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三島由紀夫の『美しい星』をどう読むか④ ただ信じ合ふことによつて

 暁子は無事戻ってきて、年が改まる。

 さうだ。このごろ私にはわかりかけて来たのだが、かつてあれほど私を悩ました地上の人々や事物のばらばらな姿は、天の配慮なのかもしれないのだ。といふのは、宇宙的調和と統一の時が近づくに従つて、天の必然が白熱した機械のやうに昂進し、そのことが却つて、人間の考へる論理的必然的聯関ではどうにも辻褄の合はぬほど、玩具箱を引つくりかへしたやうな状態を地上に作りだしてしきつたにちがひないのだ。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 重一郎は偶然はないとして、こんなことを言い始める。しかしどうもつきつめた決定論ではない。つまり確定した未来ということまでは言わない。偶然はないけれど未来は確定していない?

 あるいはそんな世界の成り立ちもあり得るのかもしれない。いずれにせよ、未来は計算不可能な複雑さに隠されていて、予測はできない。

  二月になる。

 暁子と一雄は学校の帰りに池袋で待ち合わせて映画を観て飯能に帰る。

「私たちの事業のことも言ふつもり?」
「おひおひね。いや、どたんばまで言はないかもしれない。僕は自分の政治的野心は、最後まで隠しておく主義なんだ」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 何故だろう。

 こんな一雄の言葉に思わずどきりとしてしまう。この時三島は具体的には何も企んではいなかった筈だ。基本的に政治家が嫌いで、政治的野心は最後まで見せなかった。

 しかし知らなかった人にとっては明らかに意外だったろうと思える点に、政治家との付き合いがある。昭和四十五年八月、三島由紀夫の国防論は官房長官と総理が目にして、閣僚会議にかけられる予定であった。これは政治ではないが、政治力である。それがそのまま法制化される訳もなかろうが、その一部でも具体的に取り上げられ、真面目に議論されることになれば、三島由紀夫は裏側からはしごをかけて絶対者に迫る必要がなかったのかもしれない。正攻法で政治力を機能させるという方向性はあり得たのだ。

 無論そんなことは隠された。

 大杉家に飯能市警察署公安部高橋六郎が単独でやってきた。肩書がないのは妙なものだ。今の警察官の名刺には大抵肩書が入っている。軍隊式階級組織なので肩書にはうるさい筈だ。ここは三島があえてそうしたのだろうか?

 真夜中に一家で出かけたことを問われ、重一郎は星を見に行ったと答える。星の研究をしていて、世界平和について心配しているのだと。

「私共は人類を破滅から救はうとしてゐるんです」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 何故だろう。

 こんな重一郎の言葉に思わずどきりとしてしまう。この時三島は具体的には何も企んではいなかった筈だ。しかし既に『風流夢譚』を読み、『憂国』を書いていた三島は、『美しい星』の時点では、まだ具体的な構想ももたず、行動もしていなかった。自衛隊への体験入隊希望が四年後の昭和四十一年、楯の会の結成は昭和四十三年だ。

 二月下旬には大杉重一郎は東京一円の後援会の準備をしている。「空飛ぶ円盤の垂示により世界平和達成を願う」という講演会だ。人間のふりをしてひっそりと暮らすのではなかったのかと思うと同時に、俳句でも詠んで年寄りになるんじゃなかったのか、とも思う。

 三島由紀夫は何か差支えがあった場合はそっと引き上げるつもりでいた。そういう選択もあり得たが、そうはならなかった。

 なんというか、大杉重一郎の行動にもあまり良い予感はしない。どんどんそちらに進んでいけば、もう取り返しがつかないことになってしまうのではなかろうかと。なのにブレーキが外れるような報告も入る。竹宮から娘に宛てた手紙を全部盗み見た伊余子は、夫重一郎に、竹宮と暁子が金沢でUFOを見たということを伝えてしまう。

 彼は娘が深い怖ろしい背信を犯したと感じたのである。もし二人が一緒に円盤を見たことが本当とすれば、それは金沢の男が金星人だといふ証拠に他なるまいし、同郷の宇宙人だけが共に円盤を見ることができるとなれば、娘はこの家族の裡で一人だけ自分の出生を確認したことになり、惑星の家族の相対的な秩序も、その秩序の上に成り立つてゐた調和も崩れ、暁子は自分が金星人であることを確認する手続きにおいて、却つて、取り返しのつかない人間的な過誤を犯したことになる。なぜなら、負け惜しみとも思へようが、重一郎は、羅漢山上で一家を迎へた黎明に、つひに円盤が現はれなかつたとき、このお互ひに最終的には信じ合うべき信憑を持たない一家を、ただ信じ合ふことによつて維持する宿命、それこそもつとも超人間的宿命が、自分に課せられてゐることを発見して、むしろ喜んでゐたからである。それを暁子は、敢えて人間好みの、ほとんど肉感的な証拠の確認にまで引き下ろして、しかも一種のやましさから、親にもそのことを隠してゐたのだ。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 少々長いが、ここはいかにも三島由紀夫らしいところなので引用してみた。まさに堂々たる負け惜しみである。しかし、三島天皇論とつけ合わしてみると、どこかロジックが似ている。

 三種の神器を持っているから天皇だとか、天孫と万世一系だから天皇だ、などという肉感的な証拠の確認を三島由紀夫は認めないのだ。「お互ひに最終的には信じ合うべき信憑を持たない一家を、ただ信じ合ふことによつて維持する宿命、それこそもつとも超人間的宿命が、自分に課せられてゐることを発見し」たのは昭和天皇だったのではなかろうか。

 勿論「もし二人が一緒に円盤を見たことが本当とすれば、それは金沢の男が金星人だといふ証拠に他なるまい」とか「同郷の宇宙人だけが共に円盤を見ることができるとなれば」などは早すぎる一般化という認知バイアスに過ぎない。しかし「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」以上の屁理屈で、そんなものはすっ飛ばされる。

 しかし結局暁子も一雄も親元を離れ自分の道を行くだけだと伊余子はありきたりの家族のような話に変えてしまう。それでもなお、人間を生んでおいてもよかったとも言う。地球の自然は嫌いじゃないとも。

 このまま宇宙人さえ姿を見せなければ、何とか家族の話で収まりそうな気がする。それに重一郎の語りが増えれば「ファーターの文学」になりえるかもしれない。

 しかしこの先どうなるのかはまだ誰にも解らない。

 何故ならまだ第五章を読んでいないからだ。


[余談]

 それにしてもドナルド・キーンがこの『美しい星』の翻訳を拒んだ決定的な理由は何なのだろうか。確かに空飛ぶ円盤が出てくるという点では三島らしくもないが、改めて読み直すと文章にたるみはないし、随所に三島らしさが溢れている。要するに人を脅かすようなところが随所にある。これを三島作品として認めないというのは、いささか妙な話だ。

 読み終わるまでにその決定的なところが見つかると良いが、と思っていて。

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