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超芸術トマソンではないもの

 以前、この記事で超芸術トマソンについて少し触れた。

しかし本当はそれは超芸術トマソンではなかった可能性がある。例えば

 この構造物は創造されたものではなく、何かの名残である可能性が高い。つまり現時点での構造物としての無意味さは、作り上げられたものではなく、単に結果としてそうなっただけだと考えられなくもない。それでは超芸術トマソンとは言えないのではなかろうか。例えば、

 この構造物にも現時点ではほぼ意味がない。何を護っているのかと思えば、何も護っていないのだ。

 しかし、そもそもここにある超芸術トマソン性というものは結果として現れた無意味なサークルそのものにではなく、わざわざサークルで囲んだ立木を根元から刈り取ろうとした無軌道な精神の方にあると見做すべきではなかろうか。仮にこれが超芸術トマソンであるとしたら、立木を刈り取った後にこのサークルが作られた場合のみだろう。しかしそんなあざとい意図をもって作られたものはをもはや芸術トマソンと呼ぶべきではないのかもしれない。トマソンは三振したくて三振したのではなく、ホームランを打とうとして三振したのである。立木を刈り取った後にこのサークルが作られたとしたら、それは最早悪ふざけである。
 ドラクエウォークで普段歩かない場所に誘い込まれて、この構造物に出会った。

 どこかで見たことがある。そう、「無」の感情が九割で取り上げたこの構造物と同じ形体だ。

 この構造物を見た時、私は、

 この『土偶を読む』という本であの有名な遮光器土偶が里芋だと読まれていたことを思い出した。古代の出土物は、「そもそもこれは何なのか」「なんのために作られたものか」とその意味を問われる。

 この構造物の意味を問うものはいないだろう。これはいかにも意味がない。地面から生えた三本の柱も一見意味がない。単なる無駄なものに見える。しかしそれが一つではないことを知ると、どうしてもそこに意味なり意図があったのではないかと考えてしまう。
 もしも今すぐ人類が滅びて、地球にやってきた宇宙人が「三本柱」を見て、「これは牛をつなぐためのものではないか」「いや、なんらかの宗教的なモニュメントだろう」と真面目に議論していてそこに「いや、単なるトチリだよ」と割り込んだら、「君は非科学的だ」と徹底的に嬲られることだろう。「トチリでわざわざこんなものが出来るわけがない」「トチリなら撤去されるだろう」と云われて、お尻にフリスクを詰められるかもしれない。

 あるいはこんなものが発見されれば、

 宇宙人の数学者は小一時間、地球人の数学が独自の加法を持つ可能性について考えるのではなかろうか。
 

 これは間違いなく宗教的な意味合いで受け止められるだろう。この電柱はあらゆる電柱の中で最も神聖なものであり、人々は毎日ここにお参りしていたに違いないと。しかしここには杜撰な思い込みがあるに過ぎない。ただその思い込みの激しさと執念深さに突出したものがあることだけは認めても良いだろう。ただ何故この電柱を選んだのかが分からない。
 あるいはこの電柱だけは何としても護るべきご神体なのかも知れない。人々は夜な夜なこの電柱の元に跪き祈りを捧げているのかも知れない。
 ここには芸術ではない、兎に角真面ではない何かがある。







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