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長芋は酷いじゃないか 芥川龍之介の『芋粥』をどう読むか①

 芥川龍之介の『芋粥』をどう読むかも何も、これまでこの作品には何度も触れてきた。

 それはこの作品が芥川の面白さが凝縮されたような、様々な芥川らしさが詰め込まれた傑作であり、なお汲むべき多くのことが見つかる作品だからだ。
 しかし多くの人の語る芥川に関する記録を読んでいるうちに、当然理解されているものと思われていたことが全然届いていないことが解った。例えば『戯作三昧』『蜜柑』などのように教科書に採用されていて、いちいち言葉に註釈が付いている作品でさえかなりいい加減に詠まれている。『芋粥』もまたそうしてぞんざいな扱いを受けている作品の一つである。

 元慶の末か、仁和の始にあつた話であらう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――その頃、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。
 これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、生憎旧記には、それが伝はつてゐない。恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。一体旧記の著者などと云ふ者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかつたらしい。この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ。王朝時代の小説家は、存外、閑人でない。――兎に角、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。これが、この話の主人公である。

(芥川龍之介『芋粥』)

 本当のことを書く。つまりそれが一人の作家であれば赤裸々な私生活の告白をする。そんなものが唯一の正しい文学であると信じている人がいる。しかしどこぞの馬の骨の私生活の話は生々しくも息詰まる。「この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ」と宣言したことにより、芥川には「新古典派」というレッテルも貼られた。「王朝時代の小説家は、存外、閑人でない」とは赤裸々な私生活の告白と称してどこの馬の骨とも解らないどうでもいい個人的な話を書き綴る日本の自然主義派の作家たちをまとめて「閑人」に括ってしまう態度だ。
 そしてここではむしろどこの馬の骨とも解らないどうでもいい個人であるかないかによって主人公の資格のあるなしが決まるものではないというところまで突き詰められている。これは作品の背後に事実のあるなしはどうでもいいとする芥川の私小説論の胆の部分だ。つまりどうでもいいのであってもいしなくてもいい。そこに作品の値打ちはない。事実が小説になってもいいし、空想だけで小説が出来てもいいという見立てにおいて、そもそも私小説であるかないかは問題にならなくなり、私小説というジャンルそのものが無意味と化してしまう。
 では作品の価値はどこに求めるのか。主人公たる資格は何によって保証されるのかという問いを冒頭から読者に与えている。
 某という五位、この名もなき者を主人公に選ぶという設定そのものは『今昔物語』などをみれば、さして珍しいやり口とも思えないが、大抵の物語で「なにがし」はわき役である。

 あらゆる個人名や彼や私が疲弊してしまう文学の未来を見据えるように、芥川は「某といふ五位」と書いてきた。このことが後で重要な意味を持ってくる。

 それにしても「元慶の末か、仁和の始」とは嚇かしてくるものだ。摂政藤原基経はこの時期確かに実在し、歴史書にはその記録がつづられている。


史海 [日本之部 従第10巻至第27巻]


史海 [日本之部 従第10巻至第27巻]

 しかしむしろその記録そのものはどうでもいいのであろう。芥川は語りうるぎりぎりの古い時代を持ってきた。この頃の会話がどのようになされたか、つまり日本語がどのようなものであったかという点ははなはだ怪しい。

 そして作者が書いている通り、この当時の下級官吏の記録などさすがに見つからないだろう。ただその平凡な男のことを書くというのだからこの作家には妙な意地がある。

 五位は、風采の甚揚がらない男であつた。第一背が低い。それから赤鼻で、眼尻が下つてゐる。口髭は勿論薄い。頬が、こけてゐるから、頤が、人並はづれて、細く見える。唇は――一々、数へ立ててゐれば、際限はない。我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである。
 この男が、何時いつ、どうして、基経に仕へるやうになつたのか、それは誰も知つてゐない。が、余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎々した烏帽子をかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確である。その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。(五位は四十を越してゐた。)その代り、生れた時から、あの通り寒むさうな赤鼻と、形ばかりの口髭とを、朱雀大路の衢風に、吹かせてゐたと云ふ気がする。上は主人の基経から、下は牛飼の童児まで、無意識ながら、悉くさう信じて疑ふ者がない。

(芥川龍之介『芋粥』)

 五位は外貌は非凡らしい。無論良い意味の非凡ではない。五位は村上春樹の描く平凡の国があれば王様になれるような男ではなく、牛川のような憎まれ役のようだ。顎が細いのは芥川も気にしていた。髭も生えない。実母に殴られた際は「このお平の長芋め!」と云われたようである。ただし芥川はたいそうなハンサムで通っていた。ハンサムが容姿のことを悪く書くのはちょっと意地が悪い。「同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる」とは現代のサラリーマンの殆どすべてに当てはまることなのかもしれないが、なおうだつが上がらない感じがする。そういう役目が平安時代初期に既にあったのだと作者は書いてみる。要するに千年前のブルシットジョブの中に五位を据えてみる。

 すりきれるだけのサラリーマン。

 四十を過ぎて、若い頃などなかったかのように思われる男、作者の書きようは何かこの男を卑しめようとしている。当時の四十はもうい年齢であろう。何事かを成し遂げるにはもう年を取りすぎている。作者はまだ若いが既に「駄目になってしまった人」をたくさん見てきたかのようだ。見た目が良くなくて、年を取ったら、もうできることは限られている。そしてそんな男は今でもどこかにいそうである。「駄目になってしまった人」は沢山いる。その手前でしょんぼりしている人も多いだろう。どうも五位はヒーローではなさそうだ。

 しかし、最初にこうして主人公を下げるからには、後で持ち上げる魂胆があるのかもしれない。ただこの後どうなるのかはまだ誰も知らない。この続きを書きたいのだが、確定申告のやり直しをしなくてはならないからだ。

[余談]

 それにしてもあれだな。

 

新聞集成明治編年史 第七卷

 普通にAyeとNoとか言われているけど、"used to express agreement or to say 'yes'"なんて今は使わんやろ。



 知らんこといっぱいあるな。

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