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芥川龍之介の『点心』をどう読むか② 本当に彼は困ったものです



夏雄の事
 香取秀真氏の話によると、加納夏雄は生きてゐた時に、百円の月給を取つてゐた由。当時百円の月給取と云へば、勿論人に羨まれる身分だつたのに相違ない。その夏雄が晩年床に就つくと、屡枕もとへ一面に小判や大判を並べさせては、しけじけと見入つてゐたさうである。さうしてそれを見た弟子たちは、先生は好い年になつても、まだ貪心が去らないと見える、浅間しい事だと評したさうである。しかし夏雄が黄金を愛したのは、千葉勝が紙幣を愛したやうに、黄金の力を愛したのではあるまい。床を離れるやうになつたら、今度はあの黄金の上に、何を刻んで見ようかなぞと、仕事の工夫をしてゐたのであらう。師匠に貪心があると思つたのは、思つた弟子の方が卑しさうである。香取氏はかう病牀にある夏雄の心理を解釈した。私も恐らくさうだらうと思ふ。所がその後或男に、この逸話を話して聞かせたら、それはさもあるべき事だと、即座に賛成の意を表した。彼の述べる所によると、彼が遊蕩を止やめないのも、実は人生を観ずる為の手段に過ぎぬのださうである。さうしてその機微を知らぬ世俗が、すぐに兎や角非難をするのは、夏雄の場合と同じださうである。が、実際さうか知らん。(一月六日)

(芥川龍之介『点心』)

 困ったものだ。

 どう読むも何も「千葉勝が紙幣を愛したやうに」の「千葉勝」がもう解らない。

 香取秀真は近所の彫金師。

 香取秀真が加納夏雄の話をしてきて「千葉勝が紙幣を愛したやうに」とあるので、どうも紙幣の図案にかかる絵師ではないかと想像するが、あれこれ調べても名前が出てこない。

 これではどう読むのかもないものだ。


仏語より出でたる俗語の解 : 標註 衣笠宗元 著貝葉書院 1902年

 しかしここはそう難しい話にしなくとも良いだろう。「点心」とはせいろ蒸しのことではなく、食事と食事の間に物を食べて心を鎮めるというものらしい。

 つまりこれが「点心」であれば、大掛かりな骨組みや、高邁で深遠な思想はなくとも良い筈である。小さい構えのものは小さく読めばいい。無理に大きく読む必要はない。

 ただ敢えて一つだけ付け足せば、この話は或男が話を混ぜ返していて、その「所がその後或男に、この逸話を話して聞かせたら」というところの放蕩を止めない「或男」が芥川龍之介自身のことに思われて何だかおかしいのである。

 もうひとつ言えば、「点心」とはつまみ食いである。

 一日一食で生活している立場からすると、そもそも食事と食事の間に「点心」何ぞ必要ないだろうと思わなくもない。「点心」がなければ心が鎮まらないほど卑しいのかと思わなくもない。

 しかし現に「点心」とはそういうものとしてあり、芥川はつまみ食いを止められなかった。

 その芥川のつまみ食いが人生を観ずる為の手段に過ぎぬのかどうかは定かではない。今度はあの女の上に、何を刻んで見ようかなぞと考えるのはただの助平心である。

 



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