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引っかからないと解らない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む54

 

現人神とは何か


 昨日は『英霊の声』が戦前戦中の三島由紀夫作品の思想への回帰ではないと書いた。本来は『酸模』あたりからいちいち戦前戦中の三島由紀夫作品を読み解いていくべきではあるが、その前に『英霊の声』という作品に関する平野啓一郎の読みのずさんさ、あるいは読みの恣意性、あるいは「『英霊の声』論」の欺瞞というあたりを指摘しておきたい。

 普通の中学生が『英霊の声』を読み始めた時、最初に引っかかるのは「帰神(かむがかり)の会」という言葉であろう。『英霊の声』はこう書き始められている。

 浅春のある一夕、私は木村先生の帰神(かむがかり)の会に列席して、終生忘れることのできない感銘を受けた。

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 浅春(せんしゅん)という言葉は知らなくても、春が浅いんだから春の初めのことであろうとなんとなく想像がつく。しかし「帰神(かむがかり)の会」と言われて、ああ、あれかと思いつく人はまずいないだろう。

神通術六想観秘伝

 何故なら普通鎮魂帰神は「ちんこんきじん」と読み、「かむがかり」は「神懸」と書き、「帰神(かむがかり)の会」という表現は、まず使われるものではないからだ。
 この特殊な表現は以下でこのように説明される。

 帰神の法を、一名又幽斎の法といふのは、ふつうの神殿宮社で、祝詞供饌あつて、神祇をいつきまつる「顕斎の法」に比して、霊を以て霊に対する法であるから、この名があるのである。

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この説明は作品の最後に添えられた参考文献『霊学筌蹄』のほとんどそのままの書き写しである。平野はこれを、

 鴎外を思わせるような簡潔明澄なこの文体

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 としている。しかしこれはまさに森鴎外的書き写しである。

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 実は『霊学筌蹄』はある意味では科学的でもあろうとする、からっとした研究書である。「帰神」の説明をしているけれども、原典ではなさそうだ。しかも根拠が示されていない。科学的でもあろうとする、というのは例えばこのように、

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 皇道神学と心霊研究、心理学がそれとなくすり合わされているからだ。しかし「霊を以て霊に対する法」を「帰神の法」と言われていることに戸惑わないことはどうなのだろう。
 平野啓一郎は、

 作品は、まず帰神についての簡単な説明と、審神者(=木村先生)、神主(=川崎君)といった登場人物の紹介から始まる。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こうして「神」という文字を受け流している。実際、『霊学筌蹄』においては神と神霊と霊とがごっちゃになっている感じがなくもない。ただ、我々は神と仏を別々に分ける時代に生きていて、霊は主に素朴な仏教観の中に現れるものと捉えていないだろうか。ここの整理がないと何が書かれているのか理解することはむずかしい。

 まず英霊とは仏教的な概念ではなく国学的な神霊であり、神も神学的な神ではなく、国学的な神であることの確認が必要だろう。阿頼耶識を巡っては平野は詳細に三島の誤解を指摘していたが、『英霊の声』に関しては、その思想の独自性の指摘がない。

 非常な高級の神靈は別として、普通の神靈人靈其他の色々の靈は、現界に對して何事かを爲さむとする塲合は、必ず人間を介してか或ひは或物を介して行はるゝのが普通である。

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

余は今から十二年前、大和の山中に參籠して居る時、日本最古の大社たる大和國磯城郡三輪の官幣大社大神々社の神靈から十圓借りたことがある。

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 独特である。この「帰神の法」においては霊が神と呼ばれ、所謂「唯一神」というものは現れない。

 地の現界の主宰神は天照大御神の靈統を禀け給へる現人神日本天皇である。これだけの事實は是非とも一般人類の肝に、魂に、深く深く刻みつけなければならぬ。

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 それは其の筈で、北極紫微宮に於ける根本神界の方針に基き、天照大御神を中心とする神界の中央政府の存する處が太陽であり、この神界の理想を表現せらるゝ處が此の地球であるからである。

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 いわゆる太陽と天照大神、現人神の関係性に関して、三島天皇論の特殊性に最も直接的な影響を与えたのはこの『霊学筌蹄』であろう。

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 この『霊学筌蹄』はある意味でとても魅力的な本だ。大胆にして独創的、自由でさらに科学的でもあろうとする。そして悪ふざけではない。しかし果たして心霊から金を借りることが可能だろうか、と所々で引っかかる面白い本だ。

 仮に三島由紀夫の描いた「帰神の法」における神霊、あるいは神、または霊魂が『霊学筌蹄』に根拠を持つものであれば、その神霊、あるいは神、または霊魂は金を貸してくれる存在でなければならないのだ。この点をおそらく平野啓一郎は殆ど理解していないのではないか。

 あるいは神とも呼ばれる霊に関して、わずらわしさを避けるように「招来された霊」「召喚される霊」と表現し、「神」という表現を避けている。

「いかなる神にましますか、答へたまへ」

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 しかし作品では徹底して「神」という言葉と「霊」という言葉が混交されているのだ。この霊の居場所、そして辞世の句との関係についても平野啓一郎は無視している。

「今いづこに神集うてましますか」
「所の名は言へぬ。月の海上であるとだけ答へよう。志を同じくする者が、今宵は海の上に数多く集うてゐる。
 今、おんみらの家の屋根を打ち戸をうつてゐる春の嵐は、われらの息吹がおんみらの眠りをさまさうとして、早駆けてゐるのである。」

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この「月の海上」が「豊饒の海」であり「春の嵐」が「小夜嵐」であることは確かだろう。居場所を問わせ、月の海上と答えさせる。そこは地球からは見えない月の裏側で、いかに太陽神と直結していても地上の現人神の手の届かない場所だ。月修寺のようなものだ。しかしこうして神々に語られてみると、『豊饒の海』の仏教観に基づく輪廻転生の嘘話がいかにも両極端な話に思えてくる。
 冷静に眺めると、それぞれの宗教で死後の世界の存在を奪い合いしている訳で、『豊饒の海』が嘘話なら『英霊の声』も嘘話ということになる。ただ平野はこの好物であろうところのシンメトリーを見ようともしない。

 それにしても三島由紀夫は何故こうまで「霊」と「神」とを混ぜたがるのであろうか。

そして、怒れる神霊は、次のやうに神語りに語つたのである。

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この表現は「そして、怒れる霊は、次のやうに語つたのである。」「そして、怒れる神は、次のやうに神語りに語つたのである。」と改めうる。しかし三島は敢えてこのようなややこしい混交にこだわっている。
 
 その理由は天皇が描かれた時に明らかになったように思える。

 神は遠く、小さく、美しく、清らかに光つていた。

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 これは生きている現人神、天皇である。この天皇は「皇祖皇宗のおんみ霊を体現したまひ」とも表現される。
 ああ、なるほど、と思うべきところである。皇祖皇宗のおんみ霊を体現したものが現人神なのである。
 英霊は死んでようやく神霊、神々になれる。天皇だけは皇祖皇宗のおんみ霊を体現しているので生きているのに神なのだ。つまり現人神は現人霊なのだ。
 この天皇の定義の確認「『英霊の声』論」には見られない。平野啓一郎は、むしろここで

 霊たちは、天皇が「皇祖皇宗のおんみ霊を体現したまい」と語っており、自分たちと天皇との結びつきを自明視している。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 と訳の分からない解釈をしている。どうして皇祖皇宗のおんみ霊を体現することで、神々と結びつくことが出来るのか。念押しするがこれは生きている天皇の姿に関して書かれているところである。大演習の最中、白馬にまたがった大元帥陛下なのである。しかもこれを見ていた神々は当時生きていた。生きている者同士の関係の中で天皇にだけ皇祖皇宗のおんみ霊がついているのである。一人だけ霊的な存在だったのである。霊的な存在とただの生きている兵士はどう結びつくのか。

 つねに大御心の一条の光りは、戦ふわれらの胸内に射してゐた。

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この光によってである。この光が届かない月の裏側に追いやられていることの嘆きが「天皇との結びつきを自明視している」というような表現からも一切感じられない。

 これはどうしたことか。読みのずさんさなのか、あるいは読みの恣意性なのか、あるいは「『英霊の声』論」の欺瞞なのか、いずれとも決め難い。

 英霊を神々と呼び、現人神を皇祖皇宗のおんみ霊を体現した存在として見ること。天皇一人を生きているのに霊的な存在にしてしまうこと。つまり本来霊的な更新ができる筈なのに、英霊を月の裏側に追いやってしまっていること。これは「霊」と「神」とを意識的に混交させた三島由紀夫の敢えて意図したところであろう。ここをスルーして『英霊の声』を読んだとは言えないのではなかろうか。

 しかしまあなんにせよ神霊から金が借りられるという独自理論に依拠した話なので、遠目から目を細めて眺めるのが良かろうか。

 平野啓一郎はまだ『霊学筌蹄』を読んでいないようなので一読をお勧めする。馬鹿馬鹿しくてとても面白い本だ。

[余談]

 皇祖皇宗のおんみ霊という表現は「歴代天皇の魂」という意味になり、いわゆる歴代天皇を必要としない「天照大神と直結」式の天皇観とは少しずれる。あるいは三島由紀夫の天皇観は、季節ごとにブレブレと言って良いのかもしれない。

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