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『さまよえる猶太人』をどう読むか④ 養父への復讐? いえいえ。

 ここが解らないで『さまよえる猶太人』に関して何か書いている人は駄目だという話を書いてしまおう。

 それにしても④になっていまさら、つまり①~③までこのことに触れずにいるとは、こいつは何か根本的におかしいのではないかと思わないで貰いたい。いや、この『さまよえる猶太人』はややこしい話なのだ。①~③でその話をしてしまうと、こんがらがることが目に見えていたので、①「十四世紀の後半」、②「それがしひとりにきわまりました」、③「文禄年間の MSS. 中から」と整理してきたのだ。

 そして今回は一番解らないところ④「元来それがしは、よせふと申して」をやろうと思う。

 普通ヨセフと言えば、まずはヤコブの息子かマリアの夫である。

上人「御主御受難の砌は、エルサレムにいられたか。」
「さまよえる猶太人」「如何にも、眼のあたりに御受難の御有様を拝しました。元来それがしは、よせふと申して、えるされむに住む靴匠でござったが、当日は御主がぴらと殿の裁判を受けられるとすぐに、一家のものどもを戸口へ呼び集めて、勿体なくも、御主の御悩みを、笑い興じながら、見物したものでござる。」

(芥川龍之介『さまよえる猶太人』)

 キリストの母マリアの夫ヨセフは大工とされる。形式上は養父となる。つまり健三から見ると島田のようなものだ。この「さまよえる猶太人」は大工ではなく靴屋なのでキリストの母マリアの夫ヨセフではなさそうだ。無論ヤコブの子でもなかろう。何しろ時代が違う。

 アリマタヤ出身のヨセフという人がキリストの遺体をポンティウス・ピーラートゥスから引き取り埋葬したとされている。「さまよえる猶太人」は「えるされむに住む靴匠」なのでアリマタヤ出身のヨセフとも違う。

 ただこれだけでもなんともややこし名前が選ばれたということが解るだろう。しかしこの名は芥川龍之介がむりやりねじ込んだものではなく、もともと「さまよえる猶太人」の伝説によれば、「さまよえる猶太人」はカルタフィルスという名だったが洗礼を受けて「ヨセフ」になったとされている。

 しかしまた伝説は「さまよえる猶太人」に「ヨセフ」というややこしい名前を与えてしまったのだろうと芥川は正面を切って問わない。おそらく芥川が書きたかったのはそこではない。

 が、もし読者がそれに多少の困難を感ずるとすれば、ペックがその著「ヒストリイ・オブ・スタンフォオド」の中で書いている「さまよえる猶太人」の服装を、大体ここに紹介するのも、読者の想像を助ける上において、あるいは幾分の効果があるかも知れない。ペックはこう云っている。「彼の上衣は紫である。そうして腰まで、ボタンがかかっている。ズボンも同じ色で、やはり見た所古くはないらしい。靴下はまっ白であるが、リンネルか、毛織りか、見当がつかなかった。それから髯も髪も、両方とも白い。手には白い杖を持っていた。」――これは、前に書いた肺病やみのサムエル・ウォリスが、親しく目撃した所を、ペックが記録して置いたのである。だから、フランシス・ザヴィエルが遇った時も、彼は恐らくこれに類した服装をしていたのに違いない。

(芥川龍之介『さまよえる猶太人』)

 ここだろう。世界中を永遠にさまよい続ける元靴屋の靴を敢て書かない。靴下まで書いておいて、「それから髯も髪も」と上に持っていく。靴屋の靴を書かない。靴下まで書いているところが味噌だ。

 こういうところはやはり「自分で何か書いている人」には「ああ、そうか」と思えても、そうでない人にはピンと来ないかもしれない。描写であり一マスに一文字しか書けない仕組みの中で、言葉は上から下へ向かい、着地無しに跳ね上がる。「靴」が省略されていて「裸足」とも書かれていない。

 つまり「元来それがしは、よせふと申して、えるされむに住む靴匠でござった」はすべてほぼ伝記そのままだとして、白い靴下から「それから髯も髪も」と転じることが「知的なひねり」なのではなかろうか。

 第一に、記録はその船が「土産の果物くさぐさを積」んでいた事を語っている。だから季節は恐らく秋であろう。これは、後段に、無花果云々の記事が見えるのに徴しても、明である。それから乗合はほかにはなかったらしい。時刻は、丁度昼であった。――筆者は本文へはいる前に、これだけの事を書いている。従ってもし読者が当時の状景を彷彿しようと思うなら、記録に残っている、これだけの箇条から、魚の鱗のように眩ゆく日の光を照り返している海面と、船に積んだ無花果や柘榴の実と、そうしてその中に坐りながら、熱心に話し合っている三人の紅毛人とを、読者自身の想像に描いて見るよりほかはない。何故と云えば、それらを活々と描写する事は、単なる一学究たる自分にとって、到底不可能な事だからである

(芥川龍之介『さまよえる猶太人』)

 昨日、③「文禄年間の MSS. 中から」を整理したので、この「単なる一学究たる自分」というキャラクター設定と「描写」に関する説明の関係がなんとなく理解できると思う。

 かなり威圧的な衒学性で脅かしながら「僕は小説家ではないので描写は苦手です」と賺している。(芥川って学究者だっけ?)そして種本が「靴」に言及しないことに気が付かない。そこを見落とすなんてと思うのは小説の読者で、学者先生というものは総じて案外レトリック感覚に弱い。つまり「自分」だけでなく「ペック」もそこを見落としているのだ。

 それは①「十四世紀の後半」と書いてしまった学者さんの凡ミスでもある。「さまよえる猶太人」の靴は「読者自身の想像に描いて見るよりほかはない」ものであり、「さまよえる猶太人」第三の謎なのだ。

 

 つまりJewジューのShoesシューが解らない。

 これが『さまよえる猶太人』という小説である。


[余談]

 実際時代時代で靴というのは変わってきたので、現代の「さまよえる猶太人」はナイキのスニーカーなんかを履いているかもしれない。まさか木靴ではなかろう。


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