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普通はそうは呼ばない 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑤

 私は恐らく悟空ではない。牧野信一も悟空ではない筈だ。しかし何故私は悟空のセクシュアリティ(の揺らぎ)の中に牧野信一のセクシュアリティ(の揺らぎ)を錯覚してしまうのであろうか。

 それはもしや私が悟空を媒介として牧野信一の何ものかを探ろうとているからではなかろうか。

 悟空はいつ迄たつても王の手を放さうとしない、果は玩具に戯るゝやうにさすつてみたり、一本一本指を数へてみたりし始めた。王は、治療さるゝといふこと以上に、大分不気味になつて、早く止めればよい、と願つて居た。けれど悟空は仲々止めない。王は目を閉ぢて辛うじて我慢しながら、首垂れて居ると、ふと、手の甲に針を刺されたやうな痛痒を感じた、ハッ……として思はず顔を上げると、悟空は頭布の中へ王の手を抱へ込んで、チクチクとその手を舐めて居るのだつた。――驚いて、王は手を引いた途端、魂は飛んでしまつた、一瞬のひらめきではあつたが、ニヤニヤと気味悪く微笑んでゐる、怖ろしい悟空の顔を瞥見した。――「キヤッ!」と叫んだ王は夢我夢中でその手をふところに押へて、緋の衣をサツと蹴つたかと見ると、煙のやうな心と動作とで逃げ去つてしまつた。王は奥殿深く沈んでしまつたが、それからといふものは恰で死人のやうになつて、その上真白な五体には火の様な熱が駆け回り、総身の筋肉は縮緬の様にブルブルと震へてゐる不思議な状態に陥つたのである。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 おそらく雄である筈の悟空が、おそらく男である筈の王の手を舐める。それはペットと人間の関係においては通常でも起こりうることではあるが、牧野信一はそれがさも自然な成り行きでもあるかのように、少しもタブーを意識させないように描いている。
 王の女々しさ、弱さもこの国の住民に関して予告されていたもので、「おかま的」であるという非難も浮かばない。ただこれがペットではなく、悟空というものを考える存在であると思いなおしてみると、やはりここにはホモフォビアに的を絞らせない気持ちの悪いものがあるのだ。

 それは既に「殺人、掠奪、姦淫」と書かれているところからの「手を舐める」というねじれの所為でもある。

 犬が「手を舐める」のは恭順の証であり、猫が「手を舐める」のは味見である。
 猿はおそらく「手を舐める」ということをしないだろう。田中康夫は岡本夏生の指をべろべろ舐めたそうだが、これはどういう種類の感情なのか私にはよく解らない。

 頭の中で画にしてみるとやはり悟空のふるまいは犬と猫の中間のような、あるいは両方の意味合いを持った行為に見える。ここで牧野は「王は、治療さるゝといふこと以上に、大分不気味になつて、早く止めればよい、と願つて居た」と王の心に寄り添い、悟空の内側を晒さないことで余計に悟空のふるまいを気味悪いものにしている。

 気味悪い?

 まあ、王でなくても驚くだろうなという風に持っていっている。

 とはいえ「恰で死人のやうになつて」「五体には火の様な熱が駆け回り、総身の筋肉は縮緬の様にブルブルと震へてゐる不思議な状態に陥つた」とはいささか過剰な反応ではないかとも思う。

 それだけ弱さというものが強調されているのだ。

 悟空は残念で堪らなかつたが、さうして居る場合でないと傍の者にせきたてられて、不性無性に薬の調合に取り掛つた。意を決して数万里の上空に駆つて無根水を得て戻つた、「つまらないな。」と思ひながら。
(悟空には王の病源病状は先にその病床に入つて其処の空気に触れただけで直ちに了解が出来て居たのであつた。即ち、王は何か極めて不慮な出来事に出会つてその驚愕の余りに、肺と肝との位置が転倒して、その日上夜間断なく泣き暮して居たが為に、肝の下に位する涙袋なるものが枯れてしまつたのである。)と明言した。この診断を聞いて感嘆したのは城の役人共だつた、その通りだつたから。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 悟空の残念が本来どこまで届くはずの残念なのかは不明ながら、残念といったからには「手を舐める」という行為は無意識の発作的なものではなく、何か目的を持った行為の初めの部分に過ぎないことが解る。つまりそれが「腋を舐める」「乳首を舐める」と進展した場合には、その先には「臍を舐める」「膕を舐める」といったところまでがあると考えてしまうと、そこで肝腎な或部分をスルーしてしまった欺瞞がそそり立つ
 しかしまだ本当にそうだろうかと疑っていないわけでもない。

 そこではないかもしれないと。

 とにかく悟空はブルシットジョブを始める。それはあらかじめやると宣言していたことなのでつまらない。

 しかし悟空には「この市民達に異様な化物として扱はれなくなつたら」という期待が報酬として用意されている筈だ。「つまらないな。」とは四月中に五月病にかかってしまう令和の新入社員のように不健康だ。

 その台詞は早すぎる。

朱紫国王の皇后と聞けば無論三国に随一の美女であることは言を俟たない。皇后は王に比ぶべき絶世の美人であつた。王と皇后との恋が如何に濃艶であるかといふ事実も勿論当然の結果として、これも言を俟たない。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 しかし牧野は悟空に向けていた意識を作者自身に振り向けさせようとするかのように、「国王の皇后」という、なんとも珍妙な言葉を持ち出してくる。これは「天皇の王妃」と言い換えてみるとその珍妙さが理解できるだろうか。「焼きそばのうどん」「カレーライスのナン」「肉まんの粒餡」。それは伊勢神宮に寺参りするような言い回しではないか。

 この言い回しからここに天皇が隠蔽されていることは隠しようもない。

 まるで隠す気のないパンツのようなものだ。


 何故牧野はここに女々しい天皇を隠蔽しなくてはならなかったのであろうか?

 それはまだ誰にも解らない。何故ならまだここまでしか読んでいないからだ。


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