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芥川龍之介の『孔雀』をどう読むか① 兼『着物』をどう読むか①

孔雀
芥川龍之介

 これは異本「伊曾保の物語」の一章である。この本はまだ誰も知らない。

「或る鴉おのれが人物を驕慢し、孔雀の羽根を見つけて此処かしこにまとひ、爾余の諸鳥をば大きに卑め、わが上はあるまじいと飛び廻れば、諸鳥安からず思ひ、『なんぢはまことの孔雀でもないに、なぜにわれらをおとしめるぞ』と、取りまはいてさんざんに打擲したれば、羽根は抜かれ脚は折られ、なよなよとなつて息が絶えた。
「その後のちまたまことの孔雀が来たに、諸鳥はこれも鴉ぢやと思うたれば、やはり打ちつ蹴つして殺してしまうた。して諸鳥の云うたことは、『まことの孔雀にめぐり遇うたなら、如何やうな礼儀をも尽さうずるものを。さてもさても世の中には偽孔雀ばかり多いことぢや。』
「下心。――天下の諸人は阿呆ばかりぢや。才も不才もわかることではござらぬ。」

(芥川龍之介『孔雀』)

 短い話なのでまたまた青空文庫からそのまま貼り付けてしまった。

 この話の面白いところは、村上春樹さんの『とんがり焼の盛衰』や『柄谷行人』のような話が、森鴎外の『沈黙の塔』であったり、芥川龍之介の『着物』などの繰り返しであり、いつでも作家と云うものは多くの無理解と向き合いストレスを貯めなくてはならないという現実の変わらなさを確認させてくれるところにある。

 芥川の『着物』は夢の話という建前で書かれた文壇からの批判に対する抗議である。

 痩せ男はこの着物の中に、傲慢不遜なあぐらを掻くと、恬然と煙草をふかし始めた。
 その時何か云つたやうに思ふが、生憎眼のさめた今は覚えてゐない。祈角夢の話を書きながら、その一句を忘れてしまつた事は、返す返すも遺憾である。

(芥川龍之介『着物』)

 この『着物』の落ちは「着物ではなく意匠」という程度のものだ。あるいは『夢十夜』のような「こんな夢を見た」という書き出しに始まりながら、少しも夢の話らしくならないところだ。あるいは「阿呆」と言わないことだ。

 一方『孔雀』では「阿呆」と書いてしまった。その芥川が黄ばんだ羽根さへ虫に食はれている白鳥の剥製に冷笑を漏らし、銀色の羽根を鱗のように畳んだ翼の幻を見て、人工の翼を手よりにした古代の希臘人のように墜落したように見えるけれども、実は鱗と羽は非常に近いものなので、芥川はその辺りのこと、鱗と羽の近接、つまり恐竜がほぼ鳥で鳥がほぼ恐竜だと気が付いていたのではないかとそんな気がして来る。

 あるいは「阿呆」はブーメランになった?

 いや、やはり「阿呆」なのは芥川ではない。

 いつまでも知ったかぶりを続けている人だ。


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