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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか52『さまよえる猶太人』をどう読むか②

 これは飽くまで芥川の小説の読みの問題だとしながら「悪魔とさまよえる猶太人はキリスト教徒が日本に連れてきた」「悪魔と猶太人がセットになっている」などと書いてしまえば、何か酷く剣呑なことを書いてしまっているような気分になる。それがたとえ「十四世紀の後半において、日本の西南部は、大抵天主教を奉じていた」といった意味不明な出鱈目が仕掛けられた小説の解釈だからと云って、何を書いてもいいわけではなかろう。

 しかしよくよく考えてみれば、罪人「さまよえる猶太人」という超人的性格と堕天使として永遠に生き続けなくてはならない悪魔という存在は、どちらもキリストと云う非力な人間をことさら際立たせる役目を背負ってはいまいか。

 確かに「おしの」が言うようにキリストは「臆病もの」であろう。

 あるいは「おぎん」に拝まれることのない存在だ。

 芥川はこのほか『煙草と悪魔』でも、そして『さまよえる猶太人』でもキリストを「だし」にしか用いていない。

 キリスト教徒を悪く描き、キリストよりもキリストらしい聖なる愚人を描いてしまう。

 そしていよいよ『さまよえる猶太人』ではキリスト教の救いそのものを否定してかかる気のようだ。

 ……「されば恐らく、えるされむは広しと云え、御主を辱めた罪を知っているものは、それがしひとりでござろう。罪を知ればこそ、呪もかかったのでござる。罪を罪とも思わぬものに、天の罰が下ろうようはござらぬ。云わば、御主を磔柱にかけた罪は、それがしひとりが負うたようなものでござる。但し罰をうければこそ、贖いもあると云う次第ゆえ、やがて御主の救抜を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました。罪を罪と知るものには、総じて罰と贖いとが、ひとつに天から下るものでござる。」――「さまよえる猶太人」は、記録の最後で、こう自分の第二の疑問に答えている。

(芥川龍之介の『さまよえる猶太人』)

 芥川は何故「さまよえる猶太人」だけがクリストの呪いを負ったのだろうかという第二の疑問にかこつけて、「ふらんしす上人さまよえるゆだやびとと問答の事」の記録として以上のような「さまよえる猶太人」の口上を差し出す。

 そのロジックはシンプルなものだ。「罪を罪とも思わぬものに、天の罰が下ろうようはござらぬ」。つまり自分以外は罪を罪とも思わぬものだというのだ。

 いや、この感覚そのものはよく分かる。大抵の人は罪を罪とも思わぬものだ。基本的に反省しない。罪を認めてしまうよりも誤魔化してしまう方が楽だからだ。あるいは殆どの罪は、罪を罪とも思わぬものによってなされていないだろうか。
 それは下水渠に煙草の吸殻を捨てること、根拠なく他人の悪口を触れ回ること、自分の能力不足を省みず管理職に留まることといった、その程度のことから戦争までを貫くあらゆる罪の原因なのではないか。つまり下水渠に煙草の吸殻を捨てる人は、ただポイ捨てするよりその方が良いことだと考えているふしがある。また根拠なく他人の悪口を触れ回る人は、良く調べもせず自分の思い込みで正しい批判をしているつもりである可能性がある。自分の能力不足を省みず管理職に留まる人は、失敗を他人のせいにしている可能性が高い。戦争は聖戦だと信じられている。

 罪を罪と認めること、しかもあまりにも深刻に、他人にとっては大げさすぎるほど罪に苦しめられること、それは誰にでもできる事ではない。
 たとえば罪とも思えぬ罪で苦しみ続けてやがて自ら死を選ぶ夏目漱石の『こころ』に描かれた先生など、むしろ頭のおかしい人間なのではないかとしか思えない普通の人々に対して、芥川龍之介もう一度過剰に罪を背負う頭のおかしい「僕」を『歯車』で突き付けてはいまいか。

 そもそも『歯車』における「僕」の罪など曖昧なものだ。『こころ』の先生の罪など事故と云ってもいいくらいだ。しかし「罪を罪とも思わぬものに、天の罰が下ろうようはござらぬ」という理窟通り、先生は子供が出来ない理由を「天罰」だと言う。

 さらに芥川は罪を罪とも思わぬものに対して「はらいそ」の門を閉ざしてしまう。「やがて御主の救抜を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました」とはいかにも極端な言い分である。御主の救抜を蒙るもののうちにはキリストさえも含まれないのだ。この言い分はキリスト教がそもそももう誰一人救わないこと、キリストは最早救いの御子でさえないことを意味している。

 勝手な言い分だ。

 しかしこの勝手な言い分は案外芥川の一貫したキリスト教に対する見立てと云えるのではなかろうか。

 廊下はきょうも不相変らず牢獄のように憂鬱だった。僕は頭を垂れたまま、階段を上ったり下りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。コック部屋は存外明るかった。が、片側に並んだ竈は幾つも炎を動かしていた。僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶったコックたちの冷やかに僕を見ているのを感じた。同時に又僕の堕ちた地獄を感じた。「神よ、我を罰し給え。怒り給うこと勿れ。恐らくは我滅びん」――こう云う祈祷もこの瞬間にはおのずから僕の脣にのぼらない訣には行かなかった。 

(芥川龍之介『歯車』)

 さまよえる「僕」はコック部屋に迷い込み、神に祈る。しかし罰したまえとは云うものの許したまえとも救いたまえとも言わない。「僕」は既に「いんふえるの」にいる。御主の救抜は「さまよえる猶太人」にだけ与えられていて、クリストの呪いは芥川の作家としての人生を覆った。

 この期に及んで静かに祈祷する『歯車』の「僕」はアンチ・クリストなのであろう。



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