ちなみに蕪村の春雨の歌は芥川が認めたもののほかにもある。
ここで芥川は「春雨」で蕪村をやっつけようとする。これはさすがに狡いのではなかろうか。「梅」ほどではないにせよ、「春雨」は散々和歌や俳句でこすられ続けてきた言葉なので、時代の古いものほどのびのびと詠めている。今まさに「春雨」で秀句が詠めるかというと、これはなかなか難しいのではなかろうか。
やってみると少し距離を取り過ぎて、つまりいかにも関係のなさそうな取り合わせになって、賺したようで、ふざけた感じになってしまう。そうでなくては似せようとしなくてもいずれかの和歌や俳句に寄ってしまう。
しかし芥川は悪気なく比較してしまう。
まず「春雨や蓬をのばす草の道」が秀句であることには誰しも文句はないと思う。和歌で言えば「春雨」と「降る」「濡れる」を引き離した歌は稀である。これが俳句になると、いかにそこから距離を取るかの勝負のようなことになる。春雨が降り、濡れるのは当たり前だからだ。その点においてもう一度蕪村の句を眺めてみるとやはり付き過ぎている感じがある。それと比較して「春雨や蓬をのばす草の道」は絶妙である。目の前に鮮やかな緑の草の道が伸びていくようだ。まさに春の名句といったところだ。
ちなみにこれが「春の雨」だとむしろ和歌では「植物を生き生きさせる」「植物が映える」という意味の取り合わせの方が多いので、凡庸のそしりを免れない。和歌データベースで確認してみて欲しい。
これで全部ではない。割合としては七、八割くらいが「植物を生き生きさせる」「植物が映える」という歌だ。
語感の問題なのかな。
ところでさて「無性さやかき起されし春の雨」はどうだろうか。春雨を音にしている訳だが、これが村雨なら解るが、私にはどうも私には春雨で起こされるというところがピンとこない。しかも「かき起こされし」なのでのどかな春のイメージとは合わないように思う。「春の雨」を音として詠んだ和歌もあるが「いとまある-やとのなかめも-しつかにて-くるれはつらき-はるのあめかな」という具合だ。
正直こちらはどうなのかなというのが私の個人の感想だ。
これならばむしろ芥川が拾わなかった、
蕪村の「春雨や菜飯にさます蝶の夢」の方が幻想的で且つ詩的で良いのではと個人的には思う。あくまで個人的にだ。ここは違うと言われると反論できない。
それにしても芥川がどこまで本気なのか判断できない。
何故ならか体調が悪いからだ。