たった一人の為に書く 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑳
こんな人が少なくない。💗が308。csvの意味がまるで分かっていない。それで国家に文句を言っている。さらにこの時期「申告納税制度」に文句を言っている人がいる。納税については個々人が判断することなのは間違いない。それを感情に任せて「脱税してもいいのか」と罵るのは間違いだ。確定申告の時期が終わって国税庁が何もしなければ批判すればいい。
つまり?
皆何かに苛立っているだけじゃないの?
つまり?
問題は別のところにあるんじゃないの?
つまり?
芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑳と書いてあるんだから、『戯作三昧』を読めばいいのに、そこではなくて何か別のところに問題を抱えていない?
貧困?
人間関係?
目が出ない?
人生って何なのかね?
高いシャンパンを飲んで高いお寿司を食べて、いい車に乗って……。昔、ガッツ石松は「幸福」についてこう定義していた。すなわち幸福とは「いい女とやる」ことだと。しかし人生はそんなものではなかろう。その年まで生きるかどうかは別として、やがてそういう「幸福」というものは無意味になる。「人生」は今この瞬間目の前にある。それこそ何だか今にも自殺でもしてしまいそうな大学院時代の芥川のことを思えば、小説の中のこととはいえ、ここで人生の輝きを獲得する手段としての「書くこと」を見出したことは実に感慨深い。
作品が賞を貰う、本が売れるということ以上に、実は「なにかよいもの」と自分が思えるものを書いている瞬間こそが、書き手にとって最も喜ばしい時間なのではあるまいか。勿論何とか世に出んとして挫折する日々は苦しい。例えば山本周五郎のこの日記は昭和三年、清水三十六がまだ何者でもない二十五歳のワナビーである時期のものであり、読んでいていたたまれない。
こうした時代を多くの作家は経て世に出るものであろう。世に出て消えて赤貧にあえいだ稲垣足穂のような作家もいる。そしてその他大勢の世に出ないで終わった無名の作家たちにももれなく美しい人生の輝きはあったはずだ。それがなければさっさと書くことを止めて、堅気の仕事に就いただろう。
しかし美しい人生の瞬間は作家の中だけにあるのではない。間違いなく読書体験の中にもある。
例えばKの「お祝い」に気が付いた時、私は思わず「あっ」と声が出そうになり、本当に声を出したのか出さなかったのか記憶にない位、頭の中でドミノが倒れるようにあれやこれやが結びつくのを感じた。
これは「ソーセキイズグレイト」という脳科学者の茂木健一郎が広めた「アハ体験」(提唱者はドイツの心理学者カール・ビューラー)の一種なのであろうが、漱石の仕掛けは「アハ」に留まらず「アハアハアハアハアハアハ」と続いていたので強烈だった。なんせ小刀細工の死は『道草』、『行人』にまでさかのぼり、乃木静子にまでたどり着く。乃木希典はお金がなかったわけでもあるまいにとんだお祝いを差し上げたものだという考えに至ると、漱石の隱微に恐れ入るという仕掛けだ。
勿論読書の喜悦は種明かしのみにあるのではない。受け身であればこそ、他人の言葉にひどく納得させられて、それまで自分に思いつかなかったようなことが発見された時、つまり書き手が言わんとしている言葉の意味に辿り着いたとき、やはりそこにはほかに代えられない喜びと快感がある。利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉に煩わされる心でもない。それは決して高邁な思想でなくとも構わない。
私自身が記憶している本当に感動した読書体験は、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』であり、そこで述べられていたテーゼは「小さな女の子には優しくしなければならない」「海のような大きな男になろう」……というまともな大人ならばとても口に出しては言えないような単純すぎるものだった。しかしその程度のテーゼに辿り着く前には色々あり、そのテーゼが貫かれるためにはやはり色々あった。
そして今でも思う。こういうことが本当は一番大切で、そして難しいことなのではないかと。あるいはどんなに立派な理屈をこねようが、子供の上にミサイルを落としてはダメなんじゃないかと。
で、何でこんなことを書いているのかと言えば、『戯作三昧』を読み終わり、作者の一方的な勝利宣言のみがあり、愚かな読者たちは置き去りにされたままであることが解ったからだ。
この二年後芥川は批評家になる。しかし間違いだらけだ。残念ながら芥川は批評家には向いていない。
どうも芥川は天才的な書き手ではあるが、幸福な読者ではなかったのではないか。
例えばKの「お祝い」に気が付いて、それを誰かに話さない人がいるものであろうか?
しかし所詮戯作など家族にしてみれば「碌なお金にもならない」ものでしかなく、言ってみれば望ましくない代替案のようなものであり、本来あるべき姿ではないのだ。
このお百の言葉そのものは、作家というヤクザな商売を選んでしまった自分に対する自戒の意味もなくはなかろうが、むしろ作家として生きていく覚悟と自負が見える。
ただ読者はあくまで置いてきぼりなのである。漱石が「還元的感化の妙境」とまで言ったのに対して、芥川はやはり読者を「戯作者の厳かな魂が理解」できないもの、に留めている。
これはいかがなものであろうか。
確かに多くの読者は馬鹿で、八つ当たりの悪意に満ちていて、作者を利用しようとする図々しい生き物だ。しかし極めて少数ながら、戯作者の厳かな魂に到達することの出来たものも存在するのではなかろうか。現に私はKの「お祝い」に気が付いていて、そのことを本に書いた。そしてそれを読み、「あっ」と声が出て、理解した人が数人だけはいる。
だが恐らく芥川の言わんとして隠したのはそんなありきたりな読者のことではないのだ。
この時期芥川のもう一人の心の師、森鴎外は「北條霞亭」や「細木香以」「小島寳素」を書いていた。私は決してそれらすべてを手放しで素晴らしいものだとは思っていないが、森鴎外は殉死ものに一区切りをつけて、極北の史伝文学と呼ばれる新境地に進んでいた。その大正六年の同じ空間にはもう、たった一人のあらまほしき読者が存在していなかった。ほかのみんなにけなされても、その人に褒められれば良いというたった一人の読者を芥川龍之介は失ってしまっていたのだ。
伯牙絶弦という言葉がある。
その人の為に書く、その人に読んでもらいたいという事がありうる。逆に言えば、それほど書き手と読み手の関係は難しく、人は分かり合えないものなのだ。
馬琴はここで読者に救いを与えない。百年の未来にも期待しない。繰り返すがここまで読者というものを厳しく問い詰めた作品を私は他に知らない。しかしこの態度こそはたった一人のあらまほしき読者、夏目漱石への鎮魂の思いが込められたものではなかったか。作家はいつも「あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。」とたった一人の本物の読者を求めているものかもしれない。そしてそんなものが存在しないかもしれないと知りつつ猶書く。
仮にたった一人のかけがえのない読者を失っても、それでも書く、たゞ牛のやうに圖々しく進んで行く芥川の覚悟が『戯作三昧』にはある。「困り者だよ。碌なお金にもならないのにさ」とお百は嘯くが、この頃漱石夫人の鏡子はたいそうなお金を手にしていたことだろう。
これはその翌年の話ではあるが、大正六年には鏡子人のもとにもうすでにがっぽりと印税が入ってきていたことだろう。本が一番売れるのは作家が死んだ時だ。作家が死んだから本を買うような読者は禄でもない。
今買わないでどうする。
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