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芥川龍之介の『芭蕉雑記』に思うこと① プラトンなしでソクラテスは有名になれたか?

そもそも何故門人が集まったのか?

 芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集なるものも悉く門人の著はしたものである。これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞を好まぬ為だつたらしい。

(芥川龍之介『芭蕉雑記』)

 改めてそう言われてみると、芭蕉の元に優れた門人が集まってきたのはどうしてだろうと不思議になる。その答えはおそらく「評判を聞いて」「紹介で」という「人づて」というところに落ち着くしかないのだろうが、そもそもどのようにしてそのネットワークが拵えられたのかが不思議である。

 夏目漱石の場合は元教え子が最初に集まり、その後著作を読んだ芥川などがやってくる。この著作がないところで教師でもない芭蕉の最初の評判がどのように形成されていったのかという辺りの問題はとても興味深い。

 しかも芭蕉は「名聞を好まぬ」とある。そもそもいくら優れた作品が存在しようとも、それを誰かが評価しなければ評判は立たない。キリストも布教せねば教祖にはなれない。武井壮も六本木で坂道ダッシュせねばテレビに出られない。

 そもそもすぐれた作品が評価されるということ自体が奇跡に近いのではなかろうか。何故ならば「感覚」で評価できる音楽などに対して、俳句の評価には前提として「理解」が必要だ。易々と理解されてしまうようなものはさして優れてはいない。と、まあそこまで厳しいことは言わずとも、まったく宣伝なしに評判が立つということがそもそもあり得るものであろうか?

 私など日々noteに書いていて、誰一人弟子にしてくださいという申し出はしてこない。

 あるいは芭蕉と門人の関係は、ソクラテスとプラトンの関係のように疑わしい。プラトンの著作の中で、ソクラテスはいつもプラトンに立ち聞きされているかのようなのだが、そもそもプラトンはいつからソクラテスのストーカーをしていたのだろうか。あるいは山本荷兮は「冬の日」に収めない、それ以前の芭蕉の句に感心したからこそ芭蕉の句の編纂を思いついたのではないか。あるいはプラトンの立ち聞きしていないところでプラトンが誰かと交わした大激論が「存在」するのではなかろうか。そしてその大激論はどこにも記録されず、誰にも届かなかったのではなかろうか。

 

 寒山は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳諧は流転に任せたのではなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?
 僕は芭蕉に著書のなかつたのも当然のことと思つてゐる。その上宗匠の生涯には印税の必要もなかつたではないか?

(芥川龍之介『芭蕉雑記』)

 立原道造は紐閉じ詩集を回覧した。そして日光月光に詩を詠み捨てた。そんなはかなさを芭蕉に重ねてみようとして、私はどうしても引っかかる。それにしても芭蕉の成功は出来過ぎではないかと。芥川はその秘密を「宗匠」、つまり指導者、先生であることに見つけたようである。考えてもみればお茶でもお花でも同じことなのかもしれない。ただどうしても看板は必要だろう。

 人目につくところに自分の俳句を書きつらねれば、それが看板にはなったかもしれない。しかしそれは「名聞を好まぬ」もののできることではない。やはり芭蕉の言葉には少し無理がある。結果として見れば、むしろそういう戦略で名聞を求めたと言えるのではなかろうか。

 あるいは芭蕉はnoteに記事を書いたか。

 いや、それでは生涯誰にも知られることのない俳狂としてくびれただろう。

 あの芭蕉がね、じゃないんだよ。

 まさに今、どう?


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