見出し画像

三島由紀夫は「感覚」が嫌い

読者が今よりばかだったんでしょうかね

三島 神さま問題になるけど、横光さんなんかが神さまに思われていた時代というのは読者が今よりばかだったんでしょうかね。

(「私の文学鑑定」『決定版三島由紀夫全集 第三十九巻』新潮社 2004年)

 ここは別にふざけているわけでもなく、(笑)もなく、ストレートに疑問が投げかけられている。

 三島由紀夫は川端康成に師事した割には「新感覚派」なり、「感覚」に厳しい。確かに横光利一にはオーソリティ―らしさというものがなく、「神さま」はどうかと私も思う。しかし「ばかだったんでしょうかね」はいささかお口が悪い。


うどんの如く


大岡 度胸がないから、比喩でも割合に近いものを持って來てます。あなたのは、凄いものを持って来て、並列して特別なものを出そうとしておられますね。
三島 ところが、それはあまり自慢にならない。室生犀星でも、彼女はうどんの如くゲラゲラ笑った、なんて書いている。(笑)
大岡 そんなんじゃないんだよ。それは昔新感覚派がやったことで、そうじゃなく、抽象的なものを持って来てあなたはやっておられますね。
三島 ぼくは感覚から入りたくないんです。読者の頭のレクリエーションをやるつもりで、比喩を使う。 

(「人生問答」『決定版三島由紀夫全集 第三十九巻』新潮社2004年)

 実際にここで新感覚派を批判しているのは大岡昇平ではあるが、三島由紀夫も即「感覚」による比喩というものを否定している。

※ちなみに川端康成の『雪国』の冒頭。「夜の底」などは、芥川の『羅生門』『素戔嗚尊』、織田作の『アド・バルーン』『青春の逆襲』『郷愁』『世相』『土曜夫人』『秋深き』、有島武郎『親子』、泉鏡花『貝の穴に河童の居る事』『魔法罎』、横光利一『悲しみの代価』『旅愁』『夜の靴――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)』など多くの作品で使われる割にすり切れた表現だ。


いちばん嫌いなのは感覚の世界です


三島 印象派はパリでも見たけど、ちっとも感動しなかった。加藤周一君とも話したのですが、ロマンチックまでは絵と文学が相渉っていたけれども、印象派になってからは、絵は截然と文学からわかれたでしょう。だから文学者としての立場で見たら、印象派に感心するわけはないんですよ。
中村(光夫) ほんとにそうだ。それは或る人も言っていたけど、印象派以後から絵というものが女子供のものになった。
三島 それはおもしろい。
中村 やはり感覚の世界だからね。
三島 僕がいちばん嫌いなのは感覚の世界です。なにもフランスへ行ってそんなものを見たくない。

(「廃墟の誘惑」『決定版三島由紀夫全集 第三十九巻』新潮社2004年)

 もはや言葉を足す必要もないくらいきっぱりと「感覚」を否定している。しかし何故今更私がこんなことを書いているのか解る人は少ないと思う。しかし解る人には解るはずだ。なぜなら解らない人には解らないからだ。言葉なんて所詮はそんなものだ。





[余談] 三島由紀夫の恋愛?

久米 人間の方が面白いんだね。恋愛はしてるかね。聞きたいんだ、どういう恋愛をしているか。
三島 ぼくの恋愛は珍妙奇天烈で速記なんかにとれませんな。お筆先には出ますけどね。

(「人生問答」『決定版三島由紀夫全集 第三十九巻』新潮社2004年)

 この鼎談は昭和二十六年一月掲載のもの。『仮面の告白』が昭和二十四年七月の書き下ろしなので、堂本正樹によればこのころすでに三島はゲイバーに通っていた。

少なくとも今、男色と呼ばれているものは、男が女を見るように、肉感的に相手を見るのであって、それ以外の要素は何も何も要らないわけだ。

男色の世界の人は、自分が社会に於いて現実性を持っていないということを苦しんでいるんです。

(「人生問答」『決定版三島由紀夫全集 第三十九巻』新潮社2004年)

田村(明子) 最後に一つ、三島さんに恋人は?
(平岡倭文重・しづえ) それがあるらしいんですの。(三島さん、黙して語らず。微笑。遠くに郊外電車の音……)

(「息子の文才を押した両親の理解と愛情」『決定版三島由紀夫全集 第三十九巻』新潮社2004年)

 この「息子の文才を押した両親の理解と愛情」が昭和二十七年十二月掲載。この時点で三島には女性経験はなかった筈。「がはは」ではなく微笑ははにかんだか。恋人は男性であろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?