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何も書かれていない 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑧

 遥かな昔、大学の一般教養の「心理学」の大教室での講義の際に、どういう経過は忘れたが私は「そもそも人格なんてものはあるんですかね?」とド直球の質問をしたことがある。
 心理学の教授は何を警戒してか、恐る恐るこう答えた。「心理学においては人格、パーソナリティというものが一応あるとされています」
 そこからの話は覚えていない。しかし「一応」という言葉が挟まれたのは間違いない。
 それから長い時間が流れて様々な考え方にも触れてきたが、この問題にはまだ何か奥歯にものが挟まったような、あるいは動物占いのような、統計学に寄せたような曖昧なものしか見ていない気がする。

 例えば人格をパターンで考えてみると悟空には「予測できない」という人格があるように思える。しかし本来パターンとは一致を見出さなくてはならないので、「予測できない」では説明に届いていないように思える。

 しかしこれまで実際悟空はなんだかいい加減で口が達者、悲観的で楽天的、積極的で消極的と、とらえどころのない特性を見せていた。これは勿論牧野信一が意図してそのような悟空というものを造形したわけだが、テロをそそのかす玄奘三蔵法師にしても、国土を売り渡そうとする国王にしても、一言で言えば「訳の分からない」性格を見せてきた。「そもそも人格なんてものはあるんですかね?」という質問を思い出したのは、この訳の分からなさによるものだ。

「――」さて王は困惑した、此上はどんな貴重なものでも関はないから悟空の望みを尋ねて一刻も早く面前を下げてしまひたかつた。「慾のない奴だ、さればと云うてこの重大な願ひを果してもらふ上からは、王としてその儘に置くことは出来ぬ、何なりと一つ所望を申して呉れ。」
 悟空には王の声が魅力のある音楽よりも甘く響いた、貴重な宝石に口を触れてゐるやうな喜も感ぜられた、それよりも王がこれだけの文句を左程怖れてゐる様子もなく自分の前で云つたのが嬉しかつた。
 悟空は暫くの間、たゞ無暗と愉快さうにもじもじして居たが再三王に追求せられて、漸くのことで口を開いた、如何にも恥しげにニヤニヤと笑ひながら両手で抱へた頭を恰も微風にゆられてゐるが如くにして、それでも未だ口まで出かゝつた言葉が容易に発すべく決心がつかぬらしく見えたが、やつとのことで、

「えゝ……」と諛ふやうに笑つて「私は一つの望みがないのでもありませんが……少々それが申し憎いので。」と云つた。

「何なりと早く申したらよからう。」

「実は、その、……私は――その、実は、王様と……」と云ふと総身をゾクゾクと震はせた。「その、実は、たゞかうしていつ迄もお話がして居たいので御座います。」と云ひ終るや滑稽極まる亀の子のやうにして畳に顔を圧しつけてしまつた。この刹那に孫悟空は、全くの野獣に返つてしまつたのであつた。思慮分別、奇智奸計の全く欠けた畜生の一匹になつて、浅ましい卑猥な赤裸々の姿になつて転げてしまつた。神通力や妖術や豪気はおろか悲しみさへ忘れ得た心底からの山猿に変つてしまつたのである。四肢を延ばし稀めて醜い姿でだらしもなく転げ回つた。見る者は悉く目を伏せた。王は昏倒して玉座から倒れ落ちた。猿はそつと王の側へ匍ひ寄つた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 この「たゞかうしていつ迄もお話がして居たい」からの「四肢を延ばし稀めて醜い姿でだらしもなく転げ回つた」への流れは、何か真面ではないという以上に説明のつかないものではなかろうか。
 そして「見る者は悉く目を伏せた。王は昏倒して玉座から倒れ落ちた」と言われて初めて「浅ましい卑猥な赤裸々の姿になつて転げてしまつた」という言葉の意味が文字通りのもので、おちんちんをさらけ出して見せつけてしまったのだということが解る。

 この「たゞかうしていつ迄もお話がして居たい」からの赤裸々が予測できた人はいないだろう。ここまで特に悟空は露出狂じみたところを見せていなかったので、これをパターンでそろえることは難しい。

 さらに言えば「見る者は悉く目を伏せた」までは解るとして猿のおちんちんを見たくらいで「昏倒して玉座から倒れ落ちた」王様もどうかしている。それほどの刺激があるということは王様はおちんちんに無関心ではないという理屈にはなるが、この理屈がこの場合の王様に本当に当てはまっているのかどうかは疑問である。

 ここで何故か場面転換のような一行の間が差し込まれる。

 そして話はこう続く。

 暫く経つて彼が尻の毛を一本抜いて、フッと吹くと再び元の孫悟空に返つた。身には元通りな衣が纏はれ、頭上には燦たる金環が輝いて居た。同時に近臣達も目が醒め、王も蘇生した、が王は失神した如く蒼然としてゐてただピツカリと目を開いてゐるばかりで、口をきくことは勿論動くことすら出来なかつた。
 すると悟空の心臓には常に倍した偕々勃焉の血潮が蘇り、口腔からは燦々たる火気をフーフーと吐いて奮然と立ち上つた。
「王様、王様、御安心なさいませ。直ぐに悟空が皇后様を取り戻して参ります。」と云ふがいなや後をも振り向かずに、窓側へ駈け寄ると、耳から引出した金箍棒を二三遍ビュービューと唸らせた、かと見れば忽ち掌に飛雲を起し、と天につらなる白雲へ飛び乗つて、雲程万里鵬の勢ひで南の方麒麟山の空へ駆つた。
 悟空の後姿を彫像のやうに動かず凝視して居た王の白蝋の顔には、この時初めて薄い笑ゑみが刻まれた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 場面転換はしていなかった。しばらく時間が経過したようではある。「近臣達も目が醒め」とある通り、その間の出来事を知るものは悟空しかいない。さて、もしあなたなら、恋する相手が目の前で気を失い、そして誰も見ていなかったら、どうするだろうか?

 考えても見よう。

 悟空は既に王様の手を舐めているのである。殺人、掠奪、姦淫、そんな妄想をしていた悟空はこのチャンスに何もしないということがあるだろうか。ましてや「思慮分別、奇智奸計の全く欠けた畜生の一匹」でおちんちん丸出しであれば、手を舐める以上のことをしなかったと考える方が難しいのではなかろうか。

 しかし何も書かれていない。

 ここは牧野があなたの欲望を試そうとしているところだ。

 雲に乗つた悟空は、王の美しさから皇后の美しさばかりを想つた、が王の指先の美に打たれてそれ以上の美しさを想像することの出来なかつた想像で、どうして皇后の美しさを想ふことが出来るであらう。頭の中には、如何程焦つても、ただ真白な雲のやうな煙りが漂ふばかりである。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 悟空はその出来事を回想しない。意識は王の美しさから皇后の美しさの方に振り向けられたようだ。しかし「王の指先の美に打たれてそれ以上の美しさを想像することの出来なかつた想像で、どうして皇后の美しさを想ふことが出来るであらう」として「王の指先の美」を至高のものに据えてみる。それは指以上のものは味わっていないという言わけにも聞こえる。

 いやしかし一秒後には何をするか解らない猿だ。この猿を信用してはいけない。

 悟空はに乗りながら真白なのやうな煙りしか想像できないでいる。誠に雲をつかむような話である。

三の大王は雲程萬里鵬といふお名まへひととまんりかひとたからものをいんやうき前で一飛びに九萬里を駈けられる上に、一つの寳物を持つて居られます。それは陰陽二氣瓶と言つて、その中に人を閉ぢ込めると、半時間の中に溶けてしまひます。


西遊記物語 後篇
呉承恩 原作||宇野浩二 著春陽堂 1932年

「雲程万里鵬の勢ひで」とは「一飛びに九萬里を駈けられる」勢いでという意味で良かろうか。

 疑問に思った人もいまいが。

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