだ。喜作だからおらに隨いて來いよ、荒い働きをさしやしねだ。小よしは不承々々に喜作に隨いて行く。喜作は、空車を挽きながら、仲吉のゐる臺所の方を振返つて出て行く。車の音が消えると、仲吉は納屋の横手から顏を出して二人の後姿を見送つたが、ふと、驚いて納屋の中へ隱れる。七造が入つて來て、あたりを見廻しながら舞臺を通つて納屋の橫手から出て行く。やがて再び入つて來て、そこへ、子供を背負つて來合せた子守に向つて、農村二日の出來事小よしは動かない。(聲を潜め
七造お前は仲吉が何處にゐるか知らねえか。子守わし知らねえだ。仲さんがどうかしたのけえ。は七造(心配さうに)この家へ來てあばれたつて、ここの婆あがおらに怒つてゐたのだが、處へ行きあがつたのか。子守仲さんはこの頃は、小松屋へよく遊びに行つてるだよ。らこの子に飴を買つて吳れたゞよ。七造ぢや、小松屋へ行つて見べい。お前も仲吉を見付けたら、何この間わしがあしこへ寄つたお前も仲吉を見付けたら、おらに知らせに來て吳れろよ。子守うなづく。七造は出て行く。子守が納屋の横手から家の方へ行かうとするところへ、仲吉は納屋から出て來る。子守仲さんは此處にゐたのけえ。(不思議さうに見る)仲吉お前はうまい事を云つて父ちやんを歸して吳れたな。これから一杯やらうて所へ親爺なんぞに來られてたまるものぢやねえ。······お前が此處へ來たのは丁度よかつた。川口屋へ行つて.おらに賴まれたと云つて酒を二合ばかり取つて來て吳れろよ。お前の使ひ賃はあとで屹度やるだから。子守ホントに使ひ賃吳れるのなら、酒を買つて來て上げてもいゝけんど、(奧を覗いて)喜サさんも誰れも家にやゐねえのけえ。仲吉誰れもゐねえだ。おらが留守番してるだ。······喜サ公に何か用事があるのけえ。子守直ぐに返事を聞いて來いつてわし賴まれて來たのだけど、困つたなあ。仲吉どんな用事だ。おらに云つとけよ。子守お前に云つちや惡かんべい。仲吉なに惡いものか。おら喜サ公に賴まれて留守番してるだから、おらに云ふのは喜サ公に云ふのも同んなじこんだ、子守家のお旦那が、今夜喜サさんと主婦さんに御馳走するから仕事が片付いたら、晩餐は喰はねえで·二人連れで直ぐに來て吳れと云つてゐたよ。仲吉(忌々しさうに)何の因緣があつて、蔦屋ぢや喜サ公夫婦に御馳走するだ。農村二日の出來事お前の使ひ賃はおらに云ふのは喜サ公晩餐は
子守お旦那は喜サさんを好いてるだから。」仲吉喜サ公があしこのお氣に入つてゐたつても、嚊あまで呼ばれる譯あるめえ。子守譯があつてもなくてもお前の構つたこつちやないよ。仲吉おら、蔦屋に借金拂ひするために、牛の子をみんな取られたゞよ。あれがみんな育つてゐたら、今時分でかくなつて、おらもこの近在でいばつてゐられたのだ。西川の原はおらの牛を放飼ひにするにいゝとおら思つてゐたゞからな。(子守の笑つてゐるのを見て)おらが牛の話をすると、お前も笑つてゐるな。···おらが牛の事を云ふと、みんなが馬鹿にしやあがる。子守牛や豚はきたねえから、わしきらひだよ。この間この子の飮んでる牛の乳の殘りを、わし飮んで見たけれど、變な味がしてへどが出さうだから、二度と飮まうとは思はねえよ。仲吉その餓鬼の方が牛の子よりや汚いぢやないか。······早く酒を買つて來うよ。子守ぢや、使賃を先へ吳んな。仲吉今は持つてゐねえや。おらは嘘は吐きやしねえ。大丈夫だ。大丈夫だ。子守當てにならないけど、行つて來て上げようか。子守が行きかけると、擦違ひに、寅太郎(仲吉よりも一層逞ましい男。垢染みた單衣を着て、風呂敷を背負つて下駄を穿いてゐる)入つて來る。仲吉は不思議な人を見るやうな目付してその男を見る。子守もちよつと振返つて、不思議さうにその男を見てから出て行く。寅太郞(仲吉に挨拶して、少し大柄に)お前さんは喜作さんだね。仲吉······(こいつ變な奴だといつた風で相手をマヂ〓〓見ながら默つてゐる)寅太郞わしは眞壁の寅太郞だよ。ここの伯母さんに會へば直ぐに分るんだから、さう云つてお吳れ。今伯母さんや伯父さんはゐないのかい。仲吉(無愛想に)ゐないよ。寅太郞死んだのぢやあるまいな。仲吉死にやしねえ。寅太郞(莚の上へ腰を下して)わしも今日は長途を步いて疲れた。···今日はお前の外にや農村二日の出來事さう云つ···今日はお前の外にや
誰れもゐねえのか。仲吉寅太郞わしは親爺と喧嘩をして家を飛出してから、大阪へ行つて神戶へ行つて、荷揚人足にもなつたし、いろんなことをやつたよ。それから朝鮮へも渡つて二三年藥賣りをやつた。一時は小金かが出來たので、自分で小さな店を出したこともあつたのだが、火事に會つて元も子なくしちやつたのでね。また日本へ戾つて、手當り次第にいろんな事をやつたのだ。たまにや運が向きかけたこともあつたが、よくなりかけると災難に會つて、子供にや死なれる、嚊には逃げられる。身代はすつちまうし、わしも他〓で働くのがつく〓〓いやになつちやつたよ。相當の金が出來たら女房子を連れて、生れ故〓へ歸つて來よう、それまで:は村の土地は一足も踏むまいと思つてゐたのに、こんな樣で、お前の所へも土產一つ持たないで來ることになつた。家を出てから、二十年にもなるんだから、村は變つてるだらうな。······村へ歸るまでに、お前の家の樣子なんぞ聞いたり、旅の垢を落して小サツパリした氣持になつて歸ることにしようかと思つたりして、此家へ寄つたのだよ。仲吉眞壁は今も昔も同じことだ。お前は二十年も方々で働いてゐたと云つてゐながら、懐ろへ札の束を捻込んでもゐねえで、そんなざまをして、村へ歸つて來たのか。眞壁なぞへ歸つたつてちつともいゝことねえだ。そんな無駄なことするよりや、これから、も一度出直して大阪へでも朝鮮へでも行つて、もう一稼ぎして來るがいゝ。寅太郞お前はわしにもう二十年働いて來いと云ふのかい。わしにはそんな根氣はないよ。もう二十年經つたらわしは六十になるんだ。······わしが眞壁の家を親爺と大喧嘩をして出た時にや、お前もまだ五つか六つだつたから、わしの顏は覺えてゐないだらうが、お前の兩親はわしをよく知つてるよ。わしが會つたら喜んで吳れるにちがひない。仲吉根氣がねえと云つても、お前はそんな大い身體をしてるぢやないか。腕つ節も强さうだ。寅太郞わしは腕一つで世を渡つて來たんだからな。力業なら何でもやつて來た。親爺と喧嘩した時は口の先の言合ひばかりだつたが、他所へ行つちや口の喧嘩だけぢやすまないよ。わしの此の腕は、三人や五人の生命を取つてるんだ。わしの身體に生疵の絕えない時もあ農村二日の出來事
つたのだ。(自慢さうに云つて脛をまくつて見せて)この傷はな、わしが十年前に神戶で五六人のゴロツキを相手に大喧嘩をした時の傷疲た。出刄で抉られたのさ。仲吉よつぽど痛かつたらうな。お前はそんなひどい目に會ふほど他所の土地で苦勞してゐたのに、金は儲らなかつたか。·····金を儲けねえで、そんなざまをして村へ歸たつて、誰れもお前を相手にすりやしねえよ。······おらも他所の土地へ行くことは止しにすべい。お前のやうな身體してゐても金にならねえのなら、おらも駄目だ。二十年の間も遠い所へ行つて稼いでも、お前のやうなざまをして歸つて來なきやならんのなら、おら行きたくねえだ。寅太郞(不機嫌らしく)わしもお前の身內の一人だよ。久振りに歸つて來たものを冷かすものぢやないよ。仲吉お前が眞壁へ歸つたつて、みんなに馬鹿にされるばかりだ。この家へ泊つて皺くちやはの婆あに會つたつて詰らねえや。おら惡いことは云はねえ。今に酒が來たら飮ませるから、一杯飮んで、どこへでも出て行きねえな。久振りに歸つて來たものを冷かすも寅太郞さうか(憤怒と失望を現はして)お前はおれの零落れてゐるのを見て馬鹿にしてるが、わしには親爺がまだ生きてる筈だ。いくらわしが親不孝をして來たにしても、親爺だけはわしが生れ故郷へ戾つて來たことを喜んで吳れるにちがひないよ。仲吉うまいことを云つてるな、だけど親爺だつて當てになりやしねえ。おらの親爺はおらと喧嘩なぞしねえけんど、何云つても當にやならねえ。遙々親を慕つて歸つて來るなんて、お前も御苦勞さまなことだ。親だつて兄弟だつて、誰れがお前を相手にするものか。寅太郞(絕望した態で)喜作(と呼掛けて、〓みを帶びた目付で相手を見て)······ぢやお前はわしが看守を叩斬つて監獄から逃げたことを知つてるんだな。十年の餘も北海道の懲役へやられてひどい目に會はされたことを知つてるんだな。それでわしを寄付けまいとしてるんだな。眞壁の親爺からもわしを寄付けるなと云つて來たのか。······それならそれで、わしにも覺悟があらあ。······わしは、どうせ明日までこの娑婆にゐられるい人間だかどうだか分らないんだ。······監獄にゐるうちに、親爺だけの身內の者だのが懷かしくなつてならないものだから、どうせ監獄で歲を取つて死ぬるのなら、思ひ切つて生命がけで逃出農村二日の出來事
して、一目でもいゝ親爺に會つて、一言でも聲が聞きたくなつたのだ。自分の生れた家の中で蒲團の上で寢る譯に行かなけりや、せめて一晩は、自分の生れ故郷で野宿でもしたいと思つたのだ。それほどに思つて來たものを、お前はわしを一足も家へ入れまいとするんだな。親爺もさういふ量見なんだらう。······よし、それならわしにも覺悟があらあ。わしは、もう一度監獄へ追込まれてまで生きてゐやうとは思つてゐないんだ。仲吉はいよ〓〓不思議な人物を見てゐるやうに見てゐる。寅太郞わしは警察でも知つてゐない惡い事をいくつもやつてゐる。お前なぞ、一生肥つ桶を擔ぐより外に能のない人間は、夢の中にでも見たことのないやうなことをやつて來たのだ。土ぼせりをしてテテくノ溜めたお前だのの端た金を貰ひに來だのち勘ちがひするな。一生に一度の人情に負けて、北海道から此處まで警察の網の目を潜つてやつて來たものを、みんなして、除物にしやがるのなら、わしの方でも量見があらあ。どうせ死ぬに極つたわしの身體だ。仲吉(面白さうに)覺梧があるの量見があるのつて、どんなことだ。云つて見ねえな。十年どんなことだ。云つて見ねえな。十年も懲役に入つてた人間の覺悟を、おら聞いて見たいだよ。寅太郞耳で聞かなくつても目で見せてやらう。仲吉面白いな、見せて呉んな。寅太郎獰猛な面相をして、突如として仲吉に飛びついて、捻伏せようとして、寅太郞聲を立てると生命がないぜ。仲吉聲は出さねえ。(跳起きながら)おらを殺すのが、お前の覺悟か。馬鹿にしてやがらあ。寅太郞生命は取らんから安心しろ。·····監獄でわしが苦勞してゐたのを、貴樣だちはいゝ氣味だと思つてゐやがつたのだな。貴樣に最初會つたから、貴樣がわしの身內の總代だ。わしのすることを見て、あとで身內の奴にさう知らせろ。再び仲吉を捻伏せて、手拭で猿轡をくはせる。仲吉はさして抵抗しない。寅太郞は仲吉を引き摺つて納屋の側へ連れて行つて、そこに落ちてゐた繩ですばやく巧みに彼れの手足を縛つて、柱にしばりつける。農村二日の出來事捻伏せようとして、
寅太郞誰れかが歸つて來て解いて吳れるまで、ちつとの間そこで我慢してゐろ。わしはもう眞壁へは歸らないから、親爺なんかにさう云つとけ。仲吉うなづく。寅太郞わしはこれから貴樣の家のもので、わしの役に立つものがあつたら持つて行くから、あとで何か無くなつてゐたら、わしが持つて行つたのだと思つてゐろ。錏一文貴樣に貰つて行くんぢやない。わしの腕で取つて行くんだから、さう思つてゐろ。仲吉うなづく。寅太郞口惜しいだらうな。(惡魔的な笑ひを浮べて見る)仲吉首を振る。寅太郎わしが死刑になつたと聞いたら、みんなして喜べよ。わしの顏はこれから何千年立つてもまた見られないんだから、よく見て置け。日本中を荒らした面だぜ。出來るだけの獰猛な相をして見せて、唾を前へ吐きかけてから、あたりを見ながら、納屋の横手へ入つて行く。仲吉は首を曲げて家の方を氣にする。わしはも(惡魔的な笑ひを浮べて見る)納やがて、子守が酒德利を提げてやつて來る。何氣なく納屋の側まで來ると吃驚して德利を抛出して驅けて出て行く。おたきが入つて來る。納屋の側まで來ると吃驚して倒れかける。やうやく元氣を出しておたき仲さんは何をして縛られた。誰がお前を縛つたゞよ、亂暴なことするからそんな目に會ふだ。おつかないおつかない。繩を解いてやらうとはしないで、小氣味よげに見てゐると、仲吉は、目顏で、外へ出て行けと云ふやうな態度を頻りに見せる。早く出て行かなければ怖いぞといふやうな熊度を見せる。おたきは何となく恐ろしくなつて出て行く。仲吉は家の方へ氣を留める。やがて、喜作夫婦が子守やおたきと一しよに入つて來る。喜作仲吉、誰れにそんないたづらされたゞ。子守さつき、見たことのない人が訪ねて來たんだよ。みんなが恐怖を現はしながら見てゐる。喜作は仲吉の側へ寄つて、繩を解く。仲吉は解けかゝつた繩を振落し、猿轡をも取つて、獨り面白さうに笑顏をする。農村二日の出來事何氣なく納屋の側まで來ると吃驚して德利仲吉は解
小よし(心配さうに)仲さん、氣をたしかに持ちねえな。縛られて笑ふちうことがあるかよ。仲吉おら、さつきから可笑しくてならねえだ。おらを縛つた奴はな、ふとりでえらさうなこと云つてゐたが、ひだるかつたせゐか、見掛けほど力のある奴ぢやなかつただ。あんな奴に勝手な眞似をさせねえでもいゝんだけど、何するだか、あいつに、好きなやうにさせて見べいと思つて、おらわざと、力を出さねえで大人しくしてゐたのだ。······たゞおらの縛られてる間に泥鰌汁を喰はりやしないかと思つて心配してゐたゞよ。鍋へぶち込んどいた泥鰌が煮え過ぎるぐらゐよく煮えてゐたゞらうから。喜作全體此處へ訪ねて來たつていふ奴は何處の誰れだよ。仲吉おら、名前は忘れたがの。お前の身內で北海道の監獄へ十年も入つてた奴だ。自分で大惡黨のやうに云つてたが、大惡黨だか知らねえが、力は强かあねえ。おたきと喜作は驚いて顏を見合せる。小よし此處の身內で監獄へ入つてる者なんかある譯ねえだよ。眞壁の寅さんとかゞ何十年も行方が分らんと聞いたことはあつたけれど。自分で眞壁の寅さんとかゞ何十年仲吉その寅だよ。寅太郞だよ。放火でも强盜でも人殺しでも、惡い事のありつたけをやつて十年も北海道の監獄へ打込まれてゐたのださうだが、今度見張り人を叩斬つて逃げて來たと云つてゐた。お前なんぞあいつに會はねえでよかつた。掛り合ひをつけられたらたまらねえよ。みんな呆れた顏をする。おたきそれで寅太郞は何をしに此處へ來たと云つてた?仲吉お前の家のものを持つて行くと云つてたゞ。······あんな奴には欲しい者はやつときねえな。おたきわしがゐたら、あんな奴に麥つ粉一杯取らしやしねえに。何を盜んで行つたゞか。アタフタと家の方へ行く。喜作も心配さうにして隨いて行く。子守も興味をもつて隨いて行く。小よしだけは動かないでゐる。小よし(疑はしげに)仲さん、お前の云つたことは本當なのけえ。仲吉極まつてらあな。おら嘘を吐いたことねえだ。(ふと可笑しさを感じて)おら嘘を吐き農村二日の出來事何を盜んで行つたゞか。子守も興味をもつて隨いおら嘘を吐き
やしねえけれど、あいつはおらを喜サ公だと思つて縛りやがつたのだ。おら默つてゐて喜サ公の代りに縛られたゞよ。あの監獄破りの奴、喜サ公をふん縛つて腹癒せをしたつもりになつてるだと思ふと可笑しくつてなんねえ。あいつ口で云ふほどなえらい惡黨ぢやねえにしても、いく度も人の家へ强盜に入つて人を縛つたことがあると見えて、縛り工合がうめえぜ。おらには眞似や出來ねえ。小よし(鬱陶しい顏付して、獨言のやうに)眞壁の伯父さんといふ人は强慾だから、一人息子がそんなになつたんだらう。何十年も行方が知れねえなんて、家の老婆はよく譯を知つてゐながら、わしに隱してゐたんだな。仲さん、寅さんといふ人はどんな顏してゐたけえ。仲吉おらのやうな顏してゐたゞ。(眞面目で云ふ)牢へ入つとつても喜サ公より立派な顔してらあ。小よし(笑ひながら)お前は自分の顏がよく分つてゐるのかよ。仲吉そりや分らねえけんど、あいつの顏見てると、そんな氣がするだ。だけど、あいつおだけど、あいつおらよりは力が弱いだよ。喜作あわたゞしく出て來て、二人の樣子に注目する。喜作簞笥を開けて、おらの新の單衣一枚持つて行つたゞけだ。そのくらゐなことで濟みや何も氣を病むことねえだ。おらの心祝ひに、一杯飮まうか。仲さんとも久振りだ。今日はおらの家で、機嫌よく飮んで晩飯も食つて行けよ。······寅の奴が來てこのくらゐなことで濟みや、酒の一升くらゐ奢つたつて惜かあねえ。小よし眞壁の伯父さんが、せつせとお前を呼付けたのも、その寅さんとかのためなんだら50お前のやうにいゝ氣になつてると當てがちがふよ。わしが云はないこつちやねえ。仲吉ぢや、おら遠慮しねえで、御馳走になるべいか。(二人の何方へ云ふともなく)人にふん縛られるよりや、人をふん縛つた方が面白いにちがひねえな。(麥束を見て)そんな麥つ東は泥溝んなかへでも叩込んでしまへだ。麥刈つて何が面白いだ。そこへ、七造が入つて來る七造(仲吉を見て)またこんな處へ來て遊んでるのか。老人に働かせて若い者がノラ〓〓し農村二日の出來事老人に働かせて若い者がノラ〓〓し
(腹立たしく云ふ)てるつてことがあるか。······さあ來いよ。すぐに來うといふのに。(腹立たしく云ふ)仲吉駄目だ。おら此處で御馳走になつて行くだ。强く云つて家の方へ向つて行く。七造當惑の樣。小よしは詰らなさうな樣。喜作(七造に向つて)今日は仲さんに骨を折らせただから、おら一杯奢らうと思つてるだ。お前も遊んで行きねえな。七造お前がそんなに仲吉と仲よくなつたのか。不思議なこんだな。(訝しげに云ふ) (幕)三その翌朝。やうやく薄明るくなつた時分。喜作の家の裏口。井戶端で小よしが米を磨いでゐる。おたきは東の空へ向つて合掌して、何か口の內で云つて祈つてゐる。祈りが濟むと、ゆう、おたきお前は昨夕寢づらさうだつたの、譫言を云つたりして。小よしわしも怖い夢を見て困つたけれど、お母あも時々溜息吐いてゐたでねえか、寅さんのおたきは東の空へ向つて合掌して、ことを心配しとるのけえ。おたき寅太郞は仲吉の云ふやうな恐ろしい男ぢやねえだよ。何かの間違ひで牢へ入つとつたかも知れないけんどな。仲吉は智慧が足らないから勘ちがひしてるだ。それで餘計な嘘つぱちを世間へ言觸らされちやわしの家でも迷惑するでねえか。小よしそれは仲さんの云つたことも當てにならないかも知れないけど、寅さんは當り前の人間ぢやあるまいよ。樣子を知らないこの家へちよつと入つて來たばかりで、簞笥の奥へ仕舞つてた皮財布のお金まで取つて行つたんぢやないかいな。神樣でなけりや出來ねえこんだ。わしはこの家の身內にそんなおつかない人間があるとは知らなかつた。(皮肉な語調で云ふ)おたきわしや喜作が、寅太郞のことをわざとお前に隱してゐたのぢやないから惡く思はねえようにして呉んな。(稍々聲を潜めて)わしは昨夕夜中に考へたのだがの。財布の金まで取られたのは寅太郞のせゐぢやない。仲吉が自分で家の中を搜して、大事なものを盜んで置いて、みんな寅太郞の所爲になすくりつけたのぢやないかと、わし思ふだよ。喜作は氣農村二日の出來事
がいゝから、氣がつかねえで、仲吉の云ふことを一々眞に受けてるだけれど。小よし(冷笑を洩らして)さう云へば、昨日寅さんが此處へ訪ねて來たといふのも、の拵へ事で、誰も來なかつたのかも知れねえな。おたき(萎れて)お前は昨夕から、わしや喜作に當り散らしていけねえ。わしはお前に惡いことした覺えねえだよ。小よし(興奮して)わしだつても惡いことした覺えねえだ。働いてるだから、誰れにも文句は云はせねえよ。おたき(なだめるやうに)誰れもお前にいやな文句を云やあしねえ。仲吉を惡く云つたのがお前の氣に觸つたのけえ。小よし仲さんのことなんぞどうでもいゝだ。······だけどなお母あ。欲しい物も食べないで、着たい物も着ないで、あくせく働いて殘したお金を、二十年も行方の分らなかつた身內の者にちよつとの間に橫取りされちや、この先働く張合ひはないぢやないかな。これからまた二十年も稼いで、僅かなお金でも溜めてゐると、また行方の分らなかつた身內の男がや仲さんわしはお前に惡い身體の加減が惡くつても精一杯仲吉を惡く云つたのがつて來て、かつぱらつて行くかも知んねえよ。おたき利口なお前に似合はねえこと云ふだの。······昨日取られたお金だつて、眞壁の伯父さんに譯を云やあ、そのくらゐなお金は惠んで吳れるだから安心してるがいゝだ。小よしみんなが眞壁の伯父さんと云ふ人を手賴りにしてるだから可笑しい。それほど手賴りになる人なら、これまでにどうかして呉れてさうなものだ。當てにならないものを當てにするのには、わしはあいたよ。おたき何か云はうとして躊躇してゐる。小よしは洗桶を持つて家の方へ行きかけると、そこへ喜作が外から入つて來る。おたき寅太郞は昨日どちらの方へ行つたか、見たものはねえのけえ。喜作昨日は誰れも氣がつかなかつたらしいよ。いゝ加減な噂してゐるだけど、見た者はなかんべい。おら、それで安心したゞよ。おたき仲吉の云ふことも眞に受けられねえでな。農村二日の出來事小よしは洗桶を持つて家の方へ行きかけると、そこへ見た者はな
喜作どちらにしても、おらの家は災難を免れたゞ。昨日家の者がみんな家にゐない所へ、あの男が來たからよかつたのだ。······今日おらは眞壁へ行つて伯父さんによく譯を話して來べい。小よし、お前も一しよに行かねえか、伯父さんも身內の者が懷かしくなつてるにちがひないよ。小よしわし、身體が弱つてるだから行かれないよ。無愛想に云つて裏口から家へ入る。おたきはそちらを氣にしながら、稍々聲を潜めて、おたき寅は警察に捕まりやしねえのけえ。どうせ、また捕まつて牢へ入るに極まつてゐるけんど、この近在で縛られさへせにやいゝと、わしは思つてるだよ。眞壁では寅のことで警察のしらべが八釜しいんで、お前に內所で相談したいと思つてゐたのかも知んねえだ。あれが盜んで行つたゞけの金は、眞壁からでも取返さにや割に合はねえぢやないか。喜作だけど、おら、寅に會はなかつたゝめに生命の助かつたやな氣がするだからな。(感慨に耽つたやうに)これでおらハ厄のがれして、これから先きにはいゝ運が向いて來さうに思はれるだ。おたき寅の事をわし等親子が隱してゐたと云つて、小よしはえらく機嫌が惡いだからお前も氣をつけなきやいけねえよ。喜作(心配さうに)おらも、昨夕その事を氣にかけてゐたゞ。財布の金取られたことよりもその事を心配してゐたのだ。親爺が死んでお前が長患ひして、今度は小よしの事で面白くねえことがあるやうだと、おらの家もいよ〓〓ぶつ潰れるだあよ。おら一人で野良を働くことは出來ねえだから、小よしが家にゐなくなりや、おらは東京へでも行つちまはうと思つてるだ。おたきお前は飛んでもねえことを云ふ。わし一人を此處へ殘しといてお前は他所へ行かうと云ふのか。喜作そりや今のことぢやねえわな。母の所を避けるやうに、家の方へ入つて行く。おたきは家へ入るのを躊躇して、物を案じてゐる顏してゐるところへ、寅太郞が入つて來る。前の幕とはちがつて小サツパリした單衣を着てゐる。「伯母さん」と聲を掛けられ農村二日の出來事小よしはえらく機嫌が惡いだからお前わし一人を此處へ殘しといてお前は他所へ行かう
て、て、振返つて見て吃驚する。しかし、周圍を憚つて聲を潜めて。おたきお前さんはまだこの邊にゐたのか。(と云つて、怖々相手を見る)寅太郞昨夕は此處の納屋を借りて、麥藁の上で一晩寢かして貰つたのだよ。お前には會はないで、昨日直ぐにこの村を立つつもりだつたが、妙なものでね。この家へ寄つたゝめに氣がゆるんだのか、急に長い旅の疲れが出て、どうにも眠くつて溜らなくなつたから、斷りなしで一晩泊めて貰つたよ。それで、今朝は暗いうちに起きて出て行かうと思つてゐたのだが、久振りにいゝ氣持でグツスリ眠込んぢやつて、遲くなつた。······なにお前に迷惑を掛けやしない。その井戶で顏を洗はせて貰つたら直ぐに出て行かう。こは〓〓事もなげにさう云つて井戶の側へ行く。おたきは怖々相手の顏や衣服に目を注ぐ。おたきこれからお前は何處へ行くだな。眞壁へ行きやすまいな。寅太郞おらの事だから、何處へ足が向くだか。おたき眞壁へは歸らない方がいゝだよ。わしが賴むだから、眞壁へも寄らねえで、この近在をもウロ〓〓してゐねえで、早く遠方へ行つて吳んな。(手を合はせて歎願する風をして見せる)寅太郞だけど、伯母さん。おれも昨日のおれぢやないから、眞晝間顏を曝らしてこの村の中は通れないよ。人に知れちや、お前らにも迷惑を掛けることになるんだ。だから、おれはさつき考へたのだが、麥藁か何かを俥に積んでその中へおれを隱して、村外れの人通りのない所まで、喜作に連れて行つて貰つたらどうだらう。さうしたら、おれも都合がいゝし、お前の家でも迷惑にならないでいゝだらう。おたき(身震ひして)わしを脅かすやうなことを云つて吳れるな。そんなことして、警察へ知れようものなら、喜作やわしは卷添へを喰つて懲役にやられるに極つてるだ。寅太郞(微笑して)そのくらゐなことでビク〓〓して、お前は歲ばかり取つても甲斐性がないね。そんなことでよく世の中が渡れたものだ。おれはな伯母さん、二十年の間隨分いろんなことやつて來たぜ。おたき(手を振つて)その話聞かないでもいゝ。お前の顏見たゞけで、わしにはお前が怖いことしてゐたことが分るだから。(再び手を合せて)この老人が手を合はせて賴むだ農村二日の出來事三一警察へ
から、早く遠方へ行つて吳んなよ。······喜作の衣服は着て行くがいゝ。金を返せとも云はねえだよ。わし、貧乏してゐてもいゝだから、穩かに暮させて吳んな。寅太郞ぢや、何も賴まないよ。おれだつて地の底を潜ることも空を飛ぶことも出來ないのだから、仕方がない。大手を振つてこの村を出て行かう。······何處で捕まるも同じことだ。井戶の水で顏を洗つて、せい〓〓した顏付して出て行く。おたきは二三步そちらへ寄つてそつと見送つてから、東の空に向つて合掌して口の內で何か祈つてゐる。そこへ、喜作が入つて來る。おたきお前が出て來ねえでよかつた。お前に會つたらどんな面倒なこと云ひ出すか知れねえと思つて、わしは心配でならなかつたゞよ。喜作······これから每晩納屋の戶締りはよくしとかなきやならねえな。お前にはまだ云はなかつたが、仲吉が昨夕から家にゐねえのだつて、七造爺さんえらく心配して方々捜し廻つてるだ。おら、さつき寅太郞が出て行つたのを見て、仲吉ぢやないかと、ふつとさう思つたのだよ。おたき(何とも感じないやうに)仲吉が昨夕からゐねえのけえ。······寅が身を隱して村を出たいと云つてゐたが、仲吉なら剽輕者だから、賴まれりや、俥を挽いて何處へでも連れて出たかも知んねえ。喜作仲吉は他所の土地へは行きたくねえと云つとつたが、氣が變つて出て行つたのかも知れねえな。······お母あ、彼奴なぞこの村にゐねえ方が、おらのためにもいゝんだよ。(空を仰いで)今日は麥をみんな刈つてしまはにやならねえ。精を出して、昨日怠けた分を取返さにやならねえ。おたきお前が身を入れて働いてくれさへすりや、わし何も云ふことねえだ。二人の顏は晴々しい。わし何も云ふことねえだ。(株)農村二日の出來事
梅雨の頃(一幕)
山間の小都會のほとり。梅雨の頃。疊は敷いてあるが、周圍を堅く遮つてゐるやうにつくられてゐる部屋。一方の窓は小さくて、ガラス戶で閉ぢられてゐる。入口も西洋風の扉で仕切られてゐる。にA(四十前後の五分刈頭の男)が、胡坐を搔いて、机を食卓として飮み且つ食つてゐる。日本机の前ではA(四十前後の五分刈頭の男)が、部屋の樣子は蕪雜だが、電燈は煌々と耀いてゐる。A(コツプを持つたまゝ耳を傾けて獨白)梟が鳴いてるな。今夜は雨がひどかつたせゐだか、馬鹿に靜かだ。······あいつ、もう歸つて來さうなものだが。····(氣遣はしげな風)なに、おれの心臟の鼓動は酒のせゐだ。凶事の知らせぢやない。チノ、(二十五六の銀杏返しに結つた、そこへソツとB肥つた醜い、稍々低能らしい女)が入つて來る。A (手を震はせて)吃驚するぢやないか。足音もさせないで戾つて來て、途中は怖かあなかつたか。B、濡れた羽織を脫いで、机の側へペツタリ坐る。梅
B怖かないわ、あなたがいつもわたしの側に隨いてゐると云つてゐたから。Aさうか。······おれの身體は此處にぢつとしてゐようとも、何處へ行つてゐようとも、おれの魂はお前の側にくつ隨いてゐるんだから、氣を落さないやうにしろ。氣を落して物を怖がつたりすると、鬼が來てお前の頭から嚙付くぜ。いゝか。それにおれの云ふことに一度でも背くと、その時にお前の生命は無くなるのだぜ。よく覺えてゐろ。Bよく覺えてゐるわよ。あなたは同じことばかり云ふ。(笑つて)今夜は、わたし、あなたによく聞きたいことがあるの。A何だい。聞いてやらう。(コツプをBの手へ押付けて)一杯飮んで見ろ。一杯飮めなきや半分でもいゝ。腹が減つてれば何でも食べなさい。······さつき雨がひどかつたから弱つたB Aあなたらうな。B (Aが注いでくれるビールを少し飮んで)あなたは四五日うちにこの土地を出て、もつと大きな町へ行くと云つてゐるけれど、もつとこの土地に落着いてる方がよかないでせうか。わたしも懇意な人が二人も三人も出來たのだから、成るべくならこの土地にゐたいと思つてるの。A (苦笑して)今夜大川に會つたのでそんな氣になつたのか。·····お前がさういふ氣になりかけたので、なほ更早くこの土地を立たうと思つてるのだ。Bわたしがこの土地にゐたいと思つちやいけないの? (邪氣なく云ふ) A (きつい顏して)お前はおれのゐる所を、何處でも極樂のやうに思つてゐなきやいけないよ。それで、人に云つちゃならんとおれが不斷〓へてることを、一言でも口から出しちやならないんだ。······いつも云つてる通り、おれは當りまへの人間ぢやないんだぜ。おれと一しよにゐるお前もあたりまへの人間ぢやないんだぜ。お前はおれの側にゐるおかげで、大分魔法を覺えたのだから、あたり前の人間でなくなりかけてるんだ。······今夜はお前があたりまへの人間でないことを、得心の行くやうに見せてやらう。Bわたし、そんなことを見たいとは思はないけれど、あなたの言葉に背く譯には行かないわね。Aいくら云つて聞かせても、今に背きさうな氣ぶりが見えるから心配なんだよ。お前がお梅雨頃一二一·····お前がさういふ氣になりA今に背きさうな氣ぶりが見えるから心配なんだよ。一二一お前がお
れに背いて破滅すりやおれの身も破滅なんだからね。おれはこんなことをやつてゐても、仲間と云ふものがない。お前一人がおれの魔術の助手で、おれの話相手で、お前一人がおれの浮世の道伴なんだから心細いさ。(Bには構はないで獨白の如く)昔の魔法使ひには、仲間があつた。猿とか蟇蛙とか、いろんな動物をも飼つて使つてゐたやうだが、おれは猫の子一匹手馴付けることも出來ない。自分で洞穴の中なんかに住んでゐられないし、蛇や蜥蜴のやうな異樣な物を鍋で煮て、グラ〓〓煮えたくさい汁を抄つて飮んで、舌皷を打つことも出來ないのだ。······だけど、見ろ。このビールの泡へおれの息がかゝると、泡の色までもちがつて來る。B (ビールの泡を見て感心する)三年前に、あの恐ろしい家からわたしを救出して下すつたことを考へると、あなたの魔法のえらいことはわたしにも分つてるのよ。······それで、今夜あなたによく聞きたいと思つてることは、あなたはなぜ、わたしをお母さんに會はせて吳れないでせう?あなたの魔法を使つたなら、お母さんの居所を搜出して、そこへわたしを連れて行つて吳れることも出來るだらうし、お母さんを此處へ連れて來ることも出來るだらうのに、なぜさうして吳れないんです?らないの。Aお前も里心がついたのだな。此間からさうらしいと氣がついてゐたのだよ。······それは時が來たらお母にも會はせてやらうが、今ぢや駄目だ。第一お前が今お母に會つたらお母は吃驚して目を廻すかも知れないよ。お前は元のお前ぢやないからなあ。Bそんなにわたしは人間が變つたのか知ら。(自分の身體を見廻す) A變つてるとも。窓近く梟の聲がする。煌々としてゐた電燈も次第に暗くなる。ある男、扉を少し開けて顏を出す。誰れだ、お前は。(敵に對するやうな身構へをして咎める)ある男、遠慮なく室內へ入つて來る。脚絆を穿き雨合羽を着た昔の旅人姿をした四十がらみの男である。合羽を脫いで、からげてゐた裾をおろしながら、目をBから離さないで、三梅雨頃なぜさうして吳れないんです?わたし此間からお母さんに會ひたくつてなA煌々としてゐた電燈も次第に暗くなる。ある男、扉を少し開けA三頃
ある男この人に違ひない、さつきわしと道連れになつたのは。······暗がりで顏はよく分らなかつたが、たしかにこの女だ。親類に急病人があつて見舞に行つた歸りだと心細さうなことを云つてわしを道連にして、わしをよくもひどい目に會はせたな。雨がひどくなつたので、空家の軒下で雨宿りをしてる間に、わしはどうにも我慢がならないやうに睡くなつ·たが、醒めてから氣がつくと、それはお前の所爲だつたのだ。わしが眠つてる間にお前の姿は見えなくなつてゐた。それだけならいゝが、わしの路用の金子の入つてる胴卷が無くなつてゐるし、わしの實の觀音樣のお姿までも見えなくなつてゐた。(力のない聲で云ふ)わしはよう〓〓此處を搜して來たのだから、おとなしく返して貰ひませう。わしは怒りもしない。手向ひもしない。返して貰へさへすれば、手を突いて頭を疊へすりつけて、お前さんたちにお慈悲を願つてもいゝのだ。お前さん達の在所を世間へ知らせもしない。だから、どうかわしの大切な物をわしの手へ返して下さい。Bはある男の顏をじろ〓〓見てゐたが、腹立たしい表情をして、お前さんこそひどい人だよ、わたしに言掛りをつけて。Bある男あ、その聲だ。闇の夜で顏はハツキリ分らなかつたが、聲はその聲だつた。いよいよお前に違ひないことが分つた。(少し元氣がつく) Bそれはね。途中でお前さんに會つて、お互に淋しいからいゝ道連れだと、お前さんの方から言出して、一しよに歩いたにはちがひないけれど、わたしお前さんの物は鼻紙一枚取りやしないよ。いゝ加減なことをお云ひでないよ。雨がひどくなつたから、雨宿りをすると云つて、わたしを空家の軒下へ連れ込んだ時に、お前さんの方でいやなことを云つたぢやないか。······何とか言掛りをつけてわたしをどうかしようと企んで、後を追驅けて來たのだらう。お前さんにも人並に目が二つついてるんだから、よく物を見るといゝ。わたしはヤクザの女に見えるか知れないけど、此處の家の人はお前さんなんぞに脅かされたり騙されたりする人ぢやないよ。よく目を開けて見て、足許の明るいうちにサツサと歸つておしまひよ。ある男何を云やあがる?この賣女め。かうなりやわしも腕づくだ。ある男はわれ知らず興奮してBを目がけて、飛びかゝらうとする。Aはさつきから相關梅雨頃聲はその聲だつた。いよい飛びかゝらうとする。Aはさつきから相關
せざるやうに冷然としてゐる。B Bあなた、默つてばかり見てゐないで、早くこの人をどうかして下さいよ。こんなづうづうしい奴つたらあるもんぢやない。Aお前はその觀音樣を奪つたのぢやあるまいな。Bあなたはあんな奴の云ふことを信じてゐるの? A (ある男へ向つと)懷へ收つてる物をやす〓とと人に奪られるやう守本尊の御威光もない譯だな。全體、面相もよく分らないやうな女を道連れにしていゝ氣になつてるから、大切な物が紛失したりするのだ。何處か途中へ落したのだらう。こゝで愚圖々々云つてる間に早く行つて捜しちやどうだ。提灯ぐらゐ貸してやらう。ある男は懷を捜したりして腑に落ちない顏をする。ある男わしはあの時軒下にしやがむと、急に眠くなつてたまらなくなつたのが、どうも不思議だ。魔睡劑を嗅がされたやうにも思はれないが、······何にしても、胴卷にしつかりしばりつけてゐたものを奪られて氣がつかなかつたのはたゞ事ぢやない。あなた、早くこの人をどうかして下さいよ。こんなづうづB a A狐にでも抓まれてたんぢやないか。さう云へばお前の顏付も身裝もよつぽど妙ちきりんだぜ。彌次郞兵衞が戶まどひして來たやうだ。今の時世にそんな風をしてこの邊を通つてゐる奴はありやしないよ。ある男さう云へば、この部屋は陰氣くさい妙な部屋だが、お前たちはまさか狐か狸が化けてるんぢやあるまいな。(恐怖に襲はれてしをれる) B (笑つて)何をトボけたことを云ふんだよ。お前さんはお金を一錢も持つてゐないだらう。b9それで路用に困つてわたし達に言掛りをつけて、いくらかにしようと云ふんだらう。物貰ひなら物貰ひらしくしたらいゝぢやないか。ある男(獨白の如く)わしは今夜こそえらい目に會つたぞ。主人から依托された大金を無くしちや、わしの力で辨償する方法はないのだから、腹でも切つて申譯をせにやなるまい。B(やゝ同情したやうに)お前さんの云ふことは本當なのかい。ぢや、も一度よく途中を搜しておいでよ。若しか何處かへ置忘れたのぢやないの。ある男(考へて)前の宿の饂飩屋で晩餐を食べた時に、胴卷を出してソツと中を改めたのだ梅雨の 質Aお前たちはまさか狐か狸が化け
が、あんな所へ置忘れる譯はないんだ。······こりやどうしても軒下で眠つてた時に奪られたのに違ひない。(ふとまたいきなり立つて)オイ、お前が饂飩屋でわしの胴卷に目をつけ*て後を隨いて來たのだな。柔しさうなことを云つてわしを註らかしやがつたのだな。ある男自棄になつて、Bに飛掛つて胸倉を摑まへる。B藻搔きながら、Bあなた、早くどうかして下さいよ。わたし殺されさうぢやないの。Aなあに大丈夫だ。その男にはお前を殺す力なんかありやしないよ。おれ達はそんな男に殺されるやうな人間とは人間が違ふんだ。ある男こん畜生、わしの胴卷を早く此處へ出さないか。(兩腕に力を締めてBの喉を締める)これでも苦しくないか。こりや不思議だ。四斗俵を片手で差上げるわしの腕で、こんな女の子の息を止めるのに、手間暇のかゝらう筈はないんだが。······これでもか〓〓。ある男は渾身の力を盡して汗みどろになつてBの喉を締めてゐるうちに、へと〓〓になつて卒倒する。Bは生返つたやうに太息を吐いて、襟を搔合せながら、Bわたし殺されるかと思つた。この人狂人か知ら。Bおれ達はそんな男にB Aお前があたりまへの人間でないことがこれで分つたらう。(食卓の下から、胴卷と金色をした小さな佛像を出す)これはお前がこの男から浚つて來たのだ。よく見るがいゝ。B (吃驚して、側へ寄つて見て)わたし今はじめて見るのよ。わたしそんな物を取つて來た覺えないわ。その人がさつき騒いでゐるうちに此處へ落したんぢやないの。A馬鹿を云へ。お前は自分でやつたことが自分で分らないのか。軒下で雨宿りしてる時にこの男がお前の手を握つたらう。お前の手に觸ると、この男は身體が痺れて睡くなつたのだ眠つてる間に、お前は胴卷を索つて奪つて來たのだ。Bでも、わたしそんな覺えはないの。Aぢや、お前はおれを信じないんだね。おれの云ふことを疑ふんだね。Aが嚴い目を向けると、Bは恐れて、B疑やしないわ。······わたし奪つて來なければそんな物が此處にある譯はないのね。(卓上へ目を注いで)胴卷にはお金がどのくらゐあるんでせう。出して見ちやいけない? B Aおれの云ふことを疑ふんだね。B Aいゝとも。梅雨出して御覽。頃
Bは胴卷の結び目を解いて、中の物を卓上へ振落す。紙幣や小判がバラ〓〓と落ちる。B大變なお金だわ。(手に取つて數へながら、悅しさに堪へないやうな表情をして)これだけあつたら欲しいものが何でも買へるわね。Aお前が夢にまで見てゐた東京の三越へ行つて、衣服でも帶でも指環でも日傘でも、當世流行の者をみんな揃へることが出來るね。さうしたら悅しいだらう。Bあなたに叱られても、悅しくないとは云へないわ。この佛樣だつて賣つたら大變なお金になるんでせう。Aなに、これは金紙を貼つた誤贋化し物だ。泥細工の贋佛だ。こんなものを守本尊にしてゐるから災難に會ふんだよ。Aは佛像を取つて柱へぶつつける。佛樣は粉碎する。その音によつてある男は目を醒ましたが、二人の顏を見ると恐怖を感じたやうに、アタフタと扉を開けて逃げる。Bあの人可哀さうぢやないの。お金が無くなつて。A早く窓を開けて見ろ。あの男が何處へ行くか。(あわたゞしく云ふ)當世泥細工の贋佛だ。こんなものを守本尊にしてB A B急いで窓を開ける。それと同時に舞臺暗黑となる。再び薄明るくなると、平坦な田圃道から小高い土手道が續く。遙か向うに小都會の燈火がちらつく。ある男、トボ〓〓と田圃道を歩いて土手へ來ると、力の盡きたやうに草の上にへたばる。田圃道の一端に、雨傘を提げた足駄穿きの男(甲)と、粗末な洋裝の男(乙)とが現はれる。乙はをり〓〓懷中電燈で道を照らす。乙今の時世にそんな馬鹿げたことがあるもんぢやない。誰れか一人神經病患者が云つたことを眞に向けて噂が擴がつたんだよ。申あるひはさうかも知れないが、おれの知つてる家の息子は、その女の手で觸られてから家へ歸ると、大熱を出して死にかけたのだ。その息子は身持が惡くつていろんな女に引掛つや創業とも自らててたたんが、八広變蒸熟にからてから女に懲り·····その女の奴、足が恐ろしく早くつて、捕まへようとすると、もう遠方ヘスーツと逃げ梅雨頃平坦な田圃道から小高い土手道が續く。遙か向うに小都會の燈火誰れか一人神經病患者が云つたこ

  • 111てるんださうだ。乙おれは一度會つて見たいよ。震ひつくほど奇麗な女だといふものもあるし、二た目と見られないやうな汚い女だといふものもあるし、若い女だとか婆あだとか、みんながいろんなことを云ふから可笑しい。·····そんな應性の女にこの土地が咀はれてゐなくつても、かう雨が每日續いて、ジメ〓〓してゐちや、病氣になつたりする者が多い譯だ。甲病氣だけぢやない。そいつに目をつけられると、何時の間にか大切な物をかつぱらはれるんだとさ。それが金錢ばかりぢやなくて、金にやならない先祖の寶だとか、お祖師樣の繪像だとか、佛壇の佛樣だとかで、何時の間にか持つて行かれたり、そこらに引裂かれたり叩壞されたりすることもあるんださうだ。おれの隣りの御信心の深い御隱居は、この世は闇になつて、明日の日からお天道樣が空へ出て來ないと云つて歎いてゐた。乙さうでなくつてさへ每日鬱陶しいところへ、太陽が明日から出ないとなつちやたまらないな。お互に人間が腐つてしまふだらう。甲(空を仰いで)でも、今夜は珍らしくお星樣が光つてらあ。案じたものでもないかな。明甲案じたものでもないかな。明日は珍らしく日の目が見えるかも知れないね。乙(懷中電燈を向けて、その明りのなかにある男を見つけると、吃驚した顏して、甲に向つて小聲で)オイそこに妙な男がゐるぜ。甲(そちらをのぞいて見て驚く)變な男だな。この邊が物騒だと云つてたものがあつたからなあ。女一人の仕事ぢやない、仲間もゐるらしいといふ噂も聞いたよ。······オイ、此方を振向いて見てるぜ。二人は足を留める。ある男は二人の方を振向いて驚く。そして逃出さうとしたが、足に力がなくなつて再び地上へへたばる。乙(小聲で)見込まれたとすりや後戾りしたつて駄目だ。どんな奴だか、おれが行つて取つかまへてやらう。乙は一人ある男の方へ近づく。ある男オド〓〓して憐れみを乞ふやうな態度をする。乙(虚勢を張つて)お前は誰れだ。こんな所で何をしてゐる?ある男わたくしはかうしてゐるのが恐ろしい夢のやうで御座います。夢のうちに大金を取梅雨質一三三吃驚した顏して、甲に向つそして逃出さうとしたが、足にどんな奴だか、おれが行つて取つある男夢のうちに大金を取一三三
    られるし、大切な守本尊は粉な微塵に壞されるし、いつそこの川へ身を投げようかと、さつきから考へてゐたので御座いますが、わたくしは川へ飛込む元氣さへなくなつて居ります。乙そんな事を云つておれ達に油斷をさせようとするんだらう。ある男あなた樣はどういふお方で御座います?あの恐ろしい奴の仲間ぢや御座いますまいな。乙おれ達は用事があつて此處を通りかゝつたのだが、恐ろしい奴つて誰れのことだ?噂に聞いた變な女とかに、お前は此處で出會つたのか。ある男(ふと闇を透して向うを見て身震ひしながら指差して)あゝ、あすこから二人が此方を見てる。あの燈火の差したところを御覽なさいまし。······あの二人に見られてゐるから、わたくしは足が動かないのです。身動きが出來ないのです。乙(指差す方を振向いて)何も見えはしないぢやないか。いゝ加減なことを云ふな。次第に此方へ近づいて來た甲も、ある男の指差した方を見て、何も見えないぢやないか。こいつこそ變な奴だよ。こんな丈夫さうな身體をして步けな恐ろしい奴つて誰れのことだ?噂甲いつてことがあるものか。貴樣はおれ達を騙さうとするんだな。ある男(憐れを乞ふやうな手つきして)どういたしまして。······お慈悲で御座いますから、お二人のお力でわたくしを町の方へ連れて行つて下さいまし。甲ぢや、おれが貴様の身體に力をつけてやるから、自分で歩いて行け。甲はふと、手に提げてゐた雨傘を以つてある男の背を打つ。ある男、悲鳴を揚げる。乙は甲の暴行を止めようとして爭ふ。甲此奴だよ〓〓。この町に災難を起したのは。此奴がゐるために町の者は安心して日が送れないんだ。この顏付や服裝を見たつて、此奴があたり前の人間でないことは分つてる。乙亂暴なことは止せよ。君こそ今夜はどうかしてるよ。この男が本當の魔法使ひだつたら何で君なんかに打たれてゐるものか。ある男(闇を透して向うを見て)あすこから二人がまだ此方を見てゐる。あの二人に見られてゐなければ、わしだつてこんな奴等に指一本差させはしないんだが······(無念な形相をする)悲鳴を揚げる。乙梅雨頃
    甲甲何をこの野郎。甲はまた雨傘を振上げて叩きつける。ある男はそれを避けようとしたはずみに、足を辷らせて川の中へ轉げ落ちる。二人は驚いて川の方をのぞき込む。乙オイ、聲も音もしないぢやないか。どうしよう?甲打ちやつときやいゝさ。おれ達の力で町の災難の元を斷つてやつた譯だからいゝぢやないか。威張つていゝ譯だ。ちつとも氣遣ふには及ばないさ。(しかし勢ひのない聲)乙おれ達の力と云ふが、君一人でやつたことで、おれは知らないよ。おれが止めるのを聞かないからこんなことになつたのだ。甲君は卑怯だ。おれの所爲になすりつけようと思つて。乙何方が卑怯だか。はじめて見つけた時に君は怖がつて、容易に側へ寄つて來なかつたぢやないか。おれが正體を突留めたので、君は安心して側へ來て、急に强がりだしたのぢやないか。甲ぢや、おれが一人で責任を負うてやらう。町のために咀ひの源をおれが斷つたのだ。町足を辷おれが一人で責任を負うてやらう。町のために咀ひの源をおれが斷つたのだ。町の者におれが崇められる時に、おれを嫉むなよ。手柄の半分をおれに分けて吳れと云ふな。乙巫山戲たことを云ふな。乞食を一人毆つたのが何の手柄になる。君は今夜は、例の變な女の手で觸られたと見えて、頭が狂つたのだな。(ふと空を仰いで)いつの間にか空がまた曇つて、小雨が降りだした。こんな處で愚圖々々してちや、またどんな奴に出くはすかも知れない。兎に角道を急がうぢやないか。二人は慌てゝ向うへ姿を消す。ある男、土手へ匍上る。ある男(向うを見て)窓の明りが消えた。おれの足はもう大丈夫だ。あの二人を取捕まへて今の仕返しをしなければならない。ある男が二人の後を追つて行きかけると、舞臺暗黑となる。おれの足はもう大丈夫だ。あの二人を取捕まへて舞臺暗黑となる。再び元の部屋。AとBとは對坐してゐる。梅雨の頃
    あなたはあの人を可哀さBあの人は可哀さうぢやないの。あんなにみんなに虐められて。うだと思はないのか知ら。Aお前は自分がどんな人間になつてるかよく分つたらうな。れの所爲であると同じやうにお前の所爲なのだ。B嘘を仰有い。わたしの知つたことぢやないわ。あの人の胴卷だつてわたしが取りたくつて取つて來たのぢやないわ。Aお前はいよ〓〓おれを信じなくなつたのだな。お前がいくらあたり前の人間のつもりになつてゐても、お前のその手もその足もあたり前の人間のと違ふやうになつてるんだぜ。お前の手がちよつとでもおれの外の人間に觸つたら、觸られた人間は熱病に罹るんだ。B (不安に襲はれながら)そんなこと無いわ。わたしのこの手は、世間の人の手と違つてやしないんですもの。(自分の手を前へ出して見る) A違つてるとも。おれの目にはちやんと分つてる。ムク〓〓とよく肥つてゐて、ツル〓〓とすべつこいが、その手にはおれの吹込んだ毒が廻つてゐるんだ。さつきの男もお前の手あんなにみんなに虐められて。今見たことや聞いたことはおあの人の胴卷だつてわたしが取りたくつに觸つたのだから、今時分熱病に掛りかけてるに違ひないんだよ。Bあの人なぞどうならうと關はないけれど、それが本當なら大變だ。わたしどうしたらいaいだらう。(身悶えする) A何も心配することないぢやないか、おれが側に隨いてゐるんだから。おれ達二人が此處にゐりや此處が極樂だ。明日の日他所へ移つて行けば其處がまた極樂なんだ。外の奴等が地獄の苦しみをしてゐても、お前が素直におれに隨いてゐれば、おれは先つきの男のやうな氣の拔けた人間にならないでゐられる。B (Aの言葉を耳に留めない風で)それが本當ならどうしたらいゝだらう。わたしのこの手が觸つただけでも熱病になるといふのなら······Aお前はおれに隱してることがあるんだね。······それを云つてしまへ。おれに隱し事をしたりしてると、頭から鬼に喰はれると言つて聞かせたのを忘れたのか。Bはその脅かしにも驚かない風で默つて何かを考へてゐる。Aこの町を立退いたら、東京へ行つて着物でも指環でもお前の好きなものを買つてやらう。梅雨頃わたしどうしたらいわたしのこの手おれに隱し事をしA
    だからお前の隱してる事を今此處で話して聞かして吳れろ。Bわたし指環も着物も入らないの。それよりも、わたしの手があたり前の人間のやうになつて毒なんか無くなつたらいゝと思ふの。······後生だから、あなたの力でこの手から毒を取つて下さい。今直ぐに取つて下さい。(物狂はしく云ふ) Aおれの力でもそりや駄目だ。······お前は今夜大川に會ひに行つて、おれには云へない話をしたのだな。お前がこの頃人に馴染みだしたのが氣になつてゐたが、今夜お前はその手で大川の首つ玉に抱付いたのだな。(顏は憤怒の相を帶びる) B (茫然として夢見る如く)わたしの手が觸つたために、あの人が病氣になるのなら、わたしこの手を切つてしまひたい。A人と違つた手を持つてるのを有難いとも思はないのか。Bわたし、あたり前の人と同じやうな手を持つてゐたいの。わたし、あなたの云ふ通りにしてみんなを困らせて罪をつくつたことを後悔してよ。今日まであなたをえらい人と思つてゐたのだけれど、何だかさう思へなくなりだしたの。わたA三年前に、あの鬼婆あの家から助け出してやつた恩を忘れたのだな。無理無體にいろんな男の玩具にされて、食ふ者もろくに食はされないで、每日泣いて暮してゐた時のことを忘れただなな···お前を慮あとあ間には全今前は怎しとしてゐるないのか。打たれても蹴られても、玩具になつてB (頑なに)わたし仕返しなぞしなくつてもいゝの。もいゝから、あたり前の人間になりたいの。······こんなジメ〓〓した家が何で極樂なことがあるものですか。わたしをダシに使つて魔法を使ふのが何で自慢になるものですか。Bが物狂はしくなるのを、Aはじつと見詰めて默つてゐる。Bあなたに背いたら、その時わたしの生命はなくなるのかも知れないけれど、爲方がないと覺悟してるんです。A (悄然として)ぢや、そんなに大川がお前の氣に入つたのか。たつた二三度會つたばかりなのに。······大川の家へでも母親の所へでも、行きたければ行くがいゝ。今直ぐにでも此處を出て、お前の行きたいところへ行くがいゝ。······おれは一人で外の土地へ出て行かう。梅雨頭爲方がない
    Bあなたは外の土地へ行つて、わたしのやうな女を使つて、また同じやうなことをしようと思つてるの? (邪氣なく云つて)その女の人は可哀さうに。Aおれにまだそんな力があると思つてるのか。······お前には、おれの身體が今どんなみじめな樣になりかゝつてゐるか分らないのか。B分らないわ。Aかうなつたら、お前が出て行く先におれの方から出て行く。Aが力なげに立上つたところへ、ある男が前と同じやうに扉を少し開けて顏を出す。Aはおびえて後退りする。Bお前さんまたやつて來たのかい。懲りもしないで。ある男、絕望した樣で入つて來る。Bお前さんは身體に變つたことはなかつたのかい。(不思議さうに見廻す)ある男おれは自分がまだ生きてるのが不思議だ。ある男はふと胴卷を見つけると、我れを忘れて興奮して、前に立つてゐるAを突飛して、おれの身體が今どんなみじA B (不思議さうに見廻す)胴卷を取返して押戴いて懷へ入れる。Aは突飛されたまゝ起上れない。その無力な樣子を見たある男は、急に勇氣を出して、Aを足蹴にして鬱憤を晴らす。Aは死んだやうに手向ひをしない。ある男こんな意氣地のない奴を、なぜおれは怖がつたのだらう。(Bに向つて)貴樣もよくおれを誰かしやあがつたな。ある男勢ひに乘じてBに打つてかゝる。Bも微かな呻き聲を立てただけで倒れる。その樣は死人のやうである。ある男手答へのない奴等だ。枯木が倒れてるやうだ。彼れは二人の樣を見て、ふと恐れを感じてアタフタと出て行く。梟の聲がして、俄かに雨の音烈し。Aは突飛されたまゝ起上れない。その無力な樣子Aを足蹴にして鬱憤を晴らす。Aは死んだやうにBも微かな呻き聲を立てただけで倒れる。その(株)梅雨頃
    ある病室
    人物中塚銳雄(患者、三十歲くらゐ)丸山七郞(訪問客、三十歲くらゐ)よね子(銳雄の義姉、三十歲くらゐ)パラツク風の八疊敷の病室。机と火鉢が置かれてあるだけで、室內は甚だ殺風景である。机の上の白い壺にカーネーシヨンとヒヤシンスとが生けてあるが、その花も萎びてゐる。ベツドには、患者中塚銳雄が仰向けに寢ながら書物を讀んでゐる。その書物を枕許へ抛りだして欠伸を洩らしてゐるところへ、後のドアがノツクされたので、彼れは頭を持上げて、はお入んなさい。(と、中塚元氣のいゝ聲を掛ける)丸山七郞、つくり笑ひを浮べて入つて來る。病室
    丸山昨日旅行から歸ると、君のことを西野に聞いて驚いたのだよ。(と云つて、ベツドの側に坐つて)病氣はどんなのだい。入院後もう一月にもなるといふぢやないか。中塚もうよつぽどいゝんだがね。しかし、僕も馬鹿を見た譯さ。ちよつとした傷を癒しに病院通ひをしたゝめに却つて丹毒に感染して、生きる死ぬるのひどい目に會はされたんだからね。丸山本當にひどい目に會はされたね。(强ひて調子を合せて)病院の方にも落度があるんだらう。······丹毒つて隨分怖い病氣なのだらう。中塚そりや怖いさ。(力を入れてさう云ひかけて、急におだやかに)しかし病氣の話はもう止さうよ。僕も訪ねて來る人ごとに同じ事を云つてるんだから話に飽いたよ。それよりもこの頃の世間の樣子を聞かせて吳れたまへ。君が今日見舞に來て吳れたのは丁度よかつた。僕が聞きたいと思つてることを聞かせて吳れるために君が來たやうにも思はれるんだから。丸山それはどういふことなのだ?旅行の話なのか。旅行の話なのか。中塚旅行話は外の日にゆつくり聞くことにして、それよりも、差迫つて僕が聞糺したい大切な問題があるんだ。······君は昨日西野に會つたと云つたね。中山あゝ。中塚ぢや、西野から聞いたに違ひない。(獨合點をしてゐるやうに云つて)西野は知つてゐるくせに僕に隱してゐるんだから、僕は不平で堪らないんだよ。姉が僕に知らせたないのは止むを得ないとしても、西野までが隱し立てをするのは怪しからん。しかし、君は西野のやうに感傷的で、小さな人情に負けるやうな人間ぢやないから、テキパキした話を聞かせて吳れるだらう。それを僕が聞いたゝめにどういふ結果が現はれるにしても、君の性質としてそんな事を氣にしやすまいからね。丸山(呑込めない態度で)何だか大變な事件らしいね。二人は少しの間沈默。その間に、中塚は半ば身體を起して夜具に背を凭らせ枕で身體をさゝへる。差迫つて僕が聞糺したい大丸山一人で一ケ月も寢てゐちや怠屈だらうね。る病室姉さんはよく來るのかい。
    中塚あゝ、姉は每日一度づゝは必ずやつて來るよ。この頃は親類や友人の訪間客が多くなつて、怠屈しどころぢやない。ゆつくり考へようと思つてる場合に邪魔をされるくらゐだ。附添の看護姉もゐるんだが、今は用事で外へ行つてるんだ。幸ひ誰もゐなくつて君の話を聞くのに都合いゝ。丸山ぢや、みんなが君に隱してゐる一大事件を僕に云はせようとするんだね。僕の責任は重い譯だな(戲談のやうに云ふ)中塚僕の病氣がそのために惡くなる氣遣ひはないよ。却つてハツキリ分らないためにいろいろに空想して神經を惱ましていけないんだ。(空想を浮べた目附をして)僕の家は僕の入院中に破產してるんだらう。兄の關係した事業は僕の入院前に大抵いけなくなりかゝつてゐたのだが、その後急轉直下の勢ひで、兄も破產の覺悟をするまでに惡運が進んだのに違ひない。病院の費用は前金で十分に拂つて吳れるし、兄は來なくつても、姉は機嫌のいゝ顏をして親身に世話をして吳れてるんだから、家の中に不吉な事が起つてゐようとは思はれない譯なんだが、姉の世間話のうちに、僕は勘付いたのだ。僕が問詰めると、そんなことあゝ、僕の責任ははないから安心して養生して早くよくおなんなさい、退院後は溫泉へでも海岸へでも轉地療養に行けばいゝだらうなんて呑氣なことを云つてゐたが、僕は上べのうまい言葉で誤魔化さりやしないよ。僕に取つては大變な事件なんだからね。兄が破產して無一物になつたら.僕も一生の方針を立直さなけりやならんのだ。いつまでも悠長に構へちやゐられない。君や西野のやうに、生活のための職業を捜して、明日からでも働かなければならないんだからね。丸山君のいふ大事件はそんなことなのか。(冷笑を洩らして)破產の話なんぞ僕は聞きやしないがね。しかし何だらう。君の兄さんの事業が失敗したにしたところで、僕なぞとはちがつて、今日の生活に脅やかされるつてことはあるまい。······俺は少しの病氣くらゐしてもいゝから、一月ばかり寢て暮して見たいよ。中塚君の云ひさうなことだね。僕も見舞人に憐まれるよりは羨まれた方が張合ひがあつていゝ譯だが、俺が全快してこの監獄のやうな病院を出る時には、世間がまるで變つてゐて、僕がこの羸弱な身體で勞働しなければならんと思ふと、外の患者のやうに退院を樂む氣に病室
    はなれないよ。丸山僕なぞは世間が變つて吳れゝばいゝと望んでるんだが、なか〓〓變らないものだ。-月あまり社用で方々を飛步いて歸つて來ても、東京は相變らず東京だよ。僕のためにはいいやうにも惡いやうにも變つてやしない。たゞ僕の留守中に、君が病院へ入つてゐたり、杉浦さんの妻君が家出をしたりしてゐたのが變つた噂の種になつてるくらゐなものだ。(詰らなさゝうに云ふ)中塚(吃驚して)杉浦の妻君が家出をしたつて?そいつはいつのことなのだ?丸山さあ、もう十日も前のことなのだらう。僕は昨日西野に聞いたのだが、君はまだ知らないのか。中塚知らない。二三日前に見舞に來た時にも西野はそんな話はちつともしなかつた。姉からも聞かなかつた。丸山(冷然として)ぢや、病人にそんな話をしちやいけないと思つて云はなかつたのだら50姉か病人にそんな話をしちやいけないと思つて云はなかつたのだら中塚それで、杉浦の妻君はどういふ譯で家出をしたのか分つてゐるのかい。事情を詳しく聞かせて吳れないか。(興奮を努めて壓へながら訊く)丸山僕が病人のととろへ來で餘計なお墜舌をしたと思はれてもけいない中塚だつて君の方から話題を持出したんだから云つちまはにやいけないよ。僕は世間の出來事を知りたくつてならないんだ。世間の事情がひどく變つてるのをちつとも知らないで、退院して出拔けに世間へ歸つて行くのは何だか危かしいやうに思はれてならないんだ。僕は長い間高い熱でうなされて、いろんな夢を見たのだよ。その夢の中で、本當の事を見たやうにも思はれるので、どうかして夢を思ひ出さうとしてるんだが、ボンヤリして摑まへどころがなくつて困つてる。それで西野や姉に、僕の夢の糸口を開けさせようとしても、彼等は空呆けてゐて駄目なんだ。······君が來て呉れて丁度よかつた。丸山杉浦夫人の家出も、一つの新しい出來事に違ひないが、我々に取つて大して興味のあることぢやないからね。······杉浦さんは非常に煩悶をして、一たん無斷で家出をした妻君を、穩かに家へ呼入れるか呼入れないかで迷つてるさうだが、あのくらゐな程度の容貌で、病室事情を詳しく
    あのくらゐな程度の人柄の女なら、一電車に一人くらゐは見つかる譯なんだから、どうなつたつていゝと僕には思はれるがね。夫婦となるとさう簡單には行かないものか知ら。中塚それで、妻君の行方はよく分つてるのかい。丸山實家へ歸つてるのだらう。家出した少し前には、夫婦で激しい言合ひをして、たまには取組合もやつたさうだが、別段妻君の身持が惡いのぢやあるまいし、主人が浮氣してるのでもあるまいし、問題はさう深刻ぢやなさゝうだ。······僕等よりも君の方が杉浦家とは懇意なんだから、あの夫婦の言合ひの事情をよく知つてるんぢやないか。西野はあの妻君に祕密があつて、杉浦さんがそれを嗅ぎつげたことから摺着が起つてるんだと極めてつてるが、僕には信じられないよ。少し色つぽい樣子をする女を見ると、直ぐに男を拵へたがつてるやうに邪推するのは、世間の人間の惡い癖なんだよ。······人間は男でも女でも、さう大した不道德は出來ないものらしいよ。だからどつち向いても世の中は平凡だ(話にも倦怠を感じてゐるやうな風で欠伸を洩らして)さあ、僕はもうお暇にしようかな。君は橫になつて安靜にしてゐなきやいけないんぢやないか。中塚まあもつと遊んで行つて吳れ。これで君に行つちまはれちや心殘りがしていけない。今に看護婦が戾つて來たら、見舞に貰つた葡萄酒の口を開けさせるよ。姉が午餐の副食物を持つて來る時刻にもなつてるんだから、君も久振りに姉に會つて吳れたまへ。丸山君の姉さんには旅行前にお目に掛つたよ。僕はいつになつても女の人には話がしづらくつていけない。杉浦さんの妻君に會つても窮屈で打解けられなかつたが、僕のやうな男は、結婚しても自分の女房にさへ打解けたロは利けないかも知れないね。中塚君がさういふ風だから、却つて婦人に信賴されてる。姉なぞは非常に君を信用してるよ。丸山さうかねえ。中塚だから今日は姉に會つて行つて吳れたまへ。······僕は自分が死ぬるのぢやないかと思つてた時分に、君や石田さんの顏が頻りに目の前にちらついたよ。僕は深い谷底へ落ちかかつてるのを、君や石田さんの手に縋りついて落ちまいと藻搔いてゐたのだ。それで君の事を譫言に云つてたらしい。熱に浮かされていろ〓〓な譫言を云つてゐたのを、姉や看護病室
    婦にはよく聞かれてゐる譯だが、姉は僕の大切な譫言を聞いてゐながら知らん顏をしてゐる。今度こそ僕の腹の底まで姉に見透されてるやうで氣持が惡いね。(扉の方へ耳を留めて)あゝ、姉がやつて來るよ。あの足音がさうだ。丸山は居住ひを直す。中塚は寢床に橫になる。中塚もうよつぽどよくなつてゐるんだが、姉の前では苦しい樣子をしてゐるんだよ。丸山さうして甘えようと思つてるのかい。小細工をやるね。そこへ、年齡より撃美な然ひをしたよね子本風員數を持つて、「御免なさいて入つて來る。丸山を見ると、25よね子これはお珍らしい。いつ歸つていらしつたの? (懷つこさうに云つて、押入から座蒲團を出して丸山にすゝめ、彼女自身もベツドの側に坐つて)銳雄さんの病氣には困りましたよ。一時は隨分ひどかつたんですが、元から神經質で病氣弱い人なんだから、御當人の騒ぎが容易ぢやなかつたんです。氣が弱いと病氣の癒り方もおくれますのね。丸山さうでせうね。よね子(調子に乘つて)自分で死ぬることに極めて、遺言見たいなことを云つてゐたのですもの、私傍にゐて心細くつてなりませんでしたよ。私も氣の强い方ぢやないから、二人で泣いてゐたこともあつたのです。兄弟二人きりなんだから、どうあつても銳雄さんに生きてゐて貰はなければ困るんですからね。中塚姉さんはまた誇張して話してる。僕は死ぬる覺悟はしてゐたが、姉さんと泣合つたりなんかしたことはありませんよ。三十にもなつてメソ〓〓泣くなんて人聞きが惡いな。よね子ぢや、泣いたことは取消しね。(快活な笑ひを洩らして)だけど、あなたは大厄に會つた時に私と泣合ふのは恥かしいと思つてゐるの?三十にも四十にもなつたら、人間は泣いちやいけないんでせうか。丸山さんはどうお思ひになつて?丸山(興がなさゝうに)そんな問題は僕には解りませんね。中塚そんな問題よりも、杉浦さんの家庭はどうしました。よね子(怪訝な顏して)杉浦さんの家庭?あしこは別段變つたことはないでせう。中塚あしこの妻君は家出をしたといふぢやありませんか。姉さんは知つてゝ僕に隱すんで病室中塚
    すね。(責めるやうに云ふ)よね子あなたは誰からお聞きになつて?あの奥さんは身體の加減が少し惡くつて、一週間ほど前から、保養を兼れてお實家へ歸つてゐらつしやるのよ。そんなことをあなたに隱すも隱さないもないぢやないの。丸山西野君は何でも大袈裟に話すからいけないよ。よね子西野さんが杉浦さんのお家のことを何とか云つてらつしやつたんですか。·····でも、二三日前に、あの奥さんから頂いたお手紙には、變つたことは何も書いてありませんでしたよ。近々に歸つてゐらつしやるんでせう。中塚本當にあの家庭には何事もないんですか。不思議ですね。よね子杉浦さんのお家に何事もないのはあたり前ぢやないの。あなたのお家へはよく遊びに行つてゐたのだから、內輪のことも知つてゐるでせう。」中塚ぢや、杉浦家も無事だし、僕の家も破產の心配はないし、世間に變つた事はないのだから、僕は安心して退院していい譯なんですね。·····でも、あなたのお家へはよく遊び世間に變つた事はないのだよね子さうですとも。あなたが退院したら、皆さんをお招きして全快祝ひをしませうよ···丸山さん、その時は是非入らしつて下さいましな。丸山(外の事を考へてゐたのが我れに返つたやうに)えゝ。中塚姉さん、そこの葡萄酒の栓を拔いて來て下さいな。少しなら僕も飮んでもいゝでせう。よね子さうですね。お茶代りに丸山さんに差上げることにしませうね。よね子が葡萄酒の壜を提げて出て行くと、中塚は身體を擡げて、中塚姉があゝ云つてゐても、僕はまだ疑つてるんだよ。あるひは姉は杉浦家の眞相を知らないのかも知れないね。君は、石原さんや西野によく聞糺して、詳しいところを手紙で僕に知らせて吳れたまへな。丸山それは知らせてもいゝが、知つてどうするのだ?あの家の夫婦間の事が君にどういふ關係があるんだ?中塚君になら打明けてもいゝだらうな。(考へ深い目をして)實は何だよ。あの夫婦間の爭ひに僕自身の事が關係をもつてゐやしないかと思つて。病室知つてどうするのだ?あの家の夫婦間の事が君にどういあの夫婦間の爭
    丸山(ニヤリと笑つて)それは不思議だ。あんな妻君と君との間に變な譯があるとかないとか云ふことなのか。(侮蔑するやうに云ふ)中塚僕にそんな後目たいことのあらう筈はないんだが、世間の人にさう誤解されてゐやしないかと思つて。丸山誰がそんな誤解をしてるんだらう?僕はかつて誰からも聞いたことがないよ。中塚西野も僕の事に話を觸れてやしなかつたか。丸山うん。·······全體君のやうな男があんな女とどうだのかうだのと云ふのは滑稽ぢやないか。僕には人情がゝつたことは一切解らないが、しかし、杉浦さんの妻君と君との仲が怪しいなんて、想像も及ばない突飛なことだよ。中塚そんなに侮辱するものぢやないよ。僕は少し馴々しく交際し過ぎてゐたから、世間の分らずやから詰らない疑ひを受けてやしないかと思つてゐたのだ。······その事と兄の破產の事と二つの事件が、病氣中に僕の頭の中に渦を卷いてゐたのだが、さつき偶然に君の話を聞いたので、そのうちの一つの事件は僕の杞憂でも妄想でもなかつたと思はれだしたの世間の人にさう誤解されてゐやしだよ。······斷じてそんなことがないものなら、僕も安心して退院が出來るんだがね。丸山斷じてそんなことはないから安心してゐたまへ。······君が病院生活から世間へ出て行つても、世間は平凡無事で別段に異つたことはないんだから安心してゐたまへ。中塚僕は二十日ばかりの間は、生きる死ぬるの苦しい目をして來たのだが、世間はその間に少しも異つてゐないのかなあ。(獨言のやうに云ふ)丸山誰れかゞ一つ變つたことをやらかさないものかなあ。(獨言のやうに云ふ)そこへよね子、葡萄酒の口を開けて持つて來る。よね子(中塚に向つて)此間足を切つた人が、もう松葉杖を突いてトン〓〓廊下を飛んで歩いてゐるのよ。血色のいゝ顏してニコ〓〓して。元氣のいゝのにわたし感心しちやつたわ。中塚病氣を治療して貰つても、一本足になつちやたまらないな。一本足になつて生きてるより死んだ方がいゝと僕には思はれるけれど。よね子(葡萄酒を二つのコツプに注ぎながら)一本足でも大隈さんのやうにえらくなりやいいぢやありませんか。る病室(獨言のやうに云ふ)る
    中塚足が一本でも目が一つでも、天下の豪傑には大して不幸にはならないんでせうね。僕のやうな凡人にや、指にサヽクレが出來ても、眼の中へ砂つぽこりが入つたゞけでも、世に生きてる瀨がないやうに思はれるんですよ。よね子不斷はそんなでもなかつたのに。大病をしたせゐですかしら、氣が弱くなつたのは。中塚と丸山とは、よね子が注いでだした葡萄酒を飮む。中塚酒は久振りだから腸に染みるやうだ。···兄貴は晩酌のお相手がゐなくつて淋しがつてるでせう。よね子でも、この頃は忙しくつて歸りが遲いから、家で晩の御飯を食べることは滅多にないのよ。わたしこそお相手がなくつて淋しいの。一人でポソ〓〓御飯を頂くのは詰らない僕世いのよ。ものね。中塚だつて、兄貴はよつぽど遲くなつても、大抵は家へ歸つて食事をしたのに、この頃はどうしたんでせう。いくら仕事が忙しいといつても、夜中外を驅〓つてる譯ぢやあるまいし、僕には得心が行かないな。よね子またあなたの心配がはじまつたんですか。退院したら解るわ。中塚兄が僕の入院した當時に一二度來たつきり、ちつとも顏を見せないのも、僕には得心が行かないんです。兄貴が一人の弟に對して冷淡でないことはよく分つてるんだから、兄貴が見舞に來て吳れないのは、外に理由があるに違ひないと、僕は思つてるんです。よね子ぢや、わたしがどう云つたら、あなたの得心が行くんでせう。いやでも、兄さんの事業が失敗して、わたしの家が破產したことにしなきやいけないの? (氣六ヶ敷い顏して云ふ)中塚それでは云ひますがね。姉さんはいくらお粉飾をして來ても、快活らしい風をしても、この頃は次第に窶れてゐますよ。僕の入院前に比べると姉さんは窶れてる。僕の病氣を苦に病んで窶れてるのだと思つてればいゝ譯だが、義理の弟の病氣のために義理の姉が神經を疼めて窶れるなんてことは僕には信じられないんです。もつと痛切に姉さんの胸を苦めることがあるに違ひないと思はれるんだが、さうぢやないんですかね。よね子(不平を顏に現はして)銳雄さんはわたしをそんな不人情な女と思つてるんですかね。病室
    あなたの病氣を心底から氣遣つてゐればこそ、每日々々樣子を見に來るんぢやありませんか。そのためにあたしの神經も我んで夜も眠れないことがあるんです。本當の弟と義理の弟との區別をつけたことは一度もない筈なんですがね。(次第に興奮して言語がきつくなの一日目は其に來るもものびずをないんで。お給ゆたして毎日稍になたに思はれちや、わたしは立つ瀨がない。あなたはそんな風に思つてゐるんですかね。わたしは長い間思ひちがひをしてゐた。お腹の底は兄さんもあなたも同じいんですのね。中塚僕の言ひ方があなたの氣に觸つたら堪忍して下さい。······僕の病氣のために姉さんまで窶れさせちや濟みませんね。示よね子口先だけで何を云つたつて駄目ですよ。······兄さんはあなたのゐないのをいゝことにして勝手な眞似をしてゐるぢやありませんか。夜更しも夜泊りも、仕事のためだか何のためだか。中塚兄貴が僕のゐないのをいゝことにして遊ぶつてことはありませんよ。それは姉さんの誤解だ。兄貴はそんな男ぢやありませんよ。それは姉さんのよね子ぢや、さう思つてゐらつしやい。(丸山の方を向いて顏を柔らげて)丸山さんの前でこんなことを言合つたりして、お恥かしい譯ね。丸山なあに。(强ひて笑ひを浮べて)僕はもうお暇しませう。中塚(あわてゝ引留めるやうに)まあもつとゐて吳れたまへな。よね子は、丸山を引留めるためのやうに、その前のコツプに葡萄酒を注ぐ。壜を持つたよね子の手付に、二人の男は一しよに目を注ぐ。見られてゐるのに、よね子も氣がつく。よね子わたしの手付が變だと思つて見てゐらつしやるの?丸山は極りの惡さうに目を外らす。中塚は遠慮なく見詰めてゐる。中塚姉さんの手は非常に痩せてると思つたのです。よね子だつてわたしの手は、以前から此處の看護婦さんのやうに太つたことはありませんよ。(自分の手を自分で見て)丸山さん、わたしの手は人並よりもさう痩せてる方ぢやありませんわね。中塚世間の女と比較してどうだらうとも、以前の姉さんの手よりは痩せてゐますよ。僕はる病室以前の姉さんの手よりは痩せてゐますよ。僕は
    入院前に、兄さんの晩酌のお酌をして上げてゐた姉さんの手をよく知つてゐるんだが、僅か一月あまリの間に、こんなに痩せたのは不思議ですね。······それも僕の病氣を苦に病んだために痩せたのでせうか。(皮肉に云ふ)よね子(相手の皮肉は感じないで)さういへば、わたしの手は痩せたかも知れない。一人で心配してるとこんなになるものですかね。(溜息を吐く)中塚だから一人で心配してゐないで、僕にでも打明けたらいゝぢやありまませんか。あるひは姉さんは氣がついてゐないのか知れないが、兄貴は事業の手ちがひから失望して、家にゐつかなくなつてるのかも知れないんですよ。僕の兄は放蕩をする男ぢやなかつたんです。よね子あなたが保證なされば確かでせうね。でも、あなたの保證なさるのは昔の兄さんのことで、今の兄さんのことぢやないかも知れないわね。中塚僕は人間の中では兄貴一人を信じてゐたのに、事業には失敗しようが破產しようが、兄貴の精神だけは、天地がひつくり返つても疑はないでゐたのに、姉さんは僕の信仰を破壞しようとするんですか。何年も一しよに居て平和に暮してゐたあなたがさう云ふんだか一人でら、僕も考へて見なけりやなりませんね。兄貴がこの頃一度も見舞に來て呉れないのを、破產の所爲にしてゐたんですが、さうぢやなかつたんですか。來なくつても、腹のなかぢや僕の病氣を心配してるに違ひないと思つてゐたんですが、さうぢやないんですか。よね子それはあなたが退院して、兄さんにぢかに聞いて御覽なさい。每日お見舞に來てゐるわたしと、此方へ寄付かない兄さんと、どちらがあなたのことを案じてゐるか、後であなたにもよく分るでせう。中塚僕があんなに苦んでゐた間に、世間に何事もないつてことはないと思つてゐた。(澁面をつくつて)丸山は興味をもつて聞いてゐるんだらうね。丸山たいして興味のある話でもないぢやないか。······姉さんは戯談に云つてゐらつしゃるんだらうのに、君はふキになつてるから可笑しいことは可笑しいがね。中塚僕のやうな男が杉浦の妻君と何かの譯があると、人に思はれてると思ふのは滑稽だと君は云つてたね。僕が姉さんの話でムキになるのも君には可笑しいんかい。世間には滑稽なことが多いんだらうが、僕はどつちを向いても笑つていゝことはありやしない。る病室
    今日はわたし、よね子可笑しい話をしてあなたを笑はせて上げたいけれど、今日はわたし、そんな氣になれないから、お暇しますわ。丸山僕もお暇しよう。中塚は引留めようとはしないで目を外へ轉じる。丸山とよね子とは中塚に會釋して出て行く。よね子は扉を締めかけて、室內を顧みて、「都合でお午過ぎに來ますわ」と、お愛想を云ふ。中塚は相關せざるやうに默々としてゐる。やがて、中塚は手を伸して葡萄酒の壜を引寄せて、コツプに注いで二三杯も飮む。舞臺稍々暗くなる。中塚(獨白)さつき姉が注いで吳れた時には、話に氣を取られて何の氣なしに飮んだが、との葡萄酒は質がよくなさゝうだ。安物だな。どうせおれの病氣見舞に寄越したものにいゝ者のあらう筈はない譯か。·····馬鹿に暗くなつたが、空模樣が變つたのかな。それにしてもあんまり暗過ぎる。(周圍を見てから立上つて、窓の側へ寄つて外を見る)雨が降つて來なえらい雨が降つて來た。(しかし舞臺で雨の音はしない)丸山も姉も出拔けの雨に困つそんな氣になてるだらう。この頃の季節にこんな大雨の降るのは不思議だ。看護婦の奴何處まで行つてるんだらう。この大雨に會つたら、歸りがおそくなるだらうが、れは何だながむ起くなった。ヨヨくく見を動かして遂げに及って何なる)惡い葡萄酒のせゐか知ら。さつき姉なんかの話に馬鹿に興奮したせゐだらうか。詰らないことに神經を痛めたためか。······非常に熱が出て來た。脈も早い(自分で病狀を診察するやうに額や手に觸つて見る)以前のやうに病氣が逆戾りしなければいゝが。餘病が起つてるのぢやないか知ら······姉でももつとゐて吳れゝばよかつた。舞臺一層暗くなる。そこへ、突然姉が入つて來る。中塚、寢床の上に起上る。よね子雨がひどいから引返して來ましたよ。わたしズブぬれになつたの。中塚よく歸つて來れ吳れました。僕は急に弱つてるところなんです。よね子(相手を睨むやうに見て)あなたはわたしのやうたものでも手賴りにするんですか。義理の姉なんぞ心から自分を思つて吳れるものぢやないと云つたくせに。中塚だつて、此處には姉さんの外に誰もゐないぢやありませんか。看護婦でもゐて吳れゝ〓病室
    ばいゝんだが、いつまでも歸つて來ないし、獨りでゐると、僕の目の前にいろんないやな奴がちらついて、僕を苦めてしようがないんですよ。(自分の頭を搔〓るやうにする)よね子だつて、わたしもあなたの目の前にちらつくいやな奴の一人ぢやないの?中塚(相手を注視する)そんな筈ぢやなかつたのに。······本當の姉さんは、此間僕の苦んでゐた時には、一しよに泣いて吳れたのに。あなたはちがふ。よね子いゝ歲をして泣くなんて見つともないと、あなたは云つてゐたぢやないの。しつかりなさいよ。(外へ耳を留めて)ひどい雨だ。傘を持つてゐないし、容易に止みさうぢやなし、わたしどうしよう?中塚(無緣の人を見る如く、相手を見て獨白の如く)手が瘦せて目が窪んで、磨いた顏が雨で剝げて、骸骨のやうだ。よね子なにを獨言を云つてるんですよ。あなたは熱に浮かされても、女の顏の事を氣にし相手を見て獨白の如く)手が瘦せて目が窪んで、磨いた顏が雨あなたは熱に浮かされても、女の顏の事を氣にしてるの?中塚(獨白の如く)僕はかういふ兄や姉の家へ歸つて行かなきやならないのかなあ。〓直ぐにお醫者さんに診てお貰ひなさいよ。〓よね子氣分が惡いのなら、直ぐにお醫者さんに診てお貰ひなさいよ。わたしがさう云つて來るから。よね子、扉を開けて行く。舞臺ます〓〓暗くなる。間もなく中塚のうなり聲が聞える。花壺の落ちる音、机の倒れる音。暗闇の中へ入つて來た看護婦が何かにぶつつかつて倒れる音。キヤツと叫ぶ聲。騷がしい廊下の足音。よね子の聲大變です〓〓早く來て下さい。(けたゝましく叫んだあとで、獨白の如く)何といふ恥さらしだらう。いつそ病氣で死ねばいゝのに。わたしがさう云つて何と(株)る病室
    隣家の夫婦
    人物美戶野昌一(二十七歲。吉村家の寄食者。風采よろしからず、むしろ惡相を帶びてゐる)石川貞吉(美戶野と同じくらゐな年輩、文學者、弱々しい男)吉村寅藏(四十二歲、容貌醜くして痩身。相場師)たみ子(吉村の妻君。三十歲。肉體が年齢よりも老けてゐる) (一)十月末の午後。別莊建ての小さな家の一室の、あたりまへより廣い緣側に、贅澤な寢臺のやうな椅子が持出されてゐる。部屋の中はすべての粧飾物を剝取られてガランとしてゐる。美戶野は庭へ下りて、板塀の近くに立つて、隣家の二階を見上げてゐる熊度をして、隣家の夫婦
    「石川さん」と、聲を掛ける。「やあ。······此間うちは大變お忙しかつたやうですね」といふ聲が隣家の方から聞えて來る。「いやどうも大混雜でしたよ。僕は今日は非常に退屈してゐるんですが、遊びにゐらつしやいませんか」「えゝ、お邪魔でなければおうかゞひしませう」「どうぞ」美戶野はさう云つて板塀の側を離れて家の方へ戾つて、奥から、椅子を一つ持つて來て緣側に置く。石川が庭の橫手からノソ〓〓入つて來て、懷つこい目を向ける。石川今日は久振りによく晴れましたね。美戶野さうですね。いゝ天氣になりましたね。······さあお掛けなさい。(椅子に手を掛けて勸める)石川は緣側へ上つて、突立つたまゝ荒れた部屋の內を見廻はす。美戶野は反對に庭の方奥から、椅子を一つ持つて來て懷つこい目を向ける。······さあお掛けなさい。(椅子に手を掛けて突立つたまゝ荒れた部屋の內を見廻はす。美戶野は反對に庭の方へ目をつける。美戶野庭も汚れたまゝで打造らかしとくんです。コスモスもみんなへし折つて近所の子供にやりました。裏の柿の木には大分實が生つてるから、もつとよく熱したら自分で食べようと思つて樂しみにしてゐたんですが、昨夕のうちにすつかり盜まれてしまひました。油斷がなりませんよ。石川(相手の言葉を身を入れては聞かないで)家の中はすつかり片附けておしまひになつたんですか。美戶野えゝ。二人は向合つて椅子に腰をおろす。美戶野一昨日の晩、あの雨のしよぼ〓〓降るなかを、大あわてで荷造りをして、貨物自動車に積込んで送出したのが、夜中の二時頃でした。ちよつと戰爭のやうでした。僕はすつかり疲れちやつて、昨日は一日寢て暮しましたよ。石川あの晩、わたしは眠つきが惡かつたものですから、たび〓〓起きちや窓を開けて、此隣家の夫婦貨物自動僕はすつたび〓〓起きちや窓を開けて、此
    方の騒ぎを覗いて見たんですが、吉村さんの昂奮した聲が時々聞えて來ましたよ。······御主人が商賣に失敗なすつたつて、本當ですか。美戶野今度は、どうも本當らしいですね。(感慨を籠めて)どうせ商賣が商賣だから、いつかこんな目に會ふのは當然なんでせうが、主人に取つちや時期が惡かつたので、もう浮び上られないでせう。······この別莊だつて、大きな顏して住んでゐたつても、自分の物ぢやないんですからね。こんな小さな家一つだつて、いろ〓〓に入組んだ事情が絡んでるくらゐですから、商賣の方のいきさつは複雜で、我々にはまるで解らないんですが、家庭の內情-と云つて、夫婦きりの關係ですが-それが近頃變挺になつてるので、主人は今度は二重に苦しまされてる譯なんです。······全體こんな空屋同樣で、しかも自分の所有物でもない家に、僕がわざ〓〓留守番をしてゐるのは滑稽なんですが、そこが破產者の憎むべ1)き心理狀態なんでせうね。ここの地所は酒屋の梅屋の所有で、家は、相場をやつて銀行の金を費込んで銀行を破產させた東陽銀行の重役の坂本の名義になつてゐますが、主人は僕を此處に頑張らせといて、地主からは移轉料をせしめて、坂本にも何か因緣をつけていく······御いつらかせしめようと企んでゐるらしいんです。いや實際企んでるんです。坂本の奴も喰へない奴で、東陽銀行の破產の時には、僕の主人と共謀して、自分の財產はうまく隱蔽して自分の損害を輕くしたやうですよ。石川ひどい奴ですね。あの銀行は体業したつきり、一年經つても目鼻がつかないんで、土地の者は非常に迷惑してるやうですが。美戶野(尤もらしく重々しい口吻で)それは銀行は無論不都合ですが、田舎の人間は狡猾なくせにあまいんですね。家の大將はよくさう云つてゐましたよ。······家の店でも今まで田舍のお客をうまく騙しちや捲上げたんでせうが······石川(相手の言葉を身を入れては聞かない風で、部屋の方を顧み勝ちで)此方には贅澤ないい道具が澤山あつたのに、みんな運んぢやつたんですね。美戶野えゝ、無我夢中で運べるだけ運びました。明日にも債權者に差押へられるかと恐れて急いだのでせうが、主人の頭の調子も、今度は鐵の槌でどやされたゝめに、いくらか狂つてるやうです。あの雨ぢや大切な荷物が大分汚されたでせう。(ふと、自分が腰を掛けて隣家の夫婦一年經つても目鼻がつかないんで、土
    ゐる寢椅子へ目を落して)御覧なさい。この椅子だけは、僕が妻君に歎願して殘して貰つたのですよ。······昨日は一日この上で晝寢をしました。このクツシヨンは柔くて大變寢心地がいゝですよ。石川(今度は言葉に惹かれて目をそちらへ注いで)さうでせうね。······奧さんはこの上でよく新聞なんぞ讀んでゐらつしやいましたね。美戶野(言譯らしく)これは妻君專用の椅子といふ譯ぢやありません。主人は一週に一度此方へやつて來た時に、頭や身體を休ませるために、この上でよく寢てゐました。商賣の掛引も此處で考へてゐたらしいですよ。全體僕の主人は、大磯へ來ても、海水浴を一度やるぢやなし、散步するぢやなし、無論書物を一ページも讀みやしないし、寢ても醒めても金の事ばかり考へてるんだから、不思議な動物ですね。石川動物はひどいですね。(微笑して)しかし、御主人も藝者遊びはよくするやうぢやありませんか。美戶野主人が藝者狂ひをすると云ふんですか。(怪訝な顏をして)それは誰れにお聞きになさうでせうね。······奧さんはこの上でよ(怪訝な顏をして)それは誰れにお聞きになりましたか?石川誰れに聞いたつてことはありませんが、さういふ風評がありますよ。美戶野そりや石川さん御自身の空想の產物ぢやないですか。(面白さうな笑ひを洩らして)相場師なら藝者遊びはするだらう。藝者なら役者買ひくらゐするだらうといふのは、平凡な、誰れでも思ひつきさうなことなので、敢て、賢明なるあなたの想像力を俟たなくつてもいゝ譯ですね。······しかし、石川さん、空想といふ奴は面白いものですね。こんな柔いクツシヨンに横たはつて、秋の日に浸つて、空想を恣まゝにするのは、惡かありませんね。石川さうですとも、だから、僕も內々かういふ贅澤な寢椅子を欲しがつてゐたのです。美戶野ハヽヽヽヽ全く坐り心地がいゝですよ。ためしに腰を掛けて御覽なさい。美戶野は立つて、石川をその椅子に腰掛けさせて、自分は石川の腰掛けてゐた方の椅子に腰をおろす。美戶野さういふいゝ椅子を僕のために置いて行つてくれた主人夫婦の惡口ばかり云つちやいけませんね。······實際相場師に謹直な君子はないでせうが、家の大將は割に女には淡白隣家の夫婦
    らしいです。金錢慾が旺んなために、女慾の方は比較的衰へてるんでせう。·····いや、本當はさうでないかも知れないな。(考込む)石川それで、あなたはいつまでも此處で留守番をしてゐらつしやるんです?お一人で此處にゐちや淋しいでせう。美戶野なに、獨住ひも昨日からだから、まだ淋しいつてことは感じませんが、しかし、僕も長らくかうしちやゐられませんよ。七月のはじめから大磯へ來て、七八九十と、四月も居候で暮してゐたのだから、主人が失敗しなくつたつて、僕は僕で方針を立てて引上げようと思つてゐたんです。·····そこで、石川さん、今日は一つ、僕や主人の內輪話をしますから聞いて下さい。此間あなたをおたづねした時に、ちよつと机の上を拜見したら、「隣の夫婦」といふ題で何か書いてゐらつしやつたが、今日はその隣の夫婦の材料を供給しませ50·····いや、本お一人で此石川あれはこちらの御夫婦のことぢやありませんよ。美戶野それはどうでもいゝです。僕はあなたに聞いて頂きたいことがあるんですよ。今朝からこの椅子の上に寢ころんで、雨上りの秋の空を見ながら、久振りで自分一人で靜かに物を考へてると、僕のやうな愚鈍な人間の頭にでも、いろんな面白い感想が浮ぶんですからね。······さうだ。一昨日荷物の整理をした時に、一本だけこつそり葡萄酒を取つときましたから、今日はその口を開けて、聞き賃として御馳走しませう。美戶野はさう云つて奥へ入る。石川は寢椅子に身體をのび〓〓と伸して快感を覺えてゐると、そこへ、吉村の妻君たみ子が、飾りつ氣のない、そして容色に年齡よりも老けた生地を現はして入つて來る。着てゐるお召縮緬も雨に汚れたものらしい。側へ寄つて來るのを、石川は暫く氣づかないでゐる。たみ子石川さん、お話しに來てゐらしつたの? (愛嬌を見せて云ふ)石川はそれに氣がつくと、慌てて身を起して、極りの惡さうな顏して挨拶する。たみ子いゝお天氣になりましたね。戶外を步くと溫か過ぎるくらゐですよ。彼女は緣側へ上つて部屋の中を見ると、口を噤んで感慨に打たれる。そこへ、美戶野が、奥から葡萄酒の罎とコツブ二つを提げて入つて來る。隣家の夫婦
    美戶野(驚いて)奧さん、どうなすつたのです?お一人ですか。(口早に云ふ)たみ子(何氣ないやうに)急に此方に用事が出來たから、一人で飛出して來たのよ。·····あの晩あんな思ひをして持つて歸つた荷物はね。彼地へ着くと、そつくりそのまゝ、待つてゐましたと云はないばかりで差押へられたんですよ。だから、わたしが云つてたやうに、此方で始末をつければよかつたのに、間の拔けたことつたらありやしない。美戶野そいつは馬鹿を見ましたね。たみ子おや葡萄酒があつたの?それはよかつたわね。わたしもあとで頂くから、石川さんに差上げなさいよ。わたしはちよつとあちらへ行つて見て來ますわ。たみ子奧へ入つて行く。美戶野はコツブを石川に渡して酒を注ぐ。美戶野僕の今朝からの感想も、奥さんがやつて來たので、やり直しだ。石川(相手の言葉には耳を留めないで、葡萄酒にもちよつと口をつけたゞけで、コツプを下に置いて)わたしはお暇しませう。晩にでもお遊びにいらつしやい。美戶野折角僕の感想を聞いて頂かうと思つてゐたのに、生憎でしたね。ぢや、晩にでもこ·····あ石川さコツプを下ぢや、晩にでもこの罎を提げてお宅へうかゞつて、ゆつくり飮むことにしませう。石川が庭へ下りて歸つて行くのを、美戶野は見送つたあとで、奥の方へ耳を留めながら、自分のコツブへ酒を注いで一息に飮んで、椅子に身體をもたらせる。しかし、絕えず奧の方へ氣を留める。たみ子は、前よりも生氣を含んだ態度をして入つて來る。たみ子石川さんは?美戶野あなたに遠慮して歸つて行きました。たみ子れたな落ち日にちったところを他人にららるるないががってるくつ慮なの?詰らない御遠慮ね。·····そのくせに、あの人はわたし達のことを氣にしてるやうな目をして、遊びに來るたんびに家の中なんぞじろ〓〓よく見てゐるんですよ。獨りで室借りしてゐると、かういふ家の生活でも羨ましいのか知ら。美戶野わたしの境遇をさへ義んでたことがありましたよ。たみ子同い歲だつていふけれど、あなたとは體格が大ちがひね。若い盛りに肺が惡くつち隣家の夫婦若い盛りに肺が惡くつち
    や可哀想ね。どうせ長持ちはしないんでせう。美戶野それはさうと、あなたは何か大切な忘れ物を搜しにいらつしやつたんですか。たみ子さうなのよ。美戶野お忘れ物はありましたか。たみ子えゝ。ありましたとも、それについて、あなたに手助けして貰はうと思つてるの。美戶野わたしが何かお役に立つんですか。たみ子夜逃げの荷造りや留守番なんかとは遠つて、あなたも張合ひがあることなの。美戶野(乘出して)それは何ですか。たみ子あとで分るわ。(寢椅子へ腰をおろして)わたし疲れてゐるんだから、その葡萄酒を饗んで下さいね。(黑い縮緬の羽織を脫いで抛出して)下手なことをしたものだから、わたしの衣服までもみんな捲添を喰つて押へられちやつて、雨に濡れたこんな衣服一枚きりになつたのよ。吉村のしをれ方は、それはひどいんだけど、わたしだつてあなたの目にはどんなにか見窄らしく見えるでせう。昨夕寢なかつた上に、お湯にも入らなけりや、顏さへあなたに手助けして貰はうと思つてるの。あなたも張合ひがあることなの。ろくに洗はないで來たんですもの。美戶野は默つて、たみ子の顏をぬすみ見しながら葡萄酒を注ぐ。たみ子それを快げに飮干す。たみ子零落した人間はいやなものだと、あなたは、昨日とは違つたわたしの樣子を見て、さう思つてるんぢやないの?······わたし、今日は疲れてゐて、面倒くさい思ひはしてゐられないから、あなたに謎を掛けたり豫防線を張つたりなんぞしないで、自分の思つてることを勝手におしやべりしてしまひませうよ。······あなたには、わたしの不斷の氣持は分らなかつたでせうけれど、わたしは、今度のやうなことを、今か〓〓と待つてゐて、準備はちやんと出來てゐたのよ。(ゆつくり自分の話を自分で樂しむやうな態度で)······吉村といふ人はね、世間並みに藝者を落籍せて圍つたりしてゐるけれど、お金の事では一分一厘の拔け目のない男で、それで、どんな女にも鼻毛を讀まれるやうな男ぢやないやうに、世間の人からも云はれて、自分でも己惚れてゐたんですがね。本當は間の拔けたところがあつたの。利口さうに見える男だつて、案外利口ぢやないものよ。······だからさ。あの人は今隣家の夫婦たみ子それを快げに飮
    度破產する目に會つたのでせうし、わたしは、自分で一生口過ぎの出來るやうな準備が平生に出來てゐたのよ。·····お體裁はどうだらうとも、眞實のところを云ふと、吉村の有つてるお金と結婚したやうなんだから、吉村にお金のなくなつた時が、お互ひの緣の切れ目になるのがあたり前ぢやありませんか。吉村の方だつて、疾つくの昔わたしには飽いてゐたのだけれど、大して邪魔にはならないし、それに世間體もあるものだから、事を荒立てないで、今まで妻といふ名義を取上げようとはしなかつたのだわ。わたしの方だつて、吉村の家を出て行つても、お膳立てしてわたしを待つてゐて吳れる者が何處にもある譯ぢやないのだから、遊んで生きてゐられゝば、それだけが得だつていふ氣持で、今の今まで辛抱してゐたのですよ。(ふと、目を上げて)あなたよく聞いてゐるの?美戶野、「よく聞いてゐる」といふ樣子を目顏に現はす。たみ子わたし座興に話してるのぢやないのよ。親身に聞いて下さいね。······遊んで生きてゐられるだけが得だつていふ氣で、夫の妻として、今まで辛抱してゐたんです。わたしが變り者だからさう思ふだけで、世間の奥さんはさうぢやないのか知ら。······そんな理窟はどちらでもいいとして、美戶野さん。わたし、これから吉村の側を離れて、一人立ちで世を渡らうと思つてゐるのよ。あなたはわたしの味方になつて下さらなくつて?お金はちつとは持つてゐるのよ。(少しの間口を噤んで、何かを索るやうに相手の顏を見て)吉村といふ人は、お金にかけちや敏い男で、人の懷中にもしよつちゆう索りを入れてゐて、わたしの預金帳の金高でも、わたしの持つてる指環でも衣服でも、ちやんと頭の中に覺えてゐて、必要な時には、自分の商賣の資金に融通させようとするのだから、あたり前ぢや、祕密でしまつとく譯に行かないの。······でも、美戶野さん。わたしえらいでせう。二萬や三萬のお金は、あの吉村の目を晦ませてしまつてあるんです。美戶野は興味をもつて聞いてゐたが、二萬三萬のお金といふ言葉を聞くと、〓奮して相手の顏を見据ゑて、美戶野そんな大金をあなたは何處に持つてゐらつしやるんです? (詰責するやうな語調で云ふ)吉村さんは、今度二萬いくらとかの金が急場の間に合ふやうに手に入らなかつたゝめに、今まで持ちこたへてゐた風船玉が破れたと落膽してゐたぢやありませんか。あなた隣家の夫婦〓奮して相
    はなぜ、御自分が祕密で持つてゐるといふ大金を投出して、主人の危急を救はなかつたのです。第一吉村の店が破產すりや、あなた御自身も非常な損害を受けるんぢやありませんか。たみ子(動じないで、しかし、今までよりも言葉に力を入れて)わたしを夫婦の情愛のない女だと云つて、あなたは怒つてゐるの?美戶野さんがそんなことを云つてわたしを責めるのは滑稽に思はれてよ。······それはね、わたしだつて、此處で吉村の前へ有りたけのお金を差出して喜ばせようと思はないぢやなかつたのですけど、ここが大切な時だと、心を鬼にして引くこたへたんですよ。あなたはわたしがさう思つた心根を責めるんですか。美戶野心を鬼にして何の得になるんです?あなた夫婦は敵同士といふ譯ぢやないんでせうに。たみ子そりや敵同士ぢやないでせうね。不倶戴天の敵が、ダイヤの指環を買つて吳れたり、時節々々の流行の衣裳を買つて吳れたりすりやしないでせうから(少しの間口を噤んでから、じれつたさうに)わたし、どう云つたら自分の胸の中の氣持が人樣に分るやうに云へるんでせう?石川さんにでも智慧を借りたら、いゝ言葉が見つかるかも知れないけど。美戶野あなたの悪口を御主人の口から聞かされたことはありませんでしたたみ子さう?······吉村は女にはお金さへやつて置けばいゝと思つてゐたのだから、破產したゝめに女に逃げられるのは、自業自得で當然なの。去年でも一昨年でも、吉村が羽振りがよかつた時に、わたしの方から逃出したなら、吉村は、勝手にしろと、猫の子一匹ゐなくなつたくらゐに思つて、またお金の力で他の女を連れて來て、平氣でゐたにちがひないの。だから、わたし、今まで蟲を殺して我慢してゐたのだけど、今度は吉村も思ひ知るだらうと思つてよ。美戶野それは殘酷ですね。假りに敵同士だつたにしても、相手の弱つた時を狙つて苦しめるのは卑怯ぢやありませんか。たみ子(冷笑して)誰れでも上べでは云ひさうなことを云つてるのね。······美戶野さん。わたしが吉村にねだつて、特別に造らせたこの柔かい寢椅子は、寢心地がよかあなくつて?隣家の夫婦相手の弱つた時を狙つて苦しめ
    (媚びを寄せる)美戶野(ドギマギして)柔くていゝですね。しかしそれがどうしたのです?たみ子わたしを卑怯だと責めても、男のあなただつて、隨分卑怯だわよ。白ばくれてゐても、わたしにはちやんと分つてるわ······(自分の話を自分で樂んでるやうに)あなたは、吉村の手下になつて相場師の修業をしようつて氣があるのぢやなし他所の會社へ勤めようと思へば勤められない人でもないのに、なぜわたしの家の居候なんぞになつて、詰らない小僧か書生つぽの役目なんか勤めてゐたのです?それに何のために、大磯に三月も四3嘘仰有月も愚圖々々して日を暮してゐたのです?身體が弱いから養生のためだつて?いよ。石川さんぢやあるまいし、そんな頑丈な身體をしてゐるくせに。·····わたしには、あなたのお腹の中は分り過ぎるくらゐ分つてゐたんですよ。美戶野、相手の目を煙たがり、首垂れて、口を噤んでゐる。たみ子快心の微笑を洩らしてゐる。たみ子もう遠慮することないわ。······わたし、正直に云つちまひますがね。わたし、最初たみ子快心の微笑を洩らし······わたし、正直に云つちまひますがね。わたし、最初のうちは、あなたがいやでならなかつたの。氣味が惡いやうにさへ思はれて、吉村をつゝいてあなたを追出さうとしたこともあつたのですけれど、家へ出入りをしてゐるいろ〓〓な男のうちで、あなたゞけが慾も得も忘れて、わたしの側にゐたがつてることが分ると、不思議にあなたが好きになつたのです。生れてからはじめて、あなたのやうな人に出會つたんですからね。だから、あなたになら、掛引なしに、わたしのお腹の底の底にしまつてることでも打明けていゝといふ氣持になつてゐたのだけれど、さつきのやうに、わたしの云ふことにケチをつけられちや、わたし當てが外れちやつた。美戶野奥さんがさうお思ひになるのは止むを得ませんが、不斷お世話になつた吉村さんをどういふ意味でゞも辱めるやうなことは、わたしには出來ません。(ポツリ〓〓云ふ)たみ子(意外に感じたらしく稍々氣色ばんで)ぢや、あなたはわたしが今打明けたことを吉村に知らせようと思つてるんですか。わたしが祕密のお金を持つてることを、吉村に〓口しようと思つてるんですか。美戶野いや、そんな餘計なことは云ひたかありません。地主や家主から移轉料をゆすらう隣家の夫婦地主や家主から移轉料をゆすらう
    とするやうな惡辣な人に、手近な金の在所を〓へるやうな同情心を、わたしは持つちやゐないんです。(稍々力づいて云つて、今まで外らしてゐた口を動かして正面に相手を見る)たみ子同情心は持つてゐないかも知れないけど、あなたは吉村を恐れてゐるのね。あの一文無しになつた吉村を······美戶野わたしはあなたが恐ろしくなつたのです。(ふと笑つて)可笑いわたみ子わたしに關合ひをつけちや、あとが怖いと思つてゐるの?ね。長い間わたしの側にゐたあなたぢやありませんか、たとへ、わたしが惡人だつたにしても、わたしの賴み事を聞いて、わたしに力を貸して呉れたつて、別段あなたが迷惑する譯はないのでせう。世間の人に爪はじきにされる道理はないと思はれるわ。現在あなたは、性のよくない、人聞きの惡い役目を吩咐かつて、その吩咐を後生大事に守つて、こんな所にしよんぼり留守番をしてゐるんぢやないの······それとも、あなたは、わたしの味方になつて懸合ひをつけられるのを、變な風に考へてるのぢやないか知ら。わたし、吉村を離れて自由な身になつたからつて、あなたを誘惑しやうと思つてやしないわ。誤解しないやうにして下さいね、それは寄麗な氣持であたたに懸合ひをつけやうと思つたとけなの。吉村のやなう男からでも離れると、女一人ぢや、何かにつけて心細いんですもの。歲に似合はぬ甘たれた言ひ方をして、全身に媚態を現はす。美戶野はまた極りの惡い思ひをして目を外らす。美戶野······外の事はとに角、あなたは何萬といふ大金を、御主人に隱して銀行にでも預けてゐらつしやるんですか。たみ子(首を振つて)吉村の側にゐてお金を銀行へなぞ預けて、いつまでも祕密にしてゐられるものぢやない、あの人は家の中にある紙幣の匂ひまで嗅ぎつける人なんですもの······わたし、あの人から貰つたお金は、みんな自分のお粉飾に費つたり娯み事に費つたり、氣前よく懇意な人に播き散らしたりしてゐたのぢやないの。あの人もそれはよく知つてるのよ。美戶野(好奇心を起して)ぢや、奧さんは、そんな大金をどんな手段でこしらへて、どこにしまつてゐらつしやるんです?隣家の夫婦吉村のあなたは何萬といふ大金を、御主人に隱して銀行にでも預けそんな大金をどんな手段でこしらへて、どこに
    將來大金持になれさうぢたみ子大金々々と、あなたも二萬や三萬のお金に驚くやうぢや、將來大金持になれさうぢやないわね。美戶野わたしの將來をさう輕卒に極められちや困りますよ。······御主人に取つても、二萬といふ金は、店の浮沈に關するほどの大金だつたぢやありませんか。たみ子わたしに取つても、生命の種の大金なのよ。······だから、わたしの賴みも聞いて呉れない信用のない人に、その大金の在所なんぞうつかり明かされないわね。(相手の熱心な態度を眠つたさうな目で見て)わたし、此間からの疲れが出て、眠くつて爲樣がないから、この椅子の上で一眠りしませう。その間に何か三品ばかり、おいしい物を禱龍館へ誂へといて、目が醒めたら直ぐに御飯が頂けるやうにしといて下さいね。葡萄酒のせゐで眠くつて慾も得もなくなつちやつた。寢臺椅子の上に身體をのばして、ハンケチを顏にあてゝ目をつぶる。美戶野はたみ子の方へ身を寄せて、美戶野吉村さんは東京の何處にゐらつしやるんです?あなたも二萬や三萬のお金に驚くやうぢや、二萬美戶野はたみ子のたみ子何處と云つて、お妾さんの家の外に泊る所はないぢやないの。お妾さんが、今までの御恩返しのつもりで食べさせて吳れるんでせう。感心ね。(眠さうな聲で云ふ)美戶野それであなたは安心して眠つてゐられるんですか。二萬圓の大金さへ御自分で持つてればいゝんですか。たみ子二萬圓々々々と、大きな聲で云つて、若しも泥棒や借金取りに聞かれたら大變ぢやないの? (眠さうに)そこへ、電報と呼ぶ聲と、門の戶を叩く音が聞える。美戶野、返事をして庭へ下りて、片隅へ姿を消す。電報配達の聲伊藤たみ子といふ人が此方に居りますか。美戶野の聲伊藤たみ子?家が違ふんぢやありませんか。······あゝさうか。吉村方としてあるな。ぢや、此方だ〓〓美戶野、電報紙を見ながら元の所へ戾つて來る。美戶野奧さん、電報ですよ。(と、二度續けて云ふ。たみ子が目を醒まさないので、肩に手隣家の夫婦今まで大きな聲で云つて、若しも泥棒や借金取りに聞かれたら大變ぢや門の戶を叩く音が聞える。美戶野、返事をして庭へ下りて、······あゝさうか。吉村方としてたみ子が目を醒まさないので、肩に手
    を當てゝ搖起す)奧さん、電報が來ましたよ。たみ子(横になつたまゝ、寢呆聲で)誰れから來たの?讀んで下さいな。やない?美戶野(電報紙の封を切つて)今歸れ、あしこで待つ梅浦、とありますよ。藤たみ子としてあります。たみ子梅浦?へえ······よく分つてよ。有難う。美戶野(椅子の側に添つて立つて)ぢや、あなたは今夜東京へお歸りになるんですか。たみ子どうだか分らないわ。(また眠りに落ちかける)美戶野梅浦といふのはどんな方なんです?わたしの聞いたことのない名前ですね。たみ子さう?今度紹介するから會つて御覽なさい。大した人ぢやないの。美戶野奧さんは、もう吉村の姓を棄てたんですか。たみ子······だから、わたし、もう奧さんぢやないのよ。美戶野(氣を變へて)ぢや、わたしは料理を誂へて來ませう。讀んで下さいな。······澤井からぢあしこで待つ梅浦、とありますよ。それで宛名は伊電報の返事は出さなくつてもいゝんですか。たみ子は答へないで熟睡に落ちる。美戶野は、他の椅子に腰をおろして、電報紙を穴の開くほど見詰めて考へてゐたが、やがて、それを抛出して庭へ下りて外へ出て行く。自働車の音や荷馬車などの物音が、閑寂な空氣を破つて聞える。奥の襖が開く。背廣を着て中折帽子を橫つちよに被つた吉村が、著るしく憔悴した顏して入つて來る。美戶野の腰掛けたゐた椅子に、倒れるやうに腰をおろして、暫くたみ子の寢姿を見る。やがて立上つて、彼女を搖動かす。容易に目を醒まさないので、烈しく搖動かす。たみ子、薄目を開けて吉村の顏を夢のやうに見ながら、だるさうに身體を起して、たみ子ぐつすり眠つてゐたのに(と呟いて、不平らしく)あなた何しに此處へいらしつただるさうに身體を起して、あなた何しに此處へいらしつたの?わう·吉村おれも大磯へ寢に來たのだ。昨夕も一昨夜も二晩つゞけて一睡もしなかつたのだから。たみ子ぢや、そこでお休みなさい、葡萄酒でも飮んで。隣家の夫婦
    (コツプに酒を注いで、吉村(はじめて葡萄酒の罎に目をつけて)これはいゝものがあつた。(コツプに酒を注いで、一息に飮干して)お前はいつ此處へ來たのだ。たみ子(眠足らない頭を興奮させて)わたし、今來たばかしなの。······あなたはわたしのあとを追つて來たんですね。吉村いや、さうぢやない。昨日の朝お前に別れてから、おれは方々駈ずり廻つて、いろ〓〓後始末をして、いよ〓〓素裸になつて、何か小さな事業でもやりださうかと決心をしたのだが、どうにも身體が疲れてならないから、不意に思ひついて此處へ眠りに來たのだ。······おれは何十年の神經の疲れが一度期に出たのか、東京のやうな騷々しいところではとても眠られない。汽車の中でも眠れなかつた。たみ子でも、あなたは東京でよくお休みになれる所が一軒あるぢやありませんか。わたしには落着いて寢られる所がどこにもないのだけれど。吉村おれにだつて、落着いて寢られる所はどこにもありやしないよ。たみ子(皮肉に)高砂町にはお立派な御別宅があるぢやありませんか。······あなたはわたしのあわたし吉村(相手の皮肉を感じないやうに)かうなつたらあしこも他人だ。(力なく云つて)おれももう二日持耐へてゐたならこんなに襤褸を出さないで濟んだのだが。昨日と今日の二日ぶつ續けに、天まで屆くぐらゐに相場が騰つた。おれも、今度こそ、いよ〓〓運に見放されたことが分つたよ。たみ子(夫の言葉には感動しないで)高砂町ではあなたを寄付けないんですか。そんな薄情な女なんですかね。(獨言のやうに云ふ)吉村さうぢやないが、あいつの事は今云つて吳れるな。おれは此間うちからいろ〓〓なことで頭がゴタ〓〓して目が眩んでゐたから、頓間なことばかりやつて、取返しのつかない大失敗をやらかしたのだが、おれはもう諦めてる。それで、當分は此處にすつ込んでゐようと思ふ。お前も此處にゐるつもりなんだらうな。(親しみを持つて云ふ)たみ子(呆れた顏して)わたしは今夜のうちに東京へ歸るつもりにしてゐるんです。あなたは當分此處にすつ込んでゐるんですつて?······へえ、不思議ねえ。あなたの量見が分らないわ。昨日あなたとあんなに打明けたお話をして、今度の事を機會に、わたしはわた隣家の夫婦そんな薄情
    しの道を步いて行くやうに、お話が極つたのぢやありませんか。あなたに拵へて頂いた衣服をそつくり差押へられて、わたしだつて、今日から裸同樣の身になつてるんです。それで、わたしのやうな者が側にゐちや、足手纒ひで、あなたも御迷惑でせうから、昨日お話しゝたやうに、これを限りにわたしに取合はないやうにして下さい。·····今日此處であなたにお目に掛らうとは、わたし夢にも思はなかつたんですからね。と吉村お前が昨日云つたことは自暴自棄と云ふものだ。その年齡になつておれを離れていゝ事のあらう筈はないんだ。···此間うちお前が時々云つてゐたやうに、腐れ緣なら腐れ緣でもいゝ。その腐れ緣を一生續けて行つた方が、お前のために結句いゝことなんだよ。たみ子(目の前の蛇か蚊を拂ふやうな手付をして)親切ごかしはもう澤山です。······わたしをこんな所に押籠めて置いて、あなたは東京で勝手な眞似をしてゐたのだけど、これからはあなたの思惑通りにはなりませんよ。高砂町の女や東京の懇意な人に見くびられたからと云つて、わたしの後を追つてなぜこんな所へやつて來るんですよ? (憎さげに云つて)···意氣地のないつたらありやしない。吉村(威嚴を保つた聲で)此處はおれの家だ。おれの家へおれが入つて來たのがどうしたと云ふのだ。たみ子へえ、ここがあなたの家ですつて?わたしにそんなチヤラツポコを云つたつて駄目よ。吉村(淋しい笑ひを洩らして)さうだな。おれにもお前にも家はない譯だつたな······。(ふと、疲れてゐる目を光らせて)しかし、お前はまだちやんとおれの家の籍に入つてる。夫婦といふ名義はしつかり殘つてるぢやないか。たみ子(ふと不氣味に感じて)それがどうしたと云ふんです?法律を楯にいつまでもわたしを御自分の者にして置かうとするの?勝手な時には法律を潜つて人の物までも自分の懷中へ入れたり、法律を楯に人を虐あて來たりしたあなただ。あちらもこちらも八方塞りになつたから、せめてわたしをでもふん摑まへて、お金になるものならお金にしたいと思つてるんでせう。(わざと戯談らしい口調で云ふ)吉村お察しの通りだ。お前の身體が金になるものなら、手を切つてゞも耳を削いでゝも金隣家の夫婦おれの家へおれが入つて來たのがどうしたとここがあなたの家ですつて?わたしにそんなチヤラツポコを云つたつて駄(ふと、夫婦と手を切つてゞも耳を削いでゝも金
    にしたいと思つてるよ。······これは戯談ぢやないぜ。······おれは美戶野を相手に一杯やつて、一晩ぐつすり眠らうと思つて大磯までやつて來たのだが、お前に會つたのは不思議だ。腐れ緣でもお互ひに離れきれない緣があるんだね。お前は東京の何處かで、その濡れた衣服を脫いて、汚れた顏を拭いてお化粧でもしてゐるのだらうと、おれは邪推してゐたのだが、お前が昨日別れた時のまゝで此處に來てゐたのは、意外だつた。(意外に感じてゐるやうな目で相手を見据ゑる)たみ子和手の日差しをばしがつてわたしは気兼ねのない所で眠りたと思ったゞけなの。······折角いゝ氣持で眠つてゐたのに、眠入りばなを起されて、氣持の惡いつたらない。(獨言のやうに言つて、目をつぶつて、頭を椅子にもたらせる)吉村眠たきや遠慮なしに寢るがいゝ。おれも我慢にも目を開けちやゐられなくなつた。···大事な話は一眠りしたあとのことだ。吉村も椅子に頭をもたらせて目を閉ぢる。が、二三度止切れ〓〓に薄目を開けて、相手がそこにゐるのを見て安心したやうに、また目をふさぐ。たみ子も二三度薄目を開けて相手がそこにゐるのを氣にしては、また目をふさぐ。やがて、二人とも寢息を洩らして、前後不覺の眠りに落ちる。そこへ、美戶野が入つて來る。二人のだらしない寢ざまを、あちらを見こちらを見して、呆れた顏をして、二人の間を通つて奥へ入る。(株)また目をふさぐ。やがて、二人とも寢息を洩らして、(二)同じ家。元妻君の化粧部屋であつた部屋。今は序幕の部屋と同じやうに荒れてゐて、の粧飾もない。疊を上げて床板が一枚めくられてゐる。美戶野が床の下から埃に汚れたまゝの身體を起して、顏の塵を手の平で拂つて、息を吐く。そこへ吉村は、かの電報紙を讀み〓〓入つて來る。吉村君は何だつて床の下なんぞへ藻繰込んだのだ。さつき目を醒ますと、てゐたから氣になつて見に來たのだよ。隣家の夫婦何大きくゴト〓〓音がし
    美戶野此處へ落し物をしたから取りに入つたのです。吉村落し物をした?何を落したのだ? (床下を覗く)美戶野(ドギマギして)銀貨を落したのですが、暗くつて分りません······なに、十錢銀貨一つだけだから、どうでもよろしいです。美戶野が上へ上つて、床板を元のやうにしようとしかけるのを、吉村は押止めて、吉村この中へ金を落したつて?いゝ加減な事を云つちやいけないぜ。この部屋はたみ子のお化粧部屋で、おれにも迂濶に足を入れさせなかつたところだ。ここに何か祕密が潜んでるに違ひない。(ふと電報紙を美戶野に見せて)これを見ろ。今、これがおれの足に觸つたので取つて見たのだが、君はこの電報を知つてるんだらう。美戶野えゝ、それはわたしが受取つたのです。吉村君はこの梅浦といふ男を知つてるだらうな。美戶野いゝえ、知りません。吉村眞實に知らないのか。·····夏から、君に大磯にゐて貰つたのは、梅浦のやうな奴の來暗くつて分りません······なに、十錢銀貨一君に大磯にゐて貰つたのは、梅浦のやうな奴の來
    たみ子さういふお金をわたしが祕密で持つてゐたことを喜んで下さる?吉村(微笑して)それは極つてるさ。たみ子(獨言のやうに)大きな金儲けをして贅澤したり威張つたりしようとは思はないで、持つてるお金で、田舍でヒツソリ暮したらいゝかもしれない。(夫をよく見て)お互ひに身體が衰へてるし、年齡も取つてゐるのだし......吉村(もどかしさうに)全體誰れに預けてるのだ?たみ子(何氣なく)澤井さんに······吉村澤井に? (身體を震はせる)たみ子店員のうちで、あの男だけは頭もいゝし、信用が出來ると、昔あなたが云つてらしつたぢやないの?吉村昔はどうだつたにしろ、今はおれには敵だ。おれを潰した仲間の一人見たいなものだ。たみ子そんなことわたし知らないわ。吉村·····ぢや、不斷澤井と共謀になつて、おれの身代を削つてゐたのだな。此間ぢゆう澤隣家の夫婦
    井が倒れりやおれがよくなる、おれが倒れりや澤井がよくなると、おれとあれとは、揃つていゝ目は見られないことになつてゐたのが、お前には分らなかつたのか。(興奮してさう云つたが、ふと怒りを鎭めて)しかし、以前おれが、澤井は頭もいゝし信用が出來ると云つてゐたのを、お前は一圖に信じてゐたのだから爲方がないやうなものだ。······兎に角、その證書をおれに見せてくれないか。たみ子あなたの前でうつかり口に出したのだから、もうどうしようもない。(後悔しながら帶の間から證書を取出して)粗末にしちや困りますよ。大切なんですよ。······さあ(と、ソツと渡す)吉村(奪ふやうに受取つて、熟視してさも悅しさうに)兎に角、おれだちはこれで饑ゑないで濟むのだ。たみ子(不思議さうに)ぢや、あなたはわたしが祕密で澤井さんにお金を預けてたことを怒らないのね。吉村(その言葉を聞流して、獨言のやうに)おれは明日の朝、澤井の所へ行つて、貰へるだ(後悔しながら······さあ(と、熟視してさも悅しさうに)兎に角、おれだちはこれで饑ゑないあなたはわたしが祕密で澤井さんにお金を預けてたことを怒獨言のやうに)おれは明日の朝、澤井の所へ行つて、貰へるだけの金を貰つて來なきやならん。(その證書を大事さうにポケツトへしまつて)おれに葡萄酒をもう一杯飮まして吳れ。たみ子驚いた。あなたは斷りなしにわたしの財產を沒收するの。吉村お前がこれを持つて行つたつて、澤井が素直に金を渡すものぢやない。おれにまかせとけよ。······十日も早く、これがおれの手に入つてゐたら、おれもこんなみじめな境涯に落ちてやしなかつたのだが、おれは今になつて役に立たない愚痴を云つて、お前を責めることは止さう。たみ子さうして、わたしは何時までもあなたの側で、生命だけつないで行くんですね。(他人事のやうに云つて)どうせ爲樣がないわ。そこへ石川が入つて來る。「美戶野さん」と遠くから聲を掛ける。たみ子(そちらを見て快活な聲で)石川さん、いらつしやいましな。石川(近寄つて吉村に挨拶して)美戶野さんは居りますか。たみ子美戶野は急に思ひ立つて東京へ歸りましたよ。もう此方へはまゐりますまい。(自分醫家の夫婦(他
    の柔い椅子を離れて)まあお掛けなさいましな。石川いえ、わたしは此處で結構です。(緣側に腰を掛けて)美戶野さんは晝間會つた時には、そんなに早く歸りさうな話はしてゐなかつたのですが、變ですね。たみ子あの人も氣紛れな人なんですよ。あなたと御懇意にして頂いて、お蔭で學問が出來ていゝと喜んでゐましたのに、お別れの御挨拶にも伺はないで、隨分失禮ぢや御座いませんかね。吉村(ふと思ひついたやうに)さうだ、石川さんが遊びに來て下すつたのは丁度よかつた。あの壺を持つて來て見て頂かう。(獨言のやうに云つて、椅子を離れて奥へ入る)石川壺と云つて、何か由緒のある壺なんですか。たみ子それは汚らしい詰らない壺なんですよ。吉村は商賣に手ちがひをしたためですか、神經病み見たいになつてゐますの。壺を掘出したのを金の茶釜でも掘出したやうに思つてこれから商賣にいゝ運が向いて來るやうに思つてるらしいんですから、石川さんは、吉村に力をつけておやりになるやうに、壺を御覽になつたら、何とか吉村の喜びさうなことを仰有つて下やいましな。馬鹿らしくお思ひになるでせうけれど。石川えゝ、······どうせわたしには、骨董品の鑑定は出來やしないんですがね。なものをお掘出しになつたのは珍らしいですね。たみ子(突然に)今は何時頃で御座いませうか。石川今七時が鳴つたばかりですよ。たみ子まだそんなに早いんで御座いますかね。わたし、ました。石川今夜は此方にお泊りになるんですか。たみ子さうしてはゐられませんのですが、でも、そんわたし、もう夜が更けてるやうに思つてゐ美戶野に歸られちや留守番が御座いませんから吉村が汚い壺を提げて入つて來る。¥石川は、壺より吉村の不樣な態度に注意の目を向けてゐる。たみ子も夫の態度をのみ氣にしてゐる。吉村これですがね。見て鑑定して下さい。たゞの壺ぢやないと思ふ。隣家の夫婦
    石川拜見しませう。汚い壺を手に取つて、横にしたり逆さにしたり、指先でコツ〓〓音をさせて見たりする。夫婦は、專門家の鑑定を見てゐるやうに敬意を寄せて左右から見てゐる。石川可成り古い時代の者ですね。形も面白いぢやありませんか。しか吉村(喜んで)相當に價値のあるものでせうね。わたしなぞ無風流で一向分らないが、し形が面白い。ここの凹んでゐるところがいゝ。何に使つたものでせうな。たみ子(も目を留めて)何に使つたものでせうね。(手に取つて、石川のしたやうに指先で叩いて見て)いゝ音がするぢやありませんか。美戶野は馬鹿ねえ。あの男なぞ、學問がないから、かういふ者を見ても價値が分らないのね。吉村何に使つたものでせう?人間の骨を入れたのでもあるまいな。たみ子まさか。······屹度何か尊いものが入つてゐたんですよ。吉村もつと尊いものつて。······ぢや、誰れかの先祖が、子孫が零落した時の用に立つやうに、小判でも入れといたのかな。しかたみ子何にも入つてゐなかつたのは變ですね。吉村誰れかゞ中味を取つたのかも知れないよ。惜しいことをした。石川(考へ深さうに)人間の害になる何かを、おまじなひに、この中へ封じて、土の中へ埋めたのかも知れませんね。西洋の昔のお伽噺には、惡魔を壺に封じたなんてことがありますよ。吉村(はじめて分つたやうに)成ほどそれだ。はじめて分つた。鬼か惡魔か、人間に仇をなすものをこの中に封じ込めたのに違ひない。(壺を取つて庭へ抛投げて)こいつを掘出して葢を開けてから、美戶野はおれの側を逃出した。おれもお前も氣拔けがしたやうに萎びてしまつた。たみ子さう云へば、わたしもあなたに見せなくつていゝ者を、うつかり見せてしまつた。今日此處へ來た時のわたしは、こんなぢやなかつたのに。石川惜しいことをしましたね。その壺がおいやなら、わたしが頂いて行けばよかつたのに。吉村壺の格好がよくつても面白くつても、こんな緣喜の惡いものはお止しなさい。(さう云隣家の夫婦うつかり見せてしまつた。
    ひながらも惜しさうな目付で、壺の壞れを見入つて、獨言のやうに)見たところ雅致があるのだから、封をしたまゝで誰れかに賣りつけてやればよかつた。たみ子石川さんには、緣喜の惡い壺よりも、この寢臺椅子を、おいやでなけりや差上げませう。美戶野がゐなくなつたんですから、この椅子も不用になりましたよ。石川(喜んで)それが頂ければ何よりですが、頂いてもよろしいんでせうか。たみ子わたしは大磯生活の最後の遺物をあなたにでもお讓りすれば、それで、わたしせいせいしますわ。わたし、外には何にも自分の物は御座いませんのよ。吉村(苦笑して)美戶野の欲しがつてたものを石川さんに差上げるのか。お前はそれでいゝのかい。いろ〓〓に註文をつけて拵へさせて、長い間お前の氣に入つてたものだつたが。たみ子わたし、これでもう何にもないんです······石川さん、今直ぐにでもこの椅子を持つてゐらつしやい。······もうわたしのものぢやない。今からあなたのものなんだから。(と云つて、椅子から立上つて、自分の着てゐる衣服を見下して)わたしは、着たつきりの無一物なんですよ。わたしせい吉村その椅子が無くなると、今夜此處で寢ることが出來ないぜ。へ歸るつもりなのか。たみ子どちらでも。吉村おれとししに此處で一夜を明かしてもいつていふ氣になつたかい。たみ子だつて、わたし無一物なんですもの。どうしようもないわ。吉村おれが東京へ歸るなら、お前も一しよに東京へ歸つてもいゝと思つてるのか。たみ子爲方がないわ。無一物のわたしは、生殘つた自分の身體はあなたにおまかせする外ないぢやありませんか。石川は居づらさうにして庭の方を見てゐる。たみ子石川さんにこんなことをお聞かせして、可笑しな夫婦だと思つてゐらつしやるでせうね。石川いやわたしこそお邪魔しました。(つと立上つて)わたしは、差迫つた書き物を今夜ぢゆうに仕上げなきやならないんですから、もうお暇しませう。國家の夫婦今夜此處で寢ることが出來ないぜ。やはり今夜のうちに東京可笑しな夫婦だと思つてゐらつしやるでせ
    吉村それは御勉强ですなあ。たみ子それでは、椅子は誰れかに賴んで、あとからお屆けしませう。あなたのやうな方に使つて頂ければ、わたし大變悅しいんですわ。(最後の媚びをおくる)石川たゞ頂くのは何ですから、御不用なら、相當な代價で讓つて頂くことにしませう。···いづれ後ほど······(挨拶して出て行く)吉村(たみ子に向つて皮肉に)椅子に染みてるお前の身體のにほひを、あの男に嗅いで貰はうと思つてるのか。たみ子どうせそんなものなのよ。······あの椅子はあの肺病患者の臨終の寢床になるかも知れないの。吉村いろ〓〓な文句を云つてあの椅子を造らせた時には、まさか他人の臨終の床に使はうとは思つてゐなかつたらう。(調子を變へて)邪魔が入つて話が止切れたが、梅浦は今夜お前が來るのを待つてるんぢやないか。お前はあの電報を見ても打つちやらかしといていゝのか。(詰問するやうに云ふ)あの男に嗅いで貰は······あの椅子はあの肺病患者の臨終の寢床になるかも知たみ子梅浦さんだつて、わたしのお金を待つてるんです。お金のないわたしが、こんな、雨で汚染の出來たやうな衣服を着て、靑い顏してころげ込んで行つたのぢや、何で歡迎して吳れるものですか。吉村ぢや、今からは梅浦なぞに寄付かないで、おれと生死を共にしようと思つてるのだな。お前も氣まぐれで、云ふことが當てにならないよ。たみ子······わたし、長い間手賴りにしてゐたものを。わたしの生命同樣のものをあなたにうか〓〓渡したんですもの。吉村なるほど。お前が長い間懷中に入れて育てゝゐた生命はこれなのだな。(かの證書をポケツトから出してつく〓〓眺める)たみ子その生命同樣の者をあなたに渡したつて、あなたからその代りの、お金以上に尊いものを授かるやうな氣持はしないのだから、心細いつたらありやしない。······いつそその證書をあなたの面前で破いてしまひたいわね。吉村(急いで證書をポケツトへしまつて)これを破られてたまるものか。隣家の夫婦わたしの生命同樣のものをあなたにお金以上に尊い······いつそその
    二三お金で買へないものが、たみ子破りやしないわよ。(微笑して)それでも破いちやつたら、お金で買へないものが、わたし達に授かりやしないかと思つたゞけなの。吉村お前も愚に落ちたものだね。たみ子本當にさうだ。(ふと親しみを含んだ口調で)此處にゐるとも歸るとも、あなたの御自由になさるといゝわ。わたし、髪でも解付けて、顏でも洗ひませうよ。(頭に手をやつて)埃だらけで、見つともない樣して。(と呟く)吉村それがいゝ。おれも顏でも洗はう。美戶野の奴、あんなざまで飛出して、今時分どこへ行つてやがるだらう。あんなざまで飛出して、今時分どこ(株) -ア-大正十四年一月二十日印大正十四年一月廿五日發刷行(定價壹圓貳拾錢)著作者正宗白烏東京市牛込區矢來町三番地佐藤義亮東京市牛込區矢來町三番地新潮社。九八七六番番番番電話牛込八八八八烏番二四七一(京東)替振福幸の生人發行者亮發行所。八八八八印刷所電話小石川五九二番東京市小石川區西江戶川町富士印刷株式會社印刷者佐々木俊-
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    (8) (7) 6) (5) (4) (3) (2) (1)現代脚本叢書髑阪崎出羽守飢未能力秦法成寺物語七年の後雨の始皇髏の者作が多い。各作家の最も自信ある作品五六篇を輯めたもので、空舞渴仲間近藤經灰野庄平久保田万太郞山本有三吉長田秀雄現代戯曲界の各方面を網羅せる代表的傑作選集である。谷崎潤一郞武者小路實篤井一勇(11)次郞吉懺悔(15) (14) (13) (12 (10) (9)投◇以下續々發行◇生命の冠られたげ棄て最初の奇蹟牡丹燈籠茅の屋根第一の世界田中良氏裝畫四六判二百卅頁指輪山本有三金子洋文藤井眞澄長田秀雄鈴木泉三郎菊舞臺に上演された送料各六錢定價各壹圓池小山內寬薰品書叢小想感(9) (8) (7) (6) (3) (4) (3) (2) (1)文壇諸家の主張感想と、百草わが小畫板文學的散步泉七微苦笑藝術白醉亭漫記我が文藝陣寳のほとりの其生活ぶりを窺はしむ可き隨筆の集。艸原柱里泉菊加藤武雄氏著芥川龍之介氏著里宇野浩二氏著武者小路實篤氏著泉見鏡諄氏著花氏著泉久米正雄氏著正宗白鳥氏著鏡花氏著菊見鏡池寛氏著錢八料送◇錢ニ圓壹册-
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    版出社潮新

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