見出し画像

林檎とは詠めぬところが我鬼先生 芥川龍之介の俳句をどう読むか99

 久しぶりに姪を見て

かへり見る頬の肥りよ杏いろ

[大正十二年十二月一日 飯田武治宛]

 さまーずの三村が永野芽郁に対して「(おじさんが)二十歳に恋したっていいじゃない」と云っても特段いやな感じはしないが、島崎藤村が姪と関係を持ったことは何とも何ともな感じがする逸話である。

 人が誰を好きになるのも勝手だが、それぞれの文明において一定のタブーというものが設けられていて、例えば姪は異性としてみるべき対象ではないと、ごく普通に考えられてこなかっただろうか。

 芥川は最晩年この島崎藤村のふるまいについて、そもそも姪に手を正したことそのことを批判したのではなく、そこに至る欺瞞を見出して批判した。つまりそれは文明が押し付けるタブーを排した純粋な人間同士の愛ではなく、自己弁護のなし崩しの関係であり、そういう意味でこそ不純なものであるとでも言いたげなのだ。

 翻ってとらえなおせば、仮に島崎藤村という人間の純粋な本能が文明のタブーを冒してまで一途に姪に向けられたものであったとしたら、芥川龍之介はそのふるまいを非難はしなかっただろうということである。

 この句においても芥川は久々に会った姪のふっくらとした頬の杏いろに女を感じており、純粋に色気を見ているといってよいだろう。

 かへり見ているのだから。

 この「おや?」という感覚こそはまさに純粋なもので、向こうから若いお嬢さんか走ってきて胸がゆさゆさ揺れていたらつい見てしまうようなものである。そこをいい悪いと言っても仕方ない。ずさんなかつらを被ったセールスマンは常に相手の目線が生え際に向けられていることに文句は言えないだろう。それは本能なのだ。

 ここには知的なひねりはない。細工もない。ただ「かへり見る」というところに、芥川の男としての本能が表れていて、無防備と云えば無防備、剣呑と云えば剣呑な句である。
 そしてこの手紙には例の「癆咳の頬美しや冬帽子」の句の話が出てくることから、その頬は赤かったのではないかという意を強くするところである。

 それにしても杏そのものは夏の季語である。ここは寒さの中に頬を赤くする少女を置いて冬の句としたのであれば、うん、知的にひねっている。細工もある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?