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芥川龍之介の『奉教人の死』をどう読むか① トイレは別の方がいい


 まだまだ『さまよえる猶太人』に関しては書きたらないところがあるけれど、他の作品との関連付けで語るべきところもあり、一先ずペンを止める事にしようと思う。

 村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』でデレク・ハートフィールドという架空の作家の作品の一部が紹介され、多くの人がその実在を信じた、という話は有名であろう。

 そのデレク・ハートフィールドに関して柄谷行人が「アメリカ人も殆ど知らない、又知る必要もない」作家だと物凄い知ったかぶりをして大恥を書いたことは、終焉した近代文学1.0における心温まるエピソードの一つだ。

 今でもたまに若い読者の感想文を読むと(「ブクログ」「読書メーター」「goodreads」など)にデレク・ハートフィールドの実在を疑わないようなものが見つかることがある。
 この『奉教人の死』もそうした騒ぎを起こした作品だ。確かに何の先入観もなしに読むと、いかにも種本がありそうに思える。わざわざそういう書き方がされている。しかし実際には種本はなく、全部芥川の創作のようだ。

 これは重要なポイント。

 その筋は芥川自身によって端的にまとめられている。

 例へば「奉教人の死」といふ小説は、昔のキリスト教徒たる女が男になつてゐて、色々の苦しい目に逢ふ。その苦しみを堪へしのんだ後に死んだが、死んで見たらば始めて女であつたことがわかつたといふ筋である。

(芥川龍之介『一つの作が出来上るまで ――「枯野抄」――「奉教人の死」――』)

 つまり「死んで見たらば始めて女であつたことがわかつた」というところで作為はほぼ尽きていることになる。

 見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちや」の門に横はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、清らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。今は焼けただれた面輪にも、自らなやさしさは、隠れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、邪淫の戒を破つたに由つて「さんた・るちや」を逐はれた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼のあでやかなこの国の女ぢや

(芥川龍之介『奉教人の死』)

 いやいやいや。

 おかしい、おかしい。この話はこう始まっていた。

 去んぬる頃、日本長崎の「さんた・るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござつた。これは或年御降誕の祭の夜、その「えけれしや」の戸口に、餓ゑ疲れてうち伏して居つたを、参詣の奉教人衆が介抱し、それより伴天連の憐みにて、寺中に養はれる事となつたげでござるが、何故かその身の素性を問へば、故郷は「はらいそ」(天国)父の名は「でうす」(天主)などと、何時も事もなげな笑に紛らいて、とんとまことは明した事もござない。なれど親の代から「ぜんちよ」(異教徒)の輩であらなんだ事だけは、手くびにかけた青玉の「こんたつ」(念珠)を見ても、知れたと申す。 

(芥川龍之介『奉教人の死』)

 そもそも「ろおれんぞ」は何故男装をしていたのだろうか。これは彼女に洗礼したものの趣味なのではなかろうか。そうでなくては「ろおれんぞ」と名付けられることもない。

 洗礼名を偽った?

 性別を誤魔化して洗礼を受けた?

 いずれにせよ許されることではあるまい。「ろおれんぞ」が女であるという事実は、傘張りの娘を身籠らせた罪での破門を過ちとする証拠とはなるものの、洗礼名や男装に関する疑惑を呼び起こすものだ。

 つまり「ろおれんぞ」が女であるとして、めでたしめでたしとはならない。勿論人が死んでめでたしとはならないのは当然として、やはり「何故性別を誤魔化していたのか」という疑問が放り出されていることは間違いないのだ。

 この意地の悪さはいかにも芥川らしい捻りではあるが、何でもそうやって「芥川らしい」で片付けてはいけないような気がする。

「私はお主にさへ、嘘をつきさうな人間に見えるさうな」と、咎めるやうに云ひ放つて、とんと燕か何ぞのやうに、その儘と部屋を立つて行つてしまうた。かう云はれて見れば、「しめおん」も己の疑深かつたのが恥しうもなつたに由つて、悄々その場を去らうとしたに、いきなり駈けこんで来たは、少年の「ろおれんぞ」ぢや。それが飛びつくやうに「しめおん」の頸を抱くと、喘ぐやうに「私が悪かつた。許して下されい」と囁やいて、こなたが一言も答へぬ間に、涙に濡れた顔を隠さう為か、相手をつきのけるやうに身を開いて、一散に又元来た方へ、走つて往いんでしまうたと申す。さればその「私が悪かつた」と囁いたのも、娘と密通したのが悪かつたと云ふのやら、或は「しめおん」につれなうしたのが悪かつたと云ふのやら、一円合点の致さうやうがなかつたとの事でござる。

(芥川龍之介『奉教人の死』)

 作者を殺してテクストとして読めば、現代では「ろおれんぞ」は心は「男の兒」、体は「女」で、この「私が悪かつた」は性自認と肉体のアンバランスが齎した罪悪感ということになってしまいかねない。

 つまり芥川龍之介にそうした性自認の意識があったかどうかを無視すれば、という話だ。

 しかしよくよく考えてみれば、いずれにせよ「ろおれんぞ」が女であるにもかかわらず男として生きてきたのは事実である。そこに心の葛藤のあるなしは別として、これはシェイクスピア的な「男装」とは少し意味合いが違ってくる。「ろおれんぞ」は乞食に落ちてさえ男であり続けようとした。最後まで男らしく振舞った。これはもうテクスト論云々は抜きにして、女であるにもかかわらず男として生きてきた少年の死の話として受け止めていいのではなかろうか。

 つまり「ろおれんぞ」は傘張りの娘を身籠らせてはいなかった、というところが「落ち」なのではなく、「昔のキリスト教徒たる女が男になつてゐて」という事実が明かされるのが落ちなのだ。

 だから「ろおれんぞ」は傘張りの娘を身籠らせてはいなかったんだ、ではなく、キリスト教徒たる女が男になっていたんだ、(許されるの?)……というところが感心するところになる。

 詳しく調べたわけではないが、一般的には今でも洗礼名は勝手に変えられないものらしく、トランスジェンダーなどにはそうした困難もあるらしい。まさか芥川龍之介が『奉教人の死』でトランスジェンダーに関する問題提起をしているわけがないと思いこみたい人は放っておいて、『奉教人の死』そのものを素直に読むと、確かにここには人間を男と女に明確に分ける天主教の掟を破った殉教者という捻じれた存在が描かれているのだ。そしてその罪は許されているように思える。

 つまり奉教人衆たちは、そして芥川龍之介はキリスト教徒たる女が男になっていたことを罪とは問わなかった?

 故郷は「はらいそ」(天国)父の名は「でうす」(天主)という「ろおれんぞ」の言い分を汲めば天使「えんじえる」とでも見立ててやりたいものだが、

彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

マルコによる福音書

 天使は中性的に描かれ、乳房のふくらみはない。「ろおれんぞ」の清らかな二つの乳房は彼の矛盾であった筈なのに、そうではなくなった。それが『奉教人の死』の落ちである。


[余談]

 母はどうした?


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